考古学一覧

第1654話 2018/04/17

神籠石山城の編年方法の検討

 神籠石山城の列石築造について、プレカット工法が採用されているのではないかとする作業仮説(思いつき)を「洛中洛外日記」で連載したことがあります。第893〜895話「神籠石築城はプレカット工法(1〜3)」(2015/03/09-11)です。その要点は次のようなものでした。

 「中国(隋・唐)からの侵略の脅威に備えて、『同時期多発』で首都太宰府や各地の主要都市防衛の山城築城に迫られたが、『石垣』タイプ築城に必要な大量の石組工人を確保できなかったため、比較的簡易に築城できる神籠石タイプを採用したのではないでしょうか。
 大石の運搬は大変ですが、石切場で同じサイズに加工された石であれば、現地に運搬した後は並べるだけでよいのですから、これなら指導的工人が少人数でも築城が可能だからです。すなわち石材のプレカット工法を九州王朝は採用したのです。事前に寸法通りカットされた石材であれば、山頂や急斜面での石材の加工場所は不要ですから、ある意味では合理的な工法なのです。」

 神籠石がプレカット工法であることは、まず疑いのないところと思いますが、そうであれば石切場では正確に寸法を計測して石材を加工したばずです。中でもその「高さ」は、神籠石列石の構造上の必要性から、正確に切りそろえなければなりません。なぜなら、「長さ」や「奥行き」は少々不揃いでも構造上それほど問題となりませんが、「高さ」だけはそろえておかないと、その列石の上に土塁を構築するのに不便だからです。その点、「長さ」は一列に並べればよいのですから、必ずしも統一する必要はありませんし、「奥行き」も最終的には列石の内側を土で埋めますから、これもそれほど問題とはなりません。
 こうした理解を前提にすれば、石切場で神籠石の「高さ」を規定の寸法で整形するため、そのとき使用した「尺」によって測定され、統一化されているはずです。そうであれば、どの「尺」が採用されたかを計算で割り出し、時代により長さが変化した「尺」との対応により、神籠石山城築造のおおよその年代が判明するのではないでしょうか。
 たとえば「南朝尺」類が使用されていれば、石材の「高さ」から約25cmで割り切れる整数値が得られる蓋然性が高くなり、「北朝尺」類が使用されていれば約30cmで割り切れる整数値が得られるとする考え方です。この方法で各地の神籠石山城の石材の「高さ」から、南朝尺使用時代か北朝尺使用時代かの大まかな編年が可能ではないかと考えています。これから調査検証してみます。


第1650話 2018/04/13

古代日本銘文鏡のフィロロギー

 「洛中洛外日記」1646話(2018/04/10)「縄文神話と縄文土器のフィロロギー」で、『古田史学会報』145号に掲載された大原重雄さんの「縄文にいたイザナギ・イザナミ」の画期性について述べました。古代人の思想性や精神文化をフィロロギーにより復元する方法として、縄文土器の文様を史料として採用するという着眼点が素晴らしい論文でした。
 このように従来は思想史の史料として省みられなかった物について、古田先生から託されたテーマがあります。30年ほど前のことだったと思いますが、三角縁神獣鏡に記された銘文について、学界は単なる中国伝来の「吉祥句」として受け止めているが、これら国産鏡に記された銘文は当時の日本人の思想や価値観を著した第一級の同時代史料であり、フィロロギーの研究対象であると古田先生からうかがいました。そして誰かこの研究をやってもらいたいとも言われました。
 このときの先生の言葉が今でもときおり脳裏に浮かぶのですが、わたしの研究対象から外れていたこともあり、全く手をつけてきませんでした。ところが今回の大原論文に触発され、少しずつでも始めなければ冥界の先生に叱られるのではと思うようになりました。
 三角縁神獣鏡の紋様や銘文についての古田先生の見解については「三角縁神獣鏡の盲点」(古田史学の会HPに収録)が参考になります。どなたか一緒に研究しませんか。


第1649話 2018/04/13

九州王朝「官道」の造営時期

 「古田史学の会」は会誌『発見された倭京 太宰府都城と官道』(明石書店、2018年3月)において、太宰府を起点とした九州王朝「官道」を特集しました。その後、同書執筆者の一人である山田春廣さんが、ご自身のブログ(sanmaoの暦歴徒然草)において「東山道」の他に「東海道」「北陸道」についての仮説(地図)を発表されました。こうした古田学派研究陣による活発な研究活動に刺激を受けて、わたしも九州王朝「官道」について勉強を続けています。
 中でも九州王朝「官道」の造営時期について検討と調査をおこなっているのですが、とりあえず『日本書紀』にその痕跡がないか精査しています。山田さんが注目され、論文でも展開された景行紀に見える「東山道十五国」も史料痕跡かもしれませんが、そのものずばりの道路を意味する「大道」については次の三つの記事が注目されます。

(A)「この歳、京中に大道を作り、南門より直ちに丹比邑に至る。」『日本書紀』仁徳14年条(326)
(B)「難波より京への大道を置く。」『日本書紀』推古21年条(613)
(C)「処処の大道を修治(つく)る。」『日本書紀』孝徳紀白雉4年条(653)

 (B)(C)はいわゆる「難波大道」に関する記事と見なされて論争が続いています。(A)は、仁徳の時代に「京」はないとして、歴史事実とは見なされていないようです。
 わたしたち古田学派としてのアプローチは『日本書紀』のこれらの記事が九州王朝系史料からの転用かどうかという視点での史料批判から始めなければなりませんが、わたしとしては確実に九州王朝系史料に基づいた記事は(C)ではないかと考えています。すなわち、前期難波宮を九州王朝が副都として造営したときにこの「大道」も造営したと考えれるからです。また、実際に前期難波宮朱雀門から真南に通る「大道」の遺構も発見されており、考古学的にも確実な安定した見解と思います。
 しかし、この「処処の大道」が太宰府を起点とした「東海道」「東山道」などの「官道」造営を意味するのかは、『日本書紀』の記事だけからでは判断できません。7世紀中頃ではちょっと遅いような気もします。本格的検討はこれからですが、(A)(B)も含めて検討したいと思います。

 


第1648話 2018/04/12

発見された後期難波宮の大規模区画と官衙群

 前期難波宮には律令官制に対応した東西の官衙遺構が発見されています。服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の研究によれば、律令官制を支える中央官僚は八千名に及ぶとの試算が示されています。他方、前期難波宮の上部に造営された聖武天皇の後期難波宮には前期難波宮のような大規模官衙遺構の発見がありませんでした。
 ところが、大阪文化財研究所発行『葦火』185号(2017年4月)に高橋工さんの「後期難波宮西方で官衙地区を初めて発見」という報告が掲載されていることに気づきましたので紹介します。
 発見された遺構は難波宮史跡公園の西、大阪医療センター内に位置し、後期難波宮の五間門区画の塀と官衙(役所)建物群が見つかりました。8世紀の土器が出土しており、後期難波宮の遺構と見て問題ありません。しかも南北の規模は約200m、東西は100m以上あることもわかりました。これは内裏をも凌駕する規模をもっていた可能性もあるとされています。
 今回の調査区は「五間門区画」と呼ばれているもので、後期難波宮大極殿の西方にあり、東面に2棟の五間門を持つ、掘立柱塀を巡らせた一画です。五間門は宮殿の正門などに採用される格式の高い門とされ、この区画を天皇や上皇の御在所とする説もあるそうです。その南側からは堀立柱建物群も発見されており、これらは官衙の一部と見られています。このことから「五間門区画」の南方に官衙群が展開していたと推定されています。
 後期難波宮は、神亀3年(726)から聖武天皇によって造営が始められ、天平16年(744)に一時的に皇都として定められましたが、遷都期間が短かったこともあり、実際に都の機能を有していたか不明でした。しかし今回の発見により、政治を行う機能が備わっていたことが証明されたと思われます。このことは多元史観・九州王朝説にとっても無関係ではありません。今後、七世紀における九州王朝の都城を論じる場合、宮殿だけではなく、律令官制の中央官僚群が政務に就いていた大型官衙遺構の出土が不可欠となったからです。
 たとえば、7世紀における律令官制による全国統治が可能な官衙遺構を持つ王都は、太宰府(倭京)、前期難波宮(難波京)、近江大津宮(近江京)、藤原宮(藤原京)が知られています。7世紀において、これら以外の地に九州王朝(倭国)の王都があったとする場合は、宮殿・官衙遺構の明示を一元史観論者から求められることでしょう。この一元史観論者からの指摘や批判に答えられるような理論構築がわたしたち古田学派の研究者には必要です。先月発行した『発見された倭京 太宰府都城と官道』もそうした取り組みの一環なのです。


第1647話 2018/04/11

後期難波宮の基幹排水路と谷の整地

 大阪文化財研究所が発行している『葦火』188号(2018年1月)に高橋工さんによる「後期難波宮の石組 基幹排水路を発見」という発掘調査報告が掲載されており、その中に興味深い記事がありましので、ご紹介します。
 今回発見されたのは後期難波宮の東側に南北に伸びる基幹排水路で、前期難波宮造営時に埋め立てられた谷の整地層(厚さ2.4m以上)の上に造られた石組溝として出土しました。この溝について、次のように説明されています。

 「これらの溝は、宮殿の雨水や廃水を集めて流した基幹的な排水溝とみてよいでしょう。排水溝に集まった水は、地形にそって南へ流れ、調査地付近で暗渠となって、整地層の下から埋められていない谷へ排出されたものと考えられます。」

 そして、わたしが最も注目したのは次の指摘です。

 「整地層の分布から、宮殿の中枢部に近い谷の北部のみを埋め立て、調査区より南側は谷が埋め立てられずに残っていたとみられます。また、整地層のすぐ北側には、朱雀門から東へ延び、宮の南を画する塀があるはずです。塀のすぐ外側は谷が埋め立てられていなかったことになり、大規模な土木工事である整地が、必要最小限の範囲で行われたことを示しているとみてよいでしょう。」

 このように前期難波宮造営時に、上町台地に入り組んでいる急峻な谷を平地にまで埋め立てているものの、それは必要最小限だったようです。逆から言えば、宮殿造営に必要であれば大きな谷も埋め立てたということを意味します。次のような記述もあります。
 「調査区はこの谷を東西方向に横断していたので、谷の幅が約40mであることがわかりました。谷の中は、約3.5m掘っても底が出なかったので、それ以上の深さです。
 これほど急峻な谷は、難波宮を造営する際には障害となったはずです。実際、この谷は2.4m以上の厚さをもつ整地層で埋め立てられ、平地として造成されていました。」

 前期難波宮朱雀門の南側に谷が入り込んでいることを根拠に、難波京には朱雀大路が無かったとする見解があったのですが、今回の調査で、宮殿のすぐ側で平地にまで埋め立てた整地層が発見されたことにより、難波京造営にあたり、朱雀大路にかかる谷も埋め立てられたと考えてもよいと思われます。難波宮は発掘調査のたびに新発見が続き、前期難波宮九州王朝副都説を提唱するわたしとしては目が離せません。


第1646話 2018/04/10

縄文神話と縄文土器のフィロロギー

 『古田史学会報』145号で発表された大原重雄さんの「縄文にいたイザナギ・イザナミ」は「古田史学の会」関西例会での発表を論文化したものです。大原さんの発表を聞いたとき、わたしはその学問の方法と縄文神話という未知の領域に挑んだ画期的な研究に驚きました。そして同時に脳裏に浮かんだもう一つの論文がありました。
 古田武彦「村岡典嗣論 時代に抗する学問」(『古田史学会報』38号、2000年6月)です。『古田武彦は死なず』(古田史学の会編、明石書店、2016年)にも収録した、古田先生にとっての記念碑的論文です(自筆原稿を古田先生から記念にいただきました。古賀家の家宝としています。自筆原稿の写真も『古田武彦は死なず』に掲載)。
 その中で村岡典嗣先生の論文「日本思想史の研究方法について」を紹介された部分があります。村岡先生がドイツのアウグスト・ベエクのフィロロギーを日本思想史として取り入れられたのですが、その思想史という学問について古田先生は次のように紹介されました。

「第一に、思想史は、『ある意味において文化史に属する』こと。
 第二に、外来の思想を摂取し、その構成要素としつゝも、その間に、何等かの『日本的なもの』を発展して来たところ、そこに思想史の目標をおかねばならぬこと。
 第三に、外国における日本思想史学の先蹤として、第十八世紀の末から第十九世紀へかけて、ドイツの学界において学問的に成立した学問として『フィロロギイ』が存在すること。
 第四に、その代表者たるアウグスト・ベエクがのべている『人間の精神から産出されたもの、則ち認識されたものの認識』という定義がこの学問の本質をしめしている。
 第五に、ただし『思想史の主な研究対象といへば、いふまでもなく文献である。』
 第六、宣長が上古、中古の古典、即ち古事記や源氏物語などの研究によつて実行したところは、十分な意味で、『フィロロギイと一致』する。」

 そして、古田先生はこの村岡先生が取り扱われた学問領域について、次のように「批判」されています。

 「以上の論述の中には、今日の問題意識から見れば、矛盾とは言えないけれど、若干の問題点を含んでいると思われる。
 その一は、縄文時代における『人間の認識』だ。右の論文の記せられた昭和初期(発表は九年)に比すれば、近年における縄文遺跡の発掘には刮目させられる。三内丸山遺跡はもとより、わたしが調査報告した足摺岬(高知県)の巨石遺構に至るまで、当時の『認識範囲』をはるかに超えている。おびただしい土器群と共に、これらが『人間の認識』に入ること疑いがない。先述のベエクの定義によれば、これらも当然『フィロロギイ』の対象である。彼が古代ギリシヤの建築・体育・音楽等をもその研究対象としている点からも、この点はうかがえよう。
 確かに、縄文世界の真相は、ただ個々の遺物や遺跡に対する考古学的研究だけではなく、同時に『思想史学的研究』にとってもまた、不可欠の対象領域ではなかろうか。けれども、その十分なる方法論を学的に構築しようとした論文・著述を見ること、世に必ずしも多しとしないのではあるまいか。」

 この最後の部分にある「縄文世界の真相は、ただ個々の遺物や遺跡に対する考古学的研究だけではなく、同時に『思想史学的研究』にとってもまた、不可欠の対象領域ではなかろうか。けれども、その十分なる方法論を学的に構築しようとした論文・著述を見ること、世に必ずしも多しとしないのではあるまいか。」という指摘を思い出したのです。
 古田先生が待望されていた縄文世界の真相に肉薄する「その十分なる方法論を学的に構築しようとした論文」が大原論文であり、わたしたち古田学派の中から生まれた研究と言っても過言ではないと思います。古田先生が生きておられたら、大原さんの研究を高く評価されたことでしょう。


第1644話 2018/04/08

百済伝来阿弥陀如来像の流転(6)

 観世音寺寺域から出土した百済系単弁軒丸瓦を根拠に、観世音寺に先だって建立された「仮設寺院」に観世音寺の本尊となる百済伝来阿弥陀如来像が安置されていたとする作業仮説(思いつき)に至りましたが、それではその「仮設寺院」は何と呼ばれていたのでしょうか。また、百済系単弁瓦の編年において、一元史観の通説では7世紀後半から7世紀末とされているのですが、この問題について更に深く考えてみました。
 まず寺院名ですが、素人判断では阿弥陀如来像を本尊とするのであれば観世音寺では不自然な気がします。観世音寺であれば観世音菩薩像を本尊にしてほしいところです。しかしながら観世音寺の本尊が阿弥陀如来像であったことは文献に見えており、疑えません。したがって、現時点では「仮設寺院」の名称は不詳とせざるをえません。
 次に「仮設寺院」の創建年代ですが、わたしの説に対応させるのであれば、創建観世音寺が白鳳10年(670)ですから、「仮設寺院」は百済系単弁瓦の編年から7世紀前半頃となるのですが、実は本テーマを執筆していてもう一つの可能性にも言及する必要があることに気づきました。それは通説の編年観に立った場合、観世音寺寺域に先在した百済系単弁瓦の「仮設寺院」が、『二中歴』や『勝山記』などに白鳳10年に創建されたとある「観世音寺」ではなかったかという可能性です。もしそうであれば、いわゆる天智により発願された観世音寺はその「仮設寺院」を取り壊して、同じ場所に造営された創建観世音寺(完成は8世紀前半とする)ということになります。これですと、通説の編年と矛盾無く整合します。
 この問題の鍵は百済系単弁瓦が九州王朝(倭国)で7世紀後半まで採用されたのか否かというテーマとも関連しており、引き続き検討を続けたいと思います。


第1642話 2018/04/06

百済伝来阿弥陀如来像の流転(5)

 下原幸裕「〔発掘調査速報〕大野城跡クロガネ岩城門出土の軒丸瓦」(『都府楼』46号、古都太宰府保存協会。2014年)によれば、観世音寺寺域からの出土した百済系単弁軒丸瓦は、新旧あわせて42片あり、その編年を7世紀後半とされています。太宰府では観世音寺寺域に集中出土していることから、創建観世音寺以前に観世音寺と関連した伽藍があったと推定され、それを「仮設建物か」と次のように解説されています。

 「ところで、既に述べたように020A型式は観世音寺の発掘調査でも一定量出土していて、文様的にも後出すると考えられる020B型式も観世音寺のみで出土している。他の単弁瓦を含まず、観世音寺の寺域という局所的な出土は、政庁周辺の単弁瓦の在り方とは異質で、政庁Ⅰ期段階の官衙関連施設の一部が観世音寺周辺にも存在したというより、観世音寺そのものに関わる建物(本格的な伽藍完成までの仮設建物か)に用いられた可能性が高いのではないか。」(60頁)

 この下原さんの推定が正しかった場合、この百済系単弁軒丸瓦を用いた「本格的な伽藍完成までの仮設建物」は何のために建てられたのでしょうか。わざわざ瓦葺きで造営された建造物ですから、大切な物の長期「保管」を前提としたと考えざるを得ません。そうしますと、観世音寺の本尊とされた百済伝来阿弥陀如来像が安置されていたのではないでしょうか。恐らく百済系瓦が用いられたのも偶然ではなく、百済伝来仏を安置するのにふさわしい瓦が選ばれたと考えることもできそうです。もちろん、これは一つの作業仮説に過ぎませんが、他に有力な安置寺院やその伝承が見あたらないことから、他の適切な仮説を提起できません。
 それでは百済伝来阿弥陀如来像が「本格的な伽藍完成までの仮設建物」に安置されたのはいつ頃でしょうか。状況証拠からの推測でしかありませんが、上限は九州王朝が太宰府遷都した倭京元年(618)、下限は百済が滅亡した660年とできますから、大枠としては7世紀前半頃としてよいと思います。
 ちなみに、7世紀前半は九州王朝仏教に浄土信仰・阿弥陀如来信仰の痕跡が色濃く残っている時代です。たとえば、九州王朝の天子多利思北孤の崩御により造られた法隆寺釈迦三尊像光背銘には「浄土」などの用語が見えますし、その太子の利歌彌多弗利の時代には、「聖徳太子」と善光寺如来との往復書簡「命長七年文書」(「命長」は九州年号、七年は646年)の存在が知られています。

 「       御使 黒木臣
名号称揚七日巳 此斯爲報廣大恩
仰願本師彌陀尊 助我濟度常護念
   命長七年丙子二月十三日
進上 本師如来寶前
       斑鳩厩戸勝鬘 上」
 『善光寺縁起集註』(天明五年〔一七八五〕成立)※「命長七年文書」については『「九州年号」の研究』(古田史学の会編、ミネルヴァ書房。2012年)所収の拙稿「九州王朝仏教史の研究」をご参照下さい。

 このように九州王朝(倭国)で阿弥陀如来信仰が興隆したときに、百済から阿弥陀如来像が伝来したと考えることに無理はありません。(つづく)


第1641話 2018/04/05

百済伝来阿弥陀如来像の流転(4)

 創建観世音寺の金堂跡から出土した基壇の瓦積について説明します。小田和利「観世音寺の伽藍と創建年代」(『観世音寺 考察編』九州歴史資料館、2007年)には次のように記されています。

 「第3節 金堂
 調査の結果、44次数に及ぶ発掘調査をとおして、今回、初めて創建期と考えられる瓦積基壇を検出した。また、創建期から明治期に及ぶⅤ期の基壇変遷が明らかとなるなど大きな成果が得られた。(中略)
 ここで注目されるのが、瓦積基壇の基壇化粧として用いられた格子目叩打痕平瓦片である。この平瓦片は偏行忍冬唐草紋軒平瓦(瓦形式541A)の凸面に叩打された格子目と同一であり、偏行忍冬唐草紋軒平瓦は観世音寺南面築地推定地にあたる第122次調査の井戸SE3680から老司Ⅰ式軒丸瓦・軒平瓦とともに出土しており、井戸SE3680出土の土器年代から8世紀前半頃と考えられる。近年、観世音寺の創建年代を考察した小田富士雄によれば、偏行忍冬唐草紋軒平瓦の年代を観世音寺Ⅱ期(和銅2年・709〜和銅4年・711)に比定することができるとしている。」(3頁)

 このように創建観世音寺の金堂基壇出土瓦を老司Ⅰ式(複弁蓮華紋の瓦当を持つ)の時代としており、通説ではそれを8世紀前半頃とし、わたしは7世紀後半頃としているわけです。今回のテーマである百済伝来阿弥陀如来像はこの創建金堂に安置されたのですが、通説では少なくとも百済滅亡の660年から710年頃の約半世紀以上の間、どこか別の場所に置かれていたことになり、わたしの説の場合は少なくとも10年以上どこかに安置されていたことになります。(つづく)


第1640話 2018/04/04

百済伝来阿弥陀如来像の流転(3)

 百済から伝来した創建観世音寺の本尊金銅阿弥陀如来像は白鳳十年(670)の観世音寺完成までどこに安置されていたのでしょうか。百済滅亡が660年ですから、それ以前に伝来したことと思われますから、短くても10年以上はどこかに安置されていたと考えざるを得ないのですが、そのような伝承を持つ寺院などの存在は知られていません。わたしが観世音寺創建白鳳十年説に至ったとき、この問題が脳裏をよぎりました。しかし、よい解決案を見い出せずにきました。
 そのような中、九州歴史資料館で赤司さんからいただいた下原幸裕「〔発掘調査速報〕大野城跡クロガネ岩城門出土の軒丸瓦」(『都府楼』46号、古都太宰府保存協会。2014年)に大野城や太宰府から出土した軒丸瓦を記した地図「大野城周辺の単弁軒丸瓦の分布」があり、7世紀前半頃と思われる百済系単弁軒丸瓦が観世音寺寺域から出土していることを知りました。観世音寺創建瓦は老司Ⅰ式(7世紀後半)とわたしは理解していますので、それよりも古い百済系単弁軒丸瓦の出土には驚きました。そこで同論文を読んでみると、この百済系単弁軒丸瓦は観世音寺創建瓦ではなく、それ以前に当地にあった寺院のものと推定されていました。
 創建観世音寺の金堂跡から出土した基壇は瓦積みであり、その瓦は老司Ⅰ式と同時期と編年されており、一元史観の通説では8世紀前半と編年されています。老司Ⅰ式瓦が7世紀後半頃であれば、金堂の基壇に用いられた瓦も7世紀後半頃となり、創建観世音寺の建立を7世紀後半の白鳳十年(670)とする文献史料(『勝山記』他)の記述と整合します。したがって観世音寺寺域から出土した百済系単弁軒丸瓦が創建観世音寺以前に当地にあった寺院のものとする判断は穏当です。(つづく)


第1632話 2018/03/25

向井一雄『よみがえる古代山城』を読む

 今日は久しぶりに用事がなかったので、向井一雄さんの『よみがえる古代山城 国際戦争と防衛ライン』(吉川弘文館。2016年)を読みました。同書は書店で立ち読みしたことはあったのですが、まだ購入していませんでした。ところが過日の久留米大学での講演会で、菊池市から見えられた吉田正一さんから同書中の「九州王朝築城説」部分のコピーをいただき、そこに古田説の紹介と批判がありましたので、先週末、名古屋出張のときに購入しました。
 著者の向井さんは古代山城研究会の代表で、その分野を代表する研究者です。従って、考古学的知見だけではなく文献にも詳しく、とても勉強になる好著です。しかしながら、同書は終始一貫して近畿天皇家一元史観に貫かれており、それにあうように古代山城の考古学的事実を解釈されています。そのため古代山城研究の第一人者としての説得力ある部分と、一元史観に依拠したための避け難い弱点が併存しています。
 これから同書を精読し、多元史観・九州王朝説による批判的対比と検討を進めていく予定です。(つづく)


第1630話 2018/03/18

水城築造は白村江戦の前か後か(3)

 水城築造年次を考察するあたり、その築造開始年と完成年など築造期間年数についても最後に触れておきたいと思います。
 水城基底部から出土した敷粗朶は土と交互に何層も積み上げられ、その上に版築層がまた積み上げられています。こうした遺構の状況から、当初、わたしは何十年もかけて水城が築造されたと漠然と理解していました。しかし、発掘調査報告書を精査することより、水城は数年という短期間で完成したのではないかと考えるようになりました。既に「洛中洛外日記」などで紹介してきましたが、このことについて改めて説明します。

①敷粗朶は、地山の上に水城を築造するため、基底部強化を目的としての「敷粗朶工法」に使用されていた。
②平成13年の発掘調査では、発掘地の地表から2〜3.4m下位に厚さ約1.5mの積土中に11面の敷粗朶層が発見された。それは敷粗朶と積土(10cm)を交互に敷き詰めたもの。
③その統一された工法(積土幅や敷粗朶の方向)による1.5mの敷粗朶層は短期間で築造されたと考えられる。
④基底部を形成する敷粗朶層の上の積土層部分(1.4〜1.5m)の築造もそれほど長期間を必要としない。
⑤その基底部の上に形成された版築層も1年以内で完成したと考えられる。版築は梅雨や台風の大雨の時期を挟んでの工事は困難である。従って秋の収穫期を終えた農閑期に行わなければならず、翌年の梅雨の季節前に完成する必要がある。従って、版築工事は1年以内の短期間に完了したと考えざるを得ない。

 以上の諸点を考えると、水城築造は数年で完成したと考えるべきですし、それは可能と思われます。従って、築造開始は唐・新羅との開戦を目前にして、白村江戦前から始まり、白村江戦敗北の翌年に完成したと考えても問題ないと思います。(了)