倭の五王一覧

第2455話 2021/05/10

大宰府政庁の科学的年代測定(14C)情報(1)

 古田先生とは様々なテーマで意見交換や討論を行いましたが、どうしても合意に至らなかったテーマがいくつかありました。その一つが『宋書』に見える「倭の五王」の王都の場所についてでした。『宋書』には当時の倭国王都の位置情報が記されていませんから、このテーマは文献史学ではなく考古学上の根拠に基づく必要がありました。ですから、先生との論争もこの分野での知見に基づいて行ったのですが、今でもそのときのことをよく憶えています。
 古田先生は太宰府都府楼跡(大宰府政庁Ⅰ期)とするご意見でしたが、わたしは大宰府政庁Ⅰ期出土の土器編年はとても五世紀までは遡らないし、出土遺構も堀立柱の小規模なものであり、倭王の宮殿とは考えられないと反論してきました。そして次のような対話が続きました。

古田「それならどこに王都はあったと考えるのか」
古賀「わかりません」
古田「水城の外か内か、どちらと思うか」
古賀「五世紀段階で九州王朝が水城の外側に王都を造るとは思えません」
古田「だいたいでもよいから、どこにあったと考えるか」
古賀「筑後地方ではないでしょうか」
古田「筑後に5世紀の王宮の遺跡はあるのか」
古賀「出土していません」
古田「だったらその意見はだめじゃないですか」
古賀「だいたいでもいいから言えと先生がおっしゃったから言ったまでで、まだわかりません」

 およそこのような「論争的」対話が続いたのですが、合意には至りませんでした。しかし「水城の内側(南側)」という点では意見の一致を見ていました。倭王の都城についてはその他にも論争があり、そのことを紹介した論稿を古田先生没後(三回忌の翌年)に発表しました(注①)。いずれの論争も、懐かしい思い出でばかりです。
 この論争テーマには二つの論点(土器・古墳)がありました。一つは大宰府政庁Ⅰ期の整地層から、7世紀第3四半期後半から第4四半期に編年されている「須恵器坏B」(注②)と呼ばれる土器が出土していることでした。この土器の編年を、いくらなんでも5世紀まで二百年も遡らせるというのは無茶というもので、この出土事実をわたしは強く主張しました。
 二つ目は、古田先生が論文発表されていた〝九州王朝の筑後への移動〟という仮説です。それは「『筑後川の一線』を論ず」(注③)という、古田学派でもあまり知られていない小論文ですが、筑後川を挟んでの九州王朝王都の移動変遷に関する重要論文です。
 要旨は、弥生時代の倭国の墳墓中心領域は筑後川以北であり、古墳時代になると筑後川以南に中心領域が移動するというもので、その根拠としてそれぞれの時代の主要遺跡(弥生墳墓と装飾古墳)分布が、天然の濠「筑後川の一線」をまたいで変遷するという指摘です。その理由として、主敵が弥生時代は南九州の勢力(隼人)で、古墳時代になると朝鮮半島の高句麗などとなり、神聖なる墳墓を博多湾岸から筑後川以南の筑後地方に移動させたと考えられています。
 この「筑後川の一線」という指摘に基づいて、わたしは「九州王朝の筑後遷宮」という仮説を提起し、高良大社の玉垂命こそ古墳時代の倭国王(倭の五王ら)であったとする論文(注④)を発表しました。古田先生も「『筑後川の一線』を論ず」において、「弥生と古墳と、両時代とも、同じき『筑後川の一線』を、天然の境界線として厚く利用していたのである。南と北、変わったのは『主敵方向』のみだ。この点、弥生の筑紫の権力(邪馬壱国)の後継者を、同じき筑紫の権力(倭の五王・多利思北弧)と見なす、わたしの立場(九州王朝説)と、奇しくも、まさに相対応しているようである。」とされています。
 この論文を発表された当時、古田先生は「倭の五王」の王都を筑後とされていたのですが、いつの頃からか太宰府説に変わられていました。しかし、晩年の先生の認識が記された『古田武彦の古代史百問百答』(注⑤)には「倭の五王」の王都の位置については触れられていませんので、わたしとの論争の結果、態度を保留されたのではないでしょうか。
 いずれにしても、この仮説は重要なもので、そのことをわたしは繰り返し訴えましたが(注⑥)、古田学派内からの反響はありませんでした。他方、わたしは土器編年以外に大宰府政庁跡の暦年を探る方法はないものか検討を続けてきました。その中で、大宰府政庁跡出土炭化材の炭素同位体比(14C)年代測定値が『大宰府政庁跡』(注⑦)に発表されていたことを草野善彦さんの著書『「倭国」の都城・首都は太宰府』(注⑧)で知りました。(つづく)

(注)
古賀達也「古田先生との論争的対話 ―「都城論」の論理構造―」『古田史学会報』147号、2018年8月。古田先生と見解が対立したテーマについての二人のやりとりについては、先生の三回忌が過ぎるまでは論文発表しないとわたしは決めていた。
②7世紀後半の代表的須恵器で、蓋につまみがあり、底に「足」がついている。652年(九州年号の白雉元年)創建の前期難波宮整地層からは出土せず、694年に持統が遷都した藤原宮(京)整地層からは大量に出土する。これらの出土事実や共出した木材の年輪年代測定・年輪セルロース酸素同位体比年代測定などのクロスチェックにより、その編年観が成立している。
 年輪セルロース酸素同位体比年代測定については、拙稿「洛中洛外日記」667話(2014/02/27)〝前期難波宮木柱の酸素同位体比測定〟、同第672話 2014/03/05(2014/03/05)〝酸素同位体比測定法の検討〟を参照されたい。
③古田武彦「『筑後川の一線』を論ず」『東アジアの古代文化』61号、1989年。
④古賀達也「九州王朝の筑後遷宮 ―高良玉垂命考―」『新・古代学』第四集、新泉社、1999年。
⑤古田武彦『古田武彦の古代史百問百答』ミネルヴァ書房、2015年。東京古田会(古田武彦と古代史を研究する会)により、2006年に発行されたものをミネルヴァ書房から「古田武彦 歴史への探究シリーズ」として復刊された。
⑥古賀達也「洛中洛外日記」555話(2013/05/05)〝筑後川の一線〟
 古賀達也「洛中洛外日記」1382話(2017/05/04)〝「倭の五王」の都城はどこか(1)〟
 古賀達也「『都督府』の多元的考察」『多元』141号、2017年9月。後に『発見された倭京 ―太宰府都城と官道』(『古代に真実を求めて』21集、明石書店、2018年)に転載。
⑦『大宰府政庁跡』九州歴史資料館、2002年。
⑧草野善彦『「倭国」の都城・首都は太宰府』本の泉社、2020年。本書を著者から贈呈していただいた。記してお礼申し上げる。


第2439話 2021/04/21

「倭王(松野連)系図」の史料批判(6)

 ―「呉王夫差」始祖伝承の痕跡―

 前話に於いて、「倭王(松野連)系図」の少なくとも3世紀末・4世紀初頭から7世紀部分を編纂した松野連一族は、自らを「倭の五王」の後裔と主張していたとしました。次に、同系図のもう一つの主張、「呉王夫差」始祖伝承について検討します。
 鈴木真年氏の稿本「松野連倭王系図(静嘉堂文庫所蔵)」(注①)の冒頭部分には次の人物名が並びます。

 「夫差《呉王》 ― 公子慶父忌 ※― 阿弓《怡土郡大野住》 ― 宇閇《》 ― (後略)」《》内は傍注。
 「※― ○ ― ○― (中略) ―」(「公子慶父忌」からの枝分かれとして追記され、「阿弓」へと繫ぐ。)
 「※― 順《》 ― (八代略) ―」(「公子慶父忌」からの枝分かれとして追記され九代続き、同系図の「卑弥鹿文」の子供の位置に繫ぐ。)

 このように鈴木真年氏の稿本には複数の所伝が書き込まれており、複数の「松野連系図」に基づいて、異伝も加筆書写された姿を示しているようです。このことから、同系図のいずれかが現代も御子孫に伝わっている可能性があります。全国の松野姓の分布状況などを調査すれば、系図をお持ちの御子孫が見つかるのではないでしょうか(注②)。
 鈴木真年氏と親交のあった中田憲信氏による稿本「松野連倭王系図(国立国会図書館所蔵)」(注③)の冒頭部分は次のようです。

 「松野連 姫氏
 呉王夫差 ― 忌《字慶父》《孝昭天皇三年来朝 住火国山門菊池郡》 ― 順《字去□》《居于委奴》 ― 恵弓 ― (後略)」 《》内は傍注。□の字は、わたしの持つコピーからは読み取れない。

 鈴木真年氏の稿本とは異なっており、別の異本によるのかもしれません。しかし、呉王夫差を始祖とする点は同じですから、九州王朝内にこうした伝承を持ち、それを誇る氏族がいたと考えられます。このことを示唆する史料が中国史書にあります。唐代に成立した『晋書』と『梁書』です。

 「(前略)男子は身分の上下の別なく、すべて黥面文身(顔や身体に入墨)している。自ら、呉の太伯の後裔と謂う。(後略)」『晋書』倭人伝

 「倭は自ら呉の太伯の後裔と称している。風俗には、皆、文身(入墨)がある。(後略)」『梁書』倭伝

 『晋書』は3~5世紀の西晋・東晋、『梁書』は6世紀の梁を対象とした史書ですが、その著者は『晋書』が房玄齢(578~648年)、『梁書』が姚思廉(?~637年)。成立は『晋書』が648年、『梁書』が629年です。この7世紀前半に成立した両書に、「呉の太伯の後裔」記事が現れ、倭国からもたらされた情報であると記されています。
 史書ではありませんが、同じく唐代成立の『翰苑』(注④)の「倭国」条にも次の記事が見え、同条に引用されている『魏略』(注⑤)にも「自謂太伯之後」の記事があり、それによれば同伝承史料の存在が3世紀まで遡ることになり、注目されます。

 「文身黥面して、猶太伯の苗と称す。」『翰苑』30巻「倭国」

 「(前略)自帯方至女國万二千余里。其俗男子皆黥而文。聞其旧語、自謂太伯之後。昔夏后小康之子、封於会稽。断髪文身、以避蛟龍之害。今倭人亦文身、以厭水害也。」『翰苑』30巻「倭国」引用『魏略』

 これらの中国(唐)側の認識に対応しているのが、「倭王(松野連)系図」に記された〝主張〟です。同系図に遺された始祖伝承と通じる伝承(注⑥)が、7世紀前半成立の『晋書』『梁書』に記されていることから、同伝承の成立が7世紀前半以前であることがわかります。このことも、同系図の始祖伝承が後代の造作ではないことを指示しています。(つづく)

(注)
①尾池誠著『埋もれた古代氏族系図 ―新見の倭王系図の紹介―』晩稲社、1984年、1頁。
②例えば、柿本人麻呂の御子孫「柿本氏」が佐賀県に分布しており、人麻呂を含む同氏の系図が伝わっている。その内の一つのコピーを古田先生からいただいている。機会があれば「洛中洛外日記」でも紹介したい。
③尾池誠著『埋もれた古代氏族系図 ―新見の倭王系図の紹介―』晩稲社、1984年、4頁。
④唐代に張楚金によって書かれた類書。後に雍公叡が注を付けた。現在は、日本の太宰府天満宮に第30巻及び叙文のみが残る。
⑤中国三国時代の魏を中心に書かれた歴史書。著者は魚豢(ぎょかん)。成立年代は魏末から晋初の時期と考えられている。
⑥呉は中国の春秋時代に存在した国の一つで、国姓は姫(き)である。周王朝の祖の古公亶父の長子の太伯(泰伯)が次弟の虞仲と千余家の人々と共に建てた国とされ、紀元前12世紀から紀元前473年、7代の夫差まで続き、越王の勾践により滅ぼされた。従って、「倭王(松野連)系図」で始祖を呉王夫差とすることは、太伯を始祖とすることにもなる。


第2436話 2021/04/16

「倭王(松野連)系図」の史料批判(4)

 ―松野連(まつのむらじ)と松野郷―

 「松野連系図」と呼ばれている「倭王(松野連)系図」を初めて読んだとき、わたしは不思議に思ったことがありました。前話で述べたように、〝「長堤」は「筑紫前国夜須郡」の「松狭野」に住んでいたとあるが、松狭野(まつおの)あるいは「松野」という地名は管見では夜須郡やその付近には現存していないようである。江戸期の地誌にも見えない。〟のです。
 同系図にある「夜須評」「夜須郡」は福岡県朝倉郡筑前町の「夜須」地名に対応しますが、現代の地図や江戸期の古地図・地誌(注①)には、「松野」や「松狭野(まつおの)」(注②)という地名が見つかりません。似たような地名には「松延」(注③)がありますが、そのものずばりの「松野」地名が見つからないのです。このことをずっと不思議に思ってきました。ところが25年ほど前に「松野」という地名を記した本を目にしました。開米智鎧編『金光上人』(注④)という本で、次の記事が見えます。

 「上人は、筑後国松野郷、筑紫西海辺船関守、長安寺国平安直、其の室女平小路良子を父母として、松野城に御生まれになりました。時に寿永「久寿の誤り」二年(一一五五)一月一日。幼名を白龍丸と称しました「疑問状」。松野城「実は館」は地名に因み、弥生館は旧名、白雲城は、唐風に新築してからの名で、松野の地は秋風録に太刀洗郷だとあります。」(同書10頁)
 「略年表
 久寿二年 一一五五 当才
  一・一 筑後国松野郷「太刀洗、秋風録」、弥生館に生まる。父は長安寺国平、母は平小路良子「要」。」(278頁)

 金光上人の両親と誕生についての所伝を記したもので、ここに見える「疑問状」「秋風録」「要」とは「和田家文書」(注⑤)と思われます。同書によれば、松野郷は「筑後国太刀洗(たちあらい)」(注⑥)にあったとされ、そこは「夜須郡(評)」と隣接する筑後川北岸の地です。金光上人生誕伝承はその年次を平安末期(久寿二年、1155年)と伝えており、平安末期には当地に松野郷という地名が存在していたことをうかがわせます。現在、地元でも見つからない松野連の故地名「松野郷」が、平安末期頃の伝承として遺されている和田家文書の史料価値は高いのではないでしょうか。
 このように、松野連の名前の由来となった「松野郷」が平安末期に存在していたことを示す史料が見つかり、「倭王(松野連)系図」の地名に関する7世紀段階の傍注記事の信頼性が高まったことは、史料批判における一定の成果です。(つづく)

(注)
①杉山正仲・小川正格『筑後志』(1777年成立)、貝原益軒『筑前国続風土記』(1709年成立)、他。
②地名ではないようだが、筑前町栗田に「松狭(まつお)八幡宮」があり、注目される。天徳四年(960年)の創建と伝えられている。
③福岡県朝倉郡筑前町松延。当地には松延池もある。
④開米智鎧編『金光上人』1964年、藤本幸一発行、非売品。
⑤青森県五所川原市の和田家(和田喜八郎氏)に伝わった大量の史料群。江戸期成立の『東日流外三郡誌』を代表とする伝承史料集。
 『金光上人』巻末に収録された「新出史料」(和田家文書のこと)一覧に「建保四年(一二一六) 甲野 秋風録」が見える。
⑥現、福岡県三井郡大刀洗町。


第2435話 2021/04/15

「倭王(松野連)系図」の史料批判(3)

 ―庚午年籍と松野連(まつのむらじ)―

 鈴木真年氏が収集した「倭王(松野連)系図」は、通常「松野連系図」と呼ばれています。今回は松野連について検討します。同系図では松野連の始祖を呉王夫差としますが、9世紀初頭に成立した『新撰姓氏録』(注①)の「右京諸藩上」には、松野連について次の様に記されており、自らを呉王夫差の末裔とする松野連が古代に於いて存在していたことは確かなようです。

 「松野連 出自呉王夫差也」(『新撰姓氏録の研究 本文篇』295頁)

 同系図(注②)によれば、「倭の五王」の「武」の後に「哲」(傍注「倭国王」)、次に「満」と〝中国風一字名称〟の人物が続き、その後に「牛慈」「長堤」「大野」「廣石」「津萬呂」へと続きます。ここで注目されるのが次の傍注です。

 「牛慈」《金刺宮御宇 服従 為夜須評督》
 「長堤」《小治田朝評督 筑紫前国夜須郡松狭野住》
 「津萬呂」《甲午籍負松野連姓》
  ※《》内が傍注。「大野」「廣石」には傍注なし。

 これらの傍注が系図原文にあったものか、鈴木真年氏による付記なのかという問題はありますが、「牛慈」が夜須評督になったこと、「長堤」が「筑紫前国夜須郡松狭野」に住んでいたこと、「津萬呂」が甲午籍により「松野連」姓になったことを示しています。この傍注から次のことが想定できます。

①夜須評督になった「牛慈」は評制が施行された7世紀中頃の人物と思われる。「金刺宮御宇」とは欽明期を意味するが、これは『日本書紀』の認識に基づき、後世になって付記されたものである。
②「長堤」は「筑紫前国夜須郡」の「松狭野」に住んでいたとあるが、松狭野(まつおの)あるい「松野という地名は管見では夜須郡やその付近には現存していないようである。江戸期の地誌にも見えない。
③筑前国を「筑紫前国」と古い表記が使用されており、この部分は系図原文にあったと考えられる。それとは逆に、「夜須郡」という表記は「評」が「郡」に書き換えられたもので、本来は「夜須評」だったと思われる。「小治田朝」も推古期を意味するが、これも『日本書紀』成立以降の後代に付記されたと考えられる。
④「津萬呂」が「甲午籍」により「松野連」姓をもらったとあるが、「甲午」は694年だが、この年に造籍があったとする史料痕跡はない。同音の「庚午」(670年)の年に造籍された庚午年籍があり、「甲午」は「庚午」の誤写と考えるのが妥当である。
⑤以上のことから、「牛慈」「長堤」「大野」「廣石」「津萬呂」は7世紀の人物であると推定できる。

 なお、『埋もれた古代氏族系図』2頁掲載の〝稿本〟(注③)には「大野」は見えず、7頁の別筆跡の〝稿本〟(注④)では、「大野」が割り込み加筆された跡があり、このことから「大野」は鈴木真年氏とは別人(注⑤)による加筆と思われます。従って、本来形では「牛慈」「長堤」「廣石」「津萬呂」の四代が7世紀の人物と考えられます。(つづく)

(注)
①佐伯有清『新撰姓氏録の研究 本文篇』吉川弘文館、1962年。
②尾池誠著『埋もれた古代氏族系図 ―新見の倭王系図の紹介―』晩稲社、1984年。(64~65頁)
③「松野連倭王系図(静嘉堂文庫所蔵)」との表記がある。
④「松野連倭王系図(国立国会図書館所蔵)」との表記がある。
⑤『埋もれた古代氏族系図』(34頁)によれば、鈴木真年の協力者として親交のあった中田憲信(よしのぶ)の名前をあげており、『諸系譜稿』(国立国会図書館所蔵)に収録された「松野連倭王系図」は、中田が「鈴木の蒐集本をさらに筆写したもの」とする。


第2433話 2021/04/13

「倭王(松野連)系図」の史料批判(2)

 ―鈴木真年氏の偉業、膨大な系図収集―

 「倭王(松野連)系図」の史料批判に入る前に、同系図を収集した鈴木真年(すずき・まとし)氏について紹介します。竹村順弘さん(古田史学の会・事務局次長)からいただいた尾池誠著『埋もれた古代氏族系図 ―新見の倭王系図の紹介―』(晩稲社、1984年)の「鈴木真年年譜」によれば、氏の経歴は次のようです。要事のみ抜粋します。

1831年(天保二年) 1歳 江戸神田鎌倉河岸に生まれる。幼名房太郎、のち今井源太また真年と改める。(古賀注:ウィキペディアによると、煙草商橘屋の主・鈴木甚右衛門(今井惟岳)の嫡子として生まれる。)
1849年(嘉永二年)19歳 紀州滞在中、古代来朝人考・御三卿系譜の草稿成る。
1861年(文久元年)31歳 栗原信充に入門の礼をとる。主に系譜の学を学ぶ。
1864年(元治元年)34歳 栗原信充薩州に赴く。師を送り専ら独学。
1865年(慶應元年)35歳 紀州藩の懇請を受け藩士となり系譜編集事業の任につく。熊野本宮に居を定める。熊野神社の関係事業にも参画する。
1866年(慶應二年)36歳 この頃織田家系草稿成る。
1867年(慶應三年)37歳 この頃諸系譜草稿成る。
1868年(明治元年)38歳 この頃諸家譜草稿成る。
1869年(明治二年)39歳 七月弾正台設立。紀州藩を去って弾正台に入る。
1870年(明治三年)40歳 この頃諸国百家系図草稿成る。
1871年(明治四年)41歳 百家系図六十四冊版本完成。九月弾正台廃止となり、司法省が設置される。十一月八日弾正台より宮内省に転ず。内舎人を奉仕。俳号を松柏と称う。
1872年(明治五年)42歳 四月五日雑掌に任ぜられる。この頃諸氏家牒・武家大系図(真年稿)成る。
1873年(明治六年)43歳 五月二十五日宮内省を辞す。七月三日司法省に入る。十一等出仕に補せられる。
1874年(明治七年)44歳 浅草蔵前の文部省所管の図書館員を兼務する。十一月五日名法中属に任ぜられる。
1875年(明治八年)45歳 この頃諸家系譜(二十六冊)成る。五月四日司法権中権に任ぜられる。
1876年(明治九年)46歳 十二月二十一日司法省を辞す。
1877年(明治十年)47歳 古家大系図(真年稿)草稿なる。
1878年(明治十一年)48歳 華族諸家伝草稿成る。明治新版姓氏録二冊完成。十月玉養堂より苗字盡解明二冊を出版。引続き名乗字盡略解、諸家系図取調所を出版。
1879年(明治十二年)49歳 史略名称訓義(版本)二冊出版。十一月十三日印刷局に入り巡回事務取調掛となる。
1880年(明治十三年)50歳 五月三十日華族諸家伝三巻出版。十月二十日印刷局を辞し十二月二十七日参謀本部編纂課に入り当省御用掛を申し付られ月俸五十円を受ける。住居は浅草区浅草小島町八番地。
1881年(明治十四年)51歳 この頃三才雑録成る。
1882年(明治十五年)52歳 九月十三日東京地学協会社員となる。
1883年(明治十六年)53歳 六月二十四日亜細亜協会賛成会員に推薦さる。古事記正義三冊草稿成る。
1884年(明治十七年)54歳 九月日本事物原始第一集を古香館より出版。十一月皇族明鑑(二冊)を博公書院より出版。十一月八日陸軍省御用掛を辞す。住居は牛込区簞笥町十六番地。
1885年(明治十八年)55歳 五月八日陸軍省総務局庶務課に転ずる。十月三十日陸軍省を辞す。
1886年(明治十九年)56歳 この頃系図叢・松柏遺書草稿成る。
1887年(明治二十年)57歳 山縣有朋・田中光顕邸にて古事記の講義を一週に二回行う。又交詢社に於ても講義をする。古事記正義(一巻)を出版。交詢社の名誉会員に推される。十二月二十六日修史局に入る。
1888年(明治二十一年)58歳 皇族明鑑(二冊)版本成る。十月十三日帝国大学における大日本編年史の編纂に従事し総裁重野安繹氏の下で働く。日本外史正誤成る。
1889年(明治二十二年)59歳 六月八日皇族明鑑増補再版。十月十一日爵位局戸籍課を兼務す。十一月八日辞す。
1890年(明治二十三年)60歳 十一月一日藤島神社の依頼により新田族譜を編集出版。住居は牛込区横寺町一〇番地。
1891年(明治二十四年)61歳 この春鴻池家その他知人の懇請により三月三十一日帝大を辞し単身大阪に赴く。大阪にて国学校の設立等を計画、熊野神社復興にも力を盡す。裾野狩衣を大阪朝日新聞に連載。
1892年(明治二十五年)62歳 大阪積善館より裾野狩衣を出版。住居を大阪市南区東清水町三百九十七番地に定めて東京より家族を呼ぶ。
1893年(明治二十六年)63歳 主として系譜の編集に従事し傍ら熊野神社を中心として国学校設立を運動する。専ら国教達成に努める。
1894年(明治二十七年)64歳 四月十五日胃弱にて大阪市南区東清水町三百九十七番地に逝去。葬儀は大阪の自宅にて仏式を以て行い、一年祭も同様大阪の地で行う。遺骸は後東京雑司ケ谷甲種四号地に葬る。戒名は松柏院頼誉天鏡真空居士。

 この「鈴木真年年譜」によれば、幕末に系図学を学んだ鈴木真年氏は明治新政府において国家的事業としての系図収集や編纂に携わっていたことがうかがえます。
 生涯をかけて収集・編纂した系図は膨大な数にのぼり、代表的な系図集として『百家系図稿』(21冊)、『百家系図』(63冊)、『諸氏家牒』(3冊)、『諸氏本系帳』(8冊)、『諸国百家系』(2冊)などがあり、今回、史料批判を試みようとする「倭王(松野連)系図」は『百家系図稿』(静嘉堂文庫所蔵)と『諸系譜稿』(国会図書館所蔵)に収録されているとのことです。
 わたしは鈴木真年氏はもとより、氏のこうした業績を全く知りませんでした。尾池誠さんも『埋もれた古代氏族系図 ―新見の倭王系図の紹介―』において、次のように述べています。

 「言語に言いつくせないほどの業績を残しているにもかかわらず、鈴木真年らは不当な評価を受けたまま注目されることもなく現在に至ったというわけである。」(42頁)

 非力ではありますが、鈴木真年氏の業績の一部(「倭王(松野連)系図」)でも、多元史観・九州王朝説の視点から再評価できればとわたしは考えています。(つづく)


第2432話 2021/04/12

「倭王(松野連)系図」の史料批判(1)

 ようやくこの日がやってきました。今までその重要性を疑ったことはないものの、史料批判の方法がわからず、手をつけてこなかったテーマがありました。真偽不明、かつ魅惑的な史料、「倭王(松野連)系図」の研究です。
 今から16年前のことです。竹村順弘さん(古田史学の会・事務局次長)から尾池誠著『埋もれた古代氏族系図 ―新見の倭王系図の紹介―』(晩稲社、1984年)のコピーをいただきました。そのときのことを「洛中洛外日記」29話(2005/09/18)〝松野連系図と九州王朝系譜〟で次のように記しています。

 〝9月17日、古田史学の会関西例会が行われました。(中略)
 今回、興味深かった発表の一つが、飯田満麿さん(本会会計)の「九州王朝の系譜」でした。九州王朝、倭王の系譜復原の試みとして、高良玉垂命系図と松野連系図、それに『二中歴』の九州年号を重ね合わせた試案を提示されました。ベーシックな研究ですが、こうした基礎的で地道な研究も大切です。
 九州王朝系系図の中でも、以前から注目されていたものが「松野連系図」です。倭の五王の名前なども見え、他方、近畿天皇家の天皇は含まれないという系図ですが、そのまま全面的に信用できたものか、疑問点も少なくありません。いずれ、しっかりとした史料批判を行って、当系図の研究を進めたいと願っています。なお、例会当日、松野連系図のコピーを幸いにも竹村順弘さん(会員・京都府木津町)からいただくことができました。この場をおかりして御礼申し上げます。〟

 呉王夫差を始祖として、倭の五王(讃、珍、済、興、武)の名前が記されている同系図は古田学派の研究者に早くから注目されてきました。しかし、古田先生が本格的な研究対象とされることはありませんでした。わたしも、このような真偽不明の史料に手を出すのは危険と感じていましたし、何よりもどの程度信頼できるのかという史料批判の方法さえもわかりませんでした。もしかすると、『日本書紀』や『宋書』の記事を自家の系図に取り入れた、後代に造作された系図かもしれないからです。
 しかし、この系図のことが気になったまま何年も過ぎたのですが、永年勤めてきた化学会社を昨年定年退職し、ようやく研究時間がとれるようになり、この系図に真正面から向かい合うことにしました。どのような結論に至るのかはまだわかりませんが、しばらく思考実験にお付き合い下さい。(つづく)


第1383話 2017/05/05

「倭の五王」の都城はどこか(2)

 「倭の五王」の都は筑後にあったのではないかと、わたしは考えているのですが、まだ克服すべき課題があります。
 「洛中洛外日記」第1363話「牛頸窯跡出土土器と太宰府条坊都市」において、『徹底追及! 大宰府と古代山城の誕生 -発表資料集-』に収録されている石木秀哲さん(大野城市教育委員会ふるさと文化財課)の「西海道北部の土器生産 〜牛頸窯跡群を中心として〜」を紹介しました。そこで指摘された牛頸窯跡群は6世紀末から7世紀初めの時期に窯の数が一気に急増している考古学的事実は、太宰府条坊都市造営時期の7世紀初頭(九州年号「倭京元年」618年)の頃に土器生産が急増したことを示しており、これこそ九州王朝の太宰府遷都を示す考古学的痕跡としました。
 この理解が正しければ、同様に「倭の五王」時代(五世紀)の王都に土器を供給するため、大量の窯跡群が筑後から出土しなければなりません。ところが石木稿に掲載されている「第1表 西海道北部の須恵器窯跡群変遷表」によると、筑後の須恵器窯跡群は八女窯跡群(上妻郡)が最も古く、その始まりを六世紀中期からとされているのです。このデータが正しければちょうど筑紫君磐井の時代の頃からとなりますから、九州年号を建元した磐井の頃の九州王朝の都がこの地域にあったことはうかがえますが、「倭の五王」時代の窯跡群の記載がないのは不思議です。まだ未発見か、この表に掲載されていないだけなのかもしれませんが、六〜七世紀以降に太宰府に土器を供給した牛頸窯跡群の存在や変遷とは異なり、筑後の王都に対応する窯跡群が見あたらないのは、わたしの説の弱点と言えそうです。この点に引き続き留意し、調査研究を進めたいと思います。


第1382話 2017/05/04

「倭の五王」の都城はどこか(1)

 古田先生と論争的意見交換を続けたテーマの一つに、五世紀の「倭の五王」時代の都はどこかという問題がありました。二人の間でもっとも激しく論争したテーマの一つでしたので、当時のやりとりを今も鮮明に記憶しています。
 『宋書』倭国伝に記された「倭の五王」が中国南朝から都督を任じられていることから、その時代の九州王朝の都を「都府楼」(都督府の宮殿の意)の名称が現存する太宰府(大宰府政庁Ⅰ期)と、古田先生は当時考えておられました。
 それに対して、わたしは、大宰府政庁Ⅰ期の堀立柱遺構は規模が貧弱であり倭王の宮殿とみなすのは無理、かつ出土土器編年から見ても五世紀には遡らないと説明しました。それでも納得されない先生は「それでは倭の五王の都はどこだと考えているのか」と詰問され、「わかりません」と答えると、「だいたいでもよいからどこだと考えているのか」と質されるので、「筑後地方ではないかと思います」と返答しました。もちろんこの答えでも古田先生は納得されず、論争が続きました。結局、両者合意をみないままとなりましたが、『古田武彦の古代史百問百答』では「倭の五王」時代の都の所在地には触れられていませんから、晩年はどのような見解だったのかはわかりません。
 わたしが「倭の五王」時代の九州王朝の都を筑後と考えたのは、高良大社の御祭神「高良玉垂命」の名前が「倭の五王」にも襲名されたとする研究結果(「九州王朝の筑後遷宮」『新・古代学』第四集、新泉社。1999年)によるものでした。それと、古田先生が1989年に発表された「『筑後川の一線』を論ず」(『東アジアの古代文化』61号)でした。この論文は古田学派内でもあまり注目されてきませんでしたが、わたしは重要な論文と考えています。
 その主要論点は、弥生時代の九州王朝の中枢領域は考古学的出土物から見ても筑前だが、古墳時代になると様相が一変し、装飾古墳などが筑後地方に出現することから、筑後に変わっている。これは主敵が南の薩摩(隼人)などの勢力だった弥生時代から、北の朝鮮半島の国々に変化した古墳時代になると、九州王朝(倭の五王、多利思北孤)はより安全な筑後川(天然の大濠)の南に拠点を移動させたためだとされました。
 わたしはこの論文を支持しており、「倭の五王」や筑紫君磐井は筑後を都にしていたと考えています。そして多利思北孤の時代になって太宰府に遷都したと九州王朝史の大枠を理解しています。(つづく)