肥後の翁一覧

第950話 2015/05/12

肥後にもあった

「アマ(蜑)の長者」伝説

山鹿市の「米原(よなばる)長者」が九州王朝の有力者「肥後の翁」の伝承であり、もしかすると天子(弟)かもしれないと考えています。なお、「よなばる」の「よな」とは火山灰のことだそうです。阿蘇山のある肥後に相応しい地名のようです。
今回、肥後の長者伝承を調べていてとても興味深い伝承の存在を知りました。なんと肥後の国府(熊本市)に「アマの長者」がいたという伝承があったのです。正確には「蜑(アマ)の長者」と呼ばれており、この「蜑(アマ)」という字の意味は海洋民、すなわち「海人」のことなのだそうです。九州王朝は天孫族に淵源を持っていますから、まさにこの「蜑」の字義と一致しています。何よりも多利思北孤の姓が「阿毎(アメ・アマ)であり、肥後の「蜑(アマ)の長者」も九州王朝の王族と見なしてもよいと思われるのです。
しかも、この蜑の長者の娘が米原長者に嫁入りしたという伝承まであるようで、たくさんの贈り物を米原長者に送るため、国府から鞠智城まで「車路(くるまじ)」を造営したとされています。この伝承から考えると、上位者は娘や貢ぎ物をもらった米原長者のようにも見えます。
「蜑の長者」「米原長者」とは九州王朝のどのような人物だったのでしょうか。肥後の現地伝承を多元史観・九州王朝説により調査検討する必要を感じています。すごい発見ができそうな予感がしてなりません。(つづく)


第949話 2015/05/11

「肥後の翁」の現地伝承

筑後地方(うきは市)の「天の長者」伝説が九州王朝の天子・多利思北孤かその一族の人物の伝承ではないかと考えていますが、同様に肥後地方にも九州王朝の長者伝説があれば、それが「肥後の翁」ではないかと思い、調査しました。
まだ調査途中ですが、鞠智城がある山鹿市米原には「米原(よなばる)長者伝説」があり、同じく山鹿市には「駄の原(だのばる)長者」伝説もありました。この他にも肥後には「長者伝説」があり、この中に九州王朝に関係する長者がありそうです。
今回、わたしは「米原長者伝説」に注目しました。ウィキペディア等の解説によれば、同伝説は三段階に分かれており、一段目は菊池郡の四丁分村(現在の菊池市出田周辺)に住む貧乏な男に都から高貴なお姫様が嫁ぎ、その男は裕福な長者になるというものです。これは各地にある「炭焼き長者伝説」と同類の説話です。
二段目は、山鹿市あるいは山本郡(熊本市植木町周辺)に権勢を誇る駄の原(だのはる)長者と、お互いの宝物を比べあい、金銀財宝を並べた米原長者に対して、多くの子供(子宝)を持つ駄の原長者が勝ったというもので、同類の伝説は筑後のうきは市にもあります。
三段目は、用明天皇の頃に長者という称号を賜った米原長者が、その広大な領地の田植えが昼間の内には終わらなかったため、沈みかけた太陽を引き戻して強引に田植えを続けたことに、天が怒って火の輪(玉)を降らして米原長者の領地(日岡山)を焼き尽くしたというものです。
この米原長者伝説の三段目に、わたしは特に注目したのですが、その理由は「用明天皇の頃(在位585〜587年)に長者という称号を賜った」という年代設定を持つ伝承だからです。これは多利思北孤の時代とほぼ同時期で、九州年号の勝照1〜3年に相当し、多利思北孤が即位した端政1年(589年)の直前なのです。
さらに、沈む太陽を引き戻すという行為が「昼を司る天子(弟)」に相応しい説話と思われることと、最後は「天」の怒りに触れて滅んだということも、九州王朝の兄弟統治を「義理なし」として隋の天子により廃止させられたことを反映した伝承ではないかと思われるのです。
このような長者伝承は後世において脚色されたり、その時代(後世)にふさわしい人名や事件に変質するという性格があるので、どの部分がどの程度の歴史事実を反映しているのかを見極めることが難しいのです。しかし、この米原長者伝説のケースは、時代が特定でき、鞠智城という九州王朝の造営による山城がある地域が舞台となっており、その鞠智城遺跡も出土し、「長者原」「長者山」「米原」という地名も現存しているという点で、大変有力な九州王朝系伝承と見なすことができるのです。引き続き、同伝説を記したより古い出典史料を探索したいと思います。(つづく)


第948話 2015/05/10

「肥後の翁」の考古学

 わたしが「肥後の翁」を九州王朝の天子ではないかと考えた理由は次のようなことでした。

1.筑紫舞の「翁」で主に活躍するのが「都の翁」ではなく、「肥後の翁」であること。
2.肥後地方に「天子宮」が濃密分布すること。
3.『隋書』によれば隋使が阿蘇山の噴火が見える地域(肥後)まで行っていること。
4.(タイ)国では、兄と弟により兄弟統治していること。従って、多利思北孤とは別にもう一人イ妥王がいたことになる。

 以上のような理由から、肥後に九州王朝の有力者がおり、それが筑紫舞の「肥後の翁」ではないかと考えたのです。そこで、今回は「肥後の翁」の考古学痕跡について紹介します。
 まず一つは弥生時代の鉄器出土数です。服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集責任者)の論稿「鉄の歴史と九州王朝」(『古田史学会報』124号2014年10月所収)によれば、福岡県と熊本県の鉄器出土数の変遷は次の通りで、両県が群を抜いた国内最多出土県です。

    弥生前期 弥生中期 弥生後期・終末期(本)
福岡県    50  411   984
熊本県    1   41  1565

 服部さんの表では「鉄鏃」と「その他鉄器」を分けて表示されていますが、転載にあたり合計しました。このように、弥生後期・終末期になるとそれまでトップだった福岡県を抜いて、熊本県がダントツのトップとなるのです。その理由や出土状況の詳細は知りませんが、肥後が九州王朝内で重要な地域であったこと、すなわち有力者がいたことをこのデータは指し示しています。
 ちなみに、奈良県は前期0、中期0、後期・終末期6と、全国や近畿の他県よりも「圧倒的に貧相」な出土状況なのです。これは「邪馬台国」畿内説に立つ考古学者や歴史学者の常識や理性を疑うに十分な考古学的出土事実と言わざるを得ません。
 二つ目の考古学的痕跡は、装飾古墳の出現が肥後地方が国内で最も多く、時期も早いという点です。昨年、玉名郡和水町にうかがったおり、当地の考古学者の高木正文さんからいただいた報告書「肥後における装飾古墳の展開」(高木正文著。『国立歴史民俗博物館研究報告』第80集、97-150頁、1999年3月発行)によれば、次のように肥後における装飾古墳の変遷が説明されています。抜粋します。

 「肥後(熊本県)には、現在約190基の装飾古墳が確認されており、数の上では全国一を誇っている。」
 「(八代市・天草島地域は)肥後で最も早い段階で朝鮮半島から横穴式石室が導入された所の1つでもある。肥後の装飾古墳はこの地域で出現し、他の地域へ波及したものと考えられる。」
 「八代・天草地域で出現した装飾古墳は、5世紀半には宇土半島に広がり、5世紀後半には熊本平野へも波及する。」

 このように装飾古墳が肥後の八代・天草地域から発生し、宇土半島・熊本平野へと波及しているのですが、全国的にも原初的発生地域と考えられ、また宇土半島で産出する石棺用のピンク石が他県や近畿の古墳でも使用されていることは有名です。こうした考古学的事実も肥後に九州王朝の有力者がいたことを指し示しているのです。(つづく)


第947話 2015/05/09

「肥後の翁」考への批判2件

「洛中洛外日記」で展開した「肥後の翁」考に対して、早速厳しいご批判2件をいただきましたので、紹介します。
本日、正木裕さん(古田 史学の会・全国世話人)が拙宅に見えられ、わたしの「肥後の翁」考に対して次の理由から間違っているのではないかとされました。すなわち、「肥後の翁」が 天子(兄)であり、隋使が肥後まで行って接見したのなら、『隋書』にそのことが書かれるはずである。しかし、全く書かれていない。従って、仮に隋使が肥後 で九州王朝の有力者に会ったとしても、それは天子(兄)ではない。『隋書』の文脈からも多利思北孤こそ天子(兄)であり、「肥後の翁」はむしろ「弟」と考 えるべきとされました。
その上で、多利思北孤は大善寺玉垂宮にいたと思われ、当地の地名に「夜明」があり、これこそ「夜明けまで政務を執ってい た夜の天子、多利思北孤(兄)」に相応しいのではないかとのこと。更に「日出ずる処」というのも、それまで「夜」だったということであり、これも「夜の天 子(兄)」に対応した呼称との考えも示されました。
なるほどもっともな批判だなあと恐れ入っていたところ、ちょうどそのとき高松市の西村秀己さ ん(古田史学の会・全国世話人)から電話があり、次の理由から「肥後の翁」考の根拠が不適切との、これまた厳しい批判がなされました。その不適切な根拠と は、「秦王」が「天子の弟」という記事は『隋書』にはなく、正しくは天子(高祖)の息子楊俊が秦王であり、兄の煬帝が天子に即位する前に亡くなっていると のこと。楊俊の子供も煬帝が天子に即位してから秦王に任ぜられており、いずれも「天子の弟」のときではないとのことでした。ちなみに、このことは古田先生 が『古代は輝いていた3』に記されていると指摘されました。
たしかに秦王国を「天子の弟の国」と理解し、そこに多利思北孤がいたことを前提に「肥後の翁」天子(兄)という「思いつき」を展開したのですから、その根拠が間違っていれば、「思いつき」も間違っている可能性大です。
このように、厳しいご批判2件の登場により、わたしの「思いつき」も見直しが必要かもしれません。まことに恐れ入りました。よくよく考えてみることにします。やはり持つべきものは、率直な学問的批判をしてくれる友人です。ありがとうございました。

第946話 2015/05/05

鞠智城の「肥後の翁」

 「肥後の翁」考も今回で最後の考察です。ここまで論理の飛躍や論理構成に無理や矛盾がないか、研究仲間の意見も聞きながら進めてきましたが、いよいよ最後の局面です。皆さんも「本当かいな」と批判的に読んでください。
 秦王国にいた昼を司る天子(弟)が多利思北孤とすれば、夜を司る天子(兄)はどこにいたのでしょうか。ここからは全くの推論ですが、筑紫舞の「翁」におい て、「都の翁」よりも中心人物(主役)とされる「肥後の翁」こそ、天子(兄)だったのではないでしょうか。そうであれば隋使がわざわざ阿蘇山の噴火が見え る肥後まで行った理由がわかります。天子(兄・肥後の翁)に接見するためだったのです。
 それではなぜ隋使は肥後まで行き、天子(兄)に会う必要 があったのでしょうか。これも想像の域を出ませんが、一つだけ考えられる理由と史料根拠があります。『隋書』の次の記事です。開皇20年(600年)国の使者が九州王朝の兄弟統治を説明したところ、隋の天子は次のように言って、その制度をとがめています。

「高祖曰く『此れ、はなはだ義理なし』と。是に於いて訓令して之を改めしむ。」

 兄弟統治などには「義理」がないので、止めさせたというのです。この高祖の訓令に従って、大業四年(608年)に九州王朝を訪れた隋使、裴清は秦王国で多利思北孤に会った後、更に十余国を経て、阿蘇山が見える地まで行ったのです。そしてその地で天子(兄)に接見し、兄弟統治をやめろという高祖の訓令を伝え たのではないでしょうか。
 隋使は肥後のどこで天子(兄)に接見したのかは不明ですが、あえてその候補地として「長者原」という地名を持つ城塞都 市・鞠智城をあげたいと思います。あの大規模な大野城をはじめ各地の神籠石山城に、その域内に「長者原」という地名が残っているのは、管見では鞠智城だけ です。また、鞠智城には九州王朝の他の山城には見られない八角堂の遺跡が発見されています。八角堂といえば九州王朝の副都前期難波宮にもあることが注目さ れます。両者の一致は、鞠智城が他の山城とは異なり、天子(兄)がいたことの傍証になるかもしれません。また、肥後に濃密に分布する天子宮の存在理由も、 「肥後の翁」である天子(兄)に淵源したと考えれば、うまく説明できそうです。
 以上のように、筑紫舞の「翁」で主役として活躍する「肥後の翁」 を、九州王朝の兄弟統治における天子(兄)とする考察を続けてきました。細い一筋の論理性と推論に依拠した仮説ですので、絶対に正しいとは言いませんが、 少なくともこの仮説により今まで疑問とされてきた様々なことが説明できるようになりました。他に有力な仮説がなければ、相対的に有力なものとして、今後検 証していただければと思います。


第945話 2015/05/04

「秦王国」の多利思北孤

今回も「肥後の翁」考の続きで、いよいよ核心部分の考察に入ります。『隋書』「イ妥(タイ)国伝」に記された国名で、その所在地について古田学派内でも意見が分かれており、具体的な有力説が出されていない「秦王国」についての考察です。
秦王国は竹斯国の東と記されていますから、単純に考えれば福岡県の東部、あるいは更に東の瀬戸内海沿岸にあったとする理解も不当ではありません。しかし、 その後に「更に十余国進んで海岸に至った」とありますから、秦王国は内陸部にあったと考えなければなりません。そうすると豊前や瀬戸内海沿岸に秦王国が あったとする説は成立しません。従って、筑豊地方(飯塚市・田川市など)であればこの点はクリアできますが、ただ筑豊からは阿蘇山の噴火は見えません。
このように、秦王国を竹斯国(博多湾岸・太宰府付近)の真東とする理解よりも、古代官道の西海道を東南に進み、杷木付近で筑後川を渡河した先にある筑後地 方説が相対的に有力な説と考えられるのです。「九州王朝の筑後遷宮」という説をわたしは発表していますが、今の久留米市・うきは市に九州王朝が遷宮してい た、「倭の五王」時代から条坊都市太宰府造営(倭京元年、618年)までの期間に、『隋書』に記された多利思北孤の時代(600年頃)は入っていますか ら、そのとき都は筑後にあり、秦王国と称されていたことになるのです。
そして、真の問題はここから発生します。古田先生はこの「秦王」につい て、『隋書』には「隋の天子の弟」のこととして表れていると紹介されています。もしこの用例が倭国でも同様(模倣)であれば、多利思北孤は「日出ずる処の 天子」であると同時に「天子の弟」でもあることになってしまいます。この矛盾した「天子」概念が九州王朝ではあり得ることが、『隋書』「イ妥(たい)国 伝」に次のように記されています。

「(開皇20年、600年)使者言う。イ妥王天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未だ明けざる時、出て政を聴くに跏趺して坐す。日出ずればすなわち理務を停め、云う『我が弟に委ねん』と。」

このように九州王朝では国王兄弟で夜と昼に分けて統治していたとあるのです。従って、「日出ずる」天子・多利思北孤は昼間の政治を担当していた「弟」と考 えられ、このことは既に古田先生も言及されておられたことです。従って、天子であり、弟でもある多利思北孤が秦王国(天子の弟の国)に居たとする理解は決 して荒唐無稽なものではないのです。なお、古田先生によれば、九州年号の「兄弟」(558年)も、こうした倭国における兄弟統治を背景に成立した年号とさ れています。(つづく)


第944話 2015/05/04

隋使行程記事と西海道

前話に続いて「肥後の翁」問題を考えます。隋使はどのような行程で「肥後の翁」に接見し、阿蘇山の噴火を見たのでしょうか。この問題を考えるために『隋書』「イ妥(タイ)国伝」を見直しました。そこには、隋使の倭国への行程記事として次のように記されています。

1.百済を渡り竹島に至り、南にタンラ国を望み、
2.都斯麻国(対馬)を経、はるかに大海の中に在り。
3.又東して一支国(壱岐)に至る。
4.又竹斯国(筑紫)に至る。
5.又東して秦王国に至る。
6.又十余国を経て海岸に達す。

()内はわたしが付したものですが、朝鮮半島から対馬・壱岐を経て、筑紫(博多湾岸から太宰府付近)までははっきりしているのですが、秦王国や「十余国を経て海岸に達す」については論者によって見解が分かれますし、この記事からは断定しにくいところです。
この行程記事では方角を「東」と記されていますが、実際には「東南」方向ですから、秦王国の位置は、二日市市・小郡市あたりから朝倉街道(西海道)を東南 方向に向かい、杷木付近で筑後川を渡河し、その先の筑後地方(うきは市・久留米市)ではないかと、わたしは考えています。もちろん、太宰府条坊都市の成立 (倭京元年、618年)以前ですから、九州王朝の都は筑後にあった時期です。
問題は「十余国を経て海岸に達す」です。方角が記されていませんから、この記事だけでは判断できませ。しかし、隋使が阿蘇山の噴火を見ていますから、肥後方面に向かったと考えるのが、史料事実にそった理解と思われます。
従来、わたしは「十余国を経て海岸に達す」を久留米市から柳川市・大牟田市方面に向かい、有明海に達したという意味に理解すべきと考えてきましたが、近 年、熊本県和水町とのご縁ができたこともあって、土地勘が少しずつですがついてきましたので、この行程も古代の官道「西海道」を隋使は進んだと考えたほう が良いと思うようになりました。それは次の理由からです。

(1)筑紫(福岡市)から小郡、そして東へ朝倉街道(西海道)を進み、筑後川を渡り、久留米に到着してたとすれば、これは古代西海道のコースである。
(2)十余国を経て海岸に到着していることから、久留米市から大牟田市までの間にしては国の数が多すぎるように思われる。
(3)これが内陸部を通る西海道に沿って十余国であれば、久留米市から肥後に向かい、菊池川下流か熊本市付近の海岸に達したとするほうが、国の数が妥当のように思われる。

以上のような理解から、わたしは筑後(秦王国か)に着いた隋使は古代官道の西海道を通って、鞠智城や江田舟山古墳方面に行ったのではないかと、今では考え ています。こうした理解から、この地域(菊池市・玉名郡・熊本市など)で隋使は「肥後の翁」と接見し、阿蘇山の噴火も見たのではないでしょうか。更にこの ルートを支持する『隋書』の記事として、「鵜飼」があります。筑後川や矢部川は鵜飼が盛んな所でした。(つづく)


第943話 2015/05/03

筑紫舞「肥後の翁」考

前話に続いて筑紫舞がテーマです。筑紫舞の代表作「翁(おきな)」には「都の翁」が必ず登場するのですが、西山村光寿斉さんの説明では、舞の中心人物は「肥後の翁」とのこと。筑紫舞でありながら、「都の翁」(九州王朝の都、太宰府か)が「主役」ではなく、「肥後の翁」が中心であることも、不思議な ことでした。
実は、九州王朝研究において、肥後は重要な地域であるにもかからず、筑前・筑後地方に比べると研究が進んでいませんでした。そうし た事情もあって、この筑紫舞における「肥後の翁」の立ち位置は研究課題として残されてきたのです。ところが幸いにも、昨年から「納音付き九州年号」史料の 発見により、玉名郡和水町を訪れる機会があり、肥後地方の地勢や歴史背景などに触れることができ、わたし自身もより深く考えることとなりました。その結 果、様々な作業仮説(思いつき)に恵まれることとなりました。そこで、今回はこの「肥後の翁」について考えてみました。
古代史上、「肥後」関連 記事が中国史書に出現したのは管見では『隋書』の「阿蘇山」記事です。筑紫に至った隋使たちは何故か阿蘇山の噴火を見に行っています。隋使は何のために肥 後まで行き、阿蘇山の噴火を見たのでしょうか。観光が目的とは考えにくいので、この疑問が解けずにいました。そこで考えたのですが、隋使は筑紫舞に登場す る「肥後の翁」に接見するために肥後へ行ったのではないでしょうか。
それでは肥後にそのような人物がいた痕跡あるでしょうか。わたしの知るとこ ろでは次のような例があります。ひとつは肥後地方に多い「天子宮」です。当地に「天子」として祀られるような人物がいた痕跡ではないでしょうか。二つは鞠 智城内の地名「長者原」です。筑後地方(浮羽郡)には「天の長者」伝説というものがあり、その「天の長者」は九州王朝の天子のことではないかと、わたしは 考えていますが、恐らく九州王朝が造営した鞠智城内にある「長者原」という地名も、同様に九州王朝の天子、あるいはその王族の一人ではないでしょうか。
筑紫舞の「翁」において、中心人物とされる「肥後の翁」を九州王朝の天子、あるいは九州王朝の有力者とする理解は穏当なものと思われるのです。


第942話 2015/05/02

筑紫舞「加賀の翁」考

 古田先生の『よみがえる九州王朝 幻の筑紫舞』 (ミネルヴァ書房)に、筑紫舞の伝承者、西山村光寿斉さんとの出会いと筑紫舞について紹介されています。古代九州王朝の宮廷舞楽である筑紫舞が今日まで伝 承されていたという驚愕すべき内容です。その筑紫舞を代表する舞とされる「翁」について詳しく紹介されているのですが、その内容についてずっと気になっていた問題がありました。
筑紫舞の「翁」には三人立・五人立・七人立・十三人立があり、十三人立は伝承されていません。三人立は都の翁・肥後の 翁・加賀の翁の三人で、古田先生はこの三人立が最も成立が古く、弥生時代の倭国の勢力範囲に対応しているとされました。ちなみに都の翁とは筑紫の翁のことですが、なぜ「越の国」を代表する地域が「加賀」なのかが今一つわかりませんでした。
ところが服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集責任者)から教えていただいた、次の考古学的事実を知り、古代における加賀の重要性を示しているのではないかと思いました。
庄内式土器研究会の米田敏幸さんらの研究によると、布留式土器が大和で発生し、初期大和政権の発展とともに全国に広がったとする定説は誤りで、胎土観察の 結果、布留甕の原型になるものは畿内のものではなく、北陸地方(加賀南部)で作られたものがほとんどであることがわかったというのです。しかも北陸の土器 の移動は畿内だけでなく関東から九州に至る広い範囲で行われており、その結果として全国各地で布留式と類似する土器が出現するとのこと。日本各地に散見する布留式土器は畿内の布留式が拡散したのではなく、初期大和政権の拡張と布留式土器の広がりとは無縁であることが胎土観察の結果、はっきりしてきたので す。
この考古学的研究成果を知ったとき、わたしは筑紫舞の三人立に「加賀の翁」が登場することと関係があるのではないかと考えたのです。古田先 生の見解でもこの三人立は弥生時代にまで遡る淵源を持つとされており、この加賀南部で発生し各地に伝播した布留式土器の時代に近く、偶然とは思えない対応 なのです。絶対に正しいとまでは言いませんが、筑紫舞に「加賀の翁」が登場する理由を説明できる有力説であり、少なくともわたしの疑問に応えてくれる考古学的事実です。
なお、6月21日(日)午後1時からの「古田史学の会」記念講演会で米田敏幸さんが講演されます。とても楽しみです。(会場 i-siteなんば)


第922話 2015/04/14

『新撰姓氏録』「佐伯本」と学問の方法

 20年ほど昔のことですが、わたしが『新撰姓氏録』の研究をするためにどのテキストを使用するべきか、古田先生にご相談したことがあります。比較的手に入りやすく、各写本や版本の解説がある佐伯有清さんの『新撰姓氏録の研究 本文篇』(吉川弘文館)を用いようとしたのですが、そのとき古田先生から文献史学にとってとても大切なことを教えていただきました。
 それは、同書は各写本・版本間に文字の異同などがある場合、佐伯さんの判断でそれぞれの諸本から取捨選択されており、言わば『新撰姓氏録』「佐伯本」ともいうべきものであり、文献史学における史料批判の基本から見ればテキストとして使用すべきではないと指摘されたのです。すなわち、文献史学において諸本間に文字や記述の異同がある場合は、現代人の認識や判断で取捨選択するのではなく、史料批判や論証の結果、最も原文に近いと判断できる写本・版本をテキストとして依拠しなければならないという学問の基本姿勢について注意されたのでした。
 わたしはこのとき古田史学の学問の方法で最も大切なことの一つである史料批判について学んだのです。このことは、後の研究にも役立ちました。一例をあげれば、数ある九州年号群史料の中で、最も原型に近いと判断される『二中歴』を重視するということも、このときの経験によるものでした。初期の九州年号研究において、なるべく多くの史料を集め、その中で最も多い年号立て、あるいは最大公約数的な年号立てを九州年号の原型と見なすという手法が盛んに行われましたが、古田先生は終始この方法を批判され、史料批判に基づいて最も成立が早く、原型を保っている『二中歴』に依拠すべきとされたのです。すなわち、学問は多数決ではなく、論証に依らなければならないのです。そして、このことが正しかったことは、現在までの九州年号研究の成果により確かめられています。
 思えば古田先生は『「邪馬台国」はなかった』のときから、この立場に立たれていました。『三国志』版本の中で紹煕本が最も原型を保っていることを論証され、その紹煕本に基づいて研究をされたことは、古田学派の研究者や読者であればよくご存知のはずです。『万葉集』でも同様で、「元暦校本」を最良のテキストとして古田先生は研究に使用されています。
 たとえば『三国志』倭人伝の原文が、「邪馬台国」と「邪馬壹国」のどちらであったのかを論じる場合、国会図書館の蔵書中の表記を全て数え、多数決で決めるという方法が非学問的であることはご理解いただけるでしょう。それと同様に、現存する九州年号史料をたくさん集め、その多数決で九州年号の原型を決めるという方法も非学問的なのです。20年前の古田先生の教えを、今回『新撰姓氏録』を再読しながら懐かしく思い起こしました。
 「必要にして十分な論証を抜きにして、安易な原文改訂にはしってはならない」という古田先生の教えとともに、この史料批判に対する姿勢についても忘れないようにしたいと思います。