「 テレビ 」一覧

第912話 2015/03/30

わがとも友(ども)と

      めでよ人々

 昨日、放送されたNHK大河ドラマ「花燃ゆ」は安政5年(1858)まで進行し、翌6年には安政の大獄が起こり、吉田松陰は29歳で刑死するので、前半のクライマックスに近づきつつあるようです。
 この「花燃ゆ」のオープニングに流れる主題曲はなかなかの名曲ですが、歌詞の意味がよく聞き取れずインターネットで調べたところ、川井憲次さんの作曲で次のようでした。

愚かなる 吾れのことをも 友とめづ人は わがとも友(ども)と
吾れをも 友とめづ人は わがとも友(ども)と めでよ人々
吾れをも 友とめづ人は わがとも友(ども)と めでよ人々 燃ゆ

 その意味するところは、愚かな私を大切な友と思ってくれる人があれば、わたしの友のことも大切に思ってほしい、ということでしょうか。この歌詞のもとになったのは、松陰が刑死の前日に友人や松下村塾の弟子等に宛てた遺書『留魂録』にある和歌のようです。
 全16章からなる『留魂録』冒頭の「身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂」は有名ですが、同書の末尾に記された次の和歌が出典です。

「愚かなる 吾れをも友とめづ人は わがとも友と めでよ人々」(吉田松陰『留魂録』)

 死の直前まで、友人や弟子らのことを思いやった松陰の人となりに胸を打たれます。この『留魂録』は弟子等のもとに無事届き、書写され、この松陰の志を受け継いだ松下村塾の塾生たちが明治維新の原動力となりました。
 全国の古田学派のみなさん。松下村塾の塾生たちがそうであったように、わたしたちも古田先生の志を自らの志とし、真実の歴史と真の学問のため、共にこの時代を生きようではありませんか。


第876話 2015/02/18

雪の関ヶ原を通過して

 今日の午前中は京都市内の代理店を訪問し、今は新幹線で東京に向かっています。車窓の風景が急に吹雪に変わったので、どこらへんだろうかと注視すると関ヶ原でした。吹雪は一瞬だけで、関ヶ原を抜けると青空が見えてきました。
 ご存じのように関ヶ原は有名な合戦場で、石田三成率いる西軍は、徳川軍を大垣城で迎え撃つことをやめ、関ヶ原で迎え撃っています。関ヶ原という地名からもわかるように、古代から「関」(不破関・ふわのせき)が置かれていた要衝の地です。京都防衛のため峠の外(東)側に「関」はあったのではないでしょうか。東山道を東から京都へ攻め上る外敵を待ち受けるには、峠の上に布陣し、美濃平野から狭い関ヶ原に進む敵を上から攻撃するほうが有利だからです。
 明治時代にこの「関ヶ原の戦い」の布陣図を見たドイツ参謀本部のメッケルは西軍の勝利と判断したそうです。それほど有利な布陣を敷いて石田三成は徳川軍を待ち受けたのですから、勝利を確信していたのではないでしょうか。結果は小早川の「裏切り」やその他の「日和見」により東軍の勝利となったわけですから、徳川家康の方が一枚上手だったということです。ちなみにメッケルは明治政府の要請で日本陸軍参謀教育のために来日していました。後の日露戦争のとき、欧州では誰もがロシアの勝利を予想していましたが、メッケルだけは日本陸軍には自分が育てた優秀な参謀がいるから、日本が勝つと言っていたそうです。
 なお、「参謀本部」を最初に創設したのはナポレオンに負けたドイツ(プロイセン)でした。天才ナポレオン一人に対して多数の秀才参謀によるチームワークで戦うという方針のもとに、敗戦国ドイツは参謀本部(軍事の強化)とベルリン大学(自然科学の強化)を創設し、ナポレオンとの次の戦いに備え、普仏戦争やワーテルローの戦いで雪辱をはたしたことは有名です。
 このように守るべき都から見て、峠の外側に「関」を置くということは軍事上からも当然のことなのですが、服部静尚さん(古田史学の会『古代に真実を求めて』編集責任者)はこの「関」について大発見をされました。(つづく)


第800話 2014/10/11

『古田史学会報』

  124号の紹介

 今日は某テレビ局特別番組制作スタッフの方から取材を受けました。わたしの「聖徳太子」に関する論文に興味を持たれ、来年放映予定の特別番組に取り入れたいとのこと。わたしの「出演」も要請され、協力を約束しました。
 古田史学や九州王朝説などの説明、『旧唐書』や『隋書』の倭国伝、『二中歴』の九州年号を紹介したところ、すぐにご理解いただき、「これほど明確な証拠があるのになぜ歴史学者は九州王朝を認めないのですか」と質問されました。わたしは各地で講演するたびに同様の質問を受けるのですが、「歴史の真実よりも、保身や出世、お金のほうが大切な学者が多いのです。そういう学者をわたしは御用学者とよんでいます」と返答しました。
 さらに、これまでも報道予定だった古田先生への取材・収録が番組編集段階で圧力がかかり、カットされたり、極端に短縮されたりしてきたことを伝えたのですが、その方は「わたしは真実を大切にしたい」と言われたので、今回の件がどのような結果になっても、これをご縁に今後もおつき合いしてほしいと述べ、快諾していただきました。とても有意義で楽しい取材体験となりました。

 『古田史学会報』124号が発行されましたので、ご紹介します。好論が集まり面白いものとなりました。正木さん岡下さんら常連組に服部さんが加わり、研究者層の厚みも増してきました。萩野さんの旅行記も楽しい内容です。服部稿は弥生時代の鉄器出土分布から「邪馬台国」畿内説が全く成立しないことがよくわかるデータも示されていおり、勉強になります。
 掲載テーマは次の通りです。会員の皆さんの投稿をお待ちしています。ページ数や編集の都合から、短い原稿の方が採用の可能性は高くなりますので、ご留意ください。

〔『古田史学会報』124号の内容〕
○前期難波宮の築造準備について  川西市 正木裕
○「邪馬台国」畿内説は学説に非ず  京都市 古賀達也
○「魏年号銘」鏡はいつ、何のために作られたか
   — 薮田嘉一郎氏の考えに従う解釈 京都市 岡下英男
○トラベルレポート出雲への史跡チョイ巡り行
 2014年5月31日~6月2日  東大阪市 萩野秀公
○鉄の歴史と九州王朝  八尾市 服部静尚
○好著二冊  川西市 正木 裕
○古田先生の奥様(冷*子様)の訃報 代表 水野孝夫
     冷*は三水編に令。ユニコード6CE0
     残念ですがインターネットでは表示できません。
○『古田史学会報』原稿募集
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会 関西例会のご案内
○編集後記  西村秀己


第772話 2014/08/24

「大文字焼き」は誤用か

 「洛中洛外日記」767話で、わたしは「大文字焼きがある如意ヶ岳が見え、送り火の日は大勢の見物客で夜遅くまでごった返します」と書いたのですが、熱心な読者のSさんから次のようなご注意をいただきました。それは、「五山の送り火」が正式名称で、生粋の京都人は「大文字焼き」とは言わない。外部の人が「大文字焼き」と言うことに対して、京都人は内心快く思っていない。という趣旨のご指摘でした。
 わたしの「洛中洛外日記」を読んでいただき、こうしたご意見をいただけることは大変ありがたいことと思っています。その上で、わたしはSさんに謝辞とともに次のような趣旨の返答メールを出しました。

(1)「大文字焼き」の正式名称が「五山の送り火」「大文字の送り火」とされているのはその通り。
(2)Sさんが言われるような見解は京都のガイドブックや「京都」関連本によく見かける内容である。
(3)わたしは4~6歳(昭和35年頃)ころ、京都市聖護院で暮らしており、そのころ「大文字焼き」を見た記憶がある。そのころから周囲の大人は「大文字焼き」と言っていたので、わたしも「大文字焼き」というようになった。
(4)生粋の京都人(下鴨神社付近で暮らしていた)である妻も「大文字焼き」と普通に言っている。

 このようなご返事を出したのですが、もしかするとわたしの記憶違いかもしれないと心配になり、聞き取り調査をすることにしました。そして今日までに次のような証言を得ました。

証言1(妻の親戚、70歳代、生粋の京都人)自分や周囲の人は「送り火」と言っている。「大文字焼き」とは言わない。
証言2(妻の知人、60歳くらい、生粋の京都人)自分が子供の頃、父親から「大文字焼きは誤りで、正しくは送り火である」と厳しく教えられてきた。
証言3(妻の母、80歳代、生粋の京都人)自分は「大文字焼き」とは言わない。
証言4(水野孝夫代表、70歳代、京都市下鴨生まれで京都大学卒)京都時代に何と言っていたか記憶はないが、「大文字焼き」という言い方に違和感はない。
証言5(西村秀己さん、60歳代、香川県出身)40年ほど昔、大阪で働いていた頃、京都によく行ったが京都人の友人は「大文字焼き」と普通に言っていた。
証言6(正木裕さん、60歳代、徳島県出身、京都大学卒)京大在学中、京都の友人は「大文字焼き」と言っていた。
証言7(服部静尚さん、60歳代、大阪府出身)自分が子供の頃から京都の人が「大文字焼き」と言っていた。「大文字焼き」という表現は縁起が悪いというような話を以前誰かから聞いた記憶がある。

 とりあえず、このような証言を得ることができました。これらの証言から次のようなことが推定できます。

1,京都には「大文字焼き」と言う人が少なくとも50年以上前からいた。
2.「大文字焼き」は間違いであり、「送り火」が正しいと主張する人も、少なくとも50年前からいた。
3.その結果、現代の京都には「大文字焼き」と普通に言う人、「送り火」という人、さらには「大文字焼き」は誤りであると主張する人が混在している。ただし、その割合は今のところ不明。
4,「大文字焼き」は誤りであると主張する人の意見が「正論」として各種機関・書籍に採用されている。

 なぜ現在のような状況が発生したのか、いつ頃から「大文字焼き」と言う京都人がいたのかが、今後の調査のポイントとなりそうです。
 どうしてこのようなことをわたしが気にするのかというと、『三国志』原文には「邪馬壹国」とあるにもかかわらず、「邪馬壹国」は誤りで「邪馬臺国」が正 しいとする意見が学界やマスコミで全面的に採用され、今では原文が「邪馬壹国」であることさえもほとんどの国民が知らないという状況です。このように、古田学派の研究者として、「権威」や「辞典」「マスコミ」「国家権力」が「正しい」としているからという理由だけで、それを鵜呑みにすることがわたしにはできないからなのです。
 この件、引き続き調査検討します。こうした機会を与えていただいたSさんに、改めて感謝いたします。


第380話 2012/02/02

聖徳太子と九州年号

先日、NHKのBS放送で聖徳太子の特別番組が放送されたそうです。事前に何人かの会員の方からその番組のことをお知ら せいただいたのですが、あいにく我が家のテレビではBS放送は映らず、同番組を見ることができませんでした。放送を見た人のお話では、あいかわらず近畿天 皇家一元史観による「陳腐」な内容だったようです。
ちょうど良い機会ですので、聖徳太子と九州年号が意外と関係が深いというテーマについてご紹介したいと思います。
たとえば後代に編纂された『聖徳太子伝』などの聖徳太子の伝記類には、九州年号の「金光」「勝照」「端政」などが散見されます。おそらく、九州王朝の天 子・多利思北弧やその太子、利歌彌多弗利の九州年号付きで記された年代記を盗用する際、九州年号がそのまま残されたものと推察しています。
さらに、法隆寺にも九州年号が記された文書が存在しているようなのです。それは「聖徳太子の御文箱」と呼ばれているもので、X写真によれば、その箱の中 に3枚の文書が入っており、それらは聖徳太子と善光寺如来との間で交わされた書簡とされています。その内、1通は国立東京博物館に明治時代の写しが現存し ています。他の2通の内容は不明です。
法隆寺側は「御文箱」を永久に封印する方針とのことなので、その聖徳太子の書簡を見ることはできないのですが、残りの2通に九州年号が記されている可能 性が濃厚なのです。そこで、何とかその往復書簡の内容を調べたいと思い、わたしは善光寺側の史料を調査したのですが、なんと善光寺側はそれら書簡を公開し ていたのでした。
詳しくは拙論「九州王朝仏教史の研究」(『「九 州年号」の研究』に収録)を読んでいただきたいのですが、聖徳太子からの手紙に「命長七年」という九州年号が記されていたのです。すなわち、聖徳太子と善 光寺如来の往復書簡とは九州王朝の天子と善光寺との書簡だったのです。おそらく、それら書簡が法隆寺移築時か後に法隆寺にもたらされ、聖徳太子の書簡とし て伝来されたようです。
このように聖徳太子と九州年号は結構関係が深いのですが、こうした史料状況は聖徳太子伝説の多くが九州王朝の伝承だった可能性を強く感じさせるのです。