万葉集一覧

第413話 2012/05/15

越中の「遠の朝廷」

今日は富山県高岡市に来ています。当地のタクシーの運転手さんにお聞きしたこ とですが、高岡市は富山県に属していますが、元々は加賀藩に属しており、二代目藩主前田利長公のお墓もあるとのこと。駅でもらったパンフレットによれば、 利長公の菩提寺瑞龍寺は国宝に指定されており、利長公が建てた高岡城趾も駅の近くにあります。お墓は大名個人のものとしては日本一の高さ(11m余)だそ うです。駅前には銅像もあり、利長公は高岡市のシンボルのようです。
前田利長公のことも興味深いのですが、古代史ファンのわたしとしては、高岡市が万葉歌人大伴家持が赴任した越中国府の所在地であったことを知り、感慨に耽りました。というのも、大伴家持について永く不思議に思っていたことがあったからです。
ご存じのように、万葉集に見える「遠の朝廷(みかど)」といえば九州太宰府のことなのですが、大伴家持の歌には自らが赴任した越中国府を「遠の朝廷」と 詠っているものがあるのです。この時代(8世紀中頃)、歌に「遠の朝廷」と詠み込めば、当然のこととして聞く人は九州王朝の都があった太宰府のことと受け 取ることは明白ですから、家持はそのように理解されることを承知の上で、越中国府をあえて「遠の朝廷」と詠んだと考えざるを得ません。何故、家持はこのよ うな歌を詠んだのかという疑問をわたしはずっと抱いていました。
遠い昔、越中国府に「天子」がいたのでしょうか。「遠の朝廷」と自らの赴任地を称することに抵抗はなかったのでしょうか。時の権力者、大和朝廷に対して はばかられなかったのでしょうか。何とも不思議で、納得できる「答え」が見つからなかったのです。ところが、古田先生が見事な「回答」を出されたのです。
その答えは『人麿の運命』にあります。それは、家持は継体天皇の出身地の越の国を「遠のミカド」と詠んだとする説です。詳しくは同書を読んでいただきたいのですが、この新説によりわたしの疑問は一応の解決を見たのです。


第408話 2012/04/29

『人麿の運命』復刻

古田先生の初期三部作(『「邪馬台国」はなかった』『失われた九州王朝』『盗まれた神話』)は古田ファン必読の三冊ですが、今回は古田先生の万葉集論三部作をご紹介します。
それは『人麿の運命』『古代史の十字路-万葉批判』『壬申大乱』の三冊ですが、このたびミネルヴァ書房より『人麿の運命』が「古田武彦古代史コレクション」として復刻されました。
古田先生の万葉論は文献史学の方法論として、「歌」を歴史史料として取り扱う上で貴重な提言が含まれています。ともすれば、様々な「解釈」が可能な万葉集の歌に基づいて、恣意的な研究が見られる分野ですが、歴史学としての古田先生の万葉論のエッセンスを学ぶことができる重要な一冊が『人麿の運命』です。
その方法論上のキーポイントをちょっと説明します。まず第一は、一次史料としての「歌」そのものと、編纂時に付け加えられた「題」や「左注」を切り離し、一次史料の「歌」そのものを史料批判するという点です。この方法論は歴史学としての万葉集研究を確立した素晴らしいものてす。
第二は、古田学派であれば当然のこととしてご理解いただけると思いますが、万葉集の原文により近い写本を基礎史料として使用するという点です。具体的には「元暦稿本」(有栖川王府本)と呼ばれる万葉集写本を重視されたことです。
第三は、多元史観・九州王朝説の視点から史料批判するという点です。
これらの方法論は古田史学の基本的なことですから、こうしたことを学ぶためにも『人麿の運命』の復刻は喜ばしいことです。青山富士夫さん撮影によるカラー写真もふんだんに掲載されており、古田万葉論の理解を助け、真実の万葉の世界を深くイメージすることができます。
巻末にある書き下ろしの「君が代」論、「男系天皇」論、「万世一系」論などもタイムリーなテーマで、おすすめの一冊です。


第352話 2011/11/20

和歌木簡と九州年号

昨日の関西例会で、わたしは「和歌木簡と九州年号」という研究発表を行いました。難波京整地層から出土した「春草」木簡と呼ばれるもで、650年頃のものとされています。「はるくさのはじめのとし」と読める万葉仮名が記されており、和歌木簡と見られています。
「春草の」という言葉は万葉集でも「枕詞」の類として柿本人麿の歌にも見られますが、わたしはこの木簡の後半部分「はじめのとし」という表現に注目しま した。お正月を示す「年の始め」という表現はよく見られますが、「はじめの年」という表記を和歌で見た記憶がなかったからです。
そこでわたしは、この「はじめのとし」を「元(はじめ)の年」と理解し、ある九州年号の元年を意味するものとする説を発表しました。具体的にはその出土 地層の年代から、九州年号の常色元年(647)に読まれた歌ではないかと推測しました。
「春草の」という「枕詞」も柿本人麿の歌では「大宮処」「わが大王」といったものに関わって使用されていることから、この和歌木簡の「はるくさの」も、 春草が勢いよく成長するように九州王朝の天子の権勢を形容したものであり、その天子の常色元年を言祝(ことほ)いだ歌ではなかったでしょうか。
ちなみに九州年号の常色年間は評制が全国に施行され、我が国初で最大規模の朝堂院様式の宮殿である前期難波宮の建設も始まっており、九州王朝史において 特筆される時期だったのです。そのことを言祝いだ和歌木簡が難波京整地層から出土したことも偶然とは思われません。
このわたしの新説はいかがでしょうか。なお、11月例会の発表は次の通りでした。中でも、水野さんが紹介された「百済人祢軍墓誌」は7世紀後半の重要な内容が記されており、画期的な発見です。この点、今後報告したいと思います。

〔11月度関西例会〕
1). ヘブライ語のミリアム(向日市・西村秀己)
2). 鬼前太后・干食王后・法興元で頓挫(豊中市・木村賢司)
3). 「伊都国」の論理 ーー邪馬一国、首都の変遷(姫路市・野田利郎)
4). 第八回古代史セミナー(八王子)主な項目(豊中市・大下隆司)
5). (彦島の)伊勢の地を探す(大阪市・西井健一郎)
6). 和歌木簡と九州年号(京都市・古賀達也)
7). 磐井討伐の詔の正体(川西市・正木裕)
8). 卑弥呼の名字(木津川市・竹村順弘)
9). 広開土王碑17年条と山海経記事(木津川市・竹村順弘)
10).南斉書の百済王名(木津川市・竹村順弘)

○代表報告(奈良市・水野孝夫)
古田先生近況・会務報告・百済人祢軍墓誌の追跡・他。


第332話 2011/08/13

「海行かば」の王朝

 第331話で、さだまさしさんの名曲「防人の詩」に触れましたが、わたしはさださんのような作詩の才能や歌心はありませんから、『万葉 集』は専ら古代史研究の史料として読んでしまいます。そんな『万葉集』研究において、初めての古田先生との共著『「君が代」うずまく源流』(新泉社、 1991年)に収録していただいた論文が『「君が代」「海行かば」、そして九州王朝』で、初期(35歳の時)の論文でもあり、とても想い出深い一冊です。
 大伴家持の歌として有名な「海行かば水浸く屍 山行かば草むす屍 大君の辺にこそ死なめ 顧みはせじ」は『万葉集』巻十八(4094)の長歌の一節ですが、『続日本紀』天平21年四月条の聖武天皇の宣命中にも同じ様な歌が見えます。
 わたしは先の論文で、この歌は水軍を持たない大和朝廷の歌ではなく、大君と共に、海に山に最前線で戦い続けた大伴一族が歴代の倭王に捧げた歌であり、すなわち九州王朝に捧げられた歌であると結論づけました。稚拙な論証を積み重ねた若い頃の論文ですが、その論証自体は成立していると、今でも自信をもっています。
 共著者の内、古田先生を除く灰塚照明さんと藤田友治さんは既に他界されています。ちょっぴり淋しい想い出も持った一冊なのです。


第331話 2011/08/13

防人の詩

 EXILE魂というテレビ番組に、さだまさしさんがゲストで出ていました。同じ九州出身ということもあって、私はさださんの歌を学生時代から よく聞いたり歌ったりしていました。番組ではさださんの名曲「防人の詩」をエグザイルのメンバーが歌っていましたが、久しぶりに聞いて、いい曲だなあと改めて感動しました。
 この曲の詩は『万葉集』の歌に触発されて作られたと聞いていますが、恐らくそれは『万葉集』巻一六の3852番歌「鯨魚(いさな)とり 海や死にする山や 死にする死ぬれこそ 海は潮干(しほひ)で山は枯れすれ」の歌だったと思います。岩波古典文学大系『万葉集』の頭注には次のように大意が記されています。

「(問)海は死ぬだろうか。山は死ぬだろうか。
(答)死ぬからこそ、海は潮が干るし、山は草木が枯れるのに。」

 古代日本列島の人々の死生観の一つが歌いこまれたものと思いますが、さださんの「防人の詩」の最後のフレーズを今聴くと、震災と津波、そして原発事故で苦しんでいる東北の大地や海の姿とオーバーラップして、涙が出てきます。それは、次のフレーズです。

「海は死にますか 山は死にますか 
春は死にますか 秋は死にますか 
愛は死にますか 心は死にますか 
私の大切な故郷もみんな逝ってしまいますか」

 一日も早く東北の大地が徐染されることを願わずにはいられません。
 一日も早く東北の大地が徐染されることを願わずにはいられません。


第278話 2010/08/22

あおによし

 昨日はいつもの大阪駅前第2ビルではなく、大阪城や難波宮跡近くの大阪歴史博物館で関西例会が行われました。また、関西例会では初めての試みとして外部講師をお招きして特別講演もありました。
 その特別講演として、難波宮や難波京発掘責任者である高橋工氏(大阪市博物館大阪文化財研究所難波宮調査事務所長)から、「古代の難波 発掘調査の最前線」というテーマで御発表いただき、当日初めて外部発表されたという最新の発掘成果などを次々とうかがうことができました。
 更には、参加者からの質問にも丁寧にお答えいただき、本当に勉強になりました。私の前期難波宮九州王朝副都説を補強できるような内容もあり、このことは別の機会にご紹介します。
 会員の発表では、竹村さんが先月に続き、一気に5テーマを発表されました。パソコンを使用し日本書紀の膨大な干支記事データベース作成と解析を行われるなど、目をみはるものがありました。
 中でも意表を突かれたのが、有名な枕詞「あおによし」の問題提起でした。一般には奈良の都の青や赤の鮮やかな瓦の色から「青丹よし」と表現され、後に「なら」にかかる枕詞へ発展したと説明されているようですが、記紀や万葉集に奈良の都ができる以前(710年)の歌に「あおによし」という枕詞が使用され ている例を指摘されたのです。
 これらの史料事実から、「あおによし」という枕詞は奈良の都とは無関係にそれ以前に成立したと考えざるを得ません。わたしは、九州王朝下で「なら」と呼ばれたものに掛かる枕詞として「あおによし」は古くから成立していたのではないかと想像しています。それでは、その「なら」とは何かという問題が新たなテーマとして浮かび上がってきます。これからの楽しみなテーマではないでしょうか。それにしても、「常識」を覆す素晴らしい問題提起だと思いました。
 8月度関西例会の発表テーマは次の通りです。

〔古田史学の会・8月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 1300年余の洗脳・他(豊中市・木村賢司)
2). 古代歌謡「あおによし」の懐疑(木津川市・竹村順弘)
3). 日本書紀の朔日干支記事の分布(木津川市・竹村順弘)
4). 日本書紀の盗用記事挿入の遣り口(木津川市・竹村順弘)
5). ナラの音韻(木津川市・竹村順弘)
6). はるくさ木簡の用字(木津川市・竹村順弘)
7). 日本書紀年齢(向日市・西村秀己)
8). 古代大阪の難波津について(豊中市・大下隆司)
9). 『聖徳太子伝暦』の遷都予言記事(川西市・正木裕)

○水野代表報告
 古田氏近況・会務報告・『古事類苑』の古代逸年号データベース・他(奈良市水野孝夫)

○特別講演   古代の難波 発掘調査の最前線
 講師 高橋 工 氏(大阪市博物館大阪文化財研究所 難波宮調査事務所長)


第274話 2010/08/01

柿本人麻呂「大長七年丁未(707)」没の真実

 『古田史学会報』77号(2006/12)に発表した「最後の九州年号−「大長」年号の史料批判−」において、九州年号の最後は「大長」で、703年から711年まで続いたことを論証しました。その史料根拠として、十六世紀に成立した辞書『運歩色葉集』の「柿本人丸」の項を紹介しました。次の記事です。   
 「柿本人丸 −−者在石見。持統天皇問曰對丸者誰。答曰人也。依之曰人丸。大長四年丁未、於石見国高津死。」(以下略)  
柿本人麻呂が大長四年丁未に石見国高津で亡くなったという記事ですが、この大長七年丁未は707年に相当します。この時既に大和朝廷は自らの年号を制定し
ており、慶雲四年にあたります。ということは、『運歩色葉集』が依拠した人麻呂没年原史料には九州年号の大長が記されており、その成立は8世紀初頭の同時
代史料に基づくと考えられます。   
 なぜなら、後代になって九州年号を記した年代暦などに基づいて「大長」年号を付加編纂した可能性は小さいからです。既に大和朝廷の年号「慶雲」があるの
ですから、701年以後であれば慶雲を使用するでしょう。更に、現存する年代暦は大長がない『二中歴』が最古ですし、それ以外の年代暦には大長が700年
以前に「移動」されたものしかないので、後代に於いて707年丁未の没年に九州年号の大長が使用される可能性は考えにくいのです。   
 このように考えると、8世紀初頭の最末期の九州年号「大長」を使用していた人物により柿本人麻呂の没年記事が書かれたことにならざるを得ません。すなわ
ち、九州王朝系の人物により柿本人麻呂の没年が記録されたことになるのです。したがって柿本人麻呂自身も九州王朝系の人物だったと論理は展開するのです
が、これは既に古田先生が指摘されてきたことと一致します。   
 この没年記事の持つ論理性からも、柿本人麻呂は九州王朝の宮廷歌人だったことになります。恐らく、晩年は大和朝廷の歌人としても活躍したと思われます
が、九州王朝の元宮廷歌人という輝ける経歴が、『続日本紀』などに柿本人麻呂の名前が登場しなかった理由だったのではないでしょうか。   
 しかし、九州王朝系の人物により柿本人麻呂の没年は九州年号「大長七年丁未」と記されたのです。この二年後に大長年号は終了し、九州年号と恐らくは九州
王朝も終焉を迎えます。もし人麻呂が生きていれば、九州王朝の滅亡をどのように歌ったでしょうか。興味は尽きません。


第233話 2009/10/31

南朝の「黄葉」と北朝の「紅葉」

 わたしは京都の化学会社に勤めているのですが、社員教育の一環として月に一度、京都大学教授の内田賢徳(うちだまさのり)先生による日本語や万葉集のセミナーを受講しています。その10月のセミナーで内田先生から興味深い史料事実を教えていただきました。
 それは、8世紀に成立した万葉集では、「もみじ」の表記に「黄葉」が使用されているが、9世紀の漢詩集などでは「紅葉」が使用されており、これは中国南朝(六朝時代、4〜6世紀)に使用されていた「黄葉」と、7世紀の唐で使用されていた「紅葉」の影響を、それぞれが受けたという史料事実です。すなわち、 万葉集は南朝の影響を色濃く受け、9世紀以降は北朝の影響を日本文学は受けているのだそうです。
 この史料事実は九州王朝説により、万葉集は九州王朝時代に成立した和歌を数多く含み、九州王朝が長く中国南朝に臣従し、その文化的影響を受けていた痕跡と考えると、うまく説明できそうです。対して、8世紀以後の大和朝廷の時代になると遣唐使により北朝の影響を受けだしたものと思われます。
 中国南朝が滅亡した後も、九州王朝(倭国)文学は南朝の影響と伝統を継承したのでしょう。このように、文学史の視点からも九州王朝説は有力であり、より深い理解へと導きうる仮説と言わざるを得ません。


第142話 2007/09/09

中村中を聴く
 わたしが30年来の中島みゆきファンであることは、ことあるごとに言ってきましたが、この何ヶ月か毎日のように聴いているのが、中村中(なかむら・あた
る)です。まだ二十歳そこそこの若いシンガーソングライターですが、初めてのアルバム「天までとどけ」は素晴らしいアルバムです。中でも「友達の詩」「風
になる」は後世に残る名曲だと思います。中島みゆきがデビューした時と同じくらいの才能を感じさせてくれるミュージシャンです。

   ところで、この「中村」という苗字は福岡県、とりわけ筑前に大変多い苗字です。わたしの学生時代のクラス(久留米高専工業化学科11期)には中村君が3人もいました。福岡県には那珂川や那賀川町もありますし、お隣の佐賀県には中原村(なかばる)がありました。
 わたしのカンですが、この「なか」という地名や苗字は、『万葉集』に見える九州王朝の人物である中皇命(なかつすめらみこと)と関係するのではないで
しょうか。もしかすると、中村さんや那珂川・中原の「なか」と中皇命の「なか」は淵源を同じくするものと思われてなりません。論証は困難ですが、大きくは
外れていない様な気がします。いかがでしょうか。


第141話 2007/09/01

万葉文化館訪問
 今日はヴィッツを借りて、奈良県明日香村までドライブしました。自宅から徒歩2分の所にあるトヨタレンタカーは大変重宝しています。

 飛鳥資料館や石舞台古墳などあちこち廻ってきましたが、中でも万葉文化館はとても気に入りました。冨本銭が出土した飛鳥池工房遺跡の上に立てられた同館
はとても美しい建物で、古代関係の展示の他、日本画(今野忠一日本画展など)も素晴らしいものでした。奈良県もなかなか良い仕事をしたものだと感心しまし
た。入館料600円+駐車料500円も、見終わった後は高いとは思いませんでした。
   また、地下の劇場では「柿本人麻呂」をテーマに人形と映像による万葉劇場が上演されており、これも定説による解説とは言え、人麻呂と『万葉集』がますます好きになりました。新たな研究の芽生えとなるような体験でした。
   喫茶店も落ち着いた雰囲気で景色も抜群。また行ってみたいと思いました。古田先生も人麻呂の歌に関しての新発見が続いておられるようで、このことも紹介したいのですが、古田先生が公式に発表されるまで口止めされています。あしからず。
   お天気にも恵まれ、とても素敵な一日でした。次は、琵琶湖に行ってみようと思っています。「岩走る淡海」の国です。


第110話 2006/12/22

『万葉集巻一』九州王朝作歌説?!
  ちょっと遅くなりましたが、16日に行われた関西例会の報告をします。今回も多彩な研究報告がなされましたが、水野代表による『万葉集巻一』九州王朝作歌説はちょっと強引な感じもしましたが、なかなか面白い説だと思いました。何せ、『万葉集』の巻一全部が九州王朝で作られたというものですから、本当だったら面白いけれど、そんな全部の歌を論証可能なのか、というのが率直な感想でした。しかし、このような大胆な説が発表できるのも、例会の良いところではないでしょうか。
 新年一月の関西例会は、午後は古田先生の講演会がありますので、午前中だけとなります。会場がいつもと異なりますので、お間違いないように。

〔古田史学の会・12月度関西例会の内容〕
○ビデオ鑑賞 8/30古田・安川対談、12/7寛政原本を見る
○研究発表
1).「自悪其名不雅」考、泥憲和氏の「『九章算術』の短里を読んで」(向日市・西村秀己)
2). 倭国律令のこと、平安時代に至っても弾圧されていた肥後国、二人の美濃王(姫路市・泥憲和)
3). 伊勢王・その一 総論(川西市・正木裕)
4). 九州王朝諸系図の検討と分析(奈良市・飯田満麿)
5). 武烈天皇紀における「倭君」・その二(相模原市・冨川ケイ子)
6). 運歩色葉集と九州年号(木津町・竹村順弘)
7). 装飾古墳の文様(生駒市・伊東義彰)
○水野代表報告
 古田氏近況・会務報告・「寛政原本発見!東日流外三郡誌」・『万葉集巻一』九州王朝作歌説・他(奈良市・水野孝夫)


第103話 2006/10/15

万葉仮名と九州王朝

 このほど、難波宮跡から万葉仮名が書かれた木簡が出土しました。7世紀中頃の木簡とのことで、当時における日本列島での文字文化や和歌文化を研究する上で、まさに一級史料といえるでしょう。
 この新聞報道を読んでみますと、この木簡の出土により万葉仮名の成立が従来説の7世紀末より30年ほど遡ったと、その意義を強調されていますが、古田史学によれば万葉仮名はもっと古くから九州王朝で成立していたと考えられます。
 古田先生の講演録「筑紫朝廷と近畿大王」(『市民の古代』15集、1993年)で、万葉仮名と九州王朝の関係について触れられていますが、『万葉集』巻七に「古集」というものが記されており、『万葉集』よりも古い歌集が存在していたことを指摘されています。そしてその「古集中に出ず」として紹介された歌が筑紫で成立したものであることを論証されました。すなわち、「古集」とは筑紫万葉であるとされたのです。
 したがって、このことからも九州王朝内で万葉仮名による歌集が『万葉集』に先行して作られていたことがわかります。と同時に、万葉仮名は古くから九州王朝内で成立していたということになるというわけです。
 志賀島の金印など、古くから漢字文明に接していた九州王朝ですから、その漢字を倭語の表音表記として転用することが、いつからかなされたものでしょう。それがいつのことかは、まだ正確にはわかりませんが、少なくとも通説の7世紀末、あるいは今回の木簡の7世紀中頃といった、そんな「新しい」時代のことではないと思います。
 万葉仮名成立についても、古田史学、多元的歴史観による解明が待たれているのです。