2021年01月24日一覧

第2357話 2021/01/24

市大樹著『飛鳥の木簡』

  の「天皇」「皇子」写真

 前話の〝『飛鳥宮跡出土木簡』で「皇子」検証〟で、〝同木簡を実見された市大樹さんら研究者の書籍や論文を根拠に、近畿天皇家の「皇子」木簡出土は疑えない〟と述べましたが、そのことについて詳しく説明します。

 市大樹(いち ひろき)さん(大阪大学教授)の名著『飛鳥の木簡』(注①)には巻頭のカラー写真に「天皇」「皇子」木簡が掲載されています。わたしはその写真などを見て、飛鳥遺跡(七世紀後半)からは「天皇」「皇子」木簡が出土しており、当時の近畿天皇家(天武・持統)が「天皇」を称していたと考えざるを得ず、その位置づけは九州王朝の天子の配下としての〝ナンバー2〟天皇であるとしました。これは古田旧説であり、先生が晩年に唱えられた〝近畿天皇家は八世紀の文武から天皇を称した。七世紀の木簡や金石文に見える「天皇」は全て九州王朝の天子の別称〟とする古田新説は成立困難としました(注②)。
『飛鳥の木簡』に掲載された写真の「天皇」「皇子」木簡(飛鳥池遺跡出土)釈文などが次のように紹介されています。

○「大伯皇子宮物 大伴□・・・□品併五十□」
〝冒頭の「大伯皇子(おおくのみこ)は、天武天皇と大田皇女との間に生まれた「大伯皇女」である。皇女だが「皇子」と記すのは、当時、天皇の子女は男女を問わず「ミコ」と呼ばれたことによる。(中略)
天武天皇の皇子の名前が書かれた木簡は、さらに二点ある。一点目は笠のある釘形の木製品で、軸部に「舎人皇子□」、その反対面に「百七十」とある。【口絵7】。(中略)もう一点が、両面に「穂積皇子(ほづみのみこ)」と記された木簡である。〟同書、121~122頁。

○「天皇聚□弘寅□」
〝(飛鳥池遺跡)北地区からは「天皇聚□弘寅□」と書かれた木簡も出土している。【口絵5】。現在、「天皇」と書かれた日本最古の木簡である。この「天皇」が君主号のそれなのか、道教的な文言にすぎないのか、何とも判断がつかない。もし君主号であれば、木簡の年代からみて、天武天皇を指す可能性が高い〟同書、146頁。

 『飛鳥の木簡』巻頭の口絵(カラー写真)を見ますと、「天皇」木簡は明晰に文字が見え、釈文の通りです。「大伯皇子」木簡は「大伯」の部分が不鮮明ですがなんとか読めます。恐らく赤外線写真ではもっとはっきりと読めるはずです。「舎人皇子」木簡は写真の文字が小さくて「舎人皇子□」は判断が困難です。その反対面の「百七十」はなんとか確認できます。

 そこで、奈良文化財研究所の木簡データベース掲載の「舎人皇子」木簡写真を拡大して見ると、「舎」「皇」は確認できました。反対面の「百七十」は明晰です。「穂積皇子」は「穂積」は確認できますが、「皇子」はそう言われればそう読めるというレベルでした。しかし、木簡調査の専門家が実物を見て、「穂積皇子」と判断していますから、赤外線写真などでも確認の上でのことと思われ、その判断を否定できる根拠(別の文字であるという痕跡)は見いだせません。

 以上のように、奈良文化財研究所や市さんによる飛鳥池出土の「天皇」「皇子」木簡の釈文は妥当なものと解さざるを得ません。九州王朝説への有利不利とは関係なく、飛鳥出土木簡は古田学派の研究者にとっても正面から取り組むべき対象です。古田史学・多元史観が正しければ、そこから新たな展開が見えてくるはずですから。

(注)
①市 大樹『飛鳥の木簡 ー古代史の新たな解明』中公新書 2012年。
②古賀達也「七世紀の『天皇』号 ―新・旧古田説の比較検証―」、『多元』155号、2020年1月。この拙稿で、古田旧説を支持する七世紀以前の次の史料に見える「天皇」を紹介した。その後、服部静尚氏より「法隆寺薬師仏光背銘」は後代追刻の疑いがあり、七世紀前半の銘文とはできないとする批判をいただいた。この点、留意したい。
○五九六年 元興寺塔露盤銘「天皇」(奈良市、『元興寺縁起』所載。今なし)
○六〇七年 法隆寺薬師仏光背銘「天皇」「大王天皇」(奈良県斑鳩町)
○六六六年 野中寺弥勒菩薩像台座銘「中宮天皇」(大阪府羽曳野市)
○六六八年 船王後墓誌「天皇」(大阪府柏原市出土)
○六七七年 小野毛人墓誌「天皇」(京都市出土)
○六八〇年 薬師寺東塔檫銘「天皇」(奈良市薬師寺)
○天武期 木簡「天皇」「舎人皇子」「穂積皇子」「大伯皇子」「大津皇」(奈良県明日香村飛鳥遺跡出土)
○六八六・六九八年 長谷寺千仏多宝塔銅板「天皇」(奈良県桜井市長谷寺)