二倍年暦一覧

第2377話 2021/02/11

『史記』天官書、「中宮」か「中官」か(6)

 本シリーズでは『史記』天官書の原文が「中宮」か「中官」かという問題を扱ってきましたが、このような場合は通常の文献研究では原本調査や原本に近い写本・刊本の調査を真っ先に行うのですが、『史記』に関してはそうした基本的な調査がかなり困難なのです。というのも、今から二千年以上前に竹簡に書かれたものですから、原本はもとより、それに近い写本・刊本の遺存など望むべくもないからです。
 そのため、はるか後世の注釈書に記された『史記』本文部分の記録によらなければなりません。しかもその注釈書は、現存最古のものでも南宋代まで時代が下がるという状況です。それならばその南宋版の現物を見たいと思い、調べたところ、なんとわが国にあることがわかりました。
 それは「南宋慶元黄善夫本」と呼ばれており、国宝に指定されていました。国宝なので現物は無理でしょうから、その影印本だけでもなんとかして見たいと思い、京都府立図書館の館員さんに調査を頼み込んだところ、何と自宅のパソコンからweb上で閲覧可能であることを突き止めていただいたのです。丁重に館員さんにお礼を述べ、急いで自宅に戻り、パソコンで検索しました。それは国立歴史民俗博物館のホームページに収録されており、全巻の閲覧が可能でした。URLは下記の通りです。

https://khirin-a.rekihaku.ac.jp/database/sohanshiki
国立歴史民俗博物館 データベース

 同サイトには「南宋慶元黄善夫本」について次の解説がありましたので転載します。なお、こうしたことは中国古典の研究者・専門家には常識のことと思います。

【以下、転載】
 南宋時代(南宋慶元年間(1195~1201)刊か) 前漢の司馬遷(前135?~)による黄帝から漢代までの歴史書。「三史」と通称される『史記』『漢書』『後漢書』の一つ。全130巻からなり、本紀(帝王の事績)・表(年表)・書(制度沿革)・世家(諸侯の系譜と事績)・列伝(人物伝)の五部に分かれる。中国だけでなく日本でも必読書として重んじられた。これらは当初、竹木などに手書きされていたが、宋時代には書道大家の書風をまね、厳密な校正を加えた印刷出版物となり(宋版)、南宋時代には黄善夫のような民間の出版家も出現した。
 袋綴冊子本 印記「興学亭印」(朱方印) 「水光邱青」(黒印 朱印 青印)
史記集解・索隠・正義の三注合刻本で、全130巻完存した現存最古本。「建安黄善夫刊/于家塾之敬室」の刊記があり、建安(現在福建省)で刊行。石清水八幡宮耀清・月舟寿桂・直江兼続・上杉藩校興譲館伝来。
【転載おわり】

 同サイトで、真っ先に『史記』天官書を閲覧し、「中宮」「東宮」「西宮」「南宮」「北宮」「員官」「五官」の部分を調べたところ、その通りとなっていました。よって、明治書院版の『新釈漢文大系 史記』や大正時代に出版された『国譯漢文太成 経子史部 第十四巻』が正しいことが判明しました。そこで、現存版本による実証的な調査はこの辺で一応の終わりとなります。
 しかし、論証をより重視する学問としては、ここからが真の研究領域となります。それは、なぜ「中宮」「東宮」「西宮」「南宮」「北宮」の総称が「五宮」ではなく、「五官」とされているのかという問題の解明です。しかも現存最古とはいえ、「南宋慶元黄善夫本」は『史記』成立の約千三百年後の版本であり、しかも「宮」と「官」という、よく似た字体の使い分けを問題とするのですから、誤写誤伝の可能性と常に隣り合わせのテーマでもあり、真実解明は容易ではありません。(つづく)


第2364話 2021/01/31

二倍年齢研究の実証と論証(8)

 ―古代戸籍研究、実証主義の限界―

 『延喜二年(902)阿波国板野郡田上郷戸籍断簡』の超高齢者群の存在を史料根拠として、当時の日本人は長生きした人が多かったとする実証が成立しないことを本シリーズで説明してきましたが、同様に当時の阿波国では二倍年暦が採用されていた史料根拠とする単純な実証に使用できないことも明らかにしました。
 こうした経験があったため、わが国における現存最古の「大宝二年籍(702年)」の研究では用心深く取り組みました。というのも、「大宝二年籍」は「延喜二年籍(902年)」のような超高齢者群は見えませんが、それでも『大宝二年御野国戸籍』には『大宝二年筑前戸籍』よりも高齢者が多く(注①)、この現象に違和感を感じていました。ですから、この史料事実をもって御野国は九州地方よりも寿命が長かったとする実証の根拠にするのは学問的に危険と感じていました。
 更に、御野国戸籍にはもう一つの違和感、戸主と嫡子の年齢差が大きいという史料事実があり、この傾向は戸主が高齢である場合はより顕著に表れています。このことは古代戸籍研究に於いて、従来から指摘されてきたところです。たとえば、南部昇『日本古代戸籍の研究』(注②)では次のような指摘がなされています。

 「『大日本古文書』に記載されている八世紀前半の戸籍を検討してゆくと、第60図(三三三頁)に例示した型の戸がかなり多いことがわかる。これらの戸は戸主の余命幾許もないのにその嫡子はいまだ幼少である、という型の戸であるが、ここに揚げた例の外に、戸主と嫡子の年齢差が三十歳以上、四十歳以上と開いている戸は非常に多い。」(同書315頁)

 南部氏が非常に多いと指摘されたこの傾向は戸主以外にも見られ、たとえば「御野国加毛郡半布里戸籍」の「縣主族比都自」戸に次の「寄人縣主族都野」家族の記載があります。

 「寄人縣主族都野」(44歳、兵士)
 「嫡子川内」(3歳)
 「都野甥守部稲麻呂」(5歳)
 「都野母若帯部母里賣」(93歳)※「大宝二年籍」中の最高齢者。
 「母里賣孫縣主族部屋賣」(16歳)

 これを親子順に並べると、次の通りです。

 (母)「若帯部母里賣」(93歳)―(子)「都野」(44歳)―(孫)「川内」(3歳)
             ―(子)「(不記載)」―(孫)「稲麻呂」(5歳)
             ―(子)「(不記載)」―(孫)「部屋賣」(16歳)

 この母と子と孫の年齢差は49歳と41歳であり、異常に離れています。特に都野は母里賣49歳のときの子供となり、女性の出産年齢としては考えにくい超高齢出産です。また、二代続けて年齢差が異常に離れていることも不可解でした。(つづく)

(注)
①『大宝二年御野国戸籍』には、93歳の「若帯部母里賣」を筆頭として次の高齢者(70歳以上)が見える。
○味蜂間群春部里
 「戸主姑和子賣」(70歳)
○本簀群栗栖太里
 「戸主姑身賣」(72歳)
○肩縣群肩〃里
 「寄人六人部身麻呂」(77歳)
 「寄人十市部古賣」(70歳)
 「寄人六人部羊」(77歳)
 「奴伊福利」(77歳)
○山方群三井田里
 「下々戸主與呂」(72歳)
○加毛群半布里
 「戸主姑麻部細目賣」(82歳)
 「戸主兄安閇」(70歳)
 「大古賣秦人阿古須賣」(73歳)
 「都野母若帯部母里賣」(93歳)
 「戸主母穂積部意閇賣」(72歳)
 「戸主母秦人由良賣」(73歳)
 「下々戸主身津」(71歳)
 「下々戸主古都」(86歳)
 「戸主兄多比」(73歳)
 「下々戸主津彌」(85歳)
 「下中戸主多麻」(80歳)
 「下々戸主母呂」(73歳)
 「寄人石部古理賣」(73歳)
 「下々戸主山」(73歳)
 「寄人秦人若賣」(70歳)
 「下々戸主身津」(77歳)
 「戸主母各牟勝田彌賣」(82歳)
②南部昇『日本古代戸籍の研究』(吉川弘文館、1992年)


第2363話 2021/01/30

『大学章句』の学齢

 「洛中洛外日記」2360話(2021/01/27)〝『小学』の学齢〟で、南宋の朱熹が著したとされる『小学』(注①)に見える学齢について紹介しました。それは次のようなものでした。

○「六年にして之(これ)に數と方(東西南北)との名を教ふ。」『新釈漢文大系 小学』「立教第一」18頁
○「七年にして男女席を同じくせず、食を共にせず。」同上
○「八年にして門戸を出入し、及び席に卽(つ)きて飲食するに、必ず長者に後(おく)れしむ。始めて之に譲を教ふ。」同上
○「九年にして之に日を數ふるを教ふ。」同上
○「十年にして出(い)でて外傅(がいふ)に就き、外に居宿し、書計を学ぶ。」同19頁
○「十有三年にして楽を学び詩を誦(しょう)し勺(しゃく)を舞ふ。成童にして象を舞ひ射御を学ぶ。」同上
○「二十にして冠し、始めて禮を学ぶ。」同上

 続いて、同じく朱熹が著した、『大学』の注釈書『大学章句』(注②)にも学齢についての記事が見えます。なお、前漢代に成立したとされる『大学』(注③)そのものには学齢に関する記述は見えないようです。
 『大学章句』の序文「大学章句序」に次の記事があります。

○「人生まれて八歳なれば、則ち王公より以下庶人に至るまでの子弟は、皆小学に入る。而して之に教ふるに灑掃(さいそう)・應對・進退の節、禮・樂・射・御・書・數の文を以てす。」『新釈漢文大系 大学 中庸』「大學章句序」108頁
○「其の十有五年に及べば、則ち天子の元子(太子のこと)、衆子より、以て公卿・大夫・元士の適子(長子のこと)に至るまでと、凡民の俊秀とは、皆大學に入る。而して之を教ふるに理を窮(きわ)めて心を正し、己を修め人を治むるの道を以てす。此れ又學校の教、大小の節の、分かるる所以(ゆえん)なり。」同109頁

 先の『小学』の記事とは微妙に異なりますが、「小学」での修学開始年齢を八歳としていますから、これは二倍年齢で十六歳となり、『論語』に見える二倍年齢表記での「十有五歳で学に志す」と対応しています。このように、一倍年齢による「小学」での修学開始年齢「八歳」からも、『論語』の「十有五歳で学に志す」が二倍年齢であることを示しているわけです。
 他方、朱熹は「十有五歳」を「大学」への入学年齢としており、『論語』の「十有五歳で学に志す」に対応するものと認識している可能性もうかがえます。

(注)
①宇野精一著『新釈漢文大系 小学』明治書院、昭和40年(1965)。
②赤塚忠著『新釈漢文大系 大学 中庸』明治書院、昭和42年(1967)。
③同②。


第2362話 2021/01/29

二倍年齢研究の実証と論証(7)

 ―菅原道真と讃岐国の二倍年齢―

 『延喜二年(902)阿波国板野郡田上郷戸籍断簡』の超高齢者群の存在理由について、律令に規定された暦法(一倍年暦)とは別に、古い二倍年暦を淵源とする二倍年齢という年齢計算法が阿波地方の風習として存在していたとする仮説が理屈の上では成立しそうなため、そのことを実証できる史料痕跡を探し求めました。そうしたところ、九世紀末頃における二倍年齢の存在を示唆する史料がありました。阿波国のお隣の讃岐国での逸話です。
 それは、平安時代を代表する学者・詩人であり、政治家でもあった菅原道真の漢詩「路遇白頭翁」(路に白頭翁に遇ふ)です。道真は仁和二年(886年)から寛平二年(890年)までの四年間、讃岐国司の長官である讃岐守として讃岐で時を過ごしているのですが、それは延喜二年(902年)造籍の十年ほど前ですから、『延喜二年(902)阿波国戸籍』造籍とほぼ同時代です。
 『菅家文草』に収録されている「路遇白頭翁」は、讃岐の国司となった道真と道で出会った白髪の老人との問答を漢詩にしたもので、その老人は自らの年齢を「九十八歳」と述べたことから、道真は次のように問います。

 「その年で若々しい顔なのはどのような仙術ゆえか。すでに妻子もなく、また財産もない。姿形や精神について詳しく述べよ。」

 この問いによれば、都から讃岐に赴任した道真には、道で出会った老人がとても「九十八歳」には見えなかったことがうかがえます。わたしはこの「路遇白頭翁」の年齢記事と延喜二年『阿波国戸籍』の超長寿者を根拠に、九~十世紀の讃岐や阿波には二倍年暦(二倍年齢)が遺存していたとする研究「西洋と東洋の二倍年暦 補遺Ⅱ」を「古田史学の会」関西例会(2003年4月19日)で発表したことがありました。
 しかし、この頃の二倍年暦研究は初歩的な段階(高齢者史料の調査収集による実証)でしたので、偽籍の一手段として一倍年暦の『延喜二年阿波国戸籍』に二倍年齢が部分的に〝利用(併用)〟されているとする複雑な認識や論証には、とても思い至ってはいませんでした。すなわち、「学問は実証よりも論証を重んずる」という村岡典嗣先生の言葉を、二十年前のわたしには深く理解できていなかったのです。(つづく)


第2360話 2021/01/27

『小学』の学齢

 拙稿「古今東西の修学開始年齢」(注①)において、『論語』に見える「十有五にして学に志す」という孔子の述懐について、一倍年齢の十五歳では学を志すには遅すぎるので二倍年齢と考えた方が妥当であると、古典(『風姿華傳』『礼記』『国家』)に記された学齢と比較しながら論じました。先日、購入した『小学』(注②)にも学齢について詳述されていましたので紹介します。
 『小学』は南宋の朱熹が1187年に著したとされる儒教の教典ですが(注③)、周代史料の引用と解説が多く見られるので、12世紀の高名な儒者が周代史料、特にその年齢記事をどのように理解したのかを調べるために読んでみることにしました。また、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)が朱熹の『周易本義』の次の記事を二倍年暦実在の証拠とされたこともあり(注④)、南宋の大儒朱熹の認識に関心が高まってもいました。

 「閏とは、月の餘日を積んで月を成す者なり。五歳の間、再び日を積んで再び月を成す。故に五歳の中、凡そ再閏有り、然して後に別に積分を起こす。」朱熹『周易本義』

 今回読んだ『小学』にはいくつかの学齢に関する記事があります。それは次のようなものです。当該部分を抜粋します。

○「六年にして之(これ)に數と方(東西南北)との名を教ふ。」『新釈漢文大系 小学』「立教第一」18頁
○「七年にして男女席を同じくせず、食を共にせず。」同上
○「八年にして門戸を出入し、及び席に卽(つ)きて飲食するに、必ず長者に後(おく)れしむ。始めて之に譲を教ふ。」同上
○「九年にして之に日を數ふるを教ふ。」同上
○「十年にして出(い)でて外傅(がいふ)に就き、外に居宿し、書計を学ぶ。」同19頁
○十有三年にして楽を学び詩を誦(しょう)し勺(しゃく)を舞ふ。成童にして象を舞ひ射御を学ぶ。」同上
○二十にして冠し、始めて禮を学ぶ。」同上

 ここでの学齢は時代的にも内容的にも当然一倍年暦によるものです。六歳から数と方角の名を教えるのですから、現在の小学校入学年齢とほぼ同様です。そうすると、二倍年暦という概念を知らなかったであろう朱熹は、『論語』の「十有五にして学に志す」という孔子の言葉をどのように受け止めたのでしょうか。このことについての言及は『小学』には見当たりません。

(注)
①『東京古田会ニュース』に投稿中。内容は次の「洛中洛外日記」記事を加筆編集したものである。
2269話(2020/10/23)『論語』と『風姿花伝』の学齢(1)
2270話(2020/10/24)『論語』と『風姿花伝』の学齢(2)
2271話(2020/10/24)『論語』と『礼記』の学齢
2272話(2020/10/25)プラトン『国家』の学齢
2273話(2020/10/25)古代ギリシア哲学者の超・長寿列伝
②宇野精一著『新釈漢文大系 小学』明治書院、昭和40年(1965)。
③宇野精一氏による同書解題によれば、朱熹の友人の劉清之の原稿に朱熹が手を加えて撰定したしたものとある。
④西村秀己「五歳再閏」(『古田史学会報』一五一号 二〇一九年四月)。


第2354話 2021/01/18

古田武彦先生の遺訓(28)

―二倍年暦の「以閏月正四時」―

 『史記』「五帝本紀」で、堯(ぎょう)が定めたとする暦について、司馬遷は次のように記しています。

 「歳三百六十六日、以閏月正四時。」『新釈漢文大系 史記1』39頁、明治書院(注①)。

 この前半部分の「歳三百六十六日」が二倍年暦の影響を受けた表記であることを前話で説明しました。続いて、後半の「以閏月正四時(閏月を以て四時を正す」について考察します。平凡社の『史記』(注②)では、この部分を次の通り現代語訳しています。

 「一年は三百六十六日、三年に一回閏月をおいて四時を正した。」『中国古典文学大系 史記』上巻、10頁。(注②)

太陰太陽暦では、月の満ち欠けによる一箇月と太陽周期による一年を整合させるために、閏月を定期的に設ける必要があります。そのため、原文にはない「三年に一回」という閏月の周期を平凡社版『史記』には書き加えられたものと思われます。その〝出典〟は恐らく明治書院版『史記』の解説に見える次の記事ではないでしょうか(注③)。

 「○以閏月正四時 太陰暦では三年に一度一回閏月をおいて四時の季節の調和を計った。中国の古代天文学では、周天の度は三百六十五度と四分の一。日は一日に一度ずつ進む。一年で一たび天を一周する。月は一日に十三度十九分の七進む。二十九日半強で天を一周する。故に月が日を逐うて日と会すること一年で十二回となるから、これを十二箇月とした。しかし、月の進むことが早いから、この十二月中に十一日弱の差を生ずる。故に三年に満たずして一箇月のあまりが出る。よって三年に一回の閏月を置かないと、だんだん差が大きくなって四時の季節が乱れることになる。」『新釈漢文大系 史記1』41頁。

この閏月について、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)より、二倍年暦の閏月のことと思われる『周易本義』の次の記事が紹介されています。

 「閏とは、月の餘日を積んで月を成す者なり。五歳の間、再び日を積んで再び月を成す。故に五歳の中、凡そ再閏有り、然して後に別に積分を起こす。」朱熹『周易本義』

 同書は南宋の朱熹が『周易』に注を付したもので、この五年経つごとに再び閏月が来るという暦法は、三十日を一月として、その六ヶ月を1年とする二倍年暦にのみ適合することを西村さんは論証されました(注④)。司馬遷が『史記』に記した堯の暦法記事の分析結果とこの西村説を総合すると、古代中国における二倍年暦の暦法が復原できるのではないでしょうか。以上、推論的作業仮説として提起します。(つづく)

(注)
①吉田賢抗・他著『新釈漢文大系 史記』全十五巻。明治書院、1973~2014年。
②野口定男訳『中国古典文学大系 史記』全三巻。平凡社、1968~1971年。
③出版年次は平凡社版が五年ほど先だが、漢文学の泰斗とされる吉田賢抗氏(1900~1995年)の見解を野口定男氏(1917~1979年)が採用したのではあるまいか。
④西村秀己「五歳再閏」『古田史学会報』151号(2019年4月)


第2353話 2021/01/17

古田武彦先生の遺訓(27)

―司馬遷の認識「歳三百六十六日」のフィロロギー

 『史記』冒頭の「五帝本紀」で、堯(ぎょう)が定めたとする暦について、司馬遷は「歳三百六十六日」と紹介しています。『史記』原文は次の通りです。

 「歳三百六十六日、以閏月正四時。」『新釈漢文大系 史記1』39頁、明治書院(注)。

 この記事から、聖帝堯の暦法は一年が三百六十六日と伝えられていると、司馬遷は認識していたことがわかります。もちろん、司馬遷の時代(前漢代)の暦法では、一年が三百六十五日と四分の一日であることは司馬遷も知っています。それにもかかわらず、「五帝本紀」には「歳三百六十六日」と書いたのですから、これは誤記誤伝の類いではなく、何らかの古い伝承や史料に基づいて、司馬遷はそのように記したと考えざるを得ません。しかしながら、通常の暦法からは一年を三百六十六日とすることを導き出すことはできません。そこで、わたしは一見不思議なこの「歳三百六十六日」の記事に、二倍年暦の暦法を推定復原するヒントがあるのではないかと考えたのです。
 このアイデアを共同研究者の西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)に伝え、二人で検討協議を続けました。その結果、こうした司馬遷の認識に至る経過を次のように推定しました。

(1)二倍年暦では一年(365日)を二分割するわけだが、春分点と秋分点で日数を分割するのが観測方法からも簡単である。〔荻上紘一さんの見解〕
(2)そうすると、183日と182日に分割することになる。これを仮に「春年」「秋年」と称する。
(3)このような理解に基づいて、一年(365日)のことを「春秋」と称したのではないか。〔西村秀己説〕
(4)二倍年暦表記で「春年183日」と記された史料を司馬遷が見たとき、一年(春秋)の日数を183×2と計算し、366日と理解した。あるいは、このように計算された史料を司馬遷は見た。
(5)一年を366日とする暦を堯が制定したと理解した司馬遷は、『史記』「五帝本紀」に「歳三百六十六日」と記した。

 以上のように、司馬遷の認識経緯をフィロロギーの対象として検討し、推定しました。この推定が正しければ、後半の「以閏月正四時」についても、同様に二倍年暦の暦法にも「閏月」が存在していたとする史料を司馬遷は見たことになります。(つづく)

(注)吉田賢抗著『新釈漢文大系 史記1』明治書院、1973年。


第2350話 2021/01/15

古田武彦先生の遺訓(26)

平凡社『史記』の原文にない記事「三年に一回」

 「洛中洛外日記」2344話(2021/01/09)〝古田武彦先生の遺訓(22)―司馬遷の暦法認識は「一倍年暦」―〟において、司馬遷の暦法認識が一倍年暦であり、『史記』も基本的にはその認識で編纂されているとしました。その根拠として、『史記』冒頭の「五帝本紀」に堯(ぎょう)が定めたとする暦について、次のように記されてることを紹介しました。

 「一年は三百六十六日、三年に一回閏月をおいて四時を正した。」『中国古典文学大系 史記』上巻、10頁。(注①)

 この記事から、司馬遷が伝説の聖帝堯の時代から一年を三百六十六日とする一倍年暦であったと理解していることがわかるのですが、なぜ一年を三百六十六日としたのかが謎のままでした。「洛中洛外日記」2344話では司馬遷の暦法認識についての考察がテーマでしたので、この疑問については深入りしませんでした。
 そうしたモヤモヤした気持ちを抱いていたところ、周代暦年復原の共同研究者の山田春廣さん(古田史学の会・会員、鴨川市)がご自身のブログ〝sanmaoの暦歴徒然草〟「帝堯の〝三分暦〟―昔の人だって理性はあった―」(2021/01/13)において、「洛中洛外日記」2344話を紹介され、わたしが引用した平凡社版の『史記』に原文にはない記事「三年に一回」があると指摘されました。わたしも気になっていたのですが、『史記』の原文には「三年に一回」という文はありません。これは平凡社版『史記』の編者の判断により書き加えられた「解説」であり、原文の直訳ではなかったのです。明治書院版の『史記』原文は次の通りです。

 「歳三百六十六日、以閏月正四時」『新釈漢文大系 史記1』39頁、明治書院(注②)。

 当該文について、同書には次の解説があります。

 「○以閏月正四時 太陰暦では三年に一度一回閏月をおいて四時の季節の調和を計った。中国の古代天文学では、周天の度は三百六十五度と四分の一。日は一日に一度ずつ進む。一年で一たび天を一周する。月は一日に十三度十九分の七進む。二十九日半強で天を一周する。故に月が日を逐うて日と会すること一年で十二回となるから、これを十二箇月とした。しかし、月の進むことが早いから、この十二月中に十一日弱の差を生ずる。故に三年に満たずして一箇月のあまりが出る。よって三年に一回の閏月を置かないと、だんだん差が大きくなって四時の季節が乱れることになる。」同、41頁。

 この解説によれば、太陰暦では三年に一度の閏月を置かなければならないということであり、そのため、原文にない「三年に一度」という解説を平凡社版『史記』では釈文中に入れてしまったということのようです。太陰暦の閏月の説明としては一応の理解はできますが、司馬遷が「歳三百六十五日」ではなく、「歳三百六十六日」とした理由はやはりわかりません。(つづく)

(注)
①野口定男訳『中国古典文学大系 史記』全三巻。平凡社、1968~1971年。
②吉田賢抗著『新釈漢文大系 史記1』明治書院、1973年。


第2348話 2021/01/13

二倍年齢研究の実証と論証(6)

『延喜二年阿波国戸籍』の二倍年齢による偽籍説

 『延喜二年(902)阿波国板野郡田上郷戸籍断簡』の超高齢者群の存在と若年層の少なさという史料事実を「偽籍」という仮説により説明(論証)できることを平田耿二『日本古代籍帳制度論』(1986年、吉川弘文館)により知ったわけですが、同戸籍を精査すると「偽籍」説だけでは完全に説明することができないことがわかりました。それは次のような「戸」があるからです。

【延喜二年『阿波国戸籍』、粟凡直成宗の戸】
戸主 粟凡直成宗 五七歳
父(戸主の父) 従七位下粟凡直田吉 九八歳
母(戸主の母) 粟凡直貞福賣 百七歳
妻(戸主の妻) 秋月粟主賣 五四歳
男(戸主の息子) 粟凡直貞安 三六歳
男(戸主の息子) 粟凡直浄安 三一歳
男(戸主の息子) 粟凡直忠安 二九歳
男(戸主の息子) 粟凡直里宗 二〇歳
女(戸主の娘) 粟凡直氏子賣 三四歳
女(戸主の娘) 粟凡直乙女 三四歳
女(戸主の娘) 粟凡直平賣 二九歳
女(戸主の娘) 粟凡直内子賣 二九歳
孫男(戸主の孫) 粟凡直恒海 十四歳
孫男(戸主の孫) 粟凡直恒山 十一歳
姉(戸主の姉) 粟凡直宗刀自賣 六八歳
妹(戸主の妹) 粟凡直貞主賣 五〇歳
妹(戸主の妹) 粟凡直宗継賣 五〇歳
妹(戸主の妹) 粟凡直貞永賣 四七歳
(後略)

 この戸主の粟凡直成宗(57歳)の両親(父98歳、母107歳)の年齢と、その子供たちの年齢(47~68歳)が離れすぎており、もしこれが事実なら、母親はかなりの高齢出産(出産年齢39~60歳)を続けたことになります。このような高齢出産は考えにくいため、この戸主の両親の年齢は、没後に年齢加算し続けたためとする単純な偽籍では、一世代間の大きな年齢差の発生を説明できないのです。
 しかし、両親以外の家族の年齢は一倍年暦による年齢構成(一世代間の常識的な年齢差)ですから、何らかの年齢操作が両親を中心に行われたように思われます。そこで、両親が成人する頃までは二倍年齢で年齢計算がなされ、その後は一倍年暦により造籍時に年齢加算登録されたというケースを推定してみました。たとえば、戸主の姉(宗刀自賣。長女か)の年齢が68歳なので、母の出産年齢は107-68=39歳ですが、これが二倍年齢表記であれば出産年令は半分の19.5歳であり、初産年齢(長女を出産)として問題ありません。
 超高齢者について、少年期の二倍年齢計算による偽籍(年齢操作)を想定すれば、戸主の両親のみの超長寿の説明が可能です。もしそうであれば、両親が若年の頃は律令に規定された暦法(一倍年暦)とは別に、古い二倍年暦を淵源とする二倍年齢という年齢計算法が記憶されており、阿波地方の風習として存在していたのかもしれません。実はそのことを示唆する史料があります。(つづく)


第2347話 2021/01/12

古田武彦先生の遺訓(25)

―周代主要諸侯の暦法推定―

 西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)とは、〝周王朝は二倍年暦を一倍年暦にいつ変更したのか〟という改暦年代の他に〝周代の主要諸侯が採用していた暦法〟についても意見交換を続けています。周代における主要諸侯国には、初代武王の同母弟の周公旦を開祖とする魯をはじめ、次の諸侯が知られています。ウィキペディアより転載します。

【主要諸侯】
 『史記』「三代世表」には、周建国当時の有力な諸侯として以下の11国が記される(記載順)。

○魯 姫姓侯爵 開祖:周公旦(武王の同母弟)
 現在の山東省南部を領す。都城は曲阜(現在の山東省済寧市曲阜市)。
○斉 姜姓呂氏侯爵 開祖:呂尚
 現在の山東省北部を領す。都城は営丘(現在の山東省淄博市臨淄区)。
○晋 姫姓侯爵 開祖:唐叔虞(成王の同母弟)
 現在の山西省一帯、黄土高原東部の汾水河谷周辺を領す。都城は唐(後に「晋」に改称、現在の山西省太原市晋源区)。
○秦 嬴姓趙氏伯爵 西周代では大夫・東周にいたり侯爵 開祖:非子
 現在の甘粛省西部、東に周の根拠地である陝西省の渭水盆地を望む高地を領す。周王室の東遷に伴い政治権力の空白となった渭水盆地に勢力を伸ばし、やがてこの盆地の政治的中枢部である関中に重心を移す。当初の都城は秦邑(現在の甘粛省天水市張家川回族自治県)。
○楚 羋姓熊氏子爵 開祖:熊繹
 現在の河南省西部から湖北省・湖南省一帯、概ね漢江以南の長江中流域を領す。都城は丹陽(現在の河南省南陽市淅川県)。
○宋 子姓公爵 開祖:微子啓(殷の帝辛(紂王)の異母兄)
 現在の河南省東部一帯を領す。都城は商邱(現在の河南省商丘市睢陽区)。
○衛 姫姓伯爵(後に侯爵、さらに公爵へと陞爵) 開祖:康叔(武王の同母弟)
 現在の河南省北部黄河北岸部を領す。都城は朝歌(現在の河南省鶴壁市淇県)。
○陳 嬀姓侯爵 開祖:胡公(五帝の一人である舜の末裔と伝えられる)
 現在の河南省中部一帯を領す。都城は宛丘(現在の河南省周口市淮陽区)。
○蔡 姫姓侯爵 開祖:蔡叔度(武王の同母弟)
 現在の河南省南部を領す、都城は当初上蔡(現在の河南省駐馬店市上蔡県)、新蔡(現在の駐馬店市新蔡県)に遷都後、下蔡(現在の安徽省淮南市鳳台県)に遷る。
○曹 姫姓伯爵 開祖:曹叔振鐸(武王の同母弟)
 現在の山東省西部を領す、都城は陶丘(現在の山東省菏沢市定陶区)。
○燕 姞姓伯爵 開祖:召公奭(周王朝姫氏の同族)
 現在の河北省北部を領す、都城は薊(現在の北京市房山区)。

 これら諸侯は西周時代は周と同じ二倍年暦を採用していたと推定していますが、西周末あるいは東周に至り、周が一倍年暦に改暦すると、それに従ってほぼ同時期に一倍年暦を採用した諸侯と、二倍年暦を継続使用した諸侯があったと、現時点では考えています。
 西村さんとの検討の結果、孔子の出身地の魯は春秋期には二倍年暦(二倍年齢)を継続したとする理解で合意できました。その根拠は、孔子や弟子の曾参が『論語』『曾子』で二倍年齢を採用していたことが明らかなことによります(注①)。他方、秦は周に従って一倍年暦を採用し、その経緯から始皇帝が中国を統一したとき、暦法は自ら採用していた一倍年暦で統一したと思われます。この点も、西村さんと合意できたところです。
 この他、魏王墓(戦国期)から出土した『竹書紀年』が一倍年暦によることから、それが出土時のままであれば戦国期の魏は一倍年暦と理解することが可能です。同じく、戦国期の楚の竹簡と見られている精華簡『繋年』(注②)も一倍年暦表記ですから、楚も戦国期には一倍年暦を採用していたと思われます。
 以上のように考えていますが、関連諸史料との整合性調査が必要ですから、現時点では作業仮説的推論にとどめたいと思います。(つづく)

(注)
①古賀達也「新・古典批判 二倍年暦の世界」、『新・古代学』7集(2004年、新泉社)。
 古賀達也「新・古典批判 続・二倍年暦の世界」、『新・古代学』8集(2005年、新泉社)。
②「洛中洛外日記」2308話(2020/12/03)「古田武彦先生の遺訓(18) ―周代史料の史料批判(優劣)について〈後篇〉―」で紹介した。

 


第2346話 2021/01/11

古田武彦先生の遺訓(24)

―周王朝の一倍年暦への変更時期―

 『史記』の採用暦については山田春廣さん(古田史学の会・会員、鴨川市)がブログ上(注)で精力的に仮説を展開し、検討を続けています。古代暦法や暦日計算に疎いわたしは、山田さんの研究の行方を見守っている段階です。
 他方、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)とは〝周王朝は二倍年暦を一倍年暦にいつ変更したのか〟という改暦の年代について、文献史学の分野から意見交換と論議を続けています。まだ見解の一致を見ていませんが、現時点での両者の考え(作業仮説)を紹介したいと思います。
 わたしは次の史料状況から判断して、西周は二倍年暦を採用しており、東周のどこかで一倍年暦に変更したと考えています。

①西周建国前後の周王四代にわたって約百歳の寿命であり、このことから西周は二倍年暦を採用していると考えざるを得ない。
 武王の曽祖父、古公亶父(ここうたんぽ):120歳説あり。
 武王の祖父、季歴:100歳。(『資治通鑑外紀』『資治通鑑前編』)
 武王の父、文王:97歳。在位50年。(『綱鑑易知録』『史記・周本紀』『帝王世紀』)
 初代武王:93歳。在位19年。(『資治通鑑前編』『帝王世紀』)
②五代穆王は50歳で即位、55年間在位。105歳で没した(『史記』)。
③九代夷王の在位年数がちょうど二倍になる例がある。『竹書紀年』『史記』は8年、『帝王世紀』『皇極經世』『文獻通考』『資治通鑑前編』は16年。この史料状況は、一倍年暦と二倍年暦による伝承が存在したためと考えざるを得ない。
④十代厲(れい)王も在位年数が二倍になる例がある。『史記』などでは厲王の在位年数を37年としており、その後「共和の政」が14年続き、これを合計した51年を『東方年表』は採用。『竹書紀年』では26年とする。
⑤十一代宣王の在位年数46年、東周初代の平王の在位年数51年など、長期の在位年数から〝長寿命〟と推定できる周王が存在しており、これらも二倍年齢の可能性をうかがわせる。(『竹書紀年』)

 西村さんの見解は、『史記』に付されている黄帝から周の共和までの年表「三代世表」を根拠に、西周末期の共和までが二倍年暦で、その後に一倍年暦に改暦されたというものです。すなわち、司馬遷が『史記』編纂にあたり参照した史料を整理した結果が「三代世表」であり、それ以降の年表とは性格が異なっていることから、二倍年暦から一倍年暦という改暦による激変がこの間にあったと考えると、年表の大きな変化を説明できるというものです。
 この西村見解(作業仮説)も魅力的ですので、自説にこだわることなく、検討を続けています。(つづく)

(注)〝sanmaoの暦歴徒然草〟


第2345話 2021/01/10

古田武彦先生の遺訓(23)

―没年齢記事が少ない「周本紀」以前―

 『史記』(注①)を読んでいて気づいたのですが、「周本紀」以前の登場人物の没年齢記事が少ないのです。史書ですから、基本的には中心王朝の「王年」(各王の即位何年)で『史記』は編年されています。ですから、登場人物の年齢や没年齢の記載が必ずしも必要ではありません。そのような史料性格にあって、例外的に没年齢が推定できる次の年齢記事が見えます。

○堯(百十八歳)「堯は即位して七十年たって舜をみいだして挙用し、それから二十年たって年老いて引退し、舜に天子の政を摂行させて、これを天に推薦した。つまり、事実上、舜に位をゆずって二十八年たつて崩じた。」五帝本紀、『中国古典文学大系 史記』上巻、12頁。
○舜(百歳)「舜は、二十歳にして孝行できこえ、三十歳にして堯に挙用され、五十歳にして天子の政を摂行した。五十八歳にして堯が崩じ、六十一歳にして堯に代わって帝位についた。帝位について三十九年、南方に巡幸中、蒼梧の野(湖南省)で崩じて、江南の九疑山(江西省)に葬られた。」五帝本紀、同、16頁。
○穆王(百五歳)「穆王は即位したとき、すでに五十歳であった。」「穆王は立ってから五十五年で崩じた。」周本紀、同、42、44頁。

 次いで「秦本紀」になると、先に紹介した百里傒の記事を含めて次の例があります。

○寧公(二十二歳)「寧公は生まれて十歳で立ち、立って十二年で死んだ。」秦本紀、同、57頁。
○出子(十一歳)「出子は生まれて五歳で立ち、立って六年で死んだ。」秦本紀、同、57頁。
○徳公(三十五歳)「徳公は生まれて三十三歳で立ち、立って二年で死んだ。」秦本紀、同、58頁。
○百里傒(百余歳)「〔繆公五年〕楚人は承諾して百里傒を返した。このとき、百里傒はすでに七十余歳であった。」秦本紀、同、58頁。
○孝公(四十五歳)「二十四年に、献公が死んで、その子の孝公が立った。ときに、孝公はすでに二十一歳であった。(中略)二十四年に、晋(魏)と岸門(河南省)で戦い、その将、魏錯をとりこにした。孝公が死んで、その子の恵文君が立った。」秦本紀、同、66~67頁。
○恵文君(王)(四十六歳)「三年に、恵文君が二十歳に達したので冠礼の式をおこなった。(中略)十四年に、あらためて元年とした(前年から王を称した故)。十四年に、楚を伐って召陵(河南省)を取った。(中略)恵文王が死んで、その子の武王が立った。」秦本紀、同、67~68頁。
○昭襄王(七十三歳)「三年に、昭襄王が二十歳に達したので冠礼をおこなった。(中略)五十六年に昭襄王が死んで、その子の孝文王が立った。」秦本紀、同、68~70頁。

 以上の史料状況から、歴代秦公(王)の没年齢は一倍年暦と考えて問題なく、二倍年暦では没年齢が若くなりすぎて不自然です。司馬遷の時代(前漢代)は既に一倍年暦であり、「秦本紀」の秦公(王)の年齢も一倍年齢と司馬遷は理解していたはずですから、百里傒の百余歳については超高齢の珍しい例として『史記』に特記したのではないでしょうか。
 他方、「周本紀」以前の百歳以上の事例(堯、舜、穆王)は二倍年齢と考えざるを得ないのですが、司馬遷にはその認識がありませんから、恐らく上古の聖人は超長生きと理解していたのではないでしょうか。これは司馬遷に限らず、『史記』と同じく前漢代に成立した『黄帝内経素問』にも次のように記されていることから、当時の知識人の共通した認識だったようです。

 「余(われ)聞く、上古の人は春秋皆百歳を度(こ)えて動作は衰えず、と。今時の人は、年半百(五十歳)にして動作皆衰うるというは、時世の異なりか、人将(ま)さにこれを失うか。」(『素問』上古天真論第一)

 二倍年暦による「百歳」を一倍年暦表記と誤解し、「今時の人は、年半百(五十歳)にして動作皆衰う」のは「時世の異なりか」とあります。この記事からも前漢代での人の一般的寿命は五十歳と認識されていたことがうかがえます。なお、『黄帝内経素問』の書名は『漢書』芸文志に見えます(注②)。(つづく)

(注)
①野口定男訳『中国古典文学大系 史記』全三巻。平凡社、1968~1971年。
②漢代における年齢認識について、古賀達也『二倍年暦と「二倍年齢」の歴史学 ―周代の百歳と漢代の五十歳―』(『東京古田会ニュース』195号、2010年10月)で詳述した。