倭の五王一覧

第2550話 2021/08/25

「倭の五王」時代の九州の古墳(2)

 「倭の五王」の陵墓にふさわしい大型古墳の調査対象として、九州王朝(倭国)の中枢領域である筑前と筑後を見てみることにします。調査には吉村靖徳さんの『九州の古墳』(注①)を主に参照しています。同書は通説により解説されていますが、美しいカラー写真で古墳が紹介されており、わたしは重宝しています。
 同書の巻末資料には旧国別・年代別の「九州主要古墳年表」があり、それによると筑前には100mを越える古墳は糸島市の一貴山銚子塚古墳(墳丘長103m、前方後円墳、四世紀後半)と福津市の在自剣塚(あらじつるぎづか)古墳(墳丘長102m、前方後円墳、六世紀後半)が表示されていますが、五世紀の「倭の五王」の時代の筑前には倭国王墓にふさわしいトップクラスの規模の古墳は見えません。
 なお、福津市の宮地嶽古墳(現状径34m、七世紀前半、円墳)は奈良県・見瀬丸山古墳に次ぐ国内二番目の長さを誇る横穴式石室(22m)を持っており、注目されます。
 次いで筑後の100mを越える古墳は、「九州主要古墳年表」によれば次のようです。

〔四世紀〕
法正寺古墳(墳丘長102m、前方後円墳、四世紀末、)
〔五世紀〕
石櫃山古墳(墳丘長115m、前方後円墳、五世紀後半、久留米市)※消滅
石人山古墳(墳丘長110m、前方後円墳、五世紀前半~中頃、八女郡広川町)
〔六世紀〕
岩戸山古墳(墳丘長138m、前方後円墳、六世紀前半、八女市)
田主丸大塚古墳(墳丘長103m、前方後円墳、六世紀後半、久留米市)

 筑前より筑後の方が100m超の古墳は多いのですが、西都原古墳群などを擁する日向(宮崎県)と比べると質量ともに見劣りします。しかし、六世紀になると筑紫君磐井の陵墓である岩戸山古墳(八女市)が現れます。これは倭国王墓にふさわしく、六世紀の九州では最大規模です。この事実は、〝古墳の規模〟が倭国王墓の重要条件であることを示唆しています。この論理性を徹底すると、五世紀の「倭の五王」の陵墓は日向にあったこととなり、古墳が多数ある日向は九州王朝の〝王家の谷〟(注②)と考えることもできそうです。(つづく)

(注)
①吉村靖徳『九州の古墳』海鳥社、2015年。
②エジプトの「王家の谷」は、ツタンカーメン王墓出土の豪華な副葬品などで有名である。
 宮崎県からは国内最大の玉璧(直径33cm)が串間市王の山から出土しており、えびの市・島内114号地下式横穴墓から出土した「龍」銀象嵌大刀とともに注目される。古賀達也「洛中洛外日記」1504話(2017/09/20)〝南九州の「天子」級遺品〟、1502話(2017/09/17)〝「龍」「馬」銀象眼鉄刀の論理〟で論じたので参照されたい。
 また、「景初四年」(240年)銘を持つ斜縁盤龍鏡(兵庫県辰馬考古資料館蔵)が持田古墳群(児湯郡高鍋町)から出土している。


第2549話 2021/08/24

「倭の五王」時代の九州の古墳(1)

 「倭の五王」の宮都にふさわしい五世紀の遺構が見つかりませんので、視点を変えて、倭国王の陵墓にふさわしい大型古墳について検討してみます。とりあえず、九州島内に限定して考察します。
 場所にこだわらず規模だけを見れば、宮崎県西都原古墳群の九州最大の前方後円墳、女狭穂塚古墳(墳丘長176m、五世紀前半)が年代とともに「倭の五王」の陵墓候補に最もふさわしいと思います。同じく隣接する男狭穂塚古墳(墳丘長155m、五世紀前半)も国内最大の帆立貝式前方後円墳で、これも「倭の五王」の陵墓候補にふさわしいものです。同県にはこの他にも次の五世紀頃の大型前方後円墳(墳丘長100m以上)があります。

○児屋根塚古墳(墳丘長110m、五世紀前半の前方後円墳)西都市茶臼原
○松本塚古墳(墳丘長104m、五世紀末~六世紀初頭の前方後円墳)西都市三納
○菅原神社古墳(墳丘長110m、四世紀末~五世紀前半の前方後円墳)延岡市

 さらに、生目(いきめ)古墳群(宮崎市跡江)の1号墳(墳丘長120m、前方後円墳)は四世紀初頭では九州最大規模の古墳です。続いて3号墳(墳丘長143m、前方後円墳)は四世紀前半の古墳ですが、四世紀代を通じて九州最大です。そして五世紀には同じく九州最大の女狭穂塚古墳、男狭穂塚古墳へと続きます。
 このように宮崎県では、四~五世紀にかけて九州最大規模の古墳造営が続いています。更に、全県的に多数の古墳があり、大和(奈良県)や両毛(群馬県・栃木県)とともにわが国で最も古墳の多いところといわれており、古墳が全く見当たらないのは二~三町村にすぎないとされています(注①)。
 古田先生も宮崎県について、『失われた九州王朝』第五章「九州王朝の領域と消滅」の「遷都論」において次のように述べておられます(注②)。

 「九州王朝の都は、前二世紀より七世紀までの間、どのように移っていったのだろうか。少なくとも、一世紀志賀島の金印当時より三世紀邪馬壹国にいたるまでの間は、博多湾岸(太宰府近辺をふくむ)に都があった。(中略)また、同様に、南下して宮崎県の『都城』といった地名も、同県の古墳群とともに、注目されねばならぬ。」『失われた九州王朝』ミネルヴァ書房版475~476頁

 この指摘を重視するのであれば、宮崎県の西都原古墳群を筆頭とする四~五世紀の九州最大の古墳群の濃密分布と、当地に今も濃密分布する「阿万」姓の人々の存在(注③)などから、この地と「倭の五王」との関係を九州王朝史の視点から考察すべきではないでしょうか。(つづく)

(注)
①日高次吉『宮崎県の歴史』山川出版社、1970年。
②古田武彦『失われた九州王朝』朝日新聞社、昭和四八年(1973年)。ミネルヴァ書房より復刻。
③古賀達也「洛中洛外日記」2543~2548話(2021/08/19~23)〝「あま」姓の最密集地は宮崎県(1)~(4)〟


第2549話 2021/08/24

「倭の五王」時代の九州の古墳(1)

 「倭の五王」の宮都にふさわしい五世紀の遺構が見つかりませんので、視点を変えて、倭国王の陵墓にふさわしい大型古墳について検討してみます。とりあえず、九州島内に限定して考察します。
 場所にこだわらず規模だけを見れば、宮崎県西都原古墳群の九州最大の前方後円墳、女狭穂塚古墳(墳丘長176m、五世紀前半)が年代とともに「倭の五王」の陵墓候補に最もふさわしいと思います。同じく隣接する男狭穂塚古墳(墳丘長155m、五世紀前半)も国内最大の帆立貝式前方後円墳で、これも「倭の五王」の陵墓候補にふさわしいものです。同県にはこの他にも次の五世紀頃の大型前方後円墳(墳丘長100m以上)があります。

○児屋根塚古墳(墳丘長110m、五世紀前半の前方後円墳)西都市茶臼原
○松本塚古墳(墳丘長104m、五世紀末~六世紀初頭の前方後円墳)西都市三納
○菅原神社古墳(墳丘長110m、四世紀末~五世紀前半の前方後円墳)延岡市

 さらに、生目(いきめ)古墳群(宮崎市跡江)の1号墳(墳丘長120m、前方後円墳)は四世紀初頭では九州最大規模の古墳です。続いて3号墳(墳丘長143m、前方後円墳)は四世紀前半の古墳ですが、四世紀代を通じて九州最大です。そして五世紀には同じく九州最大の女狭穂塚古墳、男狭穂塚古墳へと続きます。
 このように宮崎県では、四~五世紀にかけて九州最大規模の古墳造営が続いています。更に、全県的に多数の古墳があり、大和(奈良県)や両毛(群馬県・栃木県)とともにわが国で最も古墳の多いところといわれており、古墳が全く見当たらないのは二~三町村にすぎないとされています(注①)。
 古田先生も宮崎県について、『失われた九州王朝』第五章「九州王朝の領域と消滅」の「遷都論」において次のように述べておられます(注②)。

 「九州王朝の都は、前二世紀より七世紀までの間、どのように移っていったのだろうか。少なくとも、一世紀志賀島の金印当時より三世紀邪馬壹国にいたるまでの間は、博多湾岸(太宰府近辺をふくむ)に都があった。(中略)また、同様に、南下して宮崎県の『都城』といった地名も、同県の古墳群とともに、注目されねばならぬ。」『失われた九州王朝』ミネルヴァ書房版475~476頁

 この指摘を重視するのであれば、宮崎県の西都原古墳群を筆頭とする四~五世紀の九州最大の古墳群の濃密分布と、当地に今も濃密分布する「阿万」姓の人々の存在(注③)などから、この地と「倭の五王」との関係を九州王朝史の視点から考察すべきではないでしょうか。(つづく)

(注)
①日高次吉『宮崎県の歴史』山川出版社、1970年。
②古田武彦『失われた九州王朝』朝日新聞社、昭和四八年(1973年)。ミネルヴァ書房より復刻。
③古賀達也「洛中洛外日記」2543~2548話(2021/08/19~23)〝「あま」姓の最密集地は宮崎県(1)~(4)〟


第2495話 2021/06/18

「倭の五王」以前(3~4世紀)の銅鐸圏

 ―倭国(銅矛圏)と狗奴国(銅鐸圏)の衝突―

 関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)が『考古学から見た邪馬台国大和説』(注①)で、弥生時代の纒向遺跡がその終末期には銅鐸使用の終焉を迎えており、4世紀になると箸墓古墳の造営が始まったことを紹介されました。これは大和における〝銅鐸勢力の滅亡〟を意味する考古学的出土事実と思われます。
 古田先生が考古学について著された『ここに古代王朝ありき』(注②)を併せ読むと、弥生時代終末期には西日本各地の銅鐸勢力(狗奴国:古田説)が圧迫され、箸墓古墳などの前方後円墳を造営する勢力(倭国)が東へ東へと侵攻したことがわかります。
 こうした、銅矛勢力(倭国)から銅鐸勢力(狗奴国など)への軍事侵攻説話が『古事記』『日本書紀』中に記されていることを、古田先生は『盗まれた神話』(注③)で明らかにされてきました。近年では正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が、近江の後期銅鐸勢力圏への侵攻説話が『古事記』『日本書紀』にあることを発表されました。〝神功紀(記)の「麛坂王・忍熊王の謀反」とは何か〟(注④)という論文で、近江の銅鐸圏への侵攻説話が神功紀(記)に取り込まれているとする仮説です。
 この正木説は有力と思うのですが、正木稿では近江の銅鐸圏征討の年代を3世紀末とされており、大和の銅鐸終焉時期を弥生時代末期とする関川説と整合しているのか、精査が必要です。いずれにしても、銅鐸圏を制圧しながら、古墳文化が東へと拡大を続けるわけですから、九州王朝の全国制覇の時代として古墳時代を検討する必要に迫られています。
 なお、通説ではこの現象を〝大和政権による全国統一の痕跡〟とするのですが、関川さんによれば、北部九州の鉄器製造技術が箸墓造営時期に大和に入ったとされますから、やはり古田説のように、北部九州の勢力が大和の勢力(神武の子孫ら)を伴って銅鐸圏を制圧しながら全国統一を進めたと理解せざるを得ないと思います。鉄器製造技術を北部九州から導入した大和の勢力が同時期にその北部九州にも侵攻し、前方後円墳を造営しながら、東西へ将軍を派遣し全国統一したとする通説は論理的ではありません。それでは、北部九州の勢力があまりに〝お人好し〟過ぎるからです。
 そうすると、大阪難波から出土した古墳時代中期(5世紀)最大規模の都市遺構(注⑤)は、九州王朝(倭国)による東征軍の軍事拠点とする理解へと進みそうです。この理解は、通説だけではなく、従来の古田説(近畿天皇家による関西地方制圧)にも修正を迫ることになりますので、別途、詳述したいと思います。

(注)
①関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』梓書院、2020年。
②古田武彦『ここに古代王朝ありき 邪馬一国の考古学』「第二章 銅鐸圏の滅亡」朝日新聞社、昭和五四年(1979)。ミネルヴァ書房より復刻。
③古田武彦『盗まれた神話 記・紀の秘密』「第十章 神武東征は果たして架空か」朝日新聞社、昭和五十年(1975)。ミネルヴァ書房より復刻。
④正木裕〝神功紀(記)の「麛坂王・忍熊王の謀反」〟『古田史学会報』156号、2020年2月。
⑤杉本厚典「都市化と手工業 ―大阪上町台地の状況から」(『「古墳時代における都市化の実証的比較研究 ―大阪上町台地・博多湾岸・奈良盆地―」資料集』、大阪市博物館協会大阪文化財研究所、2018年12月)に次の解説がある。
 「難波宮下層遺跡は難波宮造営以前の遺跡の総称であり、5世紀と6世紀から7世紀前葉に分かれる。大阪歴史博物館の南に位置する法円坂倉庫群は5世紀、古墳時代中期の大型倉庫群である。ここでは床面積が約90平米の当時最大規模の総柱の倉庫が、16棟(総床面積1,450㎡)見つかっている。」
 南秀雄「上町台地の都市化と博多湾岸の比較 ミヤケとの関連」(『研究紀要』第19号、大阪文化財研究所、2018年3月)には次の指摘がなされている。
 「何より未解決なのは、法円坂倉庫群を必要とした施設が見つかっていない。倉庫群は当時の日本列島の頂点にあり、これで維持される施設は王宮か、さもなければ王権の最重要の出先機関となる。」
 「全国の古墳時代を通じた倉庫遺構の相対比較では、法円坂倉庫群のクラスは、同時期の日本列島に一つか二つしかないと推定されるもので、ミヤケではあり得ない。では、これを何と呼ぶか、王権直下の施設とすれば王宮は何処に、など論は及ぶが簡単なことではなく、本稿はここで筆をおきたい。」


第2494話 2021/06/17

「倭の五王」の王都、もう一つの古田説

―「南朝劉宋時代」(5世紀)は朝倉・小郡市中心―

 本年11月開催予定の八王子セミナーにて、〝「倭の五王」の時代の考古学 ―古田武彦「筑後川の一線」の再評価―〟という研究発表をさせていただく予定ですが、その準備として古田先生の関連著作の精読を続けています。中でも、その時代(5世紀)の王都の所在地についてがテーマの一つとされていますので、古田説がどのように変遷してきたのかについて調査し、「洛中洛外日記」2470話(2021/05/24)〝「倭の五王」時代(5世紀)の考古学(11) ―古田説の変遷とその論理構造―〟で次のように報告しました。要約して転載します。

(1)『失われた九州王朝』朝日新聞社、昭和四八年(1973)。
〝五世紀末には、太宰府南方の基肄城あたりを中心としていた時期があったように思われる。〟同書「第五章 九州王朝の領域と消滅」「遷都論」、557頁

(2)『古代の霧の中から 出雲王朝から九州王朝へ』徳間書店、昭和六十年(1985)。
〝以上の分析によってみれば、この倭国の都、倭王の居するところ、それは九州北岸、すなわち博多湾岸以外にありえないのではあるまいか。〟同書「第五章 最新の諸問題について」、308頁

(3)「『筑後川の一線』を論ず ―安本美典氏の中傷に答える―」『東アジアの古代文化』61号、平成元年(1989)。
〝これに対し、もし、遠く時間帯を「五世紀後半~七世紀」の間にとってみれば、いわゆる装飾古墳が、まさに、「筑後川以南」に密集し、集中している姿を見出すであろう。(中略)直ちに北方より「侵入」されやすい北岸部を避け、「筑後川という、大天濠の南側」に“神聖なる墳墓の地”を「集中」させることになったのではあるまいか、(後略)。〟同書115~116頁

(4)『古田武彦の古代史百問百答』東京古田会(古田武彦と古代史を研究する会)編、ミネルヴァ書房、平成二六年(2014)。
〝「博多湾岸が中心であったのは弥生時代。高句麗からの圧力を感じるようになってからは後退していきます。久留米中心に後退します。(中略)筑後川流域に中心が移るわけです。移ったからと言って、太宰府を廃止して移ったのではなく、表は太宰府、実際は久留米付近となるわけです。二重構造になっているわけです。」〟同書「Ⅶ 白村江の戦いと九州王朝の滅亡」「32 九州の紫宸殿について」、212頁

 このように、古田先生はそのときどきの著作で、「倭の五王」の王都について論じられてきました。昨日、古田先生の晩年の著書『俾弥呼』(注①)を再読したところ、次の記述があることに気づきました。

〝「女王国」を、弥生時代の博多湾岸中心と考えても、あるいは「南朝劉宋時代」の朝倉・小郡市中心と考えても、いずれにせよ「東方、千里」は、瀬戸内海をはるかに越え、大阪府茨木市の「東奈良遺跡」を中心とする領域へと至らざるをえない。そういう表記なのである。〟144頁

 これは狗奴国の所在地を、『後漢書』「倭伝」(注②)に記された「東方、千里」を長里とみなして、大阪府茨木市の「東奈良遺跡」を中心領域とする説明部分です。ここでは、〝「南朝劉宋時代」の朝倉・小郡市中心〟とあるように、『宋書』の「倭の五王」時代(5世紀)の王都を「朝倉・小郡市中心」とされています。同書は2011年発刊ですから、古田先生最晩年頃の見解と思われます。
 なお、『古田武彦の古代史百問百答』(注③)では王都の所在地が「久留米市付近」とありますが、同書は東京古田会で『古田武彦と「百問百答」』として、2006年に出版されたものをリニューアルして2014年に刊行されたものです。2006年の旧版には(4)の記事はみつかりませんから、再版に際して付加されたようです。従って、どちらの見解が古田先生の最終的な認識かは、今のところ不明です。

(注)
①古田武彦『俾弥呼(ひみか)』ミネルヴァ書房、平成二三年(2011)。
②范曄(398~445年)『後漢書』では「拘奴国」と表記。
③古田武彦『古田武彦が語る多元史観』ミネルヴァ書房、東京古田会(古田武彦と古代史を研究する会)編、平成二六年(2014)。


第2493話 2021/06/16

近畿の古墳時代開始の古田説と関川説

 「倭の五王」研究においては、文献史学と考古学の双方の整合と両立が不可欠です。特に考古学においては、古墳時代の編年の問題を避けては語れません。この点、古田学派の研究動向をみると、考古学分野の論考が残念ながら充分とはいえません。何よりも、わたし自身の勉強不足を痛感してきたからです。そうしたこともあって、元橿原考古学研究所員の関川尚巧さんの『考古学から見た邪馬台国』(注①)はとても勉強になっています。
 同書をもう十回近くは読みましたが、面白いことに気づきました。それは古田先生の見解と重要な部分で一致、あるいは対応しているケースが散見されることでした。一例をあげれば、近畿(畿内)における古墳時代の開始年代が一致しているのです。それは次の通りです。
 「洛中洛外日記」で紹介してきたところですが、関川さんは最古の大型前方後円墳とされる箸墓古墳の造営年代について次のように述べられています。

〝最古の大型前方後円墳である箸墓古墳の年代というものは、実際の所、前期後半とされる4世紀後半頃より大きく遡ることは考えられないということになる。〟『考古学から見た邪馬台国』131頁

 古田先生は『ここに古代王朝ありき』(注②)で、次のように説明されています。

〝噂はともあれ、確かなこと、それは”近畿の「弥生中期」「弥生後期」は九州の「弥生中期」「弥生後期」よりもおくれている”――この事実だ。そのことは当然、次のことを意味するであろう。”近畿の古墳時代の開始は、九州の古墳時代よりもおくれているのではないか”という問いだ。
 (中略)
 そしてそのことは、近畿における古墳時代の開始は、右の三一六年よりもあとに、ずれおちることを意味する。つまり、近畿における古墳時代の開始は、早くても、四世紀中葉を遡らない、ということになるのである。〟『ここに古代王朝ありき』251頁

 表現は若干異なりますが、両者とも従来説とは異なる視点により、近畿(畿内)の古墳造営開始を四世紀前半頃とされています。古田先生の著作は昭和五四年(1979)のものですから、四十年以上も前の論理的考察結果が、最新の橿原考古学研究所による考古学的発掘事実に基づいた、関川さんの見解にほぼ一致していることに驚きました。
 この一致は、ただ単に近畿(畿内)の古墳時代の開始年代にとどまるものではありません。というのも、古田先生は続いて次の重要問題を提起されているからです。

〝このことは一体、何を意味するか。――すなわち、応神ー仁徳ー履中ー反正ー允恭ー安康ー雄略の各「天皇陵」を、五世紀の倭の五王と結びつけてきた、あの時間帯の定点――考古学上の根本定式の崩壊である。〟『ここに古代王朝ありき』252頁

 このように「倭の五王」を考古学的に検証するにあたり、古墳時代編年そのものから検証し、論じなければなりません。これにはかなりの研鑽が必要となります。本年11月に開催される八王子セミナーまでに、どれだけ勉強が進むかはわかりませんが、古田先生の関連著作だけはしっかりと精読するつもりです。

(注)
①関川尚巧『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』梓書院、2020年。
②古田武彦『ここに古代王朝ありき 邪馬一国の考古学』「第四部 失われた考古学」朝日新聞社、昭和五四年(1979)。ミネルヴァ書房より復刻。

※「考古学上の根本定式」などについては別の機会に詳述します。


第2492話 2021/06/15

「倭の五王」以前(4世紀)の畿内大和

―大和の銅鐸の終焉を示す纒向遺跡―

 関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)は『考古学から見た邪馬台国大和説』(注①)において、4世紀に大和で政権が成立し、その政権が5世紀には河内・大和の巨大前方後円墳群を造営した「倭の五王」へ続くとされ、最古の大型前方後円墳とされる箸墓古墳の造営時期について4世紀後半頃とされています。

〝最古の大型前方後円墳である箸墓古墳の年代というものは、実際の所、前期後半とされる4世紀後半頃より大きく遡ることは考えられないということになる。〟131頁

〝箸墓古墳と纒向遺跡の発展は4世紀
 このようにみると、箸墓古墳の造営が始まり、纒向遺跡が最も拡大化する庄内式末期から布留式の初めにかけての時期というものは、やはり4世紀に入ってからのことであろう。近畿大和に邪馬台国の痕跡というものが確認できない以上、ここに邪馬台国の同時代の箸墓古墳や纒向遺跡が存在するなどということは、ありえることではないからである。〟158頁

 そして箸墓古墳がある纒向遺跡について、示唆に富む数々の考古学的事実を紹介されています。その一つが、大和における〝銅鐸圏勢力の滅亡〟についてです。

〝大和の銅鐸と銅鏡
 (前略)大和地域は、「銅鐸文化圏」とされる近畿地方の中で、銅鐸の出土数や生産においても、その中心地といえることはない。
 また大福・脇本遺跡では、鋳造関連遺物と出土した銅鐸片により、青銅製品の原料としての再利用が考えられているが、その時期はほぼ弥生時代の終末であり、庄内期には銅鐸の使用は終わっているとみられる。
 銅鐸は大和の弥生社会では重要な役割を果たしたと思うが、その出土地は、西方地域から導入されながらも次第に東方地域を志向しており、後半期には近江・東海系の銅鐸も出土しているのである。(中略)
 そして、大和の銅鐸使用の終焉を示すところが纒向遺跡であるということは、最も象徴的なことといえよう。銅鐸自体も、本来、銅鏡のように大陸と共通する遺物ではなく、その発達も九州以東の地域の中でのことであり、古墳につながるような遺物ではないことは明らかである。〟69~70頁

 〝纒向遺跡が最も拡大するのは、箸墓古墳の造営時期という、かなり新しい時期のことであることも、古墳群との関係性をよく示している。
 また、出土遺物についても、これまでの大和の弥生遺跡の傾向と、ほぼ同様であることが知られる。それは、金属器や大陸系遺物の少なさ、それに対する東方地域の土器の多さなど、いくつもの共通性に現れているのである。(中略)
 このように、弥生時代から続く大和の遺跡のもつ特質というものが、箸墓古墳の造営の直前までそのまま受け継がれていることは、大型前方後円墳出現の基盤ともなる遺跡の内容としては、やや意外ともいえる。〟74頁

 ここで関川さんが述べられていることは重要です。要約すれば次のことを意味しています。

(1)弥生時代の大和の遺跡は北部九州や大陸の影響がほとんど見られず、むしろ東海地方などの東方地域との交流の強さを示している。
(2)弥生時代の近畿は銅鐸圏に属しているが、大和はその中心地ではない。
(3)纒向遺跡は、箸墓古墳の造営が始まる直前(4世紀前半頃か)までは銅鐸圏としての様相を見せている。
(4)箸墓古墳が造営されるときには銅鐸勢力は大和から駆逐され、纒向遺跡は銅矛圏の領域として最も拡大した。

 以上の事実は、弥生時代終末期には大和から銅鐸勢力が駆逐され、箸墓古墳などの巨大前方後円墳を造営する勢力が侵攻・台頭したことを示しています。
 古田先生は『盗まれた神話』『ここに古代王朝ありき』(注②)において、神武東征説話は銅矛圏(天国勢力。後の九州王朝)から銅鐸圏への軍事侵攻であるとされました。そしてその数百年後、神武の子孫達は奈良盆地を制圧し、更に銅鐸圏の中枢領域である大阪方面(大阪湾岸・淀川流域)へと支配領域を拡張したことが『古事記』(神武記・崇神記・他)に記されていることを論証されました。この文献史学による古田説と、関川さんが紹介された考古学的出土事実は対応しているのではないでしょうか。(つづく)

(注)
①関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』梓書院、2020年。
②古田武彦『盗まれた神話 記・紀の秘密』「第十章 神武東征は果たして架空か」朝日新聞社、昭和五十年(1975)。ミネルヴァ書房より復刻。
 古田武彦『ここに古代王朝ありき 邪馬一国の考古学』「第二章 銅鐸圏の滅亡」朝日新聞社、昭和五四年(1979)。ミネルヴァ書房より復刻。


第2491話 2021/06/14

「倭の五王」大和説と南・北九州説

 『宋書』に記された「倭の五王」を九州王朝(倭国)の王とする古田説は文献史学に基づく最も妥当な説ですが、他方、通説では大和の王達(後の大和朝廷)のこととされ、それは考古学に基づいた説とされています。たとえば、「邪馬台国」北部九州説を支持されている関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)は『考古学から見た邪馬台国大和説』(注①)において、4世紀に大和で政権が成立し、その政権が5世紀には「倭の五王」へ続くと述べられています。その根拠は他地域を凌駕する河内・大和の巨大古墳群の存在です。この論理(解釈)が、大和朝廷一元史観成立のための重要な根拠となっています。
 古田説と通説の他に、「倭の五王」南九州説というものもあります。江戸時代の学者、鶴峯戊申は『襲国偽僣考』(文政三年、1820年の序文を持つ。注②)において次のように主張しています。

 「允恭天皇十年。襲の王。讃。使を宋につかわす。」

 鶴峯は襲国を南九州の薩摩・大隅地方に比定していますから、「倭の五王」南九州説に立っています。
 このように、管見では「倭の五王」について、古田先生の北部九州説(九州王朝説)と通説の大和説、そして鶴峯の南九州説があります。これら三説にはそれぞれに根拠があり、それは次のようなことです。

〔古田説:王都は北部九州〕
 『宋書』の史料批判により、北部九州にあった邪馬壹国の後継王朝であることは明らか。→文献史学の成果に基づく。

〔通説:王都は大和〕
 5世紀における河内・大和の巨大古墳群の存在や、列島最大規模の都市遺構も難波から出土しており、それらは倭国・倭王の墳墓・都市にふさわしい。→考古学的事実に基づく。

〔鶴峯説:王都は南九州〕
 『宋書』など中国正史に見える倭国は大和朝廷ではない。南九州には九州島内最大規模の西都原古墳群がある。→文献史学と考古学的事実に基づく。

 ちょっと大雑把な説明ですが、おおよそ以上のようになります。三説の中で、文献史学と考古学の双方に根拠を持つのが、江戸時代の鶴峯説であることは意外な感じがします。わたしたち古田学派にとっても、この三説の優劣を検証することが、一元史観の論者を説得するためにも学問的に必要な作業です。(つづく)

(注)
①関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』梓書院、2020年。
②鶴峯戊申『襲国偽僣考』「やまと叢誌 第壹号」(養徳會、明治二一年、1888年)所収。


第2489話 2021/06/13

古田学派における「倭の五王」研究

 大和の考古学的出土事実と倭人伝の史料事実に基づき、関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)は「邪馬台国」大和説批判を圧倒的な説得力で展開されました。その関川さんによる4世紀と5世紀の歴史認識が『考古学から見た邪馬台国大和説』(注①)にも少しだけ示されていますので、紹介します。

〝箸墓古墳と纒向遺跡の発展は4世紀
 このようにみると、箸墓古墳の造営が始まり、纒向遺跡が最も拡大化する庄内式末期から布留式の初めにかけての時期というものは、やはり4世紀に入ってからのことであろう。近畿大和に邪馬台国の痕跡というものが確認できない以上、ここに邪馬台国の同時代の箸墓古墳や纒向遺跡が存在するなどということは、ありえることではないからである。〟158頁

〝対外交流の盛んな大和・河内の5世紀
 このような対外的な交流をめぐり、大和地域の弥生後期・庄内期の遺跡と全く対照的な内容を示すのは、古墳時代中期・5世紀の状況である。
 5世紀は、中国宋王朝との通交が行われ、半島諸国とも大きな関わりをもつ、いわゆる「倭の五王」の時代である。この時期、大阪平野や奈良盆地には巨大古墳が群生し、当時の政権の中枢が近畿中部に存在したことは明らかである。
 そして古墳にみる副葬品はもちろん、この時期の遺跡を発掘すれば、それ以前にはみられなかった半島系の韓式・陶質土器や古式の須恵器、さらには馬の歯・骨などが出土するのである。
 この時代の大和・河内が、政治ばかりでなく、対外交流の面でも、その中心にあり、それと共に新来の文物が到来する様を、古墳や遺跡からまぎれもなく実感することができる。〟77~78頁

 このように、「邪馬台国」が北部九州にあったとする関川さんでも、4世紀には大和で政権が成立し、その政権が5世紀には「倭の五王」へ続くと理解されています。その根拠は他地域を凌駕する河内・大和の巨大古墳群の存在ですが、こうした結論に至る、関川さんの学問の方法は一貫しています。考古学的事実と文献史学における史料事実の解釈が整合すれば、その解釈を最有力説とする方法です。具体的には次のように述べられています。

〝箸墓古墳は墳丘長300m近い大型前方後円墳である。そして同じような墳形・規模をもつ古墳は、5世紀の百舌鳥・古市古墳群にもみることができる。これらの古墳群には、この時期最大級の現仁徳・応神陵を始めとする大型古墳がみられるが、その中には中国史書に倭国王として登場する人物の古墳が含まれていることは確実であろう。
 それならば、箸墓古墳は卑弥呼の墓ではありえない。箸墓古墳の被葬者は、このような倭国王と同じ系列の古墳につながる、大和政権にかかわりのある人物であるとしか言いようがないのである。〟163頁

 こうした関川さんの理解は、大和朝廷一元史観成立の最大の根拠になりつつあります。「邪馬台国」論争は、関川さんの著書に示されたように、ほぼ古田説と同方向(北部九州説)へと収斂しつつあるようですが、「邪馬台国」の後継勢力が4世紀に大和へ進出し、大和政権の基礎を築き、5世紀には圧倒的な巨大古墳群を築造した「倭の五王」に続くとする通説を形成しているのです。
 これこそ、わたしが提起した「九州王朝説に突き刺さった三本の矢」(注②)の《一の矢》に他なりません。これは、古田先生が提唱された多元史観・九州王朝説を是とする、わたしたち古田学派にとって避けることのできない課題です。考古学的事実に基づいて成立した「倭の五王」=「河内・大和の巨大前方後円墳の被葬者」という通説に、どう対峙するのかが問われています。本年11月の八王子セミナーで、この問題についてどのような議論が行われるのかが、わたしにとっての最大の関心事です。(つづく)

(注)
①関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』梓書院、2020年。
②古賀達也「九州王朝説に刺さった三本の矢」(『古田史学会報』135、136、137号。2016年8、10、12月)、古賀達也「洛中洛外日記」1221~1254話(2016/07/03~08/14)〝九州王朝説に刺さった三本の矢(1)~(15)〟において、古田学派が説明しなければならないテーマとして、次の3点を指摘した。
【九州王朝説に突き刺さった三本の矢】
《一の矢》日本列島内で巨大古墳の最密集地は北部九州ではなく近畿(河内・大和)。
《二の矢》六世紀末から七世紀にかけての列島内での寺院(現存・遺跡)の最密集地は北部九州ではなく近畿。
《三の矢》全国に評制施行した九州王朝最盛期の七世紀中頃において、国内最大の宮殿・官衙群遺構は北部九州(大宰府政庁)ではなく大阪市の前期難波宮(面積は大宰府政庁の約十倍。東京ドームが一個半入る)であり、国内初の朝堂院様式の宮殿でもある。


第2477話 2021/06/01

「倭の五王」王都、大宰府政庁説の淵源(6)

–内倉武久さんの太宰府・筑後「倭の五王」王都説

 古田先生が、考古学的エビデンス(五世紀の王宮遺構の出土)がない、「倭の五王」王都を大宰府政庁とする仮説に至った根拠や淵源について、本シリーズで検証してきました。そして、その根拠の一つと思われる「九州大学が古いと言って出しているもの」(坂田測定)について精査した結果、大宰府政庁「倭の五王」王都説のエビデンスとして採用できるような試料性格ではないことがわかりました。
 古田先生が『古田武彦の古代史百問百答』(注①)の次の記事に示された、もう一つの根拠、「内倉さんが書かれたように弥生時代から、建物の跡が連綿と続いています。」についても検証します。

〝もう一つ紫宸殿というのでなくて、権力者の建物ということになると、内倉さんが書かれたように弥生時代から、建物の跡が連綿と続いています。わたしは『邪馬壹国の論理』の最後に書きましたが、九州大学が古いと言って出しているものを、今の考古学会は知らない振りをしているわけです。そういう問題をクリアしなければならない。〟『古田武彦の古代史百問百答』「32 九州の紫宸殿について」ミネルヴァ書房版、212頁

 ここに示された弥生時代から連綿と続いた「建物の跡」とは、恐らく内倉さんが『太宰府は日本の首都だった』(注②)に書かれたものと思われますので、同書を改めて精査しました。同書には「倭の五王」や大宰府政庁跡について次の記述があり、内倉さんの見解をより深く理解することができました。

(1)(倭王)武は朝鮮半島からみて「海の南」にいたことになる。そう呼べる場所は、地理的に北部九州しかない。その中心は筑後川流域や太宰府だ。(157頁)
(2)太宰府に都していた「倭の五王」ら(163頁)
(3)結論からいえば、九州王朝・倭国の首都は、瀬高町や八女市、久留米市の高良大社付近、太宰府などを転々とした後、六世紀末から7世紀終わりまでは、再び太宰府に腰を据えたのかもしれない。(183頁)

 以上のように内倉さんは記されていることから、おおよそ次のように倭国王都の変遷を捉えておられるようです。

 4世紀(筑後瀬高)→5世紀(筑後川流域・筑前太宰府)→6世紀(筑後八女)→6世紀末~7世紀(筑前太宰府)

 この変遷案から、「倭の五王」の王都に関する記述を厳密にみると、(1)では「中心は筑後川流域や太宰府」と示唆され、(2)では「太宰府に都していた」とありますから、論旨に幅がありますが、同書全体の内容や文脈からは、「倭の五王」時代の王都は太宰府であり、巨視的には筑後川流域も含むという説のように読み取れます。これは晩年の古田説「表は太宰府、実際は久留米付近」(注③)という「倭の五王」王都二重構造説に近いものです。ただし、内倉さんは大宰府政庁(筑前)を主とされ、古田先生は「実際は久留米」(筑後)というように、重心が異なってはいます。
 なお、内倉さんは大宰府政庁の考古学的出土事実を次のようにも紹介されており、古田先生が根拠とされたような「内倉さんが書かれたように弥生時代から、建物の跡が連綿と続いています。」という内容の記述は見当たりません。

〝太宰府の中心部、約六平方キロに及ぶ「大宰府政庁」遺跡には、「古墳時代の土層がない」という。〟『太宰府は日本の首都だった』6頁

 もちろんこれは「という」とあるように、「考古学者による通説」の紹介部分ですが、大宰府政庁整地層に通説では古墳時代とする「土層がない」という考古学的事実までを否定したものではありません。何よりも、大宰府政庁に弥生時代から7世紀まで〝連綿と続く建物〟の出土報告はありません。
 以上の精査結果から、「倭の五王」王都所在説の論点を整理すれば、大宰府政庁か筑後川領域かという問題ではなく、大宰府政庁跡(あるいはその近傍)に5世紀の倭国の王都にふさわしい王宮遺構や出土物があるのかということが最大の論点であることがわかります。晩年の古田説や内倉説にしても、筑後や筑後川流域も王都の対象としており、筑後説を否定しているわけではないからです。他方、わたしも支持する筑後川流域説にしても、同様に5世紀の王宮遺構の存在を明示できていません。
 本年11月の八王子セミナー(古田武彦記念 古代史セミナー、大学セミナーハウス)では、この点についての真摯な論争や質疑応答がなされることを期待しています。もちろん、その結論が〝現時点ではわからない〟であっても全くかまいません。わからないことはわからないとし、わからない理由を明示する。学問研究とはそのようなものですから。(おわり)

(注)
①古田武彦『古田武彦の古代史百問百答』ミネルヴァ書房、平成二七年(2015)。東京古田会(古田武彦と古代史を研究する会)により、2006年に発行されたものをミネルヴァ書房から「古田武彦 歴史への探究シリーズ」として復刊された。
②内倉武久『太宰府は日本の首都だった ─理化学と「証言」が明かす古代史─』ミネルヴァ書房、2000年。
③古田武彦『古田武彦の古代史百問百答』「Ⅶ 白村江の戦いと九州王朝の滅亡」「32 九州の紫宸殿について」、212頁。


第2476話 2021/05/31

土木工学から見た水城の建設技術

 ―林 重徳「遺跡に〝古代の建設技術〟を読む」―

 水城の創建年代などに関する小論(注①)を近年発表してきましたが、そのおりに土木工学や土木史の先行研究論文から多くのことを学びました。その中の1つ、林重徳さんの「遺跡に〝古代の建設技術〟を読む」(注②)は刺激的でとても勉強になりましたので、紹介します。
 論文の目的と概要について、次のように説明されています。

〝ここではまず、”水城”築堤の目的と当時の情勢に基づいて、現代の土木工学と水利・水文学的視点から、水城の構造を検討するとともに、御笠川・欠堤部の復元について考察する。つぎに、建設技術・地盤工学の観点から過去の調査報告書等の内容を考察するとともに、最近の水城堤の断面調査および西門門柱基礎の調査結果等から、”水城”に 用いられている築堤上の工夫・建設技術について検討し、設計・施工を指揮監督した古代人の意図を推察する。続いて、水城の堤体から採取された不撹乱試料の土質試験結果などから、盛土の土質特性に及ぼす約千三百年の歳月による効果(年代効果)を 考察する。〟

 論文中、わたしが最初に注目したのは水城の築造期間について、『日本書紀』など文献を根拠に一年足らずの短期間で完了したとされていることです。

〝このような記録にみられる歴史背景と情勢から明らかなことは、”水城”の築堤は、何時敵の襲来があるかも知れないという非常な恐怖心と緊迫した状況の下で、施工されたものであり、失敗は許されず、1日でも早い完成が要求された工事であったと云うことができる。また、敗戦直後の当時の国力からも、水城の築堤工事と2つの山城の築 造を平行して施工したとは考え難いので、水城の築堤 工事は基本的 にわずか1年足らずの短期間で完了したものと考えられる。
 即ち、水城の築堤は、緊急の防衛施設工事であり、今日云うところの”急速施工”と”確実施工”が求められた大規模土工工事であったと言えよう。〟

 古田学派内では『日本書紀』を根拠に、唐軍が進駐している白村江戦後の筑紫で水城のような巨大防衛施設が造れるはずがないとする解釈が主流意見ですが、同じく『日本書紀』の記述を根拠にして、逆の解釈が成立していることがわかります。従って、水城の造営年代については、実物が現存していますから、その調査・観察に基づいた考古学的手法により判断するのが合理的です。この方法であれば、両論者が同一の考古学的事実に基づいて、建設的な論議が可能だからです。
 同論文の「まとめ」では、水城の築造技術について土木建築学の視点から、次の所見が記されており、いずれも興味深いものでした。

1) 超軟弱な箇所では、梯子胴木的工法を採用している。
2) 工事途中ですべり崩壊を生じた箇所では、抑止杭工と石材投入によるカウンターウェイトエを施工している。
3) 本堤の高盛土部においては版築工法が、また低盛土部においては通常の締固め施工が行われているようである。
4) 出土した”えぶり”等を用いて敷均しと撒出し厚の管理がなされていたと考えられる。
5) 木樋付近においては版築工法が用いられ、締固め後に掘削して木樋を敷設するなど、木樋に作用する土圧を軽減するための処置が施されており、土圧の概念を認識していたと考えられる。
6) 急傾斜側を密に締固め、緩傾斜側は比較的緩く締固めるとともに、緩い傾斜の締固め層および排水層を施工することにより、力学的な安定化とともに雨水・浸透流に対する堤体の侵食対策が組み込まれている。
7) 沖積地盤上に約10~14m規膜の急勾配の築堤を、しかも短期間に確実に施工するために、押え盛土工および敷粗朶による補強土工などの対策が必要であることを、盛土の最下部の施工段階から認識していた。
8) 敷粗朶は地下水位以下に使用しており、まさ土の鉄分等により、敷粗朶を酸欠状態に置き、腐植を防止できること、即ち、耐久性の確保を認識していたとすれば、驚くべきことである。
9) 西門門柱の基礎の硬質粘土層は、門柱の腐植防止(耐久性確保)、荷重の再配分、の意図とともに、免振対策としての工夫であると推察することは十分可能であり、現代技術の積層ゴムを用いた場合の半分強の効果がある。
10) 敷粗朶についても、補強土工法が地震に強いことを十分に認識した上で、使用した可能性がある。

 この指摘にあるように、水城の築造技術思想が現代の建築技術に通じるものがあることに感激しました。何よりも、基底部の造成段階に採用された各種技術が、最終完成物(水城土塁)にとっての必要性を認識して使用されていた可能性に言及されていることは重要です。
 水城が、土木工学的には当初から計画的に強度・耐震設計されていたと推定でき、このことは水城が短期間に造成されたとする見解を指示するものです。少なくとも、今後の水城築造年代についての論議は、文献史学における解釈論にとどまることなく、林さんによる土木工学の所見も踏まえた上でなされるべきと思います。もちろん、土木工学的に林さんの所見が間違っているという学問的な批判も、当然あり得ることでしょう。
 林さんは論文を次のように締めくくっておられます。

〝この河内狭山池(依網池)においても、築堤の基部から複層の腐植層が確忍されており、関西においては”敷葉工法”と名付けられている。材料こそ天然のものであるが、またそれ故に耐久性までを考慮に入れているとしたら、水城築堤に用いられているこれらの”古代の建設技術”は、千数百年を隔てる”現代の技術”を凌駕しているとさえ言うことができる。遺跡・遺構を豊かな想像力と洞察力をもって見直すことにより、現在の建設技術を見直し、未来に活かすことのできる古代の建設技術が発見されるであろう。〟

 なお、同論文末尾に挙げられた参考文献欄に、「古田武彦;古代史60の証言 金印から吉野ヶ里まで、騒々堂、1991」があったことも紹介しておきます。

(注)
①古賀達也「太宰府条坊と水城の造営時期」『多元』139号、2017年5月。
 古賀達也「理化学的年代測定の可能性と限界 ―水城築造年代を考察する―」『九州倭国通信』186号、2017年5月。
 古賀達也「前畑土塁と水城の編年研究概況」『古田史学会報』140号、2017年8月。
②林 重徳「遺跡に〝古代の建設技術〟を読む ~特別史跡・水城を中心として~」『ジオシンセティックス論文集』第18巻、2003.12。


第2475話 2021/05/30

「倭の五王」王都、大宰府政庁説の淵源(5)

 ―坂田測定「水城出土杭」、もう一つの可能性―

 「坂田測定」でBC300年頃とされた水城出土杭ですが、その測定値が正しければ、大きく異なる他者の測定値(七世紀以後が大半)と整合できるもう一つの可能性があります。それは、弥生時代に造成された河岸の補強杭が、七世紀の水城築造時に再利用されたか、そのまま水城堤体内に取り込まれたというケースです。今回はその可能性について説明します。
 考古学的出土事実に基づいた土木史研究では、縄文時代・弥生時代から河岸の防護に木杭などが使用されていることが注目されています。安保堅史さんらの研究(注①)によれば、治水遺構や利水遺構に木杭が古代から使用されていたことが、次のように報告されています。

〝(1)治水遺構について
1.堤防遺構
 (中略)最も大規模なのは7世紀後半から築造されたといわれている「水城大堤」で、幅40m、高さ10mである。当時の国防施設であるとはいえ、これほど大規模な築堤はわが国では江戸期まで例はない。同時期の狭山池も大規模な築堤であったことがわかる。これら2つの堤防に共通することは、どちらも後述する特徴的な工法(古賀注:敷葉・敷粗朶、版築、護岸・土留め杭など)によって堤体強度を上げていたということである。(中略)「護岸・土留め杭」は先述の「原の辻」両堤からみつかっており、中世の「佐堂」江戸期の「浅山新田」など、各時代の堤防で行われていたようである。「基礎杭」のなかでも多くの杭を打ち込んだ工法が見られるのは古墳期「津寺」からで、その後、鎌倉期の「百間米田」左岸堤防を最後に見られなくなる。(中略)

2.護岸・水制遺構
 (前略)「杭・矢板」は土留めや低水護岸のために岸に流路に沿って杭を打ち込む工法で、最古は縄文後期の「袋低地」があり、奈良・平安期まで確認されている。(中略)

(2)利水遺構について
1.堰遺構
 (中略)年代的に見ると、杭を使った堰で、「杭群」形式は弥生期のみの発掘で、「那珂久平」など数千本の杭を使ったものがあったが、古墳期からは事例がない。構造型の「柵枠」「斜め柵」は最も古くからある堰の形式で、縄文後期の「牟礼」から、古墳期の「免」などがある。また「合掌型」は弥生中期から弥生後期まで見つかっている。(中略)「杭・横板」は弥生後期の「能峠中島」が最も古いが、古墳期の「纒向」のころから灌漑水路の分水堰として機能している。大木を横たえる「丸太型」は弥生中期の「軽部池」から、古墳期の「森脇」までの事例があった。〟

 以上のように、杭が治水・利水遺構に古代から使用されていたことが確認されています。水城が築造された地域も御笠川をはじめとするいくつかの水路があったことが知られており、そのため水城基底部の補強に敷粗朶工法が採用されています。何よりもそうした豊富な水量が確保できることが前提条件にあって、「水城」という大型の濠を持つ防衛施設が造営可能だったわけです。「水城」というネーミングが、そうした古代建築や古代人の防衛認識を象徴しているのではないでしょうか。
 従って、この地域に居住していた縄文・弥生・古墳時代の人々(注②)にとって、治水・利水は必須であり、そのための施設に多くの杭が使用されたことをわたしは疑うことができません。ですから、この時代の杭が水城に再利用されたり、そのまま取り込まれた可能性も一応は抑えておく必要があります。しかしそれであれば、尚更に「坂田測定」を根拠に水城の造営年代を論じることは危険ですし、ましてや大宰府政庁「倭の五王」王都説のエビデンスとして「坂田測定」を使用することもできないのです。(つづく)

(注)
①安保堅史・藤田龍之・知野泰明「発掘記事にみる治水・利水技術の変遷に関する研究」『土木史研究』第21号、2001年5月。
②『水城跡 上巻』(九州歴史資料館、平成二一年〔2009〕、150~151頁)の「水城築堤以前の遺構」では、縄文時代の竪穴式住居や弥生時代の竪穴式住居・貯蔵穴・土坑の出土が報告されている。