第2927話 2023/01/25

多元史観から見た藤原宮出土「富夲銭」 (3)

藤原宮大極殿跡出土の九枚の富夲銭について、阿部周一さん(古田史学の会・会員、札幌市)から、銭文の字体について次の指摘があります(注①)。

○飛鳥池出土の富夲銭が全体としてほぼ左右対称になっているのに対して、藤原宮出土品の場合、「冨」の「ワ冠」がデフォルメされておらず非対称デザインとなっている。
○これら意匠部分は従来型と比べて洗練されていないように見え、時期的に先行する可能性が示唆される。
○この「冨」の字の「ワ冠」について、その書体が「撥ね形」(一画目も二画目も「止め」ではなく「撥ね」になっている)であり、それは隋代の書体に頻出し、唐代に入ると急速に見られなくなるという古賀氏による指摘(注②)との関連を踏まえると、この富夲銭についてはその製造時期がかなり遡上するものと推定できる。

ここで示された「冨」の「ワ冠」の字体が七世紀の九州王朝(倭国)で採用されていたことがわかっています。たとえば次の史料で、「ワ冠」の一画目と二画目が「止め」ではなく「撥ね」になっており、「ウ冠」では二画目と三画目が「撥ね」になっています。

○鬼室集斯墓碑碑文(朱鳥三年、688年)の「室」
○法隆寺釈迦三尊像光背銘(623年)の「宮」「寶」「當」「勞」
○『法華義疏』の「寶」「窮」「宮」

中国の隋代の次の史料に「撥ね」型が見えます。

○『佛説月鐙三昧経』(大隋開皇九年、589年)の「受」
○『大智度論 巻六十二』(開皇十三年、593年)の「受」「帝」「當」「憂」「常」
○『大方等大集経 巻第廿』(大隋開皇十五年、595年)の「宀/之」 ※「宀」の下に「之」。
○「美人董氏墓誌」(開皇十七年、597年)の「宣」「婉」
○「龍山公墓誌」(開皇二十年、600年)の「帝」「字」「※旁/衣」「官」「宗」「家」 ※「旁」の「方」を「衣」とする字。
○『大般涅槃経 巻第十七』(仁寿三年、603年)の「當」

このように隋朝で流行った書体が九州王朝(倭国)に入り、七世紀の九州王朝系史料に採用されているわけです。藤原宮出土富夲銭が同様の書体であることは、富夲銭を九州王朝貨幣とする文献史学による結論と整合しており、阿部説の傍証となりそうです。それでは藤原宮出土富夲銭の鋳造はどこでなされたのでしょうか。なぜ天武らは飛鳥池で鋳造した富夲銭の字体を変えたのでしょうか。いずれも残された検討課題です。

(注)
①阿部周一「『藤原宮』遺跡出土の『富本銭』について 『九州倭国王権』の貨幣として」『古田史学会報』159号、2020年。
②古賀達也「洛中洛外日記」2099~2102話(2020/03/03~06)〝「ウ冠」「ワ冠」の古代筆跡管見(1)~(4)

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