新年の読書『日本のなかの朝鮮文化』
正月の恒例行事としている「新年の読書」。令和七年は、拙宅から二軒先のお隣にある韓国古美術店〝スモモ〟の李さんからいただいた『日本のなかの朝鮮文化』のバックナンバーを読むことにしました。同書は李さんのお父上(高麗美術館(注①)の創立者)が発行したもので、わたしも何冊か持っていました。そのことを李さんに告げると、店頭に並んでいた44号(1979年)・45号(1980年)・46号(1980年)・47号(1980年)・48号(1980年)の五冊をプレゼントしていただきました。
今、くり返し読んでいるのが、44号に掲載された李進煕さん(注②)の「飛鳥寺と法隆寺の発掘」です。同論文は法隆寺再建説に対する批判ですが、1939年の発掘調査により火災の痕跡を持つ若草伽藍が発見され、法隆寺論争は再建説で決着していたので、1979年当時、どのような理由で再建説を批判したのだろうかと興味深く読みました。李進煕さんの主張は次の通りです。
〝私のいだいていた疑問の一つは、飛鳥時代の寺院は塔の心礎がすべて地下深いところにあるのに、「若草伽藍」のそれはどうして地上に据えられたのか、ということであった。ちなみに、百済の軍守里廃寺の心礎は地下六尺のところにあって、飛鳥時代のそれは、
四天王寺 基壇より十一・五尺
法隆寺 基壇より一〇尺
法興寺 基壇より九尺
中宮寺 基壇より七・五尺
となっている。ここで注目されるのは、現在の法隆寺五重塔が再建されたものであるならば、心礎が地上にあるべきなのに実際は地下九尺の深さにあり、地下にあるべき「若草伽藍」のそれは地上にあることである。つまり、両方ともまったく例外的存在となっているわけである。〟
この指摘には、なるほどと思いました。確かに古代寺院の五重塔の心礎は古いほど版築基壇よりも更に地中深い位置にあり(法隆寺が著名)、七世紀中頃には基壇中まで上がり、後半頃になると基壇上部に心礎が置かれます(太宰府の観世音寺。白鳳十年 670年創建)。この心礎の位置が五重塔創建年代の編年に利用できます(注③)。ちなみに、心礎の位置は更にせり上がり、たとえば京都の東寺の五重塔の心柱は基壇上部よりも30㎝ほど上に浮いていました。わたしが二十代の頃、東寺の貫首のご好意により見せて頂いたことがあります。このタイプの構造は「梁上型」とか「宙づり型」と呼ばれているようです。
李進煕さんの指摘によれば、法隆寺よりも古いはずの若草伽藍の五重塔心礎が法隆寺よりも新しい様式であり、編年が逆転しているというのです。このことについて若草伽藍現地を確認した李進煕さんは次のように記しています。
〝現場(若草伽藍跡)を訪れたとき、私はまず「塔心礎」に注目した。それは、高さが一・二メートル、四方が各々二・七メートルもある巨石だが、一九六八年の発掘の結果、「従来の推定とは異なり地中深くに埋地されたものではなく、地山面近くに直接据えられたもの」(榧本杜人「若草伽藍跡の発掘調査」『月刊文化財』第六十三号)であることがはっきりしていた。〟※(若草伽藍跡)は古賀による。
この他にも李進煕さんは若草伽藍発掘調査報告の矛盾点を指摘し、若草伽藍は飛鳥時代よりも新しい遺跡と主張しています。そして、結論として法隆寺西院伽藍こそ飛鳥時代の建築物であり、若草伽藍とは無関係とする法隆寺非再建説を唱えました。(つづく)
(注)
①高麗美術館は京都市北区にある美術館。1988年開館。高麗青磁・朝鮮白磁をはじめとする陶磁器や、考古資料、絵画、民俗資料など、朝鮮半島の美術工芸品1700点を収蔵する日本唯一の韓国・朝鮮の専門美術館。高麗美術館研究所を付置する。1988年、在日朝鮮人の実業家である鄭詔文(チョン・ジョムン、1918年~1989年)の蒐集品をもとに創設された。収蔵された朝鮮の美術品は日本で蒐集されたもの。1998年、上田正昭が第二代館長に就任。2016年より井上満郎が第三代目館長に就任。(ウィキペディアを参照)
②李 進熙(り じんひ、1929年~2012年)は、在日韓国人の歴史研究者・著述家。和光大学名誉教授。文学博士(明治大学)。専門は考古学、古代史、日朝関係史。慶尚南道出身。1984年に韓国籍を取得。好太王碑文改竄説を唱え、改竄されていないとする古田武彦との論争は有名。その後、古田らの現地調査により改竄はなかったことが確認された。
③古賀達也「洛中洛外日記」1399話(2017/05/17)〝塔心柱による古代寺院編年方法〟