「 古賀達也 」一覧

古田史学の会代表古賀達也です。

第2063話 2020/01/12

「九州古代史の会」新春例会・新年会に参加

 帰省を兼ねて、本日の「九州古代史の会(木村寧海代表)」新春例会と新年会に参加しました。会場はももち文化センター(福岡市早良区)、講演テーマは下記の通りでした。中でも古賀市の考古学者、甲斐孝司さんによる船原古墳出土品(馬具など)の最新技術による調査解析方法の説明は圧巻でした。恐らく世界初の技術と思われますが、それは次のようなものでした。

 ①遺構から遺物が発見されたら、まず遺構のほぼ真上からプロのカメラマンによる大型立体撮影機材で詳細な撮影を実施。
 ②次いで、遺物を土ごと遺構から取り上げ、そのままCTスキャナーで立体断面撮影を行う。この①と②で得られたデジタルデータにより遺構・遺物の立体画像を作製する。
 ③そうして得られた遺物の立体構造を3Dプリンターで復元する。そうすることにより、遺物に土がついたままでも精巧なレプリカが作製でき、マスコミなどにリアルタイムで発表することが可能。
 ④遺物の3Dプリンターによる復元と同時並行で、遺物に付着した土を除去し、その土に混じっている有機物(馬具に使用された革や繊維)の成分分析を行う。

 このような作業により船原古墳群出土の馬具や装飾品が見事に復元でき、遺構全体の状況が精緻なデジタルデータとして保存され、研究者に活用されるという、最先端で最高水準の発掘調査方法が、甲斐さんら現地の発掘担当者と九州大学の協力チームにより、それこそ手探りで作り上げられたことが報告されました。
 福岡市天神の平和楼で開催された新年会でも甲斐さんを交えて、考古学の最先端テーマや作業仮説について質疑応答が続けられ、とても有意義な集いとなりました。講師の皆さんをはじめ、「九州古代史の会」の方々に厚く御礼申し上げます。
 二次会でも前田さん(九州古代史の会・事務局長)、金山さん(九州古代史の会・役員)、講師の山下さん、古くからの友人である松中さん(九州古代史の会、古田史学の会の会員)と夜遅くまで天神の居酒屋で歓談し、親睦を深めることができました。

(1)考古学資料に見る天孫降臨
  講師 山下孝義さん(九州古代史の会・幹事)
(2)広開土王碑の中の「倭」
  講師 木村寧海さん(九州古代史の会・代表)
(3)鹿部田淵遺跡・船原古墳について
  講師 甲斐孝司さん(古賀市教育委員会 文化課業務主査)


第2062話 2020/01/11

久しぶりの「銅鐸博物館」(滋賀県野洲市)訪問

 先日、数年ぶりに滋賀県野洲市にある「銅鐸博物館」を訪れました。交通の便はあまり良くありませんが、古代史ファンには是非訪れて欲しい博物館の一つです。野洲市からは国内最大の銅鐸を始め大量の銅鐸が出土しており、同館には多くの銅鐸が展示されています。
 弥生時代の二大青銅器圏の一つ、銅鐸圏の王権についての研究は『三国志』倭人伝のような史料がありませんから、その全容は謎のままです。古田説によれば神武東征を史実とされています。すると、『古事記』『日本書紀』の神武東征説話などに銅鐸圏の王者と思われる人物が見えます。『古代に真実を求めて』23集に掲載予定の拙稿「神武東征譚に転用された天孫降臨神話」にも記していますが、神武記の東征説話に見える、神武と戦った登美毘古こそ銅鐸圏の有力者と思われます。拙稿では神武東征記事中の「天神御子」説話は天孫降臨神話からの転用であることを論証しましたが、登美毘古との戦闘記事は「天神御子」説話ではないことから、神武等と銅鐸圏勢力との戦闘であると考えられます。
 同様に古田先生が『盗まれた神話』で論証されたように、垂仁紀に見える「狭穂彦王・狭穂姫命」も銅鐸圏の王者であることから、銅鐸圏では「地名+ヒコ(ヒメ)」が王者の名称として使用されていたようです。従って、弥生時代の武器型祭器圏と銅鐸圏はともに「ヒコ(ヒメ)」などの倭語(古代日本語)を使用していたことがわかります。更に、磯城県主(しきのあがたぬし)などの大和盆地内の豪族名から、その行政単位に九州王朝と同じ「県」が使用されていたことも推定できます。
 このように『古事記』『日本書紀』などを根拠とした、銅鐸圏の実態解明が期待できます。どなたか多元史観・古田史学による本格的な銅鐸圏研究をされませんか。


第2060話 2020/01/01

元旦の奈良新聞に「名刺広告」掲載

 令和二年元旦の奈良新聞に「古田史学の会」の名刺広告を掲載していただきましたので、皆様にご報告します。
 昨年末にも「古田史学の会」が共催する「新春古代史講演会2020」(2020/01/19、会場:アネックスパル法円坂)の無料招待券プレゼントの案内記事を奈良新聞に掲載していただきました。心より感謝しています。


第2057話 2019/12/25

『太平記』古写本の「壬申の乱」異説

 12月の関西例会では、不思議な伝承(史料)が西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)から紹介されました。それは、『太平記』に「二萬(にま)の郷(さと)」について説明する件(くだり)があり、その地で天智天皇と大友皇子が争ったと同古写本には記されており、新しい写本では天武天皇と大友皇子との争いに書き直されているというのです。
 西村さんのこの報告を聞いて、わたしはフィロロギーのテーマとして関心をいだきました。それは、どのような歴史事実があればこのような伝承(史料事実)が発生するのだろうか、あるいはこうした伝承(史料事実)への変化が起こりうるのだろうかという問題です。
 この「二萬の郷」の地名説話については、「備中国風土記逸文」の記事が著名です。同風土記逸文には、天智天皇が白村江戦に参戦するために「邇摩郷」に来て兵士を二万人集めたが、斉明天皇が筑紫で崩御されたため、引き返したという説話が記されています。その説話に登場するのは天智天皇であり、その地で戦闘があったとも記されていません。ところが、『太平記』古写本では天智天皇と大友皇子の戦争譚となっており、新写本では天武天皇と大友皇子の争い(壬申の乱)説話に変化しているわけです。
 古写本の「天智」が新写本で「天武」に〝改変〟されている理由はよくわかります。『日本書紀』などの「壬申の乱」を知っている書写者(インテリ)であれば、古写本の「天智」を誤記・誤写と思い、「天武」に書き換えることが起こりうるからです。実際、年代記などの諸史料に「天智」と「天武」の誤記・誤写と思われる状況が散見されますから、「これは間違いであろう」とその読者が判断し、書き改めることは普通に起こりうることと思われます。『太平記』の場合も同様の現象が発生したと考えてもよいでしょう。
 しかし、古写本にあるような、「天智」と「大友皇子」がこの地で戦ったなどという伝承がなぜ発生したのでしょうか。風土記逸文には「天智」が登場していますから、『太平記』に「天智」が登場することは理解できますが、その子供の「大友皇子」も登場し、こともあろうに両者が戦うなどという伝承は、どのような歴史事実の反映なのでしょうか。とても不思議です。
 このように西村さんが〝発見〟された『太平記』の異説「壬申の乱」は、フィロロギーという学問領域での格好の研究テーマ(頭の体操)と言えそうです。


第2053話 2019/12/09

三宅利喜男さんと三波春夫さんのこと(2)

 正木さんからの返事によれば、三宅利喜男さんは2015年に退会されておられ、恐らくご高齢による退会と思われるとのことでした。確かに三宅さんは古田先生よりも年上と記憶していましたので、今では94歳になられていることと思います。会員名簿に残っている電話番号に電話をかけましたが、今は使われていないとのアナウンスが返ってきました。もし、三宅さんの現在の連絡先かご家族ご親戚をご存じの方がこの「洛中洛外日記」を読んでおられましたら、ご一報いただけないでしょうか。
 わたしが、テレビで三波春夫さんを見て、三宅さんのことを思い出したのは次のような経緯があったからです。終戦間際、三宅さんは十代の青年将校として朝鮮半島・満州方面に配属され、そのとき、三波春夫(1923-2001、本名:北詰文司)さんが同じ連隊におられ、浪曲師として軍隊内でも人気があったとのこと。
 このような戦地での思い出話を三宅さんからお聞きする機会がよくありました。貴重な体験談ですので、わたしもいろいろと教えていただいたものです。
 たとえば、ソ連軍が参戦したとき、満州の国境地帯に派遣されており、その情報を伝えることと、軍事機密の暗号解読書を持ち帰る必要があり、部隊を引き連れて命がけでソウルまで帰還したとのこと。平野部はソ連軍が展開しているため、山岳地帯ルートで脱出され、途中、子供を連れて満州から逃げているご婦人が疲労困ぱいで座り込んでいたので、持っていた岩塩を分けてあげたところ、幼子を負ぶったそのご婦人はもう一人の子供の手を引いて歩き出したという悲しい体験などをお聞きしたこともありました。関東軍司令部が兵士や民間人を置き去りにして、早々と逃げ帰ったと、三宅さんは憤っておられました。
 ソウル行きの最後の「病院列車」に間に合い、部隊は列車の屋根の上に乗ったが、全員血まみれだったそうです。「なぜ血まみれになったのですか」とたずねると、ソ連軍の包囲網を突破するため〝切り込み〟をかけたとのことでした。ソウルに着くと、要請されてソウル警察隊の設立と訓練を手伝い、その後に部隊全員を連れて帰国されました。そのときの兵士たちは全員が三宅さんより年長の古参兵だったのですが、三宅さん以外の将校は戦死したため、若い三宅さんが指揮を執り、「全員、日本に連れて帰る」と言うと、古参兵たちはよく命令に従ったそうです。
 無事に部隊を連れて帰国し、九州から大阪方面行きの鉄道に乗ったものの、広島の手前で列車は止まり、そこからは歩いて次の駅まで行ったとのこと。原爆で広島市内の鉄道が破壊され、市内一面が焼け野原だったそうです。もしかすると、そのとき古田先生も仙台から広島に戻られていた可能性がありそうです。
 こうした三宅さんの「軍歴」を、『古田史学会報』30号(1999年2月)掲載の三宅利喜男「小林よしのり作 漫画『戦争論』について」より転載します。(つづく)

〔三宅利喜男氏軍歴〕大正14年(1925)7月24日生
昭和19年12月 陸軍航空通信学校卒業。
  20年 5月 鞍山(満州)第三航空情報隊転属。温春(満州)第十一航空情報隊転属。
     7月 満・ソ・朝国境方面に出向。
     8月9日 ソ軍と戦闘。清津(北朝鮮)通信所にて連絡中、ソ軍の上陸始まる。茂山白頭山系より病院列車でソウル航空軍司令部へ。終戦を知る(19日)。
     9月 ソウル南大門警察に所属。韓国保安隊訓練を指導。
    10月 安養で米軍に武器引渡し。
    11月 釜山より部隊を連れ帰国。


第2052話 2019/12/08

三宅利喜男さんと三波春夫さんのこと(1)

 「岩本さんのポスターがテレビに出てはる」と妻に言われて、久しぶりにNHKの大河ドラマ「いだてん」を見ました。というのも、ご近所の岩本光司さんは前回1964年の東京オリンピック公式ポスターのモデルなのですが、そのポスターが重要なアイテムとして何度もテレビ画面に出ているのです。
 岩本家とは家族ぐるみの永いお付き合いですが、岩本さんは学生時代(早稲田大学)、水泳(バタフライ)の選手で、アジア大会で優勝し、オリンピックでのメダル獲得間違いなしと言われていました。そのため、東京オリンピック公式ポスターのモデルに抜擢され、バタフライで泳いでいる迫力満点の写真が日本中に貼られたのです。
 ところが岩本青年に悲劇が起こります。オリンピック出場を決める選考会レースの直前に病気になられ、オリンピックに出場できなかったのです。ショックで岩本さんは一旦は水泳から離れられたのですが、その数十年後、マスターズ水泳に出場され、世界記録をなんと60回以上更新するという世界のトップスイマーとして復活されたのです。今も現役で活躍されています。そして2020年の東京オリンピックを前にして、岩本さんと1964年のポスターが再び脚光を浴び、テレビや新聞に引っ張りだことなられ、今回の大河ドラマに「ポスター出演」となった次第です。
 その大河ドラマ「いだてん」に演歌歌手の三波春夫さんも登場し、あの懐かしい「オリンピックの顔と顔、それととんと、ととんと、顔と顔」という東京五輪音頭がテレビ画面に流れたのです。そのとき、わたしは「古田史学の会」の会員、三宅利喜男さんのことを思い出しました。そして、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)に三宅さんが今も会に在籍されているのかを問い合わせたのです。(つづく)


第2049話 2019/12/03

『東京古田会ニュース』189号の紹介

 『東京古田会ニュース』189号が届きました。今号には拙稿「即位礼正殿の儀の光景 -『黄櫨染御袍』考-」を掲載していただきました。本稿は、天皇しか着ることが許されていないという「黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)」の染色に使用された天然染料(櫨、蘇芳)とその染色技術(金属媒染)について考察したものです。国内に自生していない蘇芳の入手や九州王朝(倭国)海軍についても触れました。
 今号で改めて注目したのが橘高修さん(東京古田会・事務局長、日野市)の論稿「古田武彦の『八面大王論』(幷私論)」でした。信州に遺る古代伝承「八面大王」は九州王朝滅亡期に信州に逃げた筑紫君薩野馬のこととする古田説を解説し、『日本書紀』に見える「鼠」が登場する記事の分析から、この「鼠」とは九州王朝勢力のことであり、「八面大王」の勢力を現地史料では「鼠族」と呼ばれていることを古田説の傍証として紹介されました。
 橘高さんは、『日本書紀』に見える「鼠」を九州王朝のこととする論稿「鼠についての考察」を『東京古田会ニュース』152号(2013年9月)に発表されていたのですが、当時は「このような捉え方もあるのか」と思った程度で、わたしはあまり関心を払いませんでした。論証成立の当否も半信半疑だったと思います。ところが今回改めて拝読しますと、『日本書紀』の「鼠」記事全てとは言えないまでも、仮説としては成立するのではないかと考えるようになりました。
 橘高稿にもあげられていますが、『日本書紀』には、鼠が集団で移動すると、それは遷都の兆しとする記事が散見されます。たとえば、大化元年(645)十二月条には鼠が難波に向かったことを難波遷都の兆しとする記事があり、「前期難波宮九州王朝複都」説に対応していそうです。天智五年(666)是冬条には、京都の鼠が近江に移るという記事があり、これも「九州王朝の近江遷都」説に対応していると捉えることもできます。このように、十数年来、わたしが提起してきた仮説と橘高説は対応していることに、遅まきながら気づいた次第です。なお、橘高さんによる八面大王伝承の紹介論稿「安曇野に伝わる八面大王説話」が『倭国古伝』(古田史学の会編、明石書店)に収録されていますので、ぜひご参照下さい。


第2048話 2019/11/27

『古代に真実を求めて』23集巻頭言(草稿・前半)

 『古代に真実を求めて』二三集の「巻頭言草稿・前半」をご紹介します。これから推敲し、添削も受けますので、内容もまだまだ変化する可能性があります。読者の皆さんからのご意見やご助言もお受けします。

【巻頭言】(草稿・前半)
「古事記」「日本書紀」に息づく九州王朝
    古田史学の会 代表 古賀達也

 養老四年(七二〇)に『日本書紀』が編纂され、令和二年(二〇二〇)で千三百年を迎える。それに先立つ和銅五年(七一二)に成立した『古事記』とともに、わが国において『日本書紀』は最も多くの読者を得た歴史書と言ってもよいであろう。早くは大和朝廷が養老五年に「日本紀講筵(にほんぎこうえん)」と呼ばれる『日本書紀』の講義を催し、平安時代前期にはほぼ三十年毎に六度に及ぶ講義を行ったことが諸史料(『釈日本紀』『本朝書籍目録』)に見える。「日本紀私記」と呼ばれるその講義〝テキスト〟が四編ほど現存しており、その一端をうかがい知ることができる。
 他方、江戸時代後期に至り、本居宣長が名著『古事記伝』を著し、一躍『古事記』が脚光を浴び、『古事記』『日本書紀』は史書という史料性格を超えて、日本の国柄(国体)や日本人の思想(国学)を形作る原典とされるに至った。戦後の実証史学においても、『日本書紀』の基本的歴史観である近畿天皇家一元史観、すなわち神代の昔から近畿天皇家が日本列島で唯一の卓越した権力者であったとする歴史認識の大枠は揺らぐことはなかった。
 考古学においても、『日本書紀』の記述を根拠とした歴史編年を是として、出土土器などの相対編年をその暦年記事にリンクさせてきた。さらには、多くの文化・文物が大和朝廷で最も早く受容され、あるいは発生し、その後、日本列島各地に伝播したとする文化観・編年観が古代史学の主流を占めたのである。
 このように『古事記』『日本書紀』は編纂以来千三百年の永きにわたり、篤く遇されてきた。しかしその果てに形作られた古代史像は、古田武彦氏が提唱された多元史観・九州王朝説に立つ、わたしたち古田学派に見える景色とは大きく異なる。
 両書は、八世紀初頭(七〇一年)にそれまでの代表王朝であった九州王朝(倭国)に替わり、日本列島の第一権力者となった大和朝廷(日本国)による自らの正統性宣揚のための史書である以上、その主張の真偽は学問的検証の対象であること、論を待たない。ところが、この史料編纂の動機解明や記述内容そのもの全てをまずは疑うという学問的基本作業がこの千三百年間、必要にして充分に行われてきたとは言い難い。とりわけ、大和朝廷が自らと共通の祖先(天照大神ら)を持つ前王朝(九州王朝)の存在を隠しているという疑いなど全く抱くこともなく、わが国の古代史学は真面目かつ無邪気に『古事記』『日本書紀』の基本フレーム(近畿天皇家一元史観)を信じ、今日に至っているようである。
 古田武彦氏は『失われた九州王朝』(朝日新聞社刊、一九七三年。ミネルヴァ書房より復刻)において、近畿天皇家(大和朝廷)に先だって九州王朝が日本列島の代表王朝として存在し、中国史書に見える「倭国」とは大和朝廷のことではなく九州王朝のこととする多元的歴史観・九州王朝説を提唱された。たとえばその史料根拠として、『旧唐書』に別国表記された次の「倭国伝」(九州王朝)と「日本国伝」(大和朝廷)を提示された。

 「倭国は古の倭奴国なり。京師を去ること一万四千里。新羅東南の大海の中にあり。山島に依って居る。東西は五月行、南北は三月行。世、中国と通ず。その国、居るに城郭なく、木を以て柵を為(つく)り、草を以て屋を為(つく)る。四面に小島、五十余国あり、皆これに附属す。
 その王、姓は阿毎氏なり。一大率を置きて諸国を検察し、皆これに畏附す。(後略)」〔『旧唐書』倭国伝〕

 「日本国は倭国の別種なり。その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名となす。あるいはいう、倭国自らその名を雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本となすと。あるいはいう、日本は旧(もと)小国、倭国の地を併せたりと。その人、入朝する者、多くは自ら矜大、実を以て対(こた)えず。故に中国これを疑う。またいう、その国の界、東西南北、各数千里あり、西界南界はみな大海に至り、東界北界は大山ありて限りをなし、山外は即ち毛人の国なりと。(中略)
 貞元二十年(八〇四)、使を遣わして来朝す。学生橘逸勢、学問僧空海を留む。(後略)」〔『旧唐書』日本国伝〕

 わたしたち古田学派の研究者はこの古田説に基づき、『古事記』『日本書紀』の中に九州王朝(倭国)の痕跡が残されているはずと考え、多元史観・九州王朝説の視点から両書の史料批判を進め、古代史像復元を試みてきた。その現在の到達点を書き留めたものが本書である。千三百年続いた近畿天皇家一元史観を超え、多元史観の頂上(いただき)から見える景色を読者と共有し、日本古代史の奥底(おうてい)を学問の光で照らしたいと願っている。
〔以下、執筆中〕


第2047話 2019/11/23

『古代に真実を求めて』23集の巻頭言執筆中

 来春発行予定の『古代に真実を求めて』23集の編集作業も最終段階を迎え、わたしも巻頭言を執筆中です。特集テーマは『日本書紀』編纂1300年を来年に控えて、『古事記』『日本書紀』に秘められた九州王朝(倭国)の痕跡を明らかにするというものです。多元史観・九州王朝説の視点から見える景色、両書の新たな姿を本書は明示することでしょう。
 掲載論文と構成、本のタイトルも最終案が服部静尚編集長から示され、編集委員の承認を得た後、服部さんと明石書店との交渉へと進みます。特集と一般投稿論文それぞれに論集初登場の執筆者があり、古田学派研究陣の層の厚さが着実に増していることがわかります。タイトルや構成などが正式決定されましたら、また報告します。ご期待下さい。


第2043話 2019/11/19

「新・八王子セミナー2019」の情景(4)

 今回の「古田武彦記念 古代史セミナー2019」では、わたしは私的な〝オプショナル・セミナー〟を行いました。せっかく交通費をかけて関東まで行くのですから、もう一泊して、セミナー終了後に八王子駅近くのお店で夕食を兼ねた交流会を企画することにしました。日頃、学問交流する機会がない関東の研究者のお話を聞いてみたいと願っていたからです。
 そこで、東京出張のとき、夕食をご一緒させていただくことがある宮崎宇史さん(多元的古代研究会・副会長)にこの企画を相談したところ賛成していただき、会話が散漫とならないよう人数を絞った方がよいとのご提案もいただきました。冨川ケイ子さん(古田史学の会・全国世話人、相模原市)にご紹介いただいた八王子駅前のお店の予約にあたり、個室使用は「7名以上10名以下」との制限がありましたので、総勢8名での夕食会となりました。
 荻上紘一先生(新・八王子セミナー実行委員長、大妻女子大学元学長)にもご参加いただくことができましたので、来年の新・八王子セミナーの企画案などについてお話をうかがうことができました。その他にも、古田史学を世に広めていく上での注意点など多くのご助言もいただき、とても有意義な夕食会となりました。
 わたしからは、古田先生とのプライベートな思い出話や、この「洛中洛外日記」の「古田史学の会」ホームページ掲載に至る手続きについてご披露させていただきました。あまり公にはしてきませんでしたが、「洛中洛外日記」は、わたしが執筆した後、二回にわたるチェック(一回目はお二人の方から内容と文法・誤字脱字のチェック。二回目は「古田史学の会」役員・編集部員14名の方から)を受けており、そこで修正意見が出されれば修正し、掲載すべきではないとするご意見が一人でも出されれば「没」にすることなどを説明したところ、皆さん驚いておられました。ちなみに、「洛中洛外日記」は今回で2043話になりますが、今まで二回「没」になったことがあります。
 こうして夕食会は夜遅くまで続きました。ご参加いただいた皆様に改めて御礼申し上げます。来年の「古田武彦記念 古代史セミナー2020」も楽しみです。また〝オプショナル・セミナー〟を企画できればと思います。