日本国王子の囲碁対局の勝敗
『旧唐書』には日本国王子の囲碁対局の勝敗については記されていませんが、『杜陽雑編』(9世紀末成立)などに次のような逸話が残されています。
「皇帝の命で対局する顧師言はプレッシャーがかかる中、三十数手目に鎮神頭という妙手を打ち、勝ちました。日本国王子は唐の役人に顧師言は唐で何番目に強いのかとたずねると、三番目とのこと。実際は一番だったのですが、これを聞いた日本国王子は小国の一番は大国の三番に勝てないのかと嘆きました。」(古賀による要約)
この逸話が史実かどうかはわかりませんが、それほどの妙手で顧師言が勝ったのなら、『旧唐書』にそのことが記されてもいいように思いますので、後世に潤色されたものかもしれません。
日本列島に囲碁が伝来したのがいつ頃かはわかりませんが、『隋書』「イ妥国伝」には「棋博を好む]との記事が見えますから、その頃には九州王朝では囲碁が盛んだったと思われます。 『万葉集』(巻9、1732番・1733番)にも題詞に「碁師の歌二首」が見えます。ただしこの「碁師」の解釈については諸説あり、棋士のこととする見解は定説にはなっていないようですが、わたしは字義通り棋士とするのが真っ当な理解と考えています。(つづく)