第2677話 2022/02/06

難波宮の複都制と副都(6)

 九州王朝(倭国)における権威の都「倭京(太宰府)」の象徴的官職「主神」の具体的な職掌を示す事件があります。管見では大宰府主神として名前が知られている人物に、宇佐八幡宮神託事件で著名な中臣習宜阿曾麻呂(なかとみのすげのあそまろ)がいます。史料(『続日本紀』)に遺されたその経歴をウィキペディアでは次のように紹介しています。

 「中臣習宜阿曾麻呂(なかとみのすげのあそまろ)は、奈良時代の貴族。氏は単に習宜とも記される。姓は朝臣。官位は従五位下・大隅守。
【経歴】
 天平神護二年(766年)従五位下に叙爵し、翌神護景雲元年(767年)に、宇佐神宮の神職団の紛争調停のために豊前介に任ぜられた。神護景雲三年(769年)9月大宰主神を務めていた際、宇佐八幡宮の神託であるとして、道鏡を皇位に就かせれば天下太平になると称徳天皇に上奏するが、和気清麻呂によって道鏡の皇嗣擁立を阻止される(宇佐八幡宮神託事件)。神護景雲四年(770年)に称徳天皇の崩御を通じて道鏡が失脚すると、阿曾麻呂は多褹嶋守に左遷された。宝亀三年(772年)4月に道鏡が没すると、6月に阿曾麻呂はかつて和気清麻呂が神託事件により流された大隅国の国司に任ぜられた。」

 宇佐八幡大神の神託により道鏡を天皇にすることを習宜阿曾麻呂が上奏するという、大和朝廷にとって前代未聞の大事件です。大宰府主神の習宜阿曾麻呂が、神託という形式とはいえ、皇族でもない道鏡を皇位に就けるよう上奏することができたのですから、その背景に大宰府が持っていた国家的権威を象徴しています。王朝交替後でもこれほどの権威が大宰府にあったわけですから、九州王朝時代の太宰府を複都制における「権威の都」とすることは穏当な理解と思われます。(つづく)

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