日本書紀一覧

第601話 2013/09/29

文字史料による「評」論(3)

 現存する唯一の全国的評制施行時期が記された史料として『皇太神宮儀式帳』(延暦23年・804年成立)は著名ですが、以前から同史料に関して気になっていた問題がありました。
 同書には「難波朝廷天下立評給時」という記事があり、7世紀中頃に難波朝廷か天下に評制を施行したことが記されています。そのため『皇太神宮儀式帳』は 「評制」史料と思われがちなのですが、そうではなく同書は「郡制」史料なのです。幸い、インターネットで京都大学図書館所蔵本(平松文庫『皇太神宮儀式 帳』)を見ることができますので、全ページにわたり閲覧したところ、やはり同書が「郡制」史料であることを確認できました。
 たとえば「難波朝廷天下立評給時」の記事が記されている部分の表題は「一、初神郡度会多気飯野三箇本記行事」とあり、度会・多気・飯野の「神郡」と、 「郡」表記です。本文中にも「多気郡」「三箇郡」という「郡」表記が見えます。この項目以外でも「郡」表記です。成立が延暦23年(804)ですから、 『日本書紀』の歴史認識に基づいて、一貫して「郡」表記となっているのです。
 それにもかかわらず「一、初神郡度会多気飯野三箇本記行事」の項目には、『日本書紀』には見えない「難波朝廷天下立評給時」や「評督領」「助督」などの 「評制」記事が混在しています。こうした史料状況からすれば、これら「評制」記事は『日本書紀』以外の九州王朝系評制史料の影響を受けたと考えざるを得ま せん。「評」が全て「郡」に書き換えられている『日本書紀』をいくら読んでも、そこからは絶対に「難波朝廷天下立評」や評制の官職名である「評督」「助督」などの表記は不可能なのです。このことは言うまでもないほど単純な理屈ですが、このように考えるのが史料批判という文献史学の常道なのです。
 こうした史料批判の結果を前提にして、さらに「難波朝廷天下立評」記事が意味するところを深く深く考えてみましょう。「天下立評」という表現からわかる ように、原史料は九州王朝による全国的評制施行に関する「行政文書」と考えられます。ある地方の「評(郡)」設立に関する記事は『常陸国風土記』などにも 散見されますが、全国的な「評制施行」記事が見えるのは『皇太神宮儀式帳』だけです。したがって、九州王朝倭国はほぼ同時期に全国へ「評制施行」を通達したのではないでしょうか。
 次にその時期についてですが、「難波朝廷天下立評給時」とありますから、「難波朝廷」の時代です。『日本書紀』の認識に基づいての表記であれば、「難波 朝廷」すなわち難波長柄豊碕宮にいた孝徳天皇の頃となりますから、7世紀中頃です。九州王朝の「行政文書」が原史料と思われますから、そこには九州年号が記されていた可能性もあり、7世紀中頃であれば「常色(647~651)」か「白雉(652~660)」の頃です。いずれにしても『皇太神宮儀式帳』成立期の9世紀初頭であれば、その時代の編纂者が「難波朝廷」と記す以上、孝徳天皇の時代(7世紀中頃)と認識していたと考えられます。(つづく)


第592話 2013/09/08

正木さんの「34年遡上盗用」説の真髄

 多元的古代研究会(安藤哲朗会長)の会誌『多元』117号に正木裕さんの論稿 「九州王朝説と通説との分水嶺 — 盗用を認めるか・否か」が掲載されました。正木さんの「34年遡上盗用」説がコンパクトにまとめられ、この仮説の検証が古田説の正しさを証明することにもなるということが示された好論でした。ちょうど良い機会ですので、この正木説の論証方法と真髄について説明したいと思います。
 正木さんも当論稿で明確に述べられていますが、『日本書紀』の天武紀や持統紀に34年前の記事が盗用されており、それらの事例を示されたうえで、「勿論 個々の事例について『絶対的な根拠』などあるはずもない。(それがあるなら通説はとっくに瓦解している)しかし、『通説では不審な記事だが゛九州王朝の史書からの盗用″なら合理的に説明できる』事例を積み重ね、かつ『何故そのような盗用を行ったのか』を検討する」と正木論証の性格と目的について記されてい ます。
 この「絶対的根拠」はないが通説では不審な記事が合理的に説明できる、という論証性格こそ、わたしが「相対論証」と命名した論証方法なのです。すなわち、史料根拠に基づいて他の可能性を論理的に排除できる「絶対論証」に対して、同じく史料根拠に基づきながらも他の可能性を排除できないが、他の仮説よりも合理的に説明できる「相対論証」に相当するのが正木さんの「34年遡上盗用」説なのです。わたしはこのような論証方法があることを古田先生から学びまし た。古田説にもこの「相対論証」に相当する論証が少なくありません。
 従って、「絶対論証」と「相対論証」の差は、直接証拠に基づいているとか、間接証拠にもとづいているとかの史料根拠の違いではなく、他の仮説を排除できる論理性を有しているのか、他の仮説を排除はできないものの他の仮説よりも相対的に合理的であるという論理性を有しているかの違いなのです。直接証拠が圧倒的に少ない古代史学では、必然的に「相対論証」を多用せざるを得ないのは当然でもあるのです。
 しかし、今回特筆したいのは正木説の根幹・真髄についてです。その真髄とは「何故34年なのか」の説明に成功されたことなのですが、正木説に反対する人だけではなく、賛成する人にも理解を深めていただければと思い、このことについて説明します。
 正木さんが「34年遡上盗用」説を関西例会で発表されてから、何故33年でも35年でもなく34年前の記事から移動盗用されたのかの説明ができなけれ ば、恣意的との反論を免れないと、わたしは度々批判してきました。そうすると、正木さんはこの34年の理由を九州年号史書から年号ごとに移動させた結果、 34年のずれになったと説明されたのです。すなわち、白鳳の23年間、朱雀の2年間、朱鳥の9年間の合計が34年であることから、たとえば白鳳の前の白雉 の9年間の記事を34年移動させると、白雉元年(652)の記事が朱鳥元年(686)へと、同じ「元年」から「元年」へと記事が移動することになるので す。同様に白雉2年の記事は朱鳥2年への移動となり、その差はやはり34年なのです。
 このように九州年号による編年体史書の九州王朝系記事が、『日本書紀』の天武紀・持統紀に九州年号の34年差のまま移動盗用されたとする仮説に、正木さ んは到達されたのです。この「何故34年なのか」という疑問に答えられる仮説の発見こそ、正木説の本質であり真髄なのです。この点にご留意いただき、これ までの正木論文を読み直してみてください。正木説の真の凄さがご理解いただけると思います。

韓国・扶余出土木簡の衝撃 — やはり『書紀』は三四年遡上していた 正木裕
(古田史学会報94号)

(追記)本日早朝のニュースで2020年の東京オリンピック開催が決まったことを知りました。小学生の時にテレビで見た東京オリンピックをもう一度見ることができそうです。皆さんとともに喜びたいと思います。


第562話 2013/05/26

難波宮出土の百済土器

 先日、久しぶりに大阪歴史博物館を訪れ、最新の報告書に目を通してきました。前期難波宮整地層から筑紫の須恵器が出土していたことを報告された寺井誠さんが、当日の相談員としておられましたので、最新論文を紹介していただきました。
 その報告書は『共同研究報告書7』(大阪歴史博物館、2013年)掲載の「難波における百済・新羅土器の搬入とその史的背景」(寺井誠)です。難波(上 町台地)から朝鮮半島(新羅・百済)の土器が出土することはよく知られていますが、その出土事実に基づいて、その史的背景を考察された論文です。もちろ ん、近畿天皇家一元史観に基づかれたものですが、その中に大変興味深い記事がありました。

 「以上、難波およびその周辺における6世紀後半から7世紀にかけての時期に搬入された百済土器、新羅土器について整理した。出土数については、他 地域を圧倒していて、特に日本列島において搬入数がきわめて少ない百済土器が難波に集中しているのは目を引く。これらは大体7世紀第1~2四半期に搬入さ れたものであり、新羅土器の多くもこの時期幅で収まると考える。」(18頁)

 百済や新羅土器の出土数が他地域を圧倒しているという考古学的事実が記されており、特に百済土器の出土が難波に集中しているというのです。この考古学的事実が正しければ、多元史観・九州王朝説にとっても近畿天皇家一元史観にとっても避け難く発生する問題があります。
 古代における倭国と百済の緊密な関係を考えると、その搬入品の土器は権力中枢地か地理的に近い北部九州から集中して出土するはずですか、近畿天皇家の 「都」があった飛鳥でもなく、九州王朝の首都太宰府や博多湾岸でもなく、難波に集中して出土しているという事実は重要です。この考古学的事実をもっとも無 理なく説明できる仮説が前期難波宮九州王朝副都説であることはご理解いただけるのではないでしょうか。
 『日本書紀』孝徳紀白雉元年条に記された白雉改元の舞台に百済王子が現れているという史料事実からも、その舞台が前期難波宮であれば、同整地層から百済 土器が出土することと整合します。従って文献的にも考古学的にも、九州年号「白雉」改元の宮殿を前期難波宮とすることが支持されます。すなわち、九州王朝 副都説の考古学的傍証として百済土器を位置づけることが可能となるのです。


第553話 2013/05/01

「五十戸」から「里」へ(2)

 「評」の下部単位である「さと」が五十戸毎に編成され、その漢字表記が「五十戸」とされたのがいつ頃かは、木簡からは残念ながら判明していません。「五十戸」から「里」表記に変更されたのが683年頃であるのは、次の干支木簡から推測されています。

 「辛巳年鴨評加毛五十戸」(飛鳥石神遺跡出土)
               「癸未年十一月 三野大野評阿漏里」(藤原宮下層運河出土)

 辛巳年は681年で、癸未年は683年です。「三野大野評」とあるのは「三野国大野評」のことで、「国」が省略された様式とされています。木簡の「五十戸」表記は683年以降も続いていますが、「里」表記木簡は今のところこの癸未年(683)が最も早く、おおよそこの頃か ら「里」表記が始まったと見てもよいようです。この「五十戸」から「里」への変更命令や変更記事は、九州王朝の行政単位の「評」と同様に『日本書紀』には 記されていません。
 今のところ「五十戸」表記の始まりを推定できるような木簡は出土していませんが、一元史観の学界内では、評制の成立時期と同じ頃ではないかとする説もあるようです。この説の論文を未見ですので、引き続き調査検討したいと思いますが、わたしは『日本書紀』白雉三年(652)四月是月条の次の記事に注目して います。

 「是の月に、戸籍造る。凡(おおよ)そ、五十戸を里とす。(略)」

 通説では日本最初の戸籍は「庚午年籍」(670)とされていますから、この652年の造籍記事は史実とは認められていないよ うですが、わたしはこの記事こそ、九州王朝による造籍に伴う、五十戸編成の「里」の設立を反映した記事ではないかと推測しています。なぜなら、この652 年こそ九州年号の白雉元年に相当し、前期難波宮が完成した九州王朝史上画期をなす年だったからです。すなわち、評制と「五十戸」制の施行、そして造籍が副都の前期難波宮で行われた年と思われるのです。(つづく)


第547話 2013/04/03

新益京(あらましのみやこ)の意味

 今朝は名古屋市に来ています。名古屋駅前の桜通りを歩いたのですが、「桜通り」の名称ほどには桜の木は多くありません。それでも交差点の角々にある満開の桜は、おりからの強風で花びらを散らし、文字通りの桜吹雪の状態です。
 今日の午前中は名古屋で、午後からは三重県四日市市で、夜は愛知県一宮市で仕事です。世間ではアベノミクスとやらで気分だけは「好景気」のようですが、 物価上昇が先行し、国民所得は二~三年後にしか上がらないでしょうから、その間、シュリンクした国内マーケットは厳しさを増すようにも思われます。          

 さて、藤原京と呼ばれている大和朝廷の都ですが、『日本書紀』持統紀には「新益京(あらましのみやこ)」と記されており、「藤原京」という名称はありません。他方、宮殿は「藤原宮」と記されています。
 この藤原宮下層遺構からは多数の木簡や土器が出土しており、その中の紀年銘木簡「壬午年(天武十一年・六八二)」「癸未年(天武十二・六八三)」「甲申年(天武十三年・六八四)」から、藤原京の造営が天武の時代に既に始まっていたことがわかっています。この藤原宮下層から条坊道路や側溝が発見されたこと から、藤原京造営時にはここ(大宮土壇)に王宮を造ることは想定されていなかったことが推定できます。
 こうした考古学的出土事実から、わたしは喜田貞吉が提起した「長谷田土壇」説に注目し、藤原京造営時の王宮は長谷田土壇にあったのではないかとするアイデア(思いつき)に至りました。この「思いつき」を「仮説」とするためには、長谷田土壇の考古学的調査が必要です。
 この王宮の位置が変更されたとする「思いつき」が正しければ、「藤原京」のことを『日本書紀』では王宮(藤原宮)の名称とは異なる「新益京」とした理由もわかりそうです。それは、長谷田土壇から南東に位置する大宮土壇への王宮の移動(新築か)により、条坊都市もそれに伴って東側へ拡張されたこととなり、 その拡張された新たな全京域を意味する「新益京(あらましのみやこ)」という名称を採用したのではないでしょうか。このように考えれば、藤原宮(大宮土壇)を中心点として、「藤原京」がいびつな形の条坊都市になっていることも説明できます。ただし、このアイデアは先の「思いつき」を前提とした「思いつき」ですので、これから慎重に調査検討していきたいと思います。


第543話 2013/03/26

白雉改元の宮殿(8)

 『日本書紀』に記された「賀正礼」記事に九州王朝の「賀正礼」の痕跡が残されていたのですが、『続日本紀』になるとその様相は一変します。
 たとえば『続日本紀』でも、年によって「賀正礼」記事が記されていたり無かったりはするのですが、基本的に「賀正礼」記事は正月朔(一日)に現れます。 もちろん、持統天皇崩御により取りやめられたり、雨天などにより順延(二日や三日に開催)されるケースなども散見されますが、その場合でも「元日」に行わ なかったことが記され、次いで二日や三日に執り行った記事が記されるのです。この点、唐突に二日に行った記事が出現する『日本書紀』のありようとは異なっ ています。
 更に『日本書紀』孝徳紀と異なる点として、「賀正礼」が行われる場所が「大極殿」「大安殿」などと明記され、その日の内に天皇が「別の宮殿に帰る」などという記事はありません。
 このように、『日本書紀』と『続日本紀』に見える「賀正礼」には明らかな違いがあるのです。これもONライン(701)を境とした、九州王朝から大和朝廷への王朝交代の痕跡と考えざるを得ません。(つづく) 


第542話 2013/03/24

白雉改元の宮殿(7)

 『日本書紀』孝徳紀に初めて現れ頻出する「賀正礼」ですが、その舞台が九州王朝の副都前期難波宮であり、同じ難波に邸宅 (難波長柄豊碕宮)を持つ孝徳は正月朔(ついたち)の「賀正礼」に参列し、その日の内に自らの邸宅に帰還していたことを第541話で指摘しました。この 「賀正礼」ですが、孝徳紀の次の斉明紀になると記載がありません。次いで、天智紀・天武紀・持統紀に次の「賀正礼」記事が見えます。

  ○天智十年(671)「十年の春正月の己亥の朔庚子(二日)に、大錦上蘇我赤兄臣と大錦下巨勢人臣と、殿の前に進みて、賀正事奏(もう)す。」
  ○天武四年(675)「(正月)丁未(二日)に、皇子より以下、百寮の諸人、拝朝す。」
  ○天武五年(676)「五年の春正月の庚子の朔に、群臣百寮拝朝す。」
  ○天武十年(681)「十年の春正月の辛未の朔壬申(二日)に、幣帛を諸神祇に頒(あかちまだ)す。癸酉(三日)に、百寮の諸人、拝朝庭す。」
  ○天武十二年(683)「十二年の春正月の己丑の朔庚寅(二日)に、百寮、拝朝庭す。」
   ○天武十四年(685)「十四年の春正月の丁未の朔戊申(二日)に、百寮、拝朝庭す。」
  ○天武朱鳥元年(686)「朱鳥元年の春正月の壬寅の朔癸卯に、大極殿に御して、宴(とよあかり)を諸王卿に賜う。」
  ○持統三年(689)「三年の春正月の甲寅の朔に、天皇、万国を前殿に朝(まうこ)しむ。」
  ○持統四年(690)「四年の春正月の戊寅の朔に、(略)皇后、即天皇位す。(略)己卯(二日)に、公卿百寮、拝朝すること、元会儀の如し。

 以上のような「賀正礼」記事が見えるのですが、孝徳紀のように元日に行われた「賀正礼」は天武五年、朱鳥元年、持統三年 だけで、他は正月の二日か三日に行われています。しかも、朱鳥元年は「拝朝」「拝朝廷」という表記がなく、本当に「賀正礼」記事としてよいのか疑義も残り ます。それでは二日や三日に「賀正礼」を行った年の元日は何をしていたのでしょうか。
 この疑問を推測する上で参考になるのが、天武十年(681)の記事で、「十年の春正月の辛未の朔壬申(二日)に、幣帛を諸神祇に頒(あかちまだ)す。癸 酉(三日)に、百寮の諸人、拝朝庭す。」とあるように、三日の「賀正礼」の前日、二日に神祇に幣帛を奉納していることです。すなわち、より権威が大きいも のに対しての「礼」を自らへの「賀正礼」よりも優先させているのです。
 それでは近畿天皇家が自らへの「賀正礼」よりも優先すべき行事とは何でしょうか。九州王朝説に立てば、当然のこととして九州王朝への「賀正礼」しかあり ません。孝徳が九州王朝の副都前期難波宮へ「賀正礼」に赴いたように、その後の近畿天皇家も九州王朝への「賀正礼」を元日に行ったと考えられるのです。で すから、『日本書紀』では元日に行われていた九州王朝への「賀正礼」記事をカット、あるいは、自らへの「賀正礼」であるかのような編集を行ったのです。そ してその痕跡が正月二日や三日の「賀正礼」記事だったのです。(つづく)


第541話 2013/03/21

白雉改元の宮殿(6)

 「白雉改元の宮殿」の執筆を続けるにあたり、『日本書紀』孝徳紀などを繰り返し読んでいますが、次々と発見が続いています。その一つに「賀正礼」があります。『日本書紀』における「賀正礼」の初出は孝徳紀大化二年条(646)で、その様子が次のように記されています。

  「二年の春正月の甲子の朔(ついたち)に、賀正礼おわりて、即ち改新之詔を宣ひて曰く、~」

 この後に著名な改新詔が続くのですが、わたしの研究ではこの「大化二年改新詔」は九州年号の大化二年(696)年のことですから、ここでの「賀正礼」は『日本書紀』では「初出」ですが、実際の「初出」とは言い難いと思われます。
 その次に見える「賀正礼」記事は同じく孝徳紀大化四年(648)です。

  「四年の春正月の壬午の朔に、賀正す。是の夕に、天皇、難波碕宮に幸す。」

 「賀正礼」を行った宮殿は不明ですが、その終了後に孝徳は難波碕宮に行ったとありますから、この「賀正礼」は孝徳の宮殿以外の場所で行ったことがうかがえます。
 同じく孝徳紀大化五年(649)には、

  「五年の春正月の丙午の朔に、賀正す。」

とだけあり、場所は不明です。

 次いで、孝徳紀白雉元年条(650)には次のように記されています。

  「白雉元年の春正月の辛丑の朔に、車駕、味経宮に幸して、賀正礼を観る。(中略)是の日に、車駕宮に還りたまふ。」

 恐らくは九州年号の白雉元年(652)に味経宮で行われた賀正礼に孝徳は参加し、その日の内に宮に還ったとありますから、ここでも「賀正礼」は孝徳の宮殿とは別の味経宮で行われたことになります。
 その次の「賀正礼」は孝徳紀白雉三年(652)に見える次の記事です。

「三年の春正月の己未の朔に、元日礼おわりて、車駕、大郡宮に幸す。」

ここでも孝徳は「賀正礼」が終わって大郡宮へ行ったとあります。

 このように、『日本書紀』は孝徳紀になって突然に「賀正礼」記事が出現し、孝徳紀に頻出します。そして、その後の斉明紀には「賀正礼」記事がまた見えな くなるのです。これは不思議な現象ですが、さらに問題なのが「賀正礼」終了後に、その日の内に孝徳は別の宮殿に帰るという行動です。普通、正月の挨拶は臣下が主人の宮殿に参上し、その「賀正礼」を主人が受けるというものでしょう。そして終了後に還るのは臣下の方ではないでしょうか。ところが、孝徳紀に見える「賀正礼」はそうではないケースが普通なのです。
 この不思議な現象を合理的に説明できる仮説があります。孝徳は九州王朝の天子の宮殿に参上し、「賀正礼」に参列した後、その日の内に帰れるほど近くに自らの邸宅を有していた。この仮説です。 これこそ、わたしの前期難波宮九州王朝副都説と整合する仮説であり、傍証ともなる『日本書紀』の史料事実なのです。
 したがって、孝徳が「賀正礼」に参上した宮殿は、難波宮あるいは味経宮と呼ばれていた前期難波宮(上町台地法円坂)であり、その日の内に帰宅できた孝徳の邸宅は難波長柄豊碕宮(北区豊崎)等と思われます。(つづく)


第539話 2013/03/15

白雉改元の宮殿(5)

 九州王朝の副都前期難波宮が、当時なんと呼ばれていたのかという研究テーマがありますが、わたしは第163話で「難波宮」と呼ばれていたとする仮説を発表しました。その根拠は、『続日本紀』では同じ場所に造営された聖武天皇の後期難波宮のことを一貫して「難波宮」と記していることでした。
 通説では前期難波宮は孝徳天皇の難波長柄豊碕宮とされています。前期難波宮は上町台地上の法円坂にあり、「難波」ではありますが、「長柄」や「豊碕」は もっと北方の淀川沿い(大阪市北区豊崎)に位置しており、前期難波宮を「長柄豊碕」と呼ぶには相当無理があるのです。従って、孝徳の難波長柄豊碕宮と九州 王朝の前期難波宮は別物であり、前期難波宮は『続日本紀』にあるとおり「難波宮」と呼ぶべきなのです。
 他方、正木裕さんからは前期難波宮は「味経宮(あじふのみや)」と呼ばれていたのではないかとする説が発表されています。その根拠は『日本書紀』孝徳紀白雉二年(651)十二月条の次の記事です。

  「味経宮に二千百余の僧尼を請(ま)せて、一切経を読ましむ。是の夕に、二千七百余の燈を朝庭内に燃(とも)して、安宅・土側等の経を読ましむ。」

 二千七百余人の僧尼が一堂に集まって読経できるような遺構やスペースは上町台地には前期難波宮しかないというのが、正木さんの主張です。説得力のあるご指摘なので、わたしも前期難波宮「味経宮」説に一定の賛意を持っています。わたしは「味経宮」説の証拠の一つとして、孝徳期白雉元年(650)正月条に見える次の記事にも注目しています。

  「白雉元年の春正月の辛丑の朔に、車駕、味経宮に幸(いでま)して、賀正礼を観(みそなは)す。」

 孝徳期白雉元年は650年なので、まだ前期難波宮は完成していません。ところがその直後の二月条の白雉改元記事が九州年号の白雉元年(652)二月条か らの「切り貼り」であったことが判明していますので、この白雉元年正月条も九州年号の白雉元年(652)正月条からの「切り貼り」の疑いがあるのです。
もしそうであれば、賀正礼を行うような宮殿ですから、この味経宮は前期難波宮のことと考えられるのです。ちなみに、二月条の白雉改元の儀式記事にも「元会の儀の如し」と記されていますから、賀正礼も改元儀式も同じ宮殿で行ったと思われ、賀正礼は味経宮で行ったと記されていますから、改元儀式も味経宮で行われたという理屈が成り立つのです。有力仮説として、引き続き検討したいと思います。(つづく)


第538話 2013/03/14

白雉改元の宮殿(4)

 わたしが前期難波宮九州王朝副都説を発表してから、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人)から、ことあるたびに寄せられているご批判があります。「前期難波宮は九州王朝の副都ではなく首都だ」というご批判です。
 天子がいて、白雉改元の儀式を行っているのだから、そこは副都ではなく首都とみなすべき、というのがその主な理由です。正木裕さんも別の理由から首都説に近い立場(ある期間の難波遷都説)をとっておられます。これらのご批判に対して、そうかもしれないが『旧唐書』など中国史書に倭国が遷都したという記事や痕跡が無いので、首都と断定するには躊躇を覚えるとわたしは反論してきたのですが、首都説も有力な仮説であると考えています。
 第536話などで紹介しましたように、白雉改元の儀式に左右の大臣や百官か参加しているのですから、九州王朝倭国の首都機能や行政組織が一同に会してい るとも見なせます。もしそうであれば、白雉改元の儀式のためだけではなく、首都機能そのものが太宰府から移動してきたこととなり、これを遷都と呼んでも間違いではないようにも思います。そして、難波宮・難波京に天子や百官がその後も常駐したのであれば、そこは文字通り首都になるわけです。もちろん、『日本書紀』の記述内容がどの程度信用できるかは記事ごとの個別の検証が必要ですので、これからも慎重に検討を続けたいと思います。(つづく)


第537話 2013/03/13

白雉改元の宮殿(3)

 『日本書紀』孝徳紀白雉元年二月条(650)に見える白雉改元の儀式には奇妙な点があることが、かなり以前から古田学派内で指摘されてきました。わたしの記憶では中村幸雄さん(故人)が20年以上前に口頭発表されていたように思います。それは白雉を乗せた輿をとる人の数が変化することです。
   孝徳紀によれば、輿をとる人々が合計3グループあり、最初の2回は四名(前二人、後ろ二人)ですが、天皇の前まで運ぶ時は五名に増えています。しかも、 前が二人(左右の大臣)で後ろが三人(伊勢王ほか)です。普通、輿の棒は前後に二本ずつ出ており、四名でちょうどぴったりの人数になるのですが、最後だけは輿の後ろに三名がいるのです。その三名のうちの一人、伊勢王ですが、「王」の称号を持ちながら出自が不明な謎の人物です。そこで、この伊勢王こそ白雉を献上された主人公で九州王朝の天子ではなかったかという指摘がなされてきたのでした。近年では正木裕さんがこの立場をとっておられます。わたしも魅力的で 有力な仮説だと思っています。
 この仮説が正しければ、近畿天皇家は『日本書紀』編纂にあたり、九州王朝と近畿天皇家の大義名分(主人公)を逆転(取り替えて)させて、白雉改元の儀式を盗用したと考えられるのです。(つづく)


第536話 2013/03/12

白雉改元の宮殿(2)

 『日本書紀』孝徳紀白雉元年二月条(650)に見える白雉改元の儀式(実際は九州年号の白雉元年二月(652)記事の年次をずらしての盗用。詳しくは拙論「白雉改元の史料批判」をご参照ください。『九州年号の研究』所収)が他に類例がないほど詳述されており、その宮殿の規模や様式を推定することができます。その儀式の様子が次のように記されています。要旨のみ意訳しました。

 (a)2月15日、朝廷の隊伎、元日の儀のごとし。左右の大臣・百官ら「紫門」の外に四列にならぶ。
 (b)白雉を乗せた輿とともに、百済の君・豊璋らを引き連れて「中庭」に至る。
 (c)別の四人が輿をとり「殿」の前に進む。
 (d)伊勢王や左右の大臣ら五人が輿をとり、「御座」の前に置く。
 (e)天皇が皇太子を招き、ともに白雉を見る。

 おおよそ、以上のような儀式が宮殿で行われたのですが、これらの記事から白雉改元の宮殿がかなり大規模なもので、「前庭 (紫門の外)」「紫門」「中庭(朝堂院か)」「殿(紫宸殿か)」「御座」を有すことがわかります。次々と輿をとる人が交代することからも、それぞれの場所 が一定の広さを有していることも推察できます。また、「紫門」とあることから、その奥には「紫宸殿」があると思われ、この宮殿が「北を尊し」とする北朝様 式であることもわかります。

   こうした規模と様式を持つ7世紀中頃の宮殿は、日本列島広しといえども前期難波宮しか発見されていません。従って、白雉改元の儀式が行われた宮殿は前期難波宮であり、百済の君(王子)豊璋を人質として預かっていた九州王朝・倭国の天子が、ここで白雉改元の儀式を執り行ったと考えざるを得ないのです。(つづく)