第2803話 2022/08/07

二枚あった慈眼院「定居二年」棟札

 九州年号「定居二年(612年)」記事が記された泉佐野市日根野慈眼院所蔵の「慶長七年(1602年)」棟札を紹介しましたが、その他にも多数の棟札が泉佐野市には現存しています。調査の結果、慈眼院には「定居二年(612年)」と記された棟札がもう一枚あることがわかりました。
 『泉佐野市内の社寺に残る棟札資料』(注①)によれば、慈眼院には日根神社の三枚の棟札が所蔵されており、その内の一枚が「洛中洛外日記」(注②)で紹介した「慶長七年(1602年)」棟札です。今回、新たに見いだしたのは「天正八年(1580年)」成立の小ぶりの棟札(注③)で、次のように記されています。

(表)
  大井関
  正一位
  大明神
(裏)
  定居二年壬申四月二日備
  大井関正一位大明神雖然
  天正四年二月十八日煙焼故
  天正八年庚辰三月八日造立
  社頭者也則天正八年閏
  三月廿二日御遷宮有之導師
  十輪院政金法印也

 大井関大明神(日根神社)の由来を九州年号「定居二年壬申」で示し、その後の社殿の焼亡・再建年次などを記録した棟札です。この棟札で注目すべきことは、もう一枚の慶長七年(1602年)棟札(板札)よりも二十年ほど早く成立していることです。そして、同神社の由来を九州年号「定居」で記録した慶長七年棟札(板札)が孤立していないことを明らかにした点です。このことは、新羅国太子「修明正覚王」が定居二年(612年)に当地に来たという伝承の信憑性を高めます。
 今回、もう一枚の「定居二年」棟札の存在を知り、棟札以外にも当地の古記録などに同様の伝承が遺されているのではないかという心証を得ました。先に紹介した『新撰姓氏録』の和泉国諸蕃の部に見える「日根造」「新羅国人億斯富使主より出づる也」(注④)もその一つに違いありません。これから、現地調査を進めたいと思います。

(注)
①「日根神社資料三 慶長七年(一六〇二) 板札」『泉佐野市内の社寺に残る棟札資料』泉佐野市史編纂委員会、1998年、71~72頁。
②古賀達也「洛中洛外日記」2796話(2022/07/24)〝慈眼院「定居二年」棟札の紹介〟
 同「洛中洛外日記」2797話(2022/07/26)〝慈眼院「定居二年」棟札の古代史〟
③「日根神社資料二 天正八年(一五八〇) 本殿棟札」『泉佐野市内の社寺に残る棟札資料』泉佐野市史編纂委員会、1998年、70頁。
④『新撰姓氏録』和泉国諸蕃の部に、「新羅国人億斯富使主より出づる也」と記された「日根造」が見える。この日根造の祖先とされる新羅国人億斯富使主は、棟札に見える新羅国太子「修明正覚王」のことと思われる。慈眼院の隣にある日根神社は「億斯富使主」を祭神として祀っている。日根神社は棟札に記された「日根野大井関大明神」のことである。

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