2019年01月25日一覧

第1829話 2019/01/25

難波から出土した「筑紫」の土器(1)

 前期難波宮九州王朝副都説にとって超えなければならない〝壁〟があります。この仮説を古田先生に最初に報告したとき、九州王朝の副都であれば神籠石山城など九州王朝との関係を裏付ける考古学的証拠が必要とのご指摘をいただきました。それ以来、古田先生の指摘はわたしにとっての宿題となり、今日まで続いています。更に、難波に九州王朝が副都を置くと言うことは、その地が九州王朝にとっての安定した支配領域であることが必要ですが、そのことについては文献史学の研究により既にいくつかの根拠が見つかっています。
 一例をあげれば、『二中歴』年代歴に見える九州年号「倭京」の細注の「倭京二年、難波天王寺を聖徳が建てる」という記事があります。九州王朝が倭京二年(619)に聖徳(利歌彌多弗利か)という人物が難波に天王寺を建立したという記事ですが、大阪歴博の調査により創建四天王寺の造営年が出土瓦の編年により『日本書紀』の記述とは異なり、620〜630年頃と編年されており、これが『二中歴』の細注記事と対応しています。このことから七世紀前半の難波は九州王朝が天王寺を建立できるほどの深い繫がりがあることを示しています。
 他方、考古学的痕跡として難波から「筑紫の須恵器」が出土していることが大阪歴博の寺井誠さんにより報告されています。そのことを下記の「洛中洛外日記」で紹介しました。抜粋して転載します。(つづく)

第224話 2009/09/12
「古代難波に運ばれた筑紫の須恵器」
(前略)
 前期難波宮は九州王朝の副都とする説を発表して、2年ほど経ちました。古田史学の会の関西例会では概ね賛成の意見が多いのですが、古田先生からは批判的なご意見をいただいていました。すなわち、九州王朝の副都であれば九州の土器などが出土しなければならないという批判でした。ですから、わたしは前期難波宮の考古学的出土物に強い関心をもっていたのですが、なかなか調査する機会を得ないままでいました。ところが、昨年、大阪府歴史博物館の寺井誠さんが表記の論文「古代難波に運ばれた筑紫の須恵器」(『九州考古学』第83号、2008年11月)を発表されていたことを最近になって知ったのです。
 それは、多元的古代研究会の機関紙「多元」No.93(2009年9月)に掲載された佐藤久雄さんの「ナナメ読みは楽しい!」という記事で、寺井論文の存在を紹介されていたからです。佐藤さんは「前期難波宮の整地層から出土した須恵器甕について、タタキ・当て具痕の比較をもとに、北部九州から運ばれたとする。」という『史学雑誌』2009年五月号の「回顧と展望」の記事を紹介され、「この記事が古賀仮説を支持する考古学的資料の一つになるのではないでしょうか。」と好意的に記されていました。(後略)

第243話 2010/02/06
前期難波宮と番匠の初め
(前略)
 寺井論文で紹介された北部九州の須恵器とは、「平行文当て具痕」のある須恵器で、「分布は旧国の筑紫に収まり、早良平野から糸島東部にかけて多く見られる」ものとされています。すなわち、ここでいわれている北部九州の須恵器とは厳密にはほぼ筑前の須恵器のことであり、九州王朝の中枢中の中枢とも言うべき領域から出土している須恵器なのです。
 この事実は重大です。何故なら、土器だけが難波に行くわけではなく、当然糸島博多湾岸の人々の移動に伴って同地の土器が難波にもたらされたはずです。そうすると九州王朝中枢領域の人々が前期難波宮の建築に関係したこととなり、九州王朝説に立つならば、前期難波宮は孝徳の王宮などでは絶対に有り得ません。
 何故なら、もし前期難波宮が通説通り孝徳の王宮であるのならば、九州王朝は大和の孝徳のために自らの王宮、たとえば「太宰府政庁」よりもはるかに大規模な宮殿を自らの中枢領域の工人達に造らせたことになるからです。こんな馬鹿げたことをする王朝や権力者がいるでしょうか。九州王朝説に立つ限り、こうした理解は不可能です。寺井氏が指摘した考古学的事実を説明できる説は、やはり九州王朝副都説しかないのです。
 しかも、九州王朝の工人たちが前期難波宮建設に向かった史料根拠もあるのです。その史料とは『伊予三島縁起』で、この縁起は九州年号が多用されていることで、以前から注目されているものです。その中に「孝徳天王位。番匠初」という記事があり、孝徳天皇の時代に番匠が初まるという意味ですが、この番匠とは王都や王宮の建築のために各地から集められる工人のことです。この番匠という制度が孝徳天皇の時代に始まったと主張しているのです。すなわち、九州から前期難波宮建設に集められた番匠の伝承が縁起に残されていたのです。「番匠の初め」という記事は『日本書紀』にはありませんから、九州王朝の独自史料に基づいたものと思われます。
 このように寺井論文が指摘した糸島博多湾岸の須恵器出土と『伊豫三嶋縁起』の「番匠の初め」という、考古学と伝承史料の一致は、強力な論証力を持ちます。ちなみに、『伊豫三嶋縁起』の「番匠の初め」という記事に着目されたのは正木裕さん(古田史学の会会員)で、古田史学の会関西例会で発表されました。(後略)