藤原宮内先行条坊の論理 (2)
新庄宗昭さんが論じられた藤原宮内下層条坊について、わたしも「洛中洛外日記」で次のように考察していました。要約を転載します。
【「洛中洛外日記」544話(2013/03/28)〝二つの藤原宮〟】
〝藤原宮には大きな疑問点が残されています。それは、あの大規模な朝堂院様式を持つ藤原宮遺構の下層から、藤原京の条坊道路や側溝が出土していることです。藤原宮は計画的に造られた条坊道路・側溝を埋め立てて、その上に造られているのです。
都城を造営するにあたっては最初に王宮の位置を決めるのが常識でしょう。そしてその場所には条坊道路や側溝は不要ですから、最初から造らないはずです。ところが藤原宮はそうではなかったのです。この考古学的事実からうかがえることは、条坊都市藤原京の造営当初は藤原宮(大宮土壇)とは別の場所に本来の王宮が創建されていたのではないかという可能性です。〟
【「洛中洛外日記」545話(2013/03/29)〝藤原宮「長谷田土壇」説〟】
〝古くは江戸時代の学者、賀茂真淵が藤原宮「大宮土壇」説を唱えました。明治時代には飯田武郷に引き継がれ定説となりました。大正時代に入ると喜田貞吉による藤原宮「長谷田土壇」説が登場します。
喜田説の主たる根拠は、大宮土壇を藤原宮とした場合、その京域(条坊都市)の左京のかなりの部分が香久山丘陵にかかるという点でした。定説に基づき復元された藤原京は、その南東部分が香久山丘陵にかかり、いびつな京域となっています。ですから喜田が主張したように、大宮土壇より北西に位置する長谷田土壇を藤原宮(南北の中心線)とした方が京域がきれいな長方形となり、すっきりとした条坊都市になるのです。
喜田は「大宮土壇」説の学者と激しい論争を繰り広げますが、1934年(昭和九年)から続けられた発掘調査により「大宮土壇」説が裏付けられ、現在の定説が確定しました。しかしそれでも、大宮土壇が中心点では条坊都市がいびつな形状になるという喜田の指摘自体は有効です。〟
【「洛中洛外日記」547話(2013/04/03)〝新益京(あらましのみやこ)の意味〟】
〝藤原京は『日本書紀』持統紀には新益京(あらましのみやこ)と記されており、藤原京という名称ではありません。他方、宮殿は藤原宮と記されています。
この藤原宮下層遺構からは多数の木簡が出土しており、その中の紀年銘木簡「壬午年(天武十一年、682)」「癸未年(天武十二、683)」「甲申年(天武十三年、684)」により、藤原京の造営が天武の時代に既に始まっていたことがわかっています。藤原宮下層から条坊道路や側溝が発見されたことから、藤原京造営時には大宮土壇に王宮を造ることは想定されていなかったことが推定できます。
こうした考古学的事実から、わたしは喜田貞吉が提起した「長谷田土壇」説に注目し、藤原京造営時の王宮は長谷田土壇にあったのではないかとするアイデアに至りました。これを証明するためには、長谷田土壇の考古学的調査が必要です。
この王宮の位置が変更されたとする仮説が正しければ、藤原京のことを『日本書紀』では王宮(藤原宮)の名称とは異なる新益京とした理由もわかりそうです。長谷田土壇から南東に位置する大宮土壇への王宮の移動(新築か)により、条坊都市もそれに伴って東側へ拡張されたこととなり、その拡張された新たな全京域を意味する新益京という名称を採用したのではないでしょうか。このように考えれば、藤原宮(大宮土壇)を中心点として、藤原京がいびつな形の条坊都市になっていることも説明できます。〟
藤原宮下層条坊の存在から、以上のような考察に至りましたが、次に問題となるのが、下層条坊や元々の王宮(長谷田土壇)の造営時期をいつ頃とするのかです。ちなみに新庄さんは孝徳期から斉明期頃とされています。(つづく)