古賀達也一覧

古田史学の会代表古賀達也です。

第2570話 2021/09/16

『東日流外三郡誌』に使用された和紙(2)

 『東日流外三郡誌』を始めとする和田家文書に使用されている紙が明治時代末頃の和紙らしいことまでは分かってきたのですが、それを確認する方法はないものかと思案していたところ、古田先生が講演(注①)で次のようなことを話されました。

〝『丑寅風土記』(和田家文書)の先頭に和田末吉が、佐々木嘉太郎(五所川原の豪商)という紙問屋の御主人に対して感謝の言葉を書いてある。つまり寛政原本が古びて破損してきたので和田末吉が筆写しています。それが出来たのは、もっぱら和紙を提供していただいた佐々木嘉太郎さんのおかげであると、感謝の辞を筆写した文言の中に書き連ねている。
 和田末吉は不用になった大福帳を貰ってきて、それに『東日流外三郡誌』を筆写している。この「北斗抄」の最後のところに岐阜県の美濃の会社名の判子がいくつも押してありました。つまり和紙は美濃紙なのです。美濃紙のことを、岐阜県の博物館や美術館に行って郷土史に詳しい方にお聞きすれば、この判子は明治何年まで使っていました。そのようなことが分かるのではないか。〟〈講演録を古賀が要約〉

この講演を聴いた、当時岐阜県に住んでいた竹内強さん(古田史学の会・東海 会長)による執念の美濃紙調査が始まりました。この時のことを竹内さんは次のように報告されています(注②)。

〝講演終了後、「私は岐阜に住んでいます。一度調べてみましょうか。」と申し出ていた。こんな大変なことを素人の私が申し出たことを今思えば、冷汗の出る思いです。
 古田氏から渡された九枚の「北斗抄」のコピーをよく見ると四つに大別することができる。

 A、判印の無いもの
 B、岐阜市元濱町山下商店の角印
  「常盤」の大判、「ヤマセ」の記号(屋号)
 C、「岐阜市岡田商舗」の角印
  「八島」の大判、「マル小」の記号
 D、読みとれない角印「白龍」の大判、「カネト」の記号

 Cの「八島」の大判、岡田商舗の印の用紙は、明治三十年から明治末期までの間に「紙兵」の前身、玉井町に店のあった岡田商舗から売られた美濃和紙にまちがいない。(中略)
 美濃史料館の(中略)一番奥の資料展示室をのぞいて興奮した。なんと私が探していた、Dの大判「白龍」の版木がそこに展示してあるのだ。よくわからなかった角印も、更に見わたすとあの「カネト」の屋号の入った判天や提灯があちこちに置いてあるのです。
 係の人に話を聞くと、ここ今井家は、江戸時代からの庄屋で、その一方で和紙問屋も商っていた。当主は、代々今井兵四郎を名乗り明治三十年代に最も栄えたが、昭和十六年子孫が絶えて紙問屋も廃業となり、現在この建物は美濃市の管理となって、史料館として利用されているとのことです。
 これまでの調査の結果をまとめてみると、B、C、Dの紙がほぼ同時期の品物であれば明治三十年から四十年代末のものと思われる。〟

 和田家文書に捺されていた角印を手がかりに、現在は廃業している紙問屋の御子孫を探し出し、それらの問屋が明治末頃に操業していたことを突き止められたのです。竹内さんの執念の調査により、和田家文書に明治末頃の美濃和紙が使用されていたことが判明したのでした。この調査結果は真作説を決定づけるものです。戦後偽作説では、あれだけの大量の明治末頃の美濃和紙の入手を説明できないからです。

(注)
①古田武彦講演録「王朝の本質1 九州王朝から東北王朝へ」2003年6月29日、大阪市 毎日新聞社ビル六階研修センター。
②竹内強「寄稿 和田家文書『北斗抄』に使用された美濃和紙を探して」『和田家資料3 北斗抄 一~十一』藤本光幸編、北方新社、2006年。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosa108/takeutim.html


第2569話 2021/09/16

『東日流外三郡誌』に使用された和紙(1)

 今から30年程前のことです。『東日流外三郡誌』の真偽が問題となった当時、わたしは和田家文書を偽作文書と思い、お叱りを受けることを覚悟して古田先生に数度にわたり意見しました。しかし、先生は頑として同書は真作であると主張され、論議は平行線をたどりました。そこでわたしは、古田先生の和田家文書調査に同行させてほしいとお願いしました。そして、1994年5月に古田先生と二人で五所川原市を訪問し、所有者の和田喜八郎さんと支援者の藤本光幸さん(共に故人)にお会いし、和田家文書を初めて見ることができました。その経緯は『古田史学会報』(注①)に掲載しました。
 そのときの第一印象は、紙質や墨跡などの状況から戦後になって偽作されたものとは思えず、また、失礼ながら和田喜八郎さんが執筆に必要な歴史教養をお持ちとはとても感じられないというものでした。しかし、それだけでは学問的根拠にはなりませんので、文面だけではなく、使用された和紙の調査、大福帳などの裏紙再利用の場合は裏面の文字や内容に至るまで調べました。更に専門家の意見を聞くために和田家文書の一部をお預かりして、紙の調査も行いました。その結果、お二人の方から所見を聞くことができました。
 お一人は中井康さん(故人)。わたしの元勤務先の上司(研究開発部長、京都工芸繊維大学卒)で、和紙や繊維・染料の専門家です。わたしとの質疑応答については『古田史学会報』(注②)に掲載しました。

 「紙質については、和紙や染料に造詣が深い、中井康さん(山田化学工業(株)相談役・京都工芸繊維大学卒)に見ていただいたところ、手漉の和紙であるとの見解を得た。他の文書も同様であった。」『古田史学会報』8号

 もうお一人は、『北海道史』編纂に関わられた永田富智さん(故人)です。1996年8月、北海道松前町阿吽寺での聞き取り調査で次のように証言されました(注③)。

〈永田さん〉それ(『東日流外三郡誌』)を私が見せてもらった時(昭和46年)に、一番最初に感じたのは、まず、たくさんの記録が書かれてありますが、その記録は古いものではないということです。それから、墨がそんなに古いものではない。だいたい明治の末期頃のものだという感じを受けました。
 それは何故かというと、だいたい明治の末頃にはやりだした機械織りの和紙がありまして、その和紙を使っているということです。
 (中略)
〈古賀〉『東日流外三郡誌』は山内英太郎さんの御自宅で見られたのですか。
〈永田さん〉市浦村の村役場の中です。
〈古賀〉数にして二百冊から三百冊をその時点で見られたのですね。
〈永田さん〉はい。
〈古賀〉それは明治の末頃の紙に、だいたい明治時代に書かれたものと考えてよろしいでしょうか。
〈永田さん〉はい。
〈古賀〉たとえば、戦後になって最近書いたものだとか。
〈永田さん〉いや、そういうふうには感じません。
〈古賀〉そういうふうには見えなかったということですね。
〈永田さん〉はい。

 永田さんは『北海道史』編纂に関わられた中近世史の専門家で、多くの古文書を調査されてきた研究者です。この理系と文系の専門家による見立ては、「手漉きの和紙」あるいは「明治の末頃にはやりだした機械織りの和紙」というもので、和田家文書は戦後の紙ではないという心証を強めるものでした。
 この紙質調査はその後さらに進展を見せます。竹内強さん(古田史学の会・東海 会長)による執念の美濃紙調査です。(つづく)

(注)
①古賀達也「『新・古代学』のすすめ ―「平成・諸翁聞取帳」―」『古田史学会報』8号、1995年8月。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/koga08.html
②同①
「永田富智氏へのインタビュー 昭和四六年『外三郡誌』二百冊を見た ―戦後偽作説を否定する新証言―」『古田史学会報』16号、1996年10月。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou16/kaihou16.html


第2568話 2021/09/15

『東日流外三郡誌』山王坊の磐座

 前話で紹介した拙稿「和田家文書と考古学的事実の一致」(注①)には、追記として山王坊(山王日吉神社)の発掘調査で発見された磐座前の三列石が『東日流外三郡誌』に見えることを紹介しました。これなども発掘調査で発見されたことであり、このことも和田家文書の真作性をうかがわせるものです。また、山王日吉神社にそのような「石塔」があることが『東日流外三郡誌』(注②)にも次のように記されています。

 「安部求道記
 十三山王の渓水を汲みて掌を清め、生垣を見越しに崇む十三宗の伽藍、山門より境内に参ずれば、香々たる法場のかんばせに、知らず歩を駐めて仰ぐ老樹の梢霞かかりて、枝々にほろほろと鳴く山鳥の声、寂々たる仙境にこだまむ。
 苔の華は、古墓、石塔に衣となり、老木に含む露雫わがすずかけをぬらしめり。
 十三宗の仏堂みな香灯仏壇に献ぜられ、あたかも天竺、支那の正伝仏陀の世界を感応す。六根清静各堂参礼なし、以て三(ママ)王権現日吉神社の大鳥居神々しき聖域の威ぞ尚顕しぬ。(後略)」

 このように山王日吉神社に「古墓、石塔」があったと記されています。『東日流外三郡誌』の「十三宗三神社山王坊図」の右上部分に「古墓、石塔」が小さく描かれており、和田家文書が往時の山王日吉神社の景観をかなり正確に伝承していたことがうかがえます。拙稿の【追記】当該部分を転載し、皆さんに紹介します。

【以下転載】
和田家文書と考古学的事実の一致
 ―『東日流外三郡誌』の真作性― 京都市 古賀達也

【追記】
 加藤孝氏の山王坊調査報告『「中世津軽日吉神社(仮称)東本宮社殿列石考(その一)』(『東北文化研究所紀要』十八号、一九八六)によると、山腹の社殿東側に「磐座」の存在が報告されている。

 「本社殿跡北方に位置し、約三〇・〇〇メートル北方の傾斜地に長三角形一辺三・〇〇メートル程の安山岩質の大石が一基あって、その前方一〇・〇〇メートル前方に、平坦な礎石様の上面 の平らな安山岩質の石が、三基接近して置いてある。
 この長三角型の大石が、この日吉神社の磐座と考えられるのである。何故なれば、この磐座に当る長三角型大石から南方線を延長すると、本社殿の中軸線を貫き、舞殿跡、渡廊跡の南北中軸線に重なり、さらに、拝殿跡の南北中軸線に重複するからである。」

 この報告で注目されるのが、磐座の存在と三基の列石である。なぜならば、『東日流外三郡誌』北方新社版第五巻二九七頁、「十三宗三神社山王坊図」の当該場所に「石造物」らしきものが三基記されているからだ。描かれた位置や三基という数の一致は偶然とは思えない。これも『東日流外三郡誌』と考古学的事実との貴重な一致点ではあるまいか。 
 このように和田家文書と考古学的事実の見事な対応関係は真作説の有力な根拠であり、同時に和田喜八郎氏の偽作など、とうてい不可能な事柄であることを指し示すのである。『東日流外三郡誌』を先入観を排して、謙虚に見据える時、多くの学的収穫が得られる。
 そうした発見は現在もなお続出しているが、順次報告していきたい。まことに和田家文書は驚くべき「一大伝承史料群」であった。

(注)
①古賀達也「和田家文書と考古学的事実の一致 ―『東日流外三郡誌』の真作性―」『古田史学会報』4号、1994年12月。
http://furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/koga04.html
②『東日流外三郡誌』第五巻、北方新社版、271頁。


第2567話 2021/09/14

『東日流外三郡誌』の山王日吉神社

 「洛中洛外日記」2564話(2021/09/11)〝「東京古田会」月例会にリモート初参加〟では、津軽の福島城の築造年が通説よりも和田家文書の方が正しかったことが発掘調査により判明したことを紹介しました。そのことを『古田史学会報』(注)で発表しましたが、市浦村の山王日吉神社についても発掘調査により『東日流外三郡誌』の記述通りの遺構が出土したことを同稿で発表しました。その部分を下記に転載します。

【以下転載】
和田家文書と考古学的事実の一致
 ―『東日流外三郡誌』の真作性― 京都市 古賀達也

山王坊遺跡の配置

 和田家文書と考古学的事実との一致については早くから指摘されていた。例えば、福島城の北方にある山王坊遺跡(現日吉神社を含む一帯)である。坂田泉氏は「津軽山王坊における日吉神社の建築」(『東北古代史の研究』所収、高橋富雄編。昭和六一年、吉川弘文館。)において、昭和五七、五九年における発掘調査結果 と『東日流外三郡誌』に記されている山王坊絵図が一致することを次のように述べておられる。

 「調査により大石段が現実のものとして三図(『東日流外三郡誌』所収の三枚の絵図。下ABC図)と同じ形式で出現した。」
 「このC図の神社周辺の描写 は調査により判明した拝殿跡と西側小石段跡と、現在の参道との関係に近似している。この大石階の中央に、巨大な老杉の切株が残存していた。これは樹齢約三〇〇年とされ、伐採は日露戦争当時であるから、逆算すると約四〇〇年前にこの大石階は地下に埋没して人の目から隠されたことになる」※()内は古賀。

 このように、昭和五七、五九年の発掘調査により四〇〇年ぶりに明らかとなった山王坊跡の配置が、『東日流外三郡誌』の絵図と一致しているのである。更に、発掘により一致が明らかとなったのは、伽藍配置だけではなかった。『東日流外三郡誌』市浦村史中巻にある「十三福島城之秘宝」に山王坊の盗掘の記事が見える。

「秘宝の行方何れの像にも未だそれとなる
 謎銘もなく、山王坊跡に土を掘る者しきりなり。」

 そして坂田氏は次のように指摘している。

 「このような宝物が、山王坊に多く所蔵されていたとの記事を、無数に『外三郡誌』から拾うことができる。事実、今回の発掘調査においてもその跡らしい穴をみたのである。」

 もう一つ、『東日流外三郡誌』によれば山王坊は日枝神社のみを残し、他は焼討ちにより焼失したことが記されている。たとえば次の記事だ。

 「南部守行が焼討てる戦のあとぞ十三宗の軒跡今は范々たる草にむす半焼の老樹その昔を語る。奥高き所に日吉神社唯一宮残りしもいぶせき軒に朽ち、施主滅亡のあとに従へ逝くが如くに見ゆるなり。」(「十三往来巡脚記」)

 これに対し、山王坊遺跡の山麓大型礎石はすべてに火災の跡が見られるが、大石階や山腹の諸遺跡には焼失の跡はないことが指摘されており、ここでも『東日流外三郡誌』の内容と発掘調査結果 が一致しているという。
 配置図といい、盗掘や火災の状況など、昭和五七年の発掘調査後でなければ知ることが不可能な事実が、『東日流外三郡誌』には記されていたのである。
 こうした坂田氏(東北大学工学部)の指摘を紹介した以上、今後この問題を偽作論者は避けてはならない。

(A図)十三山王図 市浦村史版
(B図)十三山王金剛界 市浦村史版
(C図)十三宗図 市浦村史版

(注)古賀達也「和田家文書と考古学的事実の一致 ―『東日流外三郡誌』の真作性―」『古田史学会報』4号、1994年12月。


第2566話 2021/09/13

古田先生との「大化改新」研究の思い出(9)

 古田先生は「大化改新」共同研究会を立ち上げられると、坂本太郎さんと井上光貞さんの郡評論争をはじめ大化改新関連重要論文を次から次へと配られ、参加者に同研究史を勉強するよう求められました。学界での研究・論争の大枠を把握しておくことが不可欠な分野だったからです。そこで、本シリーズでも「大化の改新」についての研究史が比較的わかりやすくまとめられている『ウィキペディア(Wikipedia)』の関係部分を転載し、要点を解説します。

【「大化の改新」研究史】
 (前略)そんな中、坂本太郎は1938年(昭和13年)に「大化改新の研究」を発表した。ここで坂本は改新を、律令制を基本とした中央集権的な古代日本国家の起源とする見解を打ち出し、改新の史的重要性を明らかにした。これ以降、改新が日本史の重要な画期であるとの認識が定着していった。
 しかし戦後、1950年代になると改新は史実性を疑われるようになり、坂本と井上光貞との間で行われた「郡評論争」により、『日本書紀』の改新詔記述に後世の潤色が加えられていることは確実視されるようになった。さらに原秀三郎は大化期の改革自体を日本書紀の編纂者による虚構とする研究を発表し「改新否定論」も台頭した。
 「改新否定論」が学会の大勢を占めていた1977年(昭和52年)、鎌田元一は論文「評の成立と国造」で改新を肯定する見解を表明し、その後の「新肯定論」が学会の主流となる端緒を開いた。1999年(平成11年)には難波長柄豊碕宮の実在を確実にした難波宮跡での「戊申年(大化4年・648年)」銘木簡の発見や、2002年(平成14年)の奈良県・飛鳥石神遺跡で発見された、庚午年籍編纂以前の評制の存在を裏付ける「乙丑年(天智4年・665年)」銘の「三野国ム下評大山五十戸」と記された木簡など、考古学の成果も「新肯定論」を補強した。
 21世紀になると、改新詔を批判的に捉えながらも、大化・白雉期の政治的な変革を認める「新肯定論」が主流となっている。
【転載おわり】

 以上のように、「大化改新」は坂本太郎さんの研究により重視されますが、戦後、お弟子さんの井上光貞さんとの郡評論争(注①)などを経て、『日本書紀』編纂時の潤色が明らかとなり、「改新否定論」が優勢となります。その流れを大きく変えたのが前期難波宮の出土でした(注②)。このことが決定的証拠となり、「新肯定論」が大勢を占め、今日に至っています。
 単純化すれば、七世紀半ばの改新詔などが『日本書紀』編纂時に令制用語で潤色されたが、本来の詔勅「原詔」は存在したとする説が最有力説となっており、その範囲内で諸説が出されています。たとえば潤色に使用された「令」を近江令・浄御原令・大宝律令のいずれとするのかという問題や、改新詔が発せられた都は難波なのか飛鳥なのかなどです。
 このような諸説や視点は、通説のみならず九州王朝説・多元史観でも同様に生じます。古田先生が共同研究会のメンバーに通説を勉強することを求められていた理由もここにあったのです。(つづく)

(注)
①坂本太郎「大化改新詔の信憑性の問題について」『歴史地理』83-1、昭和27年(1952)2月。
 井上光貞「再び大化改新詔の信憑性について ―坂本太郎博士に捧ぐ―」『歴史地理』83-2、昭和27年(1952)7月。
 井上光貞「大化改新の詔の研究」『井上光貞著作集 第一巻』岩波書店、1985年。初出は『史学雑誌』73-1,2、昭和39年(1964)。
②中尾芳治『考古学ライブラリー46 難波京』(ニュー・サイエンス社、1986年)には、「孝徳朝に前期難波宮のように大規模で整然とした内裏・朝堂院をもった宮室が存在したとすると、それは大化改新の歴史評価にもかかわる重要な問題である。」「孝徳朝における新しい中国的な宮室は異質のものとして敬遠されたために豊碕宮以降しばらく中絶した後、ようやく天武朝の難波宮、藤原宮において日本の宮室、都城として採用され、定着したものと考えられる。この解釈の上に立てば、前期難波宮、すなわち長柄豊碕宮そのものが前後に隔絶した宮室となり、歴史上の大化改新の評価そのものに影響を及ぼすことになる。」(93頁)との指摘がある。


第2563話 2021/09/11

古田先生との「大化改新」研究の思い出(8)

 二年間にわたって続けられた「大化改新」共同研究の結果、「大化改新」の実像について、晩年の古田先生の見解が『古田武彦の古代史百問百答』では次のように述べられています(注①)。

〝質問 先生は改新の詔が九州王朝で出された詔を盗用したものだとおっしゃっていますが、その根拠を教えて下さい。
 回答 大化年間に行われた十六回の詔の第一回目は「(大化元年)八月丙申の朔庚子に東国等の国司を拝して」行われており、(中略)東国に対する詔はあっても他の西国、南国、北国という表現はありません。東国に突出した表記になっていると言えます。第五回目の改新の詔には「畿内」の定義が記されています。「凡そ畿内は、東は名墾の横河より以来、南は紀伊の兄山より以来、西は赤石の櫛淵より以来、北は近江の狭狭波の合坂山より以来を、畿内とす。」この畿内国を原点として「東国」を指すとすれば、当然「西国」も必要です。中国や四国や九州が西国に当たります。しかし、それは出てきません。なぜ西国が出てこないのでしょうか。この畿内国の定義のすぐ後に「凡そ畿内より始めて、四方の国に及(いた)るまで」の文面があります。ここには「東国=四方の国」という概念が示されています。なぜでしょうか。その答えは一つです。「これらの詔勅の“原文面”における原点は九州である」からです。九州を原点とすれば、この「東国」が「四方の国」になることに何の問題もありません。〟146頁

 この質疑応答では、古田先生は「大化改新詔」は九州王朝(倭国)が出したもので、“原文面”は九州を原点としたものとされています。従って、「大化改新詔」は九州王朝が太宰府で発したと理解されていると思われます。

〝質問 孝徳紀には改新の詔以外にも数多くの詔勅が記載されていますが、乙巳の変の直後にこのように多くの制度が発表になることは不自然ではないでしょうか。
 回答 孝徳紀の大化時代(六四五~六四九年)には詔勅が十六回も集中して出てきています。これは『日本書紀』を編纂する時の方針の一つです。安閑紀にも「屯倉」記事がぎっしり詰め込まれています。(中略)『日本書紀』の編者はそのように分かりやすく構成することによって、記載されている内容が八世紀現在の政治に有効に反映するように意図しているのです。〟146頁

 ここでは、大化年間の諸詔は『日本書紀』編纂者による編集構成であり、必ずしも同年代の詔勅とは限らないことを示唆されています。要は、八世紀の大和朝廷に有利となるように詔勅を大化年間に集合している、との指摘です。

〝質問 改新の詔には有名な「公地公民制」が含まれています。なぜそれほど政権の基盤が安定していないこの時期にこのような強権が発動できたのでしょうか。
 回答 (前略)『日本書紀』は「七〇一」以前の九州王朝関連の領地と領民を一度「私地私民」とし、大宝律令によって、「近畿天皇家や藤原氏たちの豪族」の有する「公地公民」としたのです。このように八世紀の(大宝律令の)公地公民制は決して(元正や藤原氏などの)勝手気ままに施行されたのではなく、あの天智天皇や天武天皇も承認していた公約の「実現」に他ならないということにするために、半世紀遡った時点の改新の詔に加えられたわけです。これは『日本書紀』最大の達成目標とすべきところだったのではないでしょうか。〟147頁

 この回答部分は重要です。「大化改新詔」の「公地公民制」は大宝律令に基づいた詔であり、それを権威づけるために孝徳紀まで半世紀遡らせ、他の改新詔に加えたとされています。すなわち、「大化改新詔」には九州王朝が九州(太宰府)を原点として発したものと、大宝律令に基づいて近畿天皇家が発した詔として半世紀遡らせたものが含まれるという理解なのです。

〝質問 孝徳紀の詔勅の中に薄葬令が出てきます。実行されたのでしょうか。
 回答 第十一回目の詔勅は、墓の大きさをテーマにしています。もう大きさを競うのはやめようという命令です(大化二年三月二十二日条)。(中略)この「薄葬の詔」は「近畿の天皇陵や古墳の現状」に全く合致していないのです。舞台を一転させて、九州の古墳と比較すれば、ここでは一変します。九州の場合、近畿のような大型古墳はありません。ことに六世紀後半や七世紀ともなれば、大型古墳はほとんど見られないのです。つまりこの詔勅は九州王朝で七世紀前半までに出されたものを盗用したものと言えるでしょう。〟127~128頁

 大化二年(646年)の「薄葬の詔」にいたっては、本来の詔勅(原勅)は七世紀前半までに九州王朝が発したもので、それを「盗用」したものとされています。

〝質問 『日本書紀』に出てくる年号は九州王朝の年号と同じものが使用されています。それらの年号と大化の改新の関係を説明してください。
 回答 『日本書紀』には年号が三つ登場してきます。「大化」(六四五~六四九年)、「白雉」(六五〇~六五四年)、「朱鳥」(六八六年)です。(中略)「白雉」と「朱鳥」は『日本書紀』と九州年号の時期は接近していますが、「大化」はほぼ半世紀のズレがあります。「大化」だけが飛び離れている理由は、『日本書紀』の「大化の改新」は、大宝律令(すなわち九州年号の「大化の改新」)の歴史的背景(淵源)を示している、という意義があります。言いかえれば、大宝元年は大化七年(三月二十一日まで)ですから、この大宝元年の一大変革は、文字通り「大化の改新」と呼ばれたはずです。九州年号による呼称だったわけです。『日本書紀』は七〇一年に発布された大宝律令を正当化するために五〇年遡った時点に同様の内容をもつ「改新の詔」を記載することによって「天智帝、天武帝もご承認された詔である」ということにしたのです。〟148~149頁

 以上のように古田先生は各質問に答えられていますが、同書の構成は「一問一答」形式であるため、論文のような厳密な論証や他の質問との厳格な対応はなされてはいません。〝わかりやすく〟ということに重点を置かれたためです。ですから、先生の回答全般から、「大化改新詔」に対する先生の理解を正しく把握することが肝要です。
 これらの回答が示していることは次の点です。

(1)『日本書紀』編纂者の主目的は、九州年号「大化」を孝徳紀に約50年遡らせて移動した「大化年間」に、九州王朝の「詔」や自らの大宝律令を基本とした「詔」を配置することにより、それらを権威づけることにある。
(2)その結果、「大化改新詔」には、七世紀前半に発せられた九州王朝の詔や、八世紀の大和朝廷による大宝律令に基づいた詔などが混在している。
(3)「東国」国司らを対象とした九州王朝による詔の発出地は九州(太宰府)である。

 おおよそ、以上のようです。「大化改新」共同研究会立ち上げ時の認識、〝「大化改新詔」は九州王朝により九州年号の大化年間に発せられた〟とする作業仮説が、より重層的多元的に、そして精緻に豊かに発展したことがわかります。中でも(1)の認識は重要なもので、「古田史学の会」関西例会でも様々な視点に基づいて諸説が発表され、「大化改新詔」研究は今日に至っています(注②)。(つづく)

(注)
①古田武彦『古田武彦の古代史百問百答』ミネルヴァ書房、平成二七年(2015)。
②古賀達也「洛中洛外日記」896話(2015/03/12)〝「大化改新」論争の新局面


第2562話 2021/09/10

宮崎県の「あま」姓と「米良」姓の淵源

 宮崎県の西都市や宮崎市に「あま」姓(阿万、阿萬)が濃密分布しており、九州王朝(倭国)王族の姓「天(あま)」の子孫とする仮説を「洛中洛外日記」などで発表してきました(注①)。また、「米良」姓についても宮崎県に最濃密分布していることを紹介したことがあります(注②)。この宮崎県の米良氏が熊本県の菊池氏の後裔で、「天」姓を名のっていたことが記録に遺っています。『山岳宗教史研究叢書16 修験道の伝承文化』に収録されている、日向米良修験道を紹介した次の文です。

 「さてその米良氏は、現在すでに各地に分家してしまったが、その出自については、菊池氏の後裔という説がある。これは近世、近代に書かれた系図、系譜、由緒書に基づいており、また天(あめ)氏を名乗った形跡も見られる。(中略)また、東臼杵郡東郷町附近に定着した米良氏は、天氏を名乗っており、天文十八年には羽坂神社に梵鐘を奉納している。」603~604頁、「米良修験と熊野信仰」(注③)

 肥後の菊池氏と日向の米良氏が関係しているとのことですが、肥後には「蜑(あま)の長者」伝説(注④)があり、『隋書』俀国伝にも天子・阿毎(あま)多利思北孤の名前や噴火する阿蘇山の描写があり、九州王朝と関係が深い地域です。これらから推定すると、九州王朝の王族である「天(あま)」氏の一族が何らかの事情で日向へ移動し、「あま」(阿萬、阿万)姓をそのまま名乗り続けた人々と、「米良」姓に代えた人々がいて、現在に至っているのではないでしょうか。
 幸いも、日向修験道や熊野信仰の史料中に米良氏が「天氏」を名のっていた記録が遺っていたのですが、「あま」(阿萬、阿万)姓の家にもそうした伝承が遺っている可能性があります。当地の方に調査していただけると有り難いです。
 ちなみに、九州王朝の中枢領域である福岡県や佐賀県には「あま」姓の分布は見つかりません。しかし面白いことに、「天本(あまもと)」姓が基山(基肄城)周辺地域(佐賀県・福岡県)に集中分布していることを中島徹也さん(福岡市)からご教示いただきました。この「天本」さんについても調査したいと思います(注⑤)。お知らせいただいた中島さんにお礼申し上げます。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2543~2548話(2021/08/19~23)〝「あま」姓の最密集地は宮崎県(1)~(4)〟
 古賀達也「『あま』姓の分布と論理 ―宮崎県の「阿万」「阿萬」姓と異形前方後円墳―」『古田史学会報』166号、2021年10月(予定)。
②古賀達也「洛中洛外日記」234話(2009/11/08)〝九州王朝天子「天」一族の行方〟
 古賀達也「洛中洛外日記」236話(2009/11/22)〝「米良」姓の分布と熊野信仰〟
③五来重編『山岳宗教史研究叢書16 修験道の伝承文化』昭和五六年(1981)。
④古賀達也「洛中洛外日記」950話(2015/05/12)〝肥後にもあった「アマ(蜑)の長者」伝説〟
⑤「日本姓氏語源辞典」 https://name-power.net/ によれば、「天本」姓の分布は次の通り。
 人口 約3,000人 順位 3,894位
【都道府県順位】
1 佐賀県(約1,100人)
2 福岡県(約1,000人)
3 長崎県(約200人)
4 東京都(約70人)
4 埼玉県(約70人)
6 神奈川県(約70人)
6 大阪府(約70人)
8 広島県(約70人)
9 岡山県(約40人)
9 兵庫県(約40人)

【市区町村順位】
1 佐賀県 鳥栖市(約600人)
2 佐賀県 三養基郡基山町(約500人)
3 福岡県 小郡市(約300人)
4 福岡県 筑紫野市(約120人)
5 福岡県 久留米市(約70人)
6 長崎県 長崎市(約50人)
7 福岡県 福岡市西区(約50人)
8 福岡県 福岡市早良区(約40人)
8 香川県 高松市(約40人)
10 福岡県 北九州市小倉北区(約30人)


第2561話 2021/09/09

古田先生との「大化改新」研究の思い出(7)

 1992年1月から始まった「大化改新」共同研究会と並行するように、同年11月に注目すべき研究が発表されました。増田修さんの「倭国の律令 ―筑紫君磐井と日出処天子の国の法律制度」(注①)という論文です。同論文が掲載された『市民の古代』14集をテキストとして、増田さんは翌1993年4月の共同研究で、九州王朝律令の推定研究について発表されました。その様子を、安藤哲朗さん(現、多元的古代研究会・会長)が次のように報告しています。

〝ついで増田氏より『市民の古代 14集』「倭国の律令」をテキストとして、「倭国の律令は古田氏の所説の如く筑紫君磐井の頃から、晋の泰始律令を継承して作られた。日本書紀の冠位十二階など隋書にある同じ十二階でも「官位」と、発音は同じでも大きく異なる。戸令・田令・公式令などは倭国の残影が感じられる。正倉院戸籍の美濃と筑前の相違は西晋と両魏の差である。大宝令以前の律令の存在があることから近江令が推定されているが、日本書紀に記述のない近江令の存在は否定されるべきである」と論じられた。〟(注②)

 この報告にあるように、増田さんの九州王朝(倭国)律令の検討範囲は広く、古田学派にとって同分野の基本論文の一つに位置づけられるものでした。わたしも「大宝二年籍」について研究(注③)してきましたので、なにかと参考にさせていただきました(注④)。なお、同論文には「大化改新詔」についての言及は見えません。(つづく)

(注)
①増田修「倭国の律令 ―筑紫君磐井と日出処天子の国の法律制度」『市民の古代』14集、新泉社、1992年。「古田史学の会」HPに収録。
②安藤哲朗「第六回 共同研究会(93・4・16)」『市民の古代ニュース』№118、1993年6月。
③古賀達也「『大宝二年、西海道戸籍』と『和名抄』に九州王朝の痕跡を見る」『市民の古代・九州ニュース』No.18、1991年9月。
 古賀達也「古代戸籍に見える二倍年暦の影響 ―「延喜二年籍」「大宝二年籍」の史料批判―」『古田武彦記念古代史セミナー2020 予稿集』大学セミナーハウス、2020年11月。
④古賀達也「洛中洛外日記」2149話(2020/05/10)〝「大宝二年籍」への西涼・両魏戸籍の影響〟
 古賀達也「洛中洛外日記」2117~2198話(2020/03/22~08/08)〝「大宝二年籍」断簡の史料批判(1)~(22)〟
 古賀達也「洛中洛外日記」2199話(2020/08/08)〝田中禎昭さんの古代戸籍研究〟


第2560話 2021/09/09

古田先生との「大化改新」研究の思い出(6)

 1992年1月から東京の文京区民センターを舞台にして始まった「大化改新」共同研究会での発表で、古田先生を別にすれば、わたしが最も注目したのが大越邦生さん(1992年12月)と増田修さん(1993年4月)の研究でした。大越さんの研究は、「大化改新詔」や『大宝律令』「大宝二年籍」などを史料根拠として、多元史観により田積法や班田収授の受田額などに焦点を絞ったもので、古田先生も次のように評価されています。

 「重大な問題。研究史上の新視点。用語が不変であれば、体制の変化は判り難い。(郡・評、朝臣・条里制単位)。」(注①)

 後に大越さんは「多元的古代の土地制度」(注②)として論文発表されていますのでご参照下さい。同論文を読んで、最も考えさせられたのが、王朝交替とほぼ同時期に変化する制度と、新王朝の『大宝律令』に反していても、長期にわたり変わらずに継続する九州王朝系の制度があるということでした。前者の代表例が、行政単位名「評」から「郡」への全国一斉変更(701年)です。戦後の坂本太郎さんと井上光貞さん師弟の「郡評論争」は有名ですが、藤原宮跡などから出土した荷札木簡により、700年までは「評」、701年からは「郡」であったことが判明し、「郡評論争」は決着しました。
 この「評」から「郡」への事例のように、わたしは王朝交替により、全国一斉に強権的に制度変更がなされるものと漠然と理解していました。ところが大越論文により、『大宝律令』とは異なる田積基準(口分田)の実例が大宝二年の筑前国戸籍など西海道戸籍に遺存していることを知り、それまでの認識を改めざるをえませんでした。特に、西海道戸籍から数理計算的に検出された受田額が、筑前・豊前・豊後の国ごとに異なり、いずれも『大宝律令』田令の基準と大きくかけ離れているという学界での律令研究の成果(注③)は、王朝交替や九州王朝説でも簡単には説明できないほど複雑な現象であることに驚きました。
 大越さんは、これらの史料状況発生理由を701年の王朝交替によるものとされ、次のように論文冒頭に述べられています。

〝こうした研究が示唆するところは「改新之詔」の郡や部、京師や畿内は、七〇一年の大宝令を五十五年近く繰り上げ、年次の偽造を行っていた。つまり真の歴史の転換点は七〇一年にあったということにある。
 私は、これまでの古田氏をはじめとする研究につけ加えて、「改新之詔」第三条の田積法・田租法においても同様の結論を見い出したのでここに報告する。〟165頁

 このように『日本書紀』の「大化改新」諸詔は、『大宝律令』制定など55年後に行われた〝九州年号「大化」の改新〟であり、その画期点を701年とする古田説を是とされました。なお、氏は七世紀での面積単位「代」が、八世紀には「町」に変更されたことについても、九州王朝説と701年での王朝交替の視点で論じられています。このテーマについては別述したいと思います。(つづく)

(注)
①安藤哲朗「第六回 共同研究会(92・12・18)」『市民の古代ニュース』№114、1993年2月。
②大越邦生「多元的古代の土地制度」『古代に真実を求めて』4集、明石書店、2001年。「古田史学の会」HPに収録。
③虎尾俊哉「浄御原令に於ける班田収授法の推定」『班田収授法の研究』昭和三六年(1961)。


第2559話 2021/09/08

古田先生との「大化改新」研究の思い出(5)

 藤田友治さんの研究「日本古代碑の再検討 ―宇治橋断碑について―」により、九州年号「大化」と「大化改新」を結びつけるという学問的可能性が拓けたのですが、その九州年号「大化」の年代について影響を与えたのが丸山晋司さん(市民の古代研究会・幹事)による『二中歴』の研究でした(注①)。
 九州年号史料には「大化」の位置(元年干支)について複数の異伝があるため、暦年特定という課題が未解決でした。主なものとして次の例があり、九州年号研究者間で激しい論争が続いていました(注②)。

  「丸山モデル」 686~691年 元年干支「丙戌」 丸山晋司さんが提唱。
 『二中歴』年代歴 695~700年 元年干支「乙未」 古田先生が支持。
 『皇代記附年代記』698~700年 元年干支「戊戌」 中村幸雄さんが支持。

 丸山さんは自らが提唱された「丸山モデル」と呼ばれる年号立てを原型とされ、『二中歴』の年号立てを誤伝としました。わたしも「丸山モデル」が正しいと当初は考えていましたが、古田先生から史料批判の方法や考え方を直接に学ぶ機会があり(注③)、先生と同様に『二中歴』が最も九州年号の原型を留めているとする理解に至りました(注④)。
 丸山さんは『二中歴』の成立が鎌倉初期であることに価値を見出され、〝鎌倉時代から室町時代にかけて、僧侶が偽作した〟とする偽作説への反証としました。こうした丸山さんの九州年号研究や偽作説との論争について、古田先生は高く評価されていました。たとえば、『失われた九州王朝』朝日文庫版(注⑤)の「あとがき」に次のように紹介されています。

〝以上のように、現在の写本状況からは、『二中歴』を「原型」として判断せざるをえないのである。この点、論争中にこの『二中歴』を扱われた、所功・丸山晋司の両氏に深く感謝したい(所氏は、九州年号否定論。丸山氏は「旧形式〔『善化(善記)』〕型」の支持者である)。〟587頁

 こうした中村幸雄さん、藤田友治さん、丸山晋司さんの九州年号研究に支えられて、『日本書紀』孝徳紀の大化年間(645~649年)に見える「大化改新」諸詔を、50年ずれた九州年号の大化年間(695~699年)に九州王朝が公布したものとする作業仮説の検証へと、古田先生は突き進まれたのでした。九州年号の大化年間は、九州王朝から大和朝廷への王朝交替(ONライン、701年)直前の時期に相当します。それは王朝交替の真実に肉薄する、古田学派による本格的な「大化改新」研究の幕開けを告げるものでした。そして、1992年1月からスタートした「大化改新」共同研究会からは、古田先生はもとより、大越邦生さんや増田修さんを筆頭とする優れた研究成果が陸続と発表されることとなります。(つづく)

(注)
①丸山晋司「九州年号の史料批判 ④『二中歴』の成立」『市民の古代研究』17号、市民の古代研究会編、1986年9月。
 丸山晋司「九州年号の史料批判 ⑤『二中歴』が依拠した文書」『市民の古代研究』18号、市民の古代研究会編、1986年11月。
 丸山晋司「古代年号は鎌倉期以降に偽作されたか ―『二中歴』に見る古代年号」『季節《特集 古田古代史学の諸相》』12号、エスエル出版会、1988年8月。
 丸山晋司「『古田武彦九州年号論』批判 ―『二中歴』を中心に―」
『市民の古代』11集、市民の古代研究会編、1989年。
 丸山晋司「古代逸年号「『二中歴』原型論」批判」『古代逸年号の謎 ー古写本「九州年号」の原像を求めて』株式会社アイ・ピー・シー刊、1992年。
②『市民の古代研究』『市民の古代研ニュース』紙上で九州年号原型論について論争が続いていた。「大化」以外には「白雉」の原型論や「法興」などが争点になった。主な九州年号研究者に、丸山晋司氏(八尾市)、中村幸雄氏(大阪市)、平野雅曠(熊本市)、石川信吉氏(東京都)、千歳竜彦氏、増田修氏(東京都)、古賀達也(京都市)がいた。
③古賀達也「洛中洛外日記【号外】」(2016/08/19)〝『二中歴』の思い出〟を希望会員へネット配信した。以下、転載する。
 わたしが古田先生の門を叩いたのが31歳のときでしたから、もう30年も昔のことになります。以来、主に九州年号の研究に取り組んできたのですが、当時、九州年号群史料として最初に『二中歴』に着目されたのは丸山晋司さんでした。「市民の古代研究会」に入会し、九州年号の先駆的研究者だった丸山さんには特に懇意にしていただき、九州年号史料について多くのことを教えていただいた先輩でした。和田家文書偽作キャンペーンのとき、古田先生と袂を分かたれましたが、九州年号に関する研究業績は優れたものがありました。
 丸山さんが『二中歴』に着目された理由は、その成立年代の古さでした。他の九州年号群史料は早くても室町時代成立でしたが、『二中歴』は鎌倉時代初頭の成立と考えられ、採録史料の多くは平安時代に遡るという史料性格を有しています。九州年号を鎌倉時代から室町時代にかけて順次偽作されたとする古代史学界の「あん暗黙の通説」を否定する史料として、丸山さんは『二中歴』を重視されたのです。
 その後、古田先生も『二中歴』に注目されましたが、その理由は成立年代の古さだけではなく、その九州年号の細注に記されている記事などから、九州王朝系史料に基づいているという史料性格を重視されたことによります。わたしもこの古田先生の見解に賛成し、『二中歴』の九州年号が最も原型に近いという立場に立ちました。
 現在、わたしの手元には丸山さんからいただいた『二中歴』尊経閣文庫「古写本」の九州年号部分のコピーと前田育徳会による解説のコピーがあります(昭和14年刊)。それと、八木書房発行『二中歴』影印本(尊経閣文庫蔵「古写本」)の全コピーを持っています。八木書房版は現在入手可能な最も良質な『二中歴』影印本ですが、その大部のコピーをわたしは古田先生からいただきました。20年ほど前のある日、上京区の拙宅に古田先生がひょっこり見えられ、風呂敷に包んだ同コピーをわたしにプレゼントされたのです。膨大なページ数にもかかわらず、古田先生がコピーされ、拙宅まで持参していただいたもので、今でも深く感謝しています。
 そのコピーのおかげで、わたしは『二中歴』の全貌を知ることができ、研究にも役立っています。『二中歴』研究の度に同コピーを書架から引っ張り出すのですが、今でも古田先生に励まされているような気持ちで、同コピーを精査する日々が続いています。
④古賀達也「洛中洛外日記」346~351話(2011/11/06~17)〝九州年号の史料批判(1)~(6)〟
 古賀達也「『二中歴』の史料批判 ―人代歴と『年代歴』が示す『九州年号』―」『「九州年号」の研究 ―近畿天皇家以前の古代史―』ミネルヴァ書房、2012年。
 古賀達也「九州年号の史料批判 ―『二中歴』九州年号原型論と学問の方法―」『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(『古代に真実を求めて』20集)明石書店、2017年。
 古賀達也「洛中洛外日記」1516~1518話(2017/10/13~16)〝九州年号「大化」の原型論(1)~(3)〟
⑤古田武彦『失われた九州王朝』《朝日文庫版》朝日新聞社、1993年。


第2558話 2021/09/07

古田先生との「大化改新」研究の思い出(4)

 古田先生がそれまでの慎重姿勢から本格的な「大化改新」研究に進むに当たり、〝決め手〟となったのが藤田友治さんの研究「日本古代碑の再検討 ―宇治橋断碑について―」(注①)でした。この研究の発端に、わたしも関わっていたのでよく憶えています。
 当時、「市民の古代研究会」では遺跡巡りを兼ねて、宇治橋断碑の現地調査を行っていました(注②)。入会して間もなかったわたしは、藤田さん(当時、同会・事務局長)に「宇治橋断碑には銘文を囲む界線や罫線があるが、これは古代の金石文には珍しいように思いますが」と質問しました。この質問がきっかけとなったようで、藤田さんは、金石文に界線・罫線が描かれるようになったのはいつ頃かという界線の技術の発達史を調査されました。その結果、同碑(原石碑部分)の成立を延暦年間(782~806年)と推定されました。

 「原石碑部分と思われる断碑を他の金石文と比較して考察すると、界線は外枠・縦界線・割付ありを示す浄水寺南大門碑(七九〇年)と同じ特徴を示すから、延暦年間(七八二~八〇六年)と推定される。」181頁

 これらを根拠として、『日本書紀』成立(720年)以後に宇治橋断碑の碑文は成立しており、宇治橋断碑を『日本書紀』の大化年号を史実とする証拠にはできないとしました。更に、「この結論は、九州年号論、『大化改新』論等にさまざまな展開をもたらしうるであろう。」と、九州年号・九州王朝説に基づく「大化改新」研究へと発展することを予想されたのでした。
 こうした藤田さんの研究内容は、論文発表前に古田先生にも届いていたようで、「市民の古代研究会十周年記念講演会」(注③)で古田先生は次のように述べられています。

〝『日本書紀』の「大化」は六四五年であるのに対し、九州年号がわの「大化」は七世紀の終わりごろに近いところに、出没している。各文献において少しずれるのです。それがひとつと、それ以上に大事なことは、宇治橋という、ここ(大阪市)に近い所に「金石文」がある。京都の宇治です。そこに「大化二年」で干支が「丙午」と書いてある。六四六年にあたる形で書いてある。金石文である以上、これを簡単に否定するわけにはいかない。したがって、残念ながら、“涙をのんで”これを「保留」したわけなんです。(中略)
 ところが、最近、藤田友治さんが宇治橋断碑に取り組まれて、今日の資料にも藤田さんから提供していただいたものが入っていますが、どうもこれは乗り越えられると、詳しくは藤田さんの論文が『市民の古代』に載ると思いますので、(後略)〟(注④)

 藤田さんのこの研究成果により、『日本書紀』の「大化」年号も九州年号からの〝盗用〟と見なすことが可能となり、九州王朝説に基づく「大化改新」研究への扉が開いたのです。しかし、もう一つの問題が残っていました。講演で「『大化』は七世紀の終わりごろに近いところ」と表現されているように、九州年号史料には「大化」の位置(暦年)について複数の記述があるため、暦年特定という課題が未解決でした。これには、「市民の古代研究会」の丸山晋司さん(当時、市民の古代研究会・幹事)の九州年号研究が寄与しました。(つづく)

(注)
藤田友治「日本古代碑の再検討 ―宇治橋断碑について―」『市民の古代』10集、新泉社、1988年。
②広野千代子『「市民の古代」遺跡めぐりの旅』(自家版、1991年)によれば、宇治橋断碑調査は1987年7月19日の「山城地方の遺跡・神社」巡りのときである。同書は「市民の古代研究会」の遺跡めぐりを担当されていた広野千代子さん(後に同会・副会長に就任)が執筆されたもので、わたしは副担当として協力していた。多元史観・古田史学が、そう遠くないうちに教科書に載るようになると、わたしは信じて疑わなかった、牧歌的で良い時代であった。その数年後、「市民の古代研究会」は分裂し、後に解散することになる。
 同書には、古田先生による「鴨川の水のように ―発刊によせて―」の一文が寄せられている。一部抜粋し紹介する。
〝『市民の古代』の大阪講演会は、春秋行われるのが慣例である。(中略)四~五時間に及ぶ講演のあと、夕食をともなう懇親会が二時間余り。それからさらに、喫茶店にたむろしてのダベリ合い、とつづくのだけれど、まだ、そのあと。楽しいひとときがつづくことがある。梅田から東向日町へ、阪急電車の中だ。JRのこともある。京都から来ておられる小川澄子さん・古賀達也さん・そして広野さん。わたしも、向日町帰りだから、一時間足らず、また話がはずむのである。
 楚々たる小川さんも、馥郁(ふくいく)の広野さんも、無類の聞き上手だから、わたしはつい引きこまれて、最近の研究目標、いや、探求へのとりとめもない夢を語りはじめる。(中略)それに古賀さんが加われば、いつも新鮮な課題を見つけ、エネルギッシュに取り組んでおられる、その姿に、わたしが快い刺激と高揚をうけること、いうまでもない。
 京へ、京へ。――京への夜ふけの電車は、そのような人間の心情の高まりを運んで疾走するのだ。〟
③昭和63年(1987)5月23日、「市民の古代研究会」結成十周年記念講演会がなにわ会館(大阪市天王寺区)で開催された。10月30日には東京(労音会館、千代田区)でも開催された。
④古田武彦講演録「金石文と史料批判の方法 ―黒曜石・稲荷台鉄剣銘・多賀城碑など―」『市民の古代』10集、新泉社、1988年。65~66頁。演題中の「稲荷台鉄剣」とは、千葉県市原市の稲荷台1号墳から出土した銀象嵌の文字が刻まれた「王賜」銘鉄剣のこと。


第2557話 2021/09/06

古田先生との「大化改新」研究の思い出(3)

 「市民の古代研究会」では、『日本書紀』孝徳紀の大化改新詔は七世紀末の九州年号大化期に九州王朝により発せられたものではないかとする研究が進められていました。そして、その仮説成立の〝障壁〟となっていた「大化二年丙午之歳」の銘文を持つ宇治橋断碑に関する研究が1988年頃から論文発表され始め、大化を九州年号とすることに慎重だった古田先生の認識に変化が起こります。それは次の論文です。

○中村幸雄「宇治橋に関する考察」『市民の古代』10集、市民の古代研究会編、1988年。
○藤田友治「日本古代碑の再検討 ―宇治橋断碑について―」 同上

 両氏は「市民の古代研究会」以来の先輩〝兄弟子〟であり、後に「古田史学の会」創立に当たっては、行動を共にしていただいた同志でした(古田史学の会・全国世話人として参加。共に故人)。中村さんは九州年号の研究仲間でもあり、「大化」年号原型論などで厳しく論争したこともありました(注①)。藤田さんは、古田先生と中国吉林省集安で好太王碑の現地調査を行うなど、金石文研究で成果をあげられていました(注②)。
 中村さんは、宇治橋碑は中世に造られた「川施餓鬼参加勧誘碑」であり、そこに記された「大化二年丙午之歳」は石碑が造られた年ではないとしました。従って、宇治橋断碑は『日本書紀』大化(645~649年)の実在を証明する同時代金石文ではなく、本来の九州年号「大化」の年代は、『皇代記附年代記』に記された大化(698~700年)であるとしました。そして、「結語」に次のように記し、大化改新詔の実年代を九州年号の大化(698~700年)の頃と示唆されました。

〝私は本稿で採用した「大化元年=持統十二年=六九八年」説を、いわゆる「大化改新」に適用し、『日本書紀』の六四五~六四七年の「大化の諸詔令」は、むしろ大宝律令発布(七〇一年)直前の持統大化、六九八~七〇〇年に移動させる方が適切であることを(中略)いずれ別稿「新大化改新論争の提唱」として発表するつもりである。〟

 後に発表された「新『大化改新』論争の提唱」(注③)によれば、「大化」年間(698~700年)に発せられた「大化改新詔」は持統天皇によるものであり、このころは九州王朝と大和朝廷の並立時代とされました。中村さんは平成七年(1995)三月に物故され、この論文は遺稿として『新・古代学』3集(新泉社、1998年)に掲載しました(注④)。(つづく)

(注)
①「古田史学の会」HP「新・古代学の扉」に〝中村幸雄論集(遺稿集)〟があるので、参照されたい。
②好太王碑現地調査は1984年3月に行われた。藤田氏の業績は『藤田友治追悼集 ともに生きる』(藤田友治追悼集刊行会、2006年)に詳しい。
中村幸雄「新『大化改新』論争の提唱 ―『日本書紀』の年代造作について」『新・古代学』3集、新泉社、1998年。「古田史学の会」HPにも収録した。
④古賀達也「学問の方法と倫理 二 歴史を学ぶ覚悟」(『古田史学会報』38号、2000年6月)において、次のように紹介した。
〝いま一人、忘れがたい人に中村幸雄氏(当時、市民の古代理事)がおられる。小生が市民の古代との決別と本会設立の決意を中村氏に電話で伝えた時、「古賀さんがそう言うのを待ってたんや。あんな人らとは一緒にやれん。古田はんと一緒やったらまた人は集まる。一から出直したらええ」と言われ、小生と行動を共にすることを約束されたのであった。「理事」などという堅苦しい肩書きをいやがられ、「自分は世話人でよい」と早朝の例会会場予約や裏方を黙々と務められた、実に庶民的で気さくな方であった。ちなみに、本会の「全国世話人」という制度と名称は、こうした氏の意を汲んで決めたものである。しかし、その翌年、氏は急逝された(一九九五年三月十七日、享年六八才)。会分裂と本会設立の心労が禍したのであろうか。訃報に接した夜、小生は家人の目も憚らず、泣いた(注2)。〟
〝(注2)故人は例会での研究発表を大変楽しみにされていたという(寿子夫人談)。急逝直後の関西例会は追悼例会として、生前故人が準備されていたレジュメに基づいて、藤田友治氏が代わって報告された。また、『新・古代学』3集には遺稿「新『大化改新』論争の提唱 ―『日本書紀』の年代造作について」を掲載し、霊を弔った。〟