「 小郡宮 」一覧

第1827話 2019/01/19

浄御原令の都城はどこか

 先週末、インフルエンザ(A型)を発症し、他者にうつさないようこの一週間は自宅で安静にしていました。良い新薬のおかげで、身体はすぐに楽になりました。インフルエンザに罹ったのは初めてで、還暦を超え免疫力が落ちているのかもしれません。他方、会社を休んでいる間は古代史の勉強、特に前期難波宮出土須恵器とカール・ポパーの「反証主義」の勉強を集中して取り組むことができました。仕事がなければこれだけ勉強ができるのかと驚いた次第です。一年半後の定年が待ち遠しくなりました。
 今日、「古田史学の会」関西例会がi-siteなんばで開催されました。2月はi-siteなんば、3月は府立労働センター(エル大阪)、4月は福島区民センター、5月・6月はドーンセンターで開催します。
 恒例の新春古代史講演会は2月3日(日)に大阪府立ドーンセンターで開催します。皆さんのご参加をお願いします。
 例会では服部さんが発表された、飛鳥浄御原令の成立と運用が行われた九州王朝の宮殿の所在地を太宰府とする仮説について、質疑が活発に行われました。わたしからは、太宰府条坊都市内に七世紀中頃の大規模な官衙遺構は出土しておらず、浄御原令が運用された宮殿・官衙は前期難波宮ではないかと問いただしました。正木さんからは「飛鳥宮」は小郡の上岩田遺跡が時代や規模が対応しており、古田先生が提唱された小郡飛鳥説でよく、浄御原令は小郡の飛鳥宮で作られ、前期難波宮の官僚群により運用されたとする見解が述べられました。
 この服部説の優れている点は、九州王朝論者が律令による全国支配を九州王朝が行っていたとするのであれば、数千人の官僚とその家族などの生活の場としての巨大条坊都市が不可欠であり、それは七世紀においては前期難波宮と太宰府、そして近畿天皇家の藤原宮だけであり、浄御原令もその例外ではないとされたことです。この服部説以後の九州王朝都城論や律令論を述べる研究者はそれに相応しい条坊都市の提示が不可欠となりました。抽象論や思いつきのような九州王朝都城論ではなく、これからは考古学的根拠を伴った仮説の提起が不可欠な時代に入ったのです。
 今回の例会発表は次の通りでした。なお、発表者はレジュメを40部作成されるようお願いします。発表希望者も増えていますので、早めに西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。

〔1月度関西例会の内容〕
①天皇と対等な大臣・大連・臣(高松市・西村秀己)
②倭王武の上奏文と磐井の勢力範囲(茨木市・満田正賢)
③山の神の猪(京都府大山崎町・大原重雄)
④島根県田和山遺跡の環濠施設について(京都府大山崎町・大原重雄)
⑤河内巨大古墳の造営者についての論点整理(奈良市・日野(奈良市・日野智貴)
⑥条坊都市はなぜ造られたか -浄御原は太宰府-(八尾市・服部静尚)
⑦九州王朝の官僚機構整備と評制施行(川西市・正木 裕)
⑧香坂皇子・忍熊皇子の反乱は何故起きたのか(奈良市・原 幸子)
⑨ヤマトから外界へ -崇神・垂仁の銅鐸圏への展開-(川西市・正木 裕)

○事務局長報告(川西市・正木 裕)
 新入会員、会費納入状況の報告・『古代に真実を求めて』22集編集状況・02/03新春古代史講演会(大阪府立ドーンセンター)の案内、講師:山田春廣氏(会員・千葉県鴨川市)、清水邦彦氏(茨木市立文化財資料館学芸員)・04/19『古代に真実を求めて』出版記念講演会「古代大和史研究会(原幸子代表)」主催、奈良県立情報図書館にて(講師:正木裕さん、服部静尚さん、古賀達也)・「水曜研究会」(豊中倶楽部自治会館)の案内、最終水曜日に開催、連絡先:服部静尚さん・01/25「誰も知らなかった古代史」(森ノ宮キューズモール)、講師:中尾智行さん(大阪府立弥生博物館主任学芸員)・02/19「市民古代史の会・京都」講演会(キャンパスプラザ京都)、毎月第三火曜日18:30〜20:00・02/15「和泉史談会」講演会(和泉市コミュニティーセンター)、講師:正木裕さん・02/01「続日本紀研究会」で服部静尚さんが発表・「古田史学の会」関西例会会場、2月はi-siteなんば、3月は府立労働センター(エル大阪)、4月は福島区民センター、5月・6月はドーンセンター・06/16「古田史学の会」会員総会と懇親会(I-siteなんば)・その他


第1775話 2018/10/22

太宰府条坊七世紀後半造営説

 一昨日、「古田史学の会」関西例会が「大阪府社会福祉会館」で開催されました。なお11月は「福島区民センター」、12月は「i-siteなんば」に会場が戻ります。ご注意ください。
 「洛中洛外日記」1748話1749話「飛鳥浄御原宮=太宰府説の登場(1)(2)」で紹介した服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の飛鳥浄御原宮=太宰府説とする新説が発表されました。その概要は次のような論理展開でした。

①「浄御原令」のような法令を公布するということは、飛鳥浄御原宮にはその法令を運用(全国支配)するために必要な数千人規模の官僚群が政務に就いていなければならない。
②当時、そうした規模の官僚群を収容できる規模の宮殿・官衙・都市は太宰府である。奈良の飛鳥は宮殿の規模が小さく、条坊都市でもない。
③そうすると「飛鳥浄御原宮」と呼ばれた宮殿は太宰府のことと考えざるを得ない。

 質疑応答でわたしから、「飛鳥浄御原宮」が太宰府(政庁Ⅱ期、670年頃の造営か)とするなら条坊都市の造営も七世紀後半と理解されているのかと質したところ、七世紀後半と考えているとの返答がありました。この太宰府条坊七世紀後半造営説には問題点と強みの双方があり、当否は別として重要な見解と思われました。
 その問題点とは、政庁Ⅱ期よりも条坊の方が先に成立しているという井上信正説と一致しないことです。そして強みとは、条坊から七世紀前半の土器が出土していないという考古学的知見と対応することです。今のところ、この服部新説は示唆に富んだ興味深い仮説とは思いますが、まだ納得できないというのがわたしの評価です。しかし、学問研究ではこうした異なる新見解が出されることが重要ですから、これからも注目したいと思います。
 わたしからは過日の福岡市・糸島市の調査旅行で得た「亀井南冥の『金印』借用書」というテーマを報告しました。それは西区姪浜の川岡保さんから教えていただいたもので、志賀島から出土したとされている国宝の「金印」は福岡市西区今宿青木の八雲神社の御神宝(御神体)であり、亀井南冥が持ち主から借りたとする「借用書」が存在していたという新情報です。詳細は「洛中洛外日記」で報告予定です。
 今回の発表は次の通りでした。なお、発表者はレジュメを40部作成されるようお願いします。また、発表希望者も増えていますので、早めに西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。

〔10月度関西例会の内容〕
①飛鳥考(八尾市・服部静尚)
②倭人伝の戸と家(姫路市・野田利郎)
③吉野ヶ里遺跡の物見櫓の復元について(大山崎町・大原重雄)
④亀井南冥の「金印」借用書(京都市・古賀達也)
⑤藤原不比等の擡頭(京都市・岡下英男)
⑥発令後四ヶ月の早すぎる撰上と元明天皇について(東大阪市・萩野秀公)
⑦俾弥呼と「倭国大乱」の真相(川西市・正木裕)

○事務局長報告(川西市・正木裕)
 新入会員の報告・『発見された倭京 太宰府都城と官道』出版記念講演会(10/14久留米大学)の報告・11/06「古代大和史研究会(原幸子代表)」講演会(講師:正木裕さん)・10/31「水曜研究会」の案内(第四水曜日に開催、豊中倶楽部自治会館。連絡先:服部静尚さん)・11/10-11「古田武彦記念新八王子セミナー」・10/26「誰も知らなかった古代史」(森ノ宮)の案内・「古田史学の会」関西例会会場、11月は福島区民センター・西井健さんの著書『記紀の真実 イザナギ神は下関の小戸で禊をされた』紹介・10/28森茂夫さんが京都地名研究会(京丹後市)で講演「浦島伝説の地名〜水ノ江、墨(澄)、薗を巡って」・合田洋一さんの著書『葬られた驚愕の古代史』の村木哲氏による書評「『近畿中心、天皇家一元』史観を解体する」(図書新聞3369号)・新年講演会の案内・その他


第1748話 2018/09/09

飛鳥浄御原宮=太宰府説の登場(1)

 本日、i-siteなんば(大阪府立大学なんばキャンパス)で『発見された倭京』出版記念大阪講演会を開催しました。今回は福島区歴史研究会様(末廣訂会長)と和泉史談会様(矢野太一会長)の後援をいただき、両会の会長様よりご挨拶も賜りました。改めて御礼申し上げます。わたしは「九州王朝の新証言」、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)は「大宰府に来たペルシャの姫・薩摩に帰ったチクシ(九州王朝)の姫」というテーマで講演しました。おかげさまて好評のようでした。
 講演会終了後、近くのお店で小林副代表・正木事務局長・竹村事務局次長ら「古田史学の会・役員」7名により二次会を行いました。そこでは「古田史学の会」の運営や飛鳥浄御原についての学問的意見交換などが行われたのですが、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)から、飛鳥浄御原宮=太宰府説ともいうべき見解が示されました。服部さんによれば次のような理由から、飛鳥浄御原宮を太宰府と考えざるを得ないとされました。

①「浄御原令」のような法令を公布するということは、飛鳥浄御原宮にはその法令を運用(全国支配)するために必要な数千人規模の官僚群が政務に就いていなければならない。
②当時、そうした規模の官僚群を収容できる規模の宮殿・官衙・都市は太宰府である。奈良の飛鳥は宮殿の規模が小さく、条坊都市でもない。
③そうすると「飛鳥浄御原宮」と呼ばれた宮殿は太宰府のことと考えざるを得ない。

 概ねこのような論理により、飛鳥浄御原宮=太宰府説を主張されました。正木さんの説も「広域飛鳥」説であり、太宰府の「阿志岐」や筑後の「阿志岐」地名の存在などを根拠に「アシキ」は本来は「アスカ」ではなかったかとされています。今回の服部新説はこの正木説とも対応しています。
 この対話を聞いておられた久冨直子さん(古田史学の会・会員、京都市)から、太宰府の観世音寺の山号は「清水山」であり、これも「浄御原」と関係してるのではないかという意見が出されました。
 こうした見解に対して、わたしは「なるほど」と思う反面、それなら当地にずばり「アスカ」という地名が遺存していてもよいと思うが、そうした地名はないことから、ただちに服部新説や正木説に賛成できないと述べました。なお、古田先生が紹介された小郡市の小字「飛鳥(ヒチョウ)」は規模が小さすぎて、『日本書紀』などに記された広域地名の「飛鳥」とは違いすぎるという理由から、「飛鳥浄御原宮」がそこにあったとする根拠にはできないということで意見が一致しました。
 わたしの見解とは異なりますが、この服部新説は論理に無理や矛盾がなく論証が成立していますから、これからは注目したいと考えています。やはり、学問研究には異なる意見が出され、真摯な批判・検証・論争が大切だと改めて思いました。(つづく)


第1743話 2018/09/03

「船王後墓誌」の宮殿名(5)

 古田先生は晩年において、近畿から出土した金石文に見える「天皇」や「朝廷」を九州王朝の天皇(天子)のこととする仮説を次々に発表されました。その一つに今回取り上げた「船王後墓誌」もありました。今から思うと、そこに記された「阿須迦天皇」の「阿須迦」を福岡県小郡市にあったとする「飛鳥」と理解されたことが〝ことの始まり〟でした。
 この新仮説を古田先生がある会合で話され、それを聞いた正木さんから疑義(正木指摘)が出され、後日、古田先生との電話でそのことについてお聞きしたのですが、先生は納得されておられませんでした。古田先生のご意見は、「天皇」とあれば九州王朝の「天皇(天子)」であり、近畿天皇家は7世紀中頃において「天皇」を名乗っていないと考えられていることがわかりました。そこでわたしは次のような質問と指摘をしました。

①これまでの古田説によれば、九州王朝の天子(ナンバー1)に対して、近畿天皇家の「天皇」はナンバー2であり、「天子」と「天皇」とは格が異なるとされており、近畿から出土した「船王後墓誌」の「天皇」もナンバー2としての近畿天皇家の「天皇」と理解するべきではないか。
②法隆寺の薬師仏光背銘にある「天皇(用命)」「大王天皇(推古)」は、7世紀初頭の近畿天皇家が「天皇」を名乗っていた根拠となる同時代金石文と古田先生も主張されてきた(『古代は輝いていた Ⅲ』269〜278頁 朝日新聞社、1985年)。
③奈良県の飛鳥池遺跡から出土した天武時代の木簡に「天皇」と記されている。
④こうした史料事実から、近畿天皇家は少なくとも推古期から天武期にかけて「天皇」を名乗っていたと考えざるを得ない。
⑤従って、近畿から出土した「船王後墓誌」の「天皇」を近畿天皇家のものと理解して問題なく、遠く離れた九州の「天皇」とするよりも穏当である。

 以上のような質問と指摘をわたしは行ったのですが、先生との問答は平行線をたどり、合意形成には至りませんでした。なお付言しますと、正木さんは福岡県小郡市に「飛鳥浄御原宮」があったとする研究を発表されています。この点では古田説を支持されています。(つづく)


第1736話 2018/08/30

那須国造碑「永昌元年」の論理(7)

 那須国造碑や釆女氏塋域碑に記された「飛鳥浄原大朝庭」「飛鳥浄御原大宮」について、ここで少し考察してみます。
 「洛中洛外日記」902話(2015/03/19)でわたしは〝「浄御原」「清原」「浄原」〟について次のように論じました。以下、要約して転載します。

【要約転載】
 『日本書紀』(720年成立)天武紀には「飛鳥浄御原宮」と表記され、『古事記』(712年成立)序文には「飛鳥清原大宮」とあります。
 同時代金石文や同逸文に「きよみはら」が記されています。

(1)天武5年(677)小野毛人墓誌(京都市出土)「飛鳥浄御原宮治天下天皇」
(2)天武即位8年(680)薬師寺東塔檫銘(奈良県)「清原馭宇天皇」
(3)持統3年(689)采女氏榮域碑(大阪府出土、今なし)「飛鳥浄原大朝廷」
(4)文武4年(700)那須国造碑(栃木県)「飛鳥浄御原大宮」
(5)景雲4年(707)威奈大村骨蔵器墓誌銘(奈良県出土)「清原聖朝」
(6)和銅8年(715)粟原寺鑪盤銘(奈良県)「大倭国浄美原宮治天下天皇」
(7)天平2年(730)美努岡万墓誌(奈良県出土)「飛鳥浄原天皇」

 大別すると、「浄御原」「浄美原」のように、「きよみはら」と読めるもの(1、4、6)と、「清原」「浄原」のように「み」に対応する「御」「美」がないもの(2、3、5、7)の二種類があります。
 近畿天皇家の正史『日本書紀』には「飛鳥浄御原宮」とありますから、少なくとも『日本書紀』成立以降はこちらを正当としたかったと思われますが、『日本書紀』成立以後の(7)美努岡万墓誌は「飛鳥浄原天皇」とあり、「み」に相当する字がありません。
 701年以前の近畿天皇家中枢領域の金石文の薬師寺東塔檫銘は「清原馭宇天皇」とあり、「み」が無いタイプです。天武の命により作成した金石文ですから、当時としては「清原」が用いられていた「直接証拠」とも言えるので、貴重です。『古事記』序文もこの「清原」を使用していますから、『日本書紀』成立以前の近畿天皇家では「清原」を正当な表記としていたと考えざるを得ません。
 古田先生はこの「浄御原」を「じょう・みばる」と訓み、福岡県小郡市付近にあった九州王朝の宮殿所在地名とされています。
【転載終わり】

 ここで考えなければならないことに、古田説のように「み」がつくケースは九州王朝の「じょう・みばる」宮のことであり、「み」がない場合は奈良の「きよはら」宮のことなのかという問題があります。また、同時代金石文の表記と『古事記』や『日本書紀』の表記との差異が何に基づくのかという点についても検討が必要です。(つづく)


第902話 2015/03/19

「浄御原」「清原」「浄原」

 正木裕さんとの対話がきっかけで、天武天皇やその宮殿の呼称「あすかのきよみはらの宮」について気になりましたので、手持ちの史料を調べてみました。
 まず、『日本書紀』(720年成立)の天武紀には「飛鳥浄御原宮」と表記されています。『日本書紀』の表記は近畿天皇家が九州王朝にかわって列島の代表者となり、自らの都合により編纂されたという史料性格から、その表記や記事が歴史事実であったのかどうかは、別途検証が必要です。『古事記』(712年成立)も同様ですが、その序文には「飛鳥清原大宮」とあり、『日本書紀』とは異なっています。
 次いで同時代史料として金石文について調べました。わたしの知る範囲では下記の金石文や同逸文に「きよみはら」が記されています。

(1)天武5年(677)小野毛人墓誌(京都市出土)「飛鳥浄御原宮治天下天皇」
(2)天武即位8年(680)薬師寺東塔(擦)銘(奈良県)「清原馭宇天皇」 ※(擦)は木偏に察。
(3)持統3年(689)采女氏榮域碑(大阪府出土、今なし)「飛鳥浄原大朝廷」
(4)文武4年(700)那須国造碑(栃木県)「飛鳥浄御原大宮」
(5)景雲4年(707)威奈大村骨蔵器墓誌銘(奈良県出土)「清原聖朝」
(6)和銅8年(715)粟原寺鑪盤銘(奈良県)「大倭国浄美原宮治天下天皇」
(7)天平2年(730)美努岡万墓誌(奈良県出土)「飛鳥浄原天皇」

 大別しますと、「浄御原」「浄美原」のように、「きよみはら」と読めるもの(1、4、6)と、「清原」「浄原」のように「み」に対応する「御」「美」がないもの(2、3、5、7)の二種類があります。この差に何か意味があるのか、今のところよくわかりません。ただ単に「清原」だと「きよはら」と訓んでしまいそうです。
 どちらの表記が本来の天武の宮殿の名称だったのでしょうか。近畿天皇家の正史『日本書紀』には「飛鳥浄御原宮」とありますから、少なくとも『日本書紀』成立以降はこちらを正当としたかったと思われますが、『日本書紀』成立以後の(7)美努岡万墓誌は「飛鳥浄原天皇」とあり、「み」に相当する字がありません。
 701年以前の近畿天皇家中枢領域の金石文の薬師寺東塔(擦)銘は「清原馭宇天皇」とあり、「み」が無いタイプです。天武の命により作成した金石文ですから、当時としては「清原」が用いられていた「直接証拠」とも言えるので、貴重です。『古事記』序文もこの「清原」を使用していますから、『日本書紀』成立以前の近畿天皇家では「清原」を正当な表記としていたと考えざるを得ません。
 このように考えると、なぜ『日本書紀』は「飛鳥浄御原宮」としたのでしょうか。古田先生はこの「浄御原」を「じょう・みばる」と訓み、福岡県小郡市付近にあった九州王朝の宮殿所在地名とされています。今のところ、わたしには良い結論が出せませんが、慎重に深く考えてみたいと思います。


第901話 2015/03/17

小郡宮と飛鳥宮(2)

 正木裕さん(古田史学の会・全国世話人)との古代史談義のテーマは、小郡宮から飛鳥宮へと移りました。正木説によれば、宝満川(阿志岐川)が『万葉集』などに見える「あすか川」であり、筑後川を挟んで小郡・朝倉と久留米一帯の広域地名が「あすか」と比定されています。従って、この領域にあった宮殿は「あすかの○○宮」と称されることになります。
 他方、奈良県明日香村にも7世紀の宮殿遺構があり、これらも「あすかの○○宮」と呼ばれていたことを疑えません。そこで問題となるのが、『日本書紀』や『万葉集』、金石文に記されたそれぞれの「あすか宮」「あすかの○○宮」を、どちらの「あすか」と見るのかということです。二つの候補地がある以上、史料ごとに個別に検討しなければなりませんが、これがなかなか難しく、正木さんとの検討でも、まだ結論を得るには至りませんでした。特に「あすかのきよみはらの宮」「きよみはらの宮」に関しては、かなり突っ込んだ意見交換と検討を続けました。この問題について、引き続き考えたいと思います。


第900話 2015/03/16

小郡宮と飛鳥宮(1)

 先週の土曜日、正木裕さん(古田史学の会・全国世話人)が京都に見えられたので、いつものように拙宅近所の喫茶店で2時間以上、古代史談義を行いました。今回の話題は『日本書紀』の大化改新詔についての検討で、正木さんが書き上げられたばかりの論文の示され、改新詔には九州年号の常色年間(647-651)に公布された「常色の改新詔」と九州年号の大化年間(695-703)に公布された「大化の改新詔」が混在しており、両者を区別する方法論とその結果について説明されました。かなり説得力のある論稿でした。
 そこでわたしは次のような質問をしました。九州年号の大化改新詔は藤原宮で出されたとして、前期難波宮の完成前に当たる常色改新詔はどこの宮殿で出されたと考えられるのかと。正木さんの回答は、福岡県小郡市にあったと思われる「小郡宮」で出されたというものでした。『日本書紀』孝徳紀に見える「小郡宮」を福岡県の小郡市にあったとされ、その考古学的痕跡として、小郡官衙遺跡・上岩田遺跡などを指摘されました。
 「空理空論」ではなく、史料根拠と考古学的事実を提示しての正木説は有力説とは思うのですが、なぜ太宰府の王宮(小字扇屋敷の王城神社の地、王城宮か)ではなく、「小郡宮」なのかという疑問もあり、わたし自身はまだ完全には納得していません。しかしながら、正木さんの精力的な研究と質を維持ながらの論文の「量産」には刮目し、いつも驚かされています。(つづく)


第300話 2011/01/16

両京制への展望

 昨日の関西例会では、わたしの前期難波宮九州王朝副都説の検証が行われました。事前に大下さんに多岐に渡る質問項目をレジュメとして用意していただいたので、有意義な質疑応答が繰り返されました。
 わたしも事前に自説を改めて見直したのですが、前期難波宮は副都に留まらず、難波京ともいうべき規模であることから、九州王朝は7世紀後半に倭京(太宰府)と難波京の「両京制」を採用していたのではないかと考えるようになりました。というのも、昨年、難波に条坊制の痕跡が確認されたことにより、その条坊区割り尺度から前期難波宮の造営と同時に条坊制の京域設計がなされたと考えられるに至ったからです。この点、『古田史学会報』に連載予定の拙稿「前期難波宮の考古学」にて詳細に説明したいと考えています。
 この他、例会では竹村さんによる『先代旧事本紀』の研究報告や、水野代表による東大寺「お水取り」長屋王鎮魂法要説は興味深いものでした。このように、新年最初の関西例会に相応しい発表や質疑応答があり、2011年も新発見続出の予感がしています。
1月例会の発表は次の通りでした。

〔古田史学の会・1月度関西例会の内容〕
○研究発表
(1) 米国防長官 (豊中市・木村賢司)
(2) 天子(帝)になれる条件 (豊中市・木村賢司)
(3) 陳寿の音韻 (豊中市・木村賢司)
(4) 「糊塗」 (豊中市・木村賢司)
(5) 出産の測定は曜日でする (豊中市・木村賢司)
(6) 倭人伝の「距離」と「旅行記」
ーー倭人伝に残された謎(1)の補足(姫路市・野田利郎)
(7) 其の北岸 ーー倭人伝に残された謎(2) (姫路市・野田利郎)
(8)先代旧事本紀「推古27年条」 (木津川市・竹村順弘)
(9) 唐の倭国駐留軍 (木津川市・竹村順弘)

(10)「飛鳥」は「筑紫小郡」か  (川西市・正木裕)
ーー書紀の編纂者は「飛鳥浄御原宮」の命名根拠を知らなかった

『書紀』では天武が六七二年飛鳥浄御原宮を造り即位したと記す一方、六八六年に朱鳥改元に因んで飛鳥浄御原宮と名づけたとする。この二つの記事の合理的解釈として、
1).飛鳥浄御原宮は九州王朝の宮で「飛鳥の明日香」と呼ばれた筑紫小郡にあった。
2).天武は壬申乱後この宮で即位した。
3).薩夜麻はここで育ち、その地名(山川・野の名)をとり幼名明日香皇子と名づけられた。
4).しかし、近畿天皇家が政権を奪取した九州年号大化期に明日香(飛鳥)は大和の地名とされ、筑紫明日香は阿志岐に変えられた。
5).『書紀』編者は「飛鳥浄御原宮」を近畿天皇家・天武の宮とする必要があったが、筑紫の現地地名に因む宮の名の由来を知らなかった為、「朱鳥改元」を根拠にせざるを得なかった。

以上を「大化改新詔」「古事記序文」「万葉歌」ほかを根拠に示した。

(11)前期難波宮九州王朝副都説の検証 (京都市・古賀達也)

○水野代表報告
古田氏近況・会務報告・東大寺「お水取り」は長屋王鎮魂法要・他(奈良市・水野孝夫)