2016年07月03日一覧

第1222話 2016/07/03

九州王朝説に突き刺さった三本の矢(2)

 「九州王朝説に突き刺さった三本の矢」とわたしが名付けた考古学的出土事実から、九州王朝説論者は逃げることはできません。自説に不利な事実やデータを無視したり軽視しすることは学問的態度ではないからです。これが九州王朝説論者同士の論争なら、「考古学についてはわからない」などと言って逃げられるかもしれませんが(本当は逃げられません)、大和朝廷一元史観論者に対しては「敗北宣言」に等しく、「他流試合」ではそうした「逃げ」や言いわけは全く通用しません。
 こうしたことを踏まえて、この「三本の矢」について具体的に、その持つ意味について説明します。最初に《一の矢》を考察します。

《一の矢》日本列島内で巨大古墳の最密集地は北部九州ではなく近畿である。

 この考古学的事実は「邪馬台国」畿内説の隠れた「精神的支柱」となっているようです。すなわち、弥生時代の遺跡や遺物(主に金属器)については北部九州にかなわないが、その後の古墳時代は圧倒的に畿内や近畿に巨大な前方後円墳が分布しており、だから弥生時代の「邪馬台国」も畿内にあったと考えてもよい、という「理屈」が「邪馬台国」畿内説論者や大和朝廷一元史観を支えているのです。
 この難題に対して九州王朝説論者からは、当時、朝鮮半島諸国と交戦していたのは大和朝廷ではなく九州王朝であり、だから戦時に巨大な古墳など造営できないのは当然であると説明や反論をしてきました。しかし、この説明は九州王朝説論者内部には説得力を有しますが、大和朝廷一元論者に対しては全く無力です。なぜなら、全国を統一支配していた大和朝廷は近畿に巨大古墳を造営するだけの富と権力を持っており、大和朝廷の命令で朝鮮半島に出兵させられていた北部九州の豪族に巨大古墳を造れないのは当然と彼らは考えているからです。
 ですから九州王朝説を持ち出さなくても一元史観で説明可能であり、むしろ巨大古墳が近畿に濃密分布しているという事実そのものからは、北部九州よりも近畿に日本列島を代表する王朝があったとする理解を否定できないのです。この論理性はかなり頑固で強力であることを、九州王朝説論者はまず認識する必要があります。
 その上で、この近畿に巨大古墳が濃密分布するという事実を、九州王朝説の立場から合理的に説明しようとする試みが、「古田史学の会」関西例会で服部静尚さんが果敢に挑戦されており、わたしは期待を持ってそれを見守っている状況です。(つづく)


第1221話 2016/07/03九州王朝説に突き刺さった三本の矢(1)

九州王朝説に突き刺さった三本の矢(1)

 わたしたち古田学派にとって九州王朝の実在は自明のことですが、実は九州王朝説にとって今なお越えなければならない三つの難題があります。しかし残念ながらほとんどの研究者はその問題の重要性に気づいていないか、あるいは曖昧に「解釈」しているようで、ごく一部の研究者だけがその難題に果敢に挑戦してます。
 わたしはそれを「九州王朝説に突き刺さった三本の矢」と表現していますが、7月23日(土)に東京家政学院大学で開催する『邪馬壹国の歴史学』出版記念講演会でこの問題を取り上げますので、それに先だってこの「三本の矢」について説明することにします。
 「九州王朝説に突き刺さった三本の矢」とは次の三つの「考古学的出土事実」のことです。

《一の矢》日本列島内で巨大古墳の最密集地は北部九州ではなく近畿である。
《二の矢》6世紀末から7世紀前半にかけての、日本列島内での寺院(現存、遺跡)の最密集地は北部九州ではなく近畿である。
《三の矢》7世紀中頃の日本列島内最大規模の宮殿と官衙群遺構は北部九州(太宰府)ではなく大阪市の前期難波宮であり、最古の朝堂院様式の宮殿でもある。

 7月23日(土)の東京講演会では《三の矢》に関してのシンポジウムも開催しますので、ふるってご参加ください。(つづく)