「 二倍年暦 」一覧

第2303話 2020/11/24

古田武彦先生の遺訓(15)

西周暦年の〝決め手〟「天再旦」

 前回の〝古田武彦先生の遺訓(14)〟で紹介したように、西周の年代が二倍年暦(二倍年齢)補正により、最大で200年ほど短縮される可能性があります。そのうえで、西周の暦年を見直す〝決め手〟の一つとして、『竹書紀年』に見える「天再旦」があります。今回はこの問題について紹介します。
 古代中国の暦年復原が中国の国家プロジェクト「夏商周断代工程」(注①)で行われ、西周の王の在位年代を次のように〝決定〟しました。

【夏商周断代工程 西周王年表】(注②)
代数 王名 在位年(紀元前) 在位年数
1 武王  1046~1043    4
2 成王  1042~1021 22
3 康王  1020~ 996 25
4 昭王   995~ 977 19
5 穆王   976~ 922 55
6 共王   922~ 900 23
7 懿王   899~ 892 8
8 孝王   891~ 886 6
9 夷王   885~ 878 8
10 厲王   877~ 841 37
– (共和の政) 841~ 828 14
11 宣王   827~ 782 40
12 幽王   781~ 771 11

 この中の第七代懿王の元年について、『竹書紀年』に記された「懿王元年、天再び鄭(てい)に旦す。」とあるのを、鄭の地において夜明けが二度あったと解釈し、太陽が地平線から上った直後に皆既日食が起こるという珍しい天体現象と見なされました。国家プロジェクト「夏商周断代工程」では、この年代を古天文学により計算し、紀元前899年のことと〝決定〟しました。しかし、その後に懿王の年代決定が誤っていたことが判明し、見直しが進められていますが、まだ結論は出ていないようです。この経緯については、「洛中洛外日記」〝古田武彦先生の遺訓(4) プロジェクト「夏商周断代工程」への批判〟で紹介しましたので、ご参照下さい。
 そこで、二倍年齢仮説により周代が新しくなることから、紀元前899年よりも後に発生した「天再旦」現象について、調査しています(注③)。もし、二倍年齢仮説により復原できた懿王元年にこの天体現象があれば、周代暦年復原研究にとって大きな前進となるはずですし、周代における二倍年暦(二倍年齢)の存在証明にもなります。(つづく)

(注)
①岳南『夏王朝は幻ではなかった 一二〇〇年遡った中国文明史の起源』(柏書房、2005年)で、プロジェクト「夏商周断代工程」について紹介されている。
②佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』108頁(星海社、2018年)から転載。
③国立天文台の谷川清隆先生に調査のご協力をいただいています。


第2301話 2020/11/20

『オデュッセイア』の二倍年暦

 「洛中洛外日記」2297話(2020/11/17)〝継体天皇「二倍年齢」の論理〟において、「論理性を競う論点の提示が、二倍年暦論争には必要と思われます」と書いたところ、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)から次のメールを頂きました。

〝論理的に二(以上)倍年暦(少なくとも一倍年暦ではない)と判断出来る説話は東洋のものではないがオデュッセウスの説話ですね。
 20年間故国に帰れなかったオデュッセウスにはテーレマコスという息子がいて、「20年」が一倍年暦ならばとっくに成人している、つまり行方不明の前王オデュッセウスに替わってイタケー王に即位している筈。なのに王妃ペーネロペーに求婚者が群がっている状況は、明らかにテーレマコスが即位出来ない年齢である証拠。つまりこれは二(以上)倍年暦。求婚者達が皆殺しになるのは単なる求婚者ではなくイタケーの王位を狙っていたから。(西村秀己)〟

 東洋と西洋の古典に堪能な西村さんならではの視点です。十数年前、わたしも西村さんからの助言により、『オデュッセイア』の二倍年暦について論文発表したことがあります。転載します。

〝『オデュッセイア』の二倍年暦
 古代ギリシアにおける二倍年暦はいつ頃までさかのぼることができるだろうか。管見ではギリシア最古の大英雄叙事詩『オデュッセイア』(ホメロス)が二倍年暦によると考えている。その理由は次のような事である。オデュッセウスが故郷イタケーを二十年間留守にしている間、妻ペネロペイアに群がる求婚者とその息子テレマコスとの諍(いさか)いが描かれているのだが、少なくとも二十歳以上となるテレマコスが幼く描かれている(注①)。このことについては従来から疑問視されてきたようであり、たとえば次のような疑義が出されている。

 「かりにテレマコスが、父の出征後に生まれたとしても、二十年の歳月が過ぎた現在ほぼ二十歳ということになるが、本篇ではせいぜい十代後半位のイメージで描かれているように思われる。」
 「オデュッセウスが出征して二十年が経過していること、また出征時にテレマコスが既に出生していたことから推定すれば、オデュッセウスはおよそ五十歳、ペネロペイアも四十歳に近く、テレマコスもまた少なくとも二十歳に達していたとせねばならない。二十歳といえば既に一人前の男子であるが、冒頭で彼がまだ幼さの抜け切らぬ少年の如く描かれているのは、少々奇異な感を与える。」ホメロス『オデュッセイア』(岩波文庫、一九九四年刊。松平千秋訳)の訳注・解説による。

 このオデュッセウス出征後の二十年間が二倍年暦であれば、一倍年暦の十年間となり、息子テレマコスの年齢も十歳プラスαとなり、彼が幼く描写されたことも自然な理解が得られるのである。また、オデュッセウスの年齢も三十歳代となり、帰国後、求婚者たちと戦って勝利することも可能な年齢となる。更に言えば、妻ペネロペイアの年齢も二十代後半位となり、求婚者が群がるほどの美貌が維持できる年齢ではあるまいか。
 このように、『オデュッセイア』は二倍年暦で読まなければ、その描写や背景にリーズナブルな理解が得られないのである。また、次の場面も二倍年暦を指し示す例である。オデュッセウスが変装して自宅に二十年ぶりに帰ってきたとき、愛犬アルゴスはオデュッセウスに気づき尾を振り耳を垂れたが、近寄る力もなくそのまま息絶えてしまう。アルゴスはオデュッセウス出征前から優秀な猟犬であったと記されていることから、もし二十年が一倍年暦ならアルゴスは二十歳を越えることになり、犬の寿命としては長すぎる。二倍年暦であればアルゴスの年齢は十歳代となり、犬の寿命としてリーズナブルである。この点からも、『オデュッセイア』が二倍年暦で叙述されていることは間違いないと思われる。
 ホメロスは紀元前九世紀の人物とされていることから、ギリシアでは少なくとも紀元前九世紀以前から二倍年暦が使用されていたと考えられるが(注②)、それがいつまで使用されていたのか、その下限はまだ不明であり、今後の研究課題である。〟

(注)
①西村秀己氏(向日市在住、古田史学の会々員)のご教示による。
②『イリアス』『オデュッセイア』の舞台ともなったトロイ戦争が紀元前一二〇〇年頃のことであるから、論理的可能性から言えば、ギリシアでの二倍年暦はその時点までさかのぼることも十分想定できよう。
【出典】古賀達也「新・古典批判 二倍年暦の世界 ソクラテスの二倍年暦」『古田史学会報』No.54 2003年2月。『新・古代学』7集(新泉社、2004年)に「新・古典批判 二倍年暦の世界」として収録。


第2300話 2020/11/20

古田武彦先生の遺訓(14)

西周の王たちの二倍年齢

 古田先生の遺訓により、周代史料である『論語』の二倍年暦を証明するために、周王の在位年数や寿命の調査という回り道をしてきたのですが、ようやく周代の前半に当たる西周(注)については、二倍年齢が採用されていたと考えてもよい段階まで研究が進展してきました。その根拠は次の通りです。中間報告として、とりまとめておきます。

(1)周建国時の四代の王たちの長寿(約百歳)
 武王の曽祖父、古公亶父(ここうたんぽ):120歳説あり。
 武王の祖父、季歴:100歳。(『資治通鑑外紀』『資治通鑑前編』)
 武王の父、文王:97歳。在位50年。(『綱鑑易知録』『史記・周本紀』『帝王世紀』)
 初代武王:93歳。在位19年。(『資治通鑑前編』『帝王世紀』)

 「古代にも百歳の人はいた」とする論者でも、紀元前12世紀頃(通説)の中国で、約百歳の王が親子四代続いたとは言えないのではないでしょうか。在位年数とも矛盾しますから。これが二倍年齢であれば、60歳、50歳、48.5歳、46.5歳となり、古代人の寿命として極めてリーズナブルです。

(2)5代穆王は50歳で即位し、55年間在位。105歳で没した(『史記』)。これも(1)と同様です。

(3)9代夷王の在位年数がちょうど二倍になる例があります。『竹書紀年』『史記』は8年、『帝王世紀』『皇極經世』『文獻通考』『資治通鑑前編』は16年。この史料状況は、一倍年暦と二倍年暦による伝承が存在したためと考えざるを得ません。

(4)11代厲(れい)王も在位年数がちょうど二倍になる例があります。『史記』などでは厲王の在位年数を37年としており、その後「共和の政」が14年続き、これを合計した51年を『東方年表』は採用。他方、『竹書紀年』では26年としています。

(5)11代宣王の在位年数46年、東周初代の平王の在位年数51年など、長期の在位年数から長寿命と推定できる周王が存在しており、これらも二倍年齢の可能性をうかがわせます。(『竹書紀年』)

 以上のように、周王の在位年数や寿命記事に二倍年齢と考えざるを得ない例が少なからず存在しています。これらの史料事実から、少なくとも西周では人の寿命や在位年数は二倍年齢が採用されていたと思われます。
 他方、暦が二倍年暦であったかどうかは、まだ結論を得るに至っていません。しかしながら、従来の周代暦年復原はこれら周王の二倍年齢を一倍年齢とみなして試みられてきたので、未だに成功していないのではないかと考えています。引き続き、周代後半の東周時代(春秋・戦国時代)について、調査検討を行います。(つづく)

(注)殷を倒して周を建国した初代武王から、12代幽王までの約400年間を西周と呼ぶ。この期間が二倍年齢であれば、実際は半分の約200年間となる可能性が高まる。


第2297話 2020/11/17

継体天皇「二倍年齢」の論理

 先日、開催された八王子セミナー(古田武彦記念古代史セミナー2020)はリモート参加と現地参加というハイブリッド方式での初めての試みでしたが、主催者や関係者のご尽力により成功裏に終わることができました。関西からリモート参加された方のご意見として、リモートでもよく聞き取れ、臨場感もあり、来年もリモート参加したいとのことでした。ちなみに、わたしと日野智貴さん(古田史学の会・会員、奈良大学生)の休憩時間中の会話をマイクが拾っており、楽しく聞いていたとのことでした(変なことをしゃべっていなければよいのですが)。天候にも恵まれ、大学セミナーハウスから遠くに見える富士山がきれいでした。

 わたしが発表した「二倍年暦」というテーマでは意見が対立する場面もあり、学問的にも論点や問題点が浮かび上がり、有意義でした。その中で鮮明となったのが次の点でした。

①二倍年暦という暦法と、二倍年齢という年齢計算方法について、分けて考えた方がよいケースがある。一倍年暦の時代でも、二倍年齢で計算する風習が遺存することがある。(古賀の主張)

②二倍年齢においては、春分点と秋分点で年齢を加算するという方法があり、この方法は暦法とは関係なく成立する。(荻上先生からのサジェスチョン)

③二倍年暦・二倍年齢の当否について、実証的な方法では決着が付かないケースがあるため、論理的な説明方法(論証)を重視する必要性がある。(今回、改めて考えさせられたこと)

 セミナーの司会・進行役の大墨伸明さん(多元的古代研究会)も述べられたのですが、「今回のセミナーで最も意見対立が鮮明なテーマ」として、倭国の二倍年暦説の是非についてどのような証明方法が説得力を持つのかについて考えてみました。この場合、説明責任・論証責任は「倭国では二倍年暦が採用されていた」とする側(通説と異なる新説発表側)にあります。
 たとえば、古代人に百歳を超えるケースが諸史料中に散見されるのですが、「古代でも百歳の人はいた」と主張する人に対しては、「古代において百歳もの長寿は無理。この百歳は二倍年齢表記である」という説明では〝水掛け論〟となり、説得できないのです。このような経験がわたしには幾度かあります。そこで、百歳のような長寿記事を史料根拠とする実証的な説明ではなく、論理的な説明、すなわち論証(根拠に基づく合理的な理屈による説明)によらなければならないと、わたしは考えました。一例として古田先生が『失われた九州王朝』(注)で展開された継体天皇の没年齢問題について説明したいと思います。
 第26代継体天皇は越前三国出身の豪族で、皇位継承でもめていた大和に〝介入〟して大和の統治者に即位した異色の人物です。その没年齢が『古事記』には43歳、『日本書紀』には82歳とあり、この約二倍の違いを持つ伝承の存在は二倍年暦によるものと考えざるを得ないという理屈をもって古田先生は論証とされました。
 この説明方法は、継体天皇が43歳で崩じたのか、82歳で崩じたのかという、寿命が論点ではありません。そうではなく、継体天皇の寿命について、どのような理由で約二倍も異なる伝承が発生したのかという説明の仕方の優劣が論点なのです。ですから、六世紀の古代人が82歳まで長生きできるか、できないかという〝水掛け論〟は不要です。「二倍年暦という仮説でうまく説明できる」という見解と、「どこかの誰かがたまたま二倍ほど間違えたのだろう」というような見解とでは、どちらが他者をより説得できるのかという、論理性(理屈)の優劣の問題です。このような論理性を競う論点の提示が、二倍年暦論争には必要と思われます。

(注)古田武彦『失われた九州王朝』朝日新聞社、1973年。ミネルヴァ書房から復刻。


第2291話 2020/11/12

古田武彦先生の遺訓(13)

周建国前後の王たちの超高齢現象

 「洛中洛外日記」2263話(2020/10/16)〝古田武彦先生の遺訓(6) 周王(夷王)在位年に二倍年齢の痕跡〟と2289話(2020/11/11)〝古田武彦先生の遺訓(12)〟において、西周の夷王と厲王の在位年数に二倍年暦(二倍年齢)の痕跡があることを報告しました。これらの王が二倍年齢であれば、それ以前の周王も古い暦法である二倍年暦が採用されていたと考えざるを得ません。そこで今回は周建国前後の王たちの年齢や在位年数を調べてみました。まだ調査(精査)中ですが、中間報告します。
 今回の調査対象は周を建国した初代の武王、その父の文王、その父の季歴の3名(三代)です。複数の説もありますが、現時点でわかった範囲内では次の通りです。

(1)季歴:100歳。
 『資治通鑑外紀』(注①)『資治通鑑前編』(注②)では、季歴は殷の帝乙元年に侯伯になり、帝乙七年に百歳で死んだとされています。

(2)文王:97歳。在位50年。
 西伯・昌(文王)の死を、『綱鑑易知録』(注③)は殷の帝紂二十年と書いていることから、昌の在位年数は五十年、享年は九十七歳。『史記・周本紀』は在位年数をおよそ五十年としています(西伯蓋即位五十年)。『帝王世紀』(注④)には、「文王(西伯・昌)は諸侯の位に居たが、父を世襲して西伯になった」「文王は位を継いで五十年だった(文王嗣位五十年)」とあります。

(3)武王:93歳。在位19年。
 『資治通鑑前編』は武王の在位年数を十九年。『帝王世紀』は寿命九十三歳とします。

 なお、季歴の父、古公亶父(ここうたんぽ)の寿命を120歳とする説があるようですが、まだ出典を調査できていません。
 親子三代続けて約100歳の長寿などとは、人類史初の高齢化社会の現代日本でも考えにくいのではないでしょうか。ましてや紀元前一千年頃のことです。たとえば文王が季歴20歳のときの子供であったとすれば、その80年後の80歳で文王は即位したことになり、更に50年在位したとあるため、没年は130歳となり、97歳で没したとする伝承とも整合しません。武王に至っては更にそのような矛盾が拡大します。
 他方、古代中国の年齢や在位年数記事はいい加減な造作であり信用できないとする考えは(おそらく通説はそうなっていると思います)、それならば別に100歳といわず、200歳でも300歳でも自由に造作できるはずという指摘に答えられません。しかし史料事実としては、周王らの記録として残っている最高寿命記事は100歳くらいです(注⑤)。ですから、これらの矛盾は二倍年暦(二倍年齢)という概念(仮説)により、はじめて合理的な解釈が可能となるのです。(つづく)

(注)
①『資治通鑑外紀』:北宋の劉恕。全10巻。
②『資治通鑑前編』:南宋の金履祥によって編まれた歴史書。『資治通鑑』によって表された時代の前について書かれたもの。全18巻。
③『綱鑑易知録』:92卷。清の呉乘權、周之炯、周之燦が著した。
④『帝王世紀』:西晋の皇甫謐が編纂した歴史書。三皇から漢・魏にいたる帝王の事跡を記録した。その記述内容には正史に見られないものも多い。原本(10巻)は散佚し、佚文が残っている。
⑤『史記』などの伝世史料により、第五代穆王の寿命105歳(50歳即位+55年間在位)が知られている。


第2289話 2020/11/11

古田武彦先生の遺訓(12)

厲王在位年にも二倍年齢の痕跡

 「洛中洛外日記」2263話(2020/10/16)〝古田武彦先生の遺訓(6) 周王(夷王)在位年に二倍年齢の痕跡〟において、西周第9代国王の夷王の在位年数がちょうど二倍になる例があり、二倍年暦の存在を前提としなければこのような史料状況は発生しないとしました。たとえば、『竹書紀年』や『史記』には夷王の在年数が8年とあり、『東方年表』(藤島達朗・野上俊静編)には16年とされています。そこで、『東方年表』が何を根拠に16年としたのかを調査したところ、在位16年とする史料として『太平御覽』卷85引『帝王世紀』、『皇極經世』、『文獻通考』、『資治通鑑前編』がありました。
 夷王に加えて第11代の厲(れい)王にも同様の史料痕跡がありました。『史記』などでは厲王の在位年数を37年としており、その後の「共和の政」が14年続き、厲王が亡命先で死亡して宣王に替わります。これらを合計した51年を『東方年表』は採用しています。
 他方、『竹書紀年』(古本・今本)では厲王の在位年数を26年としています。

 「二十六年、大旱。王陟于彘。周定公、召穆公立太子靖為王。共伯和歸其國。遂大雨。」『竹書紀年』厲王(注①)

 このように、厲王が「陟」(亡くなる)して、「共和の政」を執っていた共伯和が自領に帰国したとあります。『史記』の在位年数と「共和の政」の合計51年が二倍年暦であれば、一倍年暦の25.5年に相当し、『竹書紀年』の26年に対応しているのです。
 夷王のケースと同様に『竹書紀年』は一倍年暦(一倍年齢)に書き改められていると理解せざるを得ません。『竹書紀年』は出土後(注②)に散佚し、清代になって佚文を編集したものであり、おそらくはその編纂時に夷王と厲王の在位年数が一倍年齢に書き換えられているわけです。あるいは、出土した竹簡の原文が既に書き換えられていた可能性もあります。いずれにしても、周代において周王の在位年数が二倍年暦で記録されていたと考えざるをえません。(つづく)

(注)
①中國哲學書電子化計劃『竹書紀年』《厲王》
 https://ctext.org/zhushu-jinian/li-wang/zh
②西晋(265~316年)時代に出土。


第2288話 2020/11/10

「中国」と「共和」の出典

 「中国」と「共和」といっても現代の中国共産党やアメリカ共和党の話しではなく、今回はその出典について紹介します。
 佐藤信弥さんの『周 ―理想化された古代王朝』(注①)で周の歴史を勉強しているのですが、「中国」という用語の初出史料について知ることができました。古代中国の青銅器に記された文字を「金文」と呼び、出土文献として研究対象とされています。その金文に周の第二代成王の時代の「何尊」(注②)と呼ばれるものがあり、それには「中国」の文字が記されており、「中国」という言葉の最古の用例とのこと。
 佐藤さんの解説では、「ここでの中国とは中央の地域というぐらいの意味で、成周周辺のごく狭い範囲を指していると思われる」とのことです。ちなみに、成周とは今の河南省洛陽市付近のようです。
 「共和」の出典はご存じの方も少なくないと思いますが、西周末期の〝暴君〟厲(れい)王に替わり、「共和の政」を行った共伯和(注③)にちなむものです。この「共和の政」は、共和十四年(前834)厲王の亡命先での死亡により宣王が即位し、終わります。なお、厲王(11代)・宣王(12代)・幽王(13代)と西周は続きますが、「共和の政」期間を含め、厲王元年から幽王の末年まで計百八年となり、古代においては長期の在位期間です(注④)。おそらく、ここにも二倍年暦(二倍年齢)の影響が及んでいるのではないでしょうか。

(注)
①佐藤信弥『周 ―理想化された古代王朝』中公新書、2016年。2018年。
②中国社会科学院考古研究所編『殷周金文集成(修訂増補本)』6014。中華書局、2007年。
③精華簡『繋年』による。
④伝世文献(『史記』など)によれば、在位期間は厲王37年、(共和)14年、宣王46年、幽王11年。


第2286話 2020/11/08

古田武彦先生の遺訓(11)

佐藤信弥さんの

『周 ―理想化された古代王朝』拝読

 今日は佐藤信弥さんの『周 ―理想化された古代王朝』(注①)を拝読しました。この本も『中国古代史研究の最前線』(注②)と同様に周史を研究する上で優れた入門書でした。しかも巻末の豊富な参考文献一覧は、わたしのような初学者にとって勉強の導き手となり、ありがたい配慮です。
 佐藤さんの学問的姿勢やお人柄によるものと思いますが、同書も先行説や異説の紹介がなされ、不明確なことや不安定な課題については、そのことをはっきりと示されており、周代史研究における到達点や弱点が読者にわかるように書かれています。このような執筆姿勢は研究者にとって、とてもありがたいことです。
 たとえば周代暦年研究に関わるテーマとして、第五代穆(ぼく)王について次のような記述があります。

 「厲(れい)王の時代から『史記』では周王の在位年数が明示されるようになる。それ以前の周王で在位年数が示されているのは第五代穆王の五十五年のみであるが、穆王の在位年数をめぐっては種々の議論がある。」121頁

 『史記』には穆王が五十歳で即位し、五十五年在位したとあることから、このような百歳を超える寿命記事を信頼できないため、「種々の議論」が発生しているものと思われます。古代中国史研究において、二倍年暦(二倍年齢)という概念(仮説)がないことに、問題の原因があるとわたしは考えています。(つづく)

(注)
①佐藤信弥『周 ―理想化された古代王朝』中公新書、2016年。2018年。
②佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』星海社、2018年。


第2284話 2020/11/06

古田武彦先生の遺訓(10)

小寺敦さんの「精華簡『繋年』訳注・解題」拝読

 佐藤信弥さんの『中国古代史研究の最前線』(注①)に紹介されていた小寺敦さんの長文(約300頁)の力作「精華簡『繋年』訳注・解題」(注②)をようやく読了しました。この分野のおそらく最高レベルの研究者による専門的な論文と思われますが、わかりやすく書かれており勉強になりました。わたしの力量では全てを正しく理解することはできませんが、同分野ではどのような史料(伝世文献、出土文献)が重視されており、どのような方法論が採用されているのかを、わたしなりに把握できました。また、webでの閲覧が可能であることも有り難い配慮でした。
 同論文を拝読して、わたしが最も重要な現象と感じたのが、出土文献である『繋年』の記事を採用すると、他の伝世文献(『竹書紀年』、『史記』、『春秋左氏伝』、『国語』など)の記事と齟齬や矛盾が発生するため、諸研究者がそれらの矛盾を解決するために様々な文章解釈を自説として発表するという同分野の傾向(学問の方法)でした。
 紀元前の一千年から数百年を対象とする文献史学の分野ですから、これは無理からぬことかもしれませんが、わたしが古田先生から教えていただいた学問の方法とはずいぶん異なっていました。古田先生は、『三国志』研究において、まず現存する各写本の史料批判を行い、その中で最も原文の姿を残していると思われる紹熙本(南宋紹熙年間〔1190~1194〕刊行)を基本資料と位置づけ、それを中心に文章解釈するという方法を採用されました(注③)。『万葉集』の場合、「元暦校本 万葉集」を採用されたのも同様の方法に基づかれたものです(注④)。ですから、各写本の都合のよい部分をそれぞれ採用して仮説を組み立てるという方法は誤りであると、厳しく戒められました。もちろん、必要にして十分な論証を経た場合はその限りではありません。
 小寺論文を読みながら、このときの古田先生の言葉を思い起こしました。当時、話題になったことについては別の機会に詳しく紹介したいと思います(注⑤)。なお、今回進めている周代研究においては、佐藤信弥さんの『中国古代史研究の最前線』がとても役に立ちました。そこで、佐藤さんのもう一冊の著書『周 ―理想化された古代王朝』(中公新書、2016年)も購入し、読んでいるところです。(つづく)

(注)
①佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』星海社、2018年。
②小寺敦「精華簡『繋年』訳注・解題」『東洋文化研究所紀要』第170冊、2016年。
③古田武彦『「邪馬台国」はなかった』朝日新聞社、1971年、138~139頁。ミネルヴァ書房から復刻。
④古田武彦『古代史の十字路 万葉批判』東洋書林、2001年、7頁。ミネルヴァ書房から復刻。
⑤「九州年号群史料」や『新撰姓氏録』の史料批判をテーマとした古田先生との対話(1990~2000年頃)。


第2283話 2020/11/04

古田武彦先生の遺訓(9)

精華簡『繋年(けいねん)』の史料意義

 佐藤信弥さんは『中国古代史研究の最前線』(星海社、2018年)で、金文(青銅器の文字)による周代の編年の難しさについて、次のように指摘されています。

〝金文に見える紀年には、その年がどの王の何年にあたるのかを明記しているわけではないので、その配列には種々の異論が生じることになる。と言うより、実のところ金文の紀年の配列は研究者の数だけバリエーションがあるという状態である。〟108頁

 そのような一例として、「精華簡『繋年(けいねん)』」のケースについて紹介します。
 精華簡とは北京の「精華大学蔵戦国竹簡」の略で、精華大学OBから2008年に同大学に寄贈されたものです。2388点の竹簡からなる膨大な史料で、放射性炭素同位体年代測定法によると紀元前305±30年という数値が発表されています。ですから、出土後に散佚し、清代になって収集編纂された『竹書紀年』とは異なり、戦国期後半の同時代史料といえるものです。
 この精華簡のうち、138件からなる編年体の史書を竹簡整理者が便宜的に『繋年』と名付け、2011年に発表しました。西周から春秋時代を経て戦国期までおおむね時代順に配列されており、全23章のうち第1章から第4章までに西周の歴史が記されています。
 先の『中国古代史研究の最前線』によれば、従来、西周が東遷して東周となった年代は紀元前770年とされてきたのですが、この新史料『繋年』に基づいて次々と異説が発表されました。たとえば『繋年』の記事に対する解釈の違いにより、周の東遷年を前738年とする説(注①)や前760年とする説(注②)があり、「東遷の紀年や、『繋年』の記述をふまえたうえで、東遷の実相がどうであったかという問題は、やはり今後も議論され続けることになるだろう。」(注③)とされています。
 このように、二倍年暦(二倍年齢)という概念(仮説)を導入していない、学界の周代暦年研究は未だ混沌とした状況にあるようです。『史記』や『竹書紀年』『春秋左氏伝』などの史料事実(周王らの年齢・在位年・紀年など)をそのまま〝是〟とするような実証的手法では、結論は導き出させないのではないでしょうか。このことを改めて指し示した新史料『繋年』の持つ意義は小さくありません。
 なお、『繋年』については、小寺敦さんにより全章の原文と訓読、現代語訳などが発表されています(注④)。300頁近くの長文の論文ですので、少しずつ読み進めているところです。(つづく)

(注)
①吉本道雅「精華簡繋年考」『京都大学文学部研究紀要』第52巻、2013年。 
②水野卓「精華簡『繋年』が記す東遷期の年代」『日本秦漢史研究』第18号、2017年。
③佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』星海社、2018年。167~168頁。
④小寺敦「精華簡『繋年』訳注・解題」『東洋文化研究所紀要』第170冊、2016年。