第3143話 2023/10/26

唐で囲碁を打った「日本国王子」

 「洛中洛外日記」前話で、中華書局本『旧唐書』貞元二十一年(805)条に見える、「日本国王ならびに妻蕃に還る」という記事が中華書局本の誤読、句読点のミス(文章の区切り方の誤り)であり、正しくは「方(まさ)に釋(ゆる)すの日、本国王(吐蕃国王)ならびに妻(め)とり蕃(吐蕃)に還る。」とする、古田先生の読解を紹介しました。

 この〝日本国王夫妻〟に見える記事の他にも、『旧唐書』には不思議な記事があります。「洛中洛外日記」でも紹介しましたが(注①)、九世紀に日本国王子が唐で囲碁を打ったという次の記事です。

 「日本国の王子が来朝し、方物を貢じた。王子は碁を善くする。帝(宣帝)は棋待詔(囲碁をもって仕える官職)の顧師言(囲碁の名手)に命じて王子と対局させた。」『旧唐書』宣帝本紀・大中二年(848) ※意訳。

 唐の大中二年(848)は平安時代ですが、そのときに天皇家の皇子が唐に渡ったという記録が日本側にはありません。そこで、九州王朝の末裔の「皇子」が唐に渡り、『旧唐書』に記録されたのではないかとも考えました。しかし、九州王朝が滅んで約百五十年後に「日本国王子」を名乗って唐に行ったとしても、本物の日本国王子かどうか唐側が気づかないはずもなく、それは成立困難な思いつきでした。

 この日本国王子は「方物を貢じ」とあることから、日本国からの公式な使節として認識されています。その上、宣帝が囲碁の名人(顧師言)との対局を命じたとありますから、こうした出来事があったことを疑えません。この囲碁の対局については『杜陽雑編』(九世紀末成立)にも次の逸話があります(注②)。

 「皇帝の命で対局する顧師言はプレッシャーがかかる中、三十数手目に鎮神頭という妙手を打ち、勝ちました。日本国王子は唐の役人に顧師言は唐で何番目に強いのかとたずねると、三番目とのこと。実際は一番だったのですが、これを聞いた日本国王子は小国の一番は大国の三番に勝てないのかと嘆きました。」『杜陽雑編』巻下 ※要約。

 日本列島に囲碁が伝来したのはいつ頃かはわかりませんが、『隋書』俀国伝には「棊博を好む」との記事が見えますから(注③)、その頃には九州王朝(倭国)では囲碁が盛んだったと思われます。『旧唐書』の「日本国王子」記事も多元史観で検証したいのですが、史料(エビデンス)が限定されており、学問的仮説として提起できる段階には至っていません。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」1174話(2016/04/24)〝日本国王子の囲碁対局〟
②『杜陽雑編』巻下に次の記事が見える。
「大中中、日本國王子來朝、獻寶器音樂、上設百戲珍饌以禮焉。王子善圍棋、上勅顧師言待詔為對手。王子出楸玉局、冷暖玉棋子、云本國之東三萬里有集真島、島上有凝霞臺、臺上有手談池、池中產玉棋子、不由制度、自然黑白分焉。冬溫夏冷、故謂之冷暖玉。又產如楸玉、狀類楸木、琢之為棋局、光潔可鑒。及師言與之敵手、至三十三下、勝負未決。師言懼辱君命、而汗手凝思、方敢落指、則謂之鎮神頭、乃是解兩征勢也。王子瞪目縮臂、已伏不勝、迴語鴻臚曰「待詔第幾手耶?」鴻臚詭對曰「第三手也。」師言實第一國手矣。王子曰「願見第一。」曰「王子勝第三、方得見第二 勝第二、方得見第一。今欲躁見第一、其可得乎」王子掩局而吁曰「小國之一不如大國之三、信矣」今好事者尚有《顧師言三十三鎮神頭圖》。」(「維基文庫」による)
古賀達也「洛中洛外日記」1175話(2016/04/29)〝日本国王子の囲碁対局の勝敗〟で紹介した。
③『隋書』俀国伝に次の記事が見える。
「毎至正月一日、必射戲飮酒。其餘節畧與華同。好棊博握槊檽浦之戲。」

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