第247話 2010/03/07

菩薩天子と現人神

 法隆寺建立当初(七世紀初頭頃)の本尊が、夢殿の救世観音だったとするわたしの仮説が正しければ、多利思北孤は自らを菩薩天子と認識していたのみなら
ず、自らの姿に似せた菩薩像を本尊としたことになります。ここに新しいテーマが出現するのです。それは日本仏教思想史上のテーマです。
 すなわち、仏教国において、時の最高政治権力者が自らに似せた仏像を崇拝の対象にさせたというテーマです。このような先例が古代アジアの仏教国にあった
のかどうか、今後調べてみたいと思いますが、権力者の仏教信仰において、まず思い起こされるのが中国南朝梁の武帝の逸話ではないでしょうか。
 梁の武帝は仏教を深く信仰し、度々仏前に捨身し三宝の奴と称したほどで、この時代、南朝では仏教が興隆しました。日本でも聖武天皇が自らを「三宝の奴」と
称した宣命が『続日本紀』に記されていることは有名です(天平勝宝元年四月:749)。
 こうした例から、権力者が仏教に帰依している、いわゆる仏教国においては仏法僧の三宝が上位で、世俗の権力者が相対的に下位にあるものと、わたしはこれま
で理解していました。ところが、仏教国である九州王朝倭国では世俗権力のトップが菩薩天子となり、その姿に似せた菩薩像を崇拝の対象にさせたとすれば、何
とも異質な宗教観が倭国には存在していたように思われるのです。おそらく、キリスト教国やイスラム教国では絶対に起こり得ない現象ではないでしょうか。も
ちろん、一神教と多神教の差異がありますので、単純な比較はできないでしょうが。
 それでは、こうした「異質」な宗教観は多利思北孤の時代に始めて成立したのか、それともずっと以前からあったものなのでしょうか。おそらく、日本列島や倭
国において、仏教伝来以前から存在した宗教観のように思われます。それは、『日本書紀』の景行紀や雄略紀に見える「現人神」(あらひとがみ)という表現に
表された、神が人間の姿となって現れる、あるいは「天皇」を現人神とする宗教観が淵源ではないかと考えています。『万葉集』に見える「大君は神にしあれ
ば」という表現も同類の思想です。
 すなわち、九州王朝では天子やトップを「現人神」とする伝統があり、仏教を受け入れて以降は「現人仏」「現人菩薩」「菩薩天子」などへと「発展進化」した
のではないでしょうか。中国での「菩薩天子」「如来天子」思想の調査研究を含めて、新たな研究テーマにしたいと思います。(つづく)

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