飛鳥宮一覧

第1978話 2019/08/31

「九州王朝律令」による官職名

「洛中洛外日記」1974話(2019/08/27)〝大和「飛鳥」と筑紫「飛鳥」の検証(8)〟において、7世紀後半の王朝交替前の飛鳥の近畿天皇家が、「九州王朝」律令による官職名を使用していたのではないかと推定しました。この指摘が正しければ、藤原宮などから出土した木簡に見える『大宝律令』以前の官職名は「九州王朝律令」によるものとなり、その記事から「九州王朝律令」の「職員令」復元が一部可能となるかもしれません。そこで、そうした官職名をピックアップしてみました。

【『大宝律令』以前の官職名】
○「尻官」 法隆寺釈迦三尊像台座墨書(7世紀初頭)
○「見乃官」 大野城市本堂遺跡出土須恵器刻書(7世紀前半〜中頃)

○「大学官」 明日香村石神遺跡出土木簡(天武期)
○「勢岐官」 明日香村石神遺跡出土木簡(天武期)
○「道官」 明日香村石神遺跡出土木簡(天武期)
○「舎人官」 藤原宮跡大極殿院北方出土木簡(天武期)
○「陶官」 藤原宮跡大極殿院北方出土木簡(天武期)
○「宮守官」 藤原宮跡西南官衙地区出土木簡
○「加之伎手官」 藤原宮跡東方官衙北地区出土土器墨書
○「薗職」 藤原宮北辺地区出土木簡
○「蔵職」 藤原宮跡東方官衙北地区出土木簡
○「文職」 藤原宮跡東方官衙北地区出土木簡
○「膳職」 藤原宮跡東方官衙北地区出土木簡
○「塞職」 藤原宮跡北面中門地区出土木簡
○「外薬」 藤原宮跡西面南門地区出土木簡
○「造木画処」 藤原宮跡東面北門地区出土木簡


第1975話 2019/08/29

大和「飛鳥」と筑紫「飛鳥」の検証(9)

 飛鳥に君臨した天武天皇の官僚として「大学官」「勢岐官」「道官」「舎人官」「陶官」と称された人々がいたことは、出土木簡から明らかですが、その官僚組織の全体像や人数・規模は不明です。通説のように「飛鳥浄御原令」に基づく行政が近畿天皇家で行われていたのであれば、数千人規模の官僚群が全国統治には必要ですが、当時の天武天皇らの統治領域が日本列島のどの範囲にまで及んでいたのかも、多元史観・九州王朝説の視点からはまだ不明です。
 九州王朝から大和朝廷への王朝交替後であれば、藤原宮(京)や平城宮(京)には全国統治のための官僚群約八千人がいたとされています(服部静尚説)。これだけの大量の官僚群はいつ頃どのようにして誕生したのでしょうか。奈良盆地内で大量の若者を募集して中央官僚になるための教育訓練を施したとしても、壬申の乱(672年)で権力を掌握し、藤原宮遷都(694年)までの期間で、初めて政権についた天武・持統らに果たして可能だったのでしょうか。
 わたしは前期難波宮で評制による全国統治を行っていた九州王朝の官僚群の多くが飛鳥宮や藤原宮(京)へ順次転居し、新王朝の国家官僚として働いたのではないかと推定しています。『日本書紀』によれば朱鳥元年(686)に前期難波宮は焼失していますが、難波京全てが焼けたわけではありません。少なくとも『日本書紀』には難波京全体が焼失したとは記されていません。そのため、九州王朝官僚群の多くは無傷で残ったものと思われます。
 このように想定したとき、7世紀末頃の急速な大和朝廷の立ち上げとスムーズな王朝交替(701年での全国一斉の評から郡への変更)が可能となったことをうまく説明できるのではないでしょうか。(つづく)


第1974話 2019/08/27

大和「飛鳥」と筑紫「飛鳥」の検証(8)

 飛鳥の石神遺跡から出土した木簡の「大学官(だいがくのつかさ)」「勢岐官(せきのつかさ)」「道官(みちのつかさ)」と同類の「舎人官(とねりのつかさ)上毛野阿曽美□」「陶官(すえのつかさ)」と記された木簡が藤原宮遺跡(大極殿北方大溝下層)からも出土しています。いずれも藤原宮完成前の「飛鳥浄御原令」に基づくものと解説されています(『藤原宮出土木簡(二)』昭和52年)。更に同木簡出土地点からは「進大肆」という、『日本書紀』によれば天武14年(685)に制定された位階が記された木簡(削りくず)や、「宍粟評(播磨国)」「海評佐々里(隠岐国)」木簡も出土していることから、それらは七世紀末頃のものと見て問題ありません。

 このように石神遺跡や藤原宮下層遺跡から出土した木簡の史料事実により、天武天皇や持統天皇らは九州王朝系の官職名「○○官」を採用し、それら官僚群により東国から西日本にかけての広域統治を飛鳥宮で行っていたことがわかります。藤原宮時代になると出土した荷札木簡から判断できる統治領域は更に広がります。

 以上のように出土木簡や『日本書紀』の記事というエビデンスに基づいて、一元史観の大和「飛鳥宮」説が強固に成立しています。(つづく)

《奈良文化財研究所「木簡データベース」》から転載

【木簡番号】524
【本文】□□〔且ヵ〕□舎人官上毛野阿曽美□□〔荒ヵ〕□○右五→
【寸法(mm)】縦(257) 横(13) 厚さ6
【型式番号】081
【出典】藤原宮2-524(飛3-5下(33))
【文字説明】「曽」は異体字「曾」。
【形状】上欠(折れ)、下欠(折れ)、左欠(割れ)、右欠(割れ)。
【樹種】ヒノキ科♯
【木取り】追柾目
【遺跡名】藤原宮跡大極殿院北方
【所在地】奈良県橿原市醍醐町
【調査主体】奈良国立文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部
【発掘次数】藤原宮第20次
【遺構番号】SD1901A
【地区名】6AJFKQ33
【内容分類】文書
【国郡郷里】
【人名】上毛野阿曽美□(荒)□
【和暦】
【西暦】
【木簡説明】上下折れ、両側面割れ。文書木簡の断片。舎人官は大宝・養老令官制の左右大舎人寮か東宮舎人監の前身官司と考えられる。舎人官の上にある文字は、大・左・右のいずれでもない。人名中にみえる阿曽美は朝臣の古い表記法と思われ、『続日本紀』宝亀四年五月辛巴条にみえる。

【木簡番号】523
【本文】陶官召人
【寸法(mm)】縦(127) 横 32 厚さ 3
【型式番号】019
【出典】藤原宮2-523(飛3-5下(34))
【文字説明】
【形状】下欠(折れ)。
【樹種】ヒノキ科♯
【木取り】板目
【遺跡名】藤原宮跡大極殿院北方
【所在地】奈良県橿原市醍醐町
【調査主体】奈良国立文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部
【発掘次数】藤原宮第20次
【遺構番号】SD1901A
【地区名】6AJFKQ33
【内容分類】文書
【国郡郷里】
【人名】
【和暦】
【西暦】
【木簡説明】下端折れ。陶官が人を召喚した文書の冒頭部分にあたる。陶官は『令義解』にみえる養老令官制の宮内省管下の筥陶司の前身となるものであろう。大宝令施行期間中に筥陶司が存在したことは天平一七年(七四五)の筥陶司解(『大日本古文書』二-四〇八)の存在から確認できる。したがって、陶官という官名は飛鳥浄御原令制下にあったものと思われるが、さらにこの海から出土した他の木簡の例からみて浄御原令施行以前にも存在していた可能性がある(総説参照)。官司名+召という書きだしをもつ召喚文は藤原宮木簡四九五、平城宮木簡五四・二〇九四などにもみえるが、この木簡の例などからみて、かなり古くから行われたものらしい。


第1973話 2019/08/26

大和「飛鳥」と筑紫「飛鳥」の検証(7)

 飛鳥の石神遺跡から大量出土(約三千点)した木簡に「大学官(だいがくのつかさ)」「勢岐官(せきのつかさ)」「道官(みちのつかさ)」と記されたものがあり、この「○○官」という官職名は7世紀後半頃の律令官制のものと考えられますが、この官職名「○○官」について、詳述します。

 わたしは「○○官」という官職名は九州王朝律令官制によるものと考えています。そのことについて、「洛中洛外日記」100話で論じています。当該部分を転載します。

【以下、転載】
古賀事務局長の洛中洛外日記
第100話 2006/09/30
九州王朝の「官」制

 第97話「九州王朝の部民制」で紹介しました、大野城市出土の須恵器銘文「大神部見乃官」について、もう少し考察してみたいと思います。
古田先生が『古代は輝いていたⅢ-法隆寺の中の九州王朝-』(朝日新聞社)で指摘されていたことですが、法隆寺釈迦三尊像光背銘中の「止利仏師」の「止利」を、「しり」(尻)あるいは「とまり」(泊)と読むべきであり(通説では「とり」)、地域名あるいは官職名であるとされました。後に、同釈迦三尊像台座より「尻官」という墨書が発見され、この古田先生の指摘が正鵠を射ていたことが明らかになるのですが(『古代史をゆるがす真実への7つの鍵』原書房 参照)、尻官が九州王朝の官職名であり、「尻」が井尻などの地名に関連するとすれば、大野城市出土の須恵器銘文「大神部見乃官」の「見乃官」も地名に基づく官職名と考えられます。そうすると、九州王朝は6〜7世紀にかけて「○○官」という官制を有していた可能性が大です。

 このように「尻」や「見乃」部分が地名だとすると、第97話で述べましたように、久留米市の水縄連山や地名の耳納(みのう)との関係が注目されるでしょう。この「地名+官」という制度は九州王朝の「官」制、という視点で『日本書紀』や木簡・金石文を再検討してみれば、何か面白いことが再発見できるのではないでしょうか。これからの研究テーマです。(後略)
【転載、終わり】

 『威奈大村骨蔵器』銘文によれば、「大宝元年を以て律令はじめて定まる」とあり、それ以前の律令は近畿天皇家が定めたものではないことになります。同時代金石文であるこの骨蔵器銘文の証言は重要です。従って、7世紀以前の「○○官」という官職名は九州王朝律令によるものと考えざるを得ません。
このような論理展開により、飛鳥の石神遺跡から出土した「大学官」「勢岐官」「道官」、そして「釆女氏塋域碑」(拓本)の「飛鳥浄原大朝庭大弁官」という官職名は、九州王朝律令によるものを飛鳥の天武天皇らは〝借用〟、あるいはそのまま〝転用〟したのかもしれない、という可能性を想定しなければなりません。更に考えれば、九州王朝の天子の命を受けたという形式にして、自らの臣下にこうした官職名を授与したということも検討する必要があります。(つづく)


第1972話 2019/08/24

大和「飛鳥」と筑紫「飛鳥」の検証(6)

多元史観・九州王朝説による筑紫「飛鳥」説として、新・古田説(小郡「飛島」説)が出され、その弱点を補うべく正木さんが広域筑紫「飛鳥」説(小郡・朝倉・久留米)を出され、「律令制宮都の論理」というロジックと「飛鳥浄御原令」を根拠に服部さんが太宰府「飛鳥」説を出されました。次に、通説の大和「飛鳥」説の根拠(エビデンス)と論理構造(ロジック)について、その要点を紹介します。

一元史観の大和「飛鳥」説は一言で言えば〝『日本書紀』の記事と考古学的出土事実、現地地名などが対応している〟という論理構造により成立しています。このロジックは単純で平明なだけに、否定しがたい説得力を有しています。それは次のようなものです。

①奈良県明日香村に七世紀後半頃の宮殿遺構が重層的に出土している。
②それら遺構の年代は出土土器や干支木簡などにより、比較的安定して編年が成立している。
③字地名「飛鳥」にある飛鳥池遺跡等から出土した七世紀後半頃の木簡の内容が『日本書紀』の記事と対応している。たとえば「飛鳥寺」「天皇」「○○皇子」など、多数。
④飛鳥寺のすぐ北西にある石神遺跡からは藤原宮の官衙域と状況が似た建物群が出土しており、同遺跡北方域から大量に(約三千点)出土した木簡に「大学官(だいがくのつかさ)」「勢岐官(せきのつかさ)」「道官(みちのつかさ)」と記されたものもあり、当地に官衙が存在したと考えられている。
⑤この「○○官」という官職名は七世紀の律令官制のものと考えられ、近畿から出土した同じく七世紀後半の金石文「釆女氏塋域碑」(拓本)に見える「飛鳥浄原大朝庭大弁官」とも対応している。

この他にも多くの論点がありますが、『日本書紀』の史料事実や考古学的出土事実の存在そのものは否定できませんし、両者の対応も複雑な解釈や屁理屈によるものではなく、単純・平明な対応に基づいています。従って、上記のロジックは強力で説得力があります。先に紹介した筑紫「飛鳥」説が九州王朝論を基盤としたやや複雑なロジックにより成立していることと比較すれば、確かなエビデンスにも支えられている大和「飛鳥」説のほうが分かりやすいことは明白です。

この大和「飛鳥」説をよく理解し、これら一元史観のエビデンスとロジックを軽視することなく、古田学派九州王朝説論者は自説を構築しなければならないのです。無視したり、解釈だけで逃げてはなりません。(つづく)


第1971話 2019/08/23

大和「飛鳥」と筑紫「飛鳥」の検証(5)

 正木さんによる小郡・朝倉・久留米地域の広域「アスカ」説に続いて、近年発表されたのが服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)による太宰府「飛鳥浄御原宮」説です。同説は「古田史学の会」主催『発見された倭京』出版記念大阪講演会後の懇親会席上で最初に発表されたのですが、そのときの様子を「洛中洛外日記」1748話で次のように紹介しました。

【以下、転載】
古賀達也の洛中洛外日記
第1748話 2018/09/09
飛鳥浄御原宮=太宰府説の登場(1)
〔前略〕
 講演会終了後、近くのお店で小林副代表・正木事務局長・竹村事務局次長ら「古田史学の会・役員」7名により二次会を行いました。そこでは「古田史学の会」の運営や飛鳥浄御原についての学問的意見交換などが行われたのですが、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)から、飛鳥浄御原宮=太宰府説ともいうべき見解が示されました。服部さんによれば次のような理由から、飛鳥浄御原宮を太宰府と考えざるを得ないとされました。

①「浄御原令」のような法令を公布するということは、飛鳥浄御原宮にはその法令を運用(全国支配)するために必要な数千人規模の官僚群が政務に就いていなければならない。
②当時、そうした規模の官僚群を収容できる規模の宮殿・官衙・都市は太宰府である。奈良の飛鳥は宮殿の規模が小さく、条坊都市でもない。
③そうすると「飛鳥浄御原宮」と呼ばれた宮殿は太宰府のことと考えざるを得ない。

 概ねこのような論理により、飛鳥浄御原宮=太宰府説を主張されました。正木さんの説も「広域飛鳥」説であり、太宰府の「阿志岐」や筑後の「阿志岐」地名の存在などを根拠に「アシキ」は本来は「アスカ」ではなかったかとされています。今回の服部新説はこの正木説とも対応しています。
 この対話を聞いておられた久冨直子さん(古田史学の会・会員、京都市)から、太宰府の観世音寺の山号は「清水山」であり、これも「浄御原」と関係してるのではないかという意見が出されました。
 こうした見解に対して、わたしは「なるほど」と思う反面、それなら当地にずばり「アスカ」という地名が遺存していてもよいと思うが、そうした地名はないことから、ただちに服部新説や正木説に賛成できないと述べました。なお、古田先生が紹介された小郡市の小字「飛鳥(ヒチョウ)」は規模が小さすぎて、『日本書紀』などに記された広域地名の「飛鳥」とは違いすぎるという理由から、「飛鳥浄御原宮」がそこにあったとする根拠にはできないということで意見が一致しました。(後略)
【転載、終わり】

 近年の古田学派研究者による最高の学問的貢献と言っても過言ではない、服部さんの「律令制宮都の論理」は単純で強力な論理性(ロジック)に支えられており、「豊前王朝説」や「伊予紫宸殿王都説」などを成立困難としています。この「律令制宮都の論理」を援用して、飛鳥浄御原宮=太宰府説が服部さんにより発表されたのです。
 こうして、新旧の古田説、正木説、服部説が出そろい、わたしの多元的「飛鳥」研究も佳境に入りました。このように異なる意見が自由に発表され、真摯な論争・応答の交換こそ、学問研究にとって必須であり、古田学派らしい学問的寛容の精神の発露です。異なる意見を〝師の説と異なる〟あるいは〝通説と異なる〟と排除したり、自説への批判に対して怒り出すというような姿勢は、それこそ古田先生の学問的精神に反するというものです。自戒したいと思います。(つづく)


第1970話 2019/08/20

大和「飛鳥」と筑紫「飛鳥」の検証(4)

 筑紫「飛鳥」説を証明するための「アスカ」地名や「明日香川」の調査が行き詰まっていた時に、正木裕さんの宝満川を「アスカ川」とする広域「アスカ」説が発表されたのでした。正木さんとの対話の様子を「洛中洛外日記」901話では次のように紹介しています。

【以下、転載】
古賀達也の洛中洛外日記
第901話 2015/03/17
小郡宮と飛鳥宮(2)
 正木裕さん(古田史学の会・全国世話人)との古代史談義のテーマは、小郡宮から飛鳥宮へと移りました。正木説によれば、宝満川(阿志岐川)が『万葉集』などに見える「あすか川」であり、筑後川を挟んで小郡・朝倉と久留米一帯の広域地名が「あすか」と比定されています。従って、この領域にあった宮殿は「あすかの○○宮」と称されることになります。
 他方、奈良県明日香村にも7世紀の宮殿遺構があり、これらも「あすかの○○宮」と呼ばれていたことを疑えません。そこで問題となるのが、『日本書紀』や『万葉集』、金石文に記されたそれぞれの「あすか宮」「あすかの○○宮」を、どちらの「あすか」と見るのかということです。二つの候補地がある以上、史料ごとに個別に検討しなければなりませんが、これがなかなか難しく、正木さんとの検討でも、まだ結論を得るには至りませんでした。特に「あすかのきよみはらの宮」「きよみはらの宮」に関しては、かなり突っ込んだ意見交換と検討を続けました。この問題について、引き続き考えたいと思います。
【転載、終わり】

 なお、正木さんの論文発表は更に遡り、『古田史学会報』103号(2011年4月)「『筑紫なる飛鳥宮』を探る」、同106号(2011年10月)「論争の提起に応えて」で、宝満川=「アスカ川」説を論じられられています。わたしは筑紫に「アスカ」地名が現存せず、過去に存在したという史料根拠も見当たらないことから、この正木説に反対ではないものの賛成もできずに来ました。しかしながら、こうした正木説との出会いにより、本稿のテーマである大和と筑紫の多元的「飛鳥」論の検証へとわたしの問題意識は進んできたのです。(つづく)


第1969話 2019/08/20

大和「飛鳥」と筑紫「飛鳥」の検証(3)

 古田先生が筑紫の「飛鳥」と考えられた小郡市井上地区の小字「飛島(とびしま)」ですが、その小字「飛島」の形が元々は沼か水路のようで、『日本書紀』や『万葉集』に記された「あすか」のような比較的大きな領域とは考えにくく、わたしは古田先生の小郡「飛鳥」説に納得できないでいました。
 たとえば『万葉集』196番歌には「わが大君(吾王)」の名前「明日香」は「明日香川」に由来すると歌われています。従って、「明日香川」はそれなりの規模を持つ有名な川と考えざるを得ません。しかし、小郡市の小字「飛島(とびしま)」が元々は川であったとしても小規模であり、とても九州王朝の天子の名前の由来となるような川とは考えられません。
 そこで、わたしはこの「明日香川」にふさわしい川として、筑前と筑後の間を流れる九州随一の大河筑後川ではないかと考えました。筑後川という名称は筑紫国が前後に分国された後に付けられたものであり、分国以前(六世紀末以前)には別の名前があったはずですから、筑後川の古名が「明日香川」だったのではないかとする作業仮説(思いつき)に至ったのです。しかし史料調査の結果、筑後川には「一夜川」の別名や地元の通称である「大川」という名称しかみつかりませんでした。また、その上流や源流域の地に「アスカ」という地名や山名も見つかりませんでしたので、筑後川を「明日香川」とすることにはエビデンスがなく、仮説成立は困難とせざるを得ませんでした。
 次に検討したのが筑後川の支流で小郡市を流れる宝満川の古名が「明日香川」とする作業仮説(思いつき)を検討しました。通常、宝満川の名前の由来は宝満山(御笠山)を源流域とすることによるとされています。他方、同地域から博多湾へ流れる川として御笠川が存在しています。宝満山の古名が御笠山であることから、御笠川の名称はその山名に基づいています。同じように御笠山を源流域に持つ宝満川は、御笠山が宝満山と名前が変わって以降に成立した名称となりますから、筑後川と同様に別の名前(古名)を持っていたはずです。それが「明日香川」ではないかと考えたのですが、やはりそれを証明するためのエビデンスは見つかりませんでした。
 このように筑紫「飛鳥」説を証明するため、史料調査や検討を続けたのですが、成果は得られませんでした。(つづく)


第1965話 2019/08/16

大和「飛鳥」と筑紫「飛鳥」の検証(2)

 古田先生の小郡「飛鳥宮」の根拠は、小郡市井上地区の小字地名「飛島(とびしま)」が明治期の地名表に「飛鳥(ヒチョウ)」とされていることと、朝倉の麻氐良布(まてろう)神社の御祭神に「明日香皇子」が見えることでした。『太宰管内志』の「筑前之二十(上座郡)」の麻氐良布神社の項に次のように「神社志」が引用されています。

 「〔神社志〕に一説に伊弉册尊相殿に伊弉諾尊・齊明天皇・天智天皇・明日香皇子(後略)」『太宰管内志』上巻、646頁

 『筑前国続風土記』「上座郡」麻氐良布山の項には「天智の御子」と付記されています。

 「(前略)一説、伊弉册尊也。相殿に伊弉諾尊・齊明天皇・天智天皇・明日香皇子〔天智の御子。〕を祭り奉ると云。(後略)」『筑前国続風土記』(文献出版)、223頁 ※〔〕内は二行細注。

 古田先生が筑紫「飛鳥」説を発表されたとき、その史料根拠についてお聞きしたことがありました。そのとき、先生は唯一の史料根拠として麻氐良布神社の御祭神「明日香皇子」をあげられました。わたしも史料調査を続けた結果、それが唯一であることに同意見でしたので、この「唯一の史料根拠」という点について、念を押して古田先生に確認したことを記憶しています。
 『日本書紀』によれば天智天皇の子供に「明日香皇女」は見えますが、「明日香皇子」はいません。従って、御祭神として伝えられているこの「明日香皇子」とは九州王朝の皇子ではないかと考えています。中でも筑紫君薩野馬のこととする見解が有力です。
 小郡市井上地区の小字「飛島」の現地調査も古田先生とご一緒しました。現在の地名が「とびしま」であり、「あすか」ではないことなどについても検討を続けましたが、古田先生は明治期の字地名表に「飛鳥(ヒチョウ)」とあることを重視し、あるとき「飛島」に変化したと考えておられました(大和の飛鳥と同名であることを憚った)。ただ、その小字「飛島」の形が元々は沼か水路のようにも思え(当地には沼が多い)、『日本書紀』や『万葉集』に記された「あすか」のような比較的大きな領域とは考えにくく、その解釈にも悩んできました。
 他方、小郡市には井上廃寺遺跡や上岩田遺跡といった大型の寺院・官衙遺跡が出土しており、それらが「飛鳥宮」だったのではないかとも考えていました。そのようなときに登場したのが、正木説でした。(つづく)


第1964話 2019/08/15

大和「飛鳥」と筑紫「飛鳥」の検証(1)

 「洛中洛外日記」1963話(2019/08/14)〝「最大古墳は天皇陵」説を小澤毅氏が批判〟で紹介した小澤毅著『古代宮都と関連遺跡の研究』(吉川弘文館)は、飛鳥宮についての大和朝廷一元史観(通説)による最新の論稿が収録されており、その「飛鳥宮」論がどのような根拠(エビデンス)と論理構造(ロジック)により成り立っているのかを勉強する上でも好適な一冊でした。市大樹さんの名著『飛鳥の木簡 -古代史の新たな解明』(中公新書)と併せ読むことにより、更に理解が深まりました。

 晩年の古田先生は七世紀の金石文に見える「飛鳥宮」などを、小郡市の小字地名「飛島(とびしま)」が明治期の地名史料に「飛鳥(ヒチョウ)」とされていることなどを根拠に、小郡にあった「飛鳥宮」のこととする説を発表されました。その後、古田学派内では筑前・筑後の広域「飛鳥」説が正木裕さん(古田史学の会・事務局長)より、大宰府政庁(Ⅱ期)とする太宰府「飛鳥浄御原宮」説が服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)から発表され、今日に至っています。

 今のところ、わたしはいずれも有力としながらも賛成できないでいます。その理由は、当地に「飛鳥」地名が現存しないことなどです。他方、通説の大和「飛鳥宮」は考古学的痕跡や『日本書紀』の記事との対応など、強力なエビデンスを背景に成立しています。そこで、九州王朝説との齟齬をきたさない、大和「飛鳥宮」の位置づけが可能なのかという問題意識もあり、一度、通説をしっかりと勉強する必要を感じていました。そんなときに出会ったのが小澤さんの『古代宮都と関連遺跡の研究』でした。

 同書や市さんの『飛鳥の木簡』などを参考にしながら、大和「飛鳥」と筑紫「飛鳥」の検証を試みることにします。まだ、結論には至っていません。本テーマを「洛中洛外日記」で取り上げながら、認識を深め、新たな仮説提起へと至れば幸いです。しばらく、このテーマにお付き合いください。(つづく)


第1961話 2019/08/12

飛鳥池「庚午年」木簡と

芦屋市「元壬子年」木簡の類似

 飛鳥宮における天武や持統の勢力範囲を調査するために、奈良文化財研究所の木簡データベースを検索調査しているのですが、飛鳥池遺跡から興味深い木簡が出土していることを知りました。同データベースによれば次のような文字が読み取れます。

・「合合」○庚午年三→(「合合」は削り残り)・○□\○□

 裏面は判読困難ですが、表面に「庚午年三」という干支とおそらくは月が記されています。冒頭の二文字「合合」は〝削り残り〟と説明されていますから、再利用木簡と思われます。その形状から見て荷札木簡ではありませんし、史料性格は不明です。同データベースでも【内容分類】が無記載ですから、奈良文化財研究所でも判断できなかったと思われます。
この用途不明な干支木簡ですが、わたしは一見してある木簡と似ていることに気づきました。芦屋市三条九ノ坪遺跡出土の「(白雉)元壬子年」木簡です。この木簡は7世紀中頃の土器と供に出土したこともあり、652年の壬子であるとされましたが、報告書(『木簡研究』第19号、1997年)では「三壬子年」と判読され、『日本書紀』孝徳紀の「白雉三年」と紹介されました。

 ところが九州年号の白雉と『日本書紀』の白雉には二年のずれがあり、壬子の年は「白雉元年」なのです。そこで、古田先生らと共に兵庫県教育委員会の許可をいただいて、わたしは同木簡を二時間にわたり凝視しました(目視と光学顕微鏡調査。赤外線カメラ撮影は大下隆司さん)。その結果、「三」とされた文字は「元」であることが判明したのです。すなわち、九州年号の「白雉元年」を意味する「九州年号」木簡だったのです。

 木簡に九州年号の痕跡が確認された画期的な発見であり、そのことを『古田史学会報』76号(2006年8月)や『なかった』第2号(ミネルヴァ書房・2006年)、『古代に真実を求めて』10集(明石書店・2007年)、『「九州年号」の研究』(ミネルヴァ書房・2012年)、インターネット「新・古代学の扉」で発表したのですが、学界からは完全に無視されました。

 しかし発表後、微妙な変化が起こったことにわたしは気づきました。その後発刊された木簡に関する書籍や論文に、この「元壬子年」木簡の紹介がなくなったり、あるいは「壬子年」とだけ記し、「元」とも「三」とも触れなくなったのです。すなわち、それまでも古田先生の九州王朝説や九州年号説が国民の目に触れないように、学界は古田史学を無視し、なかったことにしようとしてきたのですが、この「元壬子年」木簡の存在と意義が一旦マスコミや国民に知れ渡ると、九州年号の実在をごまかしようがなくなると恐れたのだと思います。
このようないわく付きの「元壬子年」に、今回の飛鳥池出土「庚午年」木簡が似ていることに気づいたのです。それは、共に木簡の途中から文字(干支)が書き出されており、上部に空白があることです。通常、7世紀の荷札木簡で干支から始まる場合は、木簡上部から書き始められます。限られたスペースに過不足無く必要な情報を書かなければならないという木簡の性質上、その上部に無駄なスペースを空ける必要はありません。ところが、この2つの木簡は上部に数文字は書き込める空白部分が、おそらくは意図的に置かれているのです。この上部空白現象について、奈良文化財研究所の「木簡説明」でも次のように指摘されています。

 「干支年から書き出す木簡は七世紀では一般的であるが、本例は書き出し位置がかなり下方である。」

 ここからはわたしの推測ですが、九州王朝の時代は木簡に九州年号を記すことが憚られていて、九州年号が書かれるべき位置をあえて空白にしたのではないでしょうか。この推測が正しければ、「庚午年」木簡も「元壬子年」木簡もその形状から荷札木簡ではなく、本来は九州年号付きで記されるべき内容の文書木簡(メモ)だったことになります。たとえば、「庚午年」木簡は670年(白鳳十年)の「庚午年籍」造籍に関する行政文書木簡で、「元壬子年」木簡は前期難波宮創建を記念しての白雉改元に関する行政文書木簡ではなかったかと推測しています。
引き続き、同様の木簡の有無を調査し、こうした作業仮説が成立可能か検討したいと考えています。

〔奈良文化財研究所 木簡データベース〕
【木簡番号】185
【本文】・「合合」○庚午年三→(「合合」は削り残り)・○□\○□
【寸法(mm)】縦 (77) 横 20 厚さ 4
【型式番号】019
【出典】飛鳥藤原京1-185(木研21-22頁-(31)・飛13-17上(80))
【文字説明】
【形状】上削り、左削り、右削り、下欠(折れ)。表面左側剥離。
【樹種】檜
【木取り】板目
【遺跡名】飛鳥池遺跡北地区
【所在地】奈良県高市郡明日香村大字飛鳥
【調査主体】奈良国立文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部
【発掘次数】飛鳥藤原第84次
【遺構番号】SD1130
【地区名】5BASNK36
【内容分類】
【国郡郷里】
【人名】
【和暦】((庚午年)天智9年3月)
【西暦】670(年), (3)(月)
【木簡説明】上端・左右両辺削り、下端折れ。表面の左側は剥離する。「庚午年」は天智九年(六七〇)。干支年から書き出す木簡は七世紀では一般的であるが、本例は書き出し位置がかなり下方である。共伴する木簡の年代観からみてもやや古い年代を示している。庚午年籍の作成は同年二月であり(『日本書紀』天智九年二月条)、関連があるかもしれない。


第1960話 2019/08/11

飛鳥池木簡に記された天武の勢力範囲

 今日はお盆休みを利用して、久しぶりに京都府歴彩館に行き、図書を閲覧しました。隣接した京都府立大学文学部図書館にある飛鳥・藤原京出土木簡の報告書を精査したところ、天武の時代の飛鳥浄御原宮の勢力範囲を示唆する木簡が出土していたことを確認しました。次の「丁丑年」(天武六年、677年)木簡二点です。奈良文化財研究所の木簡データベースから転載します。

 「丁丑年」(天武六年、677年)といえば「壬申の乱」の五年後です。その時代既に美濃(三野)国加尓評・刀支評から「次米」の貢献を受けていたことを示す荷札木簡ですから、この時期には「天皇」を称するにふさわしい権力者に天武は上り詰めていたことがうかがえます。

 この数年後には藤原宮(京)の造営も開始しますから、律令による全国支配を飛鳥宮にいた天武ら近畿天皇家が想定していたことは明らかです。701年に九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)へ王朝交替する二十年以上前の近畿天皇家の政治権力の様相の一旦を明らかにした貴重な木簡といえるでしょう。

〔奈良文化財研究所 木簡データベース〕
【木簡番号】193
【本文】丁丑年十二月次米三野国/加尓評久々利五十戸人/○物部○古麻里∥
【寸法(mm)】縦 146 横 31 厚さ 4
【型式番号】031
【出典】飛鳥藤原京1-193(荷札集成-105・木研21-19頁-(18)・飛13-15上(58))
【文字説明】
【形状】三片接続(刃物を入れ手で割き三片に分離)、上削り、下削り、左削り、右削り。
【樹種】檜
【木取り】板目
【遺跡名】飛鳥池遺跡北地区
【所在地】奈良県高市郡明日香村大字飛鳥
【調査主体】奈良国立文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部
【発掘次数】飛鳥藤原第84次
【遺構番号】SD1130
【地区名】5BASNH34
【内容分類】荷札
【国郡郷里】美濃国可児郡〈三野国加尓評久々利五十戸〉
【人名】物部古麻里
【和暦】(丁丑年)天武6年12月
【西暦】677(年), 12(月)
【木簡説明】左右三片接続。三片の側面は、それぞれ上半部では平滑であるが、下半部では割れ面が目立つ。三片に分離する際、途中まで刃を入れた上で、手で割いたことを示そう。接続した状態では四周削り。上下の左右に切り込みをもち、上部左側は三角形、下部右側は台形。「丁丑年」は天武六年(六七七)。「次米」は諸説あるが、「次」と「米」の合成字である「粢(しとぎ)」に餅の意があること、十二月に糯(餅)米を貢進する例がある(「平城宮木簡二』二七〇四号)ことから、正月儀式用の糯米の可能性が高い(吉川真司「税の貢進」「文字と古代日本三」吉川弘文館、二〇〇五年)。「三野国加尓評久々利五十戸」は、『日本書紀』景行四年二月甲子条に美濃国行幸時の行宮としてみえる泳宮に関係する地名であろう。泳宮は『万葉集』三二四二番歌では「八十一隣之宮」とみえる。

【木簡番号】721
【本文】・丁丑年十二月三野国刀支評次米・恵奈五十戸造○阿利麻\舂人服部枚布五斗俵
【寸法(mm)】縦 151 横 28 厚さ 4
【型式番号】032
【出典】飛鳥藤原京1-721(荷札集成-107・木研21-19頁-(13)・飛13-13下(44))
【文字説明】
【形状】上削り、下削り、左削り、右削り、上端裏面わずかに面取りする。
【樹種】檜
【木取り】板目
【遺跡名】飛鳥池遺跡北地区
【所在地】奈良県高市郡明日香村大字飛鳥
【調査主体】奈良国立文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部
【発掘次数】飛鳥藤原第84次
【遺構番号】SD1110
【地区名】5BASNJ33
【内容分類】荷札
【国郡郷里】(美濃国恵奈郡絵上郷〈三野国刀支評恵奈五十戸〉)・(美濃国恵奈郡絵下郷〈三野国刀支評恵奈五十戸〉)
【人名】恵奈五十戸造阿利麻・服部枚布
【和暦】(丁丑年)天武6年12月
【西暦】677(年), 12(月)
【木簡説明】四周削り。上端は裏面をわずかに面取りする。上部左右に浅い切り込みをもち、左側は台形。一九三号と同じく「丁丑年十二月」(天武六年、六七七年)の年月を記す三野国からの「次米」荷札である。一九三号とは違って下部に切り込みをもたないが、形状・法量は近似する。上半部には縦方向にほぼ三等分する位置で切れ目が入るが、一九三号と異なり、完全に割かずに廃棄されている。「三野国刀支評恵奈五十戸」は「和名抄』美濃国恵奈郡絵上・絵下郷に該当する。恵奈郡の中心をなすサトが「刀支評」(後の土岐郡)に管せられていることから、恵那評は存在しなかったとみられ、その初見が天平勝宝二年(七五〇)まで降る(美濃国司解〈『大日本古文書三』三九〇頁〉)こととも関係しよう。「次米」の貢進責任者は「恵奈五十戸造阿利麻」であるが、舂米作業に従事した「服了枚布」の名前も記す。この「五十戸造」は氏姓が明瞭でないが、その職掌・地位にあることがその者の素性を証明することにつながるため、あえて記さなかった可能性がある。