考古学一覧

第1764話 2018/09/30

土器と瓦による遺構編年の難しさ(1)

 わたしは古田先生から主に文献史学の方法論を学んで来ました。古代史学の関連分野である考古学については体系的に勉強する機会がありませんでしたので、この10年ほどは7世紀の土器編年や瓦の変遷について専門書や考古学者から学ぶようにしてきました。そうした経験から、思っていたよりも土器や瓦による遺構の編年が難しいこと、7世紀における「難波編年」が比較的正確であることなどを知りました。そこで今回はその難しさについて説明することにします。
 土器による遺構の編年について、大阪歴博の考古学者から基礎的な編年方法について教えていただいたことがあります。まず前提として、出土土器により遺構の年代を編年する場合の条件として、対象遺構の整地層の中とその上から土器が出土しないと正確な編年ができないことです。
 たとえば整地層から7世紀中頃の土器が出土しても、そのことから導き出せるのはその遺跡が7世紀中頃以後に造営されたということだけで、それ以上の年代編年は原理的にできません。ところが整地層の上の層位から7世紀後半の土器も出土していれば、その遺構は7世紀中頃から後半の造営とする編年が可能となります。
 逆に整地層からは編年できるような土器が出土せず、その上の層位から7世紀中頃の土器が出土している場合は、その遺構は7世紀中頃以前の造営とすることはできますが、それ以上のことは判断できません。
 このように遺構の層位を挟むように整地層の中と上からの出土土器が揃ったときに造営年代の編年が可能となります。この原理をしっかりと押さえておくことが重要です。遺構から「何世紀の土器が出土した」という情報に対しては、それが遺構のどの層位から出土したのか、遺構の層位を挟むように複数の土器が出土したのかを見極めることが重要であり、そうした情報がない報道や論稿は要注意です。(つづく)


第1762話 2018/09/29

7世紀の編年基準と方法(10)

 井上信正説により、わたしの太宰府都城編年研究は大きな進展を見せることができました。そこで学問的方法論から見たその編年精度についての解説を最後にしておきたいと思います。太宰府都城の編年はそのまま7世紀における九州王朝史の復元研究に直結しますから、その編年方法と編年精度は重要です。
 太宰府都城を形成する遺構は数多くあり、今回テーマとして取り上げた政庁Ⅱ期・観世音寺・条坊都市の他にも、水城・大野城・基肄城・筑紫土塁(前畑遺跡)などがあります。わたしはそれぞれの編年について仮説を発表してきましたが、比較的安定した編年ができたのが観世音寺でした。創建瓦が老司Ⅰ式瓦でしたので7世紀中頃から後半であろうと推定できましたし、『二中歴』「年代歴」に白鳳年間(661-683)の創建とする記事がありましたので、瓦と文献によるクロスチェックが成立していました。更により具体的に「白鳳10年(670)の創建」とする史料(『勝山記』『日本帝皇年代記』)も新たに発見でき、ピンポイントで創建年を押さえることができました。ここまで具体的年次が文献により押さえられるというのは古代史研究においてとても恵まれたケースです。しかし、寺域からの出土土器が少ないこともあり、土器によるクロスチェックは今のところ成功していません(明確に7世紀後半に遡るような古い土器は確認されていない)。この点がやや弱点と言えるでしょう。なお、観世音寺は近畿天皇家による造営(拡充)が8世紀に至っても続けられており、留意が必要です。
 ところが、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)から、観世音寺寺域から7世紀初頭に編年できる百済系素弁瓦が集中して出土していることを教えていただきました。この百済系素弁瓦は観世音寺創建以前に同地にあった建物の瓦と理解されており、その建物を取り壊して観世音寺が創建されたことになり、観世音寺造営が7世紀後半であることを指し示しています。このことも観世音寺創建年の編年に有効な根拠となりました。
 次に観世音寺と同時期と推定した政庁Ⅱ期の宮殿ですが、創建瓦(老司Ⅰ式・Ⅱ式)の他に、同一の尺度で造営(区画整備)されているという根拠で7世紀後半頃と編年したものです。しかし出土土器の編年が8世紀のものとされており、この点が整合していません。こうした未解決の問題があるため、政庁Ⅱ期の編年は不完全と言わざるを得ません。
 条坊都市を7世紀初頭頃とする編年に至っては、多利思北孤の時代に太宰府遷都したとする論証が中世文献を史料根拠として成立しているだけで、出土土器とは今のところ全く対応していません。当地の著名な考古学者の赤司善彦さんにもおたずねしたのですが、条坊からは7世紀前半の土器は出土しておらず、もともと土器の出土そのものが少ないとのことでした。
 以上のように、九州王朝の王都・太宰府都城の編年研究も学問的には不十分と言わざるを得ないのです。土器や瓦の編年、そして当地の発掘調査報告書をもっと深く勉強する必要があります。


第1761話 2018/09/29

7世紀の編年基準と方法(9)

 井上信正さん(太宰府市教育委員会)の政庁Ⅱ期・観世音寺よりも条坊都市が先行して造営されたという新説の根拠は、主に政庁の南北中心軸が条坊(朱雀大路)中心軸とずれていることを正確な測量により明らかにされ、一辺約90mの条坊とその北側部分の政庁・観世音寺の造営尺が異なっていることの発見でした。両者の厳密な比較により、井上さんは政庁Ⅱ期・観世音寺などの北側エリアよりも南に拡がる条坊が先行したとされたのです。
 この井上新説のおかげで、わたしの仮説(太宰府政庁・条坊都市7世紀初頭造営説)の修正が可能となり、不完全な仮説をより安定な仮説へと変更することができました。すなわち、太宰府の編年を次のように改めたのです。

①太宰府条坊都市(倭京)の成立は7世紀初頭。九州王朝の天子・多利思北孤による。倭京元年(618)に筑後から太宰府に遷都。
②白鳳10年(670)に観世音寺が創建される(『二中歴』『勝山記』『日本帝皇年代記』による)。白村江戦の戦没者を弔うためか。
③その同時期に、九州王朝(倭国)は唐に倣って太宰府を北闕型の王都とするため、条坊都市の北側に政庁Ⅱ期の宮殿とそこから南に延びる朱雀大路を造営した。唐から帰国した九州王朝の天子・薩野馬の王宮か。
④政庁Ⅱ期と観世音寺の創建は同時期と推定されるが(共に同時期の老司式瓦を使用)、厳密な先後関係は今のところ不詳。政庁Ⅱ期の創建を記す史料がなく、判断が困難なため。

 以上の編年修正により、当初の編年が持っていた難点のうち、政庁Ⅱ期と観世音寺の創建年のずれの問題が解決できました。しかし、土器編年との不一致という問題は依然として存在しています。
 この自説修正についても当時の「洛中洛外日記」に記していますので、転載します。(つづく)

【以下、転載】
古賀達也の洛中洛外日記
第219話 2009/08/09
観世音寺創建瓦「老司1式」の論理

 太宰府条坊と政庁・観世音寺の中心軸はずれており、政庁や観世音寺よりも条坊が先行して構築されたという井上信正氏(太宰府市教育委員会)の調査研究を知るまで、わたしは条坊都市太宰府は政庁(九州王朝天子の宮殿)を中心軸として7世紀初頭(九州年号の倭京年間618〜623)に成立したと考えていました。すなわち、条坊と政庁は同時期の建設と見ていたのでした。
 しかし、この仮説には避けがたい難題がありました。それは観世音寺の創建時期との整合性です。観世音寺は、『二中歴』年代歴に白鳳年間(661〜683)とする記述「観世音寺を東院が造る」があること、更に創建瓦の老司1式が藤原宮のものよりも古く、むしろ川原寺と同時期とする考古学的編年から、その創建時期を7世紀中頃としていました。その結果、条坊都市太宰府ができてから、観世音寺が創建されるまで20〜40年の差があり、その間、政庁の東にある観世音寺の寺域が「更地」だったこととなり、ありえないことではないかもしれませんが、何とも気持ちの悪い問題点としてわたしの脳裏に残っていたのです。
 ところが、井上氏の研究のように、条坊が先で政庁と観世音寺が後なら、この問題は生じません。およそ次のような順序で太宰府は成立したことになるからです。
 通古賀地区の宮域を中心とした条坊都市が7世紀初頭に成立。次いで7世紀中頃に条坊の北東部に観世音寺が創建され、その後に政庁(第Ⅱ期)が完成。
 もちろん、これはまだ検討途中の仮説ですが、この場合、条坊の右郭中央部にあった宮域が、後に北部中心部に新設されたことになり、「天子は南面」するという思想に基づいて、宮域の新設移動が行われたのではないでしょうか。
 このように、井上氏の研究は、九州王朝の首都太宰府の建都と変遷を考察する上で大変有益なものなのですが、大和朝廷一元史観側にすると、とんでもない大問題が発生します。それは、藤原宮に先行するとされる老司1式の創建瓦を持つ観世音寺よりも太宰府条坊は古いということになり、日本最初の条坊都市は通説の藤原京ではなく太宰府ということに論理的必然的になってしまうからです。
 九州王朝説からすれば、これは当然の帰結ですが、九州王朝を認めたくない一元史観(日本古代史学界・考古学界)からすれば、とんでもない話しなのです。大和朝廷のお膝元の藤原京よりも早く、九州太宰府に条坊都市ができたことになるのですから。
 このように通説にとって致命的な「毒」を含んでいる井上氏の研究が、これから一元史観の学界の中でどのように遇されるのか興味津々といったところです。(つづく)


第1760話 2018/09/28

7世紀の編年基準と方法(8)

 「よみがえる倭京〈太宰府〉」において、わたしが太宰府条坊都市と一体として造営された北闕型王都の王宮である政庁Ⅱ期も7世紀初頭の造営とした理由は、太宰府条坊研究の先学、鏡山猛さん(九州歴史資料館初代館長)の条坊復元図でした。鏡山さんの復元案によれば条坊と政庁や観世音寺の中心軸などが一致しており、その復元案は太宰府条坊研究において有力説とされてきました。わたしも鏡山説に基づき政庁Ⅱ期と条坊の造営を同時期と見なし、通説の8世紀初頭に対して、九州王朝の天子・多利思北孤による7世紀初頭(倭京元年〈618〉が有力)の造営とする仮説を発表したのです。
 ところがその自説は出土土器の考古学編年と一致せず、観世音寺創建年とのずれという問題もあって、わたし自身も不完全な仮説と感じていました。そうしたとき、「古田史学の会」関西例会で驚くべき報告が伊東義彰(古田史学の会・会員、元会計監査)さんからなされました。2009年7月の関西例会で、伊東さんは井上信正さん(太宰府市教育委員会)の新説を紹介され、それは政庁Ⅱ期や観世音寺よりも条坊都市が先行して造営されていたというものでした。そのときのことを「洛中洛外日記」に紹介していますので転載します。(つづく)

【以下、転載】
古賀達也の洛中洛外日記
第216話 2009/07/19
太宰府条坊の再考
(前略) 
 伊東さんからも、太宰府条坊研究の最新状況が報告されました。その中でも特に興味をひかれたのが、大宰府政庁遺構や観世音寺遺構の中心軸が条坊とずれているという報告でした。すなわち、大宰府政庁や観世音寺よりも条坊の方が先に造られたという、井上信正氏の研究が紹介されたのですが、この考古学的事実は九州王朝の太宰府建都に関する私の説(「よみがえる倭京(大宰府)」『古田史学会報』No.50、2002年6月)の修正を迫るもののようでした。
 その後、伊東さんの資料をコピーさせていただき、井上論文などを読みましたが、大変重要な問題を発見しました。今後、研究を深めて発表したいと思います。
(後略)


第1759話 2018/09/26

7世紀の編年基準と方法(7)

 拙論「よみがえる倭京〈太宰府〉」(『古田史学会報』50号、2002年6月)では大宰府政庁Ⅱ期や条坊都市の造営を7世紀初頭としたのですが、それは出土土器の考古学編年と一致せず、観世音寺創建年とのずれという問題もありました。今回はこの政庁と観世音寺創建時期のずれについて紹介し、わたしの当初の編年の誤りについて説明します。
 政庁Ⅱ期の造営を条坊と同時期の7世紀初頭頃と推定していたのですが、その東側に位置する観世音寺の創建は『二中歴』「年代歴」の記事から白鳳年間(661-683)と理解していました。創建瓦が7世紀後半頃とされていた老司Ⅰ式であることもこの年代観を支持していましたので、この点については今でも妥当と考えています。その後、『二中歴』以外にも『勝山記』や『日本帝皇年代記』にはより具体的に「白鳳10年(670)の創建」とする記事が見つかり、観世音寺創建年は確かなものとなりました。
 その結果、政庁Ⅱ期と観世音寺の創建年に約50年ほどのずれが発生することになり、政庁Ⅱ期が7世紀初頭頃に造営された後、その東側に位置する観世音寺の場所が半世紀もの間「更地」だった可能性が発生しました。あり得ないことではないかもしれませんが、やはりそのような状態は不自然と感じていました。
 さらにより決定的な矛盾もありました。当時は気がつかなかったのですが、観世音寺創建瓦は老司Ⅰ式でその白鳳10年創建とする史料と対応しているのですが、政庁Ⅱ期の宮殿の創建瓦も老司Ⅰ式・Ⅱ式であり、観世音寺創建瓦と同時期のものだったのです。複弁蓮華文と称される老司式瓦を7世紀初頭頃に編年するのは無理で、両者の創建瓦が共に老司式なのですから、政庁Ⅱ期も7世紀後半頃と編年しなければならなかったのでした。
 しかし、太宰府条坊都市の造営を7世紀初頭頃とする自説に立つ限り、その条坊都市と一体として造営された北闕型王都の王宮である政庁Ⅱ期を7世紀後半に編年することが、当時のわたしにはできなかったのです。(つづく)


第1758話 2018/09/23

7世紀の編年基準と方法(6)

 これまで紹介してきた前期難波宮や太宰府出土「戸籍」木簡の場合は、必要な情報や安定した先行研究があり、編年が比較的うまく進みました。次に紹介する事例は、九州王朝の中枢遺構でありながらその編年が難しく、クロスチェックも今のところ不成立というものです。その遺構とは九州王朝の首都太宰府の王宮と目されている大宰府政庁Ⅱ期の宮殿です。

 わたしが太宰府編年研究に取り組み始めた当初は、大宰府政庁Ⅱ期の宮殿とその南に拡がる条坊都市を同時期造営の北闕型王都と認識し、その造営時期を7世紀初頭の多利思北孤の時代と考えていました。その視点で書いた論文が「よみがえる倭京〈太宰府〉」(『古田史学会報』50号、2002年6月)でした。そしてその造営年は九州年号の倭京元年(618)がその字義(倭京とは倭国の都の意)から有力としました。しかし、この説にはいくつかの弱点がありました。それは出土土器の考古学編年と一致しないという問題と、観世音寺創建年とのずれという問題でした。

 土器編年については深く勉強することもなく、通説の根拠となっている従来の土器編年に疑問を抱いていましたので、根拠を示すこともせず「信用できない」と否定する、あまり学問的とは言えない対応で済ませていました。というのも、通説では出土土器や『続日本紀』『大宝律令』などを根拠として、大宰府政庁Ⅱ期や太宰府条坊都市の造営を8世紀初頭としており、7世紀初頭の造営とするわたしの説とは100年ほど編年が異なっていたからです。(つづく)


第1757話 2018/09/23

7世紀の編年基準と方法(5)

 太宰府出土「戸籍」木簡の編年について、7世紀初頭の多利思北孤の時代のものとする見解もあるようですので、この仮説が成立しないことを最後に説明します。

 まず「戸籍」木簡には「嶋評」とあり、7世紀後半に採用された行政区画「評」の時代であることが明確で、もし7世紀前半頃であれば評制以前の行政区画「県(あがた)」を用いて、「嶋県」とあるはずです。この一点からも同木簡を7世紀初頭や前半のものとするのは無理です。

 更に7世紀初頭の九州王朝の位階については『隋書』倭国伝(原文は「国」)に次のように記されています。

 「内官有十二等、一曰大徳、次小徳、次大仁、次小仁、次大義、次小義、次大禮、次小禮、次大智、次小智、次大信、次小信、員無定數。」『隋書』国伝

 『日本書紀』にも次のような「冠位十二階」が記されています。

 「始めて冠位を行う。大徳・小徳・大仁・小仁・大禮・小禮・大信・小信・大義・小義・大智・小智、併せて十二階、並びに當(あた)れる色の絁(きぬ)を以て縫えり。」『日本書紀』推古11年(603)12月条

 このように、7世紀初頭の日本列島における冠位は儒教の徳目とされている漢字(徳・仁・義・禮・智・信)が採用されていることがわかります。いずれも7世紀末頃に採用された位階とは明確に異なっています。従って、「嶋評」という行政区画や「進大弐」という位階が記されている「戸籍」木簡を7世紀初頭や前半頃のものとする仮説は史料事実に反しており、学問的に成立しないことをご理解いただけると思います。(つづく)


第1755話 2018/09/21

7世紀の編年基準と方法(3)

 太宰府から出土した「戸籍」木簡は「記録木簡」とも言えるほどの情報が記載されており、作成年次の編年もかなり絞り込むことができました。その際のキーワードは木簡に記された「嶋評」と「進大弐」という文字でした。同木簡には次の文字が記されています。

《表側》
嶋評 戸主 建ア身麻呂戸 又附加□□□[?]
政丁 次得□□ 兵士 次伊支麻呂 政丁□□
嶋ー□□ 占ア恵□[?] 川ア里 占ア赤足□□□□[?]
少子之母 占ア真□女 老女之子 得[?]
穴□ア加奈代 戸 附有

《裏側》
并十一人 同里人進大弐 建ア成 戸有一 戸主 建[?]
同里人 建ア昨 戸有 戸主妹 夜乎女 同戸有[?]
麻呂 □戸 又依去 同ア得麻女 丁女 同里□[?]
白髪ア伊止布 □戸 二戸別 戸主 建ア小麻呂[?]
(注記:ア=部、□=判読不能文字、[?]=破損で欠如)

 表面冒頭に見える「嶋評」とは糸島半島にあった地名で、行政区画が「評」表記ですので、701年に全国一斉に「郡」表記となる以前の木簡であることがわかります。従ってこの「戸籍」木簡は九州王朝時代の7世紀後半のものとまずは編年できました。次いで注目すべきが裏面に記された「進大弐」という位階名です。『日本書紀』によればこの「進大弐」は天武14年条(685年)に制定記事(48等の位階)があることから、この木簡の成立時期を685〜700年まで絞り込むことができます。(つづく)


第1754話 2018/09/20

7世紀の編年基準と方法(2)

 前期難波宮の編年については多くの根拠による複数のクロスチェックが可能であり、比較的安定した編年ができました。編年研究としては恵まれたケースでした。
 次に紹介する木簡の事例は、当該木簡の記述内容とその他の史料や編年研究の成果を利用して、より精緻な編年が可能となったケースです。歴史学では安定して成立している先行研究との対応検討は重要です。学会誌などでの投稿論文も先行研究に対する理解や対応が不十分なものは通常不採用となります。それまでに積み上げられてきた先行研究に対して、それを否定・批判する論稿であればなおさら厳しくこの点を査読されます。残念ながら古田学派内の論稿には、この先行研究の成果に対する不勉強や誤解に基づくものが少なくありません。わたし自身も、こうした不勉強や理解不足により、若い頃に誤った論稿を発表した苦い経験がありますので、今も自戒を込めてこのことを指摘しておきたいと思います。
 2012年6月13日に新聞報道された、太宰府市出土の「戸籍」木簡を今回は取り上げます。同木簡は最古の「戸籍」木簡と報道されましたが、その編年手法は、木簡に記された内容を先行研究の成果により詳細に検討するというものでした。なお、同木簡は他の木簡とともに水路(川の跡)から出土したため、出土層位毎の伴出土器などによる編年は困難でした。
 現地説明会資料などによれば、出土した木簡は13点で、その中の1枚が注目されている「嶋評」と記された「戸籍」木簡です。出土場所は大宰府政庁の北西1.2kmの地点で、国分寺跡と国分尼寺跡の間を流れていた川の堆積層で、その堆積層の上の部分から出土した別の木簡には「天平十一年十一月」(739年)の紀年が記されており、評制の時期(650年頃〜700年)から少なくとも天平十一年までの木簡が出土したことになりそうです。なお、この「天平十一年」木簡のみが広葉樹で、他の12枚は針葉樹だそうです。
 このように7世紀後半「評制」時代の木簡(後述します)と「天平十一年十一月」(739年)に書かれたと考えられる木簡が同じ所から出土しています。使い捨ての荷札木簡とは異なり、長期保管が必要な戸籍に関する木簡が出土していることから、戸籍管理に関わる役所の倉庫などから天災などにより文字通り川に流出したのではないでしょうか。(つづく)


第1753話 2018/09/19

7世紀の編年基準と方法(1)

 歴史研究において遺跡・遺物や史料の編年は不可欠の作業で、年代が不明では歴史学の対象になりにくい場合があります。わたしも九州王朝史研究において、いつも悩まされるのがその研究対象の編年の基準と編年方法についてです。そこでこの問題について、比較的研究が進んでいる7世紀について改めて論じることにしますが、一般論や抽象論ではなく、なるべく具体的事例をあげて説明します。

 最初に紹介する事例は前期難波宮です。前期難波宮の編年についてはこの10年間わたしが最も研究したテーマですから、かなり自信を持って説明できます。前期難波宮の造営年代については一元史観の古代史学界でも孝徳期か天武期かで永く論争が続いてきましたが、現在ではほとんどの考古学者が孝徳期(7世紀中頃)とすることを支持しており、事実上決着がついています。その根拠となったのが次の基準や研究結果によるものでした。私見も交えて説明します。

①宮殿に隣接した谷(ゴミ捨て場)から「戊申年」(648年)木簡が出土。
②井戸がなかった前期難波宮に水を供給したと考えられている水利施設遺構の造成時に埋められた7世紀前半から中頃に編年されている土器(須恵器坏G)が大量に出土した。
③その水利施設から出土した木樋の年輪年代測定値が634年だった。その木材には再利用の痕跡が見当たらず、伐採後それほど期間を経ずに前期難波宮の水利施設の桶に使用されたと考えられる。
④宮殿を囲んでいた塀の木柱が出土し、その最外層の年輪セルロース酸素同位体比年代測定値が583年・612年であった。
⑤出土した前期難波宮の巨大な規模と様式(日本初の朝堂院)は、『日本書紀』孝徳紀の白雉三年条(652年、九州年号の白雉元年に相当)に記されている〝言葉に表すことができないような宮殿が完成した〟という記事に対応している。
⑥天武期に造営が開始され、持統天皇が694年に遷都したと『日本書紀』に記されている藤原宮の整地層から出土した主流土器は須恵器坏Bであり、前期難波宮整地層から出土した主流土器須恵器坏Gよりも1〜2様式新しいとされている。すなわち、整地層からの出土土器は天武期造営の藤原宮より前期難波宮の方が数十年古い様相を示している。
⑦瓦葺きで礎石造りの藤原宮よりも、板葺きで掘立柱造りの前期難波宮の方が古いと考えるのが、王宮の変遷として妥当である。

 以上のような多くの根拠や論理性により前期難波宮の創建は孝徳期とする通説が成立したのですが、ここでの編年決定において重要な方法が自然科学ではクロスチェックと呼ばれる方法です。すなわち、異なる実験方法・測定方法や異なる研究者が別々に行った実験結果(再現性試験)が同じ結論を示した場合、その仮説はより確かであるとする方法です。

 今回紹介した前期難波宮の編年も、それぞれ別の根拠でありながら、いずれも天武期ではなく孝徳期を是とする、あるいはより妥当とする結論を示したことが、自然科学でのクロスチェックと同じ効果を発揮したものです。

 これが例えば根拠が①の「戊申年」木簡だけですと、〝たまたま古い木簡がどこかに保管されており、何故か30〜40年後に廃棄された〟という「屁理屈」のような反論が可能です。同様に③④の木材の年代にしても〝たまたま数十年前に伐採した木材がどこかに保管されており、なぜかそれを使用した〟というような「屁理屈」も言って言えないことはないのです。しかし、上記のように多数の根拠によるクロスチェックがなされていると、それらを否定するためには〝すべてのケースにおいて、古いものがなぜか数十年後に使用された、捨てられた結果である。『日本書紀』の記事も何かの間違い〟というような根拠を示せない「屁理屈」を連発せざるを得ません。もちろん「学問の自由」ですからどのような主張・反論・「屁理屈」でもかまいませんが、そのような研究者は自然科学の世界では、研究者生命を瞬時に失うことでしょう。ことは歴史学でも同様です。(つづく)


第1724話 2018/08/19

鬼面「鬼瓦」のONライン

 9月9日(日)の大阪市(i-siteなんば)での『発見された倭京』出版記念講演会で、新たにわたしが取り上げるテーマに〝鬼面「鬼瓦」のONライン〟があります。古代において異彩を放つ大宰府政庁出土の鬼面「鬼瓦」(大宰府式鬼瓦)の変遷と近畿天皇家(大和朝廷)の藤原宮・平城宮の「鬼瓦」の変遷に、701年(ONライン)における王朝交代の痕跡が見て取れるというテーマです。
 大宰府式鬼瓦と呼ばれている国内最古の鬼面「鬼瓦」は、その立体的で迫力のある鬼の顔が九州歴史資料館の「展示解説シート」では次のように紹介されています。

 「眉は炎のように吹き上がり、つり上がった大きな眼は飛び出さんばかりで、鼻は眉間にしわを寄せ小鼻を丸くふくらませながら、どっしりと構えていて、咆哮するように開いた口には、鋭い牙と四角い歯が並んでいます。そしてこの忿怒の相においては、骨格や筋肉の動き、皮膚の伸縮までが意識されて、各部分が有機的に連動しながら、ひとつの表情をつくり上げています。この立体感や迫真性は、平面的図案的な同時代の鬼瓦とは異質で、むしろ忿怒形の仏像の面部に通じています。原型の制作には、仏工の関与が想定されます。」

 このように紹介され、「迫力ある大宰府式鬼瓦の造形は、古今東西の鬼瓦の中にあって孤高のものです。」と指摘されています。
 この大宰府式鬼瓦はⅠ式・Ⅱ式・Ⅲ式と区分され、Ⅰ式が最も古く、Ⅲ式が新しいと編年されています。いずれも奈良時代のものとされていますが、Ⅰ式が最もその芸術性が高く、新しくなるに従い次第に洗練が失われていきます(編年については九州王朝説に基づく再検討が必要)。Ⅰ式は主に大宰府政庁や水城・大野城・筑前国分寺・筑前国分尼寺・怡土城などの遺跡から出土しています。大宰府式鬼瓦は北部九州を代表する鬼瓦であり、筑前以外からも出土例があります。
 他方、近畿天皇家の王宮である藤原宮の鬼瓦は鬼面ではなく、曲線の文様があるだけです。平城宮では初期の鬼瓦は鬼の身体全体が平面的に表されており、大宰府式鬼瓦とは比較にならないほど迫力のないものです。その後、時代が下がるにつれて「鬼面」となり、徐々に立体的な表現に発展するのですが、それでも大宰府式鬼瓦ほどの芸術性や迫力は見られません。
 これらの鬼瓦は王朝を代表する宮殿の屋根を飾るものであり、太宰府と大和の鬼瓦の迫力の差は従来の近畿天皇家一元史観では説明が困難です。ところが九州王朝説の視点からこの状況を考えると、次のようなことが言えるのではないでしょうか。

①670年頃に造営された大宰府政庁Ⅱ期の宮殿の鬼瓦は倭国を代表する九州王朝にふさわしい芸術性あふれるものである。当時の太宰府にはそうした王朝文化を体現できる優れた芸術家や瓦職人がいた。
②他方、7世紀末頃には事実上の日本列島ナンバーワンの実力を持つに至った近畿天皇家は、大規模な藤原宮を造営できたが、王朝文化はまだ花開いてはいなかったため、貧素な鬼瓦しか作れなかった。
③王朝交代した701年以降の近畿天皇家は九州王朝文化を徐々に吸収し、「鬼」を表現した鬼瓦を造れるようになったが、その芸術性が高まるのには数十年を要した。
④王朝交代後の太宰府や九州においては、その繁栄に陰りが見え、大宰府式鬼瓦も次第に洗練度が失われていった。

 以上のように九州王朝から大和朝廷への王朝交代という多元史観によれば、鬼面「鬼瓦」の変遷がうまく説明できるのです。このことを講演会ではパワーポイント画像を交えて説明します。多くの皆さんのご参加をお待ちしています。


第1711話 2018/07/21

日田市から弥生時代のすずり出土

 本日、「古田史学の会」関西例会がi-siteなんばで開催されました。8〜10月もi-siteなんば会場です。竹村さん(古田史学の会・事務局次長)から『日本書紀』に見える捕鳥部萬(ととりべのよろず)の墓守を64代にわたって続けてこられた塚元家(岸和田市)訪問と捕鳥部萬とその忠犬シロのお墓参詣の報告がありました。「河内戦争」により「朝敵」となり八つ裂きにされた捕鳥部萬のお墓を千四百年にわたり守ってこられた墓守の御子孫が現代まで続いているというのは驚きでした。また、その主人の墓を守った犬の名前が「シロ」というのも興味深い伝承です。ちなみに『日本書紀』には「白狗」と記されています。
 関西例会としては珍しいことに、発表時間が余りましたので、急遽、わたしから友好団体の九州古代史の会から送られてきた機関紙『九州倭国通信』191号の掲載記事についての解説をさせていただきました。主に松中祐二さんの「『赤村古墳』を検証する」と「古代史スクラップ 弥生時代のすずり日田でも出土確認」(西日本新聞、2018年6月2日付)を紹介したのですが、特に日田市から弥生時代のすずりが出土していたことの学問的意義と今後の論理展開について説明しました。
 近年、弥生時代のすずりの出土報告が続いていますが、日田市のような山奥からの出土には驚きました。この発見により、弥生時代の倭国では中枢領域の筑前だけではなく、倭人伝に国名が記された広い範囲で文字使用がなされていたと考えることも可能となり、その結果、倭人伝に見える国名・官職名などの漢字表記は倭国側で成立していたとする理解が有力となりました。このように倭国での広範囲な文字使用が弥生時代にまで遡ることになれば、例えば記紀に記された神代の時代の神様の名前の漢字表記の成立も弥生時代まで遡るのではないかという問題さえ出てきます。このように、文字使用の開始時期に関する新たな状況は、古代史研究において従来説の見直しを迫っていると解説しました。
 7月例会の発表は次の通りでした。
 なお、発表者はレジュメを40部作成されるようお願いします。また、発表希望者も増えていますので、早めに西村秀己さんにメール(携帯電話アドレスへ)か電話で発表申請を行ってください。

〔7月度関西例会の内容〕
①『水滸後伝』の「里」(高松市・西村秀己)
②天武五年の封戸入れ替え(八尾市・服部静尚)
③刀剣と祈雨祈晴の祀り事(大山崎町・大原重雄)
④捕鳥部萬と忠犬シロの墓を訪ねて(木津川市・竹村順弘)
⑤新・万葉の覚醒(川西市・正木裕)
⑥『古事記』の文字使用について(東大阪市・萩野秀公)
⑦『九州倭国通信』191号の紹介(京都市・古賀達也)

○正木事務局長報告(川西市・正木裕)
 捕鳥部萬の墓守の御子孫へインタビュー報告・『古代に真実を求めて』21集「発見された倭京 太宰府都城と官道」の発行記念講演会(9/09大阪i-siteなんば、9/01東京家政学院大学千代田キャンパス、10/13久留米大学)の案内・『古代に真実を求めて』22集原稿募集・「古代大和史研究会(原幸子代表)」講演会(講師:正木裕さん「よみがえる日本の神話と伝承」)・11/10-11「古田武彦記念新八王子セミナー」発表者募集・7/27「誰も知らなかった古代史」(森ノ宮)の案内・「古田史学の会」関西例会会場、8〜10月はi-siteなんば、11月は福島区民センター・その他