肥後の翁一覧

第2899話 2022/12/24

筑紫舞「翁」成立年代の考察

 倭国(九州王朝)の宮廷舞楽として伝えられた筑紫舞に「翁(おきな)」という演目があります。「翁」には「三人立(だち)」「五人立」「七人立」「十三人立」がありますが、西山村光寿斉さん(注①)によれば「十三人立」は伝わっていないとのこと(注②)。この翁の舞は、諸国の翁が都(筑紫)に集まり、その国の舞を舞うという内容です。その国とは次の通りです。

《三人立》「肥後の翁」「都の翁」「加賀の翁」
《五人立》「肥後の翁」「都の翁」「加賀の翁」「出雲の翁」「難波津より上りし翁」
《七人立》「肥後の翁」「都の翁」「加賀の翁」「出雲の翁」「難波津より上りし翁」「尾張の翁」「夷(えびす)の翁」

 古田先生の解説によれば、翁の舞の原初形は「三人立」で、倭国(九州王朝)の領域拡大とともに「五人立」「七人立」と増え、それぞれの成立年代を次のように推定されました。

《三人立》弥生時代前期。筑紫を原点(都)として、東の辺境を越(後の加賀)、南の辺境を肥後とする時代。
《五人立》六世紀。翁の舞の中心人物が「三人立」では「都の翁」だが、「五人立」「七人立」では「肥後の翁」が中心となっていることから(注③)、肥後で発生した装飾古墳が筑紫(筑後)へ拡大した時代。
《七人立》七世紀前半。「夷の翁」(蝦夷国あるいは関東地方)が現れることから、多利思北孤の「東西五月行、南北三月行」(『隋書』俀国伝)の領域の時代。

 筑紫舞の「翁」の〝増加〟が倭国(九州王朝)の発展史に対応しているとする古田先生の理解に賛成です。また、その成立時期についても概ねその通りと思いますが、現在の研究状況を踏まえると次の諸点に留意が必要と思われます。

(1) 筑紫舞と呼ばれることから、「都の翁」の都とは筑紫であることは古田先生の指摘通りだが、「筑前の翁」でも「筑後の翁」でもないことから、多利思北孤による六十六国分国の前に成立した「舞」である。
(2) そうであれば、弥生時代や六世紀の成立とする「三人立」「五人立」に登場する「肥後の翁」の「肥後」の本来の国名は「火の国」であったと思われる。
(3) 同様に「加賀の翁」の「加賀」も分国後の名称であり、「三人立」「五人立」での本来の国名は「越の国」となる。
(4) 「五人立」になって登場する「難波津より上りし翁」は、倭の五王時代の九州王朝による難波進出に対応している。大阪市上町台地から出土した古墳時代の国内最大規模の大型倉庫群が考古学的史料根拠である。
(5) 分国後に成立したとされる「七人立」の「夷の翁」の「夷」は蝦夷国(陸奥国)とするのが穏当と思われる。
(6) 弥生時代成立の「三人立」に、天孫降臨の中心舞台の一つである「出雲国」(当時の「大国」)が登場しないことは、「出雲国」はまだ独立性を保っており、九州王朝への「舞」の奉納をしなていかったのではないか。
(7) 古墳時代に至り(倭の五王の時代か)、「出雲国(大国)」は九州王朝の傘下に入り、「五人立」「七人立」には「出雲の翁」が登場することになったと思われる。

 以上の考察の当否は今後の研究と検証に委ねますが、筑紫舞の「翁」の変遷が倭国(九州王朝)の歴史(版図)と対応しているようで、興味深く思っています。

(注)
①西山村光寿斉(旧名・山本光子、2013年没)。先の大戦の最中、菊邑検校から只一人筑紫舞を伝受した。
②古田武彦『よみがえる九州王朝』「幻の筑紫舞」(角川選書、1983年。ミネルヴァ書房より復刊)に経緯が詳述されている。
③同②の「あとがきに代えて」に次の経緯が紹介されている。
 〝今年(一九八二)の十一月上旬、西山村光寿斉さんから電話がかかってきた。「大変なことに気がつきました」「何ですか」「今、翁の三人立を娘たちに教えていたところ、どうも勝手がちがうのです。これは、五人立や七人立とちがって、都の翁が中心なんです」「……」「前に、翁は全部肥後の翁が中心だといいましたけれど、えらいことをいうてしもて」「結構ですよ。事実だけが大切なのですから」「検校はんから三人立を習うとき、近所から習いに来てた子が、都の翁になって中心にいるので、わたし、すねたことがあるんです。今、手順を追うているうちに、ハッキリそれを思い出しました。……」〟ミネルヴァ書房版、264~265頁。


第2215話 2020/08/27

アマビエ伝承と九州王朝(4)

 アマビエ伝承において、アマヒコが「肥後国の海」に現れるということに、わたしは思い当たることがありました。九州王朝(倭国)の天子や王の存在や事績が後に「アマの長者」伝説として伝わる際、「アマ」には「天」や「尼」の字が使われるのですが、肥後国の「アマの長者」伝説にはなぜか「蜑」という珍しい字が使われているのです(注①)。
 肥後の国府(熊本市)に「アマの長者」がいたという伝承が史料中に見え、それには「蜑(アマ)の長者」と記されており(注②)、この「蜑」という字の意味は海洋民、すなわち「海人」のことだそうです。アマヒコが「肥後国の海」から現れると伝えられていることと、肥後の「アマの長者」は「蜑」という海に関係する珍しい字が採用されていることとが両伝承の結束点です。
 なお、「蜑の長者」の娘が菊池の米原(よなばる)長者に嫁入りしたという伝承もあり(注③)、たくさんの贈り物を米原長者に送るため、肥後国府(熊本市)から鞠智城までの道路「車路(くるまじ)」を「蜑の長者」が造営したとされています。
 今回の〝アマビエ伝承と九州王朝〟では、同伝承の主役「アマヒコ」が九州王朝の天子、あるいは王族に由来するという作業仮説(思いつき)に基づき、両者の共通点を傍証として取り上げました。しかしながら、アマビエ伝承そのものが肥後地方に遺っていないという弱点を持つため、残念ながら作業仮説の域を出ていません。引き続き、調査検証を進めていきます。新たな発見や論証の進展が見られましたら報告します。(おわり)

(注)
①web辞書によれば、「蜑」の音読みは「タン」、訓読みは「あま」の他に「えびす」もあり、九州王朝の天子や王(アマの長者)にふさわしい漢字とは思われない。
②古賀達也「洛中洛外日記」950話(2015/05/12)〝肥後にもあった「アマ(蜑)の長者」伝説〟
③古賀達也「洛中洛外日記」949話(2015/05/11)〝「肥後の翁」の現地伝承〟


第2214話 2020/08/26

アマビエ伝承と九州王朝(3)

 アマビエ伝承における「アマヒコ」という本来の名前と、出現地が「肥後の海」という点にわたしは着目しました。特に「アマヒコ」という名前は示唆的です。というのも、九州王朝の天子の名前として有名な、『隋書』に記された「阿毎多利思北孤」(『北史』では「阿毎多利思比孤」)は、アメ(アマ)のタリシホ(ヒ)コと訓まれています。このことから、九州王朝の天子の姓は「アメ」あるいは「アマ」であり、地方伝承には「アマの長者」の名前で語られるケースがあります。たとえば筑後地方(旧・浮羽郡)の「天(あま)の長者」伝承(「尼の長者」とする史料もあります)などは有名です(注①)。
 また、「ヒコ」は古代の人名にもよく見られる呼称で、「彦」「毘古」「日子」などの漢字が当てられることが多く、『北史』では「比孤」の字が用いられています。ですから、「アマビエ」の本来の名前とされる「アマヒ(ビ)コ」は九州王朝の天子、あるいは王族の名前と考えても問題ありません。
 もしかすると、阿毎多利思北(比)孤の名前が千年にも及ぶ伝承過程で、「阿毎・比孤」(アマヒコ)と略されたのかもしれません。というのも、『隋書』には阿蘇山の噴火の様子が記されており(注②)、九州王朝の天子と阿蘇山(肥後国)との強い関係が想定され、アマビエ伝承の舞台が肥後国であることとも対応しています。この名前(アマ・ヒコ)と地域(肥後)の一致は、偶然とは考えにくいのではないでしょうか。(つづく)

(注)
①古賀達也「天の長者伝説と狂心の渠(みぞ)」(『古田史学会報』四十号、二〇〇〇年十月)
②「有阿蘇山其石無故火起接天」『隋書』俀国伝
 〔訳〕阿蘇山有り。其の石、故(ゆえ)無くして火を起こし、天に接す。


第2212話 2020/08/24

アマビエ伝承と九州王朝(1)

 コロナ禍の中、流行病を防ぐという言い伝えを持つアマビエと呼ばれる妖怪が注目されています。その姿が江戸時代の瓦版などに画かれており、web上ではおおよそ次の様な説明がなされています。

①アマビエは元々は三本足の猿のような妖怪「アマヒ(ビ)コ」だったと考えられている。両者の名前の違いは、描き写す際に「書き誤った」か、瓦版として売る際にあえて「書き換えた」とみられる。
 ※誤写例(案):「アマヒ(ビ)コ」→「アマヒユ」→「アマヒ(ビ)エ」

②瓦版などの記述によれば、アマビエは、肥後国の海辺で役人の柴田忠太郎が遭遇した際、「今年から六年の間は諸国豊作だが、病多き事なり」と予言した。さらに「私の姿を早く写して人に見せるならばはやり病にはかからない」と告げて海中に消えた。

③アマビコの出たとされている海の多くは肥後国の海であったとされるが、それにつづく郡名は架空(真字郡、真寺郡、青沼郡など)であることも多く、その地域内の具体的にどこの海であったかが細かく語られることは無い。

④海彦(越後国)、尼彦入道(日向国)などの例も見られる。天日子尊(『東京日々新聞』)は越後国の湯沢近辺の田んぼから現われたと語られている。

⑤柴田という武士が正体を探りに出向くと、姿を現わし、自分はアマビコというものであると語る。柴田五郎左衛門、柴田五郎右衛門など、アマビコに遭遇したとされる人物が文中に登場する場合、ほとんどは熊本の「しばた」という名の武士であると書かれている。

 おおよそ、以上の様に解説されています。この中でわたしが着目したのが、「アマヒコ」という名前と、出現地が「肥後の海」であるという点でした。(つづく)


第1201話 2016/06/05

鞠智城出土炭化米のC14測定年代

 「洛中洛外日記」1200話で、鞠智城創建時期は7世紀初頭の多利思北孤の時代まで遡るのではないかと述べましたが、Facebook での読者(西野さん)から鞠智城出土炭化米の炭素同位体年代測定がなされており、7世紀よりも古いという測定結果が出されているとのご教示をいただきました。こうしたリアルタイムでの応答や情報交換ができることはFacebook などの強みで、「古田史学の会・WEB例会」を構築したいという、わたしの希望の良き先例となりそうです。
 西野さんからご紹介された『鞠智城 第13次発掘調査報告』(平成4年3月、熊本県教育委員会)の「第七節 出土炭化物について」(p.51)によると「平成3年度の第13次調査で炭化米が出土したので、カーボンの年代測定を京都産業大学理学部の山田治教授に依頼した。結果は下記の通りであるが、若干の補足説明を行う。」として、次のように記されています。

①山田教授によれば、一年生植物である炭化米の測定年代は、年輪を有する木材等と違い、試料自体に原因を持つ誤差は生じないという。
②南側八角形建築址の堀形埋土を切る柱穴より出土した炭化米の年代は1000±15BPで、これは西暦950±15年に該当するが、この値は更に細かく考察すると第21表の14C年代と年輪年代との対照表では、標準偏差2倍、信頼度95%でAD(西暦)1000〜1020年になる。しかるに、文献上から鞠智城が消える年代が879年(『三代実録』による)なのでカーボン測定値と文献資料の年代は大体一致する事になる。
③17調査区の北東隅から検出された炭化米の年代測定結果は1450±15BPとなり、これは西暦500±15年という事になる。同じく、第21表によりAD590〜640年(6世紀後半〜7世紀中葉)という事になる。この年代は大きな問題である。そもそも文献上に鞠智城が現れるのは西暦698年(『続日本紀』による)であるので、年代が若干、遡ることになる。平成2年度に鞠智城の第9次調査(昭和62年度調査)で長者山より出土した炭化米を同教授のもとで測定した所、西暦650±30年(第21表によりAD660〜770年)という文献記録と照合しても妥当な線がでているが、今回はその年代よりも70〜130年程以前のものとなってしまう。この件に関し、鞠智城の築造年代にもかかわってくる問題なので(これまでの調査結果では城内から検出される竪穴住居址の最終年題が6世紀後半であるので、それ以前に鞠智城の築造年代が遡る事は考えられない。炭化米の年代はギリギリの線である)、今回は山田教授の結果報告のみの掲載に留める事にする。

 以上のように、この炭化米の測定年代の取り扱いに困っているのですが、わたしの多利思北孤の時代に創建されたとする説にはよく対応しており、自説に自信を深めました。この報告書の存在をご教示いただいた西野さんに感謝申し上げます。


第1199話 2016/06/03

方保田東原遺跡・双子塚古墳を訪問

 5月29日の和水町講演会も無事に終えて、その翌日は菊水史談会の前垣さんと考古学者の高木正文さんの御案内で、弥生時代から古墳時代前期にかけての国内でも最大級の環濠集落である方保田東原遺跡(かとうだひがしばるいせき)と遺跡敷地内にある山鹿市出土文化財管理センターを訪問しました。高名な高木さんのおかげで、収蔵庫内にも入れていただき、土器や鉄鏃、ガラス玉などを間近で見ることができました。
 学芸員の方の説明ではこの度の大地震により、出土土器が少なからず破損したとのことでした。このような大規模な環濠集落が熊本県にあったことを、わたしは知りませんでしたので、とても勉強になりました。
 黒曜石が多数散らばっていた吉野ヶ里遺跡とは異なって、ここは鉄鏃の出土が多いように感じました。肥後は鉄器の出土量が弥生末期になると福岡県を抜いてトップになるほどの鉄の産地です。ちなみに奈良県は弥生時代の遺跡からは鉄器がほとんど出土しません。にもかかわらず、「邪馬台国」畿内説を支持する考古学者が多いことは理解に苦しみます。日本の考古学は学問ではないかのようです。
 次に、熊本県最大級の前方後円墳である山鹿市双子塚古墳を訪れました。同古墳をわたしは韓国にある方部が三角錐のように尖っている前「三角錐」後円墳と思っていたのですが、そうではなく三段築造の前方後円墳でした。写真ではなく現地で直接観察することが大切でした。


第1197話 2016/06/01

久留米大学公開講座は盛況

 5月28日に開催された久留米大学公開講座は、おかげさまで盛況でした。正木裕さんが「聖徳太子」(多利思北孤)は久留米にいたことを明らかにされ、九州王朝の兄弟統治についても解説されたところ、質疑応答ではその「弟」についての質問や、久留米からは7世紀初頭の宮殿遺構が発見されていないなどの鋭い本質的な質問が出されました。年々、聴講者からの質問のレベルが高くなっているように思いました。
 そうした質問に対応するように、わたしからは「弟」を「肥後の翁」とする仮説を発表しました。また、北部九州の須恵器編年が40年ほど古くなる可能性があり、久留米市から出土した筑後国府遺構の編年についても再検討する必要があることを説明しました。
 講演後は西鉄久留米駅近くの居酒屋に場所を換えて、当地の会員のみなさんや久留米地名研究会の荒川会長や久留米大学の福山教授も交えて、夜遅くまで歓談しました。


第993話 2015/07/04

「肥人の字」「肥人書」のこと

 このところ、鞠智城や「肥後の翁」など肥後の古代史を集中して研究しているのですが、古代において「肥人の字」「肥人書」というものが存在していたことを思い出しました。
 平安時代(10世紀)の『日本書紀』の解説書ともいえる『日本書紀私記』(丁本)に、大蔵省御書所(皇室の蔵書を保管する機関)にある「肥人之字」について次のような「問答」が記されています。

「問ふ、假名の字、誰人の作る所か、と。
師説、大蔵省御書所の中、肥人の字六七板許ある也。先帝(醍醐天皇)、御書所において之を写さしめ給ふ。その字、皆な假名用ふ。或いは「乃」「川」等の字は明らかにこれ見ゆ。若しくは彼を以て始めと為すべきか。」

 大蔵省御書所に「肥人の字」が所蔵されており、それは「仮名」で書かれてあり、「乃(の)」や「川(つ)」などと読める字もあり、これが仮名の始めではないかと説明しています。すなわち、「肥人の字」と記していることから、この謎の「仮名」は肥後か肥前の人の字であるとの認識が示されているのです。同時に「仮名」は大和朝廷(近畿天皇家)で作られたのではないという、平安時代の知識人の認識をも示しており、とても興味深い史料です。
 わたしは、この『日本書紀私記』の記事を20年以上も前に旧友の安田陽介さんの論文「日本書紀私記と『肥人の字』」(『「続日本紀を読む会」論集』創刊号、1993年。非売品)で知りました。当時、わたしは京大で日本史を専攻していた安田さんらと、「続日本紀を読む会」を京都で開催しており、年下の安田さんから多くのことを教えていただきました。「肥人の字」もその勉強会で教えていただいたものです。
 今回、肥後の古代史を研究することになり、20年以上昔のことを思い出しました。更に「肥人書」「薩人書」という史料も御書所にあったと、『本朝書籍目録』(鎌倉時代後期の図書目録)に見えます。おそらくは、これら「肥人の字」や「肥人書」「薩人書」とは九州王朝に淵源する史料であり、近畿天皇家はそれを入手(没収か)し、大蔵省御書所に保管したものと思われます。これらの史料についても九州王朝説による研究が望まれます。どなたか、取り組まれませんか。


第986話 2015/06/23

「肥後の翁」と「加賀の翁」の特産品

 筑紫舞を代表する翁の舞で最も古いタイプとされる「三人立」は「都の翁」(都は筑紫)と「肥後の翁」「加賀の翁」により舞われます。筑紫舞ですから「都の翁」(筑紫)は当然ですが、何故「肥後」と「加賀」から翁が来たのでしょうか。あるいは選ばれたのでしょうか。その理由がようやくわかりかけてきました。
 まず「肥後の翁」ですが、「洛中洛外日記」第948話「肥後の翁」の考古学で紹介しましたように、弥生時代の後期・末期になると福岡県を抜いて、熊本県の鉄器出土点数がダントツで一位になります。これは阿蘇山付近から「鉄」が産出されるようになったことが背景にあります。従って、それまで主に朝鮮半島から鉄を得ていた倭国は自前の鉄供給が可能になったと思われます。すなわち、「肥後の翁」の特産品「鉄」が「都」に献上されたのでしょう。
 次に「加賀の翁」ですが、これも「洛中洛外日記」第942話の筑紫舞「加賀の翁」考で紹介しましたように、米田敏幸さんの研究により、古墳時代初頭を代表する布留式土器の産地が加賀(小松市近辺)であることと関係していると思われます。しかし、土器であれば布留式土器よりも古い庄内式土器の発生地である播磨地方などもありますから、よく考えると今一つ「加賀の土器」では、「翁の舞」に選ばれるにしてはインパクトに欠けるのです。
ところがこの疑問が晴れたのです。先日の「古田史学の会」記念講演会で講演していただいた米田さんと懇親会で隣席になりましたので、そこでしつこくお聞きしたことが、加賀の土器が全国各地や韓国の釜山まで運ばれているとのことだが、中には何が入っていたのですかという質問です。
 わたしはてっきり土器だから液体を入れて運んだと考えていたのですが、米田さんはきっぱりと否定され、布留式甕(かめ)では液体は漏れるので運べないとされ、液体を入れるのは甕ではなく壷(つぼ)だが、壷はそれほど移動していないとのことなのです。
 そこでわたしは更に質問を続け、液体でなければ何が入っていたのですかとお聞きしたところ、麻袋ではなく、わざわざ甕に入れて運ぶのだから貴重なものと考えられるとのこと。わたしは更に食い下がり、貴重なものとは何ですかと問うたところ、「グリーンタフだと思います」とのこと。「グリーンタフ? 何ですかそれは」とお聞きしますと、緑色凝灰岩(green tuff)という緑色をした「宝石」で、小松市から産出するとのことです。
これを聞いて、「加賀の翁」が「三人立」の翁の一人に選ばれた疑問が氷解したのです。「加賀の翁」は緑色の「宝石」の原石を加賀の特産品として「都の翁」に献上したのです。
 「肥後の翁」は「鉄」を、「加賀の翁」はグリーンタフを布留式土器に詰めて都(筑紫)に上り、倭王に献上したので、その伝承が背景となり筑紫舞を代表する「翁の舞」の登場人物として現代まで舞い続けられているのです。こうなると、次なるテーマは「五人立」「七人立」に登場する他の翁についても、その特産品(献上品)が気になります。引き続き、調べてみたいと思います。とりあえずは、米田先生に感謝です。


第978話 2015/06/12

「兄弟」年号と筑紫君兄弟

 「洛中洛外日記」965話で、熊本市の「最古の神社」とされる健軍神社が「欽明19年(558年)」の創建で、この年こそ九州年号の「兄弟」元年に相当することから、「兄弟統治」を記念して「兄弟」と改元され、「肥後の翁」に相当する人物(兄か弟)が改元にあわせて健軍神社を創建したのではないかと述べました。
 この「兄弟」年号に関して興味深い論稿が林伸禧さん(古田史学の会・全国世話人)から発表されました。「『二中歴』年代歴の「兄弟、蔵和」年号について(追加)」(『東海の古代』第178号、2015年6月。「古田史学の会・東海」発行)という論文で、「兄弟」年号は6年間継続したとする新説が主テーマです。その中で『日本書紀』欽明17年条(556)に見える、筑紫君の二人の子供「火中君」(兄)と「筑紫火君」(弟)こそ、九州王朝の兄弟統治の当事者ではないかとされました。欽明17年の2年後が九州年号「兄弟」元年(558)ですから、その可能性は高そうです。わたしもこの兄弟のことは知っていましたし、論文でもふれたことがありますが、九州年号の「兄弟」と時代的に関係するものとは気づきませんでした。さすがは九州年号研究を永く続けられてきた林さんならではの慧眼です。
 わたしは九州王朝の兄弟統治における兄弟の一人が「肥後の翁」ではないかと考えてきましたが、筑紫君の兄弟の名前が共に「火」の字を持っていることから、「火国」=「肥国」と考えられ、どちらかが「肥後の翁」ではないでしょうか。肥後の古代史が九州王朝との関係から、ますます目が離せなくなってきました。


第952話 2015/05/15

城塞都市「鞠智城」の性格

わたしは今回のシリーズで鞠智城のことを「城塞都市」と表現してきましたが、それは次の理由からでした。

1.神籠石山城や大野城・基肄城などの九州王朝の山城と比較して、比較的「低地」にあり、防衛力が他と比較して高くない。
2.たとえば周囲を土塁で囲むだけで、神籠石山城のような急峻な山腹に列石と土塁があるわけではない。
3.内部に六角堂跡(鼓楼と見なされている)が2対4基出土しており、このような施設は他の山城には見られない。
4.更に六角堂を含め邸閣や兵舎などの遺構も多数(計72棟)が発見されており、大人数が「常駐」していたことが考えられ、「逃げ城」とは性格を異にしている。
5.山城として近隣に守るべき古代都市が見あたらない。

おおよそ以上の理由から、鞠智城はいわゆる「山城」ではなく、内陸部の「城塞都市」という表現の方が適切と判断したのです。また、六角堂が本当に鼓楼であれば、同施設は朝夕の時刻を太鼓や鐘を打ち鳴らして知らせるというものですから、大人数が生活する「都市」にこそ、ふさわしいと言えるでしょう。それではなぜ九州王朝はこの地に鞠智城を造営したのでしょうか。(つづく)

※鞠智城の概要については、竹村順弘さん(古田史学の会・全国世話人)による関西例会での報告と『多元』No.119(多元的古代研究会、2014.07)掲載の鈴木浩さんの「古代山城・鞠智城の謎」を参考にさせていただきました。


第951話 2015/05/13

鞠智城と

古代官道「車路(くるまじ)」

「蜑(アマ)の長者」伝説などを調べているうちに、肥後にあった古代の官道「車路(くるまじ)」の存在を知りました。鞠智城についてずっと気になっていたこととして、鞠智城の位置が古代官道「西海道」から離れており、このことが何とも理解しがたい疑問として残っていたのです。しかし、この「車路」の存在を知り、ようやく納得することができました。今回はこの問題について説明したいと思います。
「洛中洛外日記」944話「隋使行程記事と西海道」で述べましたように、隋使は筑後(久留米市)から大牟田へ抜けたのではなく、内陸部を通る官道「西海道」(現・九州縦貫道のルートにほぼ相当)の「十余国」を経て肥後の「海岸に達した」と、『隋書』の記事から理解したのですが、そうすると玉名郡の江田(和水町)から菊池川を下って有明海に出るか、そのまま南へ進み熊本市付近で「海岸に達した」と考えられるのですが、いずれの行程も更に東にある鞠智城には至りません。すなわち、西海道から離れ、江田付近から東へ向かわなければ鞠智城に至らないのです。
『隋書』の記事の通り隋使が「海岸に達し」かつ「噴火する阿蘇山」を見たのであれば、鞠智城経由では阿蘇山の噴火は見えても、「海岸に達する」ことはできませんから、うまく行路を説明できません。この問題がずっと疑問として残っていたのです。やや強引に理解すれば、江田から一旦東の鞠智城に向かい、その後、江田まで戻り菊池川を下って海岸に達したと理解することも可能ですが、『隋書』の行路記事を素直に読めば、これは隋使が鞠智城に行ったとするための強引な説明(こじつけ)に過ぎず、やはりわたし自身を納得させることはできませんでした。
ところが「蜑(アマ)の長者」伝説によれば、肥後国府(熊本市)から鞠智城に至る「車路」を「蜑(アマ)の長者」が造営したとあり、現地研究者の調査により、古代官道・西海道よりも東側を通るルートに「車路」に関わる地名が転々と存在していることが確かめられました。しかも、その「車路」は鞠智城から更に江田方面に延びており、西海道に合流しているのです。
こうした研究成果から、わたしは九州王朝の時代の「西海道」は江田から鞠智城を経過し肥後国府(熊本市)の「車路」のルートではなかったかと考えています。九州王朝が造営したあれほどの城塞都市(鞠智城)が、同じく九州王朝が造営した「西海道」とは無関係の位置にあったとは考えにくいからです。従って、九州王朝造営の古代官道「西海道」は、九州王朝滅亡後には鞠智城の存在価値が低下したり、あるいは存在目的が変わったため、筑後国府から肥後国府をより短距離で結ぶルートとして現「西海道」になったのではないでしょうか。なお、「西海道」という名称は701年以後の近畿天皇家の時代になって作られたものと思われますから、この「西海道」の本来の名称は不明です。あるいは、九州王朝副都・前期難波宮を「中心」と考えれば「西海道」でもよいのかもしれません。この点も今後の研究課題です。(つづく)