「 古賀達也 」一覧

古田史学の会代表古賀達也です。

第2041話 2019/11/17

「新・八王子セミナー2019」の情景(3)

 「古田武彦記念 古代史セミナー2019」(新・八王子セミナー2019)で大墨伸明さんが発表された『一枚起請文』の新論証について、その前日の夜に安彦克己さん(東京古田会・副会長)から概要についてお聞きしていました。ちょうど宿泊した部屋が隣同士だったこともあり、セミナー初日の夜に竹内強さん(古田史学の会・東海の会長)と冨川ケイ子さん(古田史学の会・全国世話人)とわたしの三人で安彦さんの部屋にお邪魔し、和田家文書研究の最新研究情報を教えていただいたのですが、そのおりに大墨さんが凄い研究発表をされると教えていただいたものです。
 また、今回は発表されませんでしたが、安彦さんも驚くような発見をされていました。詳細は氏の論文発表を待ちたいと思いますが、伊達政宗が江戸・浅草にキリスト教の療養所を造ったという記事が和田家文書にみえ、近年の調査研究の結果、その療養所のことが宣教師によりスペイン語で本国に報告されていたことが判明し、詳細な場所も一致しているとのことです。これなど、どう考えても和田喜八郎氏が偽作したなどとは言えない事例です。
 和田家文書偽作説への反論として、このような偽作ではあり得ない事例を集めて、書籍として世に問いたいものです。安彦さんを筆頭に和田文書研究が関東では熱心に行われており、うらやましい限りです。関西では東北地方の土地勘などが乏しいこともあるためか、和田家文書研究者が少なく、残念です。(つづく)


第2039話 2019/11/13

「新・八王子セミナー2019」の情景(2)

 今回の「古田武彦記念 古代史セミナー2019」(新・八王子セミナー2019)で、最も素晴らしかった研究発表は大墨伸明さん(鎌倉市)による〝「念仏不信人」と記された『一枚起請文』の新史料について〟でした。
 和田家文書の金光上人関連史料に法然の『一枚起請文』と呼ばれている文書(和風漢文体)があり、従来の「一枚起請文」(仮名漢字交じり)とは意味が正反対になっている部分があることを、昨年の新・八王子セミナーで安彦克己さん(東京古田会・副会長)が紹介されました。
 今回の発表で大墨さんは更に研究を深められました。たとえば、法然による消息文(手紙)に見える「信」の用例を提示され、和田家文書に記された「念仏不信人(「念仏を信じない人」)」とする理解が法然の思想を正しく深く表しており、従来説のように『一枚起請文』に記された「念仏を信せん人は」を〝念仏を信じる人は〟と読むのは不正確であり、後代の弟子・後継者等による法然思想の変容の結果ではないかとされました。
 この大墨さんの研究は和田家文書研究の精華であり、日本思想史学上からも素晴らしい発見と思いました。セミナー終了時に、「日本思想史学会でも発表してほしい。古田先生が聞かれたらきっと喜ばれたに違いありません」と大墨さんに賛辞を贈りました。この発表を聞けただけでも、今回のセミナーに参加してよかったと思いました。(つづく)


第2037話 2019/11/06

『令集解』儀制令・公文条の理解について(3)

 阿部周一さん(古田史学の会・会員、札幌市)は過去にも『令集解』を史料根拠とした優れた論稿〝「古記」と「番匠」と「難波宮」〟(『古田史学会報』143号所収、2017年12月)を発表されています。そして今回は、『令集解』「儀制令・公文条」の新読解により、「九州王朝律令」には『養老律令』「儀制令・公文条」のような年号使用を規定した条文がなかったとする説を発表されました。
 この見解はとても刺激的な内容です。しかしながら、この説が成立するためには、少なくとも次の二つのハードルを越えなければなりません。一つは、『令集解』「儀制令・公文条」の当該文章(本稿末に掲載)の読みが妥当であることの証明。二つ目は、『令集解』の解説部分は同書成立当時(九世紀中頃)の編者(惟宗直本:これむね・なおもと)の認識であり、その認識が六〜七世紀の九州年号時代の歴史事実を正しく反映していることの証明が必要です。
 そこで、まず下記の当該記事の読みについて、検討します。

○『令集解』「儀制令・公文条」(『国史大系 令集解』第三冊733頁)
 凡公文應記年者、皆用年號。
〔釋云、大寶慶雲之類、謂之年號。
古記云、用年號。謂大寶記而辛丑不注之類也。
穴云、用年號。謂云延暦是。
問。近江大津宮庚午年籍者、未知、依何法所云哉。
答。未制此文以前所云耳。〕
 ※〔 〕内は『令集解』編者による解説。「国史大系」本によれば、二行割注。

 冒頭の「凡公文應記年者、皆用年號。」は『養老律令』の条文であり、それ以降(二行割注)は編者による条文の解説です。その解説では当時の律令解説書と思われる「釋」「古記」「穴」を引用し、「年号」とは具体的にどのようなものかを説明しています。そして、今回のテーマとなっている「問答」形式部分「問。近江大津宮庚午年籍者、未知、依何法所云哉。答。未制此文以前所云耳。」へと続きます。
 わたしはこの解説部分を次のように意訳したことがあります。

 「釋にいう。大寶・慶雲の類を年号という。古記に云う。年号を用いよ。大寶と記し、辛丑(干支)は注記しない類をいう。穴(記)にいう。年号を用いよ。これを延暦という。答う。近江大津宮の庚午年籍は何の法に依ったのか。答える。この文以前は未だ制度がなかったというのみ。」(「『令集解』所引「古記」雑感」『古田史学会報』143号所収、2017年12月)

 これは意訳ですので、必ずしも厳密な訳ではありません。例えば。「問答」部分の「未制」を「未だ制度がなかった」としましたが、正確にはこの場合の「制」は動詞ですから、「未だつくらず」か「未ださだめず」と訓むのが妥当です。これを意訳して「未だ制度がなかった」としたのですが、この短い記事では、阿部さんのように、「年号使用を規定した条文がなかった」との理解も可能ですし、「年号という制度がなかった」という理解も成立します。
 いずれとも断定しがたいのですが、わたしとしては編者による条文説明部分が「年号」についての説明ですから、それに続く問答部分の中心テーマも「年号」についてと考えるべきと思われ、そうであれば「未制」とは、〝未だ年号をさだめず〟と理解するのが、文脈上穏当ではないかと思います。
 更に詳細に論じれば、「問」部分に「未知、依何法所云哉」とあるように、「庚午年籍」が何れの「法」によって造籍されたのか「未だ知らず」と述べているわけですから、その「法」に「儀制令・公文条」のような条文があったのかどうかも知らないことになります。従って、「年号使用を規定した条文がなかった」とする理解はやはり難しいように思われます。
 もっとも、どちらの理解であっても、それは九世紀段階の『令集解』編者の解説(認識)というにとどまりますから、九州年号時代の歴史事実(九州王朝律令の条文)がどうであったのかは、別に論証が必要であること、言うまでもありません。(つづく)


第2036話 2019/11/05

評督の上位職は各「道」都督か(2)

 七世紀後半、評制の時代の九州王朝(倭国)の行政単位は近年の「古代官道」研究から次のようではないかと推定しています。

 倭国(倭王・天子)→各「道」(都督)→各「国」(国司?、国造、国宰)→各「評」(評督、評造)

 七世紀の出土木簡により、評制時代の行政単位が「国」「評」「里(五十戸)」であることは確かですが、「道」は見えません。また、「道」のトップと思われる「都督」が「国」の下位行政単位「評」のトップ「評督」を「国」の〝頭越し〟に任命したとする史料痕跡は今のところありません。しかしながら、『続日本紀』に気になっていた記事がありました。文武四年(700)六月条に見える次の「評督」記事です。

 「薩末の比売・久売・波豆、衣(え)評督の衣君県、同じく助督の衣君弖自美、また肝衝(きもつき)の難波、これに従う肥人らが、武器を持って、覓国使刑部真木らをおどして物をうばおうとした。そこで、竺紫の惣領に勅を下して、犯罪の場合と同様に扱って処罰させた。」(『続日本紀1』東洋文庫、直木孝次郎・他訳注)

 大和朝廷が派遣した「覓国使(くにまぎ使)」を「薩摩の比売」や「衣評督」等が襲ったため、「竺紫の惣領」に「決罰」を命じたという記事です。近畿天皇家の正史『続日本紀』に「評督」が出現するという珍しい記事で、古田先生も注目されていました。
 わたしが疑問に感じたのは、薩摩国内の特定地方(頴娃郡・肝属郡。肝属郡は後に設立された大隅国に編入)の「反乱者」への「決罰」を「薩摩国」の代表者(国司)ではなく、九州全体の代表者と思われる「竺紫の惣領」に命じたことです。もしこれが薩摩国全体の「反乱」であれば、その上位職と思われる「竺紫の惣領」に「決罰」を命じるのは妥当ですが、そのような大規模な「反乱」のようには記されていません。また、当該記事中で「竺紫の惣領」のみが実名が記されていないことも不審です。このような理由から、この記事に疑問を感じてきたのです。
 なお、同記事などを根拠として、「最後の九州王朝 鹿児島県『大宮姫伝説』の分析」(『市民の古代』10集、1988年。市民の古代研究会編・新泉社刊)という論文をわたしは若い頃(32歳)に書きました。この「薩末の比売」は鹿児島県に伝わる「大宮姫伝説」の「大宮姫」のことで、九州王朝の天子・薩野馬の皇后とする論稿です(現地伝承では天智天皇の后とされる)。古田先生に入門した年の翌年のもので、古代史の長文論文としては処女作です。
 ここに見える「竺紫の惣領」は、『日本書紀』天智6年条(667)に見える「筑紫都督府」の「都督」かもしれません。ただし、文武四年(700)という九州王朝最末年の記事ですから、九州王朝が任命した方面軍(各「道」)の都督が健在であったのかは今のところ不明とせざるを得ません。冒頭に記した九州王朝の行政単位の当否と、「評督」任命権者を各「道」の都督としてもよいのか、古田先生の指摘をヒントに考察を続けてみましたが、史料不足もあり、まだ断定しないほうが良いように思います。引き続き、研究します。

《追記》「大宮姫伝説」については、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)から優れた論稿「大宮姫と倭姫王と薩摩比売」(『倭国古伝』収録。古田史学の会編・明石書店。2019年)が発表されています。ご参照下さい。


第2035話 2019/11/04

評督の上位職は各「道」都督か(1)

 那須国造碑の碑文についての古田説の論証を再確認するために、古田先生の『古代は輝いていたⅢ』を読み直したところ、三十数年前の同書発刊時(1985年)に読んだとき、かすかな違和感を抱いたことを思い出しました。それは次の箇所でした。

〝この金石文(那須国造碑)の最大の問題点、それは、「評督」という旧称の授与時点と授与者を隠していることにあることが判明しよう。
 では、授与者は誰か。わたしには、それは「上毛野の君」が最有力候補ではないか、と思われる。なぜなら、関東にあって「武蔵国造」などの任命権を近畿天皇家と争った者、それが「上毛野の君」だったからである。〟(『古代は輝いていたⅢ』ミネルヴァ書房版。305〜306頁)

 那須直葦提に評督を授与したのは「上毛野の君」とする古田先生の見解に、わたしは違和感を覚えたのです。評制は九州王朝が全国に施行した制度と古田先生はされているのに、関東の豪族である「上毛野の君」が評督を授与するということに、わたしは納得できなかったのです。しかし、古田史学に入門したばかりの若造だったわたしには、畏れ多くて古田先生に意見などできませんでした。
 今回、この懐かしい著作の一文中の「上毛野の君」に再会し、わたしには思い当たることがありました。藤井政昭さんの優れた論稿「関東の日本武命」(『倭国古伝』古田史学の会編・明石書店、2019年)によれば、『日本書紀』景行天皇55年条に見える「東山道十五國」の「都督」に任命された「彦狭嶋王」は上毛野国の王者で、『先代旧事本紀』「国造本紀」には「上毛野国造」とされているとのこと。
 先の古田説を敷衍すれば、「東山道十五國」の「都督」であり、「上毛野国造」でもある彦狭嶋王が「東山道」各地の評督を任命したということになり、このケースにおいては、「評督」の上位職掌(任命権者)は各「道」の「都督」ということになります。(つづく)


第2034話 2019/11/03

『令集解』儀制令・公文条の理解について(2)

 「九州王朝律令」には『養老律令』「儀制令・公文条」のような年号使用を規定した条文がなかったとする阿部さんの説が成立するためには、少なくとも次の二つのハードルを越えなければなりません。一つは、『令集解』「儀制令・公文条」の当該文章(本稿末に掲載)の読みが妥当であることの証明。二つ目は、『令集解』の解説部分は同書成立当時(九世紀中頃)の編者(惟宗直本:これむね・なおもと)の認識であり、その認識が六〜七世紀の九州年号時代の歴史事実を正しく反映していることの証明です。
 阿部さんのブログの当該論稿〝「那須直韋提の碑文」について(三)〟にはそれらの証明がなされていません(他の論稿中にあるのかもしれませんが)。もっとも、この論稿の主たる目的や要旨は「那須国造碑」碑文の理解や史料批判で、「九州王朝律令」そのものの研究論文ではありませんから、上記の証明にはあえて触れておられないだけかもしれません。(つづく)

○『令集解』「儀制令・公文条」 (『国史大系 令集解』第三冊733頁)

 凡公文應記年者、皆用年號。
〔釋云、大寶慶雲之類、謂之年號。
古記云、用年號。謂大寶記而辛丑不注之類也。
穴云、用年號。謂云延暦是。
問。近江大津宮庚午年籍者、未知、依何法所云哉。
答。未制此文以前所云耳。〕
 ※〔 〕内は『令集解』編者による解説。「国史大系」本によれば、二行細注。

《参考資料:『令集解』ウィキペディアの解説》
『令集解』(りょうのしゅうげ)は、9世紀中頃(868年頃)に編纂された養老令の注釈書。全50巻といわれるが、35巻が現存。
惟宗直本という学者による私撰の注釈書であり、『令義解』と違って法的な効力は持たない。
 まず令本文を大字で掲げ、次に小字(二行割注)で義解以下の諸説を記す。概ね、義解・令釈・跡記・穴記・古記の順に記す。他に、讃記・額記・朱記など、多くの今はなき令私記が引かれる。特に古記は大宝令の注釈であり、大宝令の復元に貴重である。ただし、倉庫令・医疾令は欠如している。 他にも、散逸した日本律、『律集解』、唐令をはじめとする様々な中国令、及び令の注釈書、あるいは中国の格(中にはトルファン出土文書と一致するものもある)や式、その他の様々な法制書・政書及び史書・経書・緯書・字書・辞書・類書・雑書、また日本の格や式、例などの施行細則等々が引用されている。
 現存35巻のうち、官位令・考課令第三・公式令第五の3巻は本来の『令集解』ではなく、欠巻を補うために、後に入れられた令私記である。


第2033話 2019/11/03

『令集解』儀制令・公文条の理解について(1)

『多元』No.154に掲載された服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の論稿「金石文に九州年号が少ない理由」を興味深く拝読しました。服部さんは金石文に九州年号の使用が少ない理由として、「九州王朝律令」に九州年号の使用を命じた条文がなかったので、人々は「年号」よりも使い慣れた「年干支」を使用したためとされました。そして、「九州王朝律令」には『養老律令』「儀制令・公文条」のような年号使用を規定した条文がなかったとする阿部周一さん(古田史学の会・会員、札幌市)の説を紹介されました。
 その阿部さんの説は下記のブログに掲載されています。関係部分を転載します。

【以下、転載】
https://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/43fed8a15ed5361aecdc521c482058b4
「古田史学とMe」 2017年09月10日
「那須直韋提の碑文」について(三)

 (前略)これについては『令集解』の「儀制令」「公文条」の「公文」には「年号」を使用するようにという一文に対して、「庚午年籍」について『なぜ「庚午」という干支を使用しているか』という問いに対し、『まだ「年号」を使用すべしというルールがなかったから』と答えています。

 「凡公文応記年者。皆用年号。 釈云。大宝慶雲之類。謂之年号。古記云。用年号。謂大宝記而辛丑不注之類也。穴云。用年号。謂云延暦是。同(問)。近江大津官(大津宮)庚午年籍者。未知。依何法所云哉。答。未制此文以前所云耳。」

 この答は「庚午」の年には「年号」があったということを前提としたもののようにも考えられます。それが使用されていないのは「年号」がなかったからではなく、それを使用するという制度がなかったからと受け取れるものであり、このことから「九州年号」付きの公文書というものは「大宝」以前は存在していなかったともいえるでしょう。(後略)
【転載おわり】

 博識で律令に詳しい阿部さんらしい論証です。阿部さんは『令集解』「儀制令・公文条」の解説部分にある「庚午年籍」に関する問答を根拠に、〝「年号」がなかったからではなく、それを使用するという制度がなかった〟〝「九州年号」付きの公文書というものは「大宝」以前は存在していなかった〟とする見解を用心深く表明されています。
 これはわたしの見解とは異なりますが、こうした異説・異論の発表は学問・研究にとって大切なことであり、しかも史料根拠(エビデンス)や論理展開(ロジック)も明解で、歓迎したいと思います。(つづく)


第2032話 2019/11/02

『多元』No.154のご紹介

 友好団体の「多元的古代研究会」の会紙『多元』No.154が届きました。拙稿「古田学派の目標と未来 ー小笹豊さん『九州見聞考』の警鐘ー」を掲載していただきました。同号には吉村八洲男さん(上田市)の「『曹操』墓と『蕨手文様』」や竹田侑子さん(弘前市)の「縄文時代、シュメール人は渡来したかー 発掘遺物にみるシュメール【1】」など、初めて知るような先駆的論稿が注目されました。
 また、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の論稿「金石文に九州年号が少ない理由」が冒頭に掲載されており、そこで紹介された阿部周一さん(古田史学の会・会員、札幌市)の見解にわたしは触発されました。とても興味深い見解でしたので、別途、論じたいと思います。


第2029話 2019/10/31

多層石塔(臼杵市・満月寺石塔)の年代観(5)

 本シリーズ冒頭で、ご町内の北村美術館庭園(四君子苑)で多くの石造物(五輪塔・多層石塔・石仏など)を拝観させていただいたことを紹介しましたが、そのとき、わたしが最も関心を払ったのが古そうな三重石塔の年代でした。というのも、満月寺五重石塔の年代検討のため、わたしは日本各地の鎌倉時代の多層石塔をインターネットで調査し、その様式による年代観を勉強していたからです。ですから、その年代観がどの程度のものか、北村美術館の石塔で確かめたいと考えたわけです。その結果、その三重石塔は鎌倉時代のものと判断し、美術館の方に確認したところ、ほぼ当たっていました(鎌倉前期頃とのこと)。
 わたしがインターネットで調査した多層石塔は次のものでした(ネットで写真を見ることができます。付されていた解説も一部転載しました)。こうした同時代の他の多層石塔の様式からも、満月寺五重石塔の造立年代を鎌倉時代後期の「正和四年乙卯」(1315)とすることは極めて妥当との結論に至りました。と同時に、九州年号「正和四年」(529)とするのは困難というのが学問的判断と思われます。(おわり)

【以下、転載】
http://www5e.biglobe.ne.jp/~truffe/to-kanto.html
石塔(層塔・宝塔・宝篋印塔・五輪塔)
(1)東日本(関東以北)の石塔巡拝

○元箱根賽の河原層塔(神奈川県箱根町元箱根)
 初層軸部(塔身)は、四方に輪郭をとり、二字づつの梵字を刻んである。写真の塔身左側から四仏の不空成就(アク)と釈迦(バク)、正面は観音(サ)と四仏の阿弥陀(キリーク)と続き、さらに左回りで、地蔵(カー)と四仏の宝生(タラーク)、四仏の阿しゅく(ウーン)と薬師(バイ)がセットになって彫られているのである。金剛界四仏だけでは事足らず、信仰の対象として馴染み深い釈迦、観音、地蔵、薬師という仏たちまで彫り込んだ意欲には脱帽であろう。
 基礎正面の中央輪郭部に、正和三年(1314)という鎌倉後期の年号が彫られているそうである。残欠塔とはいえ、関東には鎌倉時代の在銘層塔は数基しかなく、まことに貴重な存在なのである。

○城願寺五重塔(神奈川県湯河原町)
 塔身(初重軸部)は、周辺に関東様式ともいえる輪郭を巻き、金剛界四仏の梵字を彫り込んでいる。写真に写っているのは、アク(不空成就)である。やや力の無い書体である。
 各層の屋根は、軒裏に垂木型が刻んであり荘重なシルエットを創出している。軒の反りは鎌倉風の剛健な様式で美しい。相輪の存在が記された本があったが、現在は失われてしまったようだ。塔身に嘉元二年(1304)という、貴重な鎌倉後期の年号が刻まれているのである。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~truffe/to-chugoku.html
石塔紀行(層塔・宝塔・宝篋印塔・五輪塔)
(10)中国・四国・九州(大分以外)の石塔巡拝

○薬師寺七重塔(広島県尾道市因島原ノ町)
 正和四年(1315)鎌倉後期に建てられた石塔で、全体にほぼ完存する秀麗な遺構と言えるだろう。
 基礎には輪郭を巻いた中に格狭間を彫り、塔身には金剛界四仏の種子が刻まれている。梵字の彫りは、この時代にしては華奢で、同じ鎌倉後期でも次掲の光明院塔に比べると、鎌倉の豪快さはかなり失われてしまっているようだ。
 それでも、笠や相輪の優美さは見事で、軒の反りや厚さには鎌倉後期の特徴を十分に見ることが出来る。屋根の裏に一重の垂木型が彫り出されており、繊細な美意識も感じ取れる。笠の幅の逓減率も理想的で全てが美しいのだが、優等生だがやや個性に欠ける、といった評価が出来るのかもしれない。
 基礎は低いが、背の高い塔身(初層軸部)には、輪郭の巻かれた中に金剛界四仏が薄肉彫りされている。各仏の名称は方位から推測するしかないが、いずれもほのぼのとした情緒に満ちた彫像である。

○青目寺五重塔(広島県府中市本山町)
 やや摩滅しているが、四面に胎蔵界四仏の種子(梵字)が薬研彫りされている。
 各層の屋根を見ると、軸部と一体に作られていることと、軒の厚さや反り具合が何とも大らかに造られていることに気が付く。のびのびとした表現は鎌倉後期以後の様式通の範疇からは抜けており、案の定案内板によれば、基礎正面に「正応五年(1292)」という鎌倉後期の初めの年号が刻まれているのだった。
 相輪が失われているのは残念だが、全体に漂う飛び切りの古塔ならではのオーラのような雰囲気が感じられて感動した。各層の屋根はそれぞれが上の軸部と一体となる彫り方で、適度な厚さのある軒は緩やかな反りを示している。五層の屋根の幅の逓減率が自然なので、見るからに品位のある落ち着いた姿をしている。
 塔身東面の仏像(阿閦如来か)の下に、寛元元年(1243)という鎌倉中期の銘が入っているそうだったが、肉眼では判然としなかった。各部の特徴が、いかにもこの魅力的な造立銘に相応しい佇まいであることに感動した。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~truffe/to-kyoto-n.html
石塔(層塔・宝塔・宝篋印塔・五輪塔)
(5) 京都(北部)の石塔巡拝

○金輪寺五重塔(京都府亀岡市宮前町)
 延応2年(1240)という鎌倉前中期の作との事だが、総体的に古調を示していて格調高い。特に反りの少ない笠の緩やかさは、石塔寺のイメージにも似て素晴らしい。初層軸部に四方仏が彫られ、その下の基礎石には梵字の四方仏が彫られていた。梵字にはアやアンが見られることから胎蔵界四仏だろう。


第2028話 2019/10/31

多層石塔(臼杵市・満月寺石塔)の年代観(4)

 満月寺五重石塔の「正和四年乙卯夘月五日」を九州年号「正和」とするには、年干支の不一致や「夘月」という表記成立時期の問題があるため困難なのですが、それら以外にも下部に大きく記された「梵字」の伝来時期という課題も横たわっています。
 満月寺五重石塔の下部の四角四面部分に「梵字」四文字が大きく彫られています。この「梵字」も中近世の石造物(五輪塔や多層石塔、板碑など)によく見られるものです。この満月寺石塔の「梵字」は大日如来を囲む金剛界四仏のこととされ、キリーク(阿弥陀)・タラーク(寶生)・ウーン(阿閦)・アク(不空成就)の四文字が彫られています。
 「梵字」とはウィキペディアによれば、「日本で梵字という場合は、仏教寺院で伝統的に使用されてきた悉曇文字を指すことが多い。これは上述のシッダマートリカーを元とし、6世紀頃に中央アジアで成立し、天平年間(729年-749年)に日本に伝来したと見られる。」と説明されています。もちろん、この解説は大和朝廷一元史観に基づいていると思われますから、梵字や密教の九州王朝(倭国)への伝来がいつ頃かは不詳とせざるを得ません。しかし、六世紀の金石文や七世紀の史料などに「梵字」は見えませんから、満月寺五重石塔の造立を六世紀とすることはやはり困難と言わざるを得ません。(つづく)