古賀達也一覧

古田史学の会代表古賀達也です。

第2424話 2021/04/06

『俾弥呼と邪馬壹国』読みどころ (その2)

〝『「邪馬台国」はなかった』のすすめ〟

              を部分転載

 『俾弥呼と邪馬壹国』(『古代に真実を求めて』24集)の「巻頭言」草稿の後半部分にあたるのが〝『「邪馬台国」はなかった』のすすめ〟です。副題として「―古田武彦氏が用いた論理と系―」があったのですが、〝系〟という言葉の意味が分かりにくいのではとの懸念もあって、削除しました(本文中には使用しました)。この〝系〟という概念は、ある頃から古田先生が論証方法の説明に使用され始めたものです。わたしの本職の有機合成化学では一般的に使用される用語ですが、人文科学ではあまり見かけない言葉(概念)かもしれません。
 以下、〝『「邪馬台国」はなかった』のすすめ〟を部分転載します。

『「邪馬台国」はなかった』のすすめ
            古賀達也

 『「邪馬台国」はなかった』をまだ読まれていない方へ

 『「邪馬台国」はなかった』をこれから初めて読まれる方は、同書の結論だけではなく、その結論を導きだす実証的な学問の方法にきっと驚かれるはずだ。たとえば、『三国志』倭人伝に記された倭国の女王卑弥呼(ひみか)が都とした国が「邪馬臺(やまたい)国」ではなく、邪馬壹(やまい)国と倭人伝原文にはあること。そして、この「壹」は〝字形が似ている「臺」の字の誤り〟としてきた従来の「邪馬臺(台)国」説に対して、著者は『三国志』の「壹」と「臺」の全用例を調査され、両者が混同されたり、取り違えて使用された例が無いことを明らかにした。この『三国志』内の特定文字の全数調査という、それまで誰も行ってこなかった画期的かつ実証的な方法を駆使して、倭人伝研究を異次元の高みへと古田武彦氏は引き上げた。
 あるいは、『三国志』で使用されている距離単位「里」の全調査により、一里が約七六メートルであることを実証的につきとめ、倭国の都である邪馬壹国(女王国)の中心地が博多湾岸であることを算出した。ここでも、従来説が採用してきた一里約四三五メートルの漢代の「長里」ではなく、一里約七六メートルの「短里」で『三国志』が書かれていることを実証的な方法により明らかにした。後に、この短里の存在が中国最古の天文算術書『周髀算経』でも確認された。
 このように学問の方法を示しながら結論へと導く『「邪馬台国」はなかった』は、優れた推理小説を読むような、あるいは理知的な自然科学論文を読むような感動を読者に与えるであろう。わたし自身も、そうした感動をもって同書を読み終えた多くの読者の一人だ。あなたが古代に真実を求めるのであれば、「古田武彦の世界」(古田史学)への扉をぜひ開けていただきたい。その体験は、あなたのこれからの人生を変えることになるかもしれない。

 『「邪馬台国」はなかった』を既に読まれた方へ

 あなたの書架に『「邪馬台国」はなかった』が既にあれば、冒頭の「はじめに」を開いてみて欲しい。その末尾にある次の文に、同書における学問の方法(論理とその系)の出発点が示し尽くされている。

 「しかし、だれも本当に信じなかった。『三国志』魏志倭人伝の著者陳寿のことを。
 シュリーマンがホメロスを信じたように、無邪気に、そして徹底的に、陳寿のすべての言葉をまじめにとろうとした人は、この国の学者、知識人の中にひとりもいなかったのである。(中略)
 はじめから終わりまで陳寿を信じ切ったら、どうなるか。
 その明白な回答を、読者はこの本によって、わたしからうけとるであろう。」『「邪馬台国」はなかった』朝日新聞社版、四~五頁

 「陳寿を信じとおす」という学問の方法

 「陳寿を信じとおす」という学問の方法とは、著者が東北帝国大学法文学部で村岡典嗣(つねつぐ)氏(一八八四~一九四六)から学んだフィロロギーに他ならない。(中略)
 論理的に考えて、おおよそ以上のような情報の移動・交信という背景のうえに倭人伝は書かれている。従って、「陳寿を信じとおす」とは、こうした論理展開(いわゆる「系」)を前提として成立した陳寿の認識(倭人伝原文)を再認識するということであり、それは倭人伝読解において、「すなおに理性的に原文を理解」することに他ならない。

 論理の導く所へ行こうではないか

 「はじめから終わりまで陳寿を信じ切った」結果得られた邪馬壹国説、短里説、博多湾岸説、二倍年暦説、倭人の太平洋横断説などが、従来の大和中心史観(「邪馬台国」畿内説)と異なっていようが一致していようが、おそらく著者にとってはどうでもよいことであったはずだ。なぜなら、わたしには古田氏に私淑した三十年のなかで、幾度となく聞かされてきた次の言葉があったからだ。
 いわく、「論理の導く所へ行こうではないか、たとえそれがいかなるところへ到ろうとも」。いわく、「学問は実証よりも論証を重んずる」。いわく、「論証は学問の命」。
 これらの言葉は古田氏の生涯を貫いた学問研究の道標だ。『「邪馬台国」はなかった』においても、巻末の「あとがき」冒頭に次の文が記されている。(中略)
 この「ここをつらぬく論証の連鎖は、わたしの生の証(あかし)である」という言葉に、先の「論証は学問の命」と通底する著者の気迫と学問精神がうかがえるのではあるまいか。であれば、「陳寿を信じとおす」という学問の方法の行き着く先がどこであっても、著者が怯(ひる)むことはありえない。著者を師と仰ぎ、本書を上梓したわたしたちもまた、同様である。(後略)


第2423話 2021/04/05

『俾弥呼と邪馬壹国』読みどころ (その1)

「巻頭言 読者の運命が変わる瞬間(とき)」を転載

 先月末に刊行した『俾弥呼と邪馬壹国』(『古代に真実を求めて』24集)の読みどころをシリーズで紹介します。まずはわたしが書いた「巻頭言 読者の運命が変わる瞬間(とき)」を転載します。本書の構成や位置づけを説明した短文です。
 元々は後半部分の〝『「邪馬台国」はなかった』のすすめ〟と一体をなすものでしたが、編集部からのご意見により分割しました。特に茂山憲史さんからは、「もっと情熱的な文章に」と叱咤していただいたことが思い出されます。

〔巻頭言〕読者の運命が変わる瞬間(とき)
     古田史学の会 代表 古賀達也

 読む人の運命を劇的に変える本があります。もし、あなたが日本古代史に関心があるならば、次の本を心からお薦めします。古田武彦著『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』(朝日新聞社、一九七一年。ミネルヴァ書房より復刻)です。
 昭和四六年(一九七一)に発行され、ベストセラーとなった著者の古代史処女作である同書の発刊五十周年を記念して、わたしたちは本書『卑弥呼と邪馬壹国 ―古田武彦『「邪馬台国」はなかった』発刊五十周年―』(『古代に真実を求めて』二四集)を上梓しました。収録した特集論文は、いずれも「古田史学の会」の研究者による最新の研究成果から精選されたもので、先に出版した『邪馬壹国の歴史学』(ミネルヴァ書房、二〇一六年)の続編の性格も持っています。この機会に併せ読んでいただければ幸いです。
 本書の特集は総論・各論・コラムからなり、総論では『「邪馬台国」はなかった』発刊以来の歴史、著者の学説と学問の方法、提起された諸仮説の発展の高みを概観できます。各論では、その高みから諸仮説の深層をのぞき見ることができます。そして、コラムにより諸仮説の広がりを感じ取ることができるよう、工夫がこらされています。
 古田武彦氏は二〇一五年十月に鬼籍に入られましたが(享年八九歳)、その学問と学説は本書執筆陣に脈々と受け継がれています。本書を読まれたあなたにも、真実を愛する精神と情熱を共有できることでしょう。そのとき、あなたの運命は大きく変わるはずです。わたしたちがそうであったように。
  〔令和二年(二〇二〇)十二月一日、筆了〕


第2422話 2021/04/02

傷だらけの法隆寺釈迦三尊像(3)

 法隆寺釈迦三尊像の光背などが大きく傷んでいることを説明しましたが、この事実は法隆寺が私寺か国家的官寺かの論争にも関係しそうです。「洛中洛外日記」2265~2299話(2020/10/18~2020/11/19)〝新・法隆寺論争(1~8)〟で紹介しましたが、若井敏明さんは法隆寺は斑鳩の在地氏族による私寺とする説を発表しました(注①)。その概要と根拠は次のような点です。

〔概要〕
 法隆寺は奈良時代初期までは、国家(近畿天皇家)からなんら特別視されることのない地方の一寺院であり、その再建も斑鳩の地方氏族を主体として行われたと思われ、天平年間に至って「聖徳太子」信仰に関連する寺院として、特別待遇を受けるようになった。その「聖徳太子」信仰の担い手は宮廷の女性(光明皇后・阿部内親王・無漏王・他)であって、その背景には法華経信仰がみとめられる。

〔根拠〕
(1)『法隆寺伽藍縁起幷流記資材帳』によれば、大化三年九月二一日に施入され、天武八年に停止されているが、いずれも当時の一般寺院に対する食封の施入とかわらない。これを見る限り、法隆寺は国家(近畿天皇家)から特別な待遇をうけてはいない。
(2)食封停止は、法隆寺の再建が国家(同上)の手で行われてなかった可能性が強いことを示している。
(3)『法隆寺伽藍縁起幷流記資材帳』によれば、奈良時代初期までの法隆寺に対する国家(近畿天皇家)の施入には、持統七年、同八年、養老三年、同六年、天平元年が知られるが、これらは特別に法隆寺を対象としたものではなく、『日本書紀』『続日本紀』に記されている広く行われた国家的儀礼の一環に過ぎない。
(4)『日本書紀』が法隆寺から史料を採用していないことも、同書が編纂された天武朝から奈良時代初期にかけて法隆寺が国家(同上)から特別視されていなかった傍証となる。特に、「聖徳太子」の亡くなった年次について、法隆寺釈迦三尊像光背銘にみえる(推古三十年・622年)二月二二日が採られていないことは、「聖徳太子」との関係においても法隆寺は重要な位置を占めるものという認識がなされていなかったことを示唆する。

 以上のように若井さんは論じられ、法隆寺再建などを行った在地氏族として、山部氏や大原氏を挙げます。この若井説に対して、田中嗣人さんから厳しい批判がなされました。
 田中さんは、「法隆寺の建築技術の高さ、仏像・仏具その他の文物の質の高さ(一例をあげれば、金銅潅頂幡や伝橘夫人念持仏の光背などは当時の技術の最高水準のもので、埋蔵文化財など当時のものとの比較からでも充分に理解される)から言って、とうてい山部氏や大原氏などの在地豪族のみで法隆寺の再興がなされたものとは思わない。」(注②)とされました。
 本シリーズで説明したように、釈迦三尊像の光背の飛天は失われ、その上部は折れ曲がっています。もし法隆寺が国家的な官寺であれば飛天の修復くらいはできたはずです。それがなされず、脇侍の左右入れ替えで済まされているという現状は、若井さんの私寺説に有利です。
 他方、田中さんが官寺説の根拠とした「法隆寺の建築技術の高さ、仏像・仏具その他の文物の質の高さ」という事実は、九州王朝による官寺とその国家的文物が大和朝廷以前に存在し、それらが移築後(王朝交替後の八世紀初頭)の法隆寺に持ち込まれたとする多元史観・九州王朝説を支持するものに他なりません。今、斑鳩にある法隆寺と釈迦三尊像こそ、九州王朝の実在を証言する歴史遺産なのです。

(注)
①若井敏明「法隆寺と古代寺院政策」『続日本紀研究』288号、1994年。
②田中嗣人「鵤大寺考」『日本書紀研究』21冊、塙書房、1997年。


第2421話 2021/04/01

傷だらけの法隆寺釈迦三尊像(2)

 法隆寺金堂の釈迦三尊像が傷んでいることを古田先生からうかがっていましたが、脇侍が左右反対に置かれていることも不思議でした。更に光背も大きく傷んでおり、本来その外縁にあった飛天(注①)が失われていたことを最近になって知りました。
 ブログ「観仏日々帖」(注②)によれば、同光背周縁に長方形(幅約8mm、縦約25mm)の枘(ほぞ)穴が左右に各々13個ずつ穿たれており、本来は飛天が装飾されていたと考えられています(注③)。その根拠として、国立東京博物館の「法隆寺献納宝物の甲寅銘光背」をみると、周縁左右に各7個の飛天が取り付けられており、中国、竜門石窟の北魏式仏像の光背も、周縁を飛天で囲まれたものが一般的であることを指摘されています。そして、光背の飛天復原が東京芸術大学で行われたことを紹介され、その写真も掲示されています。

《以下、「観仏日々帖」より転載》
【復元制作された光背周縁の飛天~東京藝術大学の「クローン文化財」制作プロジェクト】
 2017年。周縁の飛天を再現した、大光背の復元制作が行われました。東京藝術大学が取り組んでいる文化財の超精密複製、通称「クローン文化財」制作プロジェクトによって、法隆寺釈迦三尊像のクローン文化財が制作されたのです。その制作にあたって、大光背周縁の飛天も、甲寅銘光背などを参考にして、復元制作されたのでした。
 このクローン文化財・釈迦三尊像復元像は、2017年秋に東京藝術大学美術館で開催された、シルクロード特別企画展「素心伝心~クローン文化財 失われた刻の再生」(各地を巡回)などで展示されましたので、ご記憶のある方も多いのではないかと思います。
《転載おわり》

 この飛天が復原され、脇侍が本来の位置に戻された〝クローン釈迦三尊像〟の写真を見て、脇侍が左右逆に配置された理由がようやくわかりました。それは光背と三尊像の左右幅バランスの問題だったのです。すなわち、飛天が復原された光背は一回りも二回りも大きくなり、その大きな本来の光背であれば、脇侍裳裾の長い方が外側になる本来の配置により、左右の幅が大きな光背にバランス良く収まります。ところが、飛天が失われた現状の光背では、脇侍の裳裾が左右に大きくはみ出し、見るからにバランスが良くないのです。そこで、短い裳裾が外側になるよう、左右逆に脇侍を配置すれば、飛天がない現状の光背の幅に脇侍の裳裾が収まるのです。
 従来、脇侍が左右逆に置かれた理由を、九州王朝の仏像を奪い、法隆寺金堂に納めた大和朝廷側の人々が、本来の正しい脇侍の配置を知らなかったためと、わたしは理解してきました。しかし、それは誤解でした。移築された法隆寺金堂に、飛天を失った光背と釈迦三尊像を置いたとき、その美的なバランスの悪さを取り繕うために、脇侍を左右逆に配するというアイデアを採用したのではないでしょうか。これは、移築・移転に携わった技術者たちの優れた美的センスのなせる技だったのです。
 なお、この飛天が失われた光背や、二体の脇侍の金箔剥落の大きな差異は、これら仏像の保管状態がかなり劣悪だったことを推測させます。光背に至っては、上部が手前に折れ曲がっており、大きな力が加わったことを示しています。この状況は同釈迦三尊像の元々置かれていた場所が、遠く離れた九州王朝の都太宰府付近だったのか、あるいは比較的近距離にある難波複都だったのかという未解決のテーマに対し、何らかのヒントになるかもしれません。よく考えてみたいと思います。

(注)
①仏教で諸仏の周囲を飛行遊泳し、礼賛する天人で、仏像の周囲(側壁や天蓋)に描写されることが多い。〈ウィキペディアによる〉
②https://kanagawabunkaken.blog.fc2.com/blog-entry-204.html
③平子鐸嶺「法隆寺金堂本尊釈迦佛三尊光背の周囲にはもと飛天ありしというの説」『考古界』6-9号、1907年(後に『仏教芸術の研究』所収)。


第2420話 2021/03/24

傷だらけの法隆寺釈迦三尊像(1)

 過日、水野孝夫さん(古田史学の会・顧問、前代表)のお宅にうかがい、多くの書籍をいただきました。その中に『国宝法隆寺金堂展』(朝日新聞社、平成20年)がありました。同書は平成20年6~7月に奈良国立博物館で開催された「国宝法隆寺金堂展」の図録で、多くのカラー写真を含む豪華本です。
 法隆寺金堂内の仏像などを対象とした図録ですから、釈迦三尊像や薬師如来像などのカラー写真があり、その状態が比較的よくわかります。ある意味では、法隆寺の暗い金堂内で離れた位置から見るよりも、仏像の細部がよくわかります。そこで思い起こしたのが、あるとき少人数での会話で、古田先生がこの釈迦三尊像について、「写真で見るときれいですが、実物は結構傷んでいます」と仰っていたことです。
 図録の写真には、釈迦像のお顔を左右両面から撮影したものもあり、表面の金箔が剥がれ落ちている状況などがはっきりとわかります。更に、二体の脇侍(注①)ですが、向かって左側のものは表面の金箔が全体に残っていますが、右側の方はほとんど残っていないように見えます。これも不思議な現象です。同時期に造られたのであれば、同じような経年劣化をするはずですが、表面の金箔に関しては全く異質です。また、この脇侍は左右が逆に配置されていることも知られており、これもおかしなことです。
 古田学派では法隆寺の金堂・五重塔などは、六世紀末頃に建立された別寺院が移築されたものと考えられており、釈迦三尊像は九州王朝の天子、阿毎多利思北孤のために造られたもので、これも移築時に持ち込まれたとされています。移築元寺院がどこにあったのかについては、当初、太宰府観世音寺が八世紀初頭に移築されたとする説(注②)が発表されましたが、それについて賛否両論が出され(注③)、移築元寺院がどこにあったのかは未だ特定できていません。
 脇侍が左右逆に配置されていることも、九州王朝の寺院から移築時に持ち込まれたとき、本来の配置を知らなかったた大和朝廷側が誤ったものと考えられてきました。しかし、脇侍の衣の裾は左右で長さが異なっており、長く伸びている方が釈迦像の左右の外側になるのが本来の配置であり、現状は長く伸びた裾が両脇侍とも釈迦像の台座に隠れてしまっています。
 寺院を移築できるほどの技術者集団の誰一人として、これだけ明瞭な差異を持つ脇侍の配置を間違うとは考えにくいのではないでしょうか。(つづく)

(注)
①釈迦の脇侍は文殊菩薩と普賢菩薩とされている。
②米田良三『法隆寺は移築された ─太宰府から斑鳩へ』1991年、新泉社刊。
③大越邦生「法隆寺は観世音寺からの移築か(その一)(その二)」『多元』43・44号、2001年6月・8月。
 川端俊一郎「法隆寺のものさし─南朝尺の「材と分」による造営そして移築」『北海道学園大学論集』第108号、2001年6月。
 飯田満麿「法隆寺移築論争の考察─古代建築技術からの視点─」『古田史学会報』46号、2001年10月。
 古賀達也「法隆寺移築論の史料批判 ─観世音寺移築説の限界─」『古田史学会報』49号、2002年4月。
 古賀達也「よみがえる倭京(太宰府) ─観世音寺と水城の証言─」『古田史学会報』50号、2002年6月。


第2418話 2021/03/22

七世紀「天皇」「飛鳥」金石文の紹介

 一昨日の関西例会で、わたしは〝七世紀「天皇」金石文と『日本書紀』の対応〟というテーマを発表させていただきました。そのレジュメに、飛鳥・藤原木簡データとともに下記の七世紀「天皇」「飛鳥」金石文を紹介しました。これらの史料事実・状況に基づいて実証的な説明と論議を行うことが目的でした。そうしたわたしの意図を参加者の皆さんにもご理解いただき、とても有意義な学問論争と質疑応答ができました。例会に参加された皆さんに感謝いたします。
 質疑応答では、わたしの理解不足や誤解などにより、間違った返答もしてしまったようですので、改めて検討しようと思います。みなさんの研究のお役に立てば幸いです。

1. 596年 元興寺塔露盤銘「天皇」(奈良市、『元興寺縁起』所載。今なし)

2. 607年 法隆寺薬師仏光背銘(奈良県斑鳩町)
 池邊大宮治天下天皇 大御身 勞賜時 歳
 次丙午年。召於大王天皇與太子而誓願賜我大
 御病太平欲坐故 将造寺薬師像作仕奉詔 然
 當時。崩賜造不堪 小治田大宮治天下大王天
 皇及東宮聖王 大命受賜而歳次丁卯年仕奉

《通説での要約》用明天皇が病気の時(用明天皇元年、586年)、平癒を念じて寺(法隆寺)と薬師像を作ることを誓われたが、果たされずに崩じた。のち推古天皇と聖徳太子が遺詔を奉じ、推古天皇15年(607年)に建立した。

3. 666年 野中寺弥勒菩薩像台座銘(大阪府羽曳野市)
 丙寅 年四 月大 朔八 日癸 卯開 記柏 寺智 識之 等詣 中宮 天皇 大御 身労 坐之 時誓 願之 奉弥 勒御 像也 友等 人数 一百 十八 是依 六道 四生 人等 此教 可相 之也

4. 668年 船王後墓誌(大阪府柏原市出土、三井高遂氏蔵)
(表) 惟舩氏故 王後首者是舩氏中祖 王智仁首児 那沛故首之子也生於乎娑陀宮治天下 天皇之世奉仕於等由羅宮 治天下 天皇之朝至於阿須迦宮治天下 天皇之朝 天皇照見知其才異仕有功勲 勅賜官位大仁品為第
(裏) 三殯亡於阿須迦 天皇之末歳次辛丑十二月三日庚寅故戊辰年十二月殯葬於松岳山上共婦 安理故能刀自同墓其大兄刀羅古首之墓並作墓也即為安保万代之霊基牢固永劫之寶地也

5. 677年 小野毛人墓誌(京都市出土)
(表) 飛鳥浄御原宮治天下天皇御朝任太政官兼刑部大卿位大錦上
(裏) 小野毛人朝臣之墓営造歳次丁丑年十二月上旬即葬

6. 689年 釆女氏榮域碑(大阪府南河内郡太子町出土。拓本が現存、実物は明治頃に紛失)
 飛鳥浄原大朝庭大弁
 官直大貳采女竹良卿所
 請造墓所形浦山地四千
 代他人莫上毀木犯穢
 傍地也
  己丑年十二月廿五日

7. 686または698年 長谷寺千仏多宝塔銅板(奈良県桜井市長谷寺)
 惟夫霊應□□□□□□□□
 立稱巳乖□□□□□□□□
 真身然大聖□□□□□□□
 不啚形表刹福□□□□□□
 日夕畢功 慈氏□□□□□□
 佛説若人起窣堵波其量下如
 阿摩洛菓 以佛駄都如芥子
 安置其中 樹以表刹量如大針
 上安相輪如小棗葉或造佛像
 下如穬麦 此福無量 粤以 奉為
 天皇陛下 敬造千佛多寳佛塔
 上厝舎利 仲擬全身 下儀並坐
 諸佛方位 菩薩圍繞 聲聞獨覺
 翼聖 金剛師子振威 伏惟 聖帝
 超金輪同逸多 真俗雙流 化度
 无央 廌冀永保聖蹟 欲令不朽
 天地等固 法界无窮 莫若崇據
 霊峯 星漢洞照 恒秘瑞巗 金石
 相堅 敬銘其辞曰
 遙哉上覺 至矣大仙 理歸絶
 事通感縁 釋天真像 降茲豊山
 鷲峯寳塔 涌此心泉 負錫来遊
 調琴練行 披林晏坐 寧枕熟定
 乗斯勝善 同歸實相 壹投賢劫
 倶値千聖 歳次降婁漆菟上旬
 道明率引捌拾許人 奉為飛鳥
 清御原大宮治天下天皇敬造

《大意》文頭の欠損部分は、造仏造塔の発願の次第とその完成について述べたものと推測される。そのあと、「どんな小さな造仏造塔でも、その功徳は絶大である」「このような仏教思想を背景に、千仏多宝仏塔は天皇陛下のために造立した」と述べる。続いて、銅板に描かれた多宝塔などの彫刻内容を解説している。次に、「天皇の徳は弥勒菩薩に等しく、衆生を悟りに導く。その天皇の功績を不朽ならしめんとするために、また、仏教が絶えることのないようにするために堅牢な金石にその銘を刻み、この霊峯をよりどころとして未来まで秘蔵する」とある。
 続いて本文となり、「本銅板の造立が天皇の徳に感じ、帝釈天と霊鷲山の多宝塔がここ豊山に出現した。よって、豊山に来遊して修行し、その功徳に乗じて実相に帰し、ともに現世において諸仏を拝そう」「戌年7月上旬に、僧・道明が80人ほどを率いて、飛鳥浄御原宮に天下を治めている天皇のために造立した」とある。

8. 694年 法隆寺観音像造像記銅板(奈良県斑鳩町)
(表) 甲午年三月十八日鵤大寺德聡法師片罡王寺令弁法師
   飛鳥寺弁聡法師三僧所生父母報恩敬奉觀世音菩薩
   像依此小善根令得无生法忍乃至六道四生衆生倶成正覺
(裏) 族大原博士百済在王此土王姓

9. 700年 那須国造碑(栃木県大田原市)
 永昌元年己丑四月飛鳥浄御原宮那須国造
 追大壹那須直韋提評督被賜歳次庚子年正月
 二壬子日辰節殄故意斯麻呂等立碑銘偲云尓
 仰惟殞公廣氏尊胤国家棟梁一世之中重被貳
 照一命之期連見再甦砕骨挑髄豈報前恩是以
 曾子之家无有嬌子仲尼之門无有罵者行孝之
 子不改其語銘夏尭心澄神照乾六月童子意香
 助坤作徒之大合言喩字故無翼長飛无根更固

《通説による訓みくだし》永昌元年己丑(689)四月、飛鳥浄御原大宮に、那須国造で追大壹の那須直韋提は、評督を賜はれり。歳は庚子に次る年(700)の正月二壬子の日辰節に殄れり。故に意斯麻呂ら、碑銘を立て、偲びて尓か云ふ。仰ぎ惟るに殞公は、廣氏の尊胤にして、国家の棟梁なり。一世之中に重ねて貳照せられ一命之期に連ねて再甦せらる。砕骨挑髄するも、豈に前恩に報いん。是を以て曾子の家に嬌子有ること无く、仲尼の門に罵者有ること无し。行孝の子は其の語を改めず、銘夏尭心、澄神照乾。六月童子、意香助坤。作徒之大、合言喩字。故に、翼無くして長飛し、根无くして更に固まんと。

《古田説による訓みくだし》永昌元年己丑(689)四月、飛鳥浄御原大宮に那須国造追大壹を那須直韋提評督は賜はれり。(以下、同じ)


第2416話 2021/03/21

九州王朝官道「西海道」の終着地

 昨日の関西例会では多くの学問的収穫や気づきがありました。たとえば、九州王朝官道「西海道」の終着地(目的地)について、これまでの研究では「百済国」と考えるのが最も妥当と判断していましたが、その根拠は地理的判断とこうやの宮(福岡県みやま市)の御神像が七支刀を持っていることなどでした(注①)。
 ところが、昨日の服部静尚さんの発表レジュメ「乱れる斉明紀、普通の皇極紀」に斉明紀の概要が列挙されており、その斉明三年是歳条(657年)に「西海使が百済より還り駱駝などを献上した。」との記事がありました。『日本書紀』本文を確認すると次の通りです。

 「西海使小花下阿曇連頰垂・小山下津臣傴僂(くつま)、〔傴僂、此をば倶豆磨と云ふ。〕百済より還りて、駱駝一箇・僂驢(うさぎうま)二箇獻(たてまつ)る。」『日本書紀』斉明三年是歳条

 西海使が百済から帰還したということですから、西海使の目的地は百済国と解さざるを得ません。これは九州王朝時代の記事ですから、九州王朝官道「西海道」の終着地が百済国ということを示しています。ですから、この記事はわたしの仮説(注②)の史料根拠とできそうです。
 なお、『日本書紀』の「西海使」記事は次の通りで、前期難波宮完成後から散見され、「西海使」が唐の天子に「奉対」したという記事もあり、「西海道」終着点の延長線上に「唐国」を加えてよいかもしれません。もちろん、中国大陸上陸後は他国の中の陸路ですから、その部分は「西海道」とは言えません。

【『日本書紀』「西海使」記事】※〔 〕内は細注。
○白雉五年(654年)七月条 「西海使吉士長丹等、百済・新羅の送使と共に、筑紫に泊れり。」
○白雉五年(654年)七月是月条 「西海使等が、唐国の天子に奉對(まうむか)ひて、多(さわ)に文書・寶物得たるを褒美(ほ)めて、小山上大使吉士長丹に授くるに、小花下を以てす。封賜ふこと二百戸。姓を賜ひて呉氏とす。小乙上副使騎士駒に授くるに、小山上を以てす。」
○斉明二年(656年)是歳条 「西海使佐伯連栲繩、〔位階級を闕(もら)せり。〕小山下難波吉士國勝等、百済より還りて、鸚鵡一隻獻(たてまつ)れり。」
○斉明三年(659年)是歳条 「西海使小花下阿曇連頰垂・小山下津臣傴僂(くつま)、〔傴僂、此をば倶豆磨と云ふ。〕百済より還りて、駱駝一箇・僂驢(うさぎうま)二箇獻(たてまつ)る。」
○斉明四年(658年)是歳条 「西海使小花下阿曇連頰垂、百済より還りて言(まう)さく。『百済、新羅を伐ちて還る、時に、馬自づからに寺の金堂に行道(めぐ)る。晝夜息(や)むこと勿(な)し。唯(ただ)し草食(は)む時にのみ止(や)む。』とまうす。〔或本に云はく、庚申の年(660年)に至りて、敵の爲に滅ぼさるる應(きざし)なりといふ。〕」

(注)
①詳細は次の拙稿を参照されたい。
 古賀達也「九州王朝官道の終着点―山道と海道の論理―」『古代に真実を求めて』24集(古田史学の会編、明石書店、2021年)
 「洛中洛外日記」~2014話(2019/10/06-13)〝九州王朝の「北海道」「北陸道」の終着点(1)~(9)〟
②上記拙論では、九州王朝官道の終着点を次のように結論づけた。
【九州王朝(倭国)の七道】(案)
○「東山道」「東海道」→「蝦夷国」(多賀城を中心とする東北地方)
○「北陸道」「北海道」→「粛慎国」(ロシア沿海州と北部日本海域)
○「西海道」→「百済国」(朝鮮半島の西南領域)
○「南海道」→「流求國」(沖縄やトカラ列島・台湾を含めた領域)
○「大海道」(仮称)→「裸国」「黒歯国」(ペルー、エクアドル)


第2414話 2021/03/19

王朝と官道名称の交替(4)

 『日本書紀』天武十四年(685年)九月条の次の記事は重要な問題を秘めています。

 「戊午(十五日)に、直廣肆都努朝臣牛飼を東海使者とす。直廣肆石川朝臣蟲名を東山使者とす。直廣肆佐味朝臣少麻呂を山陽使者とす。直廣肆巨勢朝臣粟持を山陰使者とす。直廣參路眞人迹見を南海使者とす。直廣肆佐伯宿禰廣足を筑紫使者とす。各判官一人・史一人、國司・郡司及び百姓の消息を巡察(み)しめたまふ。」『日本書紀』天武十四年九月条

 使者(巡察使)が派遣された「東海」「東山」「山陽」「山陰」「南海」「筑紫」が、天武の宮殿(飛鳥宮)がある大和を起点にした名称であることは、前話で説明したとおりです。ところが「筑紫」だけは官道名ではなく、もともとあった地名であり、他とは異なっています。『続日本紀』では九州島は「西海道」と命名されているのですが、『日本書紀』には「西海道」という名称は見えません。その理由は次のようなものと思います。

(1)天武十四年(685年)は九州年号の朱雀二年にあたり、九州年号が継続していることから、九州王朝(倭国)は存在している。
(2)従って、倭国の直轄支配領域ともいえる筑紫(九州島)を「西海道」などと呼ぶことは、大義名分上から憚られた。
(3)そのため古くからある「筑紫」を採用し、巡察使を派遣した。

 また、「山陽」「山陰」という方角が付かない名称を採用したのも同様の理由からです。新たに列島の実力者となった天武ら近畿天皇家にとって、九州王朝官道の「東山道」「東海道」の前半部分が、大和よりも西に位置するため、「東」を冠した名称を使用したくなかったのです。そこで、新たに「山陽」「山陰」を制定したものと推察しています。
 「山陽道」「山陰道」は大和の西側にありますから、本来なら「西山道」「西海道」などの名称を天武らは採用したかったのかもしれません。しかし、大義名分上ではまだ列島内ナンバーワンである九州王朝(倭国)に対して憚ったのではないでしょうか。その点、「山陽道」「山陰道」であれば、「都」の位置に対する方角表記ではありませんから、双方が妥協できたものと思われます。いわば両者(新旧両王朝)にとっての〝苦肉の命名〟だったわけです。このように捉えたとき、「七道」の中に「山陽道」「山陰道」という、東西南北が付かない官道名が生まれた理由を説明できるのです。
 ちなみに、「山陽」「山陰」という名称は、『日本書紀』天武十四年条のこの記事が初見で、それぞれ一回限りの登場です。巡察使の存在もこの記事が初見です。すなわち、天武ら近畿天皇家にとっては初めての国内視察団派遣だったと思われます。なお、「西海道」は『続日本紀』の大宝元年(701年)八月条の次の記事が初見です。

 「戊申(8日)、明法博士を六道〔西海道を除く。〕に遣わし、新令を講(と)かしむ。」『続日本紀』大宝元年八月条 ※〔〕内は細注。

 この年、王朝交替が実現し、大和朝廷は最初の年号「大宝」を建元していますが、これは西海道以外の六道に『大宝律令』講義のために明法博士を派遣したという記事です。なぜ、西海道(筑紫)が対象から除かれたのかは通説では説明できませんが、多元史観・九州王朝説であれば、〝誕生したばかりの新王朝にとって、旧王朝の影響力が色濃く残っていた筑紫諸国に派遣することを憚った〟と説明することが可能です。そして、この二年後には七道全てに大和朝廷は巡察使を派遣します。

 「甲子(2日)、正六位下藤原朝臣房前を東海道に遣わす。従六位上丹治比真人三宅麻呂を東山道。従七位上高向朝臣大足を北陸道。従七位下波多真人余射を山陰道。正八位上穂積朝臣老を山陽道。従七位上小野朝臣馬養を南海道。正七位上大伴宿禰大沼田を西海道。道別に録事一人。政績を巡り省(み)て、冤枉(えんおう)を申し理(ことわ)らしむ。」『続日本紀』大宝三年(703年)正月条

 大宝三年(703年)に至り、大和朝廷は前王朝の故地(筑紫)を「西海道」と公に呼んだのではないでしょうか。すなわち、これからの「筑紫」は日本国の中心ではなく、大和朝廷の地方領域「七道」の一つとして、文武天皇は「西海道」へも巡察使を派遣したのです。


第2413話 2021/03/19

王朝と官道名称の交替(3)

 九州王朝官道が再編され、名称変更がなされるとすれば、そのタイミングは二回あったように思われます。一つは、九州王朝が難波に複都(前期難波宮)を置いたとき。もう一つは、大和朝廷へと王朝交替(701年、九州年号から大宝元年へ「建元」)したときです。
 前者の場合は同一王朝内での複都造営時(652年、九州年号の白雉元年「改元」)ですから、必ずしも官道名称の変更が必要なわけではありません。しかも、首都の太宰府はその後も継続したと思われますから。
 後者は王朝交替に伴う首都の移動ですから、この時点では官道名称変更が大義名分の上からも必要となります。なぜなら、大和朝廷の「七道」のうち「山陽道」「山陰道」は九州王朝官道の「東山道」「北陸道」の前半部分に当たりますから、大和に都(藤原京)を置いた大和朝廷としては、都から南西へ向かう道が「東山道」「北陸道」では不都合なわけです。そのため、「東山道」「北陸道」を分割再編し、大和より西は「山陽道」「山陰道」、東はそれまで通り「東山道」「北陸道」としたのです。また、九州王朝官道の「東海道」も、その前半は大和よりも西の四国地方(海路)を通りますから、これも「南海道」に変更されました。
 そこでこうした官道再編や名称変更の痕跡が『日本書紀』や『続日本紀』などに遺されてはいないか、その視点で史料調査したところ、『日本書紀』天武十四年(685)九月条に、次の記事がありました。

 「戊午(十五日)に、直廣肆都努朝臣牛飼を東海使者とす。直廣肆石川朝臣蟲名を東山使者とす。直廣肆佐味朝臣少麻呂を山陽使者とす。直廣肆巨勢朝臣粟持を山陰使者とす。直廣參路眞人迹見を南海使者とす。直廣肆佐伯宿禰廣足を筑紫使者とす。各判官一人・史一人、國司・郡司及び百姓の消息を巡察(み)しめたまふ。」『日本書紀』天武十四年九月条

 この記事に見える、使者(巡察使)が派遣された「東海」「東山」「山陽」「山陰」「南海」「筑紫」は、「七道」から「北陸道」をなぜか除いた各地域のことで、これらは天武の宮殿(飛鳥宮)がある「大和国」(注①)に起点を置いたことを前提とする名称です。この記事が事実であれば、天武十四年(685年)時点では既に九州王朝官道の再編と名称変更が行われていたことになります。これは701年の王朝交替の16年前、持統の藤原宮(京)遷都の9年前のことです。従って、この記事の信憑性が問われるのですが、従来のわたしの研究や知識レベルでは判断できませんでした。しかし、今は違います。この10年での飛鳥・藤原木簡の研究成果があるからです。
 飛鳥遺跡からは九州諸国と陸奥国を除く各地から産物が献上されたことを示す評制下(七世紀後半)荷札木簡が出土しています。「洛中洛外日記」2394話(2021/02/27)〝飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡の国々〟で次の出土状況を紹介したところです(注②)。

【飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡】
国 名 飛鳥宮 藤原宮(京) 小計
山城国   1   1   2
大和国   0   1   1
河内国   0   4   4
摂津国   0   1   1
伊賀国   1   0   1
伊勢国   7   1   8
志摩国   1   1   2
尾張国   9   7  17
参河国  20   3  23
遠江国   1   2   3
駿河国   1   2   3
伊豆国   2   0   2
武蔵国   3   2   5
安房国   0   1   1
下総国   0   1   1
近江国   8   1   9
美濃国  18   4  22
信濃国   0   1   1
上野国   2   3   5
下野国   1   2   3
若狭国   5  18  23
越前国   2   0   2
越中国   2   0   2
丹波国   5   2   7
丹後国   3   8  11
但馬国   0   2   2
因幡国   1   0   1
伯耆国   0   1   1
出雲国   0   4   4
隠岐国  11  21  32
播磨国   6   6  12
備前国   0   2   2
備中国   7   6  13
備後国   2   0   2
周防国   0   2   2
紀伊国   1   0   1
阿波国   1   2   3
讃岐国   2   1   3
伊予国   6   2   8
土佐国   1   0   1
不 明  98   7 105
合 計 224 126 350

 七世紀当時、他地域からは類例を見ない大量の荷札木簡が飛鳥から出土しており、当地に列島を代表する権力者(実力者)がいたことを疑えません(注③)。従って、各地へ巡察使を派遣したという天武十四年条記事の史実としての信憑性は高くなります。同時代史料の木簡、しかも大量出土による実証力は否定(拒否)し難いのです。(つづく)

(注)
①藤原宮北辺地区から出土した「倭国所布評大野里」木簡によれば、七世紀末当時の「大和国」の表記は「倭国」である。このことを「洛中洛外日記」447話(2012/07/22)〝藤原宮出土「倭国所布評」木簡〟などで紹介した。
②市 大樹『飛鳥藤原木簡の研究』(塙書房、2010年)所収「飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡」による。
③飛鳥池遺跡北地区からは「天皇」(木簡番号224)「○○皇子」(木簡番号64、同92、他)木簡の他に「詔」木簡(木簡番号63、同669)も出土しており、最高権力者が当地から詔勅を発していたことを示している。


第2412話 2021/03/18

王朝と官道名称の交替(2)

 九州王朝官道(注①)の名称は都がある太宰府を起点に、東西南北と陸路・海路別に命名したと思われます。恐らく、それは単なる道路・航路ではなく、軍事目的を有した〝水陸方面軍〟をも意味したものです。そして、その方面軍のリーダーが「都督」と呼ばれていた痕跡が『日本書紀』に見えることを山田春廣さんが指摘され(注②)、九州王朝官道の研究が一気に進展しました。それは『日本書紀』景行紀の〝彦狹嶋王、東山道都督拝命〟記事です。

 五十五年春二月戊子朔壬辰、以彦狹嶋王、拜東山道十五國都督。是豐城命之孫也。然到春日穴咋邑。臥病而薨之。是時。東國百姓悲其王不至。竊盗王尸葬於上野国。(『日本書紀』景行五五年二月条)

 この記事にある「東山道十五國」の国数が、大和から下野国まででは七国なので数があわず、九州王朝の都があった筑前からであればちょうど十五国に一致することを発見され、この「東山道」とは筑前国から下野国にいたる九州王朝官道のことであるとされたのです。そして、筑前国を起点とした他の九州王朝官道(東海道、北陸道)の推定も試みられました。
 ところが、701年の九州王朝から大和朝廷への王朝交替により、起点となる都が筑前(太宰府)から大和(藤原京)に移動します。その爲、新王朝は自らの都を中心とした官道名へと変更することになります。その結果が「五畿七道」と呼ばれる七つの官道(東海道、東山道、北陸道、南海道、山陽道、山陰道、西海道)への再編です。
 しかし、九州王朝時代の官道名とは性格が微妙に異なっています。その最たるものが「西海道」です。これは「交通路」というよりも九州島という領域名称の性格が強くなっており、しかも起点の大和から九州島まで通じるルートは「西海道」ではなく、「山陽道」か「山陰道」になってしまいます。しかも、この「山陽道」と「山陰道」には「東西南北」という方角が付きません。言わば一貫性のない官道名称になってしまっているのです。更に言えば、「東海道」「西海道」「南海道」があるのに、「北海道」だけがないことも何か変で、このことが西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)から指摘されてきました(注③)。
 こうした、一貫性のない「七道」になった理由について、従来の一元史観では説明できません。すなわち、王朝交替(官道起点たる都の移動)により、それまでの九州王朝官道を再編し、名称変更したことで発生したとする、多元史観を前提とした説明が最も合理的なのです。(つづく)

(注)
①九州王朝官道と大和朝廷「七道」の対比は次のようなものと考えている。
【九州王朝】→【大和朝廷】
 「東山道」 → 「山陽道」「東山道」
 「東海道」 → 「南海道」「東海道」
 「北陸道」 → 「山陰道」「北陸道」
 「北海道」 → なし
 「西海道」 → なし
 (九州島) → 「西海道」
 「南海道」 → なし
②山田春廣「『東山道十五國』の比定 ―西村論文『五畿七道の謎』の例証―」『発見された倭京 ―太宰府都城と官道―』古田史学の会編、明石書店、2018年。初出『古田史学会報』139号、2017年4月。
 山田春廣「東山道都督は軍事機関」『発見された倭京 ―太宰府都城と官道―』古田史学の会編、明石書店、2018年。
③西村秀己「五畿七道の謎」『発見された倭京 ―太宰府都城と官道―』古田史学の会編、明石書店、2018年。初出『古田史学会報』131号、2015年12月。


第2411話 2021/03/17

王朝と官道名称の交替(1)

 4月24日(土)に奈良新聞社本社で〝卑弥呼と邪馬壹国『「邪馬台国」はなかった』出版50周年記念講演会〟が「古代大和史研究会(原幸子代表)」主催で開催されます(注①)。わたしも「九州王朝官道の終着点 ―筑紫の都(7世紀)から奈良の都(8世紀)へ―」というテーマで講演させていただくことになりました。そのこともあって、九州王朝官道について残されている問題について、この数日間、考え続けてきました。それは、後に大和朝廷から「五畿七道」と称される九州王朝古代官道の名称変更がいつなされたのかという問題です。
 西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)と山田春廣さん(古田史学の会・会員、鴨川市)の研究(注②)によれば、九州王朝官道が大和朝廷の「七道」へ再編されるにあたり、おおよそ次のような変更がなされています(注③)。

【九州王朝】→【大和朝廷】
 「東山道」 → 「山陽道」「東山道」
 「東海道」 → 「南海道」「東海道」
 「北陸道」 → 「山陰道」「北陸道」
 「北海道」 → なし
 「南海道」 → なし
 「西海道」 → なし
 (九州島) → 「西海道」

 この変更は、各官道の起点となる「都」が、九州王朝から大和朝廷への王朝交替により、太宰府から大和へ移動したため、それにあわせて官道や名称が付け替えられたことによります。
 ところが、その官道名の変更がいつ頃行われたのかが、はっきりしませんでした。今までは、王朝交替した701年頃か、前期難波宮を複都とした650年頃ではないかと、漠然ととらえていました。しかし、近年進めてきた飛鳥・藤原木簡の研究により、七世紀後半から末頃にかけての天武の時代ではないかと考えるようになりました。(つづく)

(注)
①「古代大和史研究会」特別講演会の詳細は次の通り。
◇日時 2021/04/24(土) 13:00~17:00
◇会場 奈良新聞本社西館3階
◇参加費 500円
◇テーマ 卑弥呼と邪馬壹国『「邪馬台国」はなかった』出版50周年記念講演会
◇講師・演題(予定)
 古賀達也(古田史学の会・代表) 九州王朝官道の終着点 ―筑紫の都(7世紀)から奈良の都(8世紀)へ―
 大原重雄(『古代に真実を求めて』編集部) メガーズ説と縄文土器
 満田正賢(古田史学の会・会員) 欽明紀の真実
 服部静尚(『古代に真実を求めて』編集長) 日本書紀の述作者は中国人ではなかった
 正木 裕(古田史学の会・事務局長、大阪府立大学講師) 多賀城碑の解釈~蝦夷は間宮海峡を知っていた
②西村秀己「五畿七道の謎」『発見された倭京 ―太宰府都城と官道―』古田史学の会編、明石書店、2018年。初出『古田史学会報』131号、2015年12月。
 山田春廣「『東山道十五國』の比定 ―西村論文『五畿七道の謎』の例証―」『発見された倭京 ―太宰府都城と官道―』古田史学の会編、明石書店、2018年。初出『古田史学会報』139号、2017年4月。
③九州王朝官道の「北海道」「南海道」「西海道」については、『卑弥呼と邪馬壹国』(『古代に真実を求めて』24集、古田史学の会編、明石書店、2021年)掲載の拙稿「九州王朝官道の終着点 ―山道と海道の論理」を参照されたい。


第2410話 2021/03/16

逆遠近法の宮殿、「飛鳥宮内郭」「エビノコ郭」

 飛鳥宮跡の研究を始めたとき、その内郭やエビノコ郭の平面図(注①)が四角形ではなく台形であることを不思議に思いました。なぜこんなヘンテコな形にしたのだろうかと、そのことを「洛中洛外日記」573話(2013/07/25)〝いびつな宮殿、飛鳥宮〟と574話(2013/07/27)〝へんてこな大極殿、エビノコ郭〟で指摘しました。天武期以前に造営された前期難波宮(九州王朝の複都)や九州王朝系の近江大津宮は四角形であり、この差は造営した主体(王朝)が異なるためと考えました。しかし、近畿天皇家の王宮がなぜ台形を採用したのかについてはわかりませんでした。
 前話の〝拡張する飛鳥宮「エビノコ郭」遺跡〟の執筆にあたり、その規模を調べました。飛鳥宮内郭ははっきりと台形であり、北側の塀が台形の〝長辺〟になっています。すなわち、南の正門から宮殿を眺めると、内部の殿舎配置も〝末広がり〟の構造となっているのです。

 飛鳥宮最上層内郭 東西152-158m 南北197m
 飛鳥宮エビノコ郭 東西92-94m  南北約55m

 地形上の制約をうけて飛鳥宮を台形にしたとも思われませんし、測量技術が劣っていたわけでもありません。従って、意図的に台形にしたと考えざるを得ないのです。もしかすると〝逆遠近法〟を採用したのではないでしょうか。。
 わたしが中学生の頃、美術の先生から逆遠近法という画法を教えていただきました。特に日本画に多く使われているとのことでした。遠近法とは逆で、遠くのものを大きく描くという画法です。古代建築に応用例があるのかどうか知見はありませんが、丘陵に囲まれた飛鳥の狭量な地域に宮殿を建てる際に、より広く見せるために逆遠近法の原理を採用したのではないでしょうか。
 このことの当否については全く自信ありませんが、平安末期成立の『源氏物語絵巻』(注②)は逆遠近法で描かれていますし、七世紀にも同様の技術や設計思想があっても不思議ではないように思われます。古代の絵画や建築に詳しい方のご教示をお願いします。

(注)
①吉田歓著『古代の都はどうつくられたか 中国・日本・朝鮮・渤海』(吉川弘文館、2011年)89頁掲載の飛鳥浄御原宮(飛鳥宮3-B期)平面図による。
②通称「隆能源氏」(たかよしげんじ)と呼ばれている『源氏物語絵巻』(国宝)は平安末期の作とされる。