2021年11月21日一覧

第2618話 2021/11/21

水城築造年代の考古学エビデンス (2)

八王子セミナー(注①)では水城の築造年代でも通説(七世紀中葉)とは異なる見解が発表されました(注②)。その考古学エビデンスとして提示されたのが、観世音寺に保管されている木樋や水城基底部に敷かれた粗朶の炭素同位体比年代測定値でした。それら測定の〝数値〟に異議はありませんが、資料としての取り扱いや位置づけに対する理解がわたしの見解とは異なっていましたので、その点について説明します。
 最初に観世音寺にある木樋ですが、水城基底部から出土したものとされており、その伐採年がわかれば、水城築造年代を特定するうえで有力根拠となります。その測定値について、内倉武久さんの『太宰府は日本の首都だった』(注③)によれば、観世音寺に保管されていた水城の木樋の炭素同位体比年代測定が九州大学の故坂田武彦氏によりなされており、430年±30年とのこと。この測定は1974年にまとめられたものなので、「最新データで測定値を補正してみると540年ごろになりそうだ。」(193頁)と内倉さんは記されています。わたしも年輪年代値による補正表(注④)で補正したところ約545年頃となり、内倉さんの補正とほぼ同じ年代を示しました。
 この補正により、木樋のサンプリングした部分の年輪の年代は540±30年頃ということがわかります。この木樋はかなり大きなものですから、年輪のどの位置からのサンプリングなのか不明ですし、伐採年は最外層より更に数十年新しいと考えざるを得ません。従って、この木樋に使用した木材の伐採年は6世紀後半以降となります。そうすると6世紀後半以降に伐採した木材を使用した木樋を基底部に埋設し、その上に版築工法による土塁や門を築造するわけですから、水城の完成は7世紀初頭以降と推定できます。
 なお、八王子セミナーの予稿集では年代補正をしていない「430年(中央値)」を内倉さんは採用され、「五世紀が中心の『倭の五王』と年代的にぴったりだ。」とされました。しかし、科学的には補正値の方を採用すべきであり、そうであれば木樋の測定値をエビデンスとして水城の築造年代を5世紀とすることはできません(注⑤)。(つづく)

(注)
①古田武彦記念 古代史セミナー2021 ―「倭の五王」の時代― 。公益財団法人大学セミナーハウス主催、2021年11月13~14日。
②内倉武久「『倭(ヰ)の五王』は太宰府に都していた」『古田武彦記念 古代史セミナー2021 研究発表予稿集』2021年。
 大下隆司「考古出土物から見た『倭の五王』の活躍領域と中枢部」同上。
③内倉武久『太宰府は日本の首都だった ─理化学と「証言」が明かす古代史─』ミネルヴァ書房、2000年。
④『鞠智城 第13次発掘調査報告』熊本県教育委員会、1992年、所収「二一表」。
⑤同様の指摘をわたしは次の論稿で行った。
 古賀達也「理化学的年代測定の可能性と限界 ―水城築造年代を考察する―」『九州倭国通信』186号、2017年5月。
 古賀達也「太宰府条坊と水城の造営時期」『多元』139号、2017年5月。