2014年03月02日一覧

第671話 2014/03/02

筑紫舞再興三十周年記念「宮地嶽黄金伝説」

 京都に帰る新幹線の車中で書いています。京都に着くのは午後11時頃ですが、明日から仕事ですから何としても帰らなければなりません。「宮仕え」のつらいところです。
 本日の古田先生の講演や宮地嶽神社神主さんたちによる筑紫舞は見事でした。とりわけ、浄見宮司の「神無月の舞」は感動的でした。九州王朝宮廷雅楽そのものでした。講演や演目は次の通りでした。(文責:古賀達也)

日時 2014年3月2日(日)15:00~19:00
場所 アクロス福岡

第一部 講演
 講師 赤司善彦(九州国立博物館展示課長)
 演題 よみがえった宮地嶽古墳黄金の太刀
   ※内容は『古田史学会報』に掲載予定。

宮地嶽神社 浄見宮司からのご挨拶(要旨)

 わたしは宮地嶽神社宮司の次男だったので、奈良の春日大社で十何年間「大和舞」を毎日舞わされて、それがいやになって渡米しました。跡継ぎだった 兄が亡くなりましたので、宮地嶽神社に戻りましたら、父から筑紫舞を舞えといわれ、筑紫舞の練習をしました。その結果、大和舞は筑紫舞の後の形だったことがわかり、大和舞の経験が役に立ちました。
 わたしがいうのもなんですが、本当に神様はいらっしゃると思いました。神様がわたしに筑紫舞を舞えといわれたのだと思います。そして、古田先生の『失われた九州王朝』を読むことになったのだと思います。この度、宮地嶽神社がイベントをやるのであれば講演すると古田先生から言っていただきました。本当に今日はありがとうございます。

第二部 講演(要旨)
 講師 古田武彦
 演題 筑紫舞と九州王朝

 古田武彦でございます。やっと皆様にお会いできることになりました。今年、88歳になります。古田が何を考えているのかをお聞きいただき、一人でも御理解賛同していただくことができればよいと思い、本日まで生きていたいと思ってまいりました。
 現在の日本の歴史学は間違っている。このことをお話しいたします。最大のピンポイントをゆっくりとお話ししたいと思います。
 わたしの立場は、邪馬台国というのは間違っている。『三国志』には邪馬壹国(やまいちこく)と書いてあります。いずれも古い版本ではそうなっています。 それを何故邪馬台国と言い直したのか、言い直してもよいのかというのが私の研究の始まりです。最初に言い直したのが江戸時代のお医者さんだった松下見林でした。彼は、日本には『日本書紀』があり、大和に天皇がおられた、だから日本の代表者は大和におられた天皇家である、だからヤマトと読めるよう邪馬壹国を 邪馬台国に直したらよいとしたのです。しかし結論を先に決めて、それにあうように原文を変えて採用するという方法は学問的に何の証明にもなっていない。
 わたしの方法はそれとは違い、原文に邪馬壹国とあるのだから、邪馬壹国とするという立場です。『三国志』倭人伝には中国から倭国への詔勅が出され、それに対する返答である上表文(国書)を出されています。国書には国名が書かれるのが当たり前で、そこに邪馬壹国とあったことになります。倭王の名前も書かれていたはずで「卑弥呼(ひみか)」という名前もそこに書かれていたはずです。ところが『日本書紀』神功紀には卑弥呼という名前は記されていない。すなわ ち、天皇家には卑弥呼と呼ばれる女王はいなかった証拠です。
 古賀市歴史資料館の説明版には「邪馬壹国」と表記されているそうです。これが正しい歴史表記です。わたしも見に行きたいと思っています。
 「日出ずるところの天子、日没するところの天子に書をいたす」という有名な名文句があります。これは『日本書紀』にはなく、中国の史書『隋書』に書かれています。それには王様の名前「多利思北孤」、奥さんの名前は「キミ」、国名は「イ妥国(たいこく)」と書かれています。ところが、『古事記』や『日本書紀』には多利思北孤という名前もイ妥国という国名もありません。『古事記』『日本書紀』では、7世紀初頭の天皇は推古であり女性です。従って、女性の推古天皇に奥さんがいるはずがない。すなわち、7世紀初頭に隋と交流した国は大和の天皇家ではなかったのです。
 現在の歴史学者はこの矛盾に誰も答えることができない。その矛盾を無視するというのは国民をバカにしているやり方です。こういうやり方では教育はできな い。こういうやり方に終わりが来た。みんなその矛盾に気づいてきた。古賀市歴史資料館でも九州王朝説に基づいた解説表記(原文通り「邪馬壹国」と表記)をしている時代です。これこそ「開かれた博物館」で、それをやらないのは国民をバカにした「閉じられた博物館」です。昨年あたりからとどめることのできない新しい時代が来た。たとえば中国人の女性研究者(張莉さん)が古田説が正しいという論文を発表しました。そういう時代に入りました。
 昭和55年5月にわたしに電話が入りました。西山村光寿斉さんという姫路の女性で、戦前、神戸で菊邑検校とケイさんという人に出会い、筑紫舞を伝授された方です。菊邑検校は太宰府のお寺で庭掃除していた男の所作が見事だったので、そのことをたずねると、その男は「わたしは死んだら必ず地獄に落ちると思い ます。師匠から習った舞を誰かに伝授しなければ地獄に落ちます。」とのことだったので、菊邑検校はその男から筑紫舞を習い、その筑紫舞をまだ子供だった西山村光寿斉さんに猛特訓して教えました。神戸の西山村さんの実家(やまじゅう)にお世話になっていた菊邑検校には筑紫のクグツが「太宰府よりの御使者」と口上を述べてよく挨拶にきたそうです。このようにして筑紫舞は現代まで奇跡的に伝わったのです。事実は小説よりも奇なりです。
 西山村さんの記憶では、戦前、宮地嶽神社の古墳の石室で筑紫舞が奉納されたとのことで、宮地嶽神社とは不思議な御縁があります。西山村さんや筑紫舞を受け継がれたお子さん、お弟子さんは「人間国宝」にふさわしい方々です。その筑紫舞の奉納の前座として今日話をさせていただいています。
 菊邑検校の「検校」を辞書で調べたところ、「盲目の人に与えられた最高の官」とありました。ということは、その官職を与える権力は「王朝」です。それは 太宰府を中心とした、官職を与えることができた「権力」「制度」があったということです。これこそ、九州王朝という概念があってこその「菊邑検校」という名前だったのです。菊邑検校が筑紫舞を習った太宰府近辺のお寺を探してみたらよいと思う。「太宰府からの御使者」の人物の名前もわかっており、筑紫斉太郎 (ちくしときたろう)というそうです。ぜひ探していただきたい。
 みなさんが学校で習った歴史は残念ながら本当の歴史とは言えません。わたしが京都の洛陽高校で教鞭をとっていたとき、同僚の教師から聞いた話で、その先生の隣家のおじさんが「天皇はんも偉くなりはったなあ。わたしのところには天皇はんの借金証文があります。東京であんじょうやってはるのでしょうなあ。」 と言っておられたとのことで、大変驚きました。これこそ江戸時代の天皇家の実体だったのです。明治時代に薩長政権が自らの政治的目的で「万世一系」という概念を作り上げたのです。
 今、わたしは本当の歴史を再建する時代に入っていると思う。どの国家も自分たちの権力を正当化するための「教育」を行い、宗教も自分たちを正当化するための「教義」を作り上げている。だから、戦争が絶えないのです。国家も宗教も人間が人間のために造ったものです。その国家や宗教が人間を苦しめるのは 「逆」である。国家や宗教のご都合主義の「教育」をキャンセルし、そこから抜け出して、人類のための国家、人類のための宗教はこうであると、言う時代がきたのです。そう言いたい。
 最後に、わたしは87歳ですからもうすぐ間違いなく死ぬと思いますが、死んだらわたしは地獄に行きたい。地獄は苦しんでいる人や犯罪者や自殺者が行くと ころとされています。地獄に行ったら、自殺者からなぜ自殺したのかを聞いてみたい。なぜ犯罪を行ったかを聞いてみたい。わたしは幸せな人生でした。そのおかえしに、死んだらまっしぐらに地獄に行きたい。わたしが死んだと聞かれたら、古田は希望通り地獄に行って忙しくしていると思ってください。

第三部 筑紫舞
 演目 笹の露 
 舞人 宮地嶽神社権禰宜 野中芳治・渋江公誉・渋田雄史・植木貴房・竹田裕城
   
 演目 神無月の舞 
 舞人 宮地嶽神社宮司 浄見 譲

 

旅の記憶 — 史跡探訪と講演会参加  (1,梅花香る邪馬壱国の旅) へ

よみがえる九州王朝 幻の筑紫舞』 (ミネルヴァ書房)

筑紫舞聞書(神事芸能研究会)より


第670話 2014/03/02

九州国立博物館「国宝大神社展」を見学

 昨日は久しぶりに太宰府天満宮を参詣したあと、同宝物館と九州国立博物館を見学しました。九州国立博物館は初めての訪問で、古田先生や合田洋一さん(古田史学の会・全国世話人)をはじめ「古田史学の会・四国」の方々とお会いすることができました。
 九州国立博物館で開催されている「国宝大神社展」を見学したのですが、よくもまあこれだけ「国宝」「重文」を集められたなあ、というような素晴らしい展示内容でした。たとえば「隅田八幡人物画像鏡」や「海の正倉院」と呼ばれている「沖の島」の豪華出土品の数々、宮地嶽古墳出土の金銅製品(馬具・他)など いずれも絶品です。文献史料関係では、先月、名古屋市博物館で見た『古事記』真福寺本を筆頭に、『延喜式神名帳』『周防国正税帳』『八幡宇佐宮御託宣集』 『大善寺玉垂宮絵巻』など超有名な史料を実見できました。
 中でも、わたしが最も時間をかけて観察したのが、『古事記』真福寺本でした。名古屋市博物館での展示のときとは別のページが開かれていましたので、現在の関心事である「治」と「沼」、そしてつくりが「台」と「召」の字がないか、大勢の見物客にもみくちゃにされながらも、ガラス越しに何度も観察しました。 その結果、「建沼河命」の記事を見つけ、その「沼」の字体を観察しました。この部分は既に古谷弘美さん(古田史学の会・全国世話人)の研究でも調査されて いた部分で、結果は古谷さんの指摘通り「沼」ではなく、「治」でした。すなわち「建治河命」と真福寺本には記されていました。念のため合田さんにも見てい ただいたところ、やはり「治」でした。
 こうした真福寺本の史料状況は、恐らく真福寺本書写者が依拠した元本の字体に影響された結果ではないかと推測していますが、他の字体の研究も含めて検討が必要です。まずは、古谷さんの論文をなんとかして発表できるようにしたいと知恵を絞っているところです(真福寺本写真版の掲載料が高額のため、写真を多数用いた古谷論文を発表できずにいます)。