古賀達也一覧

古田史学の会代表古賀達也です。

第2771話 2022/06/22

「トマスによる福音書」と

     仏典の「変成男子」思想 (6)

 日本列島への仏教初伝や経典受容期における女人救済思想についても検討することにします。他国とは異なって、日本神話では女神の天照大神を最高神としたり、宗像三女神が崇敬されたりしています。倭人伝に見える邪馬壹国の女王俾弥呼の登場などを考えると、古代日本では比較的女性は尊重されており、インドや西洋とは少々様相が異なっているようにも思われます。そこで、史料事実を重視して、実証的に考察してみます。
 日本列島への仏教の伝来や影響を考える場合、わたしたち古田学派としては当然多元史観・九州王朝説を基礎とする多元的伝来への配慮が必要です。そこで、最初に『日本書紀』を中心として近畿天皇家(近畿地方)の受容について見てみます。近畿天皇家の勢力が仏教を公的に受け入れたのは『日本書紀』によれば、敏達十三年条(584年)のことであり、最初に受容したのは蘇我馬子らです。

〝(敏達天皇十三年)秋九月、從百濟來鹿深臣闕名字、有彌勒石像一軀、佐伯連闕名字、有佛像一軀。
 是歳、蘇我馬子宿禰、請其佛像二軀、乃遣鞍部村主司馬達等・池邊直氷田、使於四方訪覓修行者。於是、唯於播磨國得僧還俗者、名高麗惠便。大臣、乃以爲師、令度司馬達等女嶋、曰善信尼年十一歳、又度善信尼弟子二人。其一、漢人夜菩之女豊女名曰禪藏尼、其二、錦織壼之女石女名曰惠善尼。壼、此云都苻。
 馬子獨依佛法、崇敬三尼。乃以三尼付氷田直與達等、令供衣食經營佛殿於宅東方、安置彌勒石像、屈請三尼大會設齋。此時、達等得佛舍利於齋食上、卽以舍利獻於馬子宿禰。馬子宿禰、試以舍利置鐵質中振鐵鎚打、其質與鎚悉被摧壞、而舍利不可摧毀。又投舍利於水、舍利隨心所願浮沈於水。由是、馬子宿禰・池邊氷田・司馬達等、深信佛法、修行不懈。馬子宿禰、亦於石川宅修治佛殿。佛法之初、自茲而作。〟(注①)

 この記事が示す重要な〝史料事実(『日本書紀』編者の主張)〟は次の点です。

(1)百済からもたらされた弥勒菩薩石造ともう一つの仏像を蘇我馬子が受け入れ、崇敬した。
(2)男性ではなく、なぜか若い女性三人(善信尼〈11歳〉・禅蔵尼・恵善尼)を出家させた。
(3)近畿天皇家の下には僧侶がいないため、播磨国にいた還俗僧の高麗の惠便を法師として三人を〝得度〟させた。
(4)仏舎利を得た蘇我馬子は仏殿を造り、敬った。
(5)「佛法之初、自茲而作」、こうして仏法は始まった。

 この一連の記事で最も注目すべきは、(5)の近畿天皇家(近畿地方)への「仏法初伝」を敏達十三年(584年)とする記事です。現在の通説(近畿天皇家一元史観)では、わが国(大和朝廷)への仏教伝来を欽明十三年(552年)、あるいは宣化三年(538年)としてきましたが(注②)、天皇家の正史『日本書紀』には敏達十三年のこととしています。この史料事実は重要です。
 次に注目すべき記事が、若い女性を尼僧として出家させていることです。古代日本での仏教による女人救済思想を考える上で、この近畿地方での〝仏法の初め〟が若い(幼い)女性の出家であることは、百済からもたらされた仏像が弥勒菩薩像であることと共に重要な視点ではないでしょうか。(つづく)

(注)
①日本古典文学大系『日本書紀』岩波書店。
②古賀達也「倭国に仏教を伝えたのは誰か ―「仏教伝来」戊午年伝承の研究―」『古代に真実を求めて』第一集(古田史学の会編、1996年。明石書店から復刊)において、次のように中小路駿逸氏(元追手門学院大学教授)の見解を紹介した。
〝それに対して多元史観の立場から果敢な史料批判を試みられたのが中小路駿逸氏でした。氏は近畿天皇家への仏教初伝は『日本書紀』が「仏法の初め」と自ら記している敏達十三年(五八四)であり、しかもそれは百済からではなく播磨の還俗僧恵便からの伝授と記されていることを指摘され、永く通念であった欽明十三年の記事は「仏教文物の伝来」であって「仏教の伝来」ではないと喝破されました。更に返す刀で、『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺伽藍縁起』などに見える、百済から戌午の年に伝来したとする説は近畿天皇家の伝承にはあらず、なぜなら『日本書紀』には播磨の恵便から仏法が伝わり、大和でも出家者が出たことをもって「仏法の初め」と明記されているからであると、言われてみればあまりにも単純明瞭な史料事実と論理を示されたのでした。その上で、百済から戊午の年に伝来したとされるのは九州王朝への仏教初伝伝承であり、その時期は四一八年の戊午である蓋然性が大きいとされました。


第2770話 2022/06/21

「トマスによる福音書」と

     仏典の「変成男子」思想 (5)

 「トマスによる福音書」に見える女性救済方法は、仏典の「変成男子」と同様に、女性を男性にしてからというものです。

〝シモン・ペトロが彼らに言った。「マリハムは私たちのもとから去った方がよい。女たちは命に値しないからである」。
 イエスが言った。「見よ、私は彼女を(天の王国へ)導くであろう。私が彼女を男性にするために、彼女もまた、あなたがた男たちに似る活ける霊になるために。なぜなら、どの女たちも、彼女らが自分を男性にするならば、天国に入るであろうから」。〟「トマスによる福音書」『ナグ・ハマディ文書Ⅱ 福音書』(注①)

 今日は久しぶりに新約聖書を読み、女性救済がどのように語られているのかを調べているのですが、まだ見つけることができていません。しかし、当時の社会における女性蔑視思想はキリスト教団中にもありました。先の「トマスによる福音書」に見える〝シモン・ペトロが彼らに言った。「マリハムは私たちのもとから去った方がよい。女たちは命に値しないからである」。〟もその片鱗です。新約聖書「コリントの信徒への手紙1」には次のパウロの言葉があり、その差別思想は具体的です。

〝すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。(中略)
 なぜなら、男は女をもとにして造られたのではなくて、女が男をもとにして造られたのであり、また、男は女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。〟「コリントの信徒への手紙1」(11章3~9節)『聖書』(注②)

 現代のクリスチャンがこの聖書の言葉をどのように受けとめているのかは知りませんが、まさかそのまま〝是〟として受けとめてはいないと思います。少なくとも、わたしの周囲におられるクリスチャン(日本人)からは、このような思想を感じたことはありません。
 他方、恐らく女性蔑視社会の当時、イエスのもとには多くの女性たちが付き従っていたことが聖書に散見されます。次の聖書の一節は、イエスがゴルゴダの丘で処刑されたときの様子です。12名の弟子(全員が男)たちはイエスを見捨てて逃げたのですが、女性たちは逃げずに遠巻きで処刑を見ていたようです。

〝そこには、遠くからながめている女たちがたくさんいた。イエスに仕えてガリラヤからついて来た女たちであった。その中には、マグダラのマリヤ、ヤコブとヨセフとの母マリヤ、ゼベダイの子らの母がいた。〟「マタイの福音書」(27章55~56節)『聖書』

 いつの世も、覚悟を決めた女性の強さが輝くのですが、このシーンは象徴的です。ここに見えるマグダラのマリヤは、復活後のイエスに最初に出会った人物として福音書に記されており、他の男の弟子たちや新約聖書の編纂者たちも、彼女に一目置いていたと思われます。発見されたナグ・ハマディ文書には、「トマスによる福音書」とともに「マリヤによる福音書」もあります。そこには、イエス死後のマリヤとペトロらとの会話が記されています。

〝ペトロがマリヤに言った。「姉妹よ、救い主が他の女性たちにまさってあなたを愛したことを、私たちは知っています。あなたの思い起こす救い主の言葉を私たちに話して下さい。あなたが知っていて私たちの(知ら)ない、私たちが聞いたこともないそれら(の言葉)を」。
 マリヤが答えた。彼女は「あなたがたに隠されていること、それを私はあなたがたに告げましょう。」と言った。そして彼女は彼らにこれらの言葉を話し始めた。(中略)
 マリヤは以上のことを言ったとき、黙り込んだ。救い主が彼女と語ったのはここまでだったからである。
 すると、アンドレアスが答えて兄弟たちに言った。「彼女の言ったことに、そのことに関してあなたがたの(言いたいと思)うことを言ってくれ。救い主がこれらのことを言ったとは、この私は信じない。これらの教えは異質な考えのように思われるから」。
 ペトロが答えて、これらの事柄について話した。彼は救い主について彼らに尋ねた、「(まさかと思うが、)彼がわれわれに隠れて一人の女性と、(しかも)公開ではなく語ったりしたのだろうか。将来は、われわれ自身が輪になって、皆、彼女の言うことを聴くことにならないだろうか。(救い主)が彼女を選んだというのは、われわれ以上になのか」。
 そのとき[マ]リヤは泣いて、ペトロに言った。「私の兄弟ペトロよ、それではあなたが考えておられることは何ですか。私が考えたことは、私の心の中で私一人で(考え出)したことと、あるいは私が嘘をついている(とすればそれ)は救い主についてだと考えておられるからには」。
 レビが答えて、ペトロに言った。「ペトロよ、いつもあなたは怒る人だ。今私があなたを見ている(と)、あなたがこの女性に対して格闘しているのは敵対者たちのやり方でだ。もし、救い主が彼女をふさわしいものとしたのなら、彼女を拒否しているからには、あなた自身は一体何者なのか。確かに救い主は彼女をしっかりと知っていて、このゆえにわれわれよりも彼女を愛したのだ。」〟「マリヤによる福音書」同①

 聖書の四福音書とは弟子等に対するイメージが大きく異なっていますが、イエス処刑のとき逃げずに最後まで残ったマグダラのマリアの福音書の方にリアリティーをわたしは感じます。同時に、ペトロの言葉にあるように、男の弟子等が恐れたのは「将来は、われわれ自身が輪になって、皆、彼女の言うことを聴くことにならないだろうか。」という事態だったのかもしれません。
 わたしは、聖書に記されたイエス処刑の一節を読む度に、小学生時代に父と観たハリウッド映画の大作「ベン・ハー」(注③)のワンシーンを想い出します。重い十字架を引きずり、むち打たれながらゴルゴダの丘へと連行されるイエスと主人公ベン・ハー(チャールトン・ヘストン)との出会い(再会)の場面です。(つづく)

(注)
①『ナグ・ハマディ文書Ⅱ 福音書』岩波書店、1998年。
②「コリントの信徒への手紙1」(11章3~9節)『聖書』日本聖書刊行会、1994年版。
③ウィリアム・ワイラー監督「ベン・ハー」、1959年、チャールトン・ヘストン主演。アカデミー賞11部門を獲得した同作品は、巨大な競技場セットでの戦車競争シーンが圧巻。原作はルー・ウォーレスの『ベン・ハー キリスト物語』1880年。


第2769話 2022/06/20

竹村さんからの提案、ボカロ版「洛中洛外日記」

 昨日の出版記念講演会は全国の会員・会友を対象にネットで生配信しました。「古田史学の会」が採用している配信機器は当初と比べ、性能は上がりコンパクトになりました。そのシステムを優れたテクニカルスタッフ(横田幸男さん、久冨直子さん、竹村順弘さん)が運営しています。聞けば、ハイスペックの機種で、操作も難しいとのこと。
 今回からは講師の声を収音マイクではなく、専用の小型マイクでとり、それを会場最後尾に設置したホストPCへ飛ばし、そこから全国配信する新システムを採用しました。おかけで音声や画像がきれいに配信できるようになりました。スタッフの皆さんに感謝します。
 ホームページ「新・古代学の扉」を横田さん(古田史学の会・全国世話人、インターネット事務局担当)が立ち上げて以来、「古田史学の会」ではインターネットを重視してきました。「洛中洛外日記」のリリースも、「新・古代学の扉」へのアクセス件数が増えるようにと始めたものです。その後、FaceBookにも参入しましたが、web環境やその社会的影響力は拡大を続け、SNSの進化によりコンテンツやビジネスモデルは劇的に変化しました。「古田史学の会」のインターネット事業にも新たな分野への挑戦が必要と感じています。
 そのようなとき、昨日の「古田史学の会」全国世話人会終了後に、竹村さん(古田史学の会・事務局次長、木津川市)から面白い提案を受けました。古田史学の紹介動画として、10~15分ほどのボーカロイドやトークロイド(注①)による解説番組やボカロ版「洛中洛外日記」を制作してはどうかというものです。ボーカロイドといえば初音ミクさんの「虹色蝶々」や「千本桜」をよく聴いていましたが、古代史の解説に使うという発想には至りませんでした。実際にどのように使用されているのかを久冨さんにうかがったところ、「ゆっくり動画」というサイトがあり、古代史のコンテンツもあることを教えていただきました。
 実現のためには技術的な問題の他、内容そのものに魅力がないと効果が見込めません。どのような層をターゲットとできるのかも含めて検討したいと思います。ボーカロイドやトークロイドに詳しい方のアドバイスをいただければ幸いです。

(注)
①トークロイドとは、本来歌うために作られたボーカロイド(VOCALOID)で喋りの質を追い求めた動画に付けられるタグである。(ニコニコ大百科の解説による)
②「虹色蝶々」初音ミク。
https://www.youtube.com/watch?v=3qYHaLlGyWs
 「千本桜」初音ミク。
https://www.youtube.com/watch?v=Mqps4anhz0Q


第2767話 2022/06/18

「トマスによる福音書」と

    仏典の「変成男子」思想 (4)

 『法華経』には、「題婆達多品第十二」に見える「龍女の成仏」説話の他にも女性の救済についての説話があります。「洛中洛外日記」(注①)で紹介したことがありますが、「薬王菩薩本事品第二十三」の次の説話です。

『妙法蓮華経』「薬王菩薩本事品第二十三」

 「宿王華、若し人あって是の薬王菩薩本事品を聞かん者は、亦無量無辺の功徳を得ん。若し女人にあって、是の薬王菩薩本事品を聞いて能く受持せん者は、是の女身を尽くして後に復受けじ。若し如来の滅後後の五百歳の中に、若し女人あって是の経典を聞いて説の如く修行せば、此に於て命終して、即ち安楽世界の阿弥陀仏の大菩薩衆の圍繞せる住処に往いて、蓮華の中の宝座の上に生ぜん。
 復貪欲に悩されじ。亦復瞋恚・愚痴に悩されじ。亦復・慢・嫉妬・諸垢に悩されじ。菩薩の神通・無生法忍を得ん。是の忍を得已って眼根清浄ならん。是の清浄の眼根を以て、七百万二千億那由他恒河沙等の諸仏如来を見たてまつらん。」

 当時、成仏できないとされた女人でも、薬王菩薩本事品を聞き、説の如く修行すれば、死後に「安楽世界の阿弥陀仏の大菩薩衆の圍繞せる住処に往いて、蓮華の中の宝座の上に生ぜん」と阿弥陀浄土への往生ができると説いたものです。わたしが着目したのは「若し女人にあって、是の薬王菩薩本事品を聞いて能く受持せん者は、是の女身を尽くして後に復受けじ。」の部分です。三枝充悳氏による現代語訳では次のようです(注②)。

 「もしある女人が、この薬王菩薩本事品を聞いて、よく受持するならば、このひとは、女身を尽くしてから後に再び女身を受けるということはないであろう。」三枝充悳『法華経現代語訳(下)』464頁

 薬王菩薩本事品のこの部分は釈迦が女人の往生を説いた説話で、「女性救済」思想なのですが、ここでも「女身」であることをネガティブに捉え、滅後は再び女身として生まれないという〝方法〟を説いているわけです。現代人の感覚としては、なんともやりきれないのですが、このような便法を用いなければならないほど、当時の女性蔑視社会の圧力は強かったことがうかがえます。
 わたしにはこうした釈迦の便法を、あたまから否定することができません。現代社会にも、「正義」や「平等」「平和」を主張するだけでは一向に解決できない問題が数多くあり、その間も苦しみ続けている人々がいることを知っているからです。まさに釈迦やイエスが生きた時代はそのような精神文明の社会だったのです。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2505話(2021/06/29)〝九州王朝(倭国)の仏典受容史(2) ―法華経「薬王菩薩本事品」の阿弥陀浄土思想―〟
②三枝充悳『法華経現代語訳(下)』第三文明社レグルス文庫、1974年。


第2766話 2022/06/18

YouTube「考古学は

なぜ『邪馬台国』を見失ったのか」が好評

 5月1日、京都で行った講演「考古学はなぜ『邪馬台国』を見失ったのか」が好評です(注①)。一昨日、正木裕さん(古田史学の会・事務局長、大阪府立大学講師)からのご連絡で知ったのですが、同講演のユーチューブ動画(注②)のアクセス件数が短期間で二千件を越えたとのことです。わたしも驚いて確認したところ、この数日は1日百件のペースで増えているようです。自分が映っている動画など恥ずかしくて、今までほとんど見なかったのですが、今回ばかりは最後まで見ました。
 講演会当日はご近所の京極学区(注③)の役員方も数名参加され、「おもしろかった」「わかりやすかった」とお褒めの言葉をいただきました。内容も一般市民向けであることを意識したものでしたが、web上で注目されていることから、タイトルも大切であると思いました。「古田史学の会」創立以来、インターネットでの発信に注力し、ホームページの充実を計ってきました。ホームページ「新・古代学の扉」は横田幸男さん(古田史学の会・全国世話人、東大阪市)に担当していただいていますが、わたしたちが思っている以上に大きな影響力を持っているようです。最近も、某大学教授のブログで『古代史の争点』(注④)をご批判をいただきましたが、わたしたちのホームページ、特に「洛中洛外日記」をしっかりとお読みいただいていることが、その文面からはうかがえました。
 また、お気づきの読者も多いと思いますが、今年になってホームページでのユーチューブ動画配信を一段と強化しました。これは竹村順弘さん(古田史学の会・事務局次長、木津川市)のご尽力によるものです。これからは主催講演会のリモート配信なども積極的に進めて行ければと考えています。既に関西例会では常連参加者を対象としてリモート参加を試験的に導入しています。こちらは竹村さんと久冨直子さん(『古代に真実を求めて』編集部、京都市)に担当していただいています。克服すべき課題もありますが、機材も揃えましたので更に拡充していきたいと思います。

(注)
①「市民古代史の会・京都」主催の古代史講演会。5月1日、京都駅前のキャンパスプラザ・京都で開催。コロナ禍が落ち着いてきたこともあり、会場は満席となった。古賀と正木裕氏が講演した。
https://youtu.be/9Kl8XjiaWp0
https://youtu.be/vN4KJEQgSlU
https://youtu.be/kEXqLpe5FjQ
③京都市上京区の京極小学校を中心とした学区。同校は明治の学制発足時からの伝統校で、湯川秀樹氏の母校でもある。わたしの娘も同校の卒業で、湯川博士の母校で学ぶことを誇りに感じていたようである。
④『古代史の争点』(『古代に真実を求めて』25集)明石書店、2020年。編集長は大原重雄氏(古田史学の会・会員、京都府大山崎町)。


第2765話 2022/06/17

「トマスによる福音書」と

   仏典の「変成男子」思想 (3)

 「変成男子」思想は『法華経』「題婆達多品第十二」に見える「龍女の成仏」説話が著名ですが、それは編纂過程において題婆達多品が後から付加されたようで、西晋の竺法護訳(286年)『正法華経』(注①)や後晋の鳩摩羅什訳(406年)『妙法蓮華経』には題婆達多品はありません。また、隋の闍那崛多訳(601年)『添品法華経』には題婆達多品はないのですが、「宝塔品第十一」の後半に編入されています。なお、「変成男子」思想は各種仏典中に見え、それらについては今井俊圀さん(古田史学の会・全国世話人、千歳市)が論稿(注②)で紹介されています。以下、要約して転載します。

○『大宝積経』唐の菩提流志訳。「彼女皆悉得男身」(大正新脩大蔵経巻十一、1~685頁)
○『大宝積経』北斉の那連提耶舎訳。「彼女皆悉得男身」(同、414頁)
○『大宝積経』唐の菩提流志訳。「成就八法當轉女身」「是浄信等五百童女人中壽盡。當捨女身生兜率陀天。」(同、626頁)
○『大方等大集経』北涼の曇無讖訳。「所將八萬四千亦轉女身得男子身」「尋轉女身得男子形」(大正新脩大蔵経巻十三、133頁・217頁)
○『大方等大集経』隋の那連提耶舎訳。「尋轉女身得男子身」(同、241頁)
○『道行般若経』「是優婆夷後當棄女人身。更受男子形却後當世阿閣佛刹。」(大正新脩大蔵経巻八、458頁)
 ※般若経のなかでも最も成立が早いとされる『道行般若経』はBC一世紀には南インドで成立していたとされている。
○『小品般若経』「八千頌般若経」の鳩摩羅什訳。「今轉女身得爲男子生阿?佛土」(同、568頁)
○『大樹緊那羅王所問経』姚秦の鳩摩羅什訳。「轉捨女身成男子身」(大正新脩大蔵経巻十五、380~381頁)
○『佛説七女経』呉の支謙訳。「見七女化成男」(大正新脩大蔵経巻十四、909頁)
○『佛説龍施女経』呉の支謙訳。「女身則化成男子」(同、910頁)
○『佛説龍施菩薩本起経』西晋の竺法護訳。「變爲男子形」(同、911頁)
○『佛説無垢賢女経』西晋の竺法護訳。「便立佛前化成男子」(同、914頁)
○『佛説轉女身経』宋の曇摩蜜多訳。「速離女身疾成男子」(同、919頁)、「無垢光女女形即滅。變化成就相好莊嚴男子之身」(同、921頁)
○『順權方便経巻下』西晋の竺法護訳。「五百女人變爲男子」(同、930頁)
○『樂瓔珞莊嚴方便品経』姚秦の曇摩那舍訳。「及轉女身成男子身」(同、938頁)
○『佛説心明経』西晋の竺法護訳。「當轉女像得爲男子」(同、942頁)
○『佛説賢首経』西秦の聖堅訳。「可得離母人身。有一事行疾得男子」(同、943頁)
○『佛説長者法志妻経』訳者不明。「女心即解變爲男子」(同、945頁)
○『佛説堅固女経』隋の那連提那舍訳。「捨女人身得成男子」(同、948頁)
○『六十華厳』「六欲天中一切天女。皆捨女身悉爲男子」(大正新脩大蔵経巻九、606頁)。

 以上のように、少なからぬ漢訳経典に「変成男子」思想が見えることから、そのサンスクリット原典やパーリ語原典にも同様の説話や思想があったはずです。この思想は女性蔑視社会を前提として成立しますから、当時の女性たちがおかれた地位や精神的苦悩は想像するにあまりあります。救済思想としての仏教やそれを説いた釈迦の出現は歴史的必然だったのではないでしょうか。そうであれば、「トマスによる福音書」も同様の背景を持っていたと思われます。(つづく)

(注)
①『正法華経』には、題婆達多品が「梵志品」の名称で「七寶塔品第十一」中に編入された諸本もあるようである。
②今井俊圀「『トマスによる福音書』と『大乗仏典』 古田先生の批判に答えて」『古田史学会報』74号、2006年。


第2764話 2022/06/16

「トマスによる福音書」と

   仏典の「変成男子」思想 (2)

 発見された「トマスの福音書」(ナグ・ハマディ文書)の最終節(114)に次の記事があります。いわゆる「変成男子」思想に相当するものです。

〝シモン・ペトロが彼らに言った。「マリハムは私たちのもとから去った方がよい。女たちは命に値しないからである」。イエスが言った。「見よ、私は彼女を(天の王国へ)導くであろう。私が彼女を男性にするために、彼女もまた、あなたがた男たちに似る活ける霊になるために。なぜなら、どの女たちも、彼女らが自分を男性にするならば、天国に入るであろうから」。〟『ナグ・ハマディ文書Ⅱ 福音書』(注①)

 ここに見えるマリハムとはマグダラのマリアのことで、イエスの〝妻〟ではないかとする見解や小説(注②)もある女性です。なお、イエスの周囲にはマリハム(マリア)という名前を持つ女性が数名おり、これは偶然のことではないとする西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)の論文があります(注③)。わたしは高く評価しているのですが(注④)、古田先生からは厳しいご批判があった思い出深い論文でした。
 対して、仏典中の「変成男子」説話として著名な『法華経』題婆達多品(だいばだった・ぼん)に見える「龍女の成仏」説話は次のようです。主に仏弟子の舎利弗と龍女との対話になります。

〝その時、舎利弗は、竜女に語りて言わく「汝は、久しからずして、無上道を得たりと謂えるも、この事は信じ難し。所以はいかん。女身は垢穢にして、これ法器に非ず。云何(いか)んぞ能く、無上菩提を得ん。仏道は懸曠(はるか)にして、無量劫を経て、勤苦して行を積み、具さに諸度を修して、然して後、乃ち成ずるなり。又、女人の身には、猶、五つの障(さわり)あり。一には梵天王と作ることを得ず、二には帝釈、三には魔王、四には転輪聖王、五には仏身なり。云何ぞ、女身、速かに成仏することを得ん」と。
 その時、竜女に、一つの宝珠あり、価直は三千大千世界なり。持って以って仏に上(たてま)つるに、仏は即ち之を受けたもう。竜女は、智積菩薩と尊者舎利弗に謂いて言わく「われ、宝珠を献(たてま)つるに、世尊は納受したもう。この事、疾(すみやか)なるや、不(いな)や」と。答えて言わく「甚だ疾なり」と。女の言わく「汝の神力をもって、わが成仏を観よ。またこれよりも速(すみやか)ならん」と。当時の衆会は、皆、竜女の、忽然の間に変じて男子と成り、菩薩の行を具して、すなわち南方の無垢世界に往き、宝蓮華に坐して、等正覚を成じ、三十二相・八十種好ありて、普(あまね)く十方の一切衆生のために、妙法を演説するを見たり。その時、娑婆世界の菩薩と声聞と天・竜の八部と人と非人とは、皆、遥かに彼の竜女の、成仏して普く時の会の人・天のために法を説くを見、心、大に歓喜して悉く遥かに敬礼せり。無量の衆生は、法を聞いて解悟(さと)り、不退転を得、無量の衆生は、道の記を受くることを得たり。無垢世界は、六反に震動し、娑婆世界の三千の衆生は、不退の地に住し、三千の衆生は菩提心を発して、記を受くることを得たり。智積菩薩と及び舎利弗と一切の衆会とは、黙然として信受せり。〟『法華経』(注⑤)

 現代人の人権感覚からすると、女性が救済(福音書:天国に入る。仏典:成仏する。)されるためには男性にならなければならないという、なんとも屈折した方法であり、これは女性蔑視が前提となった思想です。キリスト教学では、このことをどのように説明しているのかは、不勉強のため知りませんが、仏教研究においては中村元氏が原始経典を根拠に、釈迦の言動を次のように説明をしています。

〝このように婦人蔑視の観念に、真正面から反対していることもあるが、或る場合には一応それに妥協して実質的に婦人にも男子と同様に救いが授けられるということを明らかにしている。そのために成立したのが「男子に生まれかわる」(変成男子)という思想である。この思想はすでに原始仏教時代からあらわれている。〟『原始仏教 その思想と生活』(注⑥)

 おそらく、キリスト教も仏教も女性蔑視の時代や社会の中で生まれた宗教ですから、このような「変成男子」思想が必然的に発生したのではないでしょうか。そうであれば、その当時の女性たちは「変成男子」思想を現代人の人権感覚のように女性差別思想(宗教)として退けるのではなく、自らを救済する思想(宗教)として、すがるような気持ちで受容したのではないかとする視点での検証も必要です。その時代の人々の認識を再認識するというのが、古田先生が採用したフィロロギーという学問なのですから。(つづく)

(注)
①『ナグ・ハマディ文書Ⅱ 福音書』岩波書店、1998年。
②木村賢司「『ダ・ヴィンチ・コード』を読んで」『古田史学会報』72号、2006年。
③西村秀己「マリアの史料批判」『古田史学会報』62号、2004年。
④古賀達也「洛中洛外日記」361話(2011/12/13)〝「論証」スタイル(1)〟
⑤『法華経(中)』岩波文庫、1988年版。
⑥中村元『原始仏教 その思想と生活』NHKブックス、1970年、177頁。


第2763話 2022/06/15

「トマスによる福音書」と

   仏典の「変成男子」思想 (1)

 『古田史学会報』への投稿原稿査読で、仮説の新規性確認のため、古田先生の著作や「古田史学の会」や友好団体の会報・会誌などを読み直すことがあります。そのたびに、当時は深く理解できなかったテーマや論証方法の重要性に気づくことが少なくありません。今回もそうでした。
 仏典に見える「変成男子(へんじょうなんし)」思想に関する先行研究を調べていたときのことです。古田先生が研究されていたナグ・ハマディ文書(注①)の一つ、「トマスによる福音書」(注②)にこの「変成男子」思想があり、これが『法華経』などの大乗仏典に伝播したとする説を古田先生が発表されました(注③)。それに対して、今井俊圀さん(古田史学の会・全国世話人、千歳市)との応答が『古田史学会報』紙上でありました。次の三編です。タイトルと結論部分を抜粋します。

○今井俊圀「古田史学の会・創立十周年記念講演会に参加して」『古田史学会報』63号 2004年8月。
【結論部分の抜粋】鳩摩羅什(344~409年)が漢訳した旧訳の「法華経」にはこの「提婆達多品」はなく、唐代の玄奘三蔵(602~669年)の訳した新訳にはあるとされています。そうすると、この説話は、五世紀から七世紀の間に成立したと考えられます。
 ところで、トマスは五七年に南インドへ来て、七二年にマドラスで殉教したとされています。そうすると、五世紀の鳩摩羅什の時代にはこの説話は伝わっていたはずで、それが七世紀まで伝わらなかったとするのは少し変だと思います。二~三世紀頃北インドで成立したとされる「大無量寿経」への伝播なら話がわかるのですが。やはり、「法華経」の説話は「トマス福音書」とは無関係だと思います。

○古田武彦「『批判のルール』 飯田・今井氏に答える」『古田史学会報』64号 2004年10月。
【結論部分の抜粋】第一、両者とも「女は男に化身して、そのあと救済(神の国・浄土へ行く)される」という。「救済の論理構造」が同一である。(三段型)
 第二、『トマスによる福音書』の“出生地”のユダヤも、法華経の“出生地”の北インド(ガンダーラ等)も同じくアレキサンダー大王の征服による「同一、一大政治・文化圏」の一端である。従って両者の「救済の論理構造」の一致は、「偶然の一致」とは考えられない。「同一思想の伝播と交流」の結果である。
 第三、『トマスによる福音書』のトマス(ディディモ・ユダ・トマス)はユダヤのイエスのもとに居て、のち北インドへ移り、さらに南インドへ移り、そこで没した(『使徒ユダ・トマスの行伝』)。現在もインドの南端部、西側のケララ州・マルバール地方に「シリアン・クリスチャン」と呼ばれるトマス系のキリスト教会(マル・トマ教会)があり、かなりの信者数の分布をもつという(荒井献氏)。
 第四、法華経の提婆達多品に、八歳の竜女の説話がある。彼女はみずからの「女身」を「男」に変え(「変成男子」)、のちに「南方の浄土」へ行く、と言う。
 「南方の浄土」問題は、法華経研究上では難問(丸山孝雄『法華教学研究序説』平楽寺書店刊、等。丸山君は松本深志高時代の教え子。法華経の専門学者。この第一章第二節は「法華経の漢訳」を扱う。)
 第五、右の両書の比較からは「『トマスによる福音書』→法華経」の“伝播”を考えれば、理解できる(古田)。
 第六、提婆達多品は法華経中、「後代の成立」というのが(学問上)通説。(信仰の立場は、別。)
 第七、この点、旧訳(竺法護〈二八六〉と鳩摩羅什〈四〇六〉)と新訳(闍那崛多共達摩笈多〈六〇一〉と玄奘三蔵による)の時期問題がある。ただしこの問題は「下限」を示すのみ。「上限」は確認できぬ。(この問題、別述)
 第八、同じく仏教においても(女人の変成男子成仏)思想は、原始仏教に見られる。たとえば釈迦の前生譚で「前世は女人」とするもの七例(南伝仏教)。ただし「漢訳」の時期はおそく、果して「釈迦直後」にさかのぼれるか、不明。その上、先述の「変成男子」思想とはニュアンスがちがう。
 第九、その上、例の法華経の「南の浄土へ行く」問題は解決不能。
 第十、現在の法華経(提婆達多品を含む)は、やはり『トマスによる福音書』の“影響”という視点から「理解」するのが妥当(古田)。

○今井俊圀「『トマスによる福音書』と『大乗仏典」古田先生の批判に答えて」『古田史学会報』74号 2006年6月。
【結論部分の抜粋】私は「大乗仏典」からの「ナグ・ハマデイ文書」への影響を考えていましたが、「トマスによる福音書」の「原本」への直接の影響の可能性も出てきました。つまり、インドへ渡ったトマスがその地で既に成立していた「変成男子説」に出会い影響を受けた可能性もあるということです。
 そうすると、「変成男子説」は、「般若経」→「大阿弥陀経」等の他の大乗仏典→「正法華経」→「妙法蓮華経」→「添品法華経」という流れで伝わっていったことになり、「般若経」がBC一世紀に、トマスの来印よりも前に成立していたという前提に立てば、「法華経」の「提婆達多品」に説かれた「八歳の竜女の即身成仏」説話は「トマスによる福音書」とは無関係ということになります。

 以上のような応答がなされ、古田先生は再反論を行うと仰っておられましたが、ご多忙のためか実現されないままとなりました。当時のわたしには、両者の論点について充分な理解ができていませんでした。思想史上の論点の深さや、学問の方法論における実証と論証の絡み合いなど、今読むと学ぶべき重要な論点が両者の論文にあることがわかりました。(つづく)

(注)
①1945年にエジプトのナグ・ハマディ村の近くで見つかった初期キリスト教文書。
②イエスの弟子、ディディモ・ユダ・トマスによる福音書とされ、発見されたナグ・ハマディ文書に含まれていた114の文からなるイエスの語録集。本文中にトマスによって書き記されたとあるので、この名がある。新約聖書中の四福音書よりも原初的とする見解があり、古田先生はこの立場。
③古田武彦「[講演記録]原初的宗教の資料批判 ―トマス福音書と大乗仏教―」(「古田史学の会」創立十周年記念講演会、2004年6月6日 大阪市中央公会堂)『古代に真実を求めて』8集、2005年。


第2762話 2022/06/14

『古田史学会報』170号の紹介

 『古田史学会報』170号が発行されました。一面には拙稿〝『史記』の二倍年齢と司馬遷の認識〟を掲載していただきました。同稿は周代の二倍年暦の復原方法の考察と『史記』にみえる二倍年暦(二倍年齢)の精査による周代の暦法について調査したものです。一年以上前に脱稿していたのですが、字数が多いため『古田史学会報』への投稿をためらっていまた。しかし、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)や山田春廣さん(古田史学の会・会員、鴨川市)との共同研究の報告書という側面もあり、全面的にリライトして字数を削減し、掲載に至りました。この分野の研究が古田学派内で少ないこともありますので、拙稿へのご批判と新たな研究者の登場を期待しています。
 もう一つの拙稿〝百済祢軍墓誌の「日夲」 ―「本」「夲」、字体の変遷―〟も半年ほど前に投稿したもので、順番待ちのため、ようやく今号での掲載となりました。本稿は、百済祢軍墓誌に記された「日夲」の「夲(とう)」は「本」とは別字であり、「日夲」を国名の「日本」とはできないとする批判に対する反論です。七~八世紀当時の日中両国における使用例を挙げて、「夲」の字は「本」の異体字として通用していたことを実証的に証明しました。
 当号で異彩を放った論稿として、美濃晋平さんの「熊本県と長野県に共通する家族性アミロイドニューロパチーについて、古代までさかのぼれるか」があります。美濃さんの初投稿ですが、熊本県と長野県に二大濃密分布圏(集積地)を持つ遺伝性疾患「家族性アミロイドニューロパチー」は、ある時代に両地域間で人の交流があったことを示すものであり、その時期が六世紀まで遡る可能性について論じたものです。筆者は創薬研究で日本を代表するケミストの一人で、いわば専門知識を活かしての論稿です。難病に苦しんでいる患者やご家族のことを思うと胸が痛みます。医学や薬学の発展により解決できる日が一日も早く来ることを望みます。また、歴史学や諸分野の研究が防疫や医療に貢献できることを願っています。
 古代における九州と信州の濃密な交流は様々な分野で発見されており、興味が尽きない研究テーマです。

 170号に掲載された論稿は次の通りです。投稿される方は字数制限(400字詰め原稿用紙15枚程度)に配慮され、テーマを絞り込んだ簡潔な原稿とされるようお願いします。

【『古田史学会報』170号の内容】
○『史記』の二倍年齢と司馬遷の認識 京都市 古賀達也
○会員総会と記念講演会のお知らせ(6月19日、アネックスパル法円坂にて)
○熊本県と長野県に共通する家族性アミロイドニューロパチーについて、古代までさかのぼれるか 東京都練馬区 美濃晋平
○高松塚古墳壁画に描かれた胡床に関して 京都府大山崎町 大原重雄
○百済祢軍墓誌の「日夲」 ―「本」「夲」、字体の変遷― 京都市 古賀達也
○「壹」から始める古田史学・三十六
 もう一人の聖徳太子「利歌彌多弗利」 古田史学の会・事務局長 正木 裕
○古田史学の会・関西例会のご案内
○『古田史学会報』原稿募集


第2761話 2022/06/13

坪井清足氏の「鬼ノ城」六世紀築城説

 鬼ノ城や麓の五世紀の城塞跡を発見した高橋護氏は、鬼ノ城を七世紀後半の築城とし、『日本書紀』天武紀に見える吉備の大宰の山城とされました。他方、『鬼城山』(注①)に収録されている坪井清足氏(注②)の「鬼ノ城神籠石との出会い」では六世紀築城説が述べられています。鬼ノ城の築城は七世紀後半頃が穏当と、わたしは判断していますが、坪井氏の説明にも一理あると感じました。七世紀後半築城説に対して、坪井さんは次のような疑問を投げかけています。

 「ところがどうしても納得がいかないことがある。というのは底に矩形の列石を百陳べその上を版築で築きあげる城壁構築法は韓半島の三国時代に百済にしか例がなく、高句麗、新羅にはなく、後者には城壁は石垣作りしかみられないことで、百済でも7世紀の扶余の扶蘇山城などではこの方法は用いられておらず、百済滅亡後亡命した百済人に指導されて作ったと記録され大野城以下天智築城のいずれの城壁もこの方法で築いていないこと。さらに九州では神籠石の城門は精査されていないが鬼ノ城の四門と天智築城の城門の構造の作りが異なっていることがあげられる。
 (中略)いずれにせよ韓半島で百済でしか見られない城壁構築法、しかも百済でも最後の都扶余ではその方法をやめてしまい、したがって百済からの亡命者の指導で作られた天智築城のいずれにも使用されていない城壁構築法が、天智朝に継続する天武朝の吉備の大宰の築城につかわれ、さらに岡山市東端の大廻小廻り、対岸の坂出市城山に見られ、吉備の大宰時代よりほんの三十年前に築城された屋島城には用いられていなかったのは納得ゆかない理由である。」179~180頁

 坪井さんが根拠とした、百済の六世紀以前の築城技術については今のところ当否を判断できませんが、その技術が天智期築城とされる大野城や屋島城などには見られず、岡山県の鬼ノ城・大廻小廻と坂出市の城山にのみ見られるとすれば、その理由は多元史観・九州王朝説でなければ解明できないように思います。古田学派による本格的な鬼ノ城研究が待たれます。(おわり)

(注)
①『鬼城山 国指定史跡鬼城山環境整備事業報告』岡山県総社市文化振興財団、2011年。
②坪井清足(つぼい きよたり、1921年~2016年)は日本の考古学者。元奈良国立文化財研究所所長、元元興寺文化財研究所所長。勲三等旭日中綬章、文化功労者。大阪府出身。(ウィキペディアによる)


第2760話 2022/06/12

鬼ノ城山麓の先行(五世紀)土塁

 鬼ノ城の造営年代について、わたしは七世紀後半頃が穏当と判断していますが、城内の礎石跡や西門の造営尺が七世紀中頃以前のものと見ることもでき、悩ましいところです。それらとは別に、鬼ノ城の調査報告書(注①)には、鬼ノ城に先行する五世紀初頭の「城塞跡」が鬼城山々麓から発見されたことが報告されています。
 高橋護「鬼ノ城に先行する城塞について」(注②)に土塁発見の経緯が次のように紹介されています。

 「鬼ノ城を発見した当初、累線を追って何日も山頂を巡っていた。浸食の進行や、灌木の繁茂で明確に確認できない累線を追及していたのである。そんなある日、麓に目をやると不思議な光景が認められた。街道も通っていないのに、街村のように直線に谷を横断した家並みが見られたのである。不思議に思って現地を訪れてみると、周囲よりも一段高い土地が直線に伸びており、この土地を敷地として建てられた家並みであった。盛土は殆ど失われて整地されているが、東端では新池北側の丘陵の端に向かって斜面を這い上がっているのが観察された。
 その状況から基肄城の山麓などに存在している小水城と呼ばれている防塁に相当するものではないかと考えていたのである」『鬼城山』181頁。

 この土塁跡は「池ノ下散布地」と称され、鬼城山の東南1.8kmの山麓にあり、血吸川によって形成された谷部が総社平野に向かって大きく開放する位置に当たっています(総社市西阿蘇)。岡山県による発掘調査(2000年2~3月)の結果、古代の防塁であることが確認され、土塁の北にある山上からは掘立柱建物跡も発見されました。発掘調査結果は「付章 池ノ下散布地の試掘結果」(注③)に詳述されています。そして土塁基底部に敷かれた粗朶の葉の炭素年代測定値が五世紀初頭(AD410年)を示しました(注④)。
 この測定結果を受けて、高橋氏は次のように自説を表明されました。

 「5世紀の初め頃、吉備で起こった大きな出来事は、造山古墳群の築造であるが、それと並んでこの奥坂の土塁の築造があったのである。(中略)土塁から正面に見える山上に位置していることからみて、土塁と一体の遺跡である可能性を考えて良いのではないだろうか。
 年代からみても、好太王軍と戦った倭の王は、この時代では最大の大王陵を築いた造山古墳の被葬者であったと考えられる。高句麗軍と戦った経験や、半島諸国の戦いの実績から城塞の重要性を知って、谷の入り口に土塁を築く高句麗型の城塞を造ったものであろう。(中略)
 この城塞の築造が、後に足守宮の伝説を生む原因の一つになったものと考えられるが、土塁の前面に御門という字が遺されていることから、吉備太宰府や惣領所も奥坂に置かれていた可能性が考えられる。」同、185頁

 この高橋氏の見解は「倭の五王」吉備説とでも言うべきものです。この結論には賛成できませんが、吉備の大宰や鬼ノ城の先行城塞などについて、九州王朝説・多元史観による検討が必要であることを改めて認識させられました。ちなみに、高橋氏は鬼ノ城を発見した考古学者です(注⑤)。(つづく)

(注)
①管見では鬼ノ城山史跡に関する次の報告書がある。
(1)『岡山県埋蔵文化財発掘調査報告書203 国指定史跡鬼城山』岡山県教育委員会、2006年。
(2)『鬼城山 国指定史跡鬼城山環境整備事業報告』岡山県総社市文化振興財団、2011年。
(3)『岡山県埋蔵文化財発掘調査報告書236 史跡鬼城山2』岡山県教育委員会、2013年。
②高橋護「鬼ノ城に先行する城塞について」、①(2)所収。
③亀山行雄「付章 池ノ下散布地の試掘調査」、①(1)所収。
④「付載2 鬼城山における放射性炭素年代測定」、①(3)所収。
⑤河本清「岡山県内の史跡整備事業における鬼城山(鬼ノ城)整備の位置づけ」(①(2)所収)には、鬼ノ城発見の経緯を次のように紹介している。
 「鬼ノ城跡の発見は1970(昭和45)年であった。その発端は、発見者高橋護氏が以前から『日本書紀』に記載されている「吉備の大宰」の居場所探し、つまり吉備の大宰府の場所探しに興味を示したことによる。その探りの視点はユニークであった。九州の大宰府の後背地には大野城跡があるので、この関係を重要視して吉備中枢において古代の山城さがしを始めたことによるものであった。そして以前から起きていた鬼城山の山火事跡地を踏査して、今の西門跡の東先で神籠石系の列石を発見したことによる。」189頁。


第2759話 2022/06/11

鬼ノ城西門と北魏永寧寺九重塔の造営尺

 鬼ノ城西門の造営尺27.3cm(正確には27.333cm)に極めて近い尺として、北魏洛陽の永寧寺(えいねいじ、516年創建。注①)九重塔造営尺があるとの指摘が『鬼城山』(注②)にありましたので、調べてみました。
 奈良国立文化財研究所の調査報告書(注③)によれば、永寧寺九重塔は東西101.2m、南北97.8mの堀込地業(ほりこみじぎょう)上に一辺38.2m、高さ2.2mの基壇とあります。基壇の二つの数値(38.2mと2.2m)で完数に近くなる尺は約27.3~27.4cmで、それぞれ約140尺と約8尺になります。正確に両者を完数とできる尺はありませんので、複数の尺が併用されたのかもしれません。
 古代中国の尺に27.3cmのような尺は見当たりませんので(注④)、鬼ノ城西門の造営尺が北魏永寧寺九重塔造営尺に関係するとしても、その造営時期が六世紀まで遡るとするのは無理があるように思います。たとえば、鬼ノ城第0水門流路下流から出土した木製品(方形材、加工材)の炭素年代測定により、「伐採年代をAD680年より新しい年代とは考えにくいとし、西門の築造を680年以前と推測している。」とあります(注⑤)。これは出土土器編年とも整合し、鬼ノ城築城年代を七世紀後半頃とする説を支持しています。
 なお、永寧寺は菩提達摩が訪れた寺としても有名で、そのことが『洛陽伽藍記』(注⑥)に次のように記されています。

 「時に西域の沙門で菩提達摩という者有り、波斯国(ペルシア)の胡人也。起ちて荒裔なる自り中土に来遊す。(永寧寺塔の)金盤日に荽き、光は雲表に照り、宝鐸の風を含みて天外に響出するを見て、歌を詠じて実に是れ神功なりと讚歎す。自ら年一百五十歳なりとて諸国を歴渉し、遍く周らざる靡く、而して此の寺精麗にして閻浮所にも無い也、極物・境界にも亦た未だ有らざると云えり。此の口に南無と唱え、連日合掌す。」『洛陽伽藍記』巻一

 なお、菩提達摩の年齢を「一百五十歳」とありますが、二倍年齢としても75歳ですから、当時のペルシアから中国まで来訪できる年齢とは考えにくく、信頼しにくい年齢記事です。

(注)
①北魏の孝明帝熙平元年(516年)に霊太后胡氏(宣武帝の妃)が、当時の都の洛陽城内に建立した寺。高さ「千尺」の九重塔があったと『洛陽伽藍記』にある。永寧寺の伽藍配置は日本の四天王寺の祖形とされる。
②『鬼城山 国指定史跡鬼城山環境整備事業報告』岡山県総社市文化振興財団、2011年。
③『北魏洛陽永寧寺 中国社会科学院考古研究所発掘報告』奈良国立文化財研究所、1998年。
④山田春廣氏(古田史学の会・会員、鴨川市)のブログ(sanmaoの暦歴徒然草)に掲載された「古代尺の分類図」には27.3cm尺に近い尺は見えない。山田氏に鬼ノ城西門造営尺についての調査協力を要請した。
⑤『岡山県埋蔵文化財発掘調査報告書236 史跡鬼城山2』岡山県教育委員会、2013年。177頁。
⑥『洛陽伽藍記』全五巻。六世紀、東魏の楊衒之の撰。