2011年06月11日一覧

第323話 2011/06/11

空海の遺言状

 第321話「九州の語源」において、九州王朝滅亡後の天平3年(731)時点でも、九州王朝の故地である九州島は、近畿天皇家にとって 「直轄支配領域」ではなく、大宰府による「間接統治」であったと述べましたが、実はこうした認識をわたしが持ったのは今から20年も前のことでした。
 1991年、わたしは「空海は九州王朝を知っていた–多元史観による『御遺告』真贋論争へのアプローチ」(『市民の古代』第13集所収、新泉社刊)という論文を発表しました。35歳の時でした。『御遺告』とよばれる空海の遺言状には、空海の唐からの帰国年について、「大同二年、我が本国に帰る」と記されており、大同二年(807)のことと空海自らが述べているのですが、空海がその前年の大同元年(806)に九州 大宰府へ帰ってきたことは、これも空海自身の別の文書(『新請来経目録』、最澄による同時代写本が東寺に現存)から判明しています。従って、この帰国年に ついての一年の差が平安時代から問題視されてきました。
 たとえば、「大同二年」は「大同元年」の「元」の下の二点が脱落したのだろうとか、筑紫に帰ったのが「大同元年」で、京都に戻ったのが「大同二年」のことだろうとか、さまざまな解釈がなされてきました。しかし、これらに対しても、『御遺告』の全写本が「大同二年」と記されていることや、京都のことを「我が本国」とは言わないとの反論も出されてきました。
 結局この一年の差の問題は未解決のままで、挙げ句は『御遺告』偽作説が横行したほどです。
 そこで、わたしは九州王朝説の立場から、空海にとって九州は 「我が本国」とは認識されていなかった。すなわち九州島が九州王朝の故地であることを空海は知っており、空海の時代でも九州島は「本国」扱いされていなかったとの認識に達したのです。
 今回、20年前の論文を読み返してみて、若い頃の稚拙な論文ではあるものの、その論証の根幹は今でも正しいと、感慨に耽りながら確認しました。そして、 空海の超難解な漢文に苦しみながら、京都府立総合資料館で空海全集を読破したことを思い出しました。残念ながら、今ではとても体力的に困難な、若き日の研究体験の想い出です。

第322話 2011/06/11

6月19日、記念講演会のご案内 済み

来る6月19日(日)に古田史学の会会員総会を開催します。総会に先だって、午後1時(開場)から恒例の記念講演会も開催します。今回の講演は次のお二人です。
石田敬一さん(古田史学の会会員) 演題「倭人伝の戸と家について」
正木 裕さん(古田史学の会会員) 演題「盗まれた九州」
記念講演会は、毎年その一年に優れた研究発表をされた古田学派の研究者を招聘して行われますが、今回は「古田史学の会・東海」の研究者石田さんと「古田史学の会・関西」の論客正木さんにお願いしました。
石田さんは「東海の古代」(古田史学の会・東海の機関紙)で好論を数多く発表されていますが、関西での発表は初めてです。学問の方法や原則を強く意識さ れて自説を展開し、他者への批判でもこうした視点をしっかりと持たれており、わたしも以前から注目してきた研究者のお一人です。今回の発表テーマは倭人伝 における「戸」と「家」についてで、古田説を更に展開・深化させるかもしれないと期待されています。
正木さんは皆さんご存じの通り、九州年号に基づいた『日本書紀』史料批判の展開を中心とする、その圧倒的な研究は質量とも素晴らしい内容と言わざるを得 ません。限られた現存史料という制約の中、危険な論理の領域にも踏み込まれており、これからの展開が益々楽しみな研究者です。今回はこれまで発表された九 州年号研究と『日本書紀』史料批判による九州王朝の実像解明をまとめて発表していただく予定です。
古田史学を愛する多くの皆さんの参加を呼びかけます。なお、会場は大阪市北区中之島にある「大阪府立大学中之島サテライト」(大阪府立中之島図書館別館 2階ホール)です。本会総会では初めて使用する会場ですので、お間違えないように。午前中は関西例会を開催していますので、こちらへも是非。