2017年11月05日一覧

第1536話 2017/11/05

古代の土器リサイクル(再利用)

 ちよっと理屈っぽいテーマが続きましたので、今回はソフトなテーマで土器のリサイクル(再利用、正確にはリユースか)についてご紹介します。
 同時代九州年号金石文に「大化五子年」土器(茨城県坂東市・旧岩井市出土)があります。当地の考古学者に鑑定していただいたところ、次の二つのことがわかりました。一つは、当地の土器編年によれば西暦700年頃の土器であるということで、『日本書紀』の大化5年(649)ではなく、九州年号の大化5年(699)に一致しました。もう一つは、同土器は煮炊きに使用された後、頸部を割って骨蔵器として再利用されているとのこと。この土器再利用は当地の古代の風習だったそうです。
 日常的に使用した土器を骨蔵器に再利用されていることと、その際に頸部を割るという風習を興味深く思いました。頸部を割ることにより、現在の骨壺の形に似た形状になることも偶然の一致ではないように思われました。こうした土器の頸部を割って骨蔵器として再利用するのは古代関東地方の風習かと思っていたのですが、最近読んだ榎村寛之著『斎宮』(中公新書、2017年9月)に次のような説明と共にその写真が掲載されていました。

 「斎宮跡から五キロメートルほど南にある長谷町遺跡で発見された十世紀の火葬墓では、当時としては高級品である大型の灰釉陶器長頸瓶の頸部を打ち欠いて転用した骨蔵器が出土し、なかから十八〜三十歳くらいの女性の骨が見つかっている。」(183頁)

 斎宮に奉仕した女官の遺骨と思われますが、「大化五子年」土器と同様に頸部を割って再利用するという風習の一致に驚きました。他の地域にも同様の例があるのでしょうか。興味津々です。
 ところで「大化五子年」土器は、今どうなっているのでしょうか。貴重な金石文だけに心配です。


第1535話 2017/11/05

古田先生との論争的対話「都城論」(5)

 「難波長柄豊碕宮」についての古田説を説明してきましたが、わたしの副都説の本質は前期難波宮を九州王朝説ではどのように理解し、位置づけるのかにあります。すなわち、7世紀中頃の宮殿としてはけた違いに大規模で(7世紀末に近畿天皇家の藤原宮が完成するまでは日本最大)、日本初の中国風の朝堂院様式の前期難波宮を倭国(九州王朝)の天子の宮殿とするのか、その配下の近畿天皇家(孝徳天皇)の宮殿とするのかという問題です。この問題を明確にするために次の四つの問いを示し、それを最もよく説明できる答えを反対される方々に求めてきました。

1.前期難波宮は誰の宮殿なのか。
2.前期難波宮は何のための宮殿なのか。
3.全国を評制支配するにふさわしい七世紀中頃の宮殿・官衙遺跡はどこか。
4.『日本書紀』に見える白雉改元の大規模な儀式が可能な七世紀中頃の宮殿はどこか。

 通説と古賀説の「解答例」を記し、難波朝廷博多湾岸説による「解答」も考察してみます。

〔解答例1・通説〕
1.孝徳天皇の難波長柄豊碕宮。
2,大和朝廷が全国を評制統治するための宮殿。
3,前期難波宮と周囲の官衙群、あるいは飛鳥宮。
4.諸説あるが未定。

〔解答例2・古賀説〕
1.九州王朝の天子の宮殿。
2.九州王朝が全国を評制統治するための宮殿(副都)。
3.前期難波宮と周囲の官衙群。前期難波宮焼失後は太宰府(首都)か。
4.前期難波宮。

 難波朝廷博多湾岸説の解答例は次のようになると考えられます。

〔解答例3・難波朝廷博多湾岸説〕
1.『日本書紀』に記されていない近畿天皇家の宮殿。
2.不明。
3.博多湾岸の愛宕神社にあった難波朝廷(別宮)で評制樹立。「奥宮」は太宰府。
4.不明。(古田先生から直接お聞きしたご意見は別に詳述します)

 このような「解答」が難波朝廷博多湾岸説では想定できます。わたしから見ると、それぞれの説に一長一短があり、通説では4が、難波朝廷博多湾岸説では2と4の答えが導き出せないように思われます。わたしの副都説にも説明しにくい弱点があります。その理由は各説の持つ論理構造にあります。(つづく)