「 日本書紀 」一覧

第1829話 2019/01/25

難波から出土した「筑紫」の土器(1)

 前期難波宮九州王朝副都説にとって超えなければならない〝壁〟があります。この仮説を古田先生に最初に報告したとき、九州王朝の副都であれば神籠石山城など九州王朝との関係を裏付ける考古学的証拠が必要とのご指摘をいただきました。それ以来、古田先生の指摘はわたしにとっての宿題となり、今日まで続いています。更に、難波に九州王朝が副都を置くと言うことは、その地が九州王朝にとっての安定した支配領域であることが必要ですが、そのことについては文献史学の研究により既にいくつかの根拠が見つかっています。
 一例をあげれば、『二中歴』年代歴に見える九州年号「倭京」の細注の「倭京二年、難波天王寺を聖徳が建てる」という記事があります。九州王朝が倭京二年(619)に聖徳(利歌彌多弗利か)という人物が難波に天王寺を建立したという記事ですが、大阪歴博の調査により創建四天王寺の造営年が出土瓦の編年により『日本書紀』の記述とは異なり、620〜630年頃と編年されており、これが『二中歴』の細注記事と対応しています。このことから七世紀前半の難波は九州王朝が天王寺を建立できるほどの深い繫がりがあることを示しています。
 他方、考古学的痕跡として難波から「筑紫の須恵器」が出土していることが大阪歴博の寺井誠さんにより報告されています。そのことを下記の「洛中洛外日記」で紹介しました。抜粋して転載します。(つづく)

第224話 2009/09/12
「古代難波に運ばれた筑紫の須恵器」
(前略)
 前期難波宮は九州王朝の副都とする説を発表して、2年ほど経ちました。古田史学の会の関西例会では概ね賛成の意見が多いのですが、古田先生からは批判的なご意見をいただいていました。すなわち、九州王朝の副都であれば九州の土器などが出土しなければならないという批判でした。ですから、わたしは前期難波宮の考古学的出土物に強い関心をもっていたのですが、なかなか調査する機会を得ないままでいました。ところが、昨年、大阪府歴史博物館の寺井誠さんが表記の論文「古代難波に運ばれた筑紫の須恵器」(『九州考古学』第83号、2008年11月)を発表されていたことを最近になって知ったのです。
 それは、多元的古代研究会の機関紙「多元」No.93(2009年9月)に掲載された佐藤久雄さんの「ナナメ読みは楽しい!」という記事で、寺井論文の存在を紹介されていたからです。佐藤さんは「前期難波宮の整地層から出土した須恵器甕について、タタキ・当て具痕の比較をもとに、北部九州から運ばれたとする。」という『史学雑誌』2009年五月号の「回顧と展望」の記事を紹介され、「この記事が古賀仮説を支持する考古学的資料の一つになるのではないでしょうか。」と好意的に記されていました。(後略)

第243話 2010/02/06
前期難波宮と番匠の初め
(前略)
 寺井論文で紹介された北部九州の須恵器とは、「平行文当て具痕」のある須恵器で、「分布は旧国の筑紫に収まり、早良平野から糸島東部にかけて多く見られる」ものとされています。すなわち、ここでいわれている北部九州の須恵器とは厳密にはほぼ筑前の須恵器のことであり、九州王朝の中枢中の中枢とも言うべき領域から出土している須恵器なのです。
 この事実は重大です。何故なら、土器だけが難波に行くわけではなく、当然糸島博多湾岸の人々の移動に伴って同地の土器が難波にもたらされたはずです。そうすると九州王朝中枢領域の人々が前期難波宮の建築に関係したこととなり、九州王朝説に立つならば、前期難波宮は孝徳の王宮などでは絶対に有り得ません。
 何故なら、もし前期難波宮が通説通り孝徳の王宮であるのならば、九州王朝は大和の孝徳のために自らの王宮、たとえば「太宰府政庁」よりもはるかに大規模な宮殿を自らの中枢領域の工人達に造らせたことになるからです。こんな馬鹿げたことをする王朝や権力者がいるでしょうか。九州王朝説に立つ限り、こうした理解は不可能です。寺井氏が指摘した考古学的事実を説明できる説は、やはり九州王朝副都説しかないのです。
 しかも、九州王朝の工人たちが前期難波宮建設に向かった史料根拠もあるのです。その史料とは『伊予三島縁起』で、この縁起は九州年号が多用されていることで、以前から注目されているものです。その中に「孝徳天王位。番匠初」という記事があり、孝徳天皇の時代に番匠が初まるという意味ですが、この番匠とは王都や王宮の建築のために各地から集められる工人のことです。この番匠という制度が孝徳天皇の時代に始まったと主張しているのです。すなわち、九州から前期難波宮建設に集められた番匠の伝承が縁起に残されていたのです。「番匠の初め」という記事は『日本書紀』にはありませんから、九州王朝の独自史料に基づいたものと思われます。
 このように寺井論文が指摘した糸島博多湾岸の須恵器出土と『伊豫三嶋縁起』の「番匠の初め」という、考古学と伝承史料の一致は、強力な論証力を持ちます。ちなみに、『伊豫三嶋縁起』の「番匠の初め」という記事に着目されたのは正木裕さん(古田史学の会会員)で、古田史学の会関西例会で発表されました。(後略)


第1796話 2018/12/03

「須恵器坏B」の編年再検討について(1)

 連載した前期難波宮と大宰府政庁出土「須恵器坏B」(1〜3)の結論として、従来7世紀後半の指標とされてきた「須恵器坏B」の編年再検討が必要であり、7世紀中頃か前半頃まで遡る可能性について論究しました。
その説明について、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)より、わかりにくいとのご指摘がありました。読み直して見ると、確かにわかりにくいので、改めてその論理展開の道筋を説明したいと思います。わかりやすいように箇条書きにします。

 ①大規模な水利施設が難波宮の西側の谷から出土し、井戸がない難波宮のための水利施設とされた。
 ②同水利施設整地層や造営時の層位から大量の須恵器が出土し、それは坏Hと坏Gであり、7世紀後半と編年される坏Bは出土しなかった。
 ③その出土須恵器の編年と全体的な様相(GとHの出土量の割合など)から、水利施設の造営は従来の土器編年によって7世紀中頃とされた。
 ④それらの土器は兵庫県芦屋市三条九ノ坪遺跡から出土した「白雉元(三)壬子年(652)」木簡に共伴した土器と同段階である。このことにより土器と暦年がリンクでき、7世紀中頃造営説は説得力を増した。
 ⑤水利施設から出土した木枠(桶)の年輪年代測定値により、伐採年が634年とされ、出土土器の編年と一致した。このことも土器と暦年とのリンクを支持し、7世紀中頃造営説は更に説得力を増した。
 ⑥これら水利施設の出土事実と暦年とのリンクにより、前期難波宮の造営時期も7世紀中頃とされた。
 ⑦前期難波宮完成後のゴミ捨て場として使用された北側の谷から「戊申年(648)」木簡が出土した。この干支木簡の出土により、前期難波宮の造営が7世紀中頃であり、完成後に同木簡が廃棄されたと理解された。「戊申年(648)」は天武期(672〜686年)とは20年以上離れており、どこかで20年以上保管されていた「戊申年(648)」木簡が天武期になって廃棄されたとしなければならない天武期造営説では説明しにくく、同木簡の出土は孝徳期造営説に有利である。
 ⑧その後、前期難波宮北側から出土した柱の最外層の年輪セルロース酸素同位体年代測定値(583年、612年)が7世紀前半造営説に有利であることも判明した。これら理化学的年代測定はいずれも7世中頃造営を支持し、理化学的年代測定による7世紀後半(天武期)とする遺物は今日に到るまで出土していない。
 ⑨こうして考古学的に確立した前期難波宮7世紀中頃造営説に対応する文献事実として、『日本書紀』孝徳紀白雉三年条に見える「巨大宮殿」完成記事と前期難波宮を結びつけることが可能となった。通説ではこれを「難波長柄豊碕宮」のこととする。
 ⑩こうした経緯から、ほとんどの考古学者が「難波編年」とそれに基づく前期難波宮孝徳期造営説を支持するに到った。

 以上のような緻密な考古学的・理化学的知見の積み上げにより、前期難波宮孝徳期造営説が成立しました。この説が『日本書紀』孝徳紀白雉三年の造営記事を無批判に「是」として、その立場から出発したものではないことが、「難波編年」の最大の強みだとわたしは理解しています。(つづく)


第1787話 2018/11/20

佐藤隆さんの「難波編年」の紹介

 前期難波宮の造営時期をめぐって孝徳期か天武期かで永く論争が続きましたが、現在ではほとんどの考古学者が孝徳期造営説を支持しています。その根拠とされたのが佐藤隆さんが提起された「難波編年」でした。この佐藤さんによる「難波編年」は多くの研究者から引用される最有力説となっています。
 ただ、その論文が収録された『難波宮址の研究 第十一 -前期難波宮内裏西方官衙地域の調査-』(2000年3月 大阪市文化財協会)はまだWEB上に公開されていないようで、研究者もなかなか見る機会がないと思われます。わたしは京都市に住んでいることもあり、大阪歴博の図書館(なにわ歴史塾)で同書を閲覧することが容易にできます。そこで、同書に記された前期難波宮造営年代に関する「難波編年」のキーポイントをここで紹介することにします。研究者の皆さんのお役に立てば幸いです。
 佐藤さんが同書で「難波編年」を論じられているのは「第2節 古代難波地域の土器様相とその歴史的背景」です。佐藤さんは出土土器(標準資料)の様式により「難波Ⅰ〜Ⅴ」と五段階に分類され、更にその中を「古・新」あるいは「古・中・新」と分類されました。そして前期難波宮造営期頃の土器(SK223・水利施設7層)を「難波Ⅲ中」と分類され、暦年代として「七世紀中葉」と編年されました。その編年の根拠として次の点を挙げられています。

①飛鳥の水落遺跡出土土器(667-671年)よりも確実に古い。
②水利施設出土木枠の板材の伐採年代が年輪年代測定により634年という値が得られている。
③兵庫県芦屋市三条九ノ坪遺跡から出土した「白雉元(三)壬子年(652)」木簡に共伴した土器が同段階である。
④655年には存在した川原宮の下層出土土器と同段階。

 ここで注目すべきは、前期難波宮を『日本書紀』孝徳紀に見える白雉三年(652)造営の宮殿とすることを自らの編年の根拠にあえて入れていないことです。というのも、前期難波宮の造営が孝徳期か天武期かで論争が続けられてきたという背景があるため、『日本書紀』孝徳紀の記述とは切り離して前期難波宮の編年を行う必要があったためと思われます。こうした佐藤さんの姿勢はとても学問的配慮が行き届いた考古学者らしいものとわたしは思いました。わたしが七世紀における「難波編年」の精度を信頼したのも、こうした事情からでした。


第1769話 2018/10/07

土器と瓦による遺構編年の難しさ(6)

 創建法隆寺(若草伽藍)出土瓦には異なる年代のものが併存しているにもかかわらず、『昭和資財帳』によればそれら多種類の軒瓦は「前期(592-622年)」「中期(622-643年)」「後期(643-670年)」と分類されています。この分類の当否は別として、これほど暦年にリンクできたのは『日本書紀』という文献史料の存在があったからです。『日本書紀』に記された法隆寺関連記事を根拠に、相対編年した瓦を暦年にリンクできたのですが、その場合は『日本書紀』の法隆寺関連記事が正しいという前提が必要です。特に古田学派にとっては、『日本書紀』は九州王朝の存在を隠し、近畿天皇家に不都合な記事は書き換えられている可能性があるという立場に立っていますから、なおさら慎重な史料批判が必要です。
 この点に関しては、天智19年条の記事「法隆寺に火つけり。一屋余すなし。」の通り、火災の痕跡を示す若草伽藍が発見されたことにより、『日本書紀』の法隆寺関連記事は信頼できるとされました。少なくとも創建年代や焼亡年代について積極的に疑わなければならない理由はありませんから、出土瓦は606年(推古14年)の創建頃から670年(天智19年)の焼失までの期間に編年されたわけです。このように瓦の編年が暦年にリンクできたのはとても恵まれたケースといえます。
 付け加えておきますと、法隆寺西院伽藍から出土した一群の瓦は「法隆寺式瓦」と呼ばれますが、これは創建法隆寺(若草伽藍)が焼亡した後、和銅年間に移築された現法隆寺(西院伽藍)の移築時に使用された瓦と思われます。その文様は複弁蓮華文などで7世紀後半から8世紀に編年されています。西院伽藍そのものは五重塔芯柱の年輪年代測定などから6世紀末頃から7世紀初頭に建立された寺院と見られており、古田学派では九州王朝の寺院を移築したものと理解されています。しかし、移築時に重く割れやすい瓦は持ち込まれず、斑鳩の近くで造られた瓦が使用されたのではないでしょうか。少なくとも「法隆寺式瓦」の編年を7世紀初頭とすることは無理ですから、このように考えざるを得ません。(つづく)


第1756話 2018/09/22

7世紀の編年基準と方法(4)

 太宰府出土の「戸籍」木簡の成立年を685〜700年まで絞り込むことができると説明しましたが、それは二つの先行研究の成果によっています。一つは木簡に記された「嶋評」という「評制」が7世紀中頃に始まり700年まで続いたとする通説が多くの先行研究の結果により成立していること、二つ目は「進大弐」という位階が『日本書紀』天武14年条(685年)に制定(48等の位階)されたとする記事があり、この記事が信頼できるとする先行研究です。
 「評制」が7世紀中頃に開始されたとする根拠については拙論「『評』を論ず -評制施行時期について-」(『多元』145号、2018年4月)で詳述していますので、ご参照ください。また、「評制」が700年に終わり、翌701年から「郡制」に替わったことは、藤原宮などからの出土木簡により確認されています。
 『日本書紀』天武14年条(685年)の位階制定記事が信頼できるとする理由についても諸研究がありますが、次の出土木簡を紹介し、説明します。市大樹著『飛鳥の木簡 古代史の新たな解明』によると、藤原宮から大量出土した8世紀初頭の木簡に、次のような記載があります(210頁)。
 「本位進大壱 今追従八位下 山部宿祢乎夜部 / 冠」
 山部乎夜部(やまべのおやべ)の昇進記事で、旧位階「進大壱」から大宝律令による新位階「従八位下」に昇進したことが記されています。この「進大壱」も天武14年に制定された位階制度です。この木簡から、大宝元年(701年)〜二年に制定された『大宝律令』による新位階制度へ変更されたことがわかります。従って、「進大弐」の位階が記された太宰府市出土「戸籍」木簡も7世紀末頃のものと判断できるのです。
 更に那須国造碑に記された「永昌元年己丑四月」(689年)の「追大壹」叙位記事も天武14年(685年)制定の位階であり、7世紀末にこれら位階が採用されていたことがわかります。このように、藤原宮出土木簡や那須国造碑などのような同時代史料により、『日本書紀』天武14年の位階制度制定記事が歴史事実と見なして問題ないとする通説が成立しています。
 こうした先行研究の成果により、太宰府出土「戸籍」木簡の編年を685〜700年とする判断が妥当とできるわけです。一元史観の「戦後実証史学」は、決して『日本書紀』の記述を無批判に受け入れて「成立」しているケースだけではないのです。
 なお、付言しますと、一元史観では以上の編年や考察で一段落するのですが、多元史観・古田説ではここから更にこの位階制度の制定主体が『日本書紀』にあるように近畿天皇家の天武でよいのか、九州王朝の天子によるものなのかという研究課題が待ち構えています。(つづく)


第1749話 2018/09/11

飛鳥浄御原宮=太宰府説の登場(2)

 飛鳥浄御原宮を太宰府とする服部新説ですが、もしこの仮説が正しければどのような論理展開が可能となるかについて考察してみました。もちろん、わたしは服部新説を是としているわけではありませんが、有力説となる可能性を秘めていますので、より深く考察を進めることは有益です。
 『日本書紀』では飛鳥浄御原宮を天武と持統の宮殿としていますが、その現れ方は奇妙です。天武二年(672)二月条では、「飛鳥浄御原宮に即帝位す」とあるのですが、朱鳥元年(686)七月条には次のような記事があります。

 「戊午(20日)に、改元し朱鳥元年と曰う。朱鳥、此を阿訶美苔利という。仍りて宮を名づけて飛鳥浄御原宮と曰う。」

 飛鳥浄御原宮で即位したと記しながら、その宮殿名が付けられたのは14年後というのです。それまでは名無しの宮殿だったのでしょうか。また、朱鳥(阿訶美苔利)の改元により飛鳥浄御原宮と名づけたとありますが、「苔利」と「鳥」の訓読みが同じというだけで、両者の因果関係も説得力がありません。年号に阿訶美苔利という訓があるというのも変な話です。このように不審だらけの記事なのです。
 他方、「飛鳥浄御原令」という名称は『日本書紀』には見えません。天武紀や持統紀には単に「令」と記すだけです。例えば次の通りです。

「詔して曰く、『朕、今より更(また)律令を定め、法式を改めむと欲(おも)う。故、倶(とも)に是の事を修めよ。然も頓(にわか)に是のみを就(な)さば、公事闕くこと有らむ。人を分けて行うべし』とのたまう。」天武十年(682)二月条
 「庚戌(29日)に、諸司に令一部二十二巻班(わか)ち賜う。」持統三年(689)六月条
 「四等より以上は、考仕令の依(まま)に、善最・功能、氏姓の大小を以て、量りて冠位授けむ。」持統四年(690)四月条
「諸国司等に詔して曰わく、『凡(おおよ)そ戸籍を造ることは、戸令に依れ』とのたまう。」持統四年(690)九月条

 これらの「令」が飛鳥浄御原令と呼ばれている根拠の一つが『続日本紀』の『大宝律令』制定に関する次の記事です。

 「癸卯、三品刑部親王、正三位藤原朝臣不比等、従四位下下毛野朝臣古麻呂、従五位下伊吉連博徳、伊余部連馬養等をして律令を選びしむること、是を以て始めて成る。大略、浄御原朝庭を以て准正となす。」『続日本紀』大宝元年(701)八月条

 「浄御原朝庭」が制定した律令を「准正」して『大宝律令』を作成したとする記事ですが、この「准正」という言葉を巡って、古代史学界では論争が続いてきました。この問題についてはここでは深入りせず、別の機会に触れることにします。
 服部さんの新説「飛鳥浄御原宮=太宰府」によるならば、飛鳥浄御原令が制定された飛鳥浄御原宮は天武の末年から持統天皇の時代の宮殿となりますから、それに時期的に対応するのは大宰府政庁Ⅱ期の宮殿となります。大宰府政庁Ⅱ期の造営と機能した時期は観世音寺が創建された白鳳10年(670)頃以降と考えられますから、ちょうど天武期から持統期に相当します。
 久冨直子さんが指摘されたように、観世音寺の山号「清水山」の語源が「きよみ」という地名に関係していたとすれば、大宰府政庁Ⅱ期の宮殿も「きよみはら宮」と呼ばれても不思議ではありません。しかし、この地域が「きよみ」「きよみはら」と呼ばれていた痕跡がありませんので、この点こそ服部新説にとって最大の難関ではないかと、わたしは思っています。(つづく)


第1741話 2018/09/02

「船王後墓誌」の宮殿名(4)

 「船王後墓誌」の「阿須迦天皇」を九州王朝の天皇(旧、天子)とする古田説が成立しない決定的理由は、阿須迦天皇の末年とされた辛丑年(641)やその翌年に九州年号は改元されておらず、この阿須迦天皇を九州王朝の天皇(天子)とすることは無理とする「正木指摘」でした。
 すなわち、641年は九州年号の命長二年(641)に当たり、命長は更に七年(646)まで続き、その翌年に常色元年(647)と改元されています。641年やその翌年に九州王朝の天子崩御による改元がなされていないことから、この阿須迦天皇を九州王朝の天子(天皇)とすることはできないとされた正木さんの指摘は決定的です。
 この「正木指摘」を意識された古田先生は次のような説明をされました。

 〝(七)「阿須迦天皇の末」という表記から見ると、当天皇の「治世年代」は“永かった”と見られるが、舒明天皇の「治世」は十二年間である。〟

 古田先生は治世が長い天皇の場合、「末年」とあっても没年のことではなく晩年の数年間を「末年(末歳次)」と表記できるとされているわけです。しかし、この解釈も無理であるとわたしは考えています。それは次のような理由からです。

①「『阿須迦天皇の末』という表記から見ると、当天皇の『治世年代』は“永かった”と見られる」とありますが、「末」という字により「治世が永かった」とできる理由が不明です。そのような因果関係が「末」という字にあるとするのであれば、その同時代の用例を示す必要があります。
②「船王後墓誌」には「阿須迦 天皇之末歳次辛丑」とあり、その天皇の末年が辛丑と記されているのですから、辛丑の年(641)をその天皇の末年(没年)とするのが真っ当な文章理解です。
③もし古田説のように「阿須迦天皇」が九州王朝の天皇(旧、天子)であったとすれば、「末歳次辛丑(641)」は九州年号の命長二年(641)に当たり、命長は更に七年(646)まで続きますから、仮に命長七年(646)に崩御したとすれば、末年と記された「末歳次辛丑(641)」から更に5年間も「末年」が続いたことになり、これこそ不自然です。
④さらに言えば、もし「末歳次辛丑(641)」が「阿須迦天皇」の没年でなければ、墓誌の当該文章に「末」の字は全く不要です。すなわち、「阿須迦 天皇之歳次辛丑」と記せば、「阿須迦天皇」の在位中の「辛丑」の年であることを過不足なく示せるからです。古田説に従えば、こうした意味もなく不要・不自然で、「没年」との誤解さえ与える「末」の字を記した理由の説明がつかないのです。

 以上のようなことから、「船王後墓誌」に記された天皇名や宮殿名を九州王朝の天子とその宮殿とする無理な解釈よりも、『日本書紀』に記述された舒明天皇の没年と一致する通説の方が妥当と言わざるを得ないのです。(つづく)


第1732話 2018/08/26

『日本書紀』に見える「采女竹良」

 「采女氏塋域碑」に記された、「飛鳥浄原大朝庭の大弁官」で「直大弐」の冠位を持つ「采女竹良卿」の名前は、『日本書紀』にも「采女竹羅」「采女筑羅」として見えます。次の記事です。

○(秋七月)辛未(四日)に、小錦下采女臣竹羅をもて大使とし、當摩公楯をもて小使として、新羅国に遣わす。〈天武十年(681)〉
○(九月)次に直大肆采女朝臣筑羅、内命婦の事を誅(しのびごとたてまつ)る。〈朱鳥元年(686)〉

 天武十年(681)には「小錦下」として遣新羅使の大使に任命され、天武十三年(684)には「朝臣」の姓をもらい、天武崩御の際には「直大肆」として誅しています。没年は不明ですが、「采女氏塋域碑」によれば持統三年己丑(689)までには「直大弐」となり没しているようです。
 このような『日本書紀』の記事を信用する限り、采女竹良が「直大弐」として仕えた「飛鳥浄原大朝庭」とは近畿天皇家のことと考えるほかありません。そうすると那須国造碑にある「永昌元年己丑(689年)」に那須直韋提に「追大壹」を叙位した「飛鳥浄御原大宮」も近畿天皇家のこととなります。太宰府の「戸籍」木簡に見える同類の冠位「進大弐」を持つ「建ア成」(「ア」は「部」の異体字)も近畿天皇家から叙位されたということになります。
 しかし、ONライン(王朝交代)以前のこの時期において、片方では九州年号が関東から九州まで使用される中、冠位は近畿天皇家が関東から九州まで叙位したということになります。このような理解は果たして正しいのでしょうか。他の可能性は考えられないのでしょうか。(「那須国造碑『永昌元年』の論理(7)」につづく)


第1729話 2018/08/23

那須国造碑「永昌元年」の論理(5)

 那須直韋堤に「追大壹」を叙位した「飛鳥浄御原大宮」の権力者が唐の影響下にあったため、「永昌元年(689年)」という唐の年号を用いた叙位「任命書」を発行したとするわたしの仮説は、その権力者を九州王朝の天子としても近畿天皇家(持統天皇)としても、それを支持する史料根拠が見当たらず、逆に唐の影響下にはなかったと考えざるを得ないこととなりました。このままではわたしの「思考実験」は袋小路に迷い込んでしまいそうです。そこで、今回は検討の目先を変えて、「追大壹」という冠位について考察を進めてみることにします。
 『日本書紀』によれば「追大壹」という冠位は天武14年(685年)に制定記事があり、48階の33番目に相当します。従って、碑文にある「永昌元年(689年)」の年次と矛盾しません。この点についての『日本書紀』の記述は正確と言えそうです。この冠位48階制度に含まれる「進大弐」が太宰府出土「戸籍」木簡に記されています。更に河内国春日村(現・南河内郡太子町)から出土した「釆女氏榮域碑」(己丑年、689年)にも「直大弐」が見えます。
 それよりも前の位階で『日本書紀』によれば649〜685年まで存在したとされる「大乙下」「小乙下」などが「飛鳥京跡外郭域」から出土した木簡に記されています。小野毛人墓誌にも『日本書紀』によれば、664〜685年の期間の位階「大錦上」が記されています。同墓誌に記された紀年「丁丑年」(677年)と位階時期が一致しており、『日本書紀』に記された位階の変遷と金石文や木簡の内容とが一致していることがわかります。
 以上のような史料事実から、「追大壹」(33番目)・「進大弐」(43番目)・「直大弐」(11番目)などの冠位48階制度が7世紀後半の天武・持統期に採用されていたことは疑えず、その範囲が関東(那須)・近畿(河内・大和)・北部九州(筑前国嶋評)の広範囲であることもまた確かです。だとすると、そうした冠位制度が当時の日本列島の統一権力者により施行されていたということになります。これは九州王朝説にとって重要な問題です。なぜなら、関東の那須直韋堤に「追大壹」を叙位した「飛鳥浄御原大宮」の権力者が、太宰府出土木簡に見える「進大弐」を北部九州(筑前国嶋評)在住の人物に叙位したことになるからです。(つづく)

《太宰府出土「戸籍」木簡》

「木簡表側」
嶋評   戸主 建ア身麻呂戸 又附加□□□[ ? ]
政丁 次得□□ 兵士 次伊支麻呂 政丁□□
嶋ー□□ 占ア恵□[ ? ] 川ア里 占ア赤足□□□□[ ? ]
少子之母 占ア真□女   老女の子 得  [ ? ]
穴□ア加奈代 戸 附有

注記:ア=部

「木簡裏側」
并十一人 同里人進大弐 建ア成 戸有一 戸主 建   [ ? ]
同里人 建ア昨 戸有 戸主妹 夜乎女 同戸有[ ? ]
麻呂 □戸 又依去 同ア得麻女   丁女 同里□[ ? ]
白髪ア伊止布 □戸 二戸別 戸主 建ア小麻呂[ ? ]

 (□=判読不能文字、 [ ? ]=破損で欠如)

《釆女氏榮域碑》※拓本が現存。実物は明治頃に紛失。

飛鳥浄原大朝庭大弁
官直大貳采女竹良卿所
請造墓所形浦山地四千
代他人莫上毀木犯穢
傍地也
 己丑年十二月廿五日

〈訳文〉
飛鳥浄原大朝廷の大弁官、直大弐采女竹良卿が請ひて造る所の墓所、形浦山の地の四千代なり。他の人が上りて木をこぼち、傍の地を犯し穢すことなかれ。
己丑年十二月二十五日。


第1725話 2018/08/20

那須国造碑「永昌元年」の論理(1)

 「古田史学の会・関西」の八月例会で谷本茂さん(古田史学の会・会員、神戸市)から、那須国造碑に記された「永昌元年己丑四月」(689年、永昌は唐の年号)の「追大壹」叙位記事は『日本書紀』持統四年四月条(690年)の叙位記事しかその付近に対応記事がないことから、那須国造碑の紀年と持統紀の紀年には一年のずれがあるとする仮説が発表されました。
 確かに茨城県坂東市(旧・岩井市)出土「大化五子年」(699年)など、7世紀末頃の史料に干支が一年ずれているものがあり、そのことについては拙論(「二つの試金石 九州年号金石文の再検討」『「九州年号」の研究』所収)でも論じたことがあります。そうした認識がありましたので、この谷本説も理解できるのですが、そうすると別の問題も発生するため、判断に悩むものでした。
 そこでこの那須国造碑の「永昌元年」「追大壹」を手がかりに、7世紀末の九州王朝から大和朝廷(近畿天皇家)への王朝交代の実相を探るべく論理を展開させてみることにしました。まだ結論は出ていませんから、連載途中で見解が変わるかもしれません。古代史研究における「思考実験」の現在進行形としてご覧いただければ幸いです。(つづく)

《那須国造碑文》
永昌元年己丑四月飛鳥浄御原大宮那須国造
追大壹那須直韋提評督被賜歳次康子年正月
二壬子日辰節殄故意斯麻呂等立碑銘偲云尓
仰惟殞公廣氏尊胤国家棟梁一世之中重被貮
照一命之期連見再甦砕骨挑髄豈報前恩是以
曽子之家无有嬌子仲尼之門无有罵者行孝之
子不改其語銘夏尭心澄神照乾六月童子意香
助坤作徒之大合言喩字故無翼長飛无根更固