「 聖徳太子 」一覧

第2265話 2020/10/18

新・法隆寺論争 (1)

古田先生と家永先生の

   『聖徳太子論争』『法隆寺論争』

 「市民の古代研究会」時代に、わたしたちは『市民の古代・別冊』として、古田先生と家永三郎さんによる論争本を二冊刊行しました。『聖徳太子論争』(1989年、新泉社)と『法隆寺論争』(1993年、新泉社)で、法隆寺の釈迦三尊像を通説通り「聖徳太子」の為のものか、九州王朝の多利思北孤の為のものかを争点とした両氏の論争が収録されています。今でも学問的価値は高く、研究者には是非読んでいただきたい基本文献です。
 法隆寺と同寺の釈迦三尊像は、古田史学・多元史観と通説・近畿天皇家一元史観が直接的にぶつかり合う重要テーマの一つです。古田学派からも多くの研究論文・著作が出されており、古田先生の研究業績(注①)を筆頭に、学界に先駆けて法隆寺移築説を発表された米田良三さんの『法隆寺は移築された』(新泉社、1991年)など優れた研究がありました。わたしも若干の研究(注②)を近年発表してきましたが、定年退職したこの機会に、これまでの法隆寺研究を復習し、問題点の指摘や可能であれば新仮説の提起などを試みたいと考えています。(つづく)

(注)
①古田武彦『失われた九州王朝』(朝日新聞社、1973年。ミネルヴァ書房から復刻)
 古田武彦『古代は輝いていたⅢ 法隆寺の中の九州王朝』(朝日新聞社、1985年。ミネルヴァ書房から復刻)
 古田武彦『古代は沈黙せず』(駸々堂出版、1988年。ミネルヴァ書房から復刻)
②古賀達也「九州王朝鎮魂の寺 ―法隆寺天平八年二月二二日法会の真実―」(『古代に真実を求めて』第十五集、明石書店、2012年)
 古賀達也〝『法隆寺縁起』に記された奉納品の不思議(1)~(7)〟(「洛中洛外日記」1864~1875話(2019/03/28~04/14)


第2208話 2020/08/20

野洲市出土「壬寅年」(702年)木簡の謎

 「洛中洛外日記」で連載した〝滋賀県湖東の「聖徳太子」伝承〟において、近江が九州王朝と関係が深そうであることを述べてきました。今回は追記として、滋賀県野洲市西河原宮ノ内遺跡から出土したちょっと珍しい干支木簡を紹介し、それについて感想を述べたいと思います。
 近江国野洲郡の役所と推定されている西河原宮ノ内遺跡から倉庫跡が出土しています。その倉庫を解体した際の柱の抜き取り穴に廃棄された木簡六点が見つかり、その内の三点には干支が記されていました。奈良文化財研究所の木簡データベースによれば、その干支木簡から次の文字が読み取られています。

【奈良文化財研究所木簡データベース】抜粋
①辛卯年十二月一日記宜都宜椋人□稲千三百五十三半記◇
 (辛卯年)持統5年12月1日(691年)
②・庚子年十二□〔月ヵ〕□〈〉□〔記ヵ〕□千五〈〉◇・〈〉◇
 (庚子年)文武4年12月(700年)
③・壬寅年正月廿五日/三寸造廣山○「三□」/勝鹿首大国○「□□〔八十ヵ〕」∥○◇・〈〉\○□田二百斤○□□○◇\〈〉
 (壬寅年)大宝2年1月25日(702年)

 この中でわたしが注目したのが③「壬寅年」木簡です。紀年が記された荷札木簡の書式は、700年以前の九州王朝時代と、701年以後の大和朝廷時代とでは異なっています。前者の場合は、冒頭に干支と月日が記されていますが、後者は文章末に年号と月日が記されるのが通例です。その点、①「辛卯年」(691年)木簡と②「壬寅年」(700年)木簡はその通例に従った書式ですが、③「壬寅年」(702年)木簡は大和朝廷時代の木簡ですから、「壬寅年」ではなく、「大宝二年」となければなりません。しかも、文章冒頭部分に「壬寅年」とあり、この書式は九州王朝時代のままです。既に王朝交替がなされ、大宝年号が建元されて約一年が経過していますから、そのことを郡の役人が知らないはずがありません。
 たとえば、藤原宮跡から出土した遠方の九州や関東からの荷札木簡でも「大宝元年」と書かれています。藤原京から比較的近い近江国野洲郡の役所であれば、当然大宝年号の存在や『大宝律令』による年号使用規定は知っていたはずです。王朝交替して一年近く経過しているにもかかわらず、九州王朝時代の書式で木簡に紀年を記載した理由は何でしょうか。
 ここからはわたしの想像です。七世紀の干支木簡の出土事実から、九州王朝は神聖な年号(九州年号)を使い捨ての木簡などに記すことを禁じていたのではないかとする仮説をわたしは発表しています。その仮説に基づけば、九州王朝と関係が深かった近江国では、王朝交替後も大和朝廷の年号を使用することをよしとせず、九州王朝時代の木簡書式を採用する人々がいたのではないでしょうか。そして、そのことが大和朝廷側に発覚したため、西河原宮ノ内遺跡の倉庫群は破壊され、「九州王朝書式木簡」はたたき割られて柱の抜き取り穴に廃棄されたのではないでしょうか。
 「壬寅年」(大宝二年)の三十年前(672年)に勃発した「壬申の大乱」により、近江国は主戦場となりました。そのとき多くの九州王朝系近江朝(正木裕説)の役人や兵士が戦没したり負傷したことと思います。そしてその子供たちの中には、野洲郡の役人になった者もいたことでしょう。恐らく、そうした人々が書いた干支木簡が「九州王朝書式木簡」だったのではないかとわたしは想像しています。


第2207話 2020/08/19

滋賀県湖東の「聖徳太子」伝承(5)

 滋賀県湖東の地誌『蒲生郡志』によれば、この地方には聖徳太子の建立とされる寺院が二十以上あり、「願成就寺」の項には全部で四十九寺建立し、当寺がその四十九番目に当たると記されています。このような、ある地域に「聖徳太子」伝承が濃密分布している場合、歴史研究の方法(手続き)として、少なくとも次の三点の可能性を想定しなければなりません。

①近畿天皇家の「聖徳太子(厩戸皇子)」による史実、あるいはその反映。
②九州王朝の天子、阿毎多利思北孤あるいはその太子の利歌彌多弗利の事績が、後世において近畿天皇家の「聖徳太子(厩戸皇子)」伝承に置き換えられた。
③地元の寺院などの「格」を上げるために造作された。

 滋賀県は九州から遠く離れた地であり、『日本書紀』にも記されていない湖東の伝承は③のケースではないかと、当初、わたしはとらえていましたが、本シリーズで紹介した近年の出土例や発見により、今では②の可能性が高いと考えています。他地域の「聖徳太子」伝承を学問的に研究するうえでも、湖東の事例は貴重です。そして、その研究方法や成果は七世紀初頭の九州王朝の実態解明に役立つはずです。


第2206話 2020/08/18

滋賀県湖東の「聖徳太子」伝承(4)

 本シリーズ〝滋賀県湖東の「聖徳太子」伝承〟では近江における九州王朝との関係を示唆する同時代の遺物・遺構を紹介してきました。今回は後代成立史料を根拠とする考察を紹介します。
 滋賀県湖東における九州王朝の影響について、「洛中洛外日記」809話(2014/10/25)〝湖国の『聖徳太子』伝説〟で触れたことがあります。湖東には聖徳太子の創建とするお寺が多いのですが、現在の研究状況、たとえば九州王朝による倭京二年(619)の難波天王寺創建(『二中歴』所収「年代歴」)や前期難波宮九州王朝複都説、白鳳元年(661)の近江遷都説、正木裕さんの九州王朝系近江朝説などの九州王朝史研究の進展により、湖東の「聖徳太子」伝承も九州王朝の天子・多利思北孤による「国分寺」創建という視点から再検討する必要があります。
 中でも注目されるのが、聖徳太子創建伝承を持つ石馬寺(いしばじ、東近江市)です。石馬寺には国指定重要文化財の仏像(平安時代)が何体も並び、山中のお寺にこれほどの仏像があるのは驚きです。同寺のパンフレットには推古二年(594)に聖徳太子が訪れて建立したとあります。この推古二年は九州年号の告貴元年に相当し、九州王朝の多利思北孤が各地に「国分寺」を造営した年です。このことを「洛中洛外日記」718話(2014/05/31)〝「告期の儀」と九州年号「告貴」〟に記しました。
 たとえば、九州年号(金光三年、勝照三年・四年、端政五年)を持つ『聖徳太子伝記』(文保2年〔1318〕頃成立)には、告貴元年甲寅(594)に相当する「聖徳太子23歳条」に「六十六ヶ国建立大伽藍名国府寺」(六十六ヶ国に大伽藍を建立し、国府寺と名付ける)という記事がありますし、『日本書紀』の推古二年条の次の記事も九州王朝による「国分寺(国府寺)」建立詔の反映ではないでしょうか。

 「二年の春二月丙寅の朔に、皇太子及び大臣に詔(みことのり)して、三宝を興して隆(さか)えしむ。この時に、諸臣連等、各君親の恩の為に、競いて佛舎を造る。即ち、是を寺という。」『日本書紀』推古二年(594)条

 この告貴元年(594)の「国分寺」創建の一つの事例が石馬寺ではないかと考えています。本堂には「石馬寺」と書かれた扁額が保存されており、「傳聖徳太子筆」と説明されています。石馬寺には平安時代の仏像が現存していますから、この扁額が六世紀末頃のものである可能性もありそうです。炭素同位体年代測定により科学的に証明できれば、九州王朝の多利思北孤の命により建立された「国分寺」の一つとすることもできます。ただし、近江国府跡(大津市)と離れていることが難題です。


第2204話 2020/08/15

滋賀県湖東の「聖徳太子」伝承(2)

 滋賀県甲良町の西明寺から飛鳥時代の絵画が「発見」されたことにより、湖東における九州王朝(多利思北孤)との関係やその痕跡の存在についてわたしは確信を深めました。
 『蒲生郡志』などに記された記事だけでは、後世における造作や誤伝の可能性を払拭できず、仮説の根拠としては不安定ではないかと危惧していました。しかし、今回のように飛鳥時代に遡る遺物や遺跡が確認できたことにより、仮説の信頼性を高めることが期待できます。そこで、近江における九州王朝との関係を示唆する遺物などの実証的データをまとめてみました。管見では下記の通りです。

(1)近江の崇福寺と太宰府の観世音寺、飛鳥の川原寺から七世紀後半の同笵軒丸瓦(複弁八葉蓮華文軒丸瓦)が出土している。

(2)滋賀県栗東市の蜂屋遺跡から法隆寺式瓦が大量出土した。
 創建法隆寺(若草伽藍。天智9年〔670〕焼失)と同笵の「忍冬文単弁蓮華文軒丸瓦」2点(7世紀後半)が確認された。現・法隆寺(西院伽藍。和銅年間に移築)式軒瓦も50点以上確認された。

(3)甲良町西明寺本堂内陣の柱から飛鳥時代の仏画(菩薩立像)を発見。

(4)九州王朝の複都と見られる前期難波宮には、東西二カ所に方形区画があり、その中から八角堂跡が出土している。近江大津宮遺跡からも東西二カ所に方形区画が出土している。この東西二つの方形区画を配置するという両者の平面図は似ており、これは他の王宮には見られない特徴である。

(5)日野町の鬼室集斯神社に九州年号「朱鳥三年戊子」(688年)銘を持つ「鬼室集斯墓碑」が現存する。


第2203話 2020/08/14

滋賀県湖東の「聖徳太子」伝承(1)

 「洛中洛外日記」2201話(2020/08/10)〝滋賀県甲良町西明寺から飛鳥時代の絵画「発見」〟で、滋賀県湖東には九州王朝との関係をうかがわせる旧跡や伝承が多いことを紹介しました。そこで、「市民の古代研究会」時代に行った滋賀県での九州年号調査の報告を紹介します。それは、わたしが同会に入会して間もない頃、『市民の古代研究』(市民の古代研究会編、隔月発行)で発表した「九州年号を求めて」という論稿です。
 同稿は31歳のときに書いたもので、研究レベルも文章も稚拙ですがそのまま転載します。当時は全国の「市民の古代研究会」会員が各地の九州年号を探して報告し、その原型や年号立てについて論争が行われていた、とても牧歌的な時代でした。その数年後、和田家文書偽作キャンペーンが勃発し、古田先生や「市民の古代研究会」が激しいバッシングに曝されることになります。その結果、同会が分裂に至るなどとは当時のわたしは思いもしませんでした。言わば、古代史研究初心者のときに書いた、懐かしい論稿です。なお、末尾にある『市民の古代』は市民の古代研究会の機関誌(新泉社)です。

 【以下、転載】『市民の古代研究』19号(1987年1月)
「九州年号を求めて 滋賀県の九州年号②(吉貴・法興編)」
                京都市南区 古賀達也
 (前略)
 さて、私は次の目的地近江八幡市の長命寺にむかった。動機は長命寺の「長命」が九州年号の「命長」一説には「長命」と関係があるかもしれないので調べてみようということだった。長命寺は西国第三十一番札所として有名で、聖徳太子の創立とされ太子自作の千手十一面観音がまつられている。寺のパンフレットには九州年号との関係は見られなかったので蒲生郡志を調べてみたが、わからなかった。ただ、この地方に聖徳太子の建立とされる寺院が多いことに驚いた。郡志に見えるだけでも二十以上あり、「願成就寺」の項には全部で四十九寺建立し、当寺がその四十九番目に当たるとあった。更に驚いたことに四十九寺の一つ「長光寺」の縁起には法興元廿一年壬子の年二月十八日に太子が后と共にこの地に来て長光寺を建立したと記されている。更に『箱石山雲冠寺御縁起』には推古天皇六年(吉貴五年と記す)に太子創建とあることを郡志は記している。思わぬ所から二つの九州年号を見い出したが、「法興元廿一年壬子」については本来の九州年号ではなさそうだ。何故なら「法興元世」という年号は法隆寺釈迦三尊の光背銘にある「法興元卅一年」を「法興元世一年」と読みちがえたことから生じた誤年号とも言うべきものと考えられるからだ。しかもこの縁起の作者は「法興元世」を太子の年令を表す年号として使用していると思われる。ちなみに太子二十一才(注1)の干支は壬子であり「法興元廿一年壬子」と一致する。『雲冠寺縁起』の「吉貴五年」については郡志の内容からは判断しかねる。縁起そのものを実見したいものだ。
 以上の様に滋賀県の湖東には聖徳太子創建あるいは太子自作の仏像と言われるものが存在し、しかも九州年号まで見られる。しかしそれが歴史事実とは言いがたいようだ。たとえば長命寺の太子自作とされている千手十一面観音も『滋賀県文化財目録』によると平安期の作となっている。
 このことと関連して、以前平野雅曠氏が季刊『邪馬台国』六号で出された「聖徳太子は熊本の近くに都した倭国王の別名だった」という説も、太子創建の寺院、自作の仏像があり九州年号もあることを根拠とされていたが、そうすると滋賀も同様となってしまう。やはり後代の人が太子信仰を利用して寺院の格を上げる為に縁起等を造作したと考えるのが自然ではあるまいか。少なくとも滋賀の場合はそう思っている。引き続き検討してみたい課題だ。
(注1)ここでの太子の年令は『市民の古代』第四集の小山正文氏の論文「真宗と九州年号」を参照した。それによると太子二十一才壬子は太子の生没年を五七二~六二二とする資料を基にした場合に当てはまるケースとなる。


第2201話 2020/08/10

滋賀県甲良町西明寺から飛鳥時代の絵画「発見」

 本日の京都新聞web版によると、滋賀県甲良町の古刹西明寺本堂(国宝、鎌倉時代)の柱に書かれていた菩薩立像が飛鳥時代(592―710)に描かれたもので、国内最古級の絵画であることが判ったとのこと。湖東の甲良町には天武の奥さんで高市皇子の母である尼子姫が筑後の高良大社の神を勧請したとされる高良神社(御祭神は武内宿禰)があり、以前から注目してきたところです(「洛中洛外日記」147話 2007/10/09〝甲良神社と林俊彦さん〟参照)。
 湖東には九州王朝との関係をうかがわせる旧跡や伝承(「洛中洛外日記」2014/10/25 〝湖国の「聖徳太子」伝説〟参照)があり、近年は創建法隆寺(若草伽藍。天智9年〔670〕に焼失)と同范瓦(忍冬文単弁蓮華文軒丸瓦)が栗東市の蜂屋遺跡から出土しています(「洛中洛外日記」~80話 2018/11/03-4 滋賀県蜂屋遺跡出土の法隆寺式瓦1-2参照)。
 今回「発見」された仏画が九州王朝の時代である七世紀に遡るのであれば、九州王朝や多利思北孤との関係を考えてみる必要がありそうです。

【転載】京都新聞社 2020/08/10 16:57
1300年以上前の絵画を「発見」、日本最古級か
黒くすすけた柱から赤外線撮影で確認 滋賀・甲良の寺

 湖東三山の一つ、西明寺(滋賀県甲良町池寺)の本堂内陣の柱絵を調査・分析していた広島大大学院の安嶋(あじま)紀昭教授(美術学史)は9日、絵は飛鳥時代(592―710)に描かれた菩薩(ぼさつ)立像で、描式から日本最古級の絵画とみられると発表した。834年とされる同寺の創建前で、創建時期が大きくさかのぼる可能性があるとも指摘した。
 菩薩立像は、本堂内陣の本尊・薬師如来像前にある西柱と南柱に描かれていた。柱は黒くすすけ、これまで何が描かれているのか分からなかったが、昨年6月、周囲の仏像を移動させ、高さ3~4メートルに描かれた絵を赤外線で撮影することができた。
 分析の結果、両柱(直径約45センチ)には、菩薩立像が4体ずつ描かれていた。薬師如来像をたたえるように力強い筆致で、背景には雲塊や唐草文もある。青や緑、朱などの顔料が使われ、当時は極彩色だったという。
 安嶋教授によると、像は長身で細面で線が太い。耳の中や手のひらの描き方は単調で、隋代(581-618)の描法の特徴を表している。飛鳥時代に描かれた法隆寺の国宝・玉虫厨子(たまむしのずし)の扉の菩薩像に酷似しているといい、「絵画としては日本最古級」とした。寺周辺には東大寺の彩色を担当した渡来系の画工集団・簀秦画師(すのはたのえし)が居を構えていたことから、「彼らによる仕事では」とも推測した。
 西明寺の中野英勝住職は「本堂自体が国宝だが、絵画にも注目してほしい」と話した。


第1900話 2019/05/14

百舌鳥・古市古墳群の被葬者は誰か

 日野智貴さんとの「河内戦争」問答で、日野さんの青年らしい鋭い指摘を受けて、わたしは「大和朝廷」前史というテーマをより深く考える必要性を感じました。その一つとして近畿の巨大前方後円墳の存在をどのように考えるのかがあります。今朝のテレビニュースでは百舌鳥・古市古墳群が世界遺産登録へ前進したと言われています。こうしたことにより、「令和」改元により高まった日本古代史への社会の関心がより学問的に深まることを願っています。
 過日、京都市上七軒で桂米團治さんにお会いしたとき、百舌鳥・古市古墳群について話を聞かせて欲しいと仰っていましたので、古田学派でも研究が進展しつつあると返答しました。「古田史学の会」では、冨川ケイ子さん(古田史学の会・全国世話人、相模原市)の論稿「河内戦争」(『盗まれた「聖徳太子」伝承』所収)の発表により、河内を中心とする八カ国の権力者としての捕鳥部萬(ととりべのよろず)の存在が注目されています。その後、冨川説を発展させるような研究として服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)により、河内の巨大前方後円墳を築造した勢力は近畿天皇家ではなく在地豪族の捕鳥部萬らではなかったかとされ、被葬者も近畿天皇家の「天皇」たちではなく、捕鳥部萬らの先祖ではないかとする仮説が発表されました。
 とても興味深い仮説ですが、学問的に成立するものかどうか服部さんの研究の進展を見守っている状況です。(つづく)


第1899話 2019/05/12

日野智貴さんとの「河内戦争」問答(8)

 わたしからの5回の返答を終えて、その後の問答です。もちろん、この問答で決着がついたわけでも両者が十分に納得したわけでもありません。しかし、互いの意見交換により双方の認識が深まり、新たな課題や問題意識の発展へと繋がりました。
 学問論争とは互いに高め合うことが重要です。わたしも若い日野さんからの鋭い質問と指摘を得て、「大和朝廷」前史の研究という新たなテーマへと進むきっかけを得ました。また、日野さんも「河内政権」論に関する論文を書かれるとのことなので、『古田史学会報』への投稿を要請しました。日野さんに感謝します。

2019.05.12【日野さんからの最後のコメント】

 「河内の巨大古墳の造営者」が「近畿天皇家と対等な地方豪族」であったと仮定すると、関西八国の支配者だという文献の解釈結果と矛盾します。
 近畿天皇家は八か国にも及ぶ支配領域を持っていなかったであろうことは、古賀さんも論証されているところですから。「対等」であれば、同じぐらいの力を持っていないと可笑しいわけです。
 河内の政権についての仮説は、確かに今の古田学派の中では主流派になりつつありますが、現段階では確実性が低すぎます。存続期間と勢力範囲が明確ではない政権、ということです。

2019.05.12【古賀の最後の返答】

 「対等」と述べたのは、共に九州王朝の配下の地方豪族という意味でのことです。実勢力としては河内の勢力の方が大きいと思います。ただ、「関西八カ国」の領域がまだ特定できていません。そのため、その勢力範囲については引き続き検討が必要です。その点、日野さんの危惧には同意します。


第1898話 2019/05/12

日野智貴さんとの「河内戦争」問答(7)

 日野さんへの返答の5回目を転載します。

2019.05.11【日野さんへの返答⑤】

 日野さんからのご質問がきっかけとなって、701年の王朝交替により成立した「大和朝廷」の前史について考察を続けています。近年の研究では古墳時代以前の大和には、たとえば筑前の那珂遺跡や難波の上町台地のような都市的景観を持つ大規模な集落遺跡がないとされています。「古田史学の会」関西例会でも原幸子さん(古代大和史研究会・代表)からも何度か同様の指摘が発表されてきました。
 そうしたこともあり、飛鳥時代には飛鳥の地を中心に宮殿遺構や寺院跡の出土が知られているのですが、それよりも前の時代には王権の存在を示唆するような大型集落(都市)遺構は大和にはないように思われるのです。そのような時期に近畿天皇家が山城国まで支配していたとは考えられないとわたしは思うのです。
 6世紀末頃から7世紀初頭になってようやく奈良盆地の南隅に割拠するようになった近畿天皇家が山城国までも支配したのはやはり壬申の乱以降ではないでしょうか。この点、天智の「近江朝廷」については特別のなものとして、引き続き検討が必要です。いずれにしても、この「大和朝廷」前史について、『日本書紀』のイデオロギーや既存学説による先入観を排して、改めて多元史観・九州王朝説により研究する必要を日野さんへの返答を書いていて感じました。
 わたしからの返答は以上で一旦終わらせていただきますので、日野さんからの反論や再質問をお願いします。