「 二倍年暦 」一覧

第1687話 2018/06/08

『大戴礼記』の「二倍年齢」

 先日、岡崎の京都府立図書館で『論衡』を閲覧したとき、『大戴礼記』(明治書院、新釈漢文大系)も斜め読みしました。というのも、『論衡』は後漢の王充の著作であり後漢代の知識人の認識を調べる上で参考になりましたが、前漢代の知識人の認識についても調べようと思い、『大戴礼記』も閲覧したものです。なお、『大戴礼記』は「だたいらいき」と訓まれています。
 『大戴礼記』は前漢の人、戴徳(生没年未詳)が撰したもので、周末、秦・漢の礼の制度や礼家の説を集めたものと同書解題には紹介されています。もと八十篇あったが、現在は四十篇が残されています。同書でわたしが注目したのが、古今の人の人生について述べた次の記事でした。

 「中古は男は三十にして娶(めと)り、女は二十にして嫁ぎ五に合するなり。中節なり。太古は男は五十にして室あり。女は三十にして嫁ぐ。」(「本命 第八十」『大戴礼記』514頁)

 前漢代ですから一倍年暦による「一倍年齢」が使用されていたことは『大戴礼記』の他の文章からも明らかですが、ここでいう「中古」と「太古」における男女の結婚年齢は注目されます。「中古」の男30歳、女20歳という結婚年齢は「一倍年齢」としては男の30歳が遅すぎるように思われますが、かといって「二倍年齢」とすれば女の20歳は「一倍年齢」では10歳となり、逆に若すぎます。
 ところが、「太古」の男50歳、女30歳の結婚年齢は「二倍年齢」表記とすれば、「一倍年齢」の男25歳、女15歳となり、とてもリーズナブルです。従って、『大戴礼記』にいう「太古」とは二倍年暦による「二倍年齢」が採用されていた時代であり、その痕跡がこの記事に残ったものと思われます。従って、この記事の文脈からは『大戴礼記』を篇した戴徳は二倍年暦や「二倍年齢」についての認識がなかったものと思われます。この推定によれば、前漢代の知識人には二倍年暦についての認識が既に失われていたことになりますから、二倍年暦から一倍年暦に変わったのは前漢代よりもかなり昔のことではないでしょうか。漢王朝成立により、その変化が発生したのであれば前漢代の知識人、戴徳がそのことを知らなかったとは考えにくいからです。
 そうすると、次に調べるべきは周代と前漢代の間に成立した中国古典となります。機会があればまた京都府立図書館にこもって、「新釈漢文大系」を渉猟(斜め読み)したいと思います。


第1686話 2018/06/06

『論衡』の「二倍年齢」(5)

 今回初めて『論衡』全文に触れて感じたのが、その行間から強烈な個性がにじみ出ていることでした。おそらく王充自身も強烈な個性の持ち主であったことを疑えません。たとえば孔子や儒家への容赦のない批判、しかも理屈っぽいと思うほど理詰めの論理展開。後漢代という古代中国にこれほど論理的に理詰めで物事を説明しようとする人は珍しいように思います。ある意味ではとても魅力的な人物です。
 他方、周代史料などに記された人の寿命「百歳」を王充は額面通り受けとり、「人は百歳(正命)まで生きる」と繰り返し主張するものの、後漢代の一般的な寿命「五十歳(随命)」との落差についての説明は論理的とは言えません。もちろんこの「論理的とは言えません」という批評は、現代日本のわたしの感想ですから、古代中国では別の感覚で受け止められていたことと思います。
 それでは、周代史料に見える二倍年暦による「二倍年齢」表記の「百歳」を、そのまま一倍年暦の「百歳」と認識していた王充その人は、何歳まで生きたのでしょうか。『論衡』末尾にある「自紀第八十五」に王充の略歴が王充自身により記されています。

 「建武三年、充生る。」(「自紀第八十五」『論衡』下巻、1806頁)

 とありますから、王充が生まれたのは建武三年(27)です。没年は『論衡』には記されていませんが、『後漢書』王充伝には永元年間(89〜104)に没したとありますから、没年齢は単純計算で63歳から78歳の間となります。還暦を超えており、当時としてはかなり長生きしたことになります。更に『論衡』「自紀第八十五」には次の記事が見え、これが誤記誤伝でなければ、70歳は越えていたことになります。

 「章和二年(88)、州を罷(や)め、家居す。年漸く七十」(「自紀第八十五」『論衡』下巻、1839頁)

 ようやく70歳になったと記されていますが、章和二年(88)では62歳ですから、文脈からすると不自然です。
 この最晩年の自らを綴った文章は更に続きます。難解な漢文ですので、わかりやすい〔通釈〕を引用します。
 「頭髪は白く歯は抜け、月日はどんどんゆき、仲間もいよいよいなくなり、頼みになる者も少なくなった。貧乏で食べてゆけなくなり、愉快な気持ちにもなれない。こよみの数もだんだん進み、庚寅の年(和帝永元二年、西紀九〇)と辛卯の年(永元三年、西紀九一)の界になった。死ぬのはこわいが、わが身はまだ元気にあふれている。そこで『養性の書』十六篇を書いた。気力を養って自分の身体を大切にし、食事を適量にし酒をほどほどにし、眼をつぶり耳をふさいで外界との接触を絶ち、精力を惜しんで気持ちを安定させ、ただ薬を飲んだり、導引法を補助としたりして、生命を延ばせるように、しばらくでも老いないようにと切望している。だがもう手後れで引き返しもならず、書物の中にそのことを書き、後世の者に示すことにした。ただ人の生命だけは、長短の差はあるにしても一定の期間があるし、人間も動物だから、生死に一定の時間がある。年暦が尽きてしまえば、だれがこれを引き留められようか。やはりあの世へいって、消えて土灰となろう。」(「自紀第八十五」『論衡』下巻、〔通釈〕1840〜1841頁)

 「七十歳」記事の後に「庚寅の年(和帝永元二年、西紀九〇)と辛卯の年(永元三年、西紀九一)の界になった」という記事が続きます。この年、王充は64〜65歳に相当することから、先の「七十歳」記事はやはり不自然で、誤記誤伝の可能性がうかがわれます。こうした記事から判断すると、王充の没年齢は60歳代後半と見てよいようです。
 この最晩年の王充の記事には、自らの寿命が100歳(正命)に至りそうにないことへの王充らしい「解説」が記されています。その場合、自らの「性」が「正」ではないことになりますが、そのことには触れず、「人の生命だけは、長短の差はあるにしても一定の期間があるし、人間も動物だから、生死に一定の時間がある。年暦が尽きてしまえば、だれがこれを引き留められようか」と述べるにとどまっています。人の寿命として「百歳(正命)」を一貫して主張した王充でしたが、その寿命(65〜70歳)は、周代史料に見える「百歳」が「二倍年齢」によることを結果として証明したようです。これからも王充の思想に迫るために『論衡』を再読三読したいと思います。
 『論衡』の最後を締めくくった王充の次の言葉を紹介し、本テーマを一旦終わります。

 「命以不延、吁嘆悲哉。」〔命以(すで)に延びず、吁嘆(ああ)悲しいか哉(かな)〕(「自紀第八十五」『論衡』下巻、1840頁)


第1685話 2018/06/05

『論衡』の「二倍年齢」(4)

 周代史料に見える二倍年暦による「二倍年齢」表記の「百歳」を、そのまま一倍年暦の「百歳」と王充が誤認していたことを説明しましたが、それでは後漢時代の他の人々は周代史料などに見える「二倍年齢」表記の「百歳」をどのように認識していたのでしょうか。そのことをうかがわせる記事も『論衡』にありましたので、紹介します。

 「語に称す、『上世の人は、(イ同)長佼好にして、堅強老寿、百歳左右なるも、下世の人は、短小陋醜にして、夭折早死す。何となれば則ち、上世は和気純渥にして、婚姻時を以てし、人民は善気を稟(う)けて生れ、生れて又傷(そこな)はれず、骨節堅定、故に長大老寿にして、状貌美好なり。下世は此に反す、故に短小夭折し、形面醜悪なり』と。此の言は妄なり。」(「斉世第五十六」『論衡』中巻、1207頁)

 世間の人が「大昔の人は身長も高く、体格もよく百歳くらいの長寿で姿も美しいが、後世の人は身長が低く醜悪で早死にする。」などというのは妄言であると王充が批判した記事です。この後、王充は延々と反論を述べ、後世の人の身長が低いということには根拠がなく、また百歳まで生きると主張しています。その反論には論理的な面もありますが、「百歳」まで生きることの理由については説得力ある反論になっていません。
 この記事でわたしが注目したのは「大昔の人は身長も高く、体格もよく百歳くらいの長寿で姿も美しいが、後世の人は身長が低く醜悪で早死にする。」という当時の人々の認識です。既に説明したように、当時の人の一般的な寿命は五十歳(随命)と推定されますから、周代史料などに記された「二倍年齢」の「百歳」表記を一倍年齢で理解してしまうと、大昔の人よりも後世(後漢時代)の人の方が「夭折早死」となってしまうわけです。
 更に身長も低くなっていると認識されていることも、殷代や周代と後漢代の「尺」単位が変化していることによると思われます。殷の牙尺は一尺約16cm、周代の1尺は約18.4cm、後漢・前漢代は約23cmでとされていることから(異説あり)、たとえば身長160cmの表記は殷代では約「十尺」、周代では約「九尺」、前漢代・後漢代では約「七尺」と表記されますから、「尺」単位の歴史的変遷を知らなければ、大昔(殷代・周代)の人よりも今(後漢代)の人の方が「短小」と誤解されてしまうわけです。
 以上のことから、後漢代の人々(知識人)には「二倍年暦」やそれに基づく「二倍年齢」、そして「尺」単位の変化が忘れ去られていたことがうかがえます。周代史料の多くが漢代に集録・編纂されていることを考えると、この誤解と、その結果引き起こされる周代史料への誤解釈や改変が発生しうることに留意した史料批判が必要です。(つづく)


第1683話 2018/06/03

『論衡』の「二倍年齢」(3)

 後漢時代の人の一般的寿命を推定できそうな次の記事が『論衡』に見えます。

 「正命は百に至って死す。随命は五十にして死す。遭命は初めて気を稟(う)くる時、凶悪に遭ふなり」(「命義第六」『論衡』上巻、100頁)

 この記事は先に紹介しましたが、ここに見える「随命は五十にして死す」にわたしは注目しました。この「正命」や「随命」に関して次のような説明が続きます。

 「亦、三性有り、正有り、随有り、遭有り。正は五常の性を稟くるものなり。随は父母の性に随(したが)ふものなり、遭は悪物の象に遭得するもの故なり。」(「命義第六」『論衡』上、100頁)

 新釈漢文大系の説明によれば、「五常」とは「仁義礼智信の常に行うべき五つの道」で、「正命(百歳)」を得るのはこうした性質を受けた者であり、父母に従った性質は随であり、その「随命」は五十歳とされています。「遭命」は生まれながらの疾患や不慮の事故による夭折と説明されています。
 この理解に立てば、普通に父母の性を継いでいれば「随命(五十歳)」ですから、後漢時代の普通の人の一般的な寿命が五十歳であることを前提にした理解と思われます。従って、後漢時代の人の一般的寿命は五十歳(随命)と認識されていたと考えられます。
 この五十歳は二倍年暦の「百歳」に相当しますから、周代でも後漢代でも人の一般的な寿命は一倍年暦の五十歳と認識されていたことになります。その上で、王充は周代史料に見える二倍年暦による「二倍年齢」表記の「百歳」を、そのまま一倍年暦の「百歳」と誤認してしまったために、当時の一般的な人の寿命である五十歳を「随命」と定義し、到底あり得ない「百歳」を「正命」と定義したものと思われます。すなわち、後漢代の王充は周代の「二倍年暦」やそれに基づいた「二倍年齢」という概念を知らなかったと思われるのです。(つづく)


第1682話 2018/06/03

『論衡』の「二倍年齢」(2)

 とうてい百歳まで生きられる人はいなかったと思われる後漢時代の王充が、なぜ人の寿命を「百歳」と理解していたのでしょうか。『論衡』を精査した結果、王充は同時代の人間の寿命を根拠に実証的に「百歳」という寿命を主張したのではなく、古典などに伝えられた説話や伝承を根拠に、人間の本来の寿命(正命)を「百歳」と定義づけていたことがわかりました。それを示しているのが『論衡』の次の記事です。

 「何を以て人の年は百を以て寿となすを明らかにするや。世間に有ればなり。儒者の説に曰く、太平の時、人民は※(イ同)長にして百歳左右なるは、気和の生ずる所なり、と。」(「気寿第四」『論衡』上、74頁)
 ※「(イ同)長」とは丈(身長)が長いの意味。(イ同)は人偏に「同」。

 以下、堯の寿命が九八歳、舜は百歳、周の文王は九七歳、武王は九三歳、周公は百歳前後、周公の兄の邵公は百歳前後の例を並べ、さらには老子は二百余歳、邵公は百八十歳、殷の高宗や周の穆王は百三十・百四十歳以上とする伝承をあげています。このように、王充は後漢時代の人々の寿命ではなく、二倍年暦などで伝承された周代やそれ以前の「二倍年齢」記事などを根拠に人の本来の寿命(正命)を「百歳」と主張していたのでした。
 それでは後漢時代の人の一般的寿命は何歳と王充は認識していたのでしょうか。直接的には記していませんが、そのことを推測できる記事が『論衡』にはありました。(つづく)


第1681話 2018/06/02

『論衡』の「二倍年齢」(1)

 今日は久しぶりに岡崎の京都府立図書館に行き、『論衡』と『大載礼記』(新釈漢文大系。明治書院)を閲覧しました。好天に恵まれ、平安神宮の朱の鳥居が青空に映えてとてもきれいでした。
 後漢時代の人、王充の『論衡』は古田先生も度々著書で取り上げられていますから、古田ファンや古田学派の研究者にはお馴染みでしょう。今回、わたしは『論衡』の全容に初めて接したのですが、その目的は後漢代の知識人が二倍年暦や「二倍年齢」についてどのように認識していたのか、あるいはそれらの痕跡が『論衡』にあるのかの調査でした。『論衡』は新釈漢文大系本でも三巻あり、全巻読破は大変でしたが、何とか斜め読みすることができました。
 一読して驚いたのですが、『論衡』中に人の寿命として「百歳」という記述が散見され、一倍年暦を採用していた後漢代でも、人の寿命については「二倍年齢」で表記するケースがあったのかと一瞬勘違いしたほどです。たとえば次のような記事です。

 「百歳の命は、是れ其の正なり。百に満つる能はざる者は、正に非ずと雖も、猶ほ命と為すなり。」(「気寿第四」『論衡』上巻、72頁)
 「正命は百に至って死す。随命は五十にして死す。遭命は初めて気を稟(う)くる時、凶悪に遭ふなり」(「命義第六」『論衡』上巻、100頁)

 しかし、『論衡』の他の具体的な人物の年齢記事を見る限り、一倍年暦に基づく「一倍年齢」と思われ、ここでは王充が当時の人の寿命として「百歳」と記していることを不思議に思いました。いくらなんでも後漢代の人間が百歳まで生きられるとは考えられないからです。しかも『論衡』では特別な長寿記事として「百歳」と記しているわけではありません。それは「一般論」であるかのように「百歳」と繰り返し記されているのです。
 新釈漢文大系の解説によれば、「人間の命は、気の厚薄によって左右されるもので、ふつうの人の(寿)命は百歳をもって正数とすることを、古代の聖王の例を引き論証している。」とあります。(つづく)


第1666話 2018/05/09

『論語』二倍年暦説の史料根拠(8)

 今回は文献史学や古典の史料批判というテーマから離れて、そもそもなぜ『論語』二倍年暦説への批判が発生するのかという現代日本人の認識について考えてみることにします。
 わたしの『論語』二倍年暦説に反対される方々には通底する「共通誤解」があるのではないでしょうか。それは紀元前数百年頃の周代においても「70歳や80歳を越える長寿の人は少なからず存在していた」とする考えが暗黙のあるいは明確な前提となっていると思われるのです。はっきり言って、この認識は学問的根拠を持たない「錯覚」ではないかとわたしは思っています。かく言うわたしも同様に錯覚していました。
 わたしは古代における二倍年暦の研究過程で、周代のような紀元前数百年頃の人間の寿命は50歳かせいぜい60歳までで、それを越えるケースは極めて希ではないかと考えるようになりました。その理由の一つは、「周代」史料の二倍年暦による高齢寿命記事は管見では「百歳(一倍年暦の50歳)」か「百二十歳(一倍年暦の60歳)」までであり、「百四十歳(一倍年暦の70歳)」「百六十歳(一倍年暦の80歳)」とするものが見えないことです。すなわち周代の人間の寿命は50〜60歳頃が限界のようなのです。
 他方、人類史上初の超長寿社会(平均寿命は女性87.14歳、男性80.98歳。2016年厚生労働省調査)に突入した現代日本に生きるわたしたちが、人間の寿命が古代においても70歳や80歳に及ぶ例が少なからずあったのではないかと錯覚するのも無理からぬことですが、その日本においても平均寿命が50歳を越えたのはそれほど昔のことではありません。このことを説明した武田邦彦さん(中部大学教授)の著書を紹介します。

 「1920年代前半の日本人の平均寿命は男性が42.1歳、女性は43.2歳でした。赤ちゃんのときに他界する方を除いても50歳には達しません。江戸時代には45歳くらいで隠居するのが普通でしたが、昭和になっても50歳を越えたら確実に『老後』でした。」(武田邦彦『科学者が解く「老人」のウソ』産経新聞出版、2018年3月)

 このように大正から昭和初期の日本でもこれが実態でした。紀元前数百年頃の周代の実状はおして知るべしです。(つづく)

〔余談〕二倍年暦問題とは別に、武田邦彦さんの『科学者が解く「老人」のウソ』はお勧めです。特に50歳(一倍年暦の)を越えた男性の方に一読を勧めます。


第1665話 2018/05/07

『論語』二倍年暦説の史料根拠(7)

 関西例会で出された『論語』二倍年暦説への批判として、周代や「周代」史料が二倍年暦であったとしても、『論語』の年齢記事が二倍年暦かどうか論証されていないというものがありました。たとえば「周代」史料である『春秋左氏伝』が一倍年暦による編年体史料であることは、わたしも知っていましたし、谷本さんからも同様の指摘が関西例会でなされていました。こうした「周代」史料に一倍年暦のものがある理由について、わたしと谷本さんとでは見解が異なっていましたが、同時に同じような認識の部分もありました。今回はこのことについて説明します。
 わたしが二倍年暦の研究をしていて、いつも悩まされる問題がありました。それは二倍年暦から一倍年暦への変化に伴って発生する「二倍年齢」という概念でした。すなわち、天文観測技術の発展により、一年を360日(より正確には365日)とする一倍年暦が発明され、公権力により一倍年暦の暦法が採用されたのですが、このとき人間の年齢だけは従来の二倍年暦で計算するという「二倍年齢」が、一倍年暦の暦法と共に併存するという現象が発生しうるという問題です。一倍年暦を採用した公権力が年齢計算でも一倍年暦を同時に採用していればことは簡単なのですが、今までの研究結果からは「一倍年暦暦法下の二倍年齢表記」という史料痕跡が存在しており、当テーマの『論語』についても、その可能性をどのように論理的に排除できるのかという視点が必要となります。『春秋左氏伝』も同様の問題を抱えています。
 一例をあげれば、記紀に記された継躰天皇の寿命が『古事記』では42歳(485-527)、『日本書紀』では84歳(450-534)となり、継躰天皇の寿命が『古事記』との比較から『日本書紀』では二倍年暦に基づいて記された痕跡を示しています。すなわち、『日本書紀』に見える継躰の生年が二倍年齢により没年から逆算して記されたと思われます。しかし、『日本書紀』は一倍年暦で編年されていますし、継躰天皇の時代であれば、九州王朝は年号を建元しており、当時採用していた暦法が一倍年暦であったことを疑えません。
 この史料事実は、暦法は一倍年暦の時代でも、人の年齢は二倍年暦を淵源とする「二倍年齢」で計算され伝承されたことを示しているのです。すなわち、一倍年暦と「二倍年齢」併存の可能性を疑うという視点が、二倍年暦研究における史料批判には必要ということなのです。『論語』の史料批判においても、この問題があるため、わたしは『論語』の年齢記事が二倍年暦で理解したほうがリーズナブルであること、弟子の曾参が二倍年暦による年齢理解で語っていることなどを根拠として説明してきたわけです。(つづく)


第1663話 2018/05/02

『論語』二倍年暦説の史料根拠(6)

 関西例会で出された『論語』二倍年暦説への批判として、わたしの理解では二種類がありました。一つは、周代が二倍年暦かどうか証明できていない、「周代」史料の長寿記事は実際の年齢ではないとする解釈も可能、というものです。もう一つは、周代や「周代」史料が二倍年暦であったとしても、『論語』の年齢記事が二倍年暦かどうか論証されていない、という批判です。
 今回は二つ目の批判に対して検討してみます。確かに『論語』中に年齢記事はそれほど多くなく、一倍年暦で70歳(孔子の年齢記事)の当時としては長寿の人がたまたまいたという解釈も可能だからです。こうした反論をわたしが想定していたことは、『論語』二倍年暦説の論理構造として既に説明してきた通りです。そこで、今回は別の視点から『論語』の年齢記事が二倍年暦と理解すべき論理性(論証)について説明します。
 たとえば孔子の弟子の曾参が二倍年暦で語っていた根拠として、次の記事を紹介しました。

 「人の生るるや百歳の中に、疾病あり、老幼あり。」(『曾子』曾子疾病)

 これ以外に、『曾子』には次の年齢記事が見えますが、先の記事が二倍年暦であれば、これも二倍年暦記事と考えなければなりません。

 「三十四十の間にして藝なきときは、則ち藝なし。五十にして善を以て聞ゆるなきときは、則ち聞ゆるなし。七十にして徳なきは、微過ありと雖も、亦免(ゆる)すべし。」(『曾子』曾子立事)

 大意は、30〜40歳で無芸であったり、50歳で「善」人として有名でなければ大した人間ではないというものですが、これは二倍年暦による年齢表記となりますから、一倍年暦の15〜20歳、25歳ということになります。これと類似した「人物評価」が『論語』にも見えます。「後生畏るべし」の出典となった次の記事です。

「子曰く、後生畏る可し。焉んぞ来者の今に如かざるを知らんや。四十五十にして聞こゆること無くんば、斯れ亦畏るるに足らざるのみ。」(『論語』子罕第九)

 この記事も40歳50歳になっても名声が得られないようであれば、とるに足らない人間であるという趣旨で、先の『曾子』と同じように40〜50歳(一倍年暦の20〜25歳)が人間評価の年齢基準としています。従って、先の『曾子』の記事が二倍年暦であることから、この『論語』の記事も二倍年暦で語られたと理解すべきです。また、記事の内容から考えても、当時の古代人にとって50歳は一般的には「寿命の限界」、あるいは高齢ゾーンであり、そうした「最晩年」に名をなしていなければ畏るるにたらない、というのでは全くナンセンスです。このことをわたしは『論語』二倍年暦説の史料根拠と指摘してきましたし、古田先生も同様の見解を発表されています(『古代史をひらく』ミネルヴァ書房、243頁)。
 以上の論理性により、『論語』も二倍年暦で記されているとするのが穏当な史料理解であり、有力説と思います。(つづく)


第1661話 2018/04/30

『論語』二倍年暦説の史料根拠(5)

 今回は「周代」史料の「百歳」記事が、わが国ではどのようにとらえられていたのかについてご紹介します。
 わたしが、九州年号研究において江戸時代の学者たちが九州年号をどのようにとらえていたのかの調査で、筑前黒田藩の儒者、貝原益軒の著作を調べていたときに次の記事に注目しました(貝原益軒は九州年号偽作説)。

 「人の身は百年を以て期(ご)となす。上寿は百歳、中寿は八十、下寿は六十なり。六十以上は長生なり。世上の人を見るに、下寿をたもつ人すくなく、五十以下短命なる人多し。人生七十古来まれなり、といへるは、虚語にあらず。長命なる人すくなし。五十なれば不夭と云て、わか死にあらず。人の命なんぞ如此(かくのごとく)みじかきや。是(これ)、皆、養生の術なければなり。」(『養生訓』巻第一)

 この「人の身は百年を以て期(ご)となす」という益軒の認識は「周代」史料に基づいています。たとえば『礼記』に次の記事が見えます。

 「百年を期(ご)といい、やしなわる。」(『礼記』曲礼上篇)

 また「上寿は百歳、中寿は八十、下寿は六十なり」も「周代」史料の『荘子』の次の記事によると思われます。

 「人、上寿は百歳、中寿は八十、下寿は六十。」(盗跖(とうせき)篇第二十九)

 筑前黒田藩の儒者である貝原益軒が、これら儒教の古典を知らなかったとは万に一つも考えられません。『養生訓』の記事から判断すると、益軒は「周代」史料に見える「百歳」などの超長寿記事が二倍年暦とは考えもつかなかったようで、そのため「世上の人を見るに、下寿をたもつ人すくなく、五十以下短命なる人多し」と記したのでしょう。
 先に紹介した『黄帝内経素問』の「年半百(五十歳)」という表現と同様に、ここでも「周代」史料の「百歳」記事に対してちょうど半分の「五十以下短命なる人多し」としており、江戸時代の日本人の一般的な寿命が50歳以下と認識されていたことがわかります。これら『黄帝内経素問』『養生訓』の記事によれば、中国の周代から日本の江戸時代に至るまで、人間の一般的な寿命が50歳と認識されており、現代日本という人類史上初の長寿社会に生きているわたしたちは、この寿命の推移に留意する必要があります。現代の寿命認識で古典の年齢記事を理解することは危険です。(つづく)