第705話 2014/05/07

「改元」と「建元」の論理性

 熊本県和水(なごみ)町での講演会で「九州年号」を紹介するにあたり、まず最初に説明したのは「改元」と「建元」についてでした。
 講演を聴きに来られた皆さんやわたしの世代は、日本最初の年号を「大化」(645年)と学校で習ったはずです。「大化の改新」の「大化」です。ところがその「大化」年号や「大化の改新」を記した『日本書紀』には、天豊財重日足姫天皇(皇極天皇)の四年を改めて大化元年とする(孝徳天皇即位前紀)とあり、 王朝が初めて年号を制定する際の「建元」ではなく、なんと「改元」記事なのです。
 それでは大和朝廷(近畿天皇家)にとって最初の年号制定を意味する「建元」記事はどこにあるかといえば、『続日本紀』の文武天皇大宝元年三月条(701年)にあります。
 「建元して大宝元年としたまう。」(『続日本紀』)
 『日本書紀』も『続日本紀』も近畿天皇家が自らの歴史を、自らの利益のために、自らが編纂記録したものであり、自らに有利になるように記事を「修正・改竄・捏造」することはあっても、不利になるような変更はしないはずです。年号においても同様で、645年に「大化」年号を建元したのであればそう記すはずで、「改元」記事に変更する必要はまったくありません。同様に、701年に「大宝」年号を建元したと自ら主張しているのですから、これもまた嘘をつく必要はありません。すなわち、近畿天皇家は正直に「大化」は「改元」で、「大宝」は「建元」と主張していると考えざるを得ないのです。
 そうすると当然のこととして、一つの王朝にとって「建元」は最初の一回だけで、後は「改元」しかありません。近畿天皇家にとっての「建元」が701年の 「大宝」建元であれば、『日本書紀』に記された「大化(645~649年)」「白雉(650~654年)」「朱鳥(686年)」の3年号はいずれも「改元」と記されていることから、近畿天皇家以外の王朝が、近畿天皇家の「建元」よりも以前に、それらの年号を公布・改元していたと考えざるを得ません。これ が「改元」と「建元」の論理性なのです。
 『日本書紀』に改元記事として記されている「大化」「白雉」「朱鳥」は、『二中歴』などに見える「九州年号」中にありますので、「九州年号」は近畿天皇家以外の王朝が、近畿天皇家よりも以前に「建元」「改元」した年号であることは、上記の論理的帰結なのです。わたしのこの説明に、和水町の皆さんは深く同意され、「九州年号」というものをご理解していただけたようでした。(つづく)

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