「 古事記 」一覧

第676話 2014/03/11

『古事記』道果本の「天沼矛」

 『古事記』真福寺本を、開かれていたページだけでしたが、名古屋市博物館と九州国立博物館で実見することができましたが、もう一つ見たい写本があります。天理図書館にある『古事記』道果本です。天理図書館の岸本眞実さんの解説によれば、道果本とは次のような古写本です。

 「平安時代初期まで遡れるほど、『日本書紀』には多くの古写本が残るが、『古事記』は1371・2年に写された「真福寺本」(国宝)を最古とする。この「道果本」は1381年、真言僧とみられる道果の書写。「日本紀の家」といわれた京都の神官・吉田家に伝来した。伝えるところは、わずか巻上の前半のみだが、「真福寺本」に次ぐ貴重な古写本である。その伝存の意味は大きい。」(『陽気』2007年6月号)

 道果本の最初の22頁ほどをインターネットで閲覧できましたので、現在の関心事である「治」と「沼」を探してみました。問題となっている「天沼矛」の部分もありましたので確認したところ、真福寺本では「天治弟」となっている字体が、道果本では通説通りの「天沼矛」となっていました。「沼」の字の右側には「ヌ」とルビがふってありました。字形は「刀」の部分が「ソ」に近く、真福寺本の「詔」の字のつくりと同じ字形です。なお、道果本の「詔」は「刀」の部分が「ア」のような字形で、「沼」の字の「ソ」とは異なってることが注目されました。これらの点は、道果本全体の調査と実見したうえで、更に確認したいと思います。
 真福寺本と道果本の成立年差は9年ほどですから、ほぼ同時期の写本といえます。通常の史料批判の基準で考えれば、原本成立時代に書写時代が近いという理由でより古い写本が重視されるのですが、今回の場合は書写時期が近く、その内容で優劣を判断せざるを得ません。どちらが『古事記』原本に近いのかは、今のところわたしには判断できませんが、道果本の全体像と史料性格の把握と、「治」と「沼」、「弟」と「矛」の全字調査をしたいと思っています。何よりも天理図書館にあるという道果本を実見したいと願っています。
 インターネットに掲載されている道果本を見たところ、真福寺本には見られない朱墨の句読点やフリガナ、そして書写者の「説明書き」が書き加えられています。『古事記』成立の712年から約670〜680年の長い時間を隔てて成立した写本ですから、おそらく真福寺本も道果本も数次の再写を経た姿と思われます。両古写本の比較や書誌学的研究論文は少なからず出されているようですで、機会があれば先行説の勉強もしたいと思います。


第670話 2014/03/02

九州国立博物館「国宝大神社展」を見学

 昨日は久しぶりに太宰府天満宮を参詣したあと、同宝物館と九州国立博物館を見学しました。九州国立博物館は初めての訪問で、古田先生や合田洋一さん(古田史学の会・全国世話人)をはじめ「古田史学の会・四国」の方々とお会いすることができました。
 九州国立博物館で開催されている「国宝大神社展」を見学したのですが、よくもまあこれだけ「国宝」「重文」を集められたなあ、というような素晴らしい展示内容でした。たとえば「隅田八幡人物画像鏡」や「海の正倉院」と呼ばれている「沖の島」の豪華出土品の数々、宮地嶽古墳出土の金銅製品(馬具・他)など いずれも絶品です。文献史料関係では、先月、名古屋市博物館で見た『古事記』真福寺本を筆頭に、『延喜式神名帳』『周防国正税帳』『八幡宇佐宮御託宣集』 『大善寺玉垂宮絵巻』など超有名な史料を実見できました。
 中でも、わたしが最も時間をかけて観察したのが、『古事記』真福寺本でした。名古屋市博物館での展示のときとは別のページが開かれていましたので、現在の関心事である「治」と「沼」、そしてつくりが「台」と「召」の字がないか、大勢の見物客にもみくちゃにされながらも、ガラス越しに何度も観察しました。 その結果、「建沼河命」の記事を見つけ、その「沼」の字体を観察しました。この部分は既に古谷弘美さん(古田史学の会・全国世話人)の研究でも調査されて いた部分で、結果は古谷さんの指摘通り「沼」ではなく、「治」でした。すなわち「建治河命」と真福寺本には記されていました。念のため合田さんにも見てい ただいたところ、やはり「治」でした。
 こうした真福寺本の史料状況は、恐らく真福寺本書写者が依拠した元本の字体に影響された結果ではないかと推測していますが、他の字体の研究も含めて検討が必要です。まずは、古谷さんの論文をなんとかして発表できるようにしたいと知恵を絞っているところです(真福寺本写真版の掲載料が高額のため、写真を多数用いた古谷論文を発表できずにいます)。


第657話 2014/02/08

『古事記』真福寺本を見る

 先日、名古屋市立博物館で開催中の「文字のチカラ 古代東海の文字世界」を見てきました。金石文や木簡など古代の文字史料が多数展示されており、 大変良い展示会だと思いました。中でも、名古屋市の大須観音(真福寺)所蔵の『古事記』真福寺本(国宝)が展示されており、わたしの一番の目的はそれを実見することでした。もちろんガラス越しの拝観なのですが、上巻・中巻・下巻それぞれが開かれており、それらのページだけですが、小一時間ほどしっかりと見てきました。
 わたしが『古事記』真福寺本を見たかった理由の一つに、その字体と書き癖を確認したかったことがありました。「洛中洛外日記」304話や628話で紹介 してきたのですが、『古事記』上巻の「国生み神話」に見える「天沼矛」(あまのぬぼこ)が、真福寺本では「天沼弟」(あまのぬおと)であると古田先生が指摘され、「ぬ」は銅鐸のことで、「ぬおと」とは銅鐸の音のこととする新説を発表されました。
 従来の書誌学研究では真福寺本は誤字が多いとされ、「天沼弟」は誤りで、他の写本などに基づき、「天沼矛」と校訂されてきました。ところが、古谷弘美さん(「古田史学の会」全国世話人・枚方市)の調査によれば、真福寺本は「天治弟」(あまのちおと)であるとされました。
 こうした一連の研究がありましたので、わたしも真福寺本を実見し、その筆跡・字体を確認したいと願っていました。インターネットの「近代デジタルライブ ラリー」でも真福寺本の画像を見ることはできるのですが、やはり実物を直接見る機会を待っていました。そして、今回はじめて実物を見ることができたので す。
 展示された上巻の開かれていたページはスサノオの項でしたが、そこに「治」の字があり確認したところ、つくりは「台」で間違いなく、インターネットや影印本による「天治弟」の「治」と同字体でした。中巻の開かれたページには「詔」の字があり、「召」の部分の上部は「刀」ではなく、「ソ」に近い字体でした (「ソ」は「刀」の略字・異体字のようです)。すなわち、真福寺本では、つくりの「台」と「召」は書き分けられており、「沼」と「治」も書き分けられているようです。
 結論として、実見できた部分は古谷さんによる全字調査結果と同じでした。従って、問題となっている「天沼矛」とされている真福寺本の字体は、影印本やインターネットの画像から見ても、「天治弟」と見て問題ないようです。
 今後の研究課題としては、「天治弟」が『古事記』の原型とした場合は、その「あまのちおと」が何を意味するのかが問題となります。あるいは、通説通り「天沼矛」と理解し、真福寺本の誤写・誤伝とするのか、あるいは全く別の理解が可能なのかの検討が必要と思われます。いずれにしても『古事記』の当該記事 の文脈上でも無理のないものでなければなりません。引き続き様々な仮説の提起と検討が必要です。それが学問研究の醍醐味であり、学問的態度といえます。


第420話 2012/06/02

「はるくさ」木簡の考察

 難波宮編年の勉強を続けていて気がついたことがあります。それは難波宮南西地点から出土した「はるくさ」木簡に関することです。第352話「和歌木簡と九州年号」でもふれましたが、万葉仮名で「はるくさのはじめのとし」と読める歌の一部と思われる文字が記された木簡が、前期難波宮整地層(谷を埋め立てた層)から出土し、注目されました。
 わたしは、この「はじめのとし」という表記に興味をいだき、これは年号の「元年」のことではないかと考え、この時期の九州年号として、「常色元年」 (647)の可能性が高いと判断しました(「としのはじめ」であれば新年正月のことですが)。もちろん「白雉元年」(652)の可能性もありますが、『日 本書紀』によれば652年に完成したとされる前期難波宮の整地層からの出土ですから、やはり「常色元年」だと思います。
 このわたしの理解が正しければ、この木簡の歌は、春草のように勢いよく成長している九州王朝の改元を言祝(ことほ)いだ歌の一部ということになります。 そうすると、この歌は九州王朝の強い影響下で詠まれたものであり、その木簡が出土した前期難波宮を九州王朝の宮殿(副都)とするわたしの説に整合します。 ちなみに、この常色年間は九州王朝が全国に評制を施行した時期に当たり、「はるくさの」という枕詞がぴったりの時代です。
 さらに言えば、7世紀中後半での九州年号の改元は、「常色元年」「白雉元年」を過ぎると、「白鳳元年」(661)、「朱雀元年」(684)、「朱鳥元 年」(686)、「大化元年」(695)であり、これらの年が「はじめのとし」の候補となるのですが、661年は斉明天皇の時代です(近江京造営時期)。 684年と686年では天武天皇の晩年であり、その数年後に宮殿が完成したとすれば、それは藤原宮造営時期と同年代になります。しかし、出土土器の編年は、前期難波宮整地層と藤原宮整地層とでは明確に異なります。
 したがって、「はるくさ」木簡の「はじめのとし」を九州年号の「元年」のことと理解すると、前期難波宮整地層の年代は7世紀中頃にならざるを得ないと言 う論理性を有していることに気づいたのです。この論理性の帰結と、現在の考古学編年が一致して前期難波宮の造営を7世紀中頃としていることは重要なことだと思います。もちろん、「はじめのとし」を「元年」ではなく、もっと合理的でふさわしい別の意味があれば、わたしのこの説は撤回します。今のところ「元年」と理解するのが最も妥当と思っていますが、いかがでしょうか。


第404話 2012/04/11

『古事記』千三百年の孤独(5)

大和朝廷にとって『古事記』編纂の最大の目的は先住した九州王朝をなかったこ とにして、神代の時代から天皇家が日本列島の中心権力者であったとすることです。しかし、『古事記』編纂時の712年といえば九州王朝に替わって最高権力 者となってから、まだ十数年しかたっていません。ですから、列島内の多くの人々には大和朝廷が新参の権力者であることは自明のことだったのです。そのた め、自らの権力基盤を安定化するための「大義名分」(アリバイ)作りが史書編纂という形で進められました。『古事記』にはその痕跡が残されています。
『古事記』には推古天皇まで記されていますが、各天皇の事績・伝承記事があるのは顕宗天皇までで、その後は推古まで系譜や姻戚記録等だけとなります(こ れにも理由があるのですが、今回はふれません)。ところが、例外のように継体記の末尾にちょっとだけ伝承記事が掲載されているのです。いわゆる「磐井の 乱」の記事です。
「この御代に、竺紫君石井、天皇の命に従わずして、多く礼無かりき。故、物部荒甲の大連、大伴の金村の連二人を遣わして、石井を殺したまひき。」
この短い記事を挿入しているのですが、この「例外」のような短文記事挿入こそ、『古事記』編纂の眼目の一つなのです。すなわち、九州王朝の王であった石 井(日本書紀では磐井)より近畿の継体天皇が格上であり、この「磐井の乱」鎮圧の結果、名実ともに九州は大和朝廷の支配下にはいったという、「大義名分」 (アリバイ)作りの文章だったのです。
これが、継体記に例外とも言える「伝承記事」を挿入した動機で、『古事記』編纂者の苦辛の跡なのです。しかし、その苦辛は報われませんでした。
「天皇の命に従わずして、多く礼無かりき」程度の理由や記事では、九州王朝の王・石井を殺して倭国のトップになったのは「歴史事実」だと、列島内の人々 に信じさせることはできないと継体の子孫たち、8世紀初頭の大和朝廷には見えたのです。その結果、『古事記』は「ボツ」にされ、「継体の乱」を事細かに記 した『日本書紀』が正史として新たに編纂されたのです。
このように、『古事記』には隠された編纂意図があちこちに残されてるのですが、それらを説明するには「洛中洛外日記」では荷が重すぎます。また別の機会に紹介したいと思います。


398話 2012/03/31

本居宣長記念館・鈴屋を訪問

先週の土曜日、妻と松阪市までドライブしました。妻には松阪牛を食べにいこうと誘い、実は以前から行きたかった本居宣長記念館を訪問し、宣長の書斎「鈴屋」(すずのや)を見てきました。
古田先生がフィロロギーを学ばれた東北大学の村岡典嗣先生は本居宣長研究でも著名です。わたしも古田先生から村岡典嗣先生のことをいろいろとうかがう機会がありましたので、村岡先生が研究された本居宣長にも興味を持っていました。そうしたことから、松阪市の本居宣長の旧宅鈴屋を訪れたいと思っていたので す。
本居宣長の旧宅は当初あった魚町から松阪城跡に移築されており、記念館に隣接しています。わたしは旧宅全体が鈴屋(すずのや)と呼ばれているものと思っていたのですが、案内していただいた城山さんの説明では二階の書斎部分が鈴屋とよばれているとのこと。その書斎の中には入れないのですが、窓が開けられていたため、外から内部を見ることができました。
旧宅の土蔵には宣長の書籍や手紙などが大量に保存されていたとのことで、現在も版木が保存されているそうです。城山さんからは本居宣長のことや松阪城を 築城した蒲生氏郷のことなど多くのことを教えていただきました。記念館に展示されていた宣長の著作や手紙を拝見して、宣長の業績の一端に触れることがで き、感銘を受けました。
地元の松阪には宣長の偉業を知らない人が多いと嘆かれていた城山さんに、また訪問することをお約束し、松阪を後にしました。帰りに、樹敬寺にある宣長一族のお墓に参りました。もちろん、松阪牛もしっかりと食べてきました。


第397話 2012/03/30

『古事記』千三百年の孤独(4)

『古事記』が大和朝廷にとって不都合だったのは、序文の「壬申の乱」の記述だけではありませんでした。八世紀初頭の大和朝廷にとって、自らの権力の正統性を確立する上で、避けて通れない問題がありました。それは、継体天皇の皇位継承の正統性についてでした。
このことは古田先生が度々指摘されてきたところですが、「日本書紀」では継体の前の武烈天皇の悪口や非道ぶりをこれでもかこれでもかと書き連ねられてい ます。だから有徳な継体が武烈なきあと皇位についたと主張しているのですが、これほど武烈の悪口を言わなければならないのは、逆にそれだけ継体が皇位継承 (略奪)の正統性に欠ける悪逆な人物だった証拠なのです。
ところが、そうであるにもかかわらず、「古事記」では継体の皇位継承の正統性が強調されておらず、継体の子孫である八世紀初頭の天皇家の人々にとって、 「古事記」は不十分極まりない「欠陥史書」だったのです。すなわち、継体が行った皇位略奪の後ろめたさと武烈に対する「悪口」不足こそ、「古事記」が正史 とされず、新たに武烈の悪口を書き連ねた「日本書紀」を編纂せざるを得なかった理由の一つなのです。(つづく)


第395話 2012/03/10

『古事記』千三百年の孤独(3)

『日本書紀』と『古事記』の差異の中でも特筆されることがいくつかありますが、その第一は「壬申の乱」の取り扱いです。
『日本書紀』の第二八巻すべてが「壬申の乱」の記述に当てられていることは著名です。他方、『古事記』は推古天皇までで終わっており(説話が記されてい るのは継体天皇まで)、「天武記」はありません。しかし、『古事記』序文の15%近くを「壬申の乱」の記述が占め、共に「壬申の乱」をいかに重視していた かが読みとれます。ところが、両書の「壬申の乱」の内容(大義名分)が異なるのです。
拙稿「『古事記』序文の壬申大乱」(『古 代に真実を求めて』第九集所収。明石書店、2006)で詳論しましたが、簡単にいうと『日本書紀』では、吉野に入った天武を大友皇子側が攻めたので、天武 はやむなく東国へ脱出挙兵し大友皇子を殺し、皇位についたとされています。すなわち、天武は仕方なく戦い、皇位についたとされているのです。ところが『古 事記』序文では、皇位につくことを目的にして吉野に入り、その後挙兵したとされているのです。
どちらが真実に近いでしょうか。当然、『古事記』序文の方です。最初から皇位纂奪を目指すという「非道」な『古事記』序文の方が「正直」と思われるから です。だからこそ『古事記』は正史とされず、しかたなく防衛のため戦ったとする『日本書紀』が採用されたのです。天武の子孫である『日本書紀』成立時の天 皇たちにとって、自らの皇位継承の正当性と大義名分のために『古事記』を「隠蔽」し、『日本書紀』を国内に後世に流布したのです。
それでは序文のみを削除して『古事記』を正史とする手段もあったかもしれませんが、実際は「隠蔽」されていることから、当時の天皇家にとって不都合だっ たのは、序文の「壬申の乱」の記述だけではなかったことがわかります。それ以外の不都合な記述とは何だったのでしょうか。これも『古事記』と『日本書紀』 を比較することにより判明します。(つづく)


第394話 2012/03/08

『古事記』千三百年の孤独(2)

『古事記』の史料性格を考える際、その大前提ともいうべきテーマがあります。それは皆さんもご存じの通り、『古事記』は 大和朝廷の正史として採用されることなく「隠蔽」され、『日本書紀』が正史として後世に伝えられたという歴史的事実です。この事実は次のことを指し示しま す。すなわち、『古事記』は編纂当時の大和朝廷の天皇にとって、不都合かつ不必要な史書であり、『日本書紀』は逆に都合がよく、必要であったということで す。
もし『古事記』が不都合でなければ、『日本書紀』とともに併用して普及あるいは後世に公的に伝えられたはずですが、実際は中世に真福寺から「発見」され るまで、書名こそ伝わっていたものの存在が不明な史書だったのです。ですから、『古事記』が大和朝廷にとって不都合で後世に伝えたくなかった史書であるこ とは明らかです。
それでは『古事記』の何が不都合だったのでしょうか。そのことを調べる方法が残されています。それは正史『日本書紀』と比較することによって、判明する はずです。『日本書紀』は天皇家にとって都合が良かったから正史として採用されたのですから、両書を引き算すればよいのです。『日本書紀』マイナス『古事 記』イコール「都合の良い部分(日本書紀の中の)」と「都合の悪い部分(古事記の中の)」と見なす。この方法です。これは古田先生が『盗まれた神話』で提 起された学問の方法で、わたしたち古田学派にとってお馴染みの方法です。(つづく)


第393話 2012/03/07

『古事記』千三百年の孤独(1)

今年は『古事記』編纂1300年に当たることから、様々な『古事記』関連書籍が出版されています。書店でそれらをパラパラパラと立ち読みしているのですが、いずれも期待はずれで、購入する気になれません。皆さんはいかがでしょうか。
わたしの見るところ、古田先生以外の学者や作家のほとんどは『古事記』を正しく理解していないようです。その意味では1300年たっても理解者が極めて 少ないこの状況は、「『古事記』千三百年の孤独」と表現できそうです。もちろんこれは、わたしが好きな南米チリのノーベル賞作家ガルシア・マルケスの名著 『百年の孤独』の模倣です。
『古事記』編纂1300年という良い機会ですので、九州王朝説・多元史観から見た『古事記』の史料性格について考えてみることにします。
大局的には、大和朝廷による『古事記』編纂の目的として、二つの動機が推定されます。一つは、先住した九州王朝を否定し、大和朝廷こそ神代の時代から日 本列島の代表者であったと主張(偽装)すること。もう一つは、『古事記』編纂時の天皇が大和朝廷の正当な後継者であることを主張(いいわけ)することで す。
こうした視点から分析考察する上で、わたしたちは格好の比較史料『日本書紀』を有しています。というのも、『古事記』と『日本書紀』を比較することによ り、『古事記』の史料性格が鮮明に浮かび上がってくるからです。以下、具体的に述べていきます。(つづく)