納音付き九州年号史料一覧

第993話 2015/07/04

「肥人の字」「肥人書」のこと

 このところ、鞠智城や「肥後の翁」など肥後の古代史を集中して研究しているのですが、古代において「肥人の字」「肥人書」というものが存在していたことを思い出しました。
 平安時代(10世紀)の『日本書紀』の解説書ともいえる『日本書紀私記』(丁本)に、大蔵省御書所(皇室の蔵書を保管する機関)にある「肥人之字」について次のような「問答」が記されています。

「問ふ、假名の字、誰人の作る所か、と。
師説、大蔵省御書所の中、肥人の字六七板許ある也。先帝(醍醐天皇)、御書所において之を写さしめ給ふ。その字、皆な假名用ふ。或いは「乃」「川」等の字は明らかにこれ見ゆ。若しくは彼を以て始めと為すべきか。」

 大蔵省御書所に「肥人の字」が所蔵されており、それは「仮名」で書かれてあり、「乃(の)」や「川(つ)」などと読める字もあり、これが仮名の始めではないかと説明しています。すなわち、「肥人の字」と記していることから、この謎の「仮名」は肥後か肥前の人の字であるとの認識が示されているのです。同時に「仮名」は大和朝廷(近畿天皇家)で作られたのではないという、平安時代の知識人の認識をも示しており、とても興味深い史料です。
 わたしは、この『日本書紀私記』の記事を20年以上も前に旧友の安田陽介さんの論文「日本書紀私記と『肥人の字』」(『「続日本紀を読む会」論集』創刊号、1993年。非売品)で知りました。当時、わたしは京大で日本史を専攻していた安田さんらと、「続日本紀を読む会」を京都で開催しており、年下の安田さんから多くのことを教えていただきました。「肥人の字」もその勉強会で教えていただいたものです。
 今回、肥後の古代史を研究することになり、20年以上昔のことを思い出しました。更に「肥人書」「薩人書」という史料も御書所にあったと、『本朝書籍目録』(鎌倉時代後期の図書目録)に見えます。おそらくは、これら「肥人の字」や「肥人書」「薩人書」とは九州王朝に淵源する史料であり、近畿天皇家はそれを入手(没収か)し、大蔵省御書所に保管したものと思われます。これらの史料についても九州王朝説による研究が望まれます。どなたか、取り組まれませんか。


第913話 2015/04/03

5月31日(日)、

 熊本県和水町で講演 済み

昨年5月に「納音(なっちん)付き九州年号史料」をテーマに講演した熊本県和水(なごみ)町で、今年も講演させていただくことになりました。久留米大学での公開講座の翌日の5月31日(日)です。お近くの方は是非ご参加ください。
今回のテーマは「邪馬壹国から九州王朝へ -江田船山古墳と九州年号の意味するもの-」というテーマで、昨年よりも一歩踏み込んだ九州王朝の歴史と、当地の江田船山古墳や鞠智城の位置づけについて説明します。九州王朝の歴史をわかりやすく講演しようと考えています。
和水町は江田船山古墳があるところで、同古墳から出土した銀象嵌銘鉄剣はとても有名です。ところがその鉄剣は東京国立博物館にあるため、同町では江田船山古墳出土品資料館新設に向けて取り組んでおられ、鉄剣の「里帰り」を目指しておられます。わたしの講演が、そうした取り組みの一助になれば幸いです。
何より、九州王朝説にとっても同地域は重要なところです。恐らく7世紀初頭、九州王朝(倭国)を訪れた隋の使者は、この地を通って阿蘇山の噴火を見たはずです。こうしたことを声を大にして訴え、町民のみなさんの「町おこし」のお手伝いをさせていただこうと思っています。再び、当地の皆さんにお会いできることを楽しみにしています。

 


第843話 2014/12/28

もう一つの納音(なっちん)付き九州年号史料

熊本県和水町の石原家文書から発見された納音(なっちん)付き九州年号史料のことを「洛中洛外日記」で何回か紹介してきましたが、納音(なっちん)付九州年号史料をもう一つ「発見」しましたので、ご紹介します。
この年末の休みを利用して、机の上や下に山積みになっている各地から送られてきた書籍や郵便物を整理していましたら、山梨県の井上肇さんからの『王代記』のコピーが出てきました。日付を見ると昨年の10月19日となっていますから、一年以上放置していたことになります。一度は目を通した記憶はあるのですが、他の郵便物と一緒にそのままにしておいたようです。
井上さんからは以前にも『勝山記』コピーをご送付いただき、その中にあった「白鳳十年(670)に鎮西観音寺をつくる」という記事により、太宰府の観世音寺創建年が白鳳10年であったことが明確になったということがありました。本日、改めて『王代記』を読み直したところ、九州年号による「年代記」に部分的ですが納音が記されていることに気づきました。
解題によればこの『王代記』は山梨市の窪八幡神社の別当上之坊普賢寺に伝わったもので、書写年代は「大永四年甲申(1524)」とされています。今回送っていただいたものは「甲斐戦国史料叢書 第二冊」(文林堂書店)に収録されている影印本のコピーです。
前半は天神七代から始まる歴代天皇の事績が『王代記』として九州年号とともに記されています。後半は「年代記」と称された「表」で、九州年号の善記元年(522)から始まり、最上段には干支と五行説の「木・火・土・金・水」の組み合わせと、一部に納音が付記されています。所々に天皇の事績やその他の事件が書き込まれており、この点、石原家文書の納音史料とは異なり、年代記の形式をとっています。しかし、ともに九州年号の善記から始まっていることは注目されます。すなわち、納音と九州年号に何らかの関連性をうかがわせるのです。
個別の記事で注目されるのが、「年代記」部分の金光元年(570)に記された次の記事です。

「天下熱病起ル間、物部遠許志大臣如来召鋳師七日七夜吹奉トモ不損云々」

なお、この記事は『王代記』本文には見えませんから、別の史料、おそらくは九州王朝系史料からの転載と思われます。ちなみに、「天下熱病」により、九州年号が金光に改元されたのではないかと正木裕さんは指摘されており、そのことを「洛中洛外日記」340話でも紹介してきたところです。
引き続き、『王代記』の研究を進めたいと思います。ご提供いただいた井上肇さんに御礼申し上げます。


第771話 2014/08/23

納音の古形「石原家文書」

本日の関西例会には遠く埼玉県さいたま市から見えられた会員もおられました。懇親会までお付き合いいただきました。ありがたいことです。
前回に続いて、出野さんからは『説文解字』を中心とした白川漢字学の講義がありました。荻野さんは二度目の発表で、宮城県蔵王山頂にある刈田嶺(かったみね)神社の縁起などに「白鳳八年」「朱鳥四年」という九州年号が記されていることが報告されました。わたしも知らなかった九州年号使用例でした。
今回の発表で最も驚いたのが、服部さんによる熊本県玉名郡和水町で発見された納音(なっちん)付き九州年号史料(石原家文書)についての分析でした。現在流布している納音よりも、和水町の石原家文書に記された納音が古形を示しているというもので、論証も成立しており、とても感心しました。服部さんには論文として発表するよう要請しました。
8月例会の発表テーマは次の通りでした。

〔8月度関西例会の内容〕
1). 『古事記』は本当に抹殺されたのか(高松市・西村秀己)
2). 石原家文書の納音は古い形(八尾市・服部静尚)
3). 真庭市大谷1号墳・赤磐市熊山遺跡の紹介(京都市・古賀達也)
4). 香川県の「地神塔」調査報告(高松市・西村秀己)
5). 『説文解字』(奈良市・出野正)
6). 「ニギハヤヒ」を追う・番外編(東大阪市・萩野秀公)
7). 俾弥呼への贈り物(川西市・正木裕)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
古田先生近況(10/04松本深志高校で講演、11/08八王子大学セミナー)・『古代に真実を求めて』17集発刊・坂本太郎『史書を読む』を読む・角田文衛『考古学京都学派』を読む・梅原末治博士との記憶・河上麻由子『古代アジア世界の対外交渉と仏教』・その他


第759話 2014/08/04

『菊水史談会会報』第20号

先月、熊本県玉名郡和水町の菊水史談会事務局の前垣芳郎さんから、同会会報第20号が送られてきました。それには、本年五月にわたしが同地で講演した記事が掲載されていました。同記事中には「古田史学の会」ホームページの「洛中洛外日記」も紹介されていました。ありがたいことです。
同会会長の有江醇子様からのお手紙も同封されており、講演へのお礼が記されてありました。お手紙によると、「会報」第20号が菊水地区の熊本日々新聞の折り込みとして7月17日の朝刊と一緒に各家庭へ配達されたとのこと。すごい取り組みですね。
有江さんは「九州の古代は倭国の本拠地であったというお話に、私どもは驚きと誇りをいただきました。空白の4~6世紀と言われる現在の日本史を一日も早く復元し、日本の正史に取り上げていただけることを祈っております。」と記されており、恐縮しています。
このように、九州の各地で古田史学・九州王朝説が確実に浸透していることがわかります。これからも各地の団体や研究者と連絡を取り合い、協力して古田史学の啓蒙宣伝を進めていきたいと願っています。


第726話 2014/06/13

『古田史学会報』122号の紹介

 『古田史学会報』122号が発行されましたので、ご紹介します。今号は「四国の会」の筑紫舞見学旅行記が白石恭子さん(今治市)より寄せられました。「北海道の会」からは2013年度活動報告がなされました。各地域の会からの活動報告をこれからも是非お寄せください。
 熊本県和水町の菊水史談会・事務局の前垣芳郎さんによる「納音付き九州年号史料」発見の報告を『歴史玉名』第68号より転載させていただきました。同史料の写真も掲載しましたので、読者にも実感がわくものと思われます。

〔『古田史学会報』122号の内容〕
○亡国の天子薩夜麻  川西市 正木裕
○前期難波宮の論理  京都市 古賀達也
○筑紫舞見学ツアーの報告
 -筑紫舞三〇周年記念講演と大神社展-
  今治市 白石恭子
○【転載】「九州年号」を記す一覧表を発見
 -和水町前原の石原家文書-
 熊本県玉名郡和水町 前垣芳郎
○会員総会・記念講演会のお知らせ
○『古田史学会報』原稿募集
○古田史学の会・北海道 2013年度活動報告
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会 関西例会のご案内


第717話 2014/05/31

『五行大義』の「納音」

 熊本県和水(なごみ)町で発見された「石原家文書」の「納音(なっちん)付き九州年号史 料」により、わたしは「納音」というものを知ったのですが、それがいつの時代にどこで成立したのかはわかりませんでした。インターネットや関連書籍の説明 では中国の唐代には成立していたようなのですが、出典などが不明で今一つ確信が持てませんでした。そのような中、服部静尚さん(古田史学の会・会員、八尾市)から隋代の書籍『五行大義』に「納音」に関する記述があることを教えていただきました。
 『五行大義』巻第一に、次のような書き出しで「納音」についての説明が見えます。

「第四、納音の数を論ず
 納音の数は、人の本命の属する所の音を謂(い)ふなり。」(以下略)

 以下、「木火土金水」などと関連付けながら難渋な説明が続くのですが、たとえば「山頭火」などの「納音」の冒頭の二文字「山頭」とかについては記述がありません。従って、今日見るような「納音」とは趣が異なるようです。
 明治書院のホームページにある説明によれば、『五行大義』5巻の編者は蕭吉で、「先秦時代から隋までの五行説を集め、組織的に整理、分類した書物。伝来の歴史は古く、『続日本紀』や日本国見在書目録にも載せられ、多くの鈔本が伝えられている。日本文学や平安貴族文化に多大な影響を与えたほか、陰陽道の教科書的存在にもなった。」とあります。
 服部さんから教えていただいた『五行大義』を手がかりに、引き続き「納音」の調査を行っていきます。


第709話 2014/05/15

和水町「石原家文書」余滴

熊本県和水(なごみ)町の前垣芳郎さんの御厚意により、大量の「石原家文書」を二日間に わたり拝見せていただきました。そのおり、同文書の中から前垣さんから面白い「書き付け(紙片)」を紹介されました。それは「大化」から江戸時代までの年数を計算した「メモ書き」でした。私の知識では判読不明な字があり、誤読もあるかもしれませんがご紹介します。

「大化?年より安永四年迄
大化より天正四年迄
九百三十年成
天正四年より安永四年迄
?百年成
々千百三十年成
安永五年より安政二年迄
八十年成」

(古賀注)
1). 「より」は変体仮名。
2). 5行目の?は、計算上では「二」だが、そのようには見えない。「弐」の異体字かもしれない。
3). 6行目の「々」は「合」かもしれない。

大意は「大化」(『日本書紀』の「大化」で、元年は645年)から天正・安永・安政までの年数を計算したもので、西暦にすると次のようです。

大化元年  645年
1576-645=年931年
天正四年 1576年
1775-1576=199年
安永四年 1775年
1855-1775=80年
安政二年 1855年

紙片の前後に別の文があったのかどうかは不明ですが、「安政二年」という幕末の年号が記されていますので、この史料の成立は安政二年(1855)以後です。おそらくは安政二年かその数年後までの成立ではないでしょうか。
ただ、大化元年から安政二年までの年数を計算するのであれば、途中の天正や安永は必ずしも必要ではありませんから、もしかすると一旦は天正四年時点で計算した史料があり、その史料に基づいて安永四年に追加算した史料が成立し、更にその「安永四年」史料に基づき安政二年を起点に再計算し、全てを同一筆跡で書写されたものが、当史料ではないかと推測しています。そのように考えると、冒頭の「大化?年より安永四年迄」という計算に不要な一行の意味が理解できそうです。すなわち、「天正四年」史料に基づいて「安永四年」に計算したときの「表題」という位置付けが可能となるのです。そして、安政二年時点ではその安永四年時点の表題も含めて再書写したものと思われます。
しかし、この史料性格はよくわかりません。玉名郡の庄屋さんが何の必要があって、大化からの年数を計算するのでしょうか。恐らくこの史料の性格や目的がわかれば、石原家という庄屋の真の姿や「納音(なっちん)」付き九州年号史料の性格もわかるのではないでしょうか。こうした謎の解明も古文書調査(歴史研究)の醍醐味です。

納音(なっちん)年代計算資料

納音(なっちん)年代計算資料


第708話 2014/05/11

隋使の来た道

 和水町の講演で、『隋書』によれば倭国に来た隋使は阿蘇山の噴火を見ており、そのためには江田船山古墳に見られるような有力者がいた和水町まで来た可能性があると述べました。そして、隋使が来たのは7世紀初頭の九州年号の時代であることから、当地域に残された九州年号による記録や伝承を調査していただきたいと締めくくりました。
 そうしたら、質疑応答のさいに会場から「自宅の近くにある阿蘇神社の記録に『告貴』という年号が記されているが、それが九州年号であったことがよくわかりました。」という発言がありました。「告貴」は6世紀末(594~600年)の九州年号であり、『隋書』に記された九州王朝の天子、多利思北孤の時代の年号です。
 多利思北孤の事績は、後代において『日本書紀』の影響を受けて、近畿天皇家の「聖徳太子」に置き換えられて伝承されている例が多く(法隆寺の釈迦三尊像 など)、熊本県(下益城郡、『肥後国誌』)の九州年号に「聖徳太子」伝承に伴ったものがあることや、熊本県に「天子宮」という名称の神社が濃密に分布していることも(古川さんの調査による)、九州王朝の多利思北孤との関係をうかがわせるものです。
 このように考えてみると、6世紀末から7世紀初頭にかけて、九州王朝は肥後に一拠点をおいたのではないかと、わたしは考えています。例えば菊池城なども そうした背景と影響下に造営されたように思われるのです。また、九州王朝の宮廷雅楽である筑紫舞の「翁」も、「肥後の翁」が中心になって構成されていると聞いていますので、このことも九州王朝と肥後との関係の強さがうかがえるものでしょう。
 九州王朝研究において、筑前・筑後・肥前に比べて、肥後の研究はまだまだ不十分です。和水町での講演や、「納音」付き九州年号史料の発見を良い機会として、当地の皆さんによる調査研究を心から願っています。わたしもまた当地を再訪問したいと思ってします。


第706話 2014/05/09

「九州年号」の王朝

 「洛中洛外日記」第705話『「改元」と「建元」の論理性』で記しましたように、和水町での講演会で近畿天皇家以前に「九州年号」を公布した王朝があったとする論理性(理由)を説明しました。次いで、その王朝がどこにあったのかについて次のように説明しました。
 『二中歴』などに記された古代年号が「九州年号」と呼ばれてきた事実こそが、それらの年号が九州の権力者によって公布されたことを意味します。たとえば、江戸時代の学者、鶴峯戊申が書いた『襲国偽僭考』に九州年号が紹介され、古写本「九州年号」によったと出典を記しています。
 また、『二中歴』の九州年号部分の「細注」の考察からも、この九州年号記事部分が北部九州で成立したことがうかがわれます。それは「倭京二年(619)」に「難波天王寺を聖徳が造る」という天王寺(大阪市の四天王寺)建立記事と、「白鳳」年間に「観世音寺を東院が造る」という太宰府観世音寺建立記事の比較分析です。観世音寺には地名がなく、天王寺には難波という地名が付記されていることから、こられの記事は、太宰府の観世音寺のことを「観世音寺」だけでそれと理解できる地域で成立したことがわかります。すなわち、北部九州で成立した記事であり、読者も同じく北部九州の人々を想定しているわけで す。
 他方、天王寺のほうは「難波」と地名を付記しなければ、遠く離れた大阪の天王寺であることが、北部九州の読者には特定できないから、地名を付記した表記になったわけです。このように、九州年号記事の細注の分析からも、これら「九州年号」記事が北部九州で成立したことが推定できます。このことも、『二中歴』に記された「九州年号」が、九州で成立したことを指示しているのです。(つづく)


第705話 2014/05/07

「改元」と「建元」の論理性

 熊本県和水(なごみ)町での講演会で「九州年号」を紹介するにあたり、まず最初に説明したのは「改元」と「建元」についてでした。
 講演を聴きに来られた皆さんやわたしの世代は、日本最初の年号を「大化」(645年)と学校で習ったはずです。「大化の改新」の「大化」です。ところがその「大化」年号や「大化の改新」を記した『日本書紀』には、天豊財重日足姫天皇(皇極天皇)の四年を改めて大化元年とする(孝徳天皇即位前紀)とあり、 王朝が初めて年号を制定する際の「建元」ではなく、なんと「改元」記事なのです。
 それでは大和朝廷(近畿天皇家)にとって最初の年号制定を意味する「建元」記事はどこにあるかといえば、『続日本紀』の文武天皇大宝元年三月条(701年)にあります。
 「建元して大宝元年としたまう。」(『続日本紀』)
 『日本書紀』も『続日本紀』も近畿天皇家が自らの歴史を、自らの利益のために、自らが編纂記録したものであり、自らに有利になるように記事を「修正・改竄・捏造」することはあっても、不利になるような変更はしないはずです。年号においても同様で、645年に「大化」年号を建元したのであればそう記すはずで、「改元」記事に変更する必要はまったくありません。同様に、701年に「大宝」年号を建元したと自ら主張しているのですから、これもまた嘘をつく必要はありません。すなわち、近畿天皇家は正直に「大化」は「改元」で、「大宝」は「建元」と主張していると考えざるを得ないのです。
 そうすると当然のこととして、一つの王朝にとって「建元」は最初の一回だけで、後は「改元」しかありません。近畿天皇家にとっての「建元」が701年の 「大宝」建元であれば、『日本書紀』に記された「大化(645~649年)」「白雉(650~654年)」「朱鳥(686年)」の3年号はいずれも「改元」と記されていることから、近畿天皇家以外の王朝が、近畿天皇家の「建元」よりも以前に、それらの年号を公布・改元していたと考えざるを得ません。これ が「改元」と「建元」の論理性なのです。
 『日本書紀』に改元記事として記されている「大化」「白雉」「朱鳥」は、『二中歴』などに見える「九州年号」中にありますので、「九州年号」は近畿天皇家以外の王朝が、近畿天皇家よりも以前に「建元」「改元」した年号であることは、上記の論理的帰結なのです。わたしのこの説明に、和水町の皆さんは深く同意され、「九州年号」というものをご理解していただけたようでした。(つづく)


第704話 2014/05/05

『隋書』と和水(なごみ)町

 昨日の和水町での講演会の演題は「『九州年号』の古代王朝」で、副題は「阿蘇山あり、その石、火起こり天に接す。『隋書』」でした。九州年号を発布した古代王朝こそ、『隋書』イ妥国伝に記された阿蘇山のある「九州王朝」であることを、講演の結論としたのですが、今回、初めて江田船山古墳がある和水町を訪問し、『隋書』イ妥国伝に記された風物がこの地に存在していることを確信したのです。
 『隋書』には倭国(九州王朝)について次のような記事があります。わかりやすく、順不同で列挙します。

1.阿蘇山あり、その石、故なくして火起こり天に接す。
2.葬に及んで屍を船上に置き、陸地これを牽(ひ)くに、或いは小輿を以てす。
3,二百余騎を従えて郊労せしむ。
4,小環を以て「慮鳥」「茲鳥」(ろじ)の項にかけ、水に入りて魚を捕らえしめ、日に百余頭を得る。

 1.の記事から九州王朝に来た隋の使者は阿蘇山を実見し、その噴火をリアルに記しています。「その石、故なくして火起こり天に接す」という表現は、活火山が無い中国の中原の人々にとっては驚きを持って受け止めた見事な文章ではないでしょうか。そこで、和水町の方にお聞きしたところ、和水町の山からは阿蘇山が見えるとのこと。わたしの実家の久留米市からは山に登っても阿蘇山は見えませんから、隋使は和水町まで行った可能性は小さくないと思われます。
 次に2.の葬儀の様子ですが、屍を船に乗せるという倭国の風習もまた、隋使にとって珍しい風習と受け止められ、記録に残されたものでしょう。この記事と対応するように、江田船山古墳がある清原(せいばる)古墳群の松坂古墳・首塚古墳・京塚古墳などに「舟形石棺」があります。さらには玉名市の石貫穴観音横穴墓内にも、ご遺体の安置台(側面)がゴンドラ型の石造物であり、まさに『隋書』の記事に対応した埋葬状況が見られるのです。わたしは前垣芳郎さん(菊水史談会事務局)と高木正文さん(当地の考古学者)のご案内により、横穴墓内のゴンドラ型の石造物を見たとき、先の『隋書』の一節を思いだし、その一致に驚 きました。
 3,の記事から、倭国は騎馬隊を持っていたことがわかりますが、高木さんのご説明では玉名地方の古墳から馬の骨が出土するとのこと。江田船山古墳からも 鉄製の鐙(あぶみ)・轡(くつわ)・馬具片が出土しています。有名な銀象嵌鉄刀(国宝)にも見事な馬の象嵌があります。こうしたことから、この地域では少なくとも古墳時代には馬が飼われていたことがわかります。この「馬」や「騎馬」の一致も、『隋書』と和水町を結びつけるものでしょう。
 最後に4.の鵜飼いの記事ですが、筑後川では今でも原鶴で鵜飼いが続けられていますし、矢部川でも江戸時代には鵜飼いが盛んであったことが『太宰管内誌』などの地誌に見えます。和水町を流れる菊池川には鮎はいるそうですが(今でも鮎釣りは盛んとのこと)、鵜飼いの風習はないそうです。ところが、先に紹介した江田船山古墳出土の銀象嵌鉄刀の「馬」の象嵌の裏面に「魚」と「鳥」の象嵌があることが発見されていたことを、わたしは今回の訪問で知りました。高木さんや前垣さんの御厚意によりいただいた『菊水町史 江田船山古墳編』(平成19年発行。菊水町は合併により現在では和水町になっています。)のカラー写真を確認したところ、「鳥」のくちばしの先が下に曲がっており、この「鳥」は鵜である可能性が高いのです。少なくとも、「魚」と一緒に描かれていること から「水鳥」と見るのが自然な理解です。また、「鳥」の首が長いことも「鵜」と見ることを支持していますし、首のあたりに「輪」とも見える象嵌が施してあり、鵜飼いの際に付ける「輪」のようにも思われるのです。
 以上、4点にわたり、『隋書』の記事と和水町の文物との一致を確認してきたのですが、これほどの一致は偶然と見るよりも、隋使がこの地を訪問した根拠とするに十分な傍証と思われるのです。(つづく)