近畿の古墳時代開始の古田説と関川説
「倭の五王」研究においては、文献史学と考古学の双方の整合と両立が不可欠です。特に考古学においては、古墳時代の編年の問題を避けては語れません。この点、古田学派の研究動向をみると、考古学分野の論考が残念ながら充分とはいえません。何よりも、わたし自身の勉強不足を痛感してきたからです。そうしたこともあって、元橿原考古学研究所員の関川尚巧さんの『考古学から見た邪馬台国』(注①)はとても勉強になっています。
同書をもう十回近くは読みましたが、面白いことに気づきました。それは古田先生の見解と重要な部分で一致、あるいは対応しているケースが散見されることでした。一例をあげれば、近畿(畿内)における古墳時代の開始年代が一致しているのです。それは次の通りです。
「洛中洛外日記」で紹介してきたところですが、関川さんは最古の大型前方後円墳とされる箸墓古墳の造営年代について次のように述べられています。
〝最古の大型前方後円墳である箸墓古墳の年代というものは、実際の所、前期後半とされる4世紀後半頃より大きく遡ることは考えられないということになる。〟『考古学から見た邪馬台国』131頁
古田先生は『ここに古代王朝ありき』(注②)で、次のように説明されています。
〝噂はともあれ、確かなこと、それは”近畿の「弥生中期」「弥生後期」は九州の「弥生中期」「弥生後期」よりもおくれている”――この事実だ。そのことは当然、次のことを意味するであろう。”近畿の古墳時代の開始は、九州の古墳時代よりもおくれているのではないか”という問いだ。
(中略)
そしてそのことは、近畿における古墳時代の開始は、右の三一六年よりもあとに、ずれおちることを意味する。つまり、近畿における古墳時代の開始は、早くても、四世紀中葉を遡らない、ということになるのである。〟『ここに古代王朝ありき』251頁
表現は若干異なりますが、両者とも従来説とは異なる視点により、近畿(畿内)の古墳造営開始を四世紀前半頃とされています。古田先生の著作は昭和五四年(1979)のものですから、四十年以上も前の論理的考察結果が、最新の橿原考古学研究所による考古学的発掘事実に基づいた、関川さんの見解にほぼ一致していることに驚きました。
この一致は、ただ単に近畿(畿内)の古墳時代の開始年代にとどまるものではありません。というのも、古田先生は続いて次の重要問題を提起されているからです。
〝このことは一体、何を意味するか。――すなわち、応神ー仁徳ー履中ー反正ー允恭ー安康ー雄略の各「天皇陵」を、五世紀の倭の五王と結びつけてきた、あの時間帯の定点――考古学上の根本定式の崩壊である。〟『ここに古代王朝ありき』252頁
このように「倭の五王」を考古学的に検証するにあたり、古墳時代編年そのものから検証し、論じなければなりません。これにはかなりの研鑽が必要となります。本年11月に開催される八王子セミナーまでに、どれだけ勉強が進むかはわかりませんが、古田先生の関連著作だけはしっかりと精読するつもりです。
(注)
①関川尚巧『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』梓書院、2020年。
②古田武彦『ここに古代王朝ありき 邪馬一国の考古学』「第四部 失われた考古学」朝日新聞社、昭和五四年(1979)。ミネルヴァ書房より復刻。
※「考古学上の根本定式」などについては別の機会に詳述します。