2017年09月02日一覧

第1493話 2017/09/02

須恵器窯跡群の多元史観(4)

 朝鮮半島から陶質土器がもたらされ、初期須恵器が国内各地で造られたました。その初期須恵器窯跡の分布を見て、不思議なことに気づきました。初期須恵器窯は福岡県朝倉を筆頭に大阪府の陶邑窯や吹田窯、そして名古屋の東山窯など西日本に主に分布しているのですが、東日本には関東を飛び越えて仙台の大蓮寺窯が発見されています。これは実に不思議な分布状況ではないでしょうか。
 この大蓮寺窯跡は東北地方最古の須恵器窯跡とされ、古墳時代中期中頃(5世紀中頃)と編年されています。今後は関東からも初期須恵器窯跡が発見されるかもしれませんが、大蓮寺窯跡は陶邑窯跡の流れとする説や朝鮮半島から直接この地にもたらされた可能性を指摘する説があります。いずれにしても、大和朝廷一元史観による従来の解釈、すなわち陶邑に伝わった須恵器製造技術が日本各地に伝播したとする一元説では説明しにくく、多元的に国内各地に初期須恵器窯が成立したとする理解が有力説として登場しているようです。
 しかし、わたしの目から見るとこの初期須恵器窯多元説でも、なぜ東北地方の仙台にいち早く伝わったのかという説明がなされておらず、大和朝廷一元史観に基づく解釈を常とする考古学界の限界を感じます。古田史学・多元史観によりこの分布状況を解釈すれば、古墳時代中期において列島各地に多元的に王朝・王権が存在しており、まず九州王朝に伝わった須恵器製造技術が各地の王権に伝播したと理解するのが穏当と思われます。そのように考えると、近畿の王権(近畿天皇家あるいは冨川ケイ子さんが提唱された「河内王朝」)へ伝わったのが陶邑窯跡群であり、蝦夷国に伝わったのが仙台市の大蓮寺窯跡ではないでしょうか。
 この考えを更に敷衍すると、その論理展開として埼玉県の稲荷山古墳出土鉄剣銘等に代表される関東王朝の地からも初期須恵器窯跡が発見されるのではないかと考えています。すなわち初期須恵器窯多元説とは多元史観(多元的王朝の成立)を前提とした考古学的理解なのです。(つづく)


第1492話 2017/09/02

須恵器窯跡群の多元史観(3)

 須恵器は古墳時代中期に朝鮮半島の陶質土器がもたらされ、その製造技術や工人が渡来し初期須恵器が国内各地で造られたと考えられています。そしてその初期須恵器が最初に造られたのが福岡県の小隈窯跡とする見解があることを紹介しました。
 従来は堺市の陶邑窯跡群が国内最古とされてきましたが、さすがに朝鮮半島から瀬戸内海を通過して、その間の他地域には目もくれず一直線に畿内に向かい、陶邑窯跡群が造営されたとするのは言いにくくなったようです。しかし強固な一元史観論者からは様々な解釈(いいわけ)が試みられているようです。いわく、「中央政権(大和朝廷)と朝鮮半島諸国の太いパイプにより、直接的に陶邑に須恵器製造技術がもたらされた」というような解釈です。ものは言いようと、わたしは感じました。その一例を紹介します。

 「地理的要因とは別に、こうした生産工人集団は東をめざし、大阪湾に直進している。そして生産を開始した。この事実は、北部九州のあり方とは基本的に異なる。瀬戸内海の東端を目的地として目指したのであり、不目的な漂流の結果ではない。恐らく、中央政権ないしは関連する中央豪族と深く関係していたことは、先学の説くところであり、そのあり方は、陶邑窯における後の展開に大きく現れてくる。」(226頁)
 「窯成立のルートとして、北部九州→三谷三郎池西岸窯→吹田32号窯→陶邑窯・一須賀2号窯と藤原氏は描くが、筆者は前述したように、第1に朝鮮半島→陶邑窯の太いルートを前提として考えたい。その過程で三谷三郎池西岸窯・吹田32号窯・一須賀2号窯への同時到着、あるいは折り返しを想定する。もちろん漂着等による偶発的な開窯も否定できないが、各港々にそうした偶然は不自然である。」(227頁)
 植野浩三「日本における初期須恵器生産の開始と展開」『奈良大学紀要』第21号(1993年)

 こうした植野さんの理解は、わたしたち多元史観・九州王朝説論者からは強引な解釈と見えますが、現在の古代史学界の通説“大和朝廷一元史観”に従えばこのように解釈せざるを得ず、考古学者の植野さん一人を責めるのは酷のようにも思えます。大和朝廷一元史観という日本古代史学界の「岩盤規制」を打ち破ることは、古田学派にしか成し遂げられない歴史的使命だとわたしは考えています。(つづく)