2015年04月一覧

第939話 2015/04/30

古田武彦著

『古田武彦の古代史百問百答』が復刊

ミネルヴァ書房から古田先生の『古田武彦の古代史百問百答』が復刊されました。同書は東京古田会(古田武彦と古代史を研究する会)により、2006年に発行されたものをミネルヴァ書房から「古田武彦 歴史への探究シリーズ」として復刊されたものです。
同書冒頭の藤沢徹さん(東京古田会・会長)による「はしがき」に「敗戦後、節操なき『思想の裏切り』に絶望した旧制高校生が、老年に至るまで反骨の『心理の探求』に没頭した」とあるとおり、古田先生の古代史研究から思想史研究に至る、「百問百答」の名に偽りのない質疑応答が展開された一冊に仕上がっていま す。東京古田会による優れた業績として、後世に残る本です。
同書は古田先生の近年の研究成果と、それに基づいた問題意識が、「百問」に答えるという形式をとって、縦横無尽に展開されています。かつ、その「百答」は「結論」ではなく、新たな問題意識の出発点ともいうべき性格を有しています。古田学 派の研究者にとって、古田先生から与えられた「課題」「宿題」としてとらえ、そこから新たなる「百問」が生まれる、というべきものです。同書を企画編纂された東京古田会の皆様に敬意を表したいと思います。


第938話 2015/04/29

教到六年丙辰(536年)の「東遊」記事

 九州年号研究をしていると思わぬ発見や成果が得られることがあります。たとえば『二中歴』「年代歴」の九州年号「教到」(531〜535年)の細注に「舞遊始」(舞遊が始まる)という変な記事があり、かねてから不審に思っていました。「舞遊」など、それこそ縄文時代からあったはずで、それが6世紀 の教到年間に始まったとする細注の記事はナンセンスなものと映っていたからです。
ところがその謎を解く鍵が本居宣長の『玉勝間』にありました。この情報は冨川ケイ子さん(古田史学の会・会員、横浜市)から教えていただいたのですが、『玉勝間』に九州年号の教到が記されているのです。

「東遊の起り
同書(『體源抄』豊原統秋:古賀注)に丙辰記ニ云ク、人王廿八代安閑天皇ノ御宇、教到六年(丙辰歳)駿河ノ國宇戸ノ濱に、天人あまくだりて、哥舞し給ひければ、周瑜が腰たをやかにして、海岸の青柳に同じく、廻雪のたもとかろくあがりて、江浦の夕ヘの風にひるがへりけるを、或ル翁いさごをほりて、中にかくれ ゐて、見傳へたりと申せり、今の東遊(アズマアソビ)とて、公家にも諸社の行幸には、かならずこれを用ひらる、神明ことに御納受ある故也、其翁は、すなわ ち道守氏とて、今の世までも侍るとやいへり、」
(岩波文庫『玉勝間』下、十一の巻。村岡典嗣校訂)

このように教到年間の「舞遊始」(舞遊が始まる)とは「東遊(アズマアソビ)」の起源記事だったのです。こうした九州年号による記事が本居宣長の『玉勝間』に記されていたとは思いもよりませんでした。
しかも、普通九州年号群史料によれば「教到」は5年間で終わり、翌年は改元され「僧聴元年」となっており、教到六年丙辰ではなく僧聴元年丙辰とされるべき ところです。しかし教到六年丙辰とあるのは、その年の内の「僧聴」に改元される前に記された記事に基づいていると考えられるので、元史料を後世の認識で 「僧聴元年」などと改訂していない、いわば一次史料を正確に引用している記事であることがわかります。従って、この「東遊」関連記事の史料価値は高いと判 断できるのです。
このような九州王朝系史料の、しかも史料批判により、原文に近いと判断できる記事に遭遇できたことは、まさに学問研究の醍醐味 です。ちなみに、江戸時代のバリバリの一元史観論者である本居宣長はこの「教到六年」という近畿天皇家にない年号をどのような気持ちで自著に引用したの か、興味深いところです。
なお、当研究の詳細は『古田史学会報』64号(2004.10.12)所収の「本居宣長『玉勝間』の九州年号 -「年代歴」細注の比較史料-」をご参照下さい。


第937話 2015/04/28

「年代歴」編纂過程の考察(3)

 「年代歴」の九州年号群は「年号一覧」ともいうべき史料性格ですから、その元史料は「九州年号群」史料である、いわゆる「年代記」あるいは「年表」であり、それらに記された九州年号を抜粋して「年代歴」は作成されたものと思われます。それら以外に代々の九州年号が記された史料の存在をわたしは知りませんし、想定もできないからです。
 そうした九州年号が記された「年表」はおよそ次のようなことが記されていたはずです。「九州年号」「年次」「干支」「その年に起きた事件」といった構成です。具体例をあげれば次のようなかたちです。

法清元年甲戌「記事」二年乙亥「記事」三年丙子「記事」四年丁丑「記事」兄弟元年戊寅「記事」蔵和元年己卯「記事」二年庚辰「記事」三年辛巳「記事」四年壬午「記事」五年癸未「記事」〜

 このような年代記(年表)から「年代歴」に必要な「年号」「継続年」「元年干支」を抜き取る作業となるわけですから、編者は次の手順で「年代歴」を作成するはずです。

(1)年号を抜粋する。
(2)その年号の最末尾の「年数」を抜粋する。
(3)元年干支を抜粋する。
(4)その年間の代表的記事を抜粋する。なければ書かない。

以上の作業を、上記の例で行うと次のような内容となります。

「法清・四年・甲戌 (記事)」
「兄弟・元年・戊寅 (記事)」
「蔵和・五年・己卯 (記事)」

 このように、記された文字をそのまま抜粋すると、元年しかない「兄弟」は「元年」とそのまま書き写す可能性が発生するのです。その結果、書写が繰り返された『二中歴』「年代歴」のどこかの書写段階で、「元」が「六」に誤写されたと、わたしは現存する『二中歴』「年代歴」の「兄弟六年」とある史料事実から判断するに至ったのです。今のところ、この編纂過程以外に、この誤写が発生する状況をわたしには想定できません。もし、もっと合理的な誤写過程があれば賛成するにやぶさかではありませんが、いかがでしょうか。
 また、「年代歴」の九州年号の下に細注があり、その年間の事件が記されているという史料事実も、これら九州年号の元史料が年代記(年表)の類であったとする、わたしの推定を支持します。
 以上、3回にわたり、『二中歴』「年代歴」の編纂過程について考察してきました。史料批判とはこうした考察の集大成であり、その結果、当該史料がどの程度信頼してよいのかが推定できます。こうした作業、すなわち史料批判は文献史学における学問の方法の基本ですから、私自身の勉強も兼ねて、これからも機会があれば繰り返しご紹介したいと思います。

(補記)「師安一年」というように1年しかない年号の場合は「元年」ではなく、「一年」と記すのが『二中歴』「年代歴」の九州年号部分の「表記ルール」と紹介しましたが、「年代歴」の近畿天皇家の年号部分には、1年しかない年号「正長」が「正長元」 (1428年)と表記されています(正確には翌二年の九月に永享と改元。従って年表上では元年のみの表記となります)。『二中歴』そのものが複数の編者により書写・追記されていますから、上記のような「表記ルール」が全てに厳密に採用されているわけではありません。この点、『二中歴』の全体像をご存知ない方も多いと思いますので、補足しておきます。


第936話 2015/04/27

「年代歴」編纂過程の考察(2)

 林さんのご指摘のように、『二中歴』「年代歴」の「兄弟六年 戊寅」は「師安一年」のように「一年」とあるのが、九州年号部分の表記ルールという ことについては、わたしも賛成です。しかし、史料事実が物語っているように、「年代歴」成立過程で「兄弟元年」という表記が存在したことを想定せざるを得ないことは、935話で説明した通りです。そうすると、なぜ表記ルールとは異なった「兄弟元年」という表記が出現したのかが、次の問題となります。今回は この点について説明したいと思います。
 実は『二中歴』の九州年号部分は、他の九州年号史料と比べ、かなり異質な史料状況なのです。通常、寺社縁起などのように、ある特定時点の事件を説明するために個別の九州年号が現れるのが一般的な九州年号史料の状況です。これに対して、九州年号が多数記された史料は「九州年号群」史料と呼ばれ、一般的な九州年号史料と区別しています。それら「九州年号群」史料としては、いわゆる「年代歴」と呼ばれるタイプのものが多数あります。すなわち、九州年号を使って代々の歴史を記録されたものです。「年表」と称してもよいかもしれません。
 この「年表」にもいくつかのタイプがあるのですが、九州年号で年代を特定しながら、歴史事実を長文の記事として記録するタイプと、縦横のグリットの中に干支や年号を書き込み、 そのグリットの余白部分にメモ程度の単文記事を書き込むタイプが見られます。昨年、熊本県和水町で発見された「納音付き九州年号」史料は後者のグリットタイプの「九州年号群」史料です。
 ところが『二中歴』「年代歴」はこれら「九州年号群」史料とは全く異なり、「年表」としての歴史事実の記録機能を本来の目的とはしていないのです。それは『二中歴』の史料性格が歴史事典のようなものであり、その中の「年代歴」はどのような年号がいつ頃存在したのか記した「年号一覧」という史料性格を有しており、年号の知識を必要とする当時のインテリ向けに作成された「年号辞典」だからです。
 したがって、 「大寶」以降の近畿天皇家の年号部分は「年号・年数・元年干支」が中心で、それに天皇名等が付記されているといった様相を示しています。それに比べて、冒頭の九州年号部分にはその年号の時代に起こった記事が細注として付記されており、一見すると「年代歴」風の様式も兼ねています。実は、このことが「兄弟六年」という誤写の原因となっていると考えられるのです。(つづく)


第935話 2015/04/26

「年代歴」編纂過程の考察(1)

 先日、瀬戸市の林伸禧さん(古田史学の会・全国世話人)からお電話をいただき、「洛中洛外日記」924話「『二中歴』九州年号校訂跡の証言」についてご質問をいただきました。
わたしが、『二中歴』「年代歴」にある「兄弟六年 戊寅」の「六」は誤りであり、正しくは「兄弟元年」とあるべきところを、「元年」の「元」の字を「六」 と読み間違えた書写者がいたとしました。このことに対して林さんからのご指摘は、「年代歴」には「師安一年」(564年)という表記があるように、年号が1年しか続かない場合は「一年」とあるべきで、「元年」とは記さないということでした。ちなみに、林さんは「兄弟六年」のままで正しいというご意見のようでした。
 確かに「年代歴」の九州年号部分の表記としては、一年限りの九州年号は「師安一年」の例と、「兄弟六年」の傍注の「一イ」のみがあるだけですから、林さんのご指摘はもっともなものです。そこで、わたしは次のような論理展開であることを説明しました。

(1)九州年号の「兄弟」は他の史料でも元年だけの1年で終わり、翌年は「蔵和」と改元されている。
(2)「年代歴」の傍注にも「一イ」と校訂がなされていることも、この史料状況に対応している。また、翌年に「蔵和」と改元されている。
(3)従って、「兄弟六年」とあるのは、傍注通り「兄弟一年」とあるべきだった。
(4)それでは何故「六」と誤ったのかを考えたとき、本来、元史料に「一」と書かれていた字を「六」に読み間違えることは考えにくい。
(5)その点、「元年」とあったのなら、「元」と字形が似ている「六」に読み間違える可能性がある。
(6)従って、本来「兄弟元年」と表記されたものがあり、数次に及ぶ「年代歴」書写のどこかの段階で「兄弟六年」と誤写されたと考えれば、このケースの説明が可能である。
(7)このような誤写発生過程以外に「一」を「六」に誤写するケースは考えにくい。

 以上のようにわたしは判断し、先の「洛中洛外日記」を書いたのでした。そして、この誤写発生過程の可能性以外に「六」と誤写するケースを、わたしには考えられないと林さんに説明したのです。(つづく)


第934話 2015/04/25

『二中歴』九州年号細注の史料批判(2)

「洛中洛外日記」932話に続いての『二中歴』「年代歴」に見える九州年号細注の考察です。
『古事記』や『日本書紀』とは異なって、 『二中歴』は「尊経閣文庫本」と称される古写本とその系列の新写本しか現存しないため、異なる系統の写本による比較や校訂ができません。また、「尊経閣文 庫本」自体も数次の書写や追記が繰り返された末に成立していることが、その内容から明らかです。ですから、それら書写や追記時点における書写者や追記者による原文改訂や誤写の可能性を排除できないという史料性格を帯びています。
このことは「年代歴」の九州年号細注についても同様であり、留意が必要です。たとえば、各九州年号の元年干支表記部分だけでも、次のような史料状況を示しています。
「年代歴」冒頭の第1ベージから九州年号は記されていますが、その1ページ目には「継躰」「善記」「正和」「教倒」「僧聴」「明要」「貴楽」「法清」の8年号が並んでいます。2ページ目には「兄弟」以降の年号が続き、3ページ目の「大化」で九州年号部分は終わります。4ページ目からは近畿天皇家の「大寶」 が始まります。このうち1ページ目にある8年号については元年干支表記が「元○○」という表記になっています。具体的には「継躰五年 元丁酉」のように、 「継躰は五年間続くが、その元年干支は丁酉」とわかるような表記となっています。ところが2ページ目からは「元」の字がなくなり干支だけとなります。「兄 弟六年 戊寅」というようになっており、そのため「兄弟六年の干支が戊寅」と間違って受け取られるような表記に変わっているのです。実際にそのように勘違いして論文を書かれた古田学派の研究者もおられました。すなわち「元」の字がないので、年号と年数の下に付記された干支が元年のことかどうか、一見すると わかりにくい表記に省略されています。
このような表記様式の変化が発生した理由は何でしょうか。次の二つのケースが考えられるのではないでしょうか。

(1)編纂時使用した元史料に表記が異なるものがあり、その表記を統一せず、そのまま採用した。
(2)編纂者あるいは書写者が2ページ以降は「元」の字を省略してしまった。

この二つのケースの可能性が考えられますが、どちらのケースだったのかは、今のところよくわかりません。引き続き検討したいと思います。
このように「年代歴」九州年号部分だけでも、表記方法などが統一されておらず、論証の根拠にこれらの記事を利用する場合は、よくよく注意しなければなりま せん。史料批判という基礎的な学問作業はこうした考察の集大成とも言うべきものなのです。史料批判を抜きにして、その史料を研究や論証の根拠に無条件に使うことがいかに危険かということを強調しておきたいと思います。


第933話 2015/04/25

メルマガ「洛洛メール便」配信のお知らせ

このたび「古田史学の会」では会員を対象としたメールマガジン「洛洛メール便」配信サービスをスタートさせます。コンテンツは当面次のような内容で始めます。

(1)「洛中洛外日記」
ホームページでは週1回のペースで更新していますが、「洛洛メール便」にて随時配信します。
(2)「洛中洛外日記」号外
号外はホームページには掲載されない会員向け限定情報です。
(3)会員へのお知らせ・他。

最初は試行錯誤で進めますが、徐々に充実させたいと考えています。また、会員からのメールでのご質問やご要望などにも、可能な限りお答えしたいと考えています。
「洛洛メール便」配信を希望される会員は、下記のメールアドレス宛に「洛洛メール便配信希望」と記して下記の内容を記入して下さい。会員名簿によるご本人確認の上、「洛洛メール便」配信を開始します。

○お名前
○『古田史学会報』発送先のご住所
○電話番号
○会員番号
○配信先のメールアドレス

【配信申し込み先アドレス】
yorihiro.takemura1@gmail.com
担当者 竹村順弘(古田史学の会・全国世話人)

なお、配信はbccで行います。会員の皆さんのお申し込みをお待ちしています。

参照:当会の入会案内


第932話 2015/04/24

『二中歴』九州年号細注の史料批判

 今回は『二中歴』所収「年代歴」に見える九州年号に付記された細注について、その史料性格を考察してみます。
 既に何度も指摘しましたように、同九州年号の下に付記された細注記事は九州王朝系史料に基づいていると考えられ、九州王朝史研究にとって貴重なものです。しかしながら、それら細注は後世に改訂された痕跡を残しており、いわゆる同時代史料の忠実な書写ではなく、その二次史料的性格を有しています。従って、九州王朝系史料に基づいてはいるものの、取り扱いには慎重な史料批判や手続きが必要です。
 たとえば、細注が「年代歴」に記録された時期は、その当該細注が付記された各九州年号の時代ではありません。そのことが端的に現れているのが細注記事に散見する「唐」という国名表記です。例をあげれば「法清」「端政」「定居」「仁王」「僧要」に付記された次の細注です。

「法清四年 元甲戌 法文ゝ唐渡僧善知傳」
「端政五年 己酉 自唐法華経渡」
「定居七年 辛未 法文五十具従唐渡」
「仁王十二年 癸巳 自唐仁王経渡仁王会始」
「僧要五年 乙未 自唐一切経三千余巻渡」

 いずれの記事も「唐」より「法文」「法華経」「仁王経」「一切経」が渡ってきたという内容ですが、唐王朝が成立したのは618年で、九州年号の「倭京」元年に相当します。従って、それ以前の九州年号「法清(554〜557)」「端政(589〜593)」「定居(611〜617)」の時には中国の王朝はまだ 「唐」ではありません。ですから、これら細注記事は「唐」の時代になってから付記され、その際に当時の中国王朝名の「唐」という表記にされたと考えられます。おそらく原史料にはその当時の中国王朝名が記されていたと思われますが、「年代歴」編纂時(正確には「年代歴」中の九州年号史料部分の成立時)に「唐」と統一した表記にしたのです。
 このような編纂時の国名で過去の記事も統一して表記することは普通に行われ、それほど不可解な現象ではありません。現代でも「中国の孔子」とか言ったり書いたりするように、孔子が生きた時代の国名で表記するとは限らないのです。
 このようなことから、「年代歴」九州年号の細注には、細注付記当時の認識で書き換えられたりする可能性がありますから、論証などの史料根拠に使用する場合は注意が必要です。史料性格を十分に確認し、その史料の有効性(どの程度真実か)と限界を見極める作業、すなわち史料批判が文献史学では大切になるのです。残念ながら、古田学派の論考にも、わたしも含めて史料批判が不十分であったり、問題があったりするケースが少なくありません。お互いに切磋琢磨し研鑽していきたいと願っています。


第931話 2015/04/23

『二中歴』「年代歴」の武烈即位記事

 今朝の京都は快晴です。比叡山や大文字山は春霞でうっすらとしており、鴨川端のしだれ桜並木はすっかり葉桜に衣替えです。満開の桜や紅葉の京都、雪化粧の京都も美しいのですが、このような季節の変わり目の京都も風情があり、わたしは好きです。

 昨日に続き、『二中歴』がテーマです。『二中歴』所収「年代歴」に見える九州年号が最も原型に近いと判断されている理由の一つに、その九州年号が近畿天皇家の年号や記事とは別に記されており、各九州年号の下に付記された細注が九州王朝系記事と理解できることがあります。そして成立年代が他の九州年号群史料よりも古い(鎌倉初期)ことなどです。
 ところが、その細注に一見して近畿天皇家の天皇名と思われる記事があり、以前から不審に思っていました。次の記事です。

「善記四年 元壬寅同三年放誰(※)成始文 善記以前武烈即位」
 ※「放誰」の二字には草冠があります。

 この意味するところは、「九州年号の善記は4年間続き、元年干支は壬寅(522年)。善記3年に放誰が始めて文を成す。 善記以前に武烈が即位。」というものですが、「放誰が始めて文を成す」の意味はまだわかりません。注目されるのが「善記以前に武烈が即位」という記事です。普通に考えれば、近畿天皇家の武烈天皇が善記年間以前に即位したということですが、武烈の在位年は『日本書紀』によれば、499〜506年ですから、正確に表現すれば「善記以前」というよりも「継躰(九州年号、517〜521年)以前」とされるべきでしょう。しかも、なぜ武烈天皇の即位年に関する記事が細注に記されたのか、その理由もよくわかりません。そもそも、「年代歴」細注は近畿天皇家ではなく九州王朝系記事が記されていると考えられますから、ここだけ「武烈」という『日本書紀』成立以後に付けられた漢風諡号がなぜ存在するのかという合理的説明も困難です。
 わたしが十数年前に関西例会で発表したことですが、この「武烈即位」というのは近畿天皇家の武烈天皇ではなく、九州王朝にいた「武烈」という倭王の名前ではないかと考えています。『宋書』倭国伝などで明らかなように、この時期の九州王朝の倭王は中国風一字名称も名乗っていますから、この「武烈」という二字名称は不自然です。従って、この「武烈」というのは、倭王武と倭王烈の二人のことではないでしょうか。倭王武は『宋書』に「倭の五王」の最後の一人として見えますから、その次代の倭王が一字名称として烈を名乗っていたというアイデア(思いつき)です。
 この作業仮説(思いつき)は他に傍証がなく、「年代歴」細注は九州王朝系の記事という一点の論理性を突き詰めた結果ですので、仮説として提起することさえ怖いくらいです。今のところ、「古賀の思いつき」程度に受け止めておいて下さい。

 今朝は京阪電車で出町柳駅から大阪の淀屋橋駅に向かっています。もうすぐ到着です。大阪も好天で、出張日和の一日となりそうです。


第930話 2015/04/22

『二中歴』「人代歴」の建元記事

 九州年号群史料として最も優れている『二中歴』(鎌倉時代初頭の成立)には、九州年号が記されている「年代歴」が第二冊に収録されています。『二中歴』の最初である第一冊冒頭には「神代歴」があり、以下「人代歴」と続きます。今回、ご紹介するのは「人代歴」にある「建元記事」についてです。
 ご存知のように、年号のことを記した「年代歴」では「継躰」から始まる九州年号が「大化」まで記され、その後、近畿天皇家の「大宝」年号へと続く編成となっています。従って、九州年号の「継躰」が最初の年号という認識で編纂されています。これとは別に、神武天皇を先頭にして近畿天皇家の歴代天皇名が記されている「人代歴」には、次のような記事があります。

「継躰二十五 應神五世孫 此時年号始」

 この記事は「継躰天皇の在位は25年であり、応神天皇の五世の子孫である。このとき年号が始まる。」という意味ですが、「年代歴」と同様に、「人代歴」も九州年号が継躰天皇の時に始まった、すなわち建元されたという認識で編纂されているのです。ちなみに、『続日本紀』で「大宝」を建元したと記されている文武天皇については、「人代歴」に次のようにあります。

「文武治十一 天武太子 持統南宮 大寶三 慶雲四」

 意味するところは、「文武天皇の治世は11年 天武天皇の太子であり、持統天皇の南宮(皇太子か?)。大宝は3年間、慶雲は4年間」というもので、ここで初めて近畿天皇家の年号「大宝」「慶雲」が現れ、以下、歴代天皇名とその年号が記されます。このように『続日本紀』で「建元」とされた「大宝」を文武天皇の細注に記してはいるものの、「建元」や「初めて」といった注記はありません。
 このように、『二中歴』「人代歴」も九州年号が最初の年号であるという認識で編纂されていることがわかります。他方、第二冊に収録されている「都督歴」冒頭には「孝徳天皇大化五年三月」という記事が見え、『日本書紀』孝徳紀の「大化」年号が記されています。このように、『二中歴』は年号に関して異なった認識を持つ複数の編者により記されたという史料性格を持つことがわかります。従って、史料批判は少なくとも個別の「歴」毎に行う必要があります。
 この「人代歴」編者の認識は、我が国における「建元」(最初の年号)は九州年号の「継躰」であるということであり、このことから少なくとも鎌倉時代以前において、九州年号が最初の年号であり、実在していたとする認識が『二中歴』を読むようなインテリや官僚にとって「常識」であったことがうかがえます。九州年号が鎌倉時代以降に僧侶により偽作されたという九州年号偽作説が全く史料事実に反した、論証抜きの憶説であったことは明らかです。従って、九州年号偽作説は非学問的と言わざるを得ないのです。


第929話 2015/04/21

6月21日(日)、米田敏幸さんを迎え、

記念講演会開催済み

 今日は仕事で宝塚市仁川に行きました。途中、阪急梅田駅で乗り換え待ち時間がありましたので、紀伊国屋書店で時間つぶししました。もちろん古代史書籍コーナーに直行したのですが、『盗まれた「聖徳太子」伝承』も聖徳太子コーナーの書棚に並んでいました。『古代に真実を求めて』の他の号は置かれてなかったので、「聖徳太子」特集を前面に押し出したリニューアルの効果が、こうしたところにも出てきているようです。
 一昨日の「古田史学の会」の編集会議で、6月21日(日)開催予定の定期会員総会での記念講演講師を検討しました。今回は庄内式土器研究のスペシャリストである米田敏幸さんと正木裕さん(古田史学の会・全国世話人)のお二方に講演していただくこととなりました。米田さんからは庄内式土器の胎土研究の成果から、「邪馬台国」畿内説の考古学的根拠の一つとされてきた庄内式土器産地(中心地)が大和ではなかったことや、河内での考古学的出土状況などをお話しいただけることと思います。正木さんからは倭人伝の文献史学研究と「呉の年号鏡」研究の成果など、邪馬壹国と争った狗奴国について発表していただけます。
 いずれも、関西(銅鐸文明圏)にあった狗奴国研究において、今後の起点(問題提起)になるものと期待されます。多くの皆さんのご来場をお待ちしています。非会員の方も聴講できます。
 なお、お二人の講演録は、今秋発刊予定の『「邪馬台国」論争を超えて ・・邪馬壹国の歴史学』(仮称、古田史学の会編・明石書店刊)に収録を計画中です。こちらもご期待下さい。
記念講演会の詳細は後日改めてお知らせしますが、会場は「i-siteなんば」で、6月21日(日)午後1時に開演です。


第928話 2015/04/20

拡大する網野町銚子山古墳

 古田史学の会・会員の森茂夫さん(京丹後市網野町)からお便りが届きました。森さんは当地の日下部氏の末裔で、有名な「浦島太郎」の御子孫でもあり、系図も伝わっています(「洛中洛外日記」27・30話、森茂夫「浦島太郎の二倍年暦」『古田史学会報』53号・2002年12月を御参照下さい)。
 森さんからのお便りによると、当地にある日本海側最大の古墳として有名な銚子山古墳(前方後円墳)の従来の推定規模が誤っており、実際は200mを越す箸墓型古墳であるとのことです。現在の復元推定規模は全長198m、前方部幅80mで佐紀陵山(さきみささぎやま)タイプとされています。ところが、平成20年に古墳の専門家である奥村清一郎さん(当時、京都府立ふるさとミュージアム丹後の学芸員)が銚子山古墳測量図を精査した結果、全長207m、前方部幅110mの箸墓タイプ、より正確に言うと西殿塚(奈良県天理市)タイプというもので、全長が延び、両翼がせり上がりながらバチ状に開いていく美しい形状であることが判明しました。ちなみに従来説の佐紀陵山(さきみささぎやま)タイプはどちらかというと手鏡型に近い、前方部の両端があまり開かないタイプとされてきました。
 この精査された古墳測量図は25cm刻みの等高線を持つもので、かなり詳しく古墳の形状がわかります。わたしは古墳については専門外の素人ですが、測量図の後円部から前方部のくびれ部分を注視しますと、古墳の一段目のテラスが前方部へ外側に広がっていることがわかります(インターネットでも見ることができます)。それを延長すると前方部がバチ状に開く箸墓タイプと推定するのが自然です。逆に従来説のように佐紀陵山タイプに復元すると、テラスの幅を急激に狭くしなければならない上、前方部の幅を狭くする分だけ、墳丘の斜面が急勾配となり、後円部と比較して、かなり不自然な形状になります。
 後方部の先の部分が崩落などにより失われていますので、その部分の復元は現存している墳丘や他の同時代の古墳の形状と無理なく整合させる必要があり、この点、奥村さんの新説の方が従来説よりもはるかに有力な見解だと思います。
 この奥村新説は当地の教育委員会でも発表会が持たれ、注目を浴びたようですが、どういうわけかその後今日に至るまで「無視」されているとのこと。森さんは奥村さんを招いて講演会の開催を京丹後市の関係機関に二度にわたり訴えてきたとのことですが、これも実現されていません。ここでも旧説が居座り、新説を学問論争としてさえも受け入れない実体と何らかの裏事情があるのかもしれません。森さんの御奮闘を応援したいと思います。