「倭の五王」時代(5世紀)の考古学(3)
須恵器窯跡群、筑後・肥後・豊後「空白の5世紀」
「倭の五王」の王都を筑後とする仮説(注①)をわたしは発表していますが、それは主に文献史学の研究によるものでした。他方、考古学的にはその王宮にふさわしい5世紀の遺構が当地からは出土しておらず、また王都に大量に供給したであろう土器(須恵器)の窯跡群が筑後地方に現れるのは6世紀の八女窯跡群からであり、5世紀の窯跡群は見当たらないようなのです。こうした考古学的遺構の未発見という弱点を持つ仮説でもありました。そこで、今回は北部九州における須恵器窯跡群について紹介し、「倭の五王」の王都について改めて検討することにします。
石木秀哲さんの「西海道北部の土器生産 ~牛頸窯跡群を中心として~」(注②)に掲載された、5~9世紀における北部九州における須恵器窯跡群の変遷表によれば、「倭の五王」時代(5世紀)の須恵器窯跡群が筑後・肥後・豊後にはなく、肥前(神籠池窯跡・後期)と豊前(居屋敷窯跡・中期)はそれぞれ一カ所だけで、活動時期は5世紀の一時期となっています。筑前は五カ所と多いのですが、太宰府に須恵器を供給した九州最大の牛頸(うしくび)須恵器窯跡群(注③)の活動は6世紀からであり、6世紀末から7世紀初頭に急拡大します。他方、わたしの研究では太宰府が九州王朝の首都として成立するのは7世紀初頭(九州年号「倭京元年」618年)からです(通説では7世紀末)。従って、牛頸須恵器窯跡群の発生と太宰府条坊都市の造営・活動時期と対応しています(注④)。
このような北部九州の須恵器窯跡群の活動時期という視点からは、太宰府を5世紀の「倭の五王」の王都とすることは困難です。5世紀の前期から中期・後期の間、継続して須恵器を製造した窯跡群は筑前夜須郡の小隈・山隈・八並窯跡群だけなのです。筑後川北岸部に位置する同窯跡群は日本列島中最古の須恵器窯跡の可能性があると見られています(注⑤)。この考古学的出土事実を重視すれば、「倭の五王」の王都はこの地域か近隣地域と考えることができます。筑後川を渡河すれば筑後への提供がそれほど困難ではありませんから、王都の候補地は筑後川北岸の夜須郡・朝倉郡と南岸の浮羽郡・三井郡・三潴郡となります。(つづく)
(注)
①古賀達也「九州王朝の筑後遷宮 ―高良玉垂命考―」『新・古代学』第4集、新泉社、1999年。
②石木秀哲「西海道北部の土器生産 ~牛頸窯跡群を中心として~」『徹底追及! 大宰府と古代山城の誕生 ―発表資料集―』(2017年2月、「九州国立博物館『大宰府学研究』事業、熊本県『古代山城に関する研究会』事業、合同シンポジウム」資料集)
③牛頸須恵器窯跡群は、堺市の陶邑窯跡群、名古屋の猿投山(さなげやま)窯跡群と並んで、古代日本の三大須恵器窯跡群とされる。
④古賀達也「洛中洛外日記」1363話(2017/04/05)〝牛頸窯跡出土土器と太宰府条坊都市〟において、次のように論じた。
〝牛頸窯跡群は6世紀末から7世紀初めの時期に窯の数は一気に急増するとあり、まさにわたしが太宰府条坊都市造営の時期とした7世紀初頭(九州年号「倭京元年」618年)の頃に土器生産が急増したことを示しており、これこそ九州王朝の太宰府遷都を示す考古学的痕跡と考えられます。
また7世紀中頃に編年されているⅤ期に牛頸での土器生産が減少したのは、前期難波宮副都の造営に伴う工人(陶工)らの移動(「番匠」の発生)の結果と理解することができそうです。〟
⑤中村浩『須恵器』柏書房、1990年。
中村浩『古墳時代須恵器の編年的研究』柏書房、1993年。