第2412話 2021/03/18

王朝と官道名称の交替(2)

 九州王朝官道(注①)の名称は都がある太宰府を起点に、東西南北と陸路・海路別に命名したと思われます。恐らく、それは単なる道路・航路ではなく、軍事目的を有した〝水陸方面軍〟をも意味したものです。そして、その方面軍のリーダーが「都督」と呼ばれていた痕跡が『日本書紀』に見えることを山田春廣さんが指摘され(注②)、九州王朝官道の研究が一気に進展しました。それは『日本書紀』景行紀の〝彦狹嶋王、東山道都督拝命〟記事です。

 五十五年春二月戊子朔壬辰、以彦狹嶋王、拜東山道十五國都督。是豐城命之孫也。然到春日穴咋邑。臥病而薨之。是時。東國百姓悲其王不至。竊盗王尸葬於上野国。(『日本書紀』景行五五年二月条)

 この記事にある「東山道十五國」の国数が、大和から下野国まででは七国なので数があわず、九州王朝の都があった筑前からであればちょうど十五国に一致することを発見され、この「東山道」とは筑前国から下野国にいたる九州王朝官道のことであるとされたのです。そして、筑前国を起点とした他の九州王朝官道(東海道、北陸道)の推定も試みられました。
 ところが、701年の九州王朝から大和朝廷への王朝交替により、起点となる都が筑前(太宰府)から大和(藤原京)に移動します。その爲、新王朝は自らの都を中心とした官道名へと変更することになります。その結果が「五畿七道」と呼ばれる七つの官道(東海道、東山道、北陸道、南海道、山陽道、山陰道、西海道)への再編です。
 しかし、九州王朝時代の官道名とは性格が微妙に異なっています。その最たるものが「西海道」です。これは「交通路」というよりも九州島という領域名称の性格が強くなっており、しかも起点の大和から九州島まで通じるルートは「西海道」ではなく、「山陽道」か「山陰道」になってしまいます。しかも、この「山陽道」と「山陰道」には「東西南北」という方角が付きません。言わば一貫性のない官道名称になってしまっているのです。更に言えば、「東海道」「西海道」「南海道」があるのに、「北海道」だけがないことも何か変で、このことが西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)から指摘されてきました(注③)。
 こうした、一貫性のない「七道」になった理由について、従来の一元史観では説明できません。すなわち、王朝交替(官道起点たる都の移動)により、それまでの九州王朝官道を再編し、名称変更したことで発生したとする、多元史観を前提とした説明が最も合理的なのです。(つづく)

(注)
①九州王朝官道と大和朝廷「七道」の対比は次のようなものと考えている。
【九州王朝】→【大和朝廷】
 「東山道」 → 「山陽道」「東山道」
 「東海道」 → 「南海道」「東海道」
 「北陸道」 → 「山陰道」「北陸道」
 「北海道」 → なし
 「西海道」 → なし
 (九州島) → 「西海道」
 「南海道」 → なし
②山田春廣「『東山道十五國』の比定 ―西村論文『五畿七道の謎』の例証―」『発見された倭京 ―太宰府都城と官道―』古田史学の会編、明石書店、2018年。初出『古田史学会報』139号、2017年4月。
 山田春廣「東山道都督は軍事機関」『発見された倭京 ―太宰府都城と官道―』古田史学の会編、明石書店、2018年。
③西村秀己「五畿七道の謎」『発見された倭京 ―太宰府都城と官道―』古田史学の会編、明石書店、2018年。初出『古田史学会報』131号、2015年12月。

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