2020年03月17日一覧

第2114話 2020/03/17

蘇我氏研究の予察(4)

 『日本書紀』の七世紀前半頃の「蘇我氏」関連記事には九州王朝・多利思北孤の重臣「葛城臣」の事績転用部分と本来の近畿天皇家の重臣「蘇我氏」の事績部分が混在しており、それらを分別する学問的方法論の確立が必要と、わたしは考えているのですが、実は事態はもっと複雑です。というのも、九州王朝にも重臣としての「蘇我臣」が存在した史料痕跡があるからです。
 「洛中洛外日記」655話(2014/02/02)〝『二中歴』の「都督」〟、777話(2014/08/31)〝大宰帥蘇我臣日向〟でも紹介しましたが、『二中歴』「都督歴」に次の記事が見えます。

 「今案ずるに、孝徳天皇大化五年三月、帥蘇我臣日向、筑紫本宮に任じ、これより以降大弐国風に至る。藤原元名以前は総じて百四人なり。具(つぶさ)には之を記さず。(以下略)」(古賀訳)

 鎌倉時代初期に成立した『二中歴』の「都督歴」には、藤原国風を筆頭に平安時代の「都督」64人の名前が列挙されていますが、それ以前にいた「都督」の最初を孝徳期の「大宰帥」蘇我臣日向としているのです。九州王朝が評制を施行した7世紀中頃、筑紫本宮で大宰帥に任(つ)いていたのが蘇我臣日向ということですから、蘇我氏は九州王朝の臣下ナンバーワンであったことになります。また、この「筑紫本宮」という表記は、筑紫本宮以外の地に「別宮」があったことが前提となる表記ですから、その「別宮」とは前期難波宮(難波別宮)ではないかとわたしは考えています。
 このように『二中歴』によれば、近畿天皇家の蘇我氏とは別に、九州王朝にも「蘇我臣」がおり、重用されていたこととなりますから、『日本書紀』には、近畿天皇家の「蘇我氏」関連記事、九州王朝の重臣「葛城臣」と「蘇我臣」の転用記事が混在している可能性があります。従って、この三者を分別する学問的方法論が必要と思われ、九州王朝説に基づく蘇我氏研究は一筋縄ではいかないと思われるのです。
 このような視点と理由により、古田学派内での従来の蘇我氏研究について、「わたしの見るところ、失礼ながらいずれの仮説も論証が成立しているとは言い難く、自説に都合のよい記事部分に基づいて立論されたものが多く、いわば『ああも言えれば、こうも言える』といった研究段階に留(とど)まってきました。」との辛口の批評をせざるを得なかったわけです。『日本書紀』に留まることなく、九州王朝系史料に基づいた多元的「蘇我氏」研究の本格的幕開けを期待しています。(おわり)


第2113話 2020/03/17

蘇我氏研究の予察(3)

 蘇我氏と「葛城」に深い関係があるように『日本書紀』が編纂されたのは、九州王朝の天子、多利思北孤の事績を「聖徳太子」記事として転用し、同時に多利思北孤の重臣「葛城臣」の事績も「蘇我氏」記事に転用するためではなかったかと、わたしは予察しているのですが、その根拠として次の論理性と史料状況があげられます。

①『日本書紀』編者は、九州王朝の天子、阿毎多利思北孤やその太子、利歌彌多弗利の事績を『日本書紀』に転用する際、同時代の近畿天皇家内の人物「聖徳太子」(厩戸皇子)に〝横滑り〟させている。
②従って、多利思北孤の重臣「葛城臣」の事績も、同事態の近畿天皇家の重臣「蘇我氏」に〝横滑り〟させていると考えられる。
③そのことを支持するように、蘇我氏と「葛城」とを関連付ける記事(蘇我馬子が葛城県を祖先の地として永久所有権を推古天皇に要請し、拒否される)が「聖徳太子」の時代、推古紀(32年条、624年)に現れている。
④この理解が正しければ、推古紀32年条の「葛城県、永久所有権申請」記事も、本来は九州王朝の天子、多利思北孤にその重臣「葛城臣」が北部九州の「葛城県」の「永久所有権」を「申請」した記事の転用と考えることができる。
⑤この考えを支持するかのように、「聖徳太子」の伝記『聖徳太子伝暦』推古天皇二十九年条の「葛城寺」注文に「蘇我葛木臣」と、近畿天皇家の「蘇我氏」と「葛木臣」を習合させた表記が見える。

 以上の予察(論証)によるならば、『日本書紀』の七世紀前半頃の「蘇我氏」関連記事には九州王朝・多利思北孤の重臣「葛城臣」の事績転用部分と本来の近畿天皇家の重臣「蘇我氏」の事績部分が混在していることになるので、それらを分別する学問的方法論の確立が必要となります。(つづく)