貨幣一覧

第2927話 2023/01/25

多元史観から見た藤原宮出土「富夲銭」 (3)

藤原宮大極殿跡出土の九枚の富夲銭について、阿部周一さん(古田史学の会・会員、札幌市)から、銭文の字体について次の指摘があります(注①)。

○飛鳥池出土の富夲銭が全体としてほぼ左右対称になっているのに対して、藤原宮出土品の場合、「冨」の「ワ冠」がデフォルメされておらず非対称デザインとなっている。
○これら意匠部分は従来型と比べて洗練されていないように見え、時期的に先行する可能性が示唆される。
○この「冨」の字の「ワ冠」について、その書体が「撥ね形」(一画目も二画目も「止め」ではなく「撥ね」になっている)であり、それは隋代の書体に頻出し、唐代に入ると急速に見られなくなるという古賀氏による指摘(注②)との関連を踏まえると、この富夲銭についてはその製造時期がかなり遡上するものと推定できる。

ここで示された「冨」の「ワ冠」の字体が七世紀の九州王朝(倭国)で採用されていたことがわかっています。たとえば次の史料で、「ワ冠」の一画目と二画目が「止め」ではなく「撥ね」になっており、「ウ冠」では二画目と三画目が「撥ね」になっています。

○鬼室集斯墓碑碑文(朱鳥三年、688年)の「室」
○法隆寺釈迦三尊像光背銘(623年)の「宮」「寶」「當」「勞」
○『法華義疏』の「寶」「窮」「宮」

中国の隋代の次の史料に「撥ね」型が見えます。

○『佛説月鐙三昧経』(大隋開皇九年、589年)の「受」
○『大智度論 巻六十二』(開皇十三年、593年)の「受」「帝」「當」「憂」「常」
○『大方等大集経 巻第廿』(大隋開皇十五年、595年)の「宀/之」 ※「宀」の下に「之」。
○「美人董氏墓誌」(開皇十七年、597年)の「宣」「婉」
○「龍山公墓誌」(開皇二十年、600年)の「帝」「字」「※旁/衣」「官」「宗」「家」 ※「旁」の「方」を「衣」とする字。
○『大般涅槃経 巻第十七』(仁寿三年、603年)の「當」

このように隋朝で流行った書体が九州王朝(倭国)に入り、七世紀の九州王朝系史料に採用されているわけです。藤原宮出土富夲銭が同様の書体であることは、富夲銭を九州王朝貨幣とする文献史学による結論と整合しており、阿部説の傍証となりそうです。それでは藤原宮出土富夲銭の鋳造はどこでなされたのでしょうか。なぜ天武らは飛鳥池で鋳造した富夲銭の字体を変えたのでしょうか。いずれも残された検討課題です。

(注)
①阿部周一「『藤原宮』遺跡出土の『富本銭』について 『九州倭国王権』の貨幣として」『古田史学会報』159号、2020年。
②古賀達也「洛中洛外日記」2099~2102話(2020/03/03~06)〝「ウ冠」「ワ冠」の古代筆跡管見(1)~(4)


第2926話 2023/01/24

多元史観から見た藤原宮出土「富夲銭」 (2)

藤原宮大極殿跡出土の地鎮具(注①)に納められていた九枚の富夲銭について、阿部周一さん(古田史学の会・会員、札幌市)が興味深い研究を発表しています(注②)。その論稿中の指摘を要約し紹介します。

(1) 藤原宮大極殿跡出土の富夲銭は鋳上がりも良いとはいえず、線も繊細ではないし、それ以前に発見されていたものは「富」の字であったが、これが「冨」(ワ冠)になっている。

(2) 内画(中心の四角の部分を巡る内側区画)が大きいため、「冨」と「夲」がやや扁平になっており、「冨」の中の横棒がない。

(3) 七曜紋も粒が大きい。

(4) 飛鳥池出土富夲銭の銭文はほぼ左右対称になっているのに対して、藤原宮出土品の場合、「冨」の「ワ冠」がデフォルメされておらず非対称デザインとなっている。

(5) これら意匠は飛鳥池出土品(従来型)と比べて洗練されていないように見え、時期的に先行する可能性がある。この「冨」の字の「ワ冠」について、その書体が「撥ね形」(一画目も二画目も「止め」ではなく「撥ね」になっている)であり、それは主に隋代までの書体に頻出するもので、唐代に入ると急速に見られなくなるという古賀による指摘(注③)との関連を踏まえると、この富夲銭については製造時期が従来型よりかなり遡上するものと推定できる。

(6) 藤原宮出土富夲銭は飛鳥池出土品と同時期あるいはその後期の別の工房の製品とされているようだが、そのように仮定すると、鋳造所ごとに違うデザイン、違う原材料、違う重量であったこととなる。しかし、鋳造に国家的関与があれば、そのような状況は考えにくい。重量は銭貨にとって重要ファクターであり、同時代ならば同重量であるのが当然だからだ。両者の差異は、鋳造の時期と状況が異なることを推定させ、その場合、藤原宮出土の富夲銭は飛鳥池出土品に先行すると考えるのが妥当である。

(7) 地鎮具に封入されるものとして、特別なもの、あるいは希少なものが使用されるのはあり得ることであり、王権内部で代々秘蔵されていたものがここで使用されたと見ることも出来る。

この阿部稿の指摘の内、(1)~(4)は従来から言われてきたことですが、(5)~(7)が阿部さんによる新説です。なかでも、結論に相当する(7)の「王権内部で代々秘蔵されていたものがここで使用された」という指摘は卓見です。阿部さんは富夲銭を九州王朝の貨幣としていますから、藤原宮は九州王朝の天子のために造営されたとする仮説(西村秀己説、注④)からすると、古いタイプの富夲銭を代々秘蔵してきた王権は九州王朝となるのかもしれません。(つづく)

(注)
①須恵器壺(平瓶 ひらか)の地鎮具に9本の水晶と9枚の富夲銭が入っていた。
②阿部周一「『藤原宮』遺跡出土の『富本銭』について 『九州倭国王権』の貨幣として」『古田史学会報』159号、2020年。
③古賀達也「洛中洛外日記」2099~2102話(2020/03/03~06)〝「ウ冠」「ワ冠」の古代筆跡管見(1)~(4)〟
④西村秀己氏(古田史学の会・全国世話人、高松市)が早くから唱えてきた仮説。


第2925話 2023/01/23

多元史観から見た藤原宮出土「富夲銭」 (1)

近畿天皇家の中枢領域(飛鳥宮遺跡の近傍)である飛鳥池工房遺跡から最多出土した富夲銭に次いで注目されるのが、藤原宮大極殿跡出土の地鎮具(注①)に納められていた九枚の富夲銭です。古代国家の中枢建築物の地鎮具として、この様式は示唆的です。すなわち、須恵器壺(平瓶 ひらか)の中に9本の水晶と水が入っており、その口の部分を9枚の富夲銭により塞ぐという様式を持つこの地鎮具には、新王朝(大和朝廷)のどのような国家意思が込められたのでしょうか。わたしはこの様式について、次のようなアイデアを持っています。

(1) 封入された水晶と、口の部分を封鎖している富夲銭の数がどちらも9個であることは偶然ではなく、何らかの意味を持つ数字と考えるのが穏当である。
(2) そこで思い浮かぶのが、古代国家における「九州」という概念である。古代中国では天子の直轄支配領域を九つに分けて統治するという政治思想があり、その国家自身も「九州」と称するようになった。
(3) 倭国(九州王朝)もこの制度・呼称を採用したと考えられ、その遺称地名として「九州」(九州島のこと)がある(注②)。
(4) こうした政治思想を反映した様式であれば、平瓶内に水没している9個の水晶は、当時(七世紀末から八世紀初頭)の倭国(九州王朝)の姿を表現しているのではあるまいか。
(5) そうであれば、その口の部分を封鎖するように置かれた9枚の富夲銭は、貨幣の持つ力(霊力)で〝倭国(九州王朝)を意味する9個の水晶の復活を阻止する〟という大和朝廷の国家意志を表現したものと思われる。

以上のような作業仮説を考えているのですが、前王朝の貨幣である富夲銭を使用した理由や、その富夲銭と飛鳥池出土の富夲銭とは、品質や重量、銭文の字体などが異なっている理由、飛鳥池遺跡でなければどこで鋳造したのかという新たな疑問が次から次へと浮かび上がります。こうしたことについて論じた優れた論文を阿部周一さん(古田史学の会・会員、札幌市)が発表されています(注③)。(つづく)

(注)
①須恵器壺(平瓶 ひらか)の地鎮具に9本の水晶と9枚の富夲銭が入っていた。
②古賀達也「九州を論ず ―国内史料に見える『九州』の成立」『九州王朝の論理 「日出ずる処の天子」の地』2000年、明石書店。
同「続・九州を論ず ―国内史料に見える『九州』の分国」『九州王朝の論理 「日出ずる処の天子」の地』2000年、明石書店。
③阿部周一「『藤原宮』遺跡出土の『富本銭』について 『九州倭国王権』の貨幣として」『古田史学会報』159号、2020年。


第2924話 2023/01/22

多元史観から見た飛鳥池出土「富夲銭」

「洛中洛外日記」2915話(2023/01/13)〝多元史観から見た古代貨幣「和同開珎」〟で紹介したように、『続日本紀』では和同開珎が大和朝廷(日本国)最初の貨幣と主張しています(注①)。ですから、七世紀以前の貨幣として出土が知られている無文銀銭と富夲銅銭(注②)は九州王朝(倭国)の貨幣と考えざるを得ません。
このことは史料事実に基づいた論理的帰結(論証)ですが、他方、出土事実を子細に見ますと、富夲銭の出土中心が飛鳥池遺跡であることが着目されます。同遺跡は、後の大和朝廷となる近畿天皇家の中枢領域ですから、当地を出土中心とする富夲銭を九州王朝貨幣と見る、先の論証結果とは整合していません。学問研究では、自説に最も不利な史料事実を真正面から受け止めることが大切ですので、この飛鳥池出土の富夲銭について考察を続けています。
フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」によれば、飛鳥池出土「富本銭」について次の解説(一部要約しました)があります。

〝1999年(平成11年)1月、飛鳥池工房遺跡から33点の富本銭が発掘された。それ以前には5枚しか発掘されていなかった。33点のうち、「富本」の字を確認できるのが6点、「富」のみ確認できるのが6点、「本」のみ確認できるのが5点で、残りは小断片である。完成品に近いものには、鋳型や鋳棹、溶銅が流れ込む道筋である湯道や、鋳造時に銭の周囲にはみ出した鋳張りなどが残っている。
富本銭が発掘された土層から、700年以前に建立された寺の瓦や、「丁亥年」(687年)と書かれた木簡が出土していること、『日本書紀』天武12年(683年)の記事に「今より以後、必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いることなかれ」とあることなどから、奈良国立文化財研究所は、和同開珎よりも古く、683年に鋳造されたものである可能性が極めて高いと発表した。
その後の調査では、不良品やカス、鋳型、溶銅などが発見された。溶銅の量から、9000枚以上が鋳造されたと推定され、本格的な鋳造がされていたことが明らかになった。アンチモンの割合などが初期の和同開珎とほぼ同じことから、和同開珎のモデルになったと考えられる。〟

この解説で示された重要な事実は次の4点です。

(1) 七世紀頃の近畿天皇家の中枢領域(飛鳥宮遺跡の近傍)である飛鳥池工房遺跡から富夲銭が最多出土している。
(2) その出土層位は687~700年とされ、富夲銭鋳造が天武期末頃から持統期にかけてなされている。これは藤原宮(新益京)の造営期~完成期に相当する。
(3) 当遺跡での富夲銭鋳造推定量は9000枚とされており、この推定値が正しければ、富夲銭を貨幣として流通させることを意図していたと考えることができる。
(4) 富夲銭のアンチモン含有率が初期の和同開珎とほぼ同じである。

以上の出土事実と、そこから導き出される事象は次のようなものです。

(a) 七世紀第4四半期(恐らく680年代から)の飛鳥では、当地の権力者により本格的な貨幣(富夲銭)鋳造が進められていた。
(b) 富夲銭とその鋳造跡が出土した飛鳥池遺跡からは、「天皇」木簡とともに「大津皇子」「穂積皇子」「舎人皇子」「大伯皇子」「大友」など天武の子供達の名前を記した木簡が出土していることから、富夲銭鋳造は「天武天皇」とその「皇子」らにより主導されたと考えざるを得ない。
(c) 同時期に、律令による全国統治のための朝堂院様式の藤原宮(朝廷)と、その中央官僚群(約八千人。注③)の受け入れが可能な巨大条坊都市(新益京)の造営を飛鳥の近傍で進め、701年の王朝交代の準備を行っている。

このような天武らによる〝国家的事業〟が七世紀の第4四半期、すなわち九州王朝(倭国)の時代に行われていることは、701年の王朝交代の実像に迫る上で重視すべき現象です。(つづく)

(注)
①新日本古典文学大系『続日本紀 一』(岩波書店、1989年)に次の記事が見え、「和同開珎」(銀銭・銅銭)のことと見られる。
「五月壬寅、始めて銀銭を行ふ。」元明天皇和銅元年条(708年)。
「(七月)丙辰、近江国をして銅銭を鋳(い)しむ。」同上。
「八月己巳、始めて銅銭を行ふ。」同上。
②「富本銭(ふほんせん)」と表記されることが多いが、銭文の字体は「富夲」「冨夲」である。七世紀当時の「夲」は、「本」の異体字として通用している。
③服部静尚「古代の都城 ―宮域に官僚約八千人―」『古田史学会報』136号、2016年10月。『発見された倭京 ―太宰府都城と官道―』(『古代に真実を求めて』21集)に収録。


第2918話 2023/01/16

多元史観から見た古代貨幣「無文銀銭」

七世紀以前の九州王朝(倭国)時代の貨幣として、最も古いものが無文銀銭です。重量が約10gに調整されていることから、銀地金としての価値に基づく、秤量貨幣として使用されたものと思われます。
出土分布の中心は難波であり、次いで崇福寺遺跡から12枚出土(注①)した滋賀県や奈良県です。残念ながら、無文銀銭も九州からの出土は確認できていません。九州王朝(倭国)の時代、七世紀以前の貨幣であるにもかかわらず、近畿地方からの出土が中心であり、九州王朝説の立場からは説明困難な事実です。この点、前期難波宮を九州王朝の複都の一つとする説(注②)や、九州王朝近江遷都説(注③)、九州王朝系近江朝説(注④)であれば、こうした出土事実をうまく説明できます。
他方、『日本書紀』顕宗紀には不思議な銀銭記事があります(注⑤)。

○「冬十月戊午朔癸亥(6日)に、群臣に宴(とよのあかり)したまふ。是の時に、天下、安く平かにして、民、徭役(さしつか)はるること無し。歳比(しきり)に登稔(としえ)て、百姓殷(さかり)に富めり。稲斛(ひとさか)に銀銭一文をかふ。馬、野に被(ほどこ)れり。」『日本書紀』顕宗二年(486年)十月条。

通説では、この銀銭記事は『日本書紀』編者による脚色であり、『後漢書』明帝紀からの転用とされています。しかし、当該部分を比較すると、『日本書紀』編者は理由があって「銀銭一文」記事を採用したと考えざるを得ません。

○「是歳、天下安平、人無徭役、歳比登稔、百姓殷富、粟斛三十、牛羊被野」『後漢書』明帝紀
○「是時、天下安平、民無徭役、歳比登稔、百姓殷富、稲斛銀銭一文、馬被野」『日本書紀』顕宗紀

両者を比較して注目されるのが、「粟斛三十」→「稲斛銀銭一文」と、「牛羊被野」→「馬被野」です。当時の日本列島に牛や羊が野に放たれるほどいたとは思えませんから、「馬」に書き変えたものと思われます。あるいは馬が活躍する時代であったため、「馬」にしたのではないでしょうか。すなわち、日本列島の実情に沿った表現に〝正しく〟修正されていると言えます。そうであれば、「粟斛三十」から「稲斛銀銭一文」への修正も歴史事実、あるいは史料事実に基づいたものではないでしょうか。「粟」から「稲」への変更は、水田稲作が盛んな日本列島にふさわしい修正ですから、「稲斛」が「銀銭一文」に相当するという修正記事も、歴史事実を反映したものと考えるのが史料批判の結果、穏当な解釈と思われます。
この理解が正しければ、「馬」や「銀銭」記事が顕宗二年(486年)という時代に入れられた理由もあったはずです。この五世紀末頃という時代は〝倭の五王〟(『宋書』)の一人、倭王武の治世です。軍事力とそれを支える経済力を背景に、倭王武は日本列島各地や朝鮮半島へ侵攻しており、その象徴的表現が「馬」(騎馬軍団)であり、「銀銭」と考えることができます。そうであれば、「稲斛」と交換した「銀銭一文」こそ、九州王朝(倭国)の無文銀銭だったのではないでしょうか。無文銀銭は銀地金として、銀象嵌(注⑥)や銀細工の原材料にもなり、各地の豪族に喜ばれたはずです。倭国の「銀本位制」(古田先生談)は、この時代まで遡ることが可能かもしれません。(つづく)

(注)
①出土時は12枚と報告されているが、現存するのは11枚とのことである。
②古賀達也「洛中洛外日記」2596話(2021/10/17)〝両京制と複都制の再考 ―栄原永遠男さんの「複都制」再考―〟
③古賀達也「九州王朝の近江遷都」『古田史学会報』61号、2004年4月。『「九州年号」の研究』ミネルヴァ書房、2012年に収録。
同「洛中洛外日記」580話(2013/08/15)〝近江遷都と王朝交代〟
④正木裕「『近江朝年号』の実在について」『古田史学会報』133号、2016年4月。
古賀達也「九州王朝を継承した近江朝庭 — 正木新説の展開と考察」『古田史学会報』134号、2016年6月。『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(『古代に真実を求めて』二十集。明石書店、2017年)に転載。
正木裕「『近江朝年号』の研究」(『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(『古代に真実を求めて』二十集。明石書店、2017年)に転載。
⑤日本古典文学大系『日本書紀 上』岩波書店、1986年版。
⑥江田船山古墳(熊本県和水町)、稲荷台1号墳(千葉県市原市)、岡田山1号墳(島根県松江市)出土の銀象嵌鉄剣(太刀)などが著名である。


第2916話 2023/01/14

多元史観から見た古代貨幣「富夲銭」

七世紀以前の九州王朝(倭国)時代の貨幣として、出土が知られているのが無文銀銭と富夲銅銭(注①)です。いずれも出土分布の中心は近畿地方であり、残念ながら九州からの出土は確認できていません。
「洛中洛外日記」2915話(2023/01/13)〝多元史観から見た古代貨幣「和同開珎」〟で紹介したように、『続日本紀』には和同開珎が大和朝廷最初の貨幣としていますから、七世紀後半の遺構から出土(注②)している富夲銭は九州王朝の貨幣と考えざるを得ません。この考古学的出土事実と対応する記事が『日本書紀』天武紀に見えます(注③)。

○「夏四月の戊午の朔壬申(15日)に、詔して曰く、「今より以後、必ず銅銭を用ゐよ。銀銭を用ゐること莫(なか)れ」とのたまふ。乙亥に、詔して曰く、『銀用ゐること止むること莫れ』とのたまふ。」天武十二年(683年)四月条。

この「銀銭・銅銭」記事が時期的に富夲銭に相当しますが、そうであれば出土した富夲「銅銭」の他に富夲「銀銭」もあったことになります。なお、富夲銭出土以前は同記事の「銀銭・銅銭」の鋳造年代は未詳とされていました(注④)。また、この記事は造幣開始記事ではありませんから、九州王朝(倭国)により既に銀銭・銅銭が発行されていたことを示唆しています。しかし、天武十二年(683年)の十八年後には九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)へ王朝交代しますから、富夲銭は広く大量に流通したわけではないようです。(つづく)

(注)
①「富本銭(ふほんせん)」と表記されることが多いが、銭文の字体は「富夲」「冨夲」である。七世紀当時の「夲」は、「本」の異体字として通用している。
②飛鳥池遺跡や上町台地の細工谷遺跡、藤原宮跡などから富夲銭が出土している。
③日本古典文学大系『日本書紀 下』岩波書店、1985年版。
④日本古典文学大系『日本書紀 下』(457頁)頭注には「これらの銀銭・銅銭の鋳造年代は未詳。」とある。


第2915話 2023/01/13

多元史観から見た古代貨幣「和同開珎」

本日の「多元の会」主催のリモート研究会では、清水淹(しみず ひさし、横浜市)さんにより、無文銀銭の研究「謎の銀銭」が発表されました。35年前、わたしが古田史学に入門し、最初に研究したテーマが「九州年号」と「古代貨幣」だったこともあり(注①)、興味深く拝聴しました。
七世紀以前の九州王朝(倭国)時代の貨幣として、出土が知られているのが無文銀銭と富本銅銭です。王朝交代後の大和朝廷の最初の貨幣は和同開珎(銀銭・銅銭)であり、そのことが『続日本紀』(注②)に次のように記されています。

○「五月壬寅、始めて銀銭を行ふ。」元明天皇和銅元年条(708年)。
○「(七月)丙辰、近江国をして銅銭を鋳(い)しむ。」同上。
○「八月己巳、始めて銅銭を行ふ。」同上。

これらは和同開珎(銀銭・銅銭)の発行記事ですが、いずれも「始めて」とあり、この銀銭と銅銭が大和朝廷にとって最初の貨幣発行であると主張しています。なお、この銅銭・銀銭の銭文が「和同開珎」であることを『続日本紀』には記されておらず、その理由は未詳です。(つづく)

(注)
①古賀達也「続日本紀と和同開珎の謎」『市民の古代研究』22号、1987年。
同「古代貨幣『無文銀銭』の謎」『市民の古代研究』24号、1987年。
同「古代貨幣『賈行銀銭片』の謎」『市民の古代ニュース』65号付録、1988年。
これら三編は、『古代に真実を求めて』第3集(明石書店、2000年)に再録した。
②新日本古典文学大系『続日本紀 一』岩波書店、1989年。


第2205話 2020/08/17

滋賀県湖東の「聖徳太子」伝承(3)

 前話〝滋賀県湖東の「聖徳太子」伝承(2)〟で紹介した近江における九州王朝との関係を示唆する遺物・遺構5件の外に、滋賀県大津市の崇福寺跡から出土した無文銀銭も九州王朝が発行した可能性があるとする論文をわたしは30年ほど前に発表したことがあります。「古代貨幣『無文銀銭』の謎」(『市民の古代研究』24号、1987年11月。市民の古代研究会編)という論文で、その根拠として次の点をあげました。

①江戸時代(宝暦年中)に摂津国天王寺村(現、大阪市天王寺区)から無文銀銭が72枚出土したとする記録(注1)があり、貨幣として流通していたと考えてもよい出土量である。
②崇福寺跡から出土した無文銀銭(12枚)の中に、「田」「中」の字のような刻印を持つものがあり、これは『大日本貨幣史』(大蔵省、明治九年発行)に掲載された無文銀銭の刻印に似ていることから、これらの無文銀銭が同一権力者により発行された可能性を示唆している。
③天平十九年に書かれた『大安寺伽藍縁起並流記資材帳』の銀銭の項に「八百八十六文之中九十二文古」とあり、この「古」とされた「九十二文」の銀銭とは無文銀銭のことと考えられる。

 以上の点を拙稿で指摘したのですが、発表当時は「富本」銅銭が飛鳥池遺跡から出土する前であり、富本銭が古代貨幣とは認識されていませんでした。ですから、③の「九十二文古」とされた銀銭は「富本」銀銭(未発見)の可能性もあると今は考えています。
 今回、わたしが改めて着目したのが無文銀銭の出土分布でした。京都市埋蔵文化財研究所・京都市考古資料館発行の「リーフレット京都 No.82(1995年10月) 発掘ニュース17 北白川の無文銀銭」によれば、「現在知られている無文銀銭の数は、出土品、収集品、拓本を含む文献資料などすべて合わせると約130枚を数え、このうちの25枚が現存している。」とあります。この現存する25枚と出土地が記録された大阪市天王寺区の72枚(※「リーフレット京都 No.82 発掘ニュース17 北白川の無文銀銭」は約100枚とする)の分布を見ると、下記の様に九州王朝の複都と考えている難波京と近江大津宮(注2)が分布の二大中心となります。こうしたことから、無文銀銭も九州王朝と滋賀県(近江国)との関係を示唆する遺物と見ても良いのではないでしょうか。

【無文銀銭出土地】
出土地 数(計25)
大阪府  1 +(※約100:摂津天王寺村から江戸時代に出土)
滋賀県 16  (内、12枚は崇福寺跡、1枚は大津市唐橋遺跡出土)
奈良県  6  (内、3枚は明日香村、1枚は藤原京出土)
京都府  1
三重県 1

 上記の内、京都府の1枚は京都市左京区北白川別当町の小倉町別当町遺跡からの出土(注3)で、同地は滋賀県大津市の近傍です。また、滋賀県からは、飛鳥時代の絵画が発見された西明寺がある甲良町(尼子西遺跡)から1枚、創建法隆寺(若草伽藍)と同范瓦が出土した蜂屋遺跡がある栗東市(狐塚遺跡)からも1枚出土していることが注目されます。

(注)
1.内田銀蔵著『日本経済史の研究・上』(1924年〔大正13年〕、同文館)による。
2.正木裕さんの「九州王朝系近江朝」説やわたしの「九州王朝近江遷都」説によれば、近江大津宮は「九州王朝(系)の王宮」ということになる。
3,「洛中洛外日記」1886話(2019/05/06)〝京都市域(北山背)の古代寺院(2)〟参照。


第1130話 2016/01/30

肥沼孝治さんの「十二弁菊花紋」研究

 多元的「国分寺」研究サークルを一緒に立ち上げた肥沼孝治さん(東京都・会員)のブログ「肥さんの夢ブログ(中社)」は古田史学のことも頻繁に取り上げられていることもあって、古田ファンからも人気のサイトです。そのブログで最近面白いテーマ「十二弁の菊花紋」についての論稿が報告されていますので、ご許可をいただいて「洛中洛外日記」に転載させていただきます。
 九州王朝の家紋は「十三弁の菊」とする説を九州王朝のご子孫のMさんから以前お聞きしたことがありますが、「十二弁の菊」も江田船山古墳から出土した大刀に銀象嵌されており、十三弁と十二弁の関係なども興味深い問題です。「十三弁の菊」については「洛中洛外日記」第24話や「天の長者伝説と狂心の渠」などをご参照ください。

「肥さんの夢ブログ(中社)」から転載
 2016年1月25日 (月)
「12弁の菊花紋」無紋銀銭の出土地

 上記の無文銀銭について,先ほど今村啓爾著『富本銭と謎の銀銭〜貨幣誕生の真相』(小学館)で確認したところ,出土地が判明した。摂津国天王寺村の眞實院という字名の畑の中からである。
 摂津国天王寺村といえば,どんぴしゃり!古賀さんが「九州王朝の副都」として論証を進めているまさにその場所で,その九州王朝の発行したと思しき「12弁の菊花紋」入り無文銀銭が発見されたのだ。まさにキャッチャーの構えたミットにズバッと直球が投げ込まれたようなものである。しかもその発見場所の名前が「眞實(真実)院」というわけだから,まさに人生の不思議この上ない。
 なお,無文銀銭が最初に発見されたのも,この眞實院である。(100枚ほど。このうち1枚が現存で,2枚が拓本と図がある)無紋銀銭というと滋賀県の崇福寺が有名だが,あちらは昭和15年と新しい発見で,こちらは1761(宝暦)年10月7日というのだから,桁違いに古い発見なのだ。


第499話 2012/12/05

難波京の冨本銭

 「洛中洛外日記」で古代貨幣についての考察を記してきましたが、それを読んで正木裕さん(古田史学の会々員)からメールが届きました。それには難波宮の南方にある細工谷遺跡から冨本銭や和同開珎が出土していることが記されていました。中でも和同開珎は鋳造途中(失敗作か)の「枝銭」と呼ばれるもので、同地(難波京内)で貨幣鋳造されていたことがわかり、貴重な発掘事例です。
 その後、正木さんとお会いしてこの出土状況について意見交換しました。大阪歴史博物館などの報告では冨本銭は七世紀のものとされているようなのですが、その根拠やアンチモンの含有率の調査、そして飛鳥池出土の冨本銭との関連や比較が必要との認識で意見が一致しました。
 さらに前期難波宮と細工谷の貨幣鋳造遺構との関係も注目されます。同遺跡出土冨本銭は飛鳥池出土のものよりサイズが小さいようですので、これも検討すべき問題です。近いうちに大阪歴史博物館を訪問し、発掘調査報告書を閲覧したいと思います。


第498話 2012/12/02

「古和同」の銅原産地

 斎藤努著『金属が語る日本史』(吉川弘文館、2012年11月刊)を読んで、最も興味深く思ったデータが二つありまし
た。一つは、これまで紹介してきましたように、アンチモンが冨本銅銭や古和同銅銭に多く含まれるということです。もう一つは、古和同銅銭に使用された銅の
原産地に関するデータでした。
 同書によれば和同開珎などの古代貨幣に用いられている銅の産地について、その多くが山口県の長登銅山・於福銅山・蔵目喜銅山産であることが、含有されている鉛同位体比により判明しています。
 ちなみに、「和銅」改元のきっかけとなった武蔵国秩父郡からの「和銅」献上記事(『続日本紀』和銅元年正月条)を根拠に、和同開珎の銅原料は秩父産とする説もありましたが、これも鉛同位体比の分析から否定されています(同書69頁)。
 他方、古和同銅銭については、「古和同のデータの一部は図12の香春岳鉱石の分布範囲と重なっている。」(同書68頁)とあり、古和同銅銭に用いられた
銅材料の原産地の一つが福岡県香春岳であることが示唆されています。すなわち、九州王朝には地元に銅鉱山を有し、伊予国・越智国からは貨幣鋳造に必要なア
ンチモンが入手できたと考えられます。あとは国家として貨幣経済制度を導入する意志を持つか否かの判断です。
 以上、九州王朝貨幣についての考察を綴ってきましたが、九州王朝貨幣鋳造説にとって避けて通れない課題があります。それは貨幣鋳造遺跡と貨幣出土分布濃
密地が北部九州に無いという問題です。このことを説明できなければこの仮説は学問的に成立しません。引き続き、検討をすすめたいと思います。


第497話 2012/11/28

大宰府とアンチモン

 冨本銅銭や古和同銅銭に多く含まれているアンチモンが、越智国や伊予国から献上されていたと見られる記事が『続日本紀』文武二年七月条(698)と『日本書紀』持統五年(691)七月条にあります。

 「伊予国が白(金へん+葛)を献ず。」(『続日本紀』文武二年七月条)

 「伊予国司の田中朝臣法麻呂等、宇和郡の御馬山の白銀三斤八両・あかがね一籠献る。」(『日本書紀』持統五年七月条)

 『続日本紀』には霊亀二年(716)五月条にも「白(金へん+葛)」が見えます。大宰府の百姓が白(金へん+葛)を私蔵しており、それが私鋳銭に使用されているので、官司に納めよという詔勅記事です。

 「勅したまはく、『大宰府の佰姓が家に白(金へん+葛)を蔵(おさ)むること有るは、先に禁断を加へたり。然れども
遒奉(しゅんぶ)せずして、隠蔵し売買す。是を以て鋳銭の悪党、多く奸詐をほしいままにし、連及の徒、罪に陥ること少なからず。厳しく禁制を加へ、更に然
(しか)らしむること無かるべし。もし白(金へん+葛)有らば、捜(さぐ)り求めて官司に納めよ』とのたまふ。」

 このように霊亀二年(716)の詔勅によれば、大宰府の人々が所蔵している白(金へん+葛)が和同開珎の私鋳に使用
されていることがうかがえます。おそらくこの時期の和同開珎であれば古和同銅銭と考えられますから、この記事の「白(金へん+葛)」もアンチモンのことと
見てよいと思われます。すなわち、越智国や伊予国産のアンチモンが九州王朝中枢の人々により収蔵されていたと考えられるのです。
 こうした理解が正しければ、銅とアンチモン合金により貨幣を鋳造する技術が九州王朝に存在したことになります。ちなみに『続日本紀』によれば、近畿天皇による和同銀銭や銅銭の発行は和銅元年(708)のことです。

 「始めて銀銭を行う。」(『続日本紀』和銅元年五月条)
 「始めて銅銭を行う」(『続日本紀』和銅元年八月条)

 そして、その二年後の和銅三年(710)には早くも大宰府から銅銭が献上されています。

 「大宰府、銅銭を献ず。」(『続日本紀』和銅三年正月条)

 この銅銭は和同開珎(おそらくは「古和同」銅銭)のことと思われますが、この素早い銅銭献上記事こそは九州王朝に貨幣発行の伝統があったことの傍証といえるのではないでしょうか。(つづく)