古賀達也一覧

第3245話 2024/03/08

藤原宮(京)造営尺の再検討 (2)

 大阪歴博の李陽浩(リ・ヤンホ)さんの論文「第1節 前期・後期難波宮の中軸線と建物方位について」(注①)によれば、藤原宮朝堂院の中軸線の振れはN0゜38’31″E、造営尺の値は1尺=0.291~0.2925mとのことで、その出典は「奈良文化財研究所2004」とありましたので、『奈良文化財研究所紀要 2004』(注②)を精読しました。同紀要に収録された「朝堂院東南隅・朝集殿院 東北隅の調査 ―第128次」に、箱崎和久氏による報告がありましたので、要点を抜粋します。

「朝堂院東南隅・朝集殿院
東北隅の調査 ―第128次
(中略)
これまでの朝堂院の調査成果をふまえて朝堂院全体の配置計画を考えてみたい。朝堂院の振れには、本調査で得たN0°38′31″Wを用いる。(中略)
朝堂院北面回廊棟通り(表14-B)から第一堂北妻(表14-C)までの距離は29.2mで、第107次調査では、これを100尺と解釈した(『紀要2001』)。このとき、単位尺は1尺=0.292mとなる。第二堂北妻(表14-D)は、朝堂院北面回廊棟通り(表14-B)から84.6mだが、1尺=0.292mを援用すると289.8尺が得られる。これは290尺に相当しよう。これらは大尺を用いると完好な数値を得られない。(中略)朝堂院の全長は1102尺となる。これを1100尺とみて、南北長321.3mから単位尺を求めると、1尺=0.2921mが得られる。
これは朝堂院の南北長を900大尺(1080尺)と想定した場合よりも、朝集殿院の単位尺1尺=0.2925mに近い。
このように建物配置に関係する北面回廊棟通りからの第一堂北妻、第二堂の北妻の距離、朝堂院の南北規模といった地割りは、大尺では完好な数値を得られず、むしろ単位尺を1尺=0.2910~0.2925とする尺(令小尺)の方が合理的に説明できる。(中略)
以上のように、現段階の発掘データでは、朝堂院の規模と朝堂の配置は、尺(令小尺)の方が完好な計画値を得られる。」

 この報告の結論部分「単位尺を1尺=0.2910~0.2925とする尺(令小尺)の方が合理的に説明できる」を李さんは紹介されたのですが、この数値から判断して、藤原宮造営尺が前期難波宮造営尺(1尺=29.2㎝)と同じである可能性が高いと思われました。そうであれば次のことが想定できます。

(1) 前期難波宮整地層からの主要出土須恵器は坏GとHであり、藤原京整地層からの主要出土須恵器は坏Bであることから、両者の造営時期が『日本書紀』の記事(前期難波宮創建652年。藤原宮遷都694年)と整合している。従って、両宮殿の造営時期には約40~50年の隔たりがあるが、同じ造営尺が採用されている。両条坊造営尺(1尺=29.5㎝)も同様。

(2) 他方、670年頃と考えている大宰府政庁Ⅱ期の造営では、1尺=29.4㎝と30㎝(条坊造営尺)の併用が判明しており(注③)、前期難波宮・藤原宮造営尺と異なっている。

 今までは、前期難波宮(652年創建、29.2㎝)→大宰府政庁Ⅱ期(670年頃、29.4㎝)→藤原宮(694年遷都、29.5㎝)と、1尺が時代とともに長くなるという一般的傾向に対応していると考えてきましたが、それほど単純ではないようです。この現象をどのように説明できるのか、新たな課題に直面しました。〝学問は自説が時代遅れになることを望む領域〟というマックス・ウェーバーの言葉(注④)を実感しています。

(注)
①『難波宮址の研究 第十三』大阪市文化財協会、2005年。
②『奈良文化財研究所紀要 2004』奈良文化財研究所、2004年。
③古賀達也「九州王朝都城の造営尺 ―大宰府政庁の「南朝大尺」―」『古田史学会報』174号、2023年。
同「洛中洛外日記」2636~2641話(2021/12/14~20)〝大宰府政庁Ⅱ期の造営尺(1)~(4)〟
④マックス・ウェーバー(1864-1920)『職業としての学問』(岩波文庫)1917年にミュンヘンで行われた講演録。
古賀達也「洛中洛外日記」2876話(2022/11/14)〝自説が時代遅れになることを望む領域〟


第3244話 2024/03/07

藤原宮(京)造営尺の再検討 (1)

 難波京条坊研究のため、関連報告書の再精査をしていて、わたし自身の認識の見直しを促す重要な指摘に気づきました。大阪歴博の古代建築の専門者、李陽浩(リ・ヤンホ)さんの論文「第1節 前期・後期難波宮の中軸線と建物方位について」(注①)の註に見える次の記事です。

 「(3)藤原宮朝堂院における近年の調査成果では、その中軸線の振れはN0゜38’31″Eとされる。また造営尺の検討では、大尺よりも小尺によるほうがより完好な数値を得ることができ、その値は1尺=0.291~0.2925mとされる[奈良文化財研究所2004:pp.98-99]。この藤原宮の中軸線の振れは、前期の振れN0゜39’56″Eと近似し、1尺=0.291~0.2925mという数値は、周知のように、前期難波宮推定造営尺1尺=0.292mにほぼ等しい。これら数値の関係は、前期難波宮と藤原宮との関係を考えるうえにおいて、極めて重要であると思われる。なお、近年韓国双北里では1尺=0.292mあるいは1尺=0.295mと考えられる定規が出土したことが知られる。[李ガンスン2000]。1尺=0.292mによる基準尺の存在を考えるうえで、注目すべき事例と考えられる。」94~95頁

 李さんに初めてお会いしたのは2012年12月、大阪歴博2階の難波塾でした。以来、前期難波宮や土器編年について何かと教えていただきました(注②)。そうしたこともあって、わたしが尊敬する考古学者のお一人です。その2004年の論文で紹介された藤原宮朝堂院の造営尺が同条坊尺の1尺=29.5㎝ではなく、前期難波宮の造営尺1尺=29.2㎝とほぼ同じという指摘に驚きました。藤原宮からは1尺=29.5㎝の定規が出土しており、木下正史『藤原京』(注③)に、次の説明がなされていることから、藤原宮も条坊も共に1尺=29.5㎝で造営されているものと思い込んでいました。

 「藤原宮からは一寸ごとに印をつけた一尺(復元長二九・五センチ)の木製物差しが出土している。長距離の測定や割り付けには間縄(けんなわ)なども使われたはずである。道路間の距離や大垣の柱位置の割り付けなどから復元できる物差しも、一尺の長さが二九・五センチとほぼ一定しており、きわめて精度の高いものであった。」84頁

 この説明をよく読むと、「道路間の距離や大垣の柱位置の割り付けなどから復元できる物差しも、一尺の長さが二九・五センチとほぼ一定」とあって、藤原宮の宮殿そのものの造営尺については触れていないようです。

 李さんの指摘によれば、藤原宮の造営尺は前期難波宮の造営尺29.2㎝に近く、条坊尺は両者ともに29.5㎝尺であり、中軸線の振り方向もほぼ同じという、これらの一致が何を意味するのか深く考える必要がありそうです。(つづく)

(注)
①『難波宮址の研究 第十三』大阪市文化財協会、2005年。
②古賀達也「洛中洛外日記」510話(2012/12/29)〝歴博学芸員・李陽浩さんとの問答〟
同「洛中洛外日記」511話(2012/12/30)〝難波宮中心軸のずれ〟
同「洛中洛外日記」512話(2012/12/31)〝難波宮の礎石の行方〟
同「洛中洛外日記」第756話(2014/08/01)〝森郁夫著『一瓦一説』を読む(6)〟
同「洛中洛外日記」884話(2015/02/27)〝「玉作五十戸俵」木簡の初歩的考察〟
同「洛中洛外日記」1034話(2015/08/23)〝前期難波宮の方位精度〟
同「洛中洛外日記」1399話(2017/05/17)〝塔心柱による古代寺院編年方法〟
同「洛中洛外日記」1905話(2019/05/23)〝『日本書紀』への挑戦、大阪歴博(1) 四天王寺創建瓦の編年〟
③木下正史『藤原京』中公新書、2003年。


第3243話 2024/03/06

『倭国から日本国へ』の目次

 『倭国から日本国へ』(『古代に真実を求めて』27集)の編集作業も最終工程(ゲラ三校)に入りました。これは編集部の校閲担当者3名(茂山憲史さん、西村秀己さん、古賀)で行いますが、締切が3月11日着なので忙しくしています。これが最終チェックですので、誤字誤植などを見落とすと、そのまま印刷し書店に並ぶため、責任重大です。わたしは視力が落ちていますので、ポイントが小さい字の大きさや字体チェックが困難ですが、茂山さんは大手新聞社にお勤めだったこともあり、そうした点まで見逃さない、頼もしい校閲作業のリーダー的存在です。

 4月上旬には発行したいと願っていますので、最終校閲作業が終わると、表紙カバーのデザインや価格設定などを明石書店と相談します。既に目次は決まっていますので、紹介します。

『古代に真実を求めて』27集 目次

【巻頭言】
三十年の逡巡を越えて 古田史学の会 代表 古賀達也

【特集】倭国から日本国へ
「王朝交代」と消された和銅五年(七一二)の「九州王朝討伐戦」 正木 裕
王朝交代期の九州年号 ―「大化」「大長」の原型論― 古賀達也
難波宮は天武時代「唐の都督薩夜麻」の宮だった 正木 裕
飛鳥「京」と出土木簡の齟齬 ―戦後実証史学と九州王朝説― 古賀達也
『続日本紀』に見える王朝交代の影 服部静尚
「不改常典」の真意をめぐって ―王朝交代を指示する天智天皇の遺言だったか― 茂山憲史
「王朝交代」と二人の女王 ―武則天と持統― 正木 裕
「王朝交代」と「隼人」 ―隼人は千年王朝の主だった― 正木 裕
倭国から日本国への「国号変更」解説記事の再検討 ―新・旧『唐書』における倭と日本の併合関係の逆転をめぐって― 谷本 茂
《コラム》「百済人祢軍墓碑銘」に〝日本〟国号はなかった! 谷本 茂

【一般論文】
『隋書』の「俀国」と「倭国」は、別の存在なのか 野田利朗
『隋書』の「倭国」と「俀国」の正体 日野智貴
倭と俀の史料批判 ―『隋書』の倭國と俀國の区別と解釈をめぐって― 谷本 茂
多元的「天皇」号の成立 ―『大安寺伽藍縁起』の仲天皇と袁智天皇― 古賀達也
法隆寺薬師仏光背銘の史料批判 ―頼衍宏氏の純漢文説を承けて― 日野智貴
伊吉連博徳書の捉え方について 満田正賢
『斉明紀』の「遣唐使」についてのいくつかの疑問について 阿部周一
俾彌呼の鏡 ―北九州を中心に分布する「尚方作鏡」が下賜された― 服部静尚

【フォーラム】
海幸山幸説話 ―倭国にあった二つの王家― 服部静尚
豊臣家の滅亡から九州王朝の滅亡を考える 岡下英男

【付録】
古田史学の会・会則
古田史学の会・全国世話人名簿
編集後記


第3241話 2024/03/04

『多元』180号の紹介

 友好団体の多元的古代研究会機関紙『多元』180号が届きました。同号には拙稿〝九州王朝の両京制を論ず(二) ―観世音寺創建の史料根拠―〟を掲載していただきました。同紙178号にあった、上城誠氏の「真摯な論争を望む」への反論の続編です。

 わたしの観世音寺創建白鳳十年(670年)説に対して、上城稿には「その史料操作にも問題がある。観世音寺の創建年代を戦国時代に成立の『勝山記』の記述を正しいとする方法である。(中略)史料批判が恣意的であると言わざるを得ない。」との論難がありましたので、

 〝「史料操作」とは学問の禁じ手であり、理系論文で言えば実験データの改竄・捏造・隠蔽に相当する、研究者生命を失う行為だ。たとえば「古賀の主張や仮説は間違っている」という、根拠(エビデンス)と理由(ロジック)を明示しての批判であれば、わたしはそれを歓迎する。しかし、古賀の「史料操作にも問題がある」などという名誉毀損的言辞は看過できない。しかも、『勝山記』をわたしがどう「史料操作」したのかについて、触れてもいない。〟

 と指摘し、これまで多くの論文で明示した史料根拠と、「洛中洛外日記」の観世音寺関連記事リストを紹介しました。続編「九州王朝の両京制を論ず(三) ―「西都」太宰府倭京と「東都」難波京―」を執筆中ですが、そこでは太宰府廃都を伴う難波遷都ではなく、太宰府倭京と難波京の両京制とする説へ発展した理由など近年の研究成果を紹介する予定です。

 同号には西坂久和さん(昭島市)の「まちライブラリー@MUFG PARKの紹介」が掲載されており、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)のご尽力と古田先生や会員からの図書寄贈(注)により開設された、アイサイトなんば(大阪府立大学なんばキャンパス)の「古田武彦コーナー」が、昨年より西東京市の「まちライブラリー@MUFG PARK」に移設されたことが紹介されました。これは、大阪公立大学の発足に伴い、アイサイトなんばのライブラリーが廃止されたことによるものです。

 「まちライブラリー@MUFG PARK」は西東京市柳沢四丁目にあり、JR中央線吉祥寺駅・三鷹駅などからバスで15分、武蔵野大学下車すぐです。図書は三冊・二週間まで借り出し可能で、インターネットで蔵書検索が可能とのことです。古田先生の著書や「古田史学の会」の会報・論集などが揃っており、古田史学や古田学派の研究論文調査に役立つことと思います。

(注)古田先生からは『廣文庫』一式などが寄贈された。『廣文庫』(こうぶんこ)は明治時代の前の文献(和漢書・仏書・他)からの引用文を集大成した資料集。物集高見により大正七年(1918年)に完成した。全20冊。


第3240話 2024/03/02

公開シンポ「高地性集落」論のいま

 昨日、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)からのメールで、同志社大学今出川キャンパスにおいて〝「高地性集落」論のいま〟というテーマで公開シンポジウムが開催されることを知り、急遽、先約をキャンセルして、本日の公開シンポに参加しました。正木さん竹村順弘さん(古田史学の会・事務局次長)、大原重雄さん(『古代に真実を求めて』編集部)をはじめ何名かの会員の皆さんのお顔も見えました。

 同シンポは高名な考古学者、森岡秀人先生が研究代表をされた〝2020年~2023年度科学研究費助成事業「弥生時代高地性集落の列島的再検証」〟の成果公開・普及シンポジウムで、副題は「半世紀ぶりの研究プロジェクトの成果と課題」というもの。昨年、「古田史学の会」講演会で講演していただいた若林邦彦さん(注①)が、開催校の教授として中心的に関わっておられていましたので、お礼を兼ねてご挨拶しました。

 発表者は17名(一人20分)に及び、高地性集落の研究動向に大きな変化が起きていることがわかりました(注②)。わたしとしては、個々の論点とは別に、研究動向変化の背景や事情に関心を覚えました。その解説は別途行いたいと思います。

 会場で出版物の販売も行われており、『古代武器研究』Vol.3(2002年)を購入しました。同書は2002年1月、滋賀県立大学で開催された第三回古代武器研究会の記録集です(注③)。その討論会の発言者に古田先生の名前があり、購入したものです。古田先生の発言部分を引用します。

 「古田武彦でございます。先ほど、韓国の5世紀末ですか、そのころに非常に深く鋭い軍事施設が作られているという報告がございました。非常に感銘いたしました。それは、結局、倭の五王であり、朝鮮半島で激戦が繰り返されていた時期だと思いますので、当然のことだろうと思います。
ところが、その当然のことが、日本列島に来ると、何も全然軍事的な防御もせずに平和そのものであるというのは、ちょっとおかしいと思うんです。というのは、韓半島で闘っているのは、百済だけではなく、倭の軍隊が、ある意味では百済以上の軍事力を発揮していたと思いますので、その倭国へ高句麗や新羅側からの反撃がないと、たかをくくっていたとはちょっと考えにくいわけです。

 そうしますと、今日あそこにポスターセッションさせていただきましたが、神籠石と呼ばれる明らかな軍事施設、しかも防御施設、それが延々と築かれているわけです。これは太宰府、筑後川流域を囲んで作られているわけです。展示しましたのは、皆さんよくご存じの高良山とか、そういう中心部分のものはよく写真、本に出ていますので、むしろあまり出ていない御所ヶ谷とか、おつぼ山の写真だけを載せたのですが、非常に鋭く深い軍事要塞の痕跡が残っているわけです。

 あれは、天皇陵を作るのと、どちらが巨大な労力がいったか、簡単には言えないのですが、私はむしろあちらの神籠石のほうが、よりしんどかったのではないか。というのは、天皇陵は平地へ作る場合が多いですが、あそこは山の中腹から上方に、巨大な石を延々と人間が当然運び上げて、はりめぐらせているわけですから、経済的にも政治的にも、軍事的にも、大変な犠牲をはらって造られたことは、まず疑うことはできないわけです。
ところが、それが大和を囲んでいればいいのですが、いまの太宰府、筑後川流域を囲んでいるために、これに対する軍事的な評価をせずに、いままできているのではないか。

 早い話が、中学にも高等学校の教科書にも、全く神籠石の図は出ておりません。出ると、子どもに質問されたら、先生は答えにくいと思うんですね。何で、倭の五王は大和朝廷なのに、大和を囲まずに太宰府、筑後川流域だけを囲んだ軍事施設を作ったんですかと言われたらごまかさずに答えるというのはたいへん難しいと思うんです。

 要するに、いま話題になっている、古墳時代の日本における防御的軍事施設というテーマの際に、神籠石の問題にノータッチで論じたのでは、本当の議論は、失礼ですができないのではないか。
かつては白村江以後に作られたという説もありましたが、いまはさすがにそういう人はいないようで、武雄市教育委員会で出された報告書でも、6世紀ないし7世紀に作られた、つまり白村江以前に作られたというふうに、何人かの方々の意見を集約して書かれています。
そういうことで、長々申すつもりはございませんが、いわゆる神籠石問題を視野に入れて、いま出ております軍事的防御施設の問題を論じていただければありがたい。お願いでございます。」

 実はこのときの古代武器研究会に、先生のポスターセッションのお手伝いとして、わたしも参加していましたので、『古代武器研究』を読んでいて、当時のことを懐かしく思い出しました。そのときの緊迫した状況など、別の機会に紹介したいと思います。
なお、本日のシンポジウムの参加者は二百名を越え、一般市民の参加が三割ほどもあり、代表として閉会の挨拶をされた森岡先生から、「市民の協力があって、わたしたち考古学者は研究ができます。研究者だけてはできません。」とお礼の言葉があり、会場からは大きな拍手が起こりました。朝の九時半から夕方五時半過ぎまで、聞いている方にとってもハードな研究発表が続きましたが、考古学における学問の方法や、「高地性集落」研究が抱えている難しさもわかり、とても勉強になりました。

(注)
①『九州王朝の興亡』(『古代に真実を求めて』26号、明石書店)出版記念講演会。2023年6月17日、会場:エルおおさか。
講師/演題。
若林邦彦さん(同志社大学歴史資料館・教授)/「大阪平野の初期農耕 ―国家形成期遺跡群の動態」
正木 裕さん(古田史学の会・事務局長)/「万葉歌に見る九州王朝の興亡」
②従来は、高地性集落を防御など軍事的な視点で論じられてきたが、近年では海上活動や流通経済、船舶航行のためのランドマークなど多角的な視点での研究が重視されている。
③伊東義彰「第三回古代武器研究会を傍聴して」『古田史学会報』48号、2002年。(報告は下にあります。)


第3239話 2024/02/28

二つの「薩摩国一宮」の真実

 南九州に遺る「天智天皇」行幸伝承や「天智の后」とされる大宮姫伝承の再検討を進めていて、不思議なことに気づきました。それは薩摩には一宮が二つあることです。一つは薩摩国府(薩摩川内市)にある新田神社、もう一つが開聞岳の麓、指宿市の枚聞(ひらきき)神社です。ちなみに、この「ひらきき」の当て字に「開聞」が使用され、後に山名は開聞岳(かいもんだけ)と呼ばれるようになり、本来の地名「ひらきき」は神社名に遺ったようです。

 通常、一宮や国分寺・国分尼寺などその国を代表する寺社は、国府またはその近傍にあるもので、薩摩国は古代の国府があったとされる薩摩川内市にある新田神社が一宮であるのは理解できますが、薩摩半島の最南端(指宿市)にある枚聞神社が本来の一宮であったことは、何とも不思議です(注①)。この経緯について、ウィキペディアには次の解説がなされています。

〝一宮 新田神社(薩摩川内市) 式外社。国府の近くにあった。
元々の一宮は枚聞神社であった。鎌倉時代ごろから、新田神社が擡頭して枚聞神社と一宮の座を争うようになり、鎌倉時代末から南北朝時代のころに守護の島津氏の力を背景に新田神社が一宮となった。明治時代に定められた社格も新田神社の方が上になっている。日本全国の一宮が加盟する「全国一の宮会」には両社とも加盟している。 〟(Wikipedia)

 わたしは学生時代に指宿市・枕崎市を旅行したことがあります。秀麗な開聞岳(薩摩富士)がある良い観光地ですが、薩摩半島最南端であり、国府を置くには適切な地とは思われませんので、そこに一宮(枚聞神社)があることは不思議です。しかも、大和朝廷(日本国)時代の国府があった薩摩川内市からもかなり離れています。この現象を説明できる最有力の仮説が、当地や南九州に遺る「天智天皇」巡幸説話、頴娃(えい)郡出身の「大宮姫」伝承を九州王朝に関わる史実の反映とする仮説です。従って、大枠に於いては36年前に発表した拙論「最後の九州王朝 ―鹿児島県『大宮姫伝説』の分析―」(注②)には、未熟ではありますが、学問的意義が残されているように思うのです。(つづく)

(注)
①薩摩国内主要施設
薩摩国府 薩摩川内市
薩摩国分寺 薩摩川内市(国分寺跡)
薩摩国分尼寺(推定) 薩摩川内市
一宮 新田神社 薩摩川内市
枚聞神社 指宿市
②古賀達也「最後の九州王朝 ―鹿児島県「大宮姫伝説」の分析―」『市民の古代』10集、新泉社、1988年。


第3238話 2024/02/26

『開聞古事縁起』に見える「中宮明神」

 指宿市から出土した暗文土師器の探索から始まった今回のテーマは、思わぬ研究余滴をもたらしました。その一つが『開聞古事縁起』「一、當末神末社之事」に見える「中宮明神」の記事です。当該部分を転載します。

「中宮明神 在知覧之下郡名
天智帝皇子開聞后宮御子云々。第二宮也イ。別當知覧持寶院真言宗往古ノ別當ハ有中宮寺ト云。真言宗社寺有八箇寺云傳。」

 この記事によれば、開聞神らを祀る枚聞神社(指宿市)の末神末社として、知覧(鹿児島県南九州市)に「中宮明神」があり、それは天智の皇子であり開聞后宮(大宮姫)の御子とあります。「第二宮也イ」とあることから、この伝承には「イ」(異伝)があるようです。そこで『三國名勝圖會』を調査したところ、次の記事がありました。

「神社
正一位山口六社大明神(中略)安楽村にあり、祭神六座 天智天皇、倭姫、玉依姫、大友皇子、 持統天皇、乙姫宮是なり、(中略)按ずるに初め 天智天皇頴娃(えい)へ行幸し玉ふや、當邑に船を着られ、頴娃に到り、復此地に路を取りて還幸あり、 天皇崩後、和銅元年六月十八日、 天皇の廟を御在所嶽に建て、山宮大明神と號す、事は前條御在所嶽に記すが如し、又大友皇子の靈社を、御在所嶽の山下に創建す、山口大明神と號す、山口とは、山宮の口に建る故、名を得たりとぞ、(中略)其後鎭母(ジツボ)神社、〈 天智天皇の后倭姫を祭る、〉若宮、〈 持統天皇を祭る、 天智天皇の第二女にして、 天武天皇の后となる、〉中之宮、〈 天智天皇の妃、玉依姫なり、頴娃の人、 天智天皇の妃となる、〉蒲葵御前社、〈 天智天皇の妃、玉依姫の所生なり、〉の四社あり、是と彼山宮神社、〈 天智帝〉及び此山口神社、〈大友皇子、〉を合せて、凡六社、所々に散在す、」
「神社合記 中之宮大神社 安楽村にあり、祭神 天智帝の妃玉依姫なり、(中略)◁鎭母(ジツボ)大明神社 安楽村にあり、祭神、 天智天皇の后、倭姫なりといふ、祭祀正月未日、打植祭と號す、往古は山口六社の一なりとぞ、」『三國名勝圖會』巻之六十 日向國 諸縣郡

 宮崎県(日向國)では、「中之宮」「中之宮大神社」とあり、天智の「妃」の玉依姫とされています。他方、倭姫は天智の「后」と書き分けられており、鹿児島県(薩摩國)の伝承、天智の「后」としての大宮姫とはやや異なります。恐らく、宮崎側の伝承の方が『日本書紀』の影響を強く受けて、頴娃(えい)出身の「玉依姫」と記し、その立場も「后」ではなく、下位の「妃」としています。大宮姫もこの玉依姫も開聞岳がある頴娃の出身としていますから、同一人物の伝承と思われます。

 この頴娃出身の大宮姫(玉依姫)が、「中宮明神」や「中之宮」「中之宮大神社」に祭られていることに気づき、とても驚きました。三十数年前の研究時点(注①)では、この神社名・祭神の持つ意味に気づきませんでした。現在の研究水準では、野中寺(注②)の彌勒菩薩像台座銘に見える「中宮天皇」を天智の后の倭姫王とし、九州王朝出身の姫とする見解が古田学派内では有力視されており、その「中宮」を、天智の后(妃)の大宮姫のこととして祭っている神社が鹿児島や宮崎にあることは、偶然とは思えないのです。

 ちなみに、「中宮天皇」を九州王朝の天子、筑紫君薩夜麻の后とする説をわたしは「古田史学の会」関西例会(2011年7月)で発表しました(注③)。他方、「中宮天皇」を天智の后の倭姫王であり、大宮姫(『開聞古事縁起』)、薩摩比売(『続日本紀』)のこととする説を正木裕さんが発表しています(注④)。また、「中宮天皇」を九州王朝の天子(女帝)で倭姫王のこととする説を服部静尚さんが発表しています(注⑤)。なお、「中宮天皇」を倭姫王とする説は喜田貞吉氏が早くから発表しています。今回、大宮姫(玉依姫)を「中宮」として祭る神社の発見は、正木説を支持するものではないでしょうか。(つづく)

(注)
①)野中寺弥勒菩薩像銘 大阪府羽曳野市 丙寅年(666年)
「丙寅 年四 月大 旧八 日癸 卯開 記栢 寺智 識之 等詣 中宮 天皇 大御 身労 坐之 時請 願之 奉弥 勒御 像也 友等 人数 一百 十八 是依 六道 四生 人等 此教 可相 之也」
②古賀達也「最後の九州王朝 ―鹿児島県『大宮姫伝説』の分析―」『市民の古代』10集、新泉社、1988年。
③古賀達也「洛中洛外日記」327話(2011/07/23)〝野中寺彌勒菩薩銘の中宮天皇〟で紹介した。

 「7月16日の関西例会で、わたしは野中寺の弥勒菩薩銘にある「中宮天皇」を九州王朝の天子(薩夜麻)の奥さんのこととする、仮説以前のアイデア(思いつき)を発表しました。中宮天皇の病気平癒を祈るために造られた弥勒菩薩像のようですが、銘文中の中宮天皇について、一元史観の通説では説明困難なため、偽作説や後代造作説なども出ている謎の仏像です。
造られた年代は、その年干支(丙寅)・日付干支から666年と見なさざるを得ないのですが、この年は天智5年にあたり、天智はまだ称制の時期で、天皇にはなっていません。斉明は既に亡くなっていますから、この中宮天皇が誰なのか一元史観では説明困難なのです。

 従って、大和朝廷の天皇でなければ九州王朝の天皇と考えたのですが、この時、九州王朝の天子薩夜麻は白村江戦の敗北より、唐に囚われており不在です。そこで、「中宮」が後に大和朝廷では皇后職を指すことから、その先例として九州王朝の皇后である薩夜麻の后が中宮天皇と呼ばれ、薩夜麻不在の九州王朝内で代理的な役割をしていたのではないかと考えたのです。」
④正木 裕「よみがえる古伝承 大宮姫と倭姫王・薩摩比売(その1)」『古田史学会報』145号、2018年。
同「よみがえる古伝承 大宮姫と倭姫王・薩摩比売(その2)」『古田史学会報』146号、2018年。
「よみがえる古伝承 大宮姫と倭姫王・薩摩比売(その3)」『古田史学会報』147号、2018年。
同「大宮姫と倭姫王・薩末比売」『倭国古伝』(『古代に真実を求めて』22集)古田史学の会編、2019年、明石書店。
⑤服部静尚「野中寺弥勒菩薩像銘と女帝」『古田史学会報』163号、2021年。
同「中宮天皇 ―薬師寺は九州王朝の寺―」『古代史の争点』(『古代に真実を求めて』25集)古田史学の会編、2022年、明石書店。
本薬師寺は九州王朝の寺 服部静尚(会報165号)


第3237話 2024/02/25

「紀尺」による開聞岳噴火年代の検討

 紫コラの発生源となった貞観十六年(874)の開聞岳噴火記事は『日本三代実録』に記載されていることから、史実と見なされていますが、次の二つの噴火記事は信用できないとして、学問研究の対象とはされてきませんでした。

(A)「神代皇帝紀曰、第十二代懿徳天皇御宇(前510~前477年)、薩摩國開聞山涌出」『三國名勝圖會』巻之二十三 薩摩國 頴娃郡 開聞嶽

(B)「開聞神社縁起曰、第十二代景行天皇二十年(90年)、庚寅十月三日、一夜涌出、此等涌出の説あれども、皆日本書紀に載せざれば、確説に取りがたし、盖此嶽は、荒古より天然存在せしならん」『三國名勝圖會』巻之二十三 薩摩國 頴娃郡 開聞嶽
「景行天皇廿年(90年)庚寅冬十月三日之夜、國土震動風雷皷波而彼龍崛怱湧出于此界、屼成難思嵩山。卽其跡成池。今池田之池此也。」『開聞古事縁起』

 (A)は今から約2500年前、(B)は約2000年前の噴火記事であることから、荒唐無稽と考えられてきたものと思われます。しかし、この考えでは、なぜ2500年前や2000年前を示す具体的な年次(皇暦による)の伝承が成立し、後世の人々もその伝承を〝是〟として伝え続けてきた理由の説明が困難です。

 わたしは、史実に基づく噴火伝承の年次を、当時の何らかの暦法で伝えたもので、『日本書紀』成立後はその皇暦に換算したのではないかと考えています。古田先生は皇暦による年代特定方法を「紀尺」と名付け、従来、荒唐無稽とされてきた皇暦による年次が記されている古代伝承を、史実の反映としての再検証の必要性を提唱しました(注①)。

 古田先生が提唱した「紀尺」で、(A)2500年前、(B)2000年前という年次と気象庁ホームページの開聞岳の説明との整合が注目されます。

【気象庁ホームページ 「開聞岳」】(注②)
〝開聞岳は、約4,400年前に噴火を始めた。初期の活動は、浅海域での水蒸気マグマ噴火であった。溶岩を流出する噴火を繰り返し、約2,500年前には現在とほぼ同じ規模の山体が完成していたものと推定されている。約2,000年前と1,500年前の活動では噴出量が多く、成層火山体の形成に大きく寄与した。その後、歴史時代の874年及び885年の噴火で山頂付近の地形が大きく変化し、噴火末期に火口内に溶岩ドームが形成された。〟

「約2,500年前には現在とほぼ同じ規模の山体が完成」が(A)に相当し、「約2,000年前と1,500年前の活動では噴出量が多く、成層火山体の形成に大きく寄与」の「約2,000年前」が(B)に相当します。「1,500年前の活動」に対応する史料は今のところ見当たりません。こうした火山噴火の痕跡と、文献に遺された噴火記事との二つの一致を偶然と見るよりも、史実を反映した「紀尺」を用いた伝承と考えたほうがよいのではないでしょうか。(つづく)

(注)
①古賀達也「『日本書紀』は時のモノサシ ―古田史学の「紀尺」論―」『多元』170号、2022年。
同「洛中洛外日記」26832687話(2022/02/15~20)〝古田先生の「紀尺」論の想い出 (1)~(4)〟
②気象庁ホームページ「開聞岳」のアドレス。
https://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/fukuoka/507_Kaimondake/507_index.html


第3236話 2024/02/24

『開聞古事縁起』に見える噴火記事

 〝紫コラ〟の発生源となった貞観十六年(874)の開聞岳噴火記事は『日本三代実録』(注①)に記録されているので、その年代をピンポイントで確定できました。同様に尾長谷迫遺跡(鹿児島県指宿市)出土暗文土師器の編年に利用された〝青コラ〟(七世紀後半の開聞岳噴火により発生)についても、史料中に遺されていないのかを調べてみました。すなわち、七世紀後半頃と考古学的に編年された年代を、文献史学によりピンポイントで確定できないかと考えたのです。そこで、1988年に発表した論文「最後の九州王朝 ―鹿児島県『大宮姫伝説』の分析―」(注②)で研究した『開聞古事縁起』(注③)を久しぶりに精読しました。

 同縁起は延享二年(1745)の成立ですが、原本は明治二年の廃仏毀釈により、天智天皇の后とされる大宮姫伝承は俗記であるとして焼却され、その略縁起が枚聞神社に伝わっています。同縁起には開聞岳の噴火記事も掲載されており、〝青コラ〟発生の原因となった七世後半の噴火を示す記事があるのではないかと、論文執筆当時に収集した関連史料も含めて、今回、精査したところ、次の記事がありました。

(1) 『三國名勝圖會』巻之二十三 薩摩國 頴娃郡 開聞嶽
神代皇帝紀曰、第十二代懿徳天皇御宇(前510~前477年)、薩摩國開聞山涌出、

(2) 『三國名勝圖會』巻之二十三 薩摩國 頴娃郡 開聞嶽
開門神社縁起曰、第十二代景行天皇二十年(90年)、庚寅十月三日、一夜涌出、此等涌出の説あれども、皆日本書紀に載せざれば、確説に取りがたし、盖此嶽は、荒古より天然存在せしならん、

(3)『開聞古事縁起』
一、開聞嶽湧出之事
(中略)
景行天皇廿年(90年)庚寅冬十月三日之夜、國土震動風雷皷波而彼龍崛怱湧出于此界、屼成難思嵩山。卽其跡成池。今池田之池此也。

(4)『開聞古事縁起』
一、御嶽神火之事
仁王五十六代清和天皇貞観十六(874年)甲午年於ヨリ、當山頂地中、起難思火洞然如却火、灰雨砂降如雨如雪、其震動響百里外由、奏太宰府。府以傅上都、依之如封廟領二千戸、諡正一位爲薩州惣廟一之宮慰、諭神廟。于時貞観十六甲午年七月十七日官符ト云々。乃至中間興廢不委委矣。

 残念ながら青コラに相当する七世紀後半の噴火伝承は見つかりませんでした。こうした開聞岳の噴火記事や伝承は研究者からも注目されていたようですが、史実と見なされたのは(4)の貞観十六(874年)の噴火だけで、懿徳天皇御宇(前510~前477年)と景行天皇廿年(90年)は「信用することが出来ない」と否定されてきました(注④)。しかし、わたしは両伝承は歴史事実を反映した可能性があるのではないかと考えています。(つづく)

(注)
①『日本三代実録』貞観十六年(874)七月二日条に次の開聞岳噴火記事が見える。
「秋七月丁亥朔。戊子二日。地震。大宰府言。薩摩國從四位上開聞神山頂。有火自燒。煙薫滿天。沙如雨。震動之聲聞百餘里。近社百姓震恐矢精。求之蓍龜。神願封戸。及汚穢神社。仍成此祟。勅奉封二十戸。」
②古賀達也「最後の九州王朝 ―鹿児島県「大宮姫伝説」の分析―」『市民の古代』10集、新泉社、1988年。
③「開門古事縁起 全」『修験道史料集Ⅱ 西日本編』五来重編、名著出版、1984年。原本は枚聞神社蔵。
④濱田耕作氏は次の論文で両噴火記事を信用できないとしている。
濱田耕作「薩摩国揖宿郡指宿村土器含包層調査報告」『京都帝国大学文学部考古学研究報告』第6巻、京都帝国大学、1921年。


第3235話 2024/02/23

開聞岳噴火の考古学と文献史学

 尾長谷迫遺跡(鹿児島県指宿市)出土暗文土師器の編年に、〝青コラ〟(注①)と呼ばれる開聞岳噴火層(七世紀後半)が決め手になったことを「洛中洛外日記」前話(注②)で紹介しましたが、同噴火層には〝紫コラ〟と呼ばれる火山灰層もあります。紫コラは平安時代の貞観16年テフラ(注③)とも呼ばれており、かなり大規模な噴火だったこともあって、『日本三代実録』に記録されています。

〝秋七月丁亥朔。戊子二日。地震。大宰府言。薩摩國從四位上開聞神山頂。有火自燒。煙薫滿天。沙如雨。震動之聲聞百餘里。近社百姓震恐矢精。求之蓍龜。神願封戸。及汚穢神社。仍成此祟。勅奉封二十戸。〟『日本三代実録』貞観十六年(874)七月二日条 ※蓍亀(しき)とは、ノコギリソウと亀甲を指し、占いに用いられた。

 この紫コラのような火山灰層とその近辺の出土土器を研究対象とする火山学・考古学、そして『日本三代実録』などを対象とする文献史学という異なる学問分野の共同研究により、実年代をピンポイントで確定できたことは古代史学にとってとても恵まれたケースです。
ちなみに、当地の火山灰層に埋もれた橋牟礼川遺跡(指宿市十二町)は、縄文時代と弥生時代の先後関係を明らかにした遺跡として知られています。ウィキペディアには次のように説明されています。

〝発見と調査
1916年(大正五年)、指宿村出身で、旧制志布志中学校の生徒・西牟田盛健が縄文土器と弥生土器を拾ったことが遺跡発見のきっかけである。志布志中学校を訪れた喜田貞吉がその土器を実見し、鹿児島県内の考古学者・山崎五十麿に調査を依頼した結果、縄文土器と弥生土器が出土する遺跡の存在が確認された。喜田から情報を得た濱田耕作と長谷部言人が、1918年(大正七年)と1919年(大正八年)に現地で発掘調査を実施した。
縄文・弥生土器論争の決着
調査結果では、火山灰層を挟み、上層から弥生土器(正確には弥生土器ではなく、古墳時代後期の成川式土器)が、下層からアイヌ式土器(縄文土器)が出土することが確認された。このことから「縄文土器は弥生土器より古い」ことが層位学的に実証された。
それまでは「縄文土器と弥生土器は同じ時代に違う民族が作った土器」という説も有力であったが、この遺跡の発見により縄文時代→弥生時代という年代関係が確定した。〟(つづく)

(注)
①〝コラ〟は南九州薩摩半島の俗語で、火山灰からなる特殊土壌の一つ。当地の「固い物」「かたまり」を意味する言葉に由来する。
②古賀達也「洛中洛外日記」3234話(2024/02/22)〝指宿市「暗文土師器」の出土層位〟
③テフラとは(ギリシャ語で「灰」の意味)アイスランドの地質学者シグルズール・ソラリンソンによって定義された語で、火山灰・軽石・スコリア・火砕流堆積物・火砕サージ堆積物などの総称。火山灰などの火山噴出物中のケイ素酸化物の組成や含有する微量元素を分析することで、起源となった火山の特定が行われる。また、層厚と堆積面積によって噴火規模を推定する事ができる。


第3234話 2024/02/22

指宿市「暗文土師器」の出土層位

 尾長谷迫遺跡(鹿児島県指宿市)から出土した暗文土師器は考古学的に恵まれた条件下で検出されました。それは出土層位が〝青コラ〟と呼ばれている開聞岳噴火層の下から出土したため、編年が可能となったことです。青コラとは七世紀後半の噴火により生じた火山灰の層です。従って、暗文土師器の年代を七世紀の中頃から後半にかけてと編年されました。

 「青コラの噴火年代は、次のような事例から推定される。橋牟礼川遺跡から約5km南西方向にある山川町成川遺跡では、青コラの下に豊富な土器・鉄器・遺構が検出されているが、なかでも多数の人骨が出土し墓域であったことが判明している。これらの人骨に共伴している土器・鉄器は、古墳時代に属する5~6世紀のものとされ、青コラは6世紀以降の噴出物であることが明らかにされた。その後橋牟礼川遺跡で行われた発掘により、後述のように直接覆われた須恵器が出土したが、その編年は他地方との比較により7世紀後半とされており、噴火は古墳時代の終わり頃に発生したことが明らかになった。」(注①) ※橋牟礼川遺跡は指宿市十二町にある縄文時代から平安時代にかけての複合遺跡。

 暗文土師器は、官僚制の整備とそれに伴う官人層の大量発生を背景として出現しており、通説では大和朝廷の飛鳥時代(七世紀中頃)に畿内で製造・使用開始されたとしますから、それとほぼ同時期の薩摩で暗文土師器が出土したことは、〝存在しないはずだった〟と驚きをもって受け止められたのです。しかし、多元史観・九州王朝説の視点で考えると、九州王朝(倭国)の律令制官僚の発生時期は七世紀前半~中頃(太宰府Ⅰ期)まで遡りますから、七世紀後半の薩摩に暗文土師器が伝播していても、何の不思議もありません。同土師器の出土を報道した南日本新聞にも次の記事があり、必ずしも「畿内産」ではないことを示唆しています(注②)。

 今回の暗文土師器出土により、その編年の確認のため、開聞岳の噴火年代について勉強したところ、面白いことに気づきました。(つづく)

(注)
①成尾英仁・下山 覚「開聞岳の噴火災害 ―橋牟礼川遺跡を中心に―」『加速器質量分析計業績報告書 Ⅶ』名古屋大学、1995年。
②「南日本新聞」WEB版(2024/01/01)には次の解説がある。
〝存在しないはずだった…飛鳥時代の「暗文土師器」が鹿児島で初確認 大和政権の影響勢力、指宿に存在か 尾長谷迫遺跡から出土
鹿児島県指宿市の尾長谷迫(おばせざこ)遺跡で、7世紀中ごろ、飛鳥時代の「暗文土師器(あんもんはじき)」と呼ばれる土器が鹿児島県内で初めて見つかった。古代国家・大和政権の都があった畿内地域の影響を受けた土器とされ、これまでの南限は宮崎県だった。鹿児島県内では政権と衝突した隼人が暮らしており、専門家は「県内には存在しないと考えられていた。政権と何らかの関係を持つ勢力が指宿にいたことを示す」と注目している。
暗文土師器は元々は都の「畿内産土師器」を模倣したもので、器の内面には大陸から流入した金属器の光沢を表現した放射状の線が施されている。政治施設である「官衙(かんが)」に関連する遺跡から見つかるケースが多く、国立歴史民俗博物館研究部の林部均教授(考古学)は「古代国家、都の存在を示す象徴となる土器。国家と関わりがあった地域でのみ出土する」と解説。これまでは西都市にある日向国府跡の寺崎遺跡と水運関連施設の宮ノ東遺跡が南限とされていた。
指宿市教育委員会によると、今回見つかった土器は口径17.1センチ、器高6.4センチ。7世紀後半に噴火した開聞岳の噴出物(青コラ)の下の地層から、南九州特有の成川式土器と一緒に割れた状態で出土した。〟


第3233話 2024/02/21

指宿市出土「暗文土師器」の衝撃

 『南日本新聞』元旦号(注①)に掲載された、尾長谷迫遺跡(鹿児島県指宿市)から出土した暗文土師器について研究を進めています。大和朝廷に関係する遺構(国府跡など)からしか出土しない同土師器が、九州王朝時代の七世紀中葉の薩摩の遺跡から出土したことで、当地のメディアに注目されました。これは正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が研究してきた、天智の后、倭姫王が薩摩出身の〝九州王朝の姫〟(『続日本紀』には「薩末比売」、現地伝承では「大宮姫」)とする一連の仮説と整合する出土事実であり、正木説を支持する考古学的傍証です(注②)。

 『畿内産暗文土師器関連資料1 ―西日本編―』(注③)によれば、同土師器は「畿内産暗文土師器」と呼ばれており、次のように説明されています。

〝律令国家の形成期には、宮都として特徴的な土師器食膳器が出現する。これらは赤褐色に焼成され、内面に暗文と呼称されるミガキ調整を装飾的に施したものを主体とし、従来より「畿内産土師器」と呼称されてきた。

 その形態や質感は当時の高級食膳具である金属器を意識したもので、多様な形態の器種、法量の分化といった点において、伝統的な食膳具と一線を画するものであった。

 大陸からの新たな文化的要素の到来を示すだけでなく、出現の背景に、官僚制の整備とそれに伴う官人層の大量出現、食事の支給や儀式等の活発化が指摘されている。〟6頁

 ここで紹介されているように、大和朝廷の律令制官僚の大量発生に伴う「畿内産土師器」である暗文土師器が、七世紀中葉の薩摩に存在していたことを示す今回の出土は、大和朝廷一元史観の通説や従来の考古学では説明できず、研究者に衝撃がはしったのではないでしょうか。しかし、わたしにはこの土師器について思い当たることがありました。(つづく)

(注)
①茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集部)からご教示いただいた。
②大宮姫伝説については、次の拙論と近年の正木氏による研究が進み、「壬申の乱」から王朝交代期の九州王朝(倭国)に関する伝承であることが明らかとなった。
古賀達也「最後の九州王朝 ―鹿児島県『大宮姫伝説』の分析―」『市民の古代』10集、新泉社、1988年。
正木 裕「よみがえる古伝承 大宮姫と倭姫王・薩摩比売(その1)」『古田史学会報』145号、2018年。
「よみがえる古伝承 大宮姫と倭姫王・薩摩比売(その2)」『古田史学会報』146号、2018年。
「よみがえる古伝承 大宮姫と倭姫王・薩摩比売(その3)」『古田史学会報』147号、2018年。
同「大宮姫と倭姫王・薩末比売」『倭国古伝』(『古代に真実を求めて』22集)古田史学の会編、2019年、明石書店。
③『畿内産暗文土師器関連資料1 ―西日本編―』奈良国立文化財研究所、2005年。