「倭の五王」時代(5世紀)の考古学(6)
―西都原古墳群の事実と解釈―
九州王朝説にとって、「倭の五王」時代(5世紀)における〝不都合な事実〟の中でも、わたしが最も深刻に感じたのは、全国屈指の規模とされる西都原古墳群の存在でした。河内や大和の巨大古墳群の存在に対しては、これまで古田学派の解釈は次のようなものでした。
(1)中国史書に見える倭国とは北部九州の九州王朝のことである。
(2)従って、高句麗や新羅と戦っていた倭国とは九州王朝である。
(3)長期にわたり戦争を続けていた九州王朝に巨大古墳を造り続けることはできない。
(4)九州王朝があった北部九州に巨大古墳群がないのは当然であり、むしろ倭国が九州王朝であったことを証明している。
(5)この点、巨大古墳群がある河内や近畿の勢力(後の大和朝廷)は高句麗や新羅とは戦っていなかったことの反映であり、倭国を大和朝廷のこととする通説が間違っていることを示している。
この理解は妥当と思いますが、通説論者への説得力としては十分ではありません。というのも、〝国内最大規模の古墳群を造営できるのは国内最大の権力者であり、それを大和朝廷(倭国)とすることは最も有力な理解である〟という主張を否定しにくいからです。また、〝北部九州の権力者が高句麗や新羅と戦ったのは、大和朝廷の命令によりなされたもの〟という通説も簡単には揺らぎません。
西都原古墳群にも同様の解釈により、日向地方の勢力は参戦していなかったので巨大古墳群造営が可能だったという説明ができないこともないのですが、次のような問題があります。
(ⅰ)倭王武の上表文によれば、倭国の領域は九州全域が含まれていると考えられ、その中で西都原だけが巨大古墳造営が許された理由が不明である。
(ⅱ)日向の勢力が参戦しなかった理由を説明できない。
(ⅲ)西都原古墳群に次いで隣国の大隅にも唐仁古墳群が登場するが、南九州での巨大古墳造営の背景について説明できていない。
このような〝なぜ西都原の巨大古墳が「倭の五王」の時代(五世紀)に登場したのか〟という疑問に、わたしたち古田学派は説得力ある説明に成功していません。(つづく)