古賀達也一覧

古田史学の会代表古賀達也です。

第3409話 2025/01/10

『多元』185号の紹介

 友好団体である多元的古代研究会の会報『多元』185号が届きました。同号には拙稿〝二つの「白雉元年」と難波宮〟を掲載していただきました。同稿は、九州年号「白雉」には『日本書紀』型❶と『二中歴』型❷の二種類があることをエビデンスとして、『日本書紀』白雉元年(650)二月条に見える大規模宮殿での白雉改元儀式が、実は九州年号の白雉元年(652)二月に前期難波宮で開催されたものであることを論述したものです。
❶『日本書紀』型は元年を庚戌(六五〇)として、五年間続く。
❷『二中歴』型は元年を壬子(六五二)として、九年間続く。

 同号で特徴的だったのが、古田武彦記念古代史セミナー(通称:八王子セミナー)の目的「教科書を書き変える」に関する次の論稿が掲載されていたことです。

○「山川詳説日本史の主張」 昭島市 西坂久和
○「一年を顧みて」 事務局長 和田昌美

 今回から、わたしも同セミナーの実行委員として参画させていただくことになりましたので、「教科書を書き変える」という目的実現のための企画案を提出しました。「古田史学の会」の目的とも通ずる「教科書を書き変える」というセミナーの目的実現のために、微力ながら尽くしたいと思います。まずは、現行の歴史教科書の実態調査から始めることになろうかと思います。教科書に詳しい方々(教育関係者など)のご協力をお願いします。


第3408話 2025/01/08

新年の読書、

 法隆寺論争の三説(再建・非再建・移築)

 「新年の読書」で紹介している李進煕さんの論文「飛鳥寺と法隆寺の発掘」(注①)は、法隆寺論争の三説(再建・非再建・移築)のうちの非再建説ですが、その非再建説のなかで最も説得力のある主張が、李進煕さんも述べている次の指摘でした。

〝非再建説の重要なよりどころは、現在の法隆寺西院の金堂、塔、中門が大化改新(六四五年)以後には公的に使われなくなる高麗尺で設計されていることである。つまり、高麗尺(今のかね尺の一尺一寸七分五厘)と大化後の公用尺である唐の大尺(今の曲尺の九寸八分)の両方で測ってみると、高麗尺ではきちんと割り切れる数字となるけれども、唐の大尺では端数が出るのである。〟

〝こうしてみると、現在の法隆寺西院の建築様式が改めて問題とならざるをえない。いままでは、石田氏の「若草伽藍跡」発掘の結果をふまえて六七〇年の火災後の再建と認めながらも、建築様式は飛鳥時代のそれを踏襲しているということにならざるをえなかった。〟

〝また、六二三年(推古三一)につくられた金堂の釈迦三尊像についての疑問も解消する。再建説にたてば、一屋も残さず災(ママ)上したというそれこそ火急のときに、あれだけの重量のものをはたして搬出しうるのか、という疑問がどうしても解消しないのである。〟

 これらの指摘はもっともなものです。後に、心柱底部断面の年輪年代測定により、伐採年が五九四年であることも明らかになり、現法隆寺の塔や金堂などが飛鳥時代(七世紀初頭頃か)の建造物であることが有力となりました。

 他方、若草伽藍が火災で焼失したことは疑えず、現法隆寺との位置関係から、若草伽藍焼失後に法隆寺が建てられたこともまた疑えません。しかし、李進煕さんが指摘したように、法隆寺よりも古いはずの若草伽藍の五重塔心礎が法隆寺よりも新しい様式であり、編年が逆転しているというのも事実です。

 ところが、これらの矛盾点を解決しうる説が、1991年に米田良三さん(建築家)から発表されました(注②)。それは、飛鳥時代の様式を持つ九州王朝の古い寺院が、若草伽藍焼失後に移築されたとする法隆寺移築説です。その根拠は、昭和の解体修理工事により明らかとなった法隆寺の建築部材の調査報告書でした。そこには移築の痕跡が遺っていることを建築学的に明らかにされ、移築にあたり金堂と塔の位置が左右逆になっており、元々の伽藍配置は観世音寺式伽藍配置と呼ばれるものであることなどから、移築元寺院を太宰府の観世音寺としました。この移築説は九州王朝説とも対応しており、古田学派内では最有力説として注目されましたが、学界は米田説に対して沈黙したままです。(つづく)

(注)
①李進煕「飛鳥寺と法隆寺の発掘」『日本のなかの朝鮮文化』44号、朝鮮文化社、1979年。
②米田良三『法隆寺は移築された 大宰府から斑鳩へ』新泉社、1991年。


第3407話 2025/01/05

新年の読書、

  李進煕「飛鳥寺と法隆寺の発掘」

「新年の読書」に選んだ『日本のなかの朝鮮文化』(注①)の44号に掲載された李進煕さんの論文「飛鳥寺と法隆寺の発掘」は、法隆寺再建説で決着した論争に対して、非再建説を新たな視点で論じたものです。それは、法隆寺よりも古いはずの若草伽藍の五重塔心礎が法隆寺よりも新しい様式であり、編年が逆転しているというのものです。

この他にも李進煕さんは若草伽藍発掘調査報告の矛盾点を指摘し、若草伽藍には火災の痕跡が見えないと主張します。

〝「心礎」が通説どおり地上に据えられていたならば、その上に建っていた木造の塔が六七〇年火災で焼け、心礎もぼろぼろに焼けただれているはずである。しかし、そうした痕跡は認められない。また、石田氏(石田茂作)が塔と金堂跡だと推定した「遺構」の周辺から焼土と木炭が認められたが、それはほんの一部にかぎられていて、「一屋余すところなく焼けてしまった」状態を示すものではなかった。この程度の「焼土と木炭」では、天智九年火災の証拠とはならないのである。〟

このような李進煕さんの主張は、「飛鳥寺と法隆寺の発掘」を発表した1979年当時であれば一定の説得力がありましたが、現在までの発掘調査により、若草伽藍の西側から火災で焼けたと思われる壁画片や熱で熔けた金属(注②)、南側からは焼けた壁土片(注③)が出土しており、若草伽藍が火災で焼失したことは疑えず、『日本書紀』天智九年条の法隆寺火災記事は信頼できると思われます。

喜田貞吉氏の〝燃えてもいない寺が燃えてなくなったなどと『日本書紀』編者は書く必要がない〟とする主張(論証)が正しかったことが、今日までの考古学的出土事実(実証)により明確となりました。(つづく)

(注)
①『日本のなかの朝鮮文化』44号、朝鮮文化社、1979年。
②2004年12月10日付朝日新聞(WEB版)によれば、若草伽藍跡の西側で7世紀初めの彩色壁画片約60点が出土し、『日本書紀』に記述される670年の火事で焼失した寺の金堂や塔の壁画とみられる。破片は1千度以上の高温にさらされており、創建法隆寺(若草伽藍)の焼失を裏づける有力な物証ともなった。また、溶けた金属片も確認された。創建法隆寺は内部まで焼き尽くす火災に遭ったことが推測されるとのこと。
③2024年3月1日の産経新聞(WEB版)によれば、若草伽藍の南端の可能性が高い溝跡が発掘調査により見つかり、溝跡には7世紀の瓦が大量に廃棄されており、焼けた壁土片もあることから建物が火災で焼けた後にまとめて捨てられたとみられるとのこと。


第3406話 2025/01/03

新年の読書『日本のなかの朝鮮文化』

 正月の恒例行事としている「新年の読書」。令和七年は、拙宅から二軒先のお隣にある韓国古美術店〝スモモ〟の李さんからいただいた『日本のなかの朝鮮文化』のバックナンバーを読むことにしました。同書は李さんのお父上(高麗美術館(注①)の創立者)が発行したもので、わたしも何冊か持っていました。そのことを李さんに告げると、店頭に並んでいた44号(1979年)・45号(1980年)・46号(1980年)・47号(1980年)・48号(1980年)の五冊をプレゼントしていただきました。
今、くり返し読んでいるのが、44号に掲載された李進煕さん(注②)の「飛鳥寺と法隆寺の発掘」です。同論文は法隆寺再建説に対する批判ですが、1939年の発掘調査により火災の痕跡を持つ若草伽藍が発見され、法隆寺論争は再建説で決着していたので、1979年当時、どのような理由で再建説を批判したのだろうかと興味深く読みました。李進煕さんの主張は次の通りです。

〝私のいだいていた疑問の一つは、飛鳥時代の寺院は塔の心礎がすべて地下深いところにあるのに、「若草伽藍」のそれはどうして地上に据えられたのか、ということであった。ちなみに、百済の軍守里廃寺の心礎は地下六尺のところにあって、飛鳥時代のそれは、
四天王寺 基壇より十一・五尺
法隆寺  基壇より一〇尺
法興寺  基壇より九尺
中宮寺  基壇より七・五尺
となっている。ここで注目されるのは、現在の法隆寺五重塔が再建されたものであるならば、心礎が地上にあるべきなのに実際は地下九尺の深さにあり、地下にあるべき「若草伽藍」のそれは地上にあることである。つまり、両方ともまったく例外的存在となっているわけである。〟

 この指摘には、なるほどと思いました。確かに古代寺院の五重塔の心礎は古いほど版築基壇よりも更に地中深い位置にあり(法隆寺が著名)、七世紀中頃には基壇中まで上がり、後半頃になると基壇上部に心礎が置かれます(太宰府の観世音寺。白鳳十年 670年創建)。この心礎の位置が五重塔創建年代の編年に利用できます(注③)。ちなみに、心礎の位置は更にせり上がり、たとえば京都の東寺の五重塔の心柱は基壇上部よりも30㎝ほど上に浮いていました。わたしが二十代の頃、東寺の貫首のご好意により見せて頂いたことがあります。このタイプの構造は「梁上型」とか「宙づり型」と呼ばれているようです。

 李進煕さんの指摘によれば、法隆寺よりも古いはずの若草伽藍の五重塔心礎が法隆寺よりも新しい様式であり、編年が逆転しているというのです。このことについて若草伽藍現地を確認した李進煕さんは次のように記しています。

〝現場(若草伽藍跡)を訪れたとき、私はまず「塔心礎」に注目した。それは、高さが一・二メートル、四方が各々二・七メートルもある巨石だが、一九六八年の発掘の結果、「従来の推定とは異なり地中深くに埋地されたものではなく、地山面近くに直接据えられたもの」(榧本杜人「若草伽藍跡の発掘調査」『月刊文化財』第六十三号)であることがはっきりしていた。〟※(若草伽藍跡)は古賀による。

 この他にも李進煕さんは若草伽藍発掘調査報告の矛盾点を指摘し、若草伽藍は飛鳥時代よりも新しい遺跡と主張しています。そして、結論として法隆寺西院伽藍こそ飛鳥時代の建築物であり、若草伽藍とは無関係とする法隆寺非再建説を唱えました。(つづく)

(注)
①高麗美術館は京都市北区にある美術館。1988年開館。高麗青磁・朝鮮白磁をはじめとする陶磁器や、考古資料、絵画、民俗資料など、朝鮮半島の美術工芸品1700点を収蔵する日本唯一の韓国・朝鮮の専門美術館。高麗美術館研究所を付置する。1988年、在日朝鮮人の実業家である鄭詔文(チョン・ジョムン、1918年~1989年)の蒐集品をもとに創設された。収蔵された朝鮮の美術品は日本で蒐集されたもの。1998年、上田正昭が第二代館長に就任。2016年より井上満郎が第三代目館長に就任。(ウィキペディアを参照)
②李 進熙(り じんひ、1929年~2012年)は、在日韓国人の歴史研究者・著述家。和光大学名誉教授。文学博士(明治大学)。専門は考古学、古代史、日朝関係史。慶尚南道出身。1984年に韓国籍を取得。好太王碑文改竄説を唱え、改竄されていないとする古田武彦との論争は有名。その後、古田らの現地調査により改竄はなかったことが確認された。
③古賀達也「洛中洛外日記」1399話(2017/05/17)〝塔心柱による古代寺院編年方法〟


第3405話 2025/01/01

新年の対話、数学者との賀正宴

 令和七年の元旦、京都は快晴。今年もカフェ〝出町ビギン〟でおせちと銘酒獺祭(だっさい。注①)をいただきました。言わば賀正宴です。獺祭はわたしからのリクエストです。祇園のお店でママをしていたこともあるビギンのママの手料理で飲む獺祭は格別です。店頭にはママお手製の紅白の餅花(注②)が飾られており、京都花街のようなお正月風情で客人をもてなしてくれます。

 今日の最大の楽しみは、京都大学の数学者Aさんとの対話でした。わたしは朝9時の開店から訪れ、常連さんと獺祭を飲んでいたところ、お昼前にAさんが来店され、4時間にわたり学問論議(異業種交流)と酒宴を続けました(わたしは獺祭を4合飲んだらしい)。Aさんはフェルマーの最終定理解明に貢献した志村五郎博士(注③)のお弟子さん筋の方で、国家プロジェクトにも関わっている若手数学者です。今日は数学という分野の学問的性格について教えていただきました。

 数学者の荻上紘一先生(注④)からうかがった次の話について、他の数学者からも意見を聞いてみたいと願っていました。

〝数学には「学説」というものもないし、たとえば古田「史学」とか多元「史観」という概念が存在しませんから、「学派」も存在し得ません。証明された定理があるだけですから。〟(注⑤)

 この見解は数学界の共通認識なのかと問うたところ、「原理的にはその通りです」とのことでした。そして次の説明がありました。

〝数学には「流派・流儀」と言えるものならあります。証明を行うにあたって、「流派」によって得意とする流儀や方法(わざ)があります。そこでは論争があり、証明が成立しているのか否かについて見解が異なることもあります。〟

 このような小難しい話を二人で延々と続けました。Aさんは数学が大好きでたまらないという感じで、今、読んでいる数論の解説書がとても面白いと見せて頂きました。もちろん、わたしには全く理解できない数式が並んでいました。また、京都大学には際だって優れた学生がいて、期待しているとのことでした。
わたしからは化学と古代史学について、メディアではいかに科学の基本原理に反する報道がなされているのかを説明しました。たとえば「森林は二酸化炭素を吸収する」「温暖化でツバルが沈んでいる」などです。古代史学では、倭人伝原文には「邪馬壹国」とあるのに、「邪馬臺(台)国」として論文や教科書が書かれ続けていることを説明すると、「それは研究不正じゃないですか」との指摘がかえってきました。
とても楽しく有意義な新年の宴でした。また、お会いして学問談義をすることを約束しました。

(注)
①山口県岩国市旭酒造の純米大吟醸酒。
②餅花(もちはな)とは、正月に、木の枝に小さく切った餅や団子をさして飾るもの。
③志村五郎(しむら ごろう、1930年~2019年)は、日本出身の数学者。プリンストン大学名誉教授。専門は整数論。静岡県浜松市出身。
谷山-志村予想によるフェルマー予想解決への貢献、アーベル多様体の虚数乗法論の高次元化、志村多様体論の展開などで知られる。国際数学者会議に招待講演者として4回招聘されているほか、スティール賞、コール賞を受賞した日本を代表する数学者の一人。また、趣味で中国説話文学を収集しており、中国文学に関しての著作も複数存在する。(ウィキペディアによる)
④大学セミナーハウス理事長で数学者。古田武彦氏が教鞭をとった長野県松本深志高校出身。東京都立大学総長、大妻女子大学々長を歴任。2021年、瑞宝中綬章受章。古田武彦記念古代史セミナーの実行委員長。
⑤古賀達也「洛中洛外日記」2877話(2022/11/15)〝「学説」「学派」が「存在しえない領域「数学」〟


第3404話 2024/12/31

教科書に「邪馬壹国」説が載った時代

 大学セミナーハウス主催の「古田武彦記念古代史セミナー2025」(通称:八王子セミナー)の実行委員をさせていただくことになり、過日の実行委員会にリモートで初参加しました。そのおり、荻上紘一実行委員長(注①)から同セミナーの目的は「教科書を書き変える」であることが強調されました。それは「古田史学の会」創立の精神(注②)にも通じるものですから、わたしは賛意と協力を表明しました。

 とは言え、精神論や抽象論だけではだめですから、教科書を書き変えるための具体的な手続きの調査、そして近年での成功事例として「五代友厚の名誉回復」についての勉強を進めています(注③)。このことは別に紹介したいと思います。

 ご存じの方は少なくなったと思いますが、古田説が教科書に掲載されたことがありました。それは1980年頃の高校歴史教科書です。当時、16種の歴史教科書が出版されており、その内2種の教科書に通説の「邪馬台国」とともに古田説の「邪馬壹国」が記載されていました。中でも家永三郎氏が執筆した三省堂の教科書『新日本史』脚注には次のように書かれていました(注④)。

「今日伝わる文献のうち、『後漢書』『梁書』『隋書』などには邪馬臺国とあり、『魏志倭人伝』では、邪馬台国を邪馬壹国と記すが、邪馬臺(台)が正しいとする説が有力である。」

 もう一つの門脇禎二氏らによる『高校日本史』(三省堂)には本文中に次のように記されています。

「各地約30の小国を統合し、支配組織をより大きくととのえた国家が出現した。中国の『魏志倭人伝』に記された邪馬臺国(以下、邪馬台国と書く。邪馬「壹」国説もある)」

 その他14の教科書には「邪馬臺(台)国」だけが記されています。現在の歴史教科書全てを見たわけではありませんが、いつのまにか「邪馬壹国」は消されたようです。「邪馬壹国」が併記された教科書が今もあれば、ご教示下さい。「教科書を書き変える」の一つとして、1980年頃の「邪馬壹国」が併記されていた教科書に「書き戻す」ことから取り組むのが現実的かもしれません。

(注)
①大学セミナーハウス理事長で数学者。古田武彦氏が教鞭をとった長野県松本深志高校出身。東京都立大学総長、大妻女子大学々長を歴任。二〇二一年、瑞宝中綬章受章。
②古田史学の会・会則第2条に次の目的が明記されている。
「本会は、旧来の一元通念を否定した古田武彦氏の多元史観に基づいて歴史研究を行い、もって古田史学の継承と発展、顕彰、ならびに会員相互の親睦をはかることを目的とする。」
③八木孝昌『五代友厚 名誉回復の記録 ―教科書等記述訂正をめぐって―』PHP研究所、2024年。
《同書著者による解説》『新・五代友厚伝』(PHP研究所)発刊後に大阪市立大学同窓会を中心に始まった五代名誉回復活動は、この4年間で劇的な結末を迎えた。明治14年の開拓使官有物払い下げ事件で政商五代が不当な利益をたくらんだとする高校日本史教科書の記述が訂正されるとは、誰が予想したであろうか。本書は教科書記述訂正に至るプロセスを克明に追った迫真のドキュメントであるとともに、真実を求める活動の未来を指し示す希望の書である。
◆五代友厚 1836~85年。薩摩藩の士族出身。明治政府の役人として今の大阪府知事にあたる「判事」を務めた後、実業界に転じた。「日本資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一と並び「東の渋沢、西の五代」と称された。
④百埼大次「『邪馬台国』から邪馬壹国へ」『市民の古代・古田武彦とともに』第二集増補版、古田武彦を囲む会編(後に「市民の古代研究会」に改称)、1980年。増補版は1984年刊。


第3403話 2024/12/30

「列島の古代と風土記」

(『古代に真実を求めて』28集)の目次

来春発行予定の『古代に真実を求めて』(明石書店)の初校ゲラ校正が年末年始の仕事の一つになりました。28集のタイトルは「列島の古代と風土記」です。2024年度賛助会員に進呈しますが、書店やアマゾンでも購入できます。目次は次の通りです。

【巻頭言】多元史観・九州王朝説は美しい 古賀達也

【特集】列島の古代と風土記
「多元史観」からみた風土記論―その論点の概要― 谷本 茂
風土記に記された倭国(九州王朝)の事績 正木 裕
筑前地誌で探る卑弥呼の墓―須玖岡本に眠る女王― 古賀達也
《コラム》卑弥呼とは言い切れない風土記逸文にみられる甕依姫に関して 大原重雄
筑紫の神と「高良玉垂命=武内宿禰」説 別役政光
新羅国王・脱解の故郷は北九州の田河にあった 野田利郎
新羅来襲伝承の真実―『嶺相記』と『高良記』の史料批判― 日野智貴
『播磨風土記』の地名再考・序説 谷本 茂
風土記の「羽衣伝承」と倭国(九州王朝)の東方経営 正木 裕
『常陸国風土記』に見る「評制・道制と国宰」 正木 裕
《コラム》九州地方の地誌紹介 古賀達也
《コラム》高知県内地誌と多元的古代史との接点 別役政光

【一般論文】
「志賀島・金印」を解明する 野田利郎
「松野連倭王系図」の史料批判 古賀達也
喜田貞吉と古田武彦の批判精神―三大論争における論証と実証― 古賀達也

【付録】
古田史学の会・会則
古田史学の会・全国世話人名簿
友好団体
編集後記
第二十九集投稿募集要項 古田史学の会・会員募集


第3402話 2024/12/29

九州王朝の都、太宰府の温泉 (4)

九州王朝の多利思北孤が次田温泉(すいたのゆ)がある太宰府に都(倭京)を造営し、遷都(遷宮)したのは九州年号の倭京元年(618年)と考えています(注①)。そこで今回は阿毎多利思北孤と温泉という視点で考察しました。

多利思北孤は旅行が好きだったようで、その痕跡が諸史料に残されています(注②)。その代表が伊予温湯碑銘文です。碑は行方不明ですが、その銘文が『釈日本紀』または『万葉集註釈』所引「伊予国風土記逸文」に見えます。下記のようです。JISにない字体は別字に置き換えていますが、本稿テーマの主旨には問題ないと思いますので、ご容赦下さい。

○伊予温湯碑銘文
法興六年十月、歳在丙辰、我法王大王与恵慈法師及葛城臣、逍遥夷与村、正観神井、歎世妙験、欲叙意、聊作碑文一首。

惟夫、日月照於上而不私。神井出於下無不給。万機所以妙応、百姓所以潜扇。若乃照給無偏私、何異干寿国。随華台而開合、沐神井而瘳疹。詎舛于落花池而化羽。窺望山岳之巖崿、反冀平子之能往。椿樹相廕而穹窿、実想五百之張蓋。臨朝啼鳥而戯哢、何暁乱音之聒耳。丹花巻葉而映照、玉菓弥葩以垂井。経過其下、可以優遊、豈悟洪灌霄庭意歟。才拙、実慚七歩。後之君子、幸無蚩咲也。

冒頭の「法興六年」は多利思北孤の「年号」で596年(注③)に当たります。多利思北孤(法王大王)が恵慈法師と葛城臣を伴って伊予まで行幸したことを記した碑文です。夷与村で神井を見たことを記念して碑文を作ったとあり、その文に「沐神井而瘳疹」とありますから、神井に沐浴したようです。「神井」とあり、温泉とは断定できませんが(注④)、多利思北孤は旅先での沐浴を好んでいたようにも思われます。

この後、倭京元年(618)に新都「倭京」を太宰府に造営・遷都したのも、今の二日市温泉、次田温泉(すいたのゆ)が近傍にあることが理由の一つにあったものと、この碑文からうかがえるのではないでしょうか。(おわり)

(注)
①古賀達也「よみがえる倭京(太宰府) ─観世音寺と水城の証言─」『古田史学会報』50号、2002年。
②正木 裕「多利思北孤の『東方遷居』について」『古田史学会報』169号、2022年。
③正木裕氏によれば、「法興」は多利思北孤が仏門に入ってからの年数であり、それを「年号」的に使用したとする。
正木 裕「九州年号の別系列(法興・聖徳・始哭)について」『古田史学会報』104号、2011年。
④合田洋一氏の説によれば、碑文の「神井」は松山市の道後温泉ではなく、西条市にあった神聖(不可思議)な泉のこととする。
合田洋一『葬られた驚愕の古代史』創風社出版、2018年。


第3401話 2024/12/24

『梁塵秘抄』次田温泉の入浴順新考

 「洛中洛外日記」3398話(2024/12/20)〝九州王朝の都、太宰府の温泉 (2)〟において、九州王朝御用達温泉としての次田温泉(すいたのゆ、二日市温泉)の入浴順序が『梁塵秘抄』に記されていることを紹介しました。次の歌です。

「次田(すいた)の御湯の次第は、一官二丁三安楽寺、四には四王寺五侍、六膳夫、七九八丈九傔仗、十には國分の武蔵寺、夜は過去の諸衆生」 日本古典文学大系『和漢朗詠集 梁塵秘抄』383番歌

 この歌によれば、最初に入浴するのは太宰府の高官、次に丁(観世音寺の僧侶と理解されているが未詳)、安楽寺の僧侶、四王寺の僧侶、太宰府勤務の武士、太宰府勤務の料理人が続き、「七九八丈」の意味も不明。「けむ丈」は傔仗で護衛の武士。そして最後に入浴するのは武蔵寺の僧侶、夜は過去の諸衆生とされています。

 概ねこうした理解になるとは思いますが、「丁」を「寺」の誤りとして、観世音寺の僧侶とすることには賛成できません(注①)。なぜなら平安時代に於いて、何の説明もなく「丁」とあれば、律令で定められた労役にあたる「丁(よぼろ)」とするのが常識的な理解だからです。おそらく、歌の中に「三安楽寺」「四には四王寺」「十には國分の武蔵寺」という当地の著名な寺院名が詠み込まれているのに、太宰府を代表する寺院である観世音寺が無いことから、「一官」に続く「二丁」を観世音寺のこととしたものと思われます。しかし、これは誤解と言わざるを得ません。それは次の事情からです。

(a) 「宮」と並んで特に説明もなく「丁」とあれば、この時代の「丁」の字の第一義は律令による「丁(よぼろ)」である。これを「寺」のことと理解するのは無理。
(b) 後白河法皇(1127~1192年)の編纂とされる『梁塵秘抄』の成立は治承年間(1177~1181年)の作とされている。
(c) 平安時代以降の観世音寺はたび重なる火災や風害によって、創建当時の堂宇や仏像をことごとく失っている。康平七年(1064年)には火災で講堂、塔などを焼失。康和四年(1102年)には大風で金堂、南大門などが倒壊。その後復旧した金堂も康治二年(1143年)の火災で再焼失。治承年間頃に編纂された『梁塵秘抄』成立の頃には、観世音寺は廃寺同然となっていたであろう。
(d) 次田温泉の入浴順序の歌に、焼失していた観世音寺の僧の入浴順序が詠まれているとは考えにくい。この歌は編纂当時の太宰府で人口に膾炙していた「今様歌謡」(注②)とするのが穏当な理解であれば、「丁」を観世音寺僧のこととする解釈は無理筋である。
(e) 以上の理由から、この「丁」は字義通り、太宰府の労役に就いていた「よぼろ」(庶民)のことと解するのが最有力である。

 このようにわたしは考えました。そうであれば、次田温泉(すいたのゆ)の入浴順序は、太宰府の高官に続いて庶民から徴発された「丁(よぼろ)」であり、僧侶や武人、料理人よりも「丁(よぼろ)」が優先されていたことになります。これは当時の太宰府の人々の思想性を探る上でも貴重な歌と言えそうです。日々、労役に就く「丁(よぼろ)」の疲れや病を癒やすことを、僧侶や武人の入浴よりも優先するという判断(思想)は日本的で思いやりのある制度ではないでしょうか。もちろん、この入浴順序が七世紀の九州王朝時代と同じかどうかは、本稿の研究方法やエビデンスでは未詳とせざるを得ません。

(注)
①日本古典文学大系『和漢朗詠集 梁塵秘抄』383番歌頭注に、「丁―「寺」の誤写で観世音寺か。」とあり、補注には「山田博士(山田孝雄)」の説として、「丁は或は寺の誤写にして観世音寺をさせるか。」を紹介する。
②日本古典文学大系の「解説」には、『梁塵秘抄』は今様歌謡の時代を代表する「今様の集」であるとする。


第3400話 2024/12/23

九州王朝の都、太宰府の温泉 (3)

 太宰府条坊都市の近傍(南端)にある二日市温泉の存在が古代に遡り(注①)、九州王朝の天子や太宰府の官僚、庶民にとって貴重な温泉(次田温泉・すいたのゆ)であり、いうならば九州王朝が管理した王朝御用達の温泉だったと考えました。そのことを示す史料として、平安時代末期、後白河法皇が編纂した歌謡集『梁塵秘抄』に収録された、二日市温泉(すいたの湯)での入浴の順番を示した歌を紹介しました。

 「次田(すいた)の御湯の次第は、一官二丁三安楽寺、四には四王寺五侍、六膳夫、七九八丈九傔仗、十には國分の武蔵寺、夜は過去の諸衆生」 日本古典文学大系『和漢朗詠集 梁塵秘抄』「梁塵秘抄」383番歌、岩波書店。

 次いで検討したのが、太宰府(倭京)をこの地に造営した理由です。九州王朝の多利思北孤がこの地に都を造営し、遷都(遷宮)した理由は次の点ではないかと考えています。

(1) 新羅や高句麗による北(博多湾)からの侵攻と、隋による南(有明海)からの侵攻に対して、防衛に有利な地である。水城と筑後川が防衛ラインとなる。
(2) 北に大野城(列島最大の山城)、南に基山(城山)があり、緊急避難が可能。
(3) 筑後・豊前・豊後・肥前・肥後へと向かう官道があり、交通の要所に位置する。
(4) 福岡平野や筑紫平野という九州最大の穀倉地帯がある。
(5) 南の朝倉方面には最古の須恵器窯跡があり、西には三大須恵器窯跡群(注②)の一つ、牛頸(うしくび)窯跡群が有り、太宰府条坊都市へ土器や瓦を供給できる。
(6) 近隣に次田温泉(二日市温泉)があり、王家の人々や官僚、武人の湯治に便利である。

 以上のように、太宰府(倭京)は実に優れた地に造られた都と言えます。特に、古代に於いて京内に温泉を持つことは、難波京・近江京・藤原京・平城京・平安京にはない一大利点です。(つづく)

(注)
①『万葉集』巻六 961番歌の大伴旅人の歌に「次田(すいた)温泉」とあり、二日市温泉のこととされる。
作者 大伴旅人
題詞 帥大伴卿宿次田温泉聞鶴喧作歌一首
原文 湯原尓 鳴蘆多頭者 如吾 妹尓戀哉 時不定鳴
訓読 湯の原に鳴く葦鶴は我がごとく妹に恋ふれや時わかず鳴く
②堺市の陶邑、名古屋市の猿投山(さなげやま)と牛頸(うしくび)の須恵器窯跡群は三大須恵器窯跡群遺跡と称される。


第3399話 2024/12/22

「風土記」研究の難しさ

 昨日、 「古田史学の会」関西例会が都島区民センターで開催されました。1月例会の会場は豊中自治会館です。翌日(1/19)は京都市(キャンパスプラザ京都)で新春古代史講演会を開催します。今回の講演テーマは人気が高いようで、連日、問い合わせ電話があり、南は佐賀県・福岡県、北は福島県の方からも、参加したいとの声が届いています。

 今月、わたしは「王朝交代前夜の天武天皇 ―飛鳥・藤原木簡の証言―」を発表しました。これは先月発表した「九州王朝研究のエビデンス ―「天皇」木簡と金石文―」の続編です。飛鳥池から出土した「天皇」「○○皇子」木簡は天武とその子どもとされていますが、その天武が「壬申の乱」の勝者になった後、九州王朝から天皇号を認められたのはいつ頃からかについて論じました。

 谷本さんの発表も感慨深いものでした。その内容はもとより、風土記研究の難しさ、なかでも風土記に見える未詳地名の研究が進んでいないことの言及には考えさせられました。谷本さんが所属している風土記学会も会員数が少なく、風土記研究はマイナーな分野のようでした。

 来春発行する『列島の古代と風土記』(『古代に真実を求めて』28集、明石書店)の初校ゲラ校正作業を続けていますが、古田「風土記」論の概要を紹介した同書巻頭論文〝「多元史観」からみた風土記論 ―その論点の概要―」〟は谷本さんに執筆していただいたものです。確かに古田学派内でも「風土記」研究はあまり活発とは言えません。同書発行を期に、多元史観・九州王朝説に基づく多元的「風土記」研究が進むことを期待しています。

 12月例会では下記の発表がありました。発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。

〔12月度関西例会の内容〕
①『播磨国風土記』地名考(3)
―宍禾(シサハ)郡・柏野(カシハノ)里の地名(その2)― (神戸市・谷本 茂)
②船王後墓誌に出てくる三人の天皇について (茨木市・満田正賢)
③2024年古田学派YouTube動画について(報告) (東大阪市・横田幸男)
④王朝交代前夜の天武天皇 ―飛鳥・藤原木簡の証言― (京都市・古賀達也)
⑤もう一人の倭王と純陀太子 (大山崎町・大原重雄)
⑥「倭京」とタリシホコ 最終章 (東大阪市・萩野秀公)
⑦縄文語で解く記紀の神々 景行帝と倭健 (大阪市・西井健一郎)
⑧『法華義疏』の「大委」は国名ではなかった (姫路市・野田利郎)

○1/19新春古代史京都講演会と懇親会の案内 (代表・古賀達也)

□「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円
01/18(土) 10:00~17:00 会場 豊中自治会館 ※翌日1/19(日)は新春古代史講演会(京都)です。
02/15(土) 10:00~17:00 会場 豊中自治会館
03/15(土) 10:00~17:00 会場 豊中自治会館


第3398話 2024/12/20

九州王朝の都、太宰府の温泉 (2)

 「温泉」という切り口と多元史観・九州王朝説に基づき研究を始めたのですが、太宰府条坊都市の近傍(南端)にある二日市温泉の存在が古代に遡ることがわかり、九州王朝の天子や太宰府の官僚、庶民にとって貴重な温泉(次田温泉・すいたのゆ)であることに気づきました。いうならばそれは九州王朝が管理した王朝御用達の温泉だったと思われるのです。

 ちなみに筑紫野市観光協会のHPによれば、二日市温泉の泉温は55.6度、泉質はアルカリ性単純温泉(低張性アルカリ性高温泉)で、神経痛、筋肉痛、関節痛、五十肩、運動麻痺、関節のこわばり、うちみ、くじき、慢性消化器病、痔症、冷え性、病後回復期、疲労回復、健康増進に効果があるとされています。
古代に於いて都の近くの温泉であれば、王朝にとっても貴重な施設であったはずです。そのことを示す史料がありました。平安時代末期、後白河法皇が編纂した歌謡集『梁塵秘抄』です。同書には、二日市温泉(すいたの湯)での入浴の序列を示した次の歌があります。

 「すいたのみゆのしたいは、一官二丁三安楽寺 四には四王寺五さふらひ、六せんふ 七九八丈九けむ丈 十にはこくふんのむさしてら よるは過去の諸衆生」

 岩波の日本古典文学大系『和漢朗詠集 梁塵秘抄』には次のように表記されています。

 「次田(すいた)の御湯の次第は、一官二丁三安楽寺、四には四王寺五侍、六膳夫、七九八丈九傔仗、十には國分の武蔵寺、夜は過去の諸衆生」 383番歌

 この歌によれば、最初に入浴するのは太宰府の高官、次に丁(観世音寺の僧侶と理解されているが未詳)、安楽寺の僧侶、四王寺の僧侶、太宰府勤務の武士、太宰府勤務の料理人が続き、「七九八丈」の意味も不明。「けむ丈」は傔仗で護衛の武士。そして最後に入浴するのは武蔵寺の僧侶、そのあと(夜)は過去の諸衆生(先祖の霊か)とされています。

 これは平安時代の序列ですが、七世紀の九州王朝時代であれば、太宰府の高官の前に、天子やその家族が入浴したのではないでしょうか。昼間の最後に武蔵寺の僧侶とされていますが、同温泉の所在地が旧・武蔵寺村ですから、地元の寺の僧侶が後片付けや掃除の担当だったのかもしれません。しかし、この歌には庶民の入浴が記されていませんので、古代でも「川湯」だったのであれば、庶民は下流で入浴していたのかもしれません。(つづく)