「 二倍年暦 」一覧

第1666話 2018/05/09

『論語』二倍年暦説の史料根拠(8)

 今回は文献史学や古典の史料批判というテーマから離れて、そもそもなぜ『論語』二倍年暦説への批判が発生するのかという現代日本人の認識について考えてみることにします。
 わたしの『論語』二倍年暦説に反対される方々には通底する「共通誤解」があるのではないでしょうか。それは紀元前数百年頃の周代においても「70歳や80歳を越える長寿の人は少なからず存在していた」とする考えが暗黙のあるいは明確な前提となっていると思われるのです。はっきり言って、この認識は学問的根拠を持たない「錯覚」ではないかとわたしは思っています。かく言うわたしも同様に錯覚していました。
 わたしは古代における二倍年暦の研究過程で、周代のような紀元前数百年頃の人間の寿命は50歳かせいぜい60歳までで、それを越えるケースは極めて希ではないかと考えるようになりました。その理由の一つは、「周代」史料の二倍年暦による高齢寿命記事は管見では「百歳(一倍年暦の50歳)」か「百二十歳(一倍年暦の60歳)」までであり、「百四十歳(一倍年暦の70歳)」「百六十歳(一倍年暦の80歳)」とするものが見えないことです。すなわち周代の人間の寿命は50〜60歳頃が限界のようなのです。
 他方、人類史上初の超長寿社会(平均寿命は女性87.14歳、男性80.98歳。2016年厚生労働省調査)に突入した現代日本に生きるわたしたちが、人間の寿命が古代においても70歳や80歳に及ぶ例が少なからずあったのではないかと錯覚するのも無理からぬことですが、その日本においても平均寿命が50歳を越えたのはそれほど昔のことではありません。このことを説明した武田邦彦さん(中部大学教授)の著書を紹介します。

 「1920年代前半の日本人の平均寿命は男性が42.1歳、女性は43.2歳でした。赤ちゃんのときに他界する方を除いても50歳には達しません。江戸時代には45歳くらいで隠居するのが普通でしたが、昭和になっても50歳を越えたら確実に『老後』でした。」(武田邦彦『科学者が解く「老人」のウソ』産経新聞出版、2018年3月)

 このように大正から昭和初期の日本でもこれが実態でした。紀元前数百年頃の周代の実状はおして知るべしです。(つづく)

〔余談〕二倍年暦問題とは別に、武田邦彦さんの『科学者が解く「老人」のウソ』はお勧めです。特に50歳(一倍年暦の)を越えた男性の方に一読を勧めます。


第1665話 2018/05/07

『論語』二倍年暦説の史料根拠(7)

 関西例会で出された『論語』二倍年暦説への批判として、周代や「周代」史料が二倍年暦であったとしても、『論語』の年齢記事が二倍年暦かどうか論証されていないというものがありました。たとえば「周代」史料である『春秋左氏伝』が一倍年暦による編年体史料であることは、わたしも知っていましたし、谷本さんからも同様の指摘が関西例会でなされていました。こうした「周代」史料に一倍年暦のものがある理由について、わたしと谷本さんとでは見解が異なっていましたが、同時に同じような認識の部分もありました。今回はこのことについて説明します。
 わたしが二倍年暦の研究をしていて、いつも悩まされる問題がありました。それは二倍年暦から一倍年暦への変化に伴って発生する「二倍年齢」という概念でした。すなわち、天文観測技術の発展により、一年を360日(より正確には365日)とする一倍年暦が発明され、公権力により一倍年暦の暦法が採用されたのですが、このとき人間の年齢だけは従来の二倍年暦で計算するという「二倍年齢」が、一倍年暦の暦法と共に併存するという現象が発生しうるという問題です。一倍年暦を採用した公権力が年齢計算でも一倍年暦を同時に採用していればことは簡単なのですが、今までの研究結果からは「一倍年暦暦法下の二倍年齢表記」という史料痕跡が存在しており、当テーマの『論語』についても、その可能性をどのように論理的に排除できるのかという視点が必要となります。『春秋左氏伝』も同様の問題を抱えています。
 一例をあげれば、記紀に記された継躰天皇の寿命が『古事記』では42歳(485-527)、『日本書紀』では84歳(450-534)となり、継躰天皇の寿命が『古事記』との比較から『日本書紀』では二倍年暦に基づいて記された痕跡を示しています。すなわち、『日本書紀』に見える継躰の生年が二倍年齢により没年から逆算して記されたと思われます。しかし、『日本書紀』は一倍年暦で編年されていますし、継躰天皇の時代であれば、九州王朝は年号を建元しており、当時採用していた暦法が一倍年暦であったことを疑えません。
 この史料事実は、暦法は一倍年暦の時代でも、人の年齢は二倍年暦を淵源とする「二倍年齢」で計算され伝承されたことを示しているのです。すなわち、一倍年暦と「二倍年齢」併存の可能性を疑うという視点が、二倍年暦研究における史料批判には必要ということなのです。『論語』の史料批判においても、この問題があるため、わたしは『論語』の年齢記事が二倍年暦で理解したほうがリーズナブルであること、弟子の曾参が二倍年暦による年齢理解で語っていることなどを根拠として説明してきたわけです。(つづく)


第1663話 2018/05/02

『論語』二倍年暦説の史料根拠(6)

 関西例会で出された『論語』二倍年暦説への批判として、わたしの理解では二種類がありました。一つは、周代が二倍年暦かどうか証明できていない、「周代」史料の長寿記事は実際の年齢ではないとする解釈も可能、というものです。もう一つは、周代や「周代」史料が二倍年暦であったとしても、『論語』の年齢記事が二倍年暦かどうか論証されていない、という批判です。
 今回は二つ目の批判に対して検討してみます。確かに『論語』中に年齢記事はそれほど多くなく、一倍年暦で70歳(孔子の年齢記事)の当時としては長寿の人がたまたまいたという解釈も可能だからです。こうした反論をわたしが想定していたことは、『論語』二倍年暦説の論理構造として既に説明してきた通りです。そこで、今回は別の視点から『論語』の年齢記事が二倍年暦と理解すべき論理性(論証)について説明します。
 たとえば孔子の弟子の曾参が二倍年暦で語っていた根拠として、次の記事を紹介しました。

 「人の生るるや百歳の中に、疾病あり、老幼あり。」(『曾子』曾子疾病)

 これ以外に、『曾子』には次の年齢記事が見えますが、先の記事が二倍年暦であれば、これも二倍年暦記事と考えなければなりません。

 「三十四十の間にして藝なきときは、則ち藝なし。五十にして善を以て聞ゆるなきときは、則ち聞ゆるなし。七十にして徳なきは、微過ありと雖も、亦免(ゆる)すべし。」(『曾子』曾子立事)

 大意は、30〜40歳で無芸であったり、50歳で「善」人として有名でなければ大した人間ではないというものですが、これは二倍年暦による年齢表記となりますから、一倍年暦の15〜20歳、25歳ということになります。これと類似した「人物評価」が『論語』にも見えます。「後生畏るべし」の出典となった次の記事です。

「子曰く、後生畏る可し。焉んぞ来者の今に如かざるを知らんや。四十五十にして聞こゆること無くんば、斯れ亦畏るるに足らざるのみ。」(『論語』子罕第九)

 この記事も40歳50歳になっても名声が得られないようであれば、とるに足らない人間であるという趣旨で、先の『曾子』と同じように40〜50歳(一倍年暦の20〜25歳)が人間評価の年齢基準としています。従って、先の『曾子』の記事が二倍年暦であることから、この『論語』の記事も二倍年暦で語られたと理解すべきです。また、記事の内容から考えても、当時の古代人にとって50歳は一般的には「寿命の限界」、あるいは高齢ゾーンであり、そうした「最晩年」に名をなしていなければ畏るるにたらない、というのでは全くナンセンスです。このことをわたしは『論語』二倍年暦説の史料根拠と指摘してきましたし、古田先生も同様の見解を発表されています(『古代史をひらく』ミネルヴァ書房、243頁)。
 以上の論理性により、『論語』も二倍年暦で記されているとするのが穏当な史料理解であり、有力説と思います。(つづく)


第1661話 2018/04/30

『論語』二倍年暦説の史料根拠(5)

 今回は「周代」史料の「百歳」記事が、わが国ではどのようにとらえられていたのかについてご紹介します。
 わたしが、九州年号研究において江戸時代の学者たちが九州年号をどのようにとらえていたのかの調査で、筑前黒田藩の儒者、貝原益軒の著作を調べていたときに次の記事に注目しました(貝原益軒は九州年号偽作説)。

 「人の身は百年を以て期(ご)となす。上寿は百歳、中寿は八十、下寿は六十なり。六十以上は長生なり。世上の人を見るに、下寿をたもつ人すくなく、五十以下短命なる人多し。人生七十古来まれなり、といへるは、虚語にあらず。長命なる人すくなし。五十なれば不夭と云て、わか死にあらず。人の命なんぞ如此(かくのごとく)みじかきや。是(これ)、皆、養生の術なければなり。」(『養生訓』巻第一)

 この「人の身は百年を以て期(ご)となす」という益軒の認識は「周代」史料に基づいています。たとえば『礼記』に次の記事が見えます。

 「百年を期(ご)といい、やしなわる。」(『礼記』曲礼上篇)

 また「上寿は百歳、中寿は八十、下寿は六十なり」も「周代」史料の『荘子』の次の記事によると思われます。

 「人、上寿は百歳、中寿は八十、下寿は六十。」(盗跖(とうせき)篇第二十九)

 筑前黒田藩の儒者である貝原益軒が、これら儒教の古典を知らなかったとは万に一つも考えられません。『養生訓』の記事から判断すると、益軒は「周代」史料に見える「百歳」などの超長寿記事が二倍年暦とは考えもつかなかったようで、そのため「世上の人を見るに、下寿をたもつ人すくなく、五十以下短命なる人多し」と記したのでしょう。
 先に紹介した『黄帝内経素問』の「年半百(五十歳)」という表現と同様に、ここでも「周代」史料の「百歳」記事に対してちょうど半分の「五十以下短命なる人多し」としており、江戸時代の日本人の一般的な寿命が50歳以下と認識されていたことがわかります。これら『黄帝内経素問』『養生訓』の記事によれば、中国の周代から日本の江戸時代に至るまで、人間の一般的な寿命が50歳と認識されており、現代日本という人類史上初の長寿社会に生きているわたしたちは、この寿命の推移に留意する必要があります。現代の寿命認識で古典の年齢記事を理解することは危険です。(つづく)


第1660話 2018/04/29

『論語』二倍年暦説の史料根拠(4)

 「周代」史料に散見する「百歳」記事により、周代では二倍年暦での百歳を人間の一般的な寿命と認識されていたと考えられますが、この「百歳」という表記は一倍年暦の時代になっても、一倍年暦の「五十歳」に換算されることなく、そのまま「一人歩き」した痕跡が後代史料などに少なからず残っています。たとえば、唐代の白楽天の詩にも次のような「百歳」が見えます。

 「人生百歳 通計するに三万日 何ぞいわんや百歳の人 人間(じんかん)百に一もなし」(対酒)

 二倍年暦の認識がない唐代において「人生百歳」という表現がそのまま残っているのですが、「そんな長寿の人は一人もいない」という詩です。同じ唐代の大詩人李白も「百歳(年)」という周代成立の表記を使用した次の詩を作っています。

 「百年三万六千日 一日すべからく三百杯を仰ぐべし」(襄陽歌)

 「白髪三千丈」と歌った李白らしく、「百年」を生涯の意味で用いた詩です。
 他方、周代成立の「百歳」という超寿命に疑義を示した史料もあります。中国の古典医学書『黄帝内経素問』に見える、黄帝から天師岐伯への質問です。

 「余(われ)聞く、上古の人は春秋皆百歳を度(こ)えて動作は衰えず、と。今時の人は、年半百(五十)にして動作皆衰うるというは、時世の異なりか、人将(ま)さにこれを失うか。」(『素問』上古天真論第一)

 このように、二倍年暦による「百歳」を一倍年暦表記と理解したため、「今時の人は、年半百(五十)にして動作皆衰う」のは「時世の異なりか」と質問したわけです。ということは、この記事の成立時は既に一倍年暦の時代になっており、そのときの人の一般的寿命が百歳ではなく五十歳と認識されていたことがわかります。
 なお、『黄帝内経素問』の書名は『漢書』「芸文志」に見えることから、前漢代に編纂されたようです。同書はその後散逸しており、唐代に編集された『素問』『霊柩』として伝えられています。
 このような暦法の変化による後世への影響発生に似た事例として、里単位の変遷があります。たとえば、周代の「短里(1里約76m)」により成立した「千里馬(1日千里〔約76km〕を駆ける名馬)」という用語が、「長里(1里約435m)」の時代でも名馬を意味する「慣用句」として使用されるのですが、長里ですと一日435kmを駆ける空想上のペガサスの話になってしまいます。
 人間の寿命を「百歳」とした周代の二倍年暦の実在を認めなければ、「千里馬」と同様に、古代における人間の寿命記事に対しても正しい理解が得られないのです。同時に、『素問』のこの記事は、周代の二倍年暦実在の証拠でもあるのです。(つづく)


第1659話 2018/04/28

『論語』二倍年暦説の史料根拠(3)

 わたしは「周代」史料の年齢記事は基本的に二倍年暦で表記されていると考えていますが、同時に後代の編纂時に一倍年暦に書き換えられる可能性もあることを指摘しました。たとえば『春秋左氏伝』などは一倍年暦で編年表記されていると関西例会で述べました。この点は谷本茂さんからも指摘された通りです。そこで、「周代」史料に一倍年暦と二倍年暦のものがあることについて、その史料状況が何を意味するのかについて説明します。
 おおよその目検討ですが、わたしは二倍年暦から一倍年暦への公権力による暦法変更は秦の始皇帝による度量衡の統一の頃に行われたのではないかと推定しています(今のところ史料根拠は見つけられていません)。そのため、「周代」の記録や伝承が一倍年暦の時代の漢代で編纂される際に、暦日記事が書き換えられる可能性があります。
 そうしたことから、漢代成立史料に「百歳」とかの二倍年暦による「長寿」記事が散見されるという史料状況が発生します。逆から言えば、周代における二倍年暦の存在がなければ、そのような史料状況は発生しません。すなわち、もし周代からずっと一倍年暦であれば、漢代に成立した「周代」史料に「百歳」などという長寿記事は空想の産物でもなければ出現できないのです。
 ところが「周代」史料に散見する「百歳」などの超長寿記事は通常の会話(説話)部分にも出現しており、当時の人々の普通の認識として語られています。たとえば、孔子の弟子の曾子の会話として次のような記事が『曾子』に見えます。

 「人の生るるや百歳の中に、疾病あり、老幼あり。」(『曾子』曾子疾病)

 この記事は「曾子曰く」で始まり、曾子が親孝行について述べたもので、その普通の会話中に「人の生るるや百歳の中」という普通の人を対象にした発言です。従って、当時の一般的な人間の二倍年暦による「百歳(一倍年暦の五十歳)」の人生中に「疾病あり、老幼あり。」と記していることからも、孔子の弟子の曾子は二倍年暦により寿命や年齢を認識していたと考えざるをえません。この史料事実から、曾子の師である孔子も二倍年暦により年齢を認識をしていたと考えるのが真っ当な文献理解のあり方なのです。(つづく)


第1658話 2018/04/24

『論語』二倍年暦説の史料根拠(2)

 わたしは、『論語』(孔子〔紀元前552〜479年〕)の時代の前後に相当する「周代」史料に二倍年暦が採用されていれば、その「周代」に位置する『論語』も二倍年暦と考えるべきとしたのですが、史料根拠は次のような「周代」史料でした。

■『管子』(春秋時代〔?〜紀元前645年〕、管仲の作とされる)
「召忽曰く『百歳の後、わが君、世を卜る。わが君命を犯して、わが立つところを廃し、わが糺を奪うや、天下を得といえども、われ生きざるなり』。」(大匡編)

■『列子』(春秋戦国時代〔紀元前400年頃〕の人、列禦寇の書とされる)
「人生れて日月を見ざる有り、襁褓を免れざる者あり。吾既に已に行年九十なり。是れ三楽なり。」(「天瑞第一」第七章)
「林類年且に百歳ならんとす。」(「天瑞第一」第八章)
「穆王幾に神人ならんや。能く當身の楽しみを窮むるも、猶ほ百年にして乃ち徂けり。世以て登假と為す。」(「周穆王第三」第一章)
「役夫曰く、人生百年、昼夜各々分す。吾昼は僕虜たり、苦は則ち苦なり。夜は人君たり、其の楽しみ比無し。何の怨む所あらんや、と。」(「周穆王第三」第八章)
「太形(行)・王屋の二山は、方七百里、高さ萬仞。本冀州の南、河陽の北に在り。北山愚公といふ者あり。年且に九十ならんとす。」(「湯問第五」第二章)
「百年にして死し、夭せず病まず。」(「湯問第五」第五章)
「楊朱曰く、百年は壽の大齊にして、百年を得る者は、千に一無し。」(「楊朱第七」第二章)

■『荘子』(紀元前369〜286年頃の人、荘周の書とされる)
 「今、吾れ子に告ぐるに人の情を以てせん。目は色を視んと欲し、耳は声を聴かんと欲し、口は味を察せんと欲し、志気は盈(み)たんと欲す。人、上寿は百歳、中寿は八十、下寿は六十。病瘻*(びょうゆ)・死喪(しそう)・憂患(ゆうかん)を除けば、其の中、口を開いて笑う者、一月の中、四、五日に過ぎざるのみ。天と地とは窮まりなく、人の死するは時あり。時あるの具(ぐ)を操(と)りて、無窮の間(かん)に託す、忽然(こつぜん)たること騏驥(きき)の馳(は)せて隙(げき)を過ぐるに異なるなきなり。」(盗跖(とうせき)篇第二十九)
 ※病瘻*(びょうゆ)の 瘻*は、強いて言えば、やまいだれ編に由の下に八。(表示できない。)

■『荀子』(周代末期の人、荀況〔紀元前313?〜238年〕の思想を伝えたもの)
 「八十の者あれば一子事とせず。九十の者あれば家を挙(こぞ)って事とせず。」(巻第十九、大略篇第二十七)
【通釈】八十の老人がいる家ではその子供一人は力役につかなくてよい。九十の老人がいれば家中みな力役につかなくてよい。
 「古者、匹夫は五十にして士(つか)う。天子諸侯の子は十九にして冠し、冠して治を聴く其の教至ればなり。」(巻第十九、大略篇第二十七)
【通釈】むかし、一般の人民は五十歳になってから仕官したが、天子や諸侯の子は十九歳になると〔一人前の男子として元服して〕冠をつけ、冠をつけると政治をとったが、それはその教養が十分に身についていたからである。

■『礼記』(周代から漢代の儒教関係の書を編集したもの。前漢代の成立か。)
 「人生まれて十年なるを幼といい、学ぶ。二十を弱といい、冠す。三十を壮といい、室有り(妻帯)。四十を強といい、仕う。五十を艾といい、官政に服す。六十を耆といい、指使す。七十を老といい、伝う。八十・九十を耄という。七年なるを悼といい、悼と耄とは罪ありといえども刑を加えず。百年を期といい、やしなわる。」(曲礼上篇)

■『曾子』
 「三十四十の間にして藝なきときは、則ち藝なし。五十にして善を以て聞ゆるなきときは、則ち聞ゆるなし。七十にして徳なきは、微過ありと雖も、亦免(ゆる)すべし。」(曾子立事)
 「人の生るるや百歳の中に、疾病あり、老幼あり。」(曾子疾病)
 ※各著者生没年はウィキペディアを参照したが、諸説あり、大まかな先後関係の理解のために記した。周代の二倍年暦採用が正しければ、これら年代の西暦との対応も見直さなければならない。

 以上の用例が示すように、『管子』をはじめ『荀子』『礼記』に至るまで、「周代」史料の「年齢記事」が基本的に二倍年暦で著されていることは、まず動かないとわたしは判断しました。したがって、“『論語』だけは一倍年暦で記述されていた”と理解する方が不自然であり、どうしても「不自然だが一倍年暦の可能性が高い」と主張したいのであれば、そう主張する側に論証責任が発生します。
 関西例会でも繰り返し説明したことですが、わたしは『論語』の年齢記事は二倍年暦とした方がよりリーズナブルであると考えていますが、『論語』の年齢記事だけから『論語』二倍年暦説を唱えたわけではありませんので、この点は誤解の無いようにお願いします。
 なお、ここで紹介した「周代」史料とは、必ずしも周代で成立したというわけではなく、周代の説話や史料に基づいて、後の漢代に成立した史料を含みますが、具体的な年齢記事は周代の記録をそのまま採用したと考えています。なぜなら、成立時代(一倍年暦の時代)の寿命の二倍の年齢にわざわざ換算し、当時としては不自然な長寿年齢(百歳など)に書き換える必要や必然性はないからです。逆に、その当時の一倍年暦の認識により、「百歳」とあった「周代」史料の年齢記事を不審として、「五十歳」と一倍年暦に換算することはあり得ます。その場合は、「周代」史料でありながら、年齢記事は換算修正された一倍年暦表記となります。(つづく)


第1657話 2018/04/23

『論語』二倍年暦説の史料根拠(1)

 先日開催された「古田史学の会」関西例会で、わたしから「『論語』二倍年暦説の論理構造」を発表したのですが、批判意見が出され激しい論争となりました。そのときの主な批判意見の一つとして、『論語』そのものからは二倍年暦との論証は成立しておらず、『論語』の時代の前後の「周代」史料(『管子』『列子』)に二倍年暦が採用されていても、『論語』が二倍年暦で記されているとは限らないというものでした。
 わたしの理解では、『論語』の前後に相当する「周代」史料に二倍年暦が採用されていれば、その間に位置する『論語』も二倍年暦と考えるのが「周代」史料に対する基本的理解であり、『論語』だけは一倍年暦のはずとする側に論証責任が発生すると考えています。しかし、関西例会での論争(わたしからの説明)では納得していただけなかったため、それではどのような史料や論理性を提示すれば説得できるだろうかと、帰りの京阪電車の車中で思案しました。
 関西例会では激しい論争がよく勃発するのですが、大半はわたしが論争の当事者です。論争の結果、わたしが間違っていると気づけば自説を撤回し、どちらが正しいか判断がつかない場合はペンディングして、勉強を続けます。また、自分が正しいと思うが、相手を納得させることができなかった場合は、一人で「反省会」を行い、どうすれば納得させることができるのか、自分の説明のどこが不十分・不適切であったのかを考えるようにしています。
 学問研究とはこのようにして深化発展するものと確信していますし、異なる意見が出され、論争や検証が行われることこそが大切と思っています。誰からも疑問や反対意見が出なければ、その学問・学説はその時点で発展が止まります。ですから、批判や異なる意見が出され、頻繁に論争が勃発する関西例会とその参加者をわたしは誇りに思っています。(つづく)


第1601話 2018/02/04

『論語』二倍年暦説の論理構造(8)

 中村さんが「孔子の二倍年暦についての小異見」において、50歳を越える古代人が20%以上いたとされた考古学的根拠は次の二つの文献でした。その要旨を同稿の「注」に中村さんが引用されていますので、転載します。

【以下、転載】
注1 日本人と弥生人 人類学ミュージアム館長 松下孝幸 一九九四・二 祥伝社
p一六九〜p一七二 死亡時年齢の推定 要旨
【骨から死亡時の年齢を推定するのは性別判定よりさらに難しい。基本的には、壮年(二〇〜四〇)、熟年(四〇〜六〇)、老年(六〇〜 )の三段階のどこに入るのか大まかに推定できる程度だと思った方がよい。ただし、十五歳くらいまでは一歳単位で推定することも可能。子供の年齢判定でもっとも有効な武器は歯である。一般的に大人の年齢判定でもっとも頼りにされているのは頭蓋である。頭蓋には縫合という部分がある。縫合は年齢と共に癒合していって閉鎖してしまう。その閉鎖の度合いによって先ほど上げた三つのグループに分類するのである。これは単に壮・熟・老というだけではなく、「熟年に近い壮年」、「老年に近い熟年」といったレベルまでは推定することができる。

注2 日本人の起源 古代人骨からルーツを探る 中橋孝博 講談社 選書メチエ 二〇〇五・一
 中橋氏はこの本の中で、「弥生人の寿命」という項で大約次のように言います。
 『人の寿命の長短は子供の死亡率に左右される。古代人の子供の死亡状況を再現することは特に難しい作業である。寿命の算出には生命表という、各年齢層の死亡者数をもとにした手法が一般的に用いられるが、骨質の薄い幼小児骨の殆どは地中で消えてしまうために、その正確な死亡者数が掴めない。中略 甕棺には小児用の甕棺が用いられ、中に骨が残っていなくても子供の死亡者数だけは割り出せる。図はこのような検討を経て算出した弥生人の平均寿命である。もっとも危険な乳幼児期を乗り越えれば十五歳時の平均余命も三十年はありそうである。』
【転載終わり】

 そして、中村さんは根拠とされたグラフに次のような説明を付されています。
 「この生存者の年齢推移図からは、弥生人の二〇%強が五十歳以上生きていたことを示しています。」

 わたしはこの「注」の解説を読み、中村稿に掲載された「生存者の年齢推移図」グラフを仮説の根拠に用いるのは危険と感じました。わたしの本職は有機合成化学ですが、研究開発などでデータ処理と解析を行う際、データが示す数値からの実証的な判断だけではなく、そのデータは何を意味するのかということを論理的に深く考える訓練を受けてきました。その経験から、同グラフに対して違和感を覚えたのです。理由を説明します。

①松下氏は「骨から死亡時の年齢を推定するのは性別判定よりさらに難しい」とされる。この点はわたしも同意見。
②そして、「壮年(二〇〜四〇)、熟年(四〇〜六〇)、老年(六〇〜 )の三段階のどこに入るのか大まかに推定できる程度」とされる。
③弥生の出土人骨の年齢を三段階に大まかに分けるという手法も理解できる。
④しかし、その三段階の年齢は何を根拠に(二〇〜四〇)(四〇〜六〇)(六〇〜 )と設定されたのかが不明。
⑤出土人骨の相対的な年齢比較はある程度可能と思われるが、その人骨が何歳に相当するのかの測定が困難であることは、①の記事からもうかがえる。寡聞にして、出土人骨の年齢を的確に測定できる技術の存在をわたしは知らない。
⑥従って、弥生時代の壮年・熟年・老年の年齢設定が現代とは異なり、仮に(十五〜三〇)(三〇〜四〇)(四〇〜)だとしたら、この三段階にそれぞれの人骨サンプルを相対年齢判断によって配分すれば、その結果できるグラフは全く異なったものになる。
⑦他方、弥生時代の倭人の寿命を記す一次史料として『三国志』倭人伝がある。それには「その人寿考、あるいは百年、あるいは八、九十年」(二倍年暦)とある。これは倭国に長期滞在した同時代の中国人による調査記録であり、最も信頼性が高い。これによれば、倭人の一般的寿命は一倍年暦に換算すると40〜50歳である。
⑧また、周代の中国人の寿命を記す史料として、たとえば『列子』の次の記事がある。
 「楊朱曰く、百年は壽の大齊にして、百年を得る者は、千に一無し。」(「楊朱第七」第二章)
 百年(一倍年暦の50歳)に達する者は千人に一人もいないとの当時の人間の寿命について述べた記事である。
⑨これら文字記録による一次史料と考古学による推定年齢が異なっていれば、まず疑うべきは考古学「編年(齢)」の方である。
⑩中村さんが依拠したグラフでは、50歳が約20%、60歳が約10%、70歳超で0に近づく。もしこれが実態であれば、倭人伝の記述は「その人寿考、あるいは百二十年、あるいは九十、百年」(二倍年暦)とあってほしいところだが、そうはなっていない。
⑪また、50歳と60歳の区別がつくほどの人骨年齢測定精度があるのか不審とせざるを得ない。

 以上のように考えています。しかしながら、わたしは人骨年齢測定の専門家でもありませんので、専門家の意見を直接聞いてみたいと願っています。こうした理由により、このグラフを仮説(一倍年暦)の根拠にすることや、それに基づく中村さんのご意見にも賛成できないのです。さらに指摘すれば、『論語』の時代(周代)の中国人の寿命を論じる際に、地域も時代も異なる弥生時代の倭人の人骨推定年齢データを判断材料に用いる方法論にも問題なしとは言えません。
 以上、多岐にわたり論じましたが、拙論を批判していただいた中村さんに感謝申し上げ、最初のご指摘から9年も経っての応答となったことをお詫びします。(おわり)


第1600話 2018/02/04

『論語』二倍年暦説の論理構造(7)

 本シリーズも佳境に入ってきました。残された中村さんからの最大のご批判ご指摘にお答えします。これまでは文献史学の範囲内での応答でしたが、今回は考古学と文献史学の双方に関わる問題です。
 中村さんからの最大の指摘は、『論語』の時代の人間の寿命は50歳が限界ではなく、考古学的知見によれば日本列島の弥生人の寿命は「弥生人の二〇%強が五十歳以上生きていたことを示しています」(中村通敏「孔子の二倍年暦についての小異見」『古田史学会報』92号。2009年6月)という点でした。もちろん、50歳を越える古代人がいたことはあり得るとわたしも考えていますし、「仏陀の二倍年暦」でもそのことを示す記事を紹介してきました。たとえば次の記事などです。

○「是の時、拘尸城の内に一梵志有り、名づけて須跋と曰う。年は百二十、耆旧にして多智なり。」(『長阿含経』巻第四、第一分、遊行経第二)
○「昔、此の斯波醯の村に一の梵志有りき。耆旧・長宿にして年は百二十なり。」(『長阿含経』巻第七、第二分、弊宿経第三)
○(師はいわれた)、「かれの年齢は百二十歳である。かれの姓はバーヴァリである。かれの肢体には三つの特徴がある。かれは三ヴェーダの奥儀に達している。」(中村元訳『ブッダのことば スッタニパータ』岩波文庫、一九九九年版。)

 わたしと中村さんのご意見との最大の相違点は、この二倍年暦で100歳(一倍年暦の50歳)を越える古代人の存在を希(まれ)と考えるのか、20%はいたとするのかにあるようです。もちろん、わたしには50歳を越える長寿古代人がどのくらいの比率で存在したのかはわかりませんが、中村さんが依拠したデータや研究に疑問を抱いていましたので、数年前にお会いしたときに「グラフというものは必ずしも実態に合っているとも言えない」と中村さんにお答えしたものです。(つづく)