文献一覧

第2896話 2022/12/15

『新撰姓氏録』巨勢楲田朝臣の伝承 (2)

 わたしの旧本籍は浮羽郡大字浮羽で、ご先祖のお墓も当地(うきは市御幸通り)にあります。そのうきは市北山には「天(あま)の一朝堀(ひとあさほり)」と呼ばれている大きな堀の跡がありました。「天の一朝堀」は山北の丘陵(大野原)を東西に延びる、深さ20m、幅68m、長さ240mの巨大な堀ですが、「天(尼)の長者」が造ったという以外、その使用目的も築造年代も不明の一大土木工事跡です。昭和57年(1982)、合所ダム工事の排土捨て場となり、現在は跡形もなくなっています。更に「こがんどい(古賀の土居)」と呼ばれる、山北中園から古賀の集落まで南北に延びていた土塁も農地整備で破壊され、これもまた消滅しました。この他、当地には天の長者にまつわる「竈の土居(溝尻)」「尼の捷道(ちかみち)」や一朝堀の排土で作ったとされる「男島」などの地名が存在します。
 拙稿「天の長者伝説と狂心の渠(みぞ)」(注①)で、『日本書紀』斉明紀に見える「狂心(たぶれごころ)の渠(みぞ)」はこの「天の一朝堀」ではないかと論じたことがあります。正木裕(古田史学の会・事務局長)さんは、当地を流れる隈ノ上川を「狂心の渠」とする説を発表されており、この説も有力です(注②)。
 また、うきは市には巨瀬川が筑後川の南側を東西に流れており、筑後川よりも標高が高いうきは市の水田の重要な水源として利用されています。この巨瀬川には「天(尼)の長者」とは別に「カッパ伝説」があります。巨瀬川の水量が減ると巨瀬川の神「九十瀬(こせ)入道」(カッパ)にお願いをして、水量を増やしてもらい、その神の怒りに触れると増水して村民が溺死するという伝説です(注③)。
 うきは市のこうした遺構や伝承が『新撰姓氏録』に記された巨勢楲田朝臣(こせのひたのあそん)の荒人の灌漑記事と関係するのではないかと、わたしは考えています。巨瀬川の名前の由来とされる「高西」地名から(注④)、当地が古代の巨勢氏の支配領域だったと推定でき、灌漑に関する諸伝承も当地に遺っていることなどから、両者が無関係とは思えないのです。『新撰姓氏録』の記事の時代が「皇極」のときとされていることも、斉明紀の「狂心の渠」記事と時代が対応しており、この仮説の傍証とできそうです。更に、うきは市に隣接している大分県日田市の地名も、「楲田(ひた)」という名前と関係しているのではないでしょうか。そして、この伝承が七世紀中頃の倭国(九州王朝)の事績であったことから、『日本書紀』に記されなかったものと思われます。
 まだ、始めたばかりの研究テーマですので、断定は避けますが、興味深いものであり、史料調査を進めます。

(注)
①古賀達也「天の長者伝説と狂心の渠(みぞ)」『多元』39号、2000年。
 同「洛中洛外日記」905話(2015/03/22)〝筑後の「阿麻の長者」伝説〟
 同「天の長者伝説と狂心の渠(みぞ)」『倭国古伝 姫と英雄と神々の古代史』(『古代に真実を求めて』22集)古田史学の会編、2019年、明石書店。
②正木 裕「『書紀』斉明紀の『田身嶺と狂心(たぶれごころ)の渠』」古田史学の会・関西例会、2018年3月。
 古賀達也「洛中洛外日記」1628話(2018/03/17)〝斉明紀「狂心の渠」は隈ノ上川(うきは市)〟
③『浮羽町史 上巻』(昭和63年)によれば「浮羽の平家伝説」として紹介されている。
④『倭名類聚鈔』によれば、生葉郡(うきは市と久留米市田主丸町)の郷は「椿子・小家・大石・山北・姫沼(治)・物部・高西」の七郷であり、この「高西」が「巨勢」のことと思われる。


第2895話 2022/12/14

『新撰姓氏録』巨勢楲田朝臣の伝承 (1)

 近年、研究史料として『新撰姓氏録』を使用することが増えました。おかげで『新撰姓氏録』に多元史観・九州王朝説でなければ、うまく説明できない記事があることに気づきました。その一つ、巨勢楲田朝臣(こせのひたのあそん)の記事について紹介します。同書の「右京皇別 上」に次の記事が見えます。

〝巨勢楲田朝臣
雄柄宿禰四世孫稻茂臣之後也。男荒人。天豊財重日足姫天皇〔諡皇極〕御世。遣佃葛城長田。其地野上。漑水難至。荒人能解機術。始造長楲。川水灌田。天皇大悦。賜楲田臣姓也。日本紀漏。〟『新撰姓氏録』右京皇別上(注①)

 要約すれば次のようです。

(1) 巨勢楲田朝臣の荒人は、雄柄宿禰四世の子孫稻茂臣の子である。
(2) 皇極天皇の時代、荒人は佃葛城長田の灌漑のために長楲を造り、川の水を田に引き、灌漑に成功した。
(3) それを天皇は悦び、楲田臣の姓を賜った。
(4) このことは『日本書紀』には記されていない。

 この記事から、巨勢という地域の有力者(灌漑技術を持つ)が水利が不便な地(佃葛城長田)の灌漑に成功し、当時(七世紀中頃)の天皇から楲田臣という姓を賜ったことがうかがえるのですが、久留米市出身(旧本籍は浮羽郡大字浮羽)のわたしには思い当たることがありました。うきは市に遺る「天(あま)の一朝堀(ひとあさほり)」伝承(注②)と当地を流れる巨瀬(こせ)川です。(つづく)

(注)
①佐伯有清編『新撰姓氏録の研究 本文編』吉川弘文館、1962年。
②古賀達也「天の長者伝説と狂心の渠(みぞ)」『多元』39号、2000年。
 同「洛中洛外日記」905話(2015/03/22)〝筑後の「阿麻の長者」伝説〟
 正木 裕「『書紀』斉明紀の『田身嶺と狂心(たぶれごころ)の渠』」古田史学の会・関西例会、2018年3月。
 古賀達也「洛中洛外日記」1628話(2018/03/17)〝斉明紀「狂心の渠」は隈ノ上川(うきは市)〟
 同「天の長者伝説と狂心の渠(みぞ)」『倭国古伝 姫と英雄と神々の古代史』(『古代に真実を求めて』22集)古田史学の会編、2019年、明石書店。


第2893話 2022/12/12

六十六ヶ国分国と秦河勝

 聖徳太子の命により蜂岡寺(広隆寺)を建立し仏像を祀った秦造河勝が、『隋書』俀国伝に見える秦王国の秦王に相応しいと「洛中洛外日記」で論じてきましたが、その根拠は次のようなことでした。

(1)『日本書紀』の記事の年次(推古十一年、603年)と『隋書』俀国伝の時代が共に七世紀初頭頃であること。
(2) 秦造河勝の姓(かばね)の「造(みやっこ)」が秦氏の長と考えられ、秦王国の王である秦王と同義とできる。『新撰姓氏録』にも秦氏の祖先を「秦王」と称す記事がある。
(3) 多利思北孤と秦王国の秦王、「聖徳太子」と秦造河勝という組み合わせが対応している。
(4) 古田史学・九州王朝説によれば、多利思北孤や利歌彌多弗利の事績が「聖徳太子」伝承として転用されていることが判明している。

 こうした古代文献による論証に加えて、中世の能楽書(注①)に記された聖徳太子と秦河勝の次の記事にも興味深いテーマがあります。

〝上宮太子、天下少し障りありし時、神代・佛在所の吉例に任(せ)て六十六番の物まねを、彼河勝に仰(せ)て、同(じく)六十六番の面を御作にて、則、河勝に與へ給ふ。橘の内裏紫宸殿にて、これを懃ず。天(下)治まり、國静かなり。(中略)上宮太子、守屋〔の〕逆臣を平らげ給(ひ)し時も、かの河勝が神通方便の手を掛りて、守屋は失せぬと、云々。〟『風姿華傳』

 この記事などからは、次の状況が読み取れます。

(a) 多利思北孤が上宮太子の時、天下が少し乱れていた。『隋書』によれば、多利思北孤が天子の時代の俀国は「雖有兵無征戰(兵〈武器〉あれども、征戦なし)」とされており、〝天下少し障りありし時〟が太子の時代とする、この記事は妥当。
(b) その時、三十三ヶ国を六十六ヶ国とすべく、分国を秦河勝に命じた。〝上宮太子、守屋〔の〕逆臣を平らげ給(ひ)し時も、かの河勝が神通方便の手を掛りて、守屋は失せぬと、云々。〟とあることから、「蘇我・物部戦争」において、秦河勝が活躍したことがうかがえる。また、『日本書紀』皇極三年(644年)条によれば、東国の不尽河(富士川)の大生部多(おおふべのおお)を秦造河勝が討っており、秦氏が軍事的氏族であることがわかる。分国実施に於いても秦氏の軍事力が貢献したと思われる。
(c) 分国を多利思北孤が太子の時代(鏡當三年、583年。注②)、あるいは天子即位時(端政元年、589年。注③)とする、正木裕さんやわたしの研究がある(注④)。

 上記の一連の考察(史料根拠に基づく論理展開)の結果、わたしは秦氏(秦王)を九州王朝(倭国)における軍事的実働部隊としての有力氏族と考えたのですが、秦造河勝のように、姓(かばね)に「造(みやっこ)」を持つ氏族は連姓の氏族よりも地位が低いと通説ではされているようです(注⑤)。そうした例の「○○造」があることを否定しませんが、秦氏や秦造河勝についていえば、『日本書紀』の記事や「大宝二年豊後国戸籍」に多数見える「秦部」の存在などからも、有力氏族と考えた方がよいと思います。たとえば平安京の造営も、通説では秦氏の貢献が多大と言われているのですから。(つづく)

(注)
①世阿弥『風姿華傳』、禅竹『明宿集』など。
②『日本略記』(文禄五年、1596年成立)に次の分国記事が見える。
〝夫、日本は昔一島にて有つる。人王十三代の帝成務天皇の御宇に三十箇國にわらせ給ふ也。其後、大唐より賢人来て言様は、此國はわずかに三十三箇國也、是程小國と不知、まことに五十二位に不足、いささか佛法を廣ん哉といふて帰りけり。其後、人王丗四代の御門敏達天皇の御宇に聖徳太子の御異見にて、鏡常三年癸卯六十六箇國に被割けり。郡五百四十四郡也。〟
③『聖徳太子傳記』(文保二年、1318年頃成立)に次の分国記事が見える。冒頭の〝太子十八才御時〟は九州年号の端政元年(589年)にあたる。
〝太子十八才御時
 春正月参内執行國政也、自神代至人王十二代景行天皇ノ御宇國未分、十三代成務天皇ノ御時始分三十三ケ國、太子又奏シテ分六十六ヶ国玉ヘリ、(中略)筑前、筑後、肥前、肥後、豊前、豊後、日向、大隅、薩摩、昔ハ六ケ國今ハ分テ作九ケ國、名西海道也〟
④古賀達也「続・九州を論ず ―国内史料に見える『九州』の分国」『九州王朝の論理 「日出ずる処の天子」の地』明石書店、2000年。
 同「『聖徳太子』による九州の分国」『盗まれた「聖徳太子」伝承』(『古代に真実を求めて』18集)明石書店、2015年。
 正木裕「盗まれた分国と能楽の祖 ―聖徳太子の「六十六ヶ国分国・六十六番のものまね」と多利思北孤―」『盗まれた「聖徳太子」伝承』(『古代に真実を求めて』18集)古田史学の会編、明石書店、2015年。
⑤日野智貴氏のご教示による。web上でも次の解説が見える。
〝古代の姓((かばね)の一つ。その語源は、御奴、御家ッ子など諸説がある。地方的君主の尊称などといわれる。古くは、国造や職業的部民の統率者である伴造がみずから称したものであろう。姓が制度化された5世紀頃以降、造姓をもつ氏族は200ほど知られている。その大部分は天皇や朝廷に属する職業的部民の伴造か、名代、子代の部の伴造で、中央の氏族が多く、連姓の氏族よりもその地位は低かった。天武朝の八色の姓(やくさのかばね)の制定で,造を姓とする氏族のうち有力なものは連以上の姓を賜わった。〟ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「造」の解説。


第2892話 2022/12/11

秦王と秦造

 古田説によれば『隋書』俀国伝に見える「秦王国」を〝文字通り「秦王の国」〟と理解されており、わたしも同意見です。

〝では「秦王国」とは、何だろう。現地名の表音だろうか。否! 文字通り「秦王の国」なのである。「俀王」と同じく「秦王」といっているのだ。〟(注①)

 このように古田先生は述べています。もし現地名の表音表記であれば、「しんおう」あるいはそれに近い音の地名に「秦王」という漢字を採用したことになり、他の表音表記の「邪靡堆(やまたい、やひたい)」「都斯麻(つしま)」「一支(いき)」「竹斯(ちくし)」「阿蘇(あそ)」とは異質です。それでは秦王とは誰のことでしょうか。七世紀初頭頃に秦王と呼ばれた、あるいはそれにふさわしい人物が国内史料中に遺されているでしょうか。この問題について考えてみました。
 「秦王国」という国名表記からうかがえることは、その領域規模は不明ですが、「秦王」という名称を国名に採用することが九州王朝から許されているわけですから、秦王は多利思北孤の〝右腕〟ともいえる氏族のように思われます。そこでわたしが注目したのが秦造河勝で、その姓(カバネ)の「造(みやっこ)」が根拠の一つでした。これはある地域や集団の長を意味する姓と考えられます。たとえば「○○国造」とか「評造」(注②)などのようにです。那須国造碑や「出雲国造神賀詞」(注③)は有名ですし、氏族名の姓としても『新撰姓氏録』に「○○造」が散見され、「秦造」もあります(注④)。この理解が正しければ、秦造河勝とは秦氏の造(長)の河勝とする理解が可能となり、当時の「秦王」にふさわしい人物ではないでしょうか。その痕跡が『新撰姓氏録』の「太秦公宿禰」(左京諸蕃上)に見えます。仁徳天皇が秦氏のことを「秦王」と述べています。

〝(仁徳)天皇詔曰、秦王所獻絲綿絹帛。朕服用柔軟。温暖如肌膚。仍賜姓波多。〟『新撰姓氏録』太秦公宿禰(左京諸蕃上)

 『日本書紀』皇極天皇三年(644年)に見える秦造河勝の記事からも、そのことがうかがわれます。

〝秋七月。東国の不尽河(富士川)のほとりに住む人、大生部多(おおふべのおお)は虫を祀ることを村里の人に勧めて言う。
 「これはの常世の神。この神を祀るものは富と長寿を得る。」
 巫覡(かむなき)たちは、欺いて神語に託宣して言う。
 「常世の神を祀れば、貧しい人は富を得て、老いた人は若返る。」
 それでますます勧めて、民の家の財宝を捨てさせ、酒を陳列して、野菜や六畜を道のほとりに陳列し、呼んで言う。
 「新しい富が入って来た。」
 都の人も鄙の人も、常世の虫を取りて、清座に置き、歌い舞い、幸福を求め珍財を棄捨す。それで得られるものがあるわけもなく、損失がただただ極めて多くなるばかり。それで葛野(かどの)の秦造河勝は民が惑わされているのを憎み、大生部多を打つ。その巫覡たちは恐れ、勧めて祀ることを止めた。(後略)〟『日本書紀』皇極三年条

 葛野(かどの)の秦造河勝が駿河(東国の不尽河)の大生部多なる人物を討ったという記事で、その行動範囲が東国(駿河国)にまで及んでいることから、広範囲に展開する軍事集団の長のように思われます。(つづく)

(注)
①古田武彦『邪馬一国の証明』角川文庫、1980年。後にミネルヴァ書房より復刊。
②『常陸国風土記』多珂郡条に「石城評造部志許」の名が見える。
③『古事記 祝詞』日本思想体系、岩波書店、1958年。
④「秦造 始皇帝五世孫融通王之後也」『新撰姓氏録』左京諸蕃上。


第2888話 2022/12/05

『隋書』俀国伝「秦王国」の位置と意味

 北山背の渡来系氏族とされる秦氏と『隋書』俀国伝に見える秦王国とは関係があるのではないかと考えていますが、最初に秦王国についての古田説について紹介します。俀国伝の行程記事に見える秦王国の位置について古田先生は筑後川流域とされました。それは次のようです。

〝海岸の「竹斯国」に上陸したのち、内陸の「秦王国」へとすすんだ形跡が濃厚である。たとえば、今の筑紫郡から、朝倉郡へのコースが考えられよう。(「都斯麻国→一支国」が八分法では「東南」ながら、大方向(四分法)指示で「東」と書かれているように、この場合も「東」と記せられうる)
 では「秦王国」とは、何だろう。現地名の表音だろうか。否! 文字通り「秦王の国」なのである。「俀王」と同じく「秦王」といっているのだ。いや、この言い方では正確ではない。「俀王」というのは、中国(隋)側の表現であって、俀王自身は、「日出づる処の天子」を称しているのだ。つまり、中国風にみずからを「天子」と称している。その下には、当然、中国風の「――王」がいるのだ。そのような諸侯王の一つ、首都圏「竹斯国」に一番近く、その東隣に存在していたのが、この「秦王の国」ではあるまいか。筑後川流域だ。
 博多湾岸から筑後川流域へ。このコースの行く先はどこだろうか。――阿蘇山だ。〟(注①)

 筑後川流域に「秦王の国」があったとする古田説にわたしは賛成ですが、「筑後川流域」という表現ですと、久留米市や大川市も含まれてしまい、八分法で「東南」とは言いがたくなります。そこで、〝二日市市から朝倉街道を東南に向かう筑後川北岸エリア、それと杷木神籠石付近で筑後川を渡河した先の浮羽郡エリアが秦王国〟と表現した方が良いのではないでしょうか。この点、現在でも「秦(はた)」を名字とする人々が、福岡県うきは市に濃密分布していることが注目されます(注②)。しかしながら、現在の名字「秦さん」の分布をそのまま古代の「秦氏」の分布とすることは適切ではありませんので、この点は留意が必要です(注③)。
 また、「秦王」という名前は『新撰姓氏録』「左京諸蕃上」に見えます。

〝太秦公宿禰
 秦の始皇帝の三世の孫、孝武王より出づる也。(中略)大鷦鷯天皇〈諡仁徳。〉(中略)天皇詔して曰く。秦王が獻ずる所の絲綿絹帛。(後略)〟(注④)

 これは「太秦公宿禰」は秦の始皇帝の子孫とする記事で、「大鷦鷯天皇(仁徳天皇)」の時代(五世紀頃か)には「秦王」と呼ばれていたことが記されています。(つづく)

(注)
①古田武彦『邪馬一国の証明』角川文庫、1980年。後にミネルヴァ書房より復刊。
②「日本姓氏語源辞典」(https://name-power.net/)によれば、「秦」さんの分布は次のようである。
  人口 約29,000人
【都道府県順位】
1 福岡県(約2,900人)
2 大分県(約2,700人)
3 大阪府(約2,400人)
4 東京都(約2,200人)
5 兵庫県(約1,600人)
 【市区町村順位】
1 大分県 大分市 (約1,700人)
2 愛媛県 新居浜市(約600人)
3 島根県 出雲市 (約600人)
4 福岡県 うきは市(約500人)
5 愛媛県 西条市 (約400人)
③日野智貴氏(古田史学の会・会員、たつの市)のご教示による。本姓「秦氏」の分布調査については、別途詳述する機会を得たい。
④佐伯有清編『新撰姓氏録の研究 本文編』吉川弘文館、昭和三七年(1962年)。


第2887話 2022/12/04

よみがえる京都の飛鳥・白鳳寺院2023年 1月21日(土)

京都の秦氏と『隋書』俀国伝の秦王国

 来年1月21日(土)の新春古代史講演会のテーマと演題が次のように決まりました。

〔テーマ〕
□よみがえる京都の飛鳥・白鳳寺院
〔講師・演題〕
□高橋潔氏(京都市埋蔵文化財研究所 資料担当課長)
 京都の飛鳥・白鳳寺院 ―平安京遷都前の北山背―
□古賀達也(古田史学の会・代表)
 「聖徳太子」伝承と古代寺院の謎

 高橋氏の考古学的成果の発表を受けて、わたしからは考古学と文献史学による、京都市(北山背)の古代寺院群と九州王朝(倭国)との関係について論じる予定です。
 同講演に備えて、発掘調査報告書の精査と文献史学による京都(北山背)の研究を進めていますが、わたしが最も注目しているのは、北山背の渡来系氏族とされる秦氏の存在です。七世紀の古代寺院の造営にあたり秦氏が大きな役割をはたしたと通説では説明されているのですが、この秦氏と『隋書』俀国伝に見える秦王国とは関係があるのではないかと考えています。
 この秦氏の「秦」は、「はた」あるいは「はだ」と訓まれていますが、本来は「しん」であり、渡来後のある時期に「はた」「はだ」の訓みが与えられたとする記事が『新撰姓氏録』には見えます。従って、秦(しん)氏と秦(しん)王国は関係があるのではないでしょうか。俀国伝の行程記事に見える秦王国の位置については諸説ありますが、わたしは古田先生が推定された筑後川流域説(注)を支持しています。そして、その地に割拠した渡来系集団としての秦氏は、太宰府条坊都市の造営に貢献したのではないでしょうか。
 その秦氏の一派が倭の五王や多利思北孤の東征に伴って、北山背にも入り、当地の古代寺院群の創建に関わったとする仮説をわたしは検討しています。更には平安京造営にもその秦氏が深く関わったのではないかと考えています。(つづく)

(注)古田武彦『邪馬一国の証明』角川文庫、1980年。後にミネルヴァ書房より復刊。


第2883話 2022/11/27

『先代旧事本紀』研究の予察 (7)

 物部氏系とされる『先代旧事本紀』に物部麁鹿火による磐井討伐譚が見えないことを不思議に思い、研究を続けていますが、次の結論に至りました。『先代旧事本紀』編者は『日本書紀』の記事を知っていたが採用(転載)しなかったわけですから、磐井と争った物部氏(筑紫の勢力)と近畿の物部氏(麁鹿火)とは別系統の物部氏であった。すなわち〝多元的物部氏伝承〟という歴史理解です。
 この筑紫の物部氏と『日本書紀』の「磐井の乱」記事について、いつの講演会かは失念しましたが、古田先生は次のように言っておられました。

〝『日本書紀』編者が「磐井の乱」記事を継体紀に掲載した理由は、王朝交代時の筑紫を支配していた物部氏は「継体天皇の時代に磐井の乱で活躍した継体臣下の物部氏麁鹿火の末裔である」とする歴史造作の為ではなかったか。〟

 この視点は「多元的物部氏伝承」と通じるものです。更に言えば、『日本書紀』編纂当時の九州には物部氏が君臨していたと古田先生は考えておられたと思られます。そうであれば、当時の九州王朝の王族は物部氏であったことになります。今のところ、ここまで断定する勇気はありませんが、九州王朝説にとって未解決の重要なテーマです。古田学派の研究者による研究の進展を期待しています。


第2872話 2022/11/05

『先代旧事本紀』研究の予察 (6)

物部氏系とされる『先代旧事本紀』に物部麁鹿火による磐井討伐譚が見えないことを不思議に思っていたのですが、改めて同書を読んでみると、他にも不思議なことに気づきました。石上神宮の宝剣「七支刀(しちしとう)」(注①)の記事が見えないのです。物部氏の代表的な神宝の一つと思われる七支刀は『日本書紀』神功紀五二年条に記されています。

〝五十二年秋九月丁卯朔丙子、久氐等從千熊長彦詣之、則獻七枝刀一口・七子鏡一面・及種々重寶、仍啓曰「臣國以西有水、源出自谷那鐵山、其邈七日行之不及、當飲是水、便取是山鐵、以永奉聖朝。」乃謂孫枕流王曰「今我所通、海東貴國、是天所啓。是以、垂天恩割海西而賜我、由是、國基永固。汝當善脩和好、聚歛土物、奉貢不絶、雖死何恨。」自是後、毎年相續朝貢焉。〟『日本書紀』神功紀五二年条

百済王から遣わされた久氐等が七枝刀や七子鏡などを献じた記事です。「七枝刀」という特異な形状やその銘文(注②)から、百済王が倭王に贈った石上神宮の七支刀のことと思われます。そうであれば、『先代旧事本紀』「天皇本紀」神功皇后条にも七支刀記事があってもよいと思われるのですが、それらしい記事は見当たりません。他方、「大神」や「(石上)神宮」に奉納された剣・刀が「天孫本紀」に見えます。

○「布都主神魂刀」「布都主剣」〔「天孫本紀」宇摩志麻治命〕
○「(大刀千口)裸伴剣。今蔵在石上神寶。」〔「天孫本紀」十市根命〕

古田説(注③)によれば、石上神宮にある七支刀は、泰和四年(369年)に百済王から九州王朝(倭国)の「倭王旨」(当時、筑後に遷宮していた。注④)へ贈られたもので、その後、大和の石上神宮に移されたようです。その七支刀記事が『先代旧事本紀』に見えない理由として、同書編纂者が石上神宮に七支刀があることを知らなかった、あるいは石上神宮にはまだ七支刀がなかったというケースが考えられます。わたしは後者の可能性が高いと思います。『先代旧事本紀』が物部氏系の古典であることから、前者のケースはありにくいのではないでしょうか。この推定が正しければ、七支刀が筑後(九州王朝)から大和(石上神宮)に遷ったのは『先代旧事本紀』が成立した9世紀頃よりも後のことになりそうです。
しかし、『日本書紀』神功紀には百済から七支刀献上記事があり、『先代旧事本紀』編者は『日本書紀』を読んでいるはずなので、この記事を知っていたが採用(転載)しなかったことにもなります。その理由は、物部麁鹿火の磐井討伐譚が採用されなかったことと関係しているのではないでしょうか。たとえば、『先代旧事本紀』を著した近畿の物部氏と百済伝来の七支刀を護ってきた筑後の物部氏とは別系統の物部氏であった。そして、磐井を伐った物部氏は近畿の物部氏(麁鹿火)とは別の物部氏だったという場合です。すなわち、〝多元的物部氏伝承〟という歴史理解です。(つづく)

(注)
①七支刀は奈良県天理市にある石上神宮の神宝の鉄剣(全長74.8㎝)。金象嵌の銘文を持ち、国宝に指定されている。
②七支刀の銘文は次のように判読されている(諸説あり)。「泰和四年」は東晋の年号で、369年に当たる。
〈表〉泰和四年五月十六日丙午正陽 造百練鋼七支刀 㠯辟百兵 宜供供侯王永年大吉祥
〈裏〉先世以来未有此刀 百濟王世□奇生聖晋 故為倭王旨造 傳示後世
③古田武彦『古代史六〇の証言』(駸々堂、1991年)「証言―55 七支刀をめぐる不思議の年代」。
同「高良山の『古系図』 ―『九州王朝の天子』との関連をめぐって―」『古田史学会報』35号、1999年。
古賀達也「『日本書紀』は時のモノサシ ―古田史学の「紀尺」論―」『多元』170号、2022年。
④古賀達也「九州王朝の筑後遷宮 ―高良玉垂命考―」『新・古代学』第四集、新泉社、1999年。


第2870話 2022/11/03

『先代旧事本紀』研究の予察 (5)

 『先代旧事本紀』に『古事記』『日本書紀』に記された物部麁鹿火による磐井討伐譚が見えず、その名前は「天孫本紀」に「物部麁鹿火連公」とあるのですが、「帝皇本紀」の継体天皇条には〝磐井の乱〟記事も〝磐井〟という人物も登場しません。今回、『先代旧事本紀』の本格的研究を進めるにあたり、同書を精読したところ、巻十「国造本紀」に〝磐井〟が記されていることに気づきました。
 『先代旧事本紀』巻十の「国造本紀」は他に見えない史料であり、偽作説があっても、「国造本紀」は史料価値が高いとされ、古代史論文にもよく引用されています。同巻冒頭の解説文には「總任國造百四十四國」(注①)とありますが、実際に掲載されているのは「大倭國造」(大和国)から「多褹島造」(種子島)までの百三十五国で、九国が漏れているようです。その百三十二番目の「伊吉島造」(壱岐島)に次の記事がありました。

 「磐余玉穂朝(継体)。伐石井從者新羅海邊人。天津水凝 後 上毛布直造。」『標註 先代旧事紀校本』

 継体天皇の時代に、石井に従う新羅の海辺の人を伐った天津水凝の後裔の上毛布直(カミツケヌノアタヒ)を造(みやっこ)とす、という記事ですが、この「石井」は筑紫国造磐井、「上毛布」は近江毛野臣(『日本書紀』継体紀)と考えられます。『古事記』では「竺紫君石井」と表記されていますから、「国造本紀」のこの記事は『古事記』か『古事記』系史料に依ったものと思われます。

 「この御世に、竺紫君石井、天皇の命に從はずして、多く禮無かりき。故、物部荒甲の大連、大伴の金村の連二人を遣はして、石井を殺したまひき。」『古事記』「継体紀」(注②)

 「国造本紀」の「伊吉島造」記事で注目されるのが、そこにも物部麁鹿火の活躍が記されていないことと、石井に従う新羅の海辺の人を伐った「上毛布直」の名前と姓(かばね)が『日本書紀』の「近江毛野臣」とは異なることです。「直」と「臣」とでは地位が違いますし、「上」と「近江」も地理的に異なっています。どちらが本来の伝承かは今のところ判断できませんが、継体紀の〝磐井の乱〟関連記事は近畿天皇家により改竄・脚色されている可能性が高く、まずは史実かどうかを疑ってかかる方が良いように思います(注③)。
 また、「国造本紀」によれば、石井(磐井)の從者新羅海邊の人と戦った上毛布直が伊吉島造になったとありますが、壱岐島は九州王朝の勢力圏であり、その「伊吉島造」が九州王朝(倭国)の王の敵対勢力であったとは考えにくいのではないでしょうか。従って、「国造本紀」の記事もそのまま歴史事実とするのは危ういと思われます。(つづく)

(注)
①飯田季治編『標註 先代旧事紀校本』明文社、昭和22年(1947)の再版本(昭和42年)による。
②倉野憲司校注『古事記』ワイド版岩波文庫、1991年。
③継体紀に見える近江毛野臣の記事と磐井の記事が入れ替えられているとする正木裕氏の一連の論稿がある。
 「磐井の冤罪 Ⅰ」『古田史学会報』106号、2011年。
 「磐井の冤罪 Ⅱ」『古田史学会報』107号、2011年。
 「磐井の冤罪 Ⅲ」『古田史学会報』109号、2012年。
 「磐井の冤罪 Ⅳ」『古田史学会報』110号、2012年。
 「『壹』から始める古田史学・17 「磐井の乱」とは何か(1)」『古田史学会報』151号、2019年。
 「『壹』から始める古田史学・18 「磐井の乱」とは何か(2)」『古田史学会報』152号、2019年。
 「『壹』から始める古田史学・19 「磐井の乱」とは何か(3)」『古田史学会報』153号、2019年。
 「『壹』から始める古田史学・20 磐井の事績」『古田史学会報』154号、2019年。
 「『壹』から始める古田史学・21 磐井没後の九州王朝1」『古田史学会報』155号、2019年。


第2869話 2022/11/02

『先代旧事本紀』研究の予察 (4)

 『先代旧事本紀』は十巻からなり、飯田季治編『標註 先代旧事紀校本』によれば、その内訳は次の通りです。〈〉内は古賀による概略ですが、正確な表現ではないかもしれません。もっと良い表現があれば、ご教示ください。

〔巻一〕
 神代本紀 〈天地開闢と天譲日天狭霧國譲月國狭霧尊〉
 神代系紀 〈神世七代〉
 陰陽本紀 〈伊弉諾・伊弉冉神話〉
〔巻二〕
 神祇本紀 〈素戔烏尊と天照大神神話〉
〔巻三〕
 天神本紀 〈饒速日降臨と随神〉
〔巻四〕
 地神本紀 〈素戔烏尊と天照大神の裔神・出雲神話〉
〔巻五〕
 天孫本紀 〈物部系の系譜〉
〔巻六〕
 皇孫本紀 〈瓊瓊杵尊の降臨と神武東征説話〉
〔巻七〕
 天皇本紀 〈神武天皇~神功皇后〉
〔巻八〕
 神皇本紀 〈応神天皇~武烈天皇〉
〔巻九〕
 帝皇本紀 〈継体天皇~推古天皇〉
〔巻十〕
 国造本紀 〈各国造の出自・由来〉

 わたしが『先代旧事本紀』を初めて読んだとき、大きな疑問に遭遇しました。物部氏系の古典であるのにもかかわらず、『古事記』『日本書紀』に記された物部麁鹿火による磐井討伐譚が見えないのです。物部麁鹿火の名前は「天孫本紀」に「物部麁鹿火連公」として見え、「此の連公は勾金橋宮御宇天皇(安閑)の御代に大連と為りて、神宮に齋き奉ず」とあります。「帝皇本紀」の継体天皇条には「物部*麁鹿火大連」(「*麁」=「森」「品」のように、「鹿」の字が三つ重なった字体)の名前は見えますが、〝磐井の乱〟記事はありませんし、〝磐井〟という人物も登場しません。
 九州王朝説の視点からすれば、九州王朝の王、筑紫君磐井を討ち取った記念すべき業績である〝磐井の乱〟での物部麁鹿火の活躍が、物部氏系古典とされる『先代旧事本紀』に全く見えないことは何とも理解しがたいことです。『先代旧事本紀』編者は『日本書紀』を読んでいたはずです。しかし、『古事記』にも『日本書紀』にも記された〝磐井の乱〟と物部麁鹿火の活躍がカットされていることに、九州王朝と物部氏の関係を探るヒントがありそうです。(つづく)


第2868話 2022/11/01

『先代旧事本紀』研究の予察 (3)

 『先代旧事本紀』の成立は平安時代(9世紀頃)とされています。しかし、序文に聖徳太子や蘇我馬子の選録とあることから、偽作とする見解が江戸時代からありました。飯田季治編『標註 先代旧事紀校本』(注①)の冒頭に付された飯田季治氏による「舊事紀解題」は、この偽作説に対する反論が多くを占めています。その迫力ある筆致の一端を紹介します。

〝試みに思へ。織田豊臣氏の時代より、昭和の今日に及ぶ歴史を編修し、その序に「本書は水戸黄門の撰録せるもの也」と記載し、是れ予が家に蔵する所の珍書也など云ひ誇り、以て世を欺瞞し得べし とする痴漢が奈邊に有らうや……。
 假りにも聖徳太子の著書と思はしめんと計るには、太子が薨去後に於ける事績の如きは、素より悉く之を刪除し、年代に誤差なからしむる位のことは、兒童と雖も辨ふる所の常識である。況んや偽作を敢てする程の人物に於てをやである。卽ち此理を辨へたらんには、「本書の序文は此紀(これ)を編集せし者が、始めよりして記し置けるものには非じ」といふ筋合いを、明らかに悟る事が出來よう。
 然るに貞丈等(注②)は更に此義に思ひ詣らず。その「序文ぐるみ」を以て本書を鑑定し、全篇を悉く偽作也とし、信用すべからざる書也としたのであるから、私は其れを愚論也とし、そして上記の理由に據つて、「本書の序文は後人の加入也」と定むるものである。〟

 わたしはこの飯田季治氏の意見に賛成です。25年ほど前のことですが、和田家文書偽作キャンペーンでの偽作論者の主張が、『先代旧事本紀』偽作説によく似た主張であることを思い出しました。たとえば、明治から昭和にかけての再写文書、書き継ぎ文書である和田家文書に、江戸時代にはない用語、たとえば「○○藩」が使用されているとして、そのことが偽作の根拠だとしていたからです。そこで、「藩」という用語が江戸期の史料にいくらでもあることをわたしは指摘しました(注③)。それに対して、偽作論者からの応答は今日に至るまでありません。こうした経験もあって、わたしは飯田季治氏の激しく反論する論稿を他人事とは思えないのです。(つづく)

(注)
①飯田季治編『標註 先代旧事紀校本』明文社、昭和22年(1947)の再版本(昭和42年)。
②江戸時代の学者、伊勢貞丈・多田義俊のこと。『先代旧事本紀』の序文は最初からあるものとし、同書を「全編盡く後人の偽作なり。信用すべからざる書也。」(伊勢貞丈著『舊事本紀剥僞』)とした。
③古賀達也「知的犯罪の構造 「偽作」論者の手口をめぐって」『新・古代学』2集、新泉社、1996年。


第2867話 2022/10/31

『先代旧事本紀』研究の予察 (2)

 『先代旧事本紀』研究を始めるにあたり、テキストとして飯田季治編『標註 先代旧事紀校本』(注①)を採用することにしました。国史大系本『先代旧事本紀』(注②)もあるのですが、両本を比較したところ、前者の底本の方が優れているように思われたので、採用を決めました。
 『標註 先代旧事紀校本』の底本は『渡會延佳校本の鼇頭舊事紀』で、解題には「本書は從來最も善本として世に流布する所の『渡會延佳校本の鼇頭舊事紀』を底本となし、更に之に標注を增訂し、且つ亦た上記の諸本を始め飯田武郷校本、栗田寛校本等を參照し、全巻を審かに校定せるものである。」とあります。国史大系本の底本は「神宮文庫本」で、『渡會延佳校本の鼇頭舊事紀』などで校合したとあります。ちなみに、飯田季治(いいだ・すえはる)氏は『日本書紀通釈』の著者で藤原宮「大宮土壇」説を唱えた飯田武郷氏(いいだ・たけさと。注③)の七男とのことです。
 『先代旧事本紀』江戸期(1644年)版本を国会図書館デジタルコレクションで閲覧できます。同書版本の雰囲気を知る上では参考になり、おすすめです。(つづく)

(注)
①飯田季治編『標註 先代旧事紀校本』明文社、昭和22年(1947)の再版本(昭和42年)。
②黒板勝美編『国史大系第七 先代旧事本紀』吉川弘文館、1966年。
③古賀達也「洛中洛外日記」545話(2013/03/29)〝藤原宮「長谷田土壇」説〟
 同「洛中洛外日記」971話(2015/06/06)〝「天皇号」地名成立過程の考察〟