7世紀「天皇」号の新・旧古田説(7)
これまでに紹介したように、7世紀後半頃に飛鳥の地で「天皇」号を称していた天武らが「詔」を発していたことが飛鳥池出土木簡により明らかとなりましたが、どのような内容の詔勅なのかまでは木簡からはわかりません。他方、同時代金石文によれば臣下に冠位官職を授けていることがわかり、天武らは事実上のナンバーワン「天皇」として振る舞う権力者であったことをうかがわせます。
たとえば「釆女氏榮域碑」に「飛鳥浄原大朝庭大弁官直大貳采女竹良卿」とあるように、「飛鳥浄原大朝庭」の「大弁官」である「采女竹良卿」の冠位が「直大貳」とされています。このことから、「飛鳥浄原大朝庭」には「大弁官」という役職があり、「直大貳」という冠位が授けられていたことがわかります。この冠位は『日本書紀』天武十四年条(685年)に制定記事があり、金石文と文献の内容が対応しています。
また、京都市出土の「小野毛人墓誌」には次の銘文があり、「丁丑年」(天武六年、677年)に没した小野毛人は「飛鳥浄御原宮治天下天皇」(天武天皇)に「太政官」として仕え、冠位は「大錦上」とされています。この冠位も『日本書紀』によれば、664〜685年の期間のもので、金石文と文献が対応しています。
○「小野毛人金銅板墓誌」
※明治31年に京都市左京区崇道神社裏山から出土。
〔表〕
飛鳥浄御原宮治天下天皇 御朝任太政官兼刑部大卿位大錦上
〔裏〕
小野毛人朝臣之墓 営造歳次丁丑年十二月上旬即葬
ここに見える「飛鳥浄御原宮」も、これまでの史料根拠(エビデンス)に基づく論証から、「釆女氏榮域碑」の「飛鳥浄原大朝庭」と同じ大和「飛鳥」の宮殿と考えるほかありません。そして「小野毛人墓誌」にも九州年号が使用されていないことは留意が必要です。(つづく)