古賀達也一覧

古田史学の会代表古賀達也です。

第3270話 2024/04/14

九州王朝(天子)の「親藩」諸国の天皇たち

 わたしは毎月の第二土曜日に、各地の古田学派研究者とリモートで勉強会を開催しています。その三月と四月の勉強会で、九州王朝の天子の下に複数の天皇号を称した有力氏族が併存したとする仮説を恐る恐る発表し、参加した研究者にご批判を要請しました。幸いにも概ね好評でしたが、とても興味深く重要な指摘もありました。

 従来の古田旧説では、倭国のトップとしての九州王朝の天子と、ナンバーツーとしての大和の天皇がいたとされてきましたが、今回の拙論は、大和以外にも天皇号を許された有力氏族が複数併存したというものです。その候補として越智国(愛媛県)の氏族の越智氏(注①)がいます。野中寺彌勒菩薩像銘の「中宮天皇」や『大安寺伽藍縁起』に見える「仲天皇」もその候補と考えています。その他に、『日本書紀』天武紀に見える「吉備大宰(石川王)」が仕えた吉備天皇がいたのではないかと推定しています。

 こうしたことを昨日のリモート勉強会で述べたところ、参加された奥田さん(古田史学の会・会員、埼玉県)から次の指摘がありました。

〝天皇号を認められたのは有力氏族というだけではなく、九州王朝の天子と血縁関係がある、言わば江戸幕府の親藩に相当するような氏族だったのではないか〟

 この指摘には、なるほどと思いました。実は越智氏は天孫降臨以来の天孫族を始祖とする伝承・系図(注②)を持つ氏族ですから、奥田さんの指摘に適っています。それでは吉備の豪族はどうでしょうか。名前に「吉備」を持つ有名な人物に吉備津彦(注③)がいますので、その先祖が天孫族かどうかを調べてみました。

 『日本書紀』孝霊紀によれば、吉備津彦命は孝霊天皇皇子の彦五十狭芹彦命(ヒコイサセリヒコノミコト)の亦の名とされていますから、天孫系の人物と見ることができますが、吉備津彦命は「亦の名」とありますから、本来は別人で、吉備の元々の王者が吉備津彦であり、それを滅ぼした天孫族の彦五十狭芹彦命と習合させたのではないかと想像しています。

 いずれにしても彦五十狭芹彦命は天孫族となりますから、九州王朝の「親藩」諸国の有力氏族として、天皇を名乗ることが許されたと考えてみたいところです。新しい仮説ですので、断定することなく、慎重に研究を進めたいと思います。

(注)
①『大安寺伽藍縁起』に「袁智天皇」が見える。愛媛県に少なからず現存する「天皇」地名なども拙論の傍証とする。次の拙稿を参照されたい。
古賀達也「洛中洛外日記」2969~2973話(2023/03/19~25)〝『大安寺伽藍縁起』の仲天皇と袁智天皇 (1)~(4)〟
同「多元的『天皇』号の成立 ―『大安寺伽藍縁起』の仲天皇と袁智天皇―」『古代に真実を求めて』27集、明石書店、2024年。
②越智氏一族河野氏の来歴を記す『予章記』には、始祖を孝霊天皇の第三皇子、伊予皇子とする。越智氏・河野氏について、九州王朝説に基づく次の論稿がある。
古賀達也「『豫章記』の史料批判」『古田史学会報』32号、1999年。
八束武夫「『越智系図』における越智の信憑性 ―『二中歴』との関連から―」『古田史学会報』87号、2008年。
「大山祇神社の由緒・神格の始源について ―九州年号を糸口にして―」『古田史学会報』88号、2008年。
③ウィキペディアには次の説明がある。
吉備津彦命(きびつひこのみこと)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族。第7代孝霊天皇皇子である。四道将軍の1人で、西道に派遣されたという。
【名称】
『日本書紀』『古事記』とも、「キビツヒコ」は亦の名とし、本来の名は「ヒコイサセリヒコ」とする。それぞれ表記は次の通り。
『日本書紀』
本の名:彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)
亦の名:吉備津彦命(きびつひこのみこと)
『古事記』
本の名:比古伊佐勢理毘古命(ひこいさせりひこのみこと)
亦の名:大吉備津日子命(おおきびつひこのみこと)
そのほか、文献では「キビツヒコ」を「吉備都彦」とする表記も見られる。
第7代孝霊天皇と、妃の倭国香媛(やまとのくにかひめ、絙某姉、意富夜麻登玖邇阿礼比売命)との間に生まれた皇子である。
同母兄弟姉妹として、『日本書紀』によると倭迹迹日百襲媛命(夜麻登登母母曽毘売)、倭迹迹稚屋姫命(倭飛羽矢若屋比売)があり、『古事記』では2人に加えて日子刺肩別命の名を記載する。異母兄弟のうちでは、同じく吉備氏関係の稚武彦命(若日子建吉備津日子命)が知られる。
子に関して、『日本書紀』『古事記』には記載はない。

【記録】

『日本書紀』崇神天皇10年9月9日条では、吉備津彦を西道に派遣するとあり、同書では北陸に派遣される大彦命、東海に派遣される武渟川別、丹波に派遣される丹波道主命とともに「四道将軍」と総称されている。

同書崇神天皇9月27日条によると、派遣に際して武埴安彦命とその妻の吾田媛の謀反が起こったため、五十狭芹彦命(吉備津彦命)が吾田媛を、大彦命と彦国葺が武埴安彦命を討った。その後、四道将軍らは崇神天皇10年10月22日に出発し、崇神天皇11年4月28日に平定を報告したという。
また同書崇神天皇60年7月14日条によると、天皇の命により吉備津彦と武渟川別は出雲振根を誅殺している。

『古事記』では『日本書紀』と異なり、孝霊天皇の時に弟の若日子建吉備津彦命(稚武彦命)とともに派遣されたとし、針間(播磨)の氷河之前(比定地未詳)に忌瓮(いわいべ)をすえ、針間を道の口として吉備国平定を果たしたという。崇神天皇段では派遣の説話はない。


第3269話 2024/04/13

『古代に真実を求めて』28集の特集は
「風土記・地誌の九州王朝」

27集「倭国から日本国へ」
特価販売のお知らせ

 今月、明石書店から出版した「倭国から日本国へ」(『古代に真実を求めて』27集)本会在庫の特価販売(消費税・送料を値引き)のご注文が届き始めました。
次号28集の特集テーマは「風土記・地誌の九州王朝」です。

 27集巻末に掲載した編集後記を転載します。

【以下、転載】『古代に真実を求めて』二七集 編集後記
本書の編集長を担当することになりました。三十代の頃から『市民の古代』(市民の古代研究会編、新泉社)の編集部で本作りにたずさわり、編集作業の経験を積んではきたのですが、自らが中心となって本を作るのは『「九州年号」の研究』(古田史学の会編、ミネルヴァ書房、二〇一二年)以来です。

 古田武彦先生亡き後、『古代に真実を求めて』は多元史観・古田史学に基づく唯一の定期刊行書籍であり、古田学派の研究者にとって貴重な発表の場となっています。そこで、将来にわたって、わたしたちの後継者が本書を編集出版できるよう、編集作業手順や原稿採用基準、投稿規定、書籍在庫販売管理台帳などの作成も併行して進めてきました。いわば、「古田史学の会」出版事業のマニュアル化とルール化です。古田史学の未来を担う後継者のために、これからも改良を加え、より使いやすくしていきます。

 本書末尾の投稿募集要項にあるよう、次の二八集の特集テーマは「風土記・地誌の九州王朝」です。風土記や地誌を研究対象として、そこに遺された九州王朝の痕跡を論じ、論文やフォーラム・コラムとして投稿してください。地誌の場合、その成立が中近世であっても、内容が古代を対象としており、適切な史料批判を経ていれば、古代史のエビデンスとして採用していただいてかまいません。字数制限など、投稿規定にはご留意ください。投稿締め切り日は本年九月末です。

 令和六年(二〇二四)、「古田史学の会」は創立三十周年を迎えることができました。本会創立の目的に賛同し、支えていただいた会員の皆様、古田史学支持者の皆様のおかげです。会則に銘記された目的、「旧来の一元通念を否定した古田武彦氏の多元史観に基づいて歴史研究を行い、もって古田史学の継承と発展、顕彰、ならびに会員相互の親睦をはかる」のなかの〝古田史学の継承と発展、顕彰〟こそが『古代に真実を求めて』の役割であり、それに耐えうる本を作ることが編集部の使命です。

 九州王朝から大和朝廷への王朝交代を特集テーマとした二七集「倭国から日本国へ」が、五十年後、百年後の読者と、図書館や古書店で出会い、今を生きるわたしたちの研究成果を伝えることができれば、望外の幸せです。〝本の寿命は人生より長い〟のですから。

【27集「倭国から日本国へ」 特価販売のお知らせ】
「古田史学の会」では「倭国から日本国へ」(『古代に真実を求めて』27集)の特価販売を実施します。下記の郵便口座に特価代金(2,800円/1冊)を振り込んでいただきますと、入金を確認次第、発送します。消費税と送料を割り引かせていただきます。なお、当会の在庫がなくなり次第、あるいは年内で特価販売は終了となりますので、その後はアマゾン・書店などでお買い求めください。

 郵便口座番号は次の通りです。「『倭国から日本国へ』○冊希望」と記入し、お名前・郵便番号・ご住所・電話番号を明記し、代金を振り込んで下さい。特別価格は2800円です。

 口座記号:01010-6
口座番号:30873
加入者名:古田史学の会

※お振り込み後、2週間以上経過しても本が届かない場合は、「古田史学の会」ホームページ事務局、または本会事務局(正木裕)までお問い合わせ下さい。

 「倭国から日本国へ」以外の在庫特価販売も行ってます。対象書籍・特価など、ホームページでお知らせします。お買い上げいただければ幸いです。


第3268話 2024/04/12

『続教訓抄』の九州年号「教到六年」

 今日、ご近所の枡形商店街にある古書店に行くと、新品同様の『古事類苑 樂舞部一』がなんと三百円(税込み)で売っていましたので、迷わず買いました。能楽など古典芸能史料に九州王朝の痕跡が遺っていることがあり、きっと『古事類苑』に貴重な史料が収録されているはずと思い、超高速で斜め読みしたところ、案に違わずありました。

 同書に収録されている「続教訓抄 十一上 吹物」(注①)に東遊(あづまあそび)の次の記事がありました。

 「或記ニ云、人王廿八代安閑天皇ノ御宇、教到六年丙辰歳、駿河國宇戸濱ニ、天人アマクダリテ、哥舞シタマヒケレバ、周瑜ガ腰タヲヤカニシテ、海岸ノ春ノヤナギニオナジク、回雪ノタモトカロクアガリテ、江浦ノユウベノカゼニヒルガヘリケルヲ、或翁イサゴヲホリテ、中ニカクレヰテ、ミツタヘタリト申セリ、今ノ東遊トテ、公家ニモ諸社ノ行幸ニハ、カナラズコレヲ用ヰラル、神明コトニ御納受アルユエナリ、其翁ハスナワチ道守氏トテ、今ノ世ニテモ侍ルトカヤ、」244頁

 ここに見える「教到六年丙辰歳」は九州年号で、536年に当たります。ちなみに『二中歴』などの九州年号史料では、教到六年は改元されて僧聴元年とあることから、同年中の改元される前に成立した史料によるものと思われ、そうであれば原史料は同時代史料となり貴重です。

 この東遊の始原伝承については、本居宣長の『玉勝間』で紹介されている『體源鈔』(注②)からの引用記事にもほぼ同文があることを拙論(注③)で紹介しました。次の記事です。

 「東遊の起り
同書(『體源抄』)に丙辰記ニ云ク、人王廿八代安閑天皇ノ御宇、教到六年(丙辰歳)駿河ノ國宇戸ノ濱に、天人あまくだりて、哥舞し給ひければ、周瑜が腰たをやかにして、海岸の青柳に同じく、廻雪のたもとかろくあがりて、江浦の夕ヘの風にひるがへりけるを、或ル翁いさごをほりて、中にかくれゐて、見傳へたりと申せり、今の東遊(アズマアソビ)とて、公家にも諸社の行幸には、かならずこれを用ひらる、神明ことに御納受ある故也、其翁は、すなわち道守氏とて、今の世までも侍るとやいへり、」(岩波文庫『玉勝間』下、十一の巻。村岡典嗣校訂)

 『続教訓抄』と『體源抄』の当該記事はほとんど同文ですが、『続教訓抄』の成立が十三世紀であり、『體源抄』よりも二百年も早く、貴重です。
ちなみに、東遊(あずまあそび)は東国地方の民俗舞踊で、平安時代から、宮廷や神社の神事舞の一つとして演じられたとされていますが、始原伝承に九州年号「教到」が使用されていることから、本来は九州王朝の宮廷舞楽ではなかったかと推測しています。歌方(うたいかた)は笏拍子(しゃくびょうし)を持ち、笛・篳篥(ひちりき)・和琴(わごん)の伴奏で歌い、四人または六人の舞人が近衛武官の正装などをして舞うとのことで、これらも九州王朝の宮廷舞楽の痕跡ではないでしょうか。現在は宮中や神社の祭礼で行われているようです。

(注)
①『続教訓鈔』は鎌倉時代の雅楽書で狛朝葛(こまともかず)著。彼の祖父狛近真が著わした『教訓鈔』に続く楽書。文永七年(1270)頃から書きはじめ,元享二年(1322)頃まで追記したものと考えられている。完本は現存せず、巻数は二十一巻以上と見られている。
②『體源抄』は豊原統秋の著作で、十三巻二二冊からなる音楽書。永正十二年(1515)成立。
③古賀達也「洛中洛外日記」938話(2015/04/29)〝教到六年丙辰(536年)の「東遊」記事〟
「本居宣長『玉勝間』の九州年号 ―「年代歴」細注の比較史料―」『古田史学会報』64号、2004年。


第3267話 2024/04/10

『東日流外三郡誌の逆襲』全原稿脱稿

 昨年の八月六日、東京古田会の安彦会長と五反田の八幡書店を訪問し、武田社長に和田家文書研究の現況について説明しました。そのおり、武田社長より『東日流外三郡誌の逆襲』発行のご提案をいただいていたのですが、本日、ようやく予定していた最後の原稿「謝辞に代えて ―冥界を彷徨う魂たちへ―」を書き上げました。

 同稿は『東日流外三郡誌の逆襲』の掉尾を飾る重要論文でしたので、構想と執筆に四ヶ月ほどかかりました。これからの和田家文書研究の方向性を指し示す内容でしたので、その方法論とそれが至るであろう研究結果に対する覚悟が必要となり、苦しみ抜いて書き上げました。小見出しと冒頭・最終の部分を紹介します。

謝辞に代えて ―冥界を彷徨う魂たちへ―
古賀達也

一、はじめに

 本書序文の拙論「東日流外三郡誌を学問のステージへ ―和田家文書研究序説―」において、和田家文書を真っ当な文献史学の研究対象の場に戻すために本書を上梓した旨、述べた。ここにその研究方法を提起し、論理の導くところ、その予察をもって謝辞に代えたい。

二、和田家文書群の分類試案

三、《α群》の史料性格と現状

四、《β群》の史料性格と課題

五、《γ群》の史料性格と価値

六、真偽論争の恩讐を越えて

七、冥界を彷徨う魂たち

 あるとき、古田先生はわたしにこう言われた。「わたしは『秋田孝季』を書きたいのです」と。東日流外三郡誌の編者、秋田孝季の人生と思想を伝記として著したかったものと拝察した。思うにこれは、古田先生の東北大学時代の恩師、村岡典嗣(むらおかつねつぐ)先生が二十代の頃に書かれた名著『本居宣長』を意識されてのことであろう。

 結局、それを果たせないまま先生は二〇一五年に物故された。ミネルヴァ書房の杉田社長が二〇一六年の八王子セミナーにリモート参加し、和田家文書に関する著作を古田先生に書いていただく予定だったことを明らかにされた。恐らく、それが『秋田孝季』だったのではあるまいか。先生が果たせなかった『秋田孝季』をわたしたち門下の誰かが書かなければならない。その一著が世に出るまで、東日流外三郡誌に関わった人々の魂は冥界を彷徨い続けるであろうから。


第3266話 2024/04/08

高橋工氏の難波宮最新報告を聴講

 一昨日、「古田史学の会・関西」の遺跡巡りがあり、その最後に高橋工さん(大阪市文化財協会)をお招きして、難波宮調査の最新状況をお聞きするという企画がありました。久しぶりに大阪歴博を訪問し、近くのマンションの集会所で高橋さんのお話を聞くことができました。

 高橋さんは難波京条坊を初めて発見した考古学者で、その主張は優れて論理的で、わたしが尊敬する考古学者の一人です。今回のお話しでは、次の三点の興味深い知見が示されました。

1. 難波京条坊・朱雀大路の造営は、前期難波宮が創建された孝徳朝から始まっており、その後、徐々に宮殿から南へ延伸した。朱雀大路から堺市方面(今塚遺跡)へ真南に伸びる難波大道の設計(グランドデザイン)は孝徳期に作られたと考えられる。

2. 前期難波宮内裏北側から大型宮殿(東脇殿)の一端が昨年3月に出土した。その規模は既に出土している内裏後殿よりも大きいと見られ、天皇の内裏にふさわしい(注①)。

3, 前期難波宮孝徳朝説への新たな批判が泉武氏(橿原考古学研究所)より出されたが、考古学的にも反論可能と考えている。

 特に3の批判が今も続いていることに驚きました。このことを知り、早速、泉さんの論文を拝読しました(注②)。難解な考古学論文ですので、もう二~三度は精読する必要がありますが、一読して感じたのは、今までにはない新たな視点と論理構築であり、通説の考古学者には反論が難しいように思いました。しかし、その主要論点こそ、前期難波宮九州王朝王宮説にとって有利なものであることに気づきました。このことについて、稿を改めて紹介します。

 最後に、高橋さんのお話を聞く機会を企画された上田武さん(古田史学の会・関西例会担当)に感謝いたします。

(注)
①「前期難波宮の内裏の発掘調査で重要な区画を発見!」『葦火』210号、大阪市文化財協会、2023年7月。
②泉武「前期難波宮孝徳朝説批判(その2)」『考古學論攷 橿原考古学研究所紀要』46巻、2023年。


第3264話 2024/04/06

「倭国から日本国へ」発刊!

      特価販売もスタート!

 「倭国から日本国へ」(『古代に真実を求めて』27集、明石書店)が発刊されました。「古田史学の会」賛助会員(2023年度、年会費5,000円)には順次送付しますので、もうしばらくお待ちください。経費削減のため、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、会計担当、高松市)がお一人で発送作業を行っていますので。

 同書は「古田史学の会」創立30周年を記念して、増ページしました。そのため定価が2800円+税となりましたが、これまで本会の出版事業を支えていただいた賛助会員への感謝も込めて増ページとしたものです。
表紙デザインには、特集タイトル「倭国から日本国へ」、すなわち九州王朝から大和朝廷への王朝交代の史料根拠となった『旧唐書』「日本国伝」の版本を背景に採用し、その中の一文「日本國者倭國之別種也」(日本国は倭国の別種なり)を朱色にして強調しました。裏表紙には、明石書店名編集者の森さんによる、簡潔で見事な次の紹介文が掲載されています。

 倭国から日本国への国号の変更
そこに隠されているのは
九州王朝から大和朝廷への
権力の移行にほかならない
古田史学王朝交代論の最前線

 なお、「古田史学の会」では本書の特価販売を実施します。下記の郵便口座に特価代金(2,800円/1冊)を振り込んでいただきますと、入金を確認次第、発送します。消費税と送料を割り引かせていただきます。なお、当会の在庫がなくなり次第、あるいは年内で特価販売は打ち切りますので、その後はアマゾン・書店などでお買い求めください。

 郵便口座番号は次の通りです。「『倭国から日本国へ』○冊希望」と記入し、お名前・郵便番号・ご住所・電話番号を明記し、代金を振り込んで下さい。特別価格は2800円です。

 口座記号:01010-6
口座番号:30873
加入者名:古田史学の会

※お振り込み後、2週間以上経過しても本が届かない場合は、「古田史学の会」ホームページ事務局、または本会事務局(正木裕)までお問い合わせ下さい。
「倭国から日本国へ」以外の在庫特価販売も行ってます。対象書籍・特価など、ホームページでお知らせします。お買い上げいただければ幸いです。


第3263話 2024/04/05

二つの「中宮」銘金石文の考察 (5)

 薬師寺東塔の檫銘の文の成立は藤原京にあった本薬師寺(もとやくしじ)創建頃であり、それが平城京の薬師寺東塔檫管に追刻されたとする見解が有力説です。東野治之さんの「薬師寺東塔の銘文」(注)によれば、『日本書紀』成立以前に銘文が書かれた根拠として、「維清原宮馭宇天皇即位八年庚辰之歳」を挙げています。当該部分を転載します。

【以下、転載】
(前略)この銘も、藤原京の寺にあった銘文を、平城京の薬師寺の東塔が完成した七三〇年ごろに、新しく刻んだと考えられる。
その何よりの証拠は、甲辰の年を天武天皇の即位の八年といっていることで、これによれば天武は、先代の天智天皇が亡くなった翌々年に即位したことになる。七二〇年にできた『日本書紀』は、天武が天智没後すぐに即位したことにしているから、正史と食い違う年立てを採用しているこの銘文は、そういう歴史観が出来上がる前に書かれたとしか考えられない。
【転載おわり】

 この東野さんの言わんとすることは理解できるのですが、やや不正確に思えます。『日本書紀』には天武二年二月に飛鳥浄御原宮で即位したとありますから、天智崩御の翌々年の即位であり、「即位八年庚辰之歳」(680年)という檫銘の表記が誤っているわけではありません。しかし、檫銘の記事について『日本書紀』では天武九年(680年)の事件としています。

 すなわち、天武九年十一月癸未条に、「皇后體不豫。則為皇后請願之、初興薬師寺。仍度一百僧、由是、得安平。」とあり、皇后(鸕野皇女、後の持統天皇)の不予に際して、天武天皇が発願して薬師寺を創建し、僧百人を得度させ、皇后は平安を取り戻したという記事に対応しています。ですから、『日本書紀』成立後であれば、「即位八年」とするよりも「天武九年」と記すはずというのが東野さんの主張です。こうしたことから、檫銘の文は『日本書紀』の年立ての影響をうける前に成立したとする見解に、わたしも賛成です。(つづく)

(注)東野治之「薬師寺東塔の銘文」『史料学探訪』岩波書店、2015年。


第3262話 2024/04/04

『東京古田会ニュース』215号の紹介

 『東京古田会ニュース』215号が届きました。拙稿「興国の津軽大津波伝承の考察 ―地震学者・羽鳥徳太郎の慧眼―」を掲載していただきました。同稿では、東日流外三郡誌に散見する興国の大津波伝承が、江戸期成立の津軽藩の文書にも記されていることを紹介しました。そして、〝興国の大津波は東日流外三郡誌にしか掲載されていない〟〝歴史事実ではない〟として、そのことを偽作の根拠とした偽作説に反論しました。ちなみに、同稿で紹介した津軽藩系史料とは次の文書です。「洛中洛外日記」(注)でも紹介しましたし、国文学研究資料館のデジタルアーカイブ収録「陸奥国弘前津軽家文書」で閲覧できます。

 下澤保躬「津軽系図略」明治十年(一八七七)。
陸奥国弘前津軽家文書「津軽古系譜類聚」文化九年(一八一二)。
「前代御系譜」『津軽古記鈔 津軽系図類 信政公代書類 前代御系譜』成立年次不明。

 『東京古田会ニュース』215号掲載論文で注目したのが、橘高修さん(東京古田会・副会長、日野市)の「古代史エッセー78 天智天皇紀の重複記事」でした。天智紀に散見される重複記事を紹介し、その年次のずれが、七年・六年・五年・三年・二年のケースがあることを指摘され、「それぞれに原因を考える必要がある」とされました。

 なぜか天智紀に重複記事が頻出するのですが、その理由について、本当に重複記事なのか、唐軍の筑紫進駐記事は実際に二度あったのではないかとする見解も古田先生から出されてきました。また、もし重複記事であるのならば、そのことに『日本書紀』編者たちは誰一人として気づかなかったのかという疑問を払拭できませんし、なぜ天智紀に頻出するのかという疑問にも答えることが出来ていないように思われます。橘高稿を読み、この重要な未解決テーマについて、多元史観・九州王朝説でも説明し切れていないことに、改めて気づきました。

(注)
古賀達也「洛中洛外日記」3107~3109話(2023/09/08~10)〝地震学者、羽鳥徳太郎さんの言葉 (1)~(3)〟
同「洛中洛外日記」3110話(2023/09/11)〝興国二年大津波の伝承史料「津軽系図略」〟
同「洛中洛外日記」3111話(2023/09/12)〝興国の大津波の伝承史料「津軽古系譜類聚」〟
同「洛中洛外日記」3112話(2023/09/13)〝興国の大津波の伝承史料「前代御系譜」〟
同「洛中洛外日記」3113話(2023/09/14)〝興国の大津波は元年か二年か〟


第3261話 2024/04/01

右膝の痛みと津軽行脚の思い出

 今日は右ひざのリハビリを兼ねて町内(鴨川右岸)のしだれ桜を見に行きました。天気も良くのどかな一日でしたが、桜は満開には程遠く、花見客も例年より少ないようでした。

 この二カ月ほど、『古代に真実を求めて』27集「倭国から日本国へ」(古田史学の会編、明石書店)の校閲作業や、今年の夏に発行予定の『東日流外三郡誌の逆襲』(八幡書店)の原稿執筆のため部屋に閉じこもる日々が続き、足腰が弱っていました。そこで、先日、自宅から京都御所まで歩き、紫宸殿を早足で一周したのですが、それがまずかったようで、持病の右ひざ痛を発症してしまいました。数日痛くて歩けなかったのですが、今日は痛みがひいたので少しだけ散策しました。

 右ひざが痛むたびに古田先生のことを思い出します。三十年前のこと、古田先生と二人で何度も和田家文書調査の為、津軽を訪れたのですが、そのとき、わたしは先生と自分のキャリーバッグを両手で引きずって歩きました。先生のはやや小さめなので、わたしの体が傾き、長時間右ひざが圧迫された状態が続きました。ある日、津軽調査を終えて、先生とキャリーバッグを東京お茶の水のご自宅までお送りした後、駅の階段を降りようとしたとき、右ひざに激痛がはしりました。階段の手すりにしがみついて降りましたが、それ以来、右ひざ痛を度々発症し、特に年始の挨拶廻りでは必ず発症するという有様でした。

 リタイア後は、それほどひどい痛みは出なくなりましたが、筋力が弱り、寒くなると出ますので、適度な運動は欠かせません。ですから、右ひざの痛みを感じるたびに、古田先生との津軽行脚の日々を思い出すのです。そんな和田家文書研究の集大成ともいうべき一冊『東日流外三郡誌の逆襲』の執筆時に再発したのですから、不思議な縁だと感じています。果たして、先生は今のわたしを叱っておられるのか、褒めていただいているのか、どちらだろうかと思案する今日この頃です。


第3260話 2024/03/29

二つの「中宮」銘金石文の考察 (4)

 野中寺彌勒菩薩像銘の次に考察するのは、薬師寺東塔檫銘と呼ばれる有名な金石文です。奈良市西ノ京町にある薬師寺東塔最上層の屋根の上に出た心柱の銅製檫管に彫られた12行129文字からなる銘文です。高所にあるため、普段は見ることができません。2009~2020年の解体修理のとき、専門家による観察が行われ、調査研究が進みました。その銘文は次の通りです。句読点と大意は西本昌弘「薬師寺東塔檫銘と大友皇子執政論」に依りました(注①)。

維清原宮馭宇
天皇即位八年、庚辰之歳、建子之月。以
中宮不悆、創此伽藍。而鋪金未遂、龍駕
騰仙。大上天皇、奉遵前緒、遂成斯業。
照先皇之弘誓、光後帝之玄功、道済郡
生、業傳曠劫。式於高躅、敢勒貞金。
其銘曰、
巍巍蕩蕩、薬師如来、大発誓願、廣
運慈哀。猗㺞聖王、仰延冥助、爰
餝靈宇、荘厳調御。亭亭寶刹、
寂寂法城、福崇億劫、慶溢萬
齢。

《前半の大意》

 清原宮馭宇天皇(天武天皇)の即位八年、庚辰の歳(680年)、建子の月(11月)、中宮(皇后)の不予のため、この伽藍を創建した。ところが「鋪金未遂」の間に天皇が崩じたため、「大上天皇」が前緒に遵い、造営を成し遂げた結果、「先皇」の弘誓を照らし、「後帝」の玄功(隠れた功績)を輝かせた。

 「清原宮馭宇天皇」と宮号表記していることから、清原宮にいた天皇である天武であり、その「即位八年庚辰之歳」とは680年に当たります。「中宮」は天武の皇后と解されますから、持統のことになります。そして伽藍未完成のときに天皇が崩御したので、「大上天皇」が完成させたとあり、この「大上天皇」を持統とする説が有力とされています。律令によれば「大上天皇」とは譲位した天皇の称号ですから、持統のこととされたわけです。

 従って、銘文の成立は持統が「大上天皇」であった文武天皇の頃となります(持統の没年は大宝二年)。更に、皇后時代の持統を「中宮」、禅譲後を「大上天皇」と記していることから、大宝律令(701年成立)で中宮職や大上天皇号が定められて以降で、かつ持統存命中と考えられ、この檫銘の成立時期は701年から702年頃とする理解が成立します。

 なお、薬師寺は藤原京にあった薬師寺(本薬師寺と呼ばれている)を移築したとする説と新築とする説とで論争がありましたが、現在では新築説が定説となっているようです。文化庁HP 国指定文化財等データベース「薬師寺東塔」でも、次のように解説されています。

【解説文】薬師寺は持統・文武両帝が畝傍山東方に創建したのがはじまりで、平城京遷都にともない現在地に改めて造営された。東塔は創建時の唯一の建築で、天平二年(730)の建立と考えられている。各重に裳階をつけるため、三重塔であるが、屋根は六重。全体の安定した形態や、相輪の楽奏天人彫刻をもつ水煙など、比類ない造形美である。

 従って、現存する檫銘は藤原京の本薬師寺(もとやくしじ)にあった銘文を、730年頃に新築した平城京の薬師寺東塔に転記したとする説が有力視されています(注②)。(つづく)

(注)
①西本昌弘「薬師寺東塔檫銘と大友皇子執政論」『KU-ORCASが開くデジタル化時代の東アジア文化研究』2022年。
②東野治之「薬師寺東塔の銘文」『史料学探訪』岩波書店、2015年。


第3259話 2024/03/28

二つの「中宮」銘金石文の考察 (3)

 野中寺彌勒菩薩像銘には「中宮天皇」の他にも、不思議なことがあります。それは「丙寅年」(666年)という年次表記です。この年は九州年号の白鳳六年に当たり、九州王朝の時代ですから、中宮天皇が九州王朝の天子や有力者であったとすれば、墓誌冒頭に「白鳳六年丙寅」とあってほしいところです。なぜなら、九州年号金石文として次の例があるからです。

【九州年号金石文】
(1) 伊予国湯岡碑文 『釈日本紀』所引所引「伊予国風土記」逸文。今なし。
「法興六年十月歳在丙辰~」(法興六年は596年)

(2) 釈迦三尊像光背銘 法隆寺蔵
「法興元丗一年歳次辛巳十二月~」(法興元丗一年は621年)

(3) 白鳳壬申骨蔵器 『筑前国続風土記附録』江戸時代博多官内町出土、海元寺旧蔵 今なし
「白鳳壬申」(白鳳壬申は672年)

(4) 鬼室集斯墓碑 滋賀県日野町 鬼室集斯神社蔵
「朱鳥三年戊子十一月八日〈一字不明。殞か〉」(朱鳥三年は688年)
「鬼室集斯墓」
「庶孫美成造」

(5) 大化五子年土器(骨蔵器に転用) 茨城県岩井市江戸時代出土 冨山家蔵
「大化五子年」(大化五年は699年)
「二月十日」
※『日本書紀』の大化年間(645~649年)に「子」の年はない。九州年号「大化」年間は695~703年。「子」の年は700年(庚子)で、干支が一年ずれている(注)。

 こうした九州年号金石文とは異なる年次表記の野中寺彌勒菩薩像銘の「中宮天皇」は、九州王朝以外の天皇と考えるのが穏当ですが、近畿天皇家一元史観でも「中宮天皇」にふさわしい天皇はいません。そのため、既に亡くなっている斉明としたり、天皇ではない皇女のことと解釈したりと、未だに定説を見ません。すなわち、学問的に研究が収斂しないのです。これは学問の方法のどこかが間違っているからに他なりません。

 このことは多元史観・九州王朝説に基づく古田学派も同様で、〝九州王朝系金石文とするのであれば、なぜ白鳳六年と記されていないのか〟という疑問に答えられる仮説だけが学問的仮説として残ることができるはずです。(つづく)

(注)「大化五子年」土器の干支のずれについて、次の拙稿で論じた。
古賀達也「二つの試金石 九州年号金石文の再検討」『古代に真実を求めて』第二集(1998年、明石書店)。『「九州年号」の研究』(古田史学の会編・ミネルヴァ書房、2012年)に転載。
同「九州年号『大化』金石文の真偽論 ―『大化五子年』土器の紹介―」『九州倭国通信』200号、2020年。


第3258話 2024/03/27

二つの「中宮」銘金石文の考察 (2)

 「中宮」銘金石文のうち、まず野中寺彌勒菩薩像銘について考えてみます。同銘文は彌勒菩薩像の台座周囲に後刻されたもので、1行2文字で、全31行62文字からなります。次の通りです。

 「丙寅 年四 月大 ※朔(旧)八 日癸 卯開 記柏 寺智 識之 等詣 中宮 天皇 大御 身労 坐之 時誓 願之 奉弥 勒御 像也 友等 人数 一百 十八 是依 六道 四生 人等 此教 可相 之也」 ※「朔」や「旧」と読む説がある。

 大意は、丙寅年(666年)に中宮天皇、あるいは中宮にいる天皇が病となり、柏寺の人々が詣でて、彌勒菩薩像を奉じたというものです。病とは言え、その支配領域内で天皇といえば一人だけですから、「天皇」とだけ記せばよく、どの天皇かを特定するための「○○天皇」という表記は本来は不要です。したがって、「中宮天皇」と続けて読むよりも「中宮」と「天皇」を分けて読むという理解も成立します。その場合、句読点を付せば、次のようになるでしょう。

 丙寅年四月大朔(旧)八日癸卯開記、柏寺智識之等詣中宮。天皇大御身労坐之時、誓願之奉弥勒御像也。友等人数一百十八。是依六道四生人等、此教可相之也。

 すなわち、「柏寺智識之等が中宮を詣でる。天皇の大御身労坐之時~」と読むわけです。ただし、その場合は「中宮にいる天皇」となるのですが、それは宮号表記としての「中宮天皇」と同じ実体になります。結局のところ、「中宮にいる天皇」あるいは、「中宮天皇」と呼ばれた天皇とは誰のことなのかという問題が最重要テーマです。それは、「中宮」と呼ばれた宮殿はどこにあったのかという問題でもあるのです。

 現在でもこの「中宮天皇」を誰とするのかには諸説あり、定説はありません。すなわち、従来の近畿天皇家一元史観による限り、天皇というからには『日本書紀』に記された天皇の誰かとせざるを得ないため、適切な人物が見当たらないと言うことを示しています。他方、多元史観・九州王朝説に立てば、『日本書紀』絶対主義という「戦後型皇国史観」から解き放たれて、近畿天皇家以外の天皇ではないかとする理解が可能となります。

 このように、近畿天皇家一元史観が背景にあるため、同菩薩像や銘文の成立時期について、丙寅年(666年)ではない、あるいは後代の偽造ではないかとする見解まで出ました(注①)。この研究史について、ブログ「日々是古仏愛好」(注②)にわかりやすく解説されており、初学者にもお勧めです。現在では後代偽造説は否定されているようです。(つづく)

(注)
①東野治之「天皇号の成立年代について」『正倉院文書と木簡の研究』(塙書房、1977年)には、野中寺彌勒菩薩像やその銘文を七世紀末頃に作られた可能性が大きいとする。
②「日々是古仏愛好」〝近代 「仏像発見物語」をたどって〟
【第4話】野中寺・弥勒半跏像発見物語とその後
〈その1―2〉【2017.6.10】
〈その2―2〉【2017.6.24】
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