第2676話 2022/02/05

難波宮の複都制と副都(5)

 村元健一さんの次の指摘は、前期難波宮複都説にとって貴重なものでした。

 「隋から唐初期にかけて『複都制』を採ったのは、隋煬帝と唐高宗だけである。隋煬帝期では大興城ではなく、実質的に東都洛陽を主とするが、宗廟や郊壇は大興に置かれたままであり、権威の都である大興と権力の都である東都の分立と見なすことができる。」(注①)

 この視点を太宰府(倭京)と前期難波宮(難波京)に当てはめれば、権威の都「倭京(太宰府)」と権力の都「難波京(前期難波宮)」となります。その痕跡が『養老律令』職員令に残っています。職員令に規定された大宰府職員冒頭は「主神」であり、他には見えません。

 「主神一人。掌らむこと、諸の祭祀の事。」『養老律令』職員令

 主神は大宰府職員の筆頭に記されてはいるものの、官位令によれば正七位下であり、高官とは言い難いものです。このやや不可解な史料事実について「洛中洛外日記」(注②)で次のように論じました。

〝おそらく、九州王朝大宰府の権威が「主神」が祭る神々(天神か)に基づいていたことによるのではないでしょうか。大和朝廷も九州島9国を大宰府による間接統治をする上で、「主神」の職掌が必要だったと考えられます。第二次世界大戦後の日本に、マッカーサーが天皇制を残したことと似ているかもしれません。
 同様に、大和朝廷も自らが祭祀する神々により、その権威が保証されていたのでしょう。こうした王朝の権威の淵源をそれぞれの「祖神」とするのは、古代世界ではある意味において当然のことと思われます。したがって、『養老律令』の大宰府に「主神」があることは、九州大宰府が別の権威に基づいた別王朝の痕跡ともいうべき史料事実なのです。〟

 ここで述べていたように、大宰府に主神があることは、大宰府が別の権威に基づいた別王朝の痕跡であり、九州王朝(倭国)の複都制(両京制)時代において、太宰府「倭京」が〝権威の都〟であったことの史料根拠ではないでしょうか。(つづく)

(注)
①村元健一「隋唐初の複都制 ―七世紀複都制解明の手掛かりとして―」『大阪歴史博物館 研究紀要』15号、2017年。
②古賀達也「洛中洛外日記」521話(2013/02/03)〝大宰府の「主神」〟

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