第704話 2014/05/05

『隋書』と和水(なごみ)町

 昨日の和水町での講演会の演題は「『九州年号』の古代王朝」で、副題は「阿蘇山あり、その石、火起こり天に接す。『隋書』」でした。九州年号を発布した古代王朝こそ、『隋書』イ妥国伝に記された阿蘇山のある「九州王朝」であることを、講演の結論としたのですが、今回、初めて江田船山古墳がある和水町を訪問し、『隋書』イ妥国伝に記された風物がこの地に存在していることを確信したのです。
 『隋書』には倭国(九州王朝)について次のような記事があります。わかりやすく、順不同で列挙します。

1.阿蘇山あり、その石、故なくして火起こり天に接す。
2.葬に及んで屍を船上に置き、陸地これを牽(ひ)くに、或いは小輿を以てす。
3,二百余騎を従えて郊労せしむ。
4,小環を以て「慮鳥」「茲鳥」(ろじ)の項にかけ、水に入りて魚を捕らえしめ、日に百余頭を得る。

 1.の記事から九州王朝に来た隋の使者は阿蘇山を実見し、その噴火をリアルに記しています。「その石、故なくして火起こり天に接す」という表現は、活火山が無い中国の中原の人々にとっては驚きを持って受け止めた見事な文章ではないでしょうか。そこで、和水町の方にお聞きしたところ、和水町の山からは阿蘇山が見えるとのこと。わたしの実家の久留米市からは山に登っても阿蘇山は見えませんから、隋使は和水町まで行った可能性は小さくないと思われます。
 次に2.の葬儀の様子ですが、屍を船に乗せるという倭国の風習もまた、隋使にとって珍しい風習と受け止められ、記録に残されたものでしょう。この記事と対応するように、江田船山古墳がある清原(せいばる)古墳群の松坂古墳・首塚古墳・京塚古墳などに「舟形石棺」があります。さらには玉名市の石貫穴観音横穴墓内にも、ご遺体の安置台(側面)がゴンドラ型の石造物であり、まさに『隋書』の記事に対応した埋葬状況が見られるのです。わたしは前垣芳郎さん(菊水史談会事務局)と高木正文さん(当地の考古学者)のご案内により、横穴墓内のゴンドラ型の石造物を見たとき、先の『隋書』の一節を思いだし、その一致に驚 きました。
 3,の記事から、倭国は騎馬隊を持っていたことがわかりますが、高木さんのご説明では玉名地方の古墳から馬の骨が出土するとのこと。江田船山古墳からも 鉄製の鐙(あぶみ)・轡(くつわ)・馬具片が出土しています。有名な銀象嵌鉄刀(国宝)にも見事な馬の象嵌があります。こうしたことから、この地域では少なくとも古墳時代には馬が飼われていたことがわかります。この「馬」や「騎馬」の一致も、『隋書』と和水町を結びつけるものでしょう。
 最後に4.の鵜飼いの記事ですが、筑後川では今でも原鶴で鵜飼いが続けられていますし、矢部川でも江戸時代には鵜飼いが盛んであったことが『太宰管内誌』などの地誌に見えます。和水町を流れる菊池川には鮎はいるそうですが(今でも鮎釣りは盛んとのこと)、鵜飼いの風習はないそうです。ところが、先に紹介した江田船山古墳出土の銀象嵌鉄刀の「馬」の象嵌の裏面に「魚」と「鳥」の象嵌があることが発見されていたことを、わたしは今回の訪問で知りました。高木さんや前垣さんの御厚意によりいただいた『菊水町史 江田船山古墳編』(平成19年発行。菊水町は合併により現在では和水町になっています。)のカラー写真を確認したところ、「鳥」のくちばしの先が下に曲がっており、この「鳥」は鵜である可能性が高いのです。少なくとも、「魚」と一緒に描かれていること から「水鳥」と見るのが自然な理解です。また、「鳥」の首が長いことも「鵜」と見ることを支持していますし、首のあたりに「輪」とも見える象嵌が施してあり、鵜飼いの際に付ける「輪」のようにも思われるのです。
 以上、4点にわたり、『隋書』の記事と和水町の文物との一致を確認してきたのですが、これほどの一致は偶然と見るよりも、隋使がこの地を訪問した根拠とするに十分な傍証と思われるのです。(つづく)

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