考古学一覧

第1047話 2015/09/08

「武蔵国分寺跡」主要伽藍と塔の年代差

 今日の午後は東京で商談を行い、今は上越新幹線で新潟県長岡市に向かっています。明日は朝から新潟県の代理店・顧客訪問です。

 武蔵国分寺跡資料館の中道さんの説明によりますと、武蔵国分寺跡で最も古い「塔1」の造営年代は聖武天皇の国分寺建立命令(天平13年、741年)が出された7世紀中頃で、金堂などのその他の主要伽藍は10年ほど遅れて造営されたとのことでした。この10年ほど遅れたとする根拠も、天平19年(747)に出された、国分寺建設を3年以内に完成させろという命令でした。いずれも『続日本紀』を史料根拠とした造営年の判断ですが、出土瓦からも「塔1」の方が金堂のものよりも古い様式を持つという相対編年に依られているようです。
 「塔1」と主要伽藍の先後関係については、わたしも賛成なのですが、「塔1」を『続日本紀』を根拠に8世紀中頃とする判断には疑問を持っています。「洛中洛外日記」1045話で指摘しましたように、「単弁蓮華文」軒丸瓦はもう少し古く見ても良いよう思いますし、第一の疑念はたった10年ほどの年代差で主軸が7度も振れる設計を同一寺院内の建造物で行うものでしょうか。また、10年後なら「塔1」を設計造営した人たちはまだ健在であり、造営主体が同一の権力者であれば、このような不細工な「設計変更」をするでしょうか。この疑問を中道さんにぶつけたのですが、返答に困っておられたようでした。
 更に、考古学者は出土事物に基づいて編年すべきであり、文献に編年が引きずられるというのはいかがなものかと、遠回しに「苦言」を呈したのですが、真剣に受け止めていただきました。その応答や態度から、とても誠実な考古学者との印象を受けました。大和朝廷一元史観の宿痾は、現場でまじめに発掘調査されている若い考古学者も苦しめているのだなあ、と思いました。
 なお、わたしが難波宮についていろいろと教えていただいている大阪歴博の考古学者は、考古学は発掘事実に基づいて編年すべきで、史料に影響を受けてはいけないと言われていたことを思い出しました。一つの見識を示したものと思いますが、考古学と文献史学のあり方や関係性は学問的に重要な問題ですので、この問題についても考えを述べてみたいと思います。(つづく)


第1046話 2015/09/08

「武蔵国分寺跡」主要伽藍調査報告書の方位

 今朝は新幹線で東京へ「とんぼ返り」です。月曜日は勤務先の定例会議がありますので、どうしても京都に帰らなければなりません。また今日から金曜日までは関東・新潟出張が連泊で続きます。

 武蔵国分寺跡資料館などでいただいた資料を精査していますと、面白いことに気づきました。国分寺市教育委員会発行のパンフレット「武蔵国分寺跡調査のあゆみと成果 -僧寺金銅跡-」(平成26年3月)によりますと、表紙に描かれた「武蔵国分寺跡の主要遺構」では、金堂などの主要伽藍の南北軸は真北より7度西偏しているのですが、別のページに記載された明治36年の図面(『古蹟』武蔵国分寺礎石配列図)では金堂の礎石配列が南北方位印と平行しており、西偏していないのです。同様に掲載されている大正12年発行『東京府史蹟勝地調査報告書』第一冊収録の「金堂址礎石配置図」も南北方位印に平行しており、西偏していません(調査が実施されたのは大正11年)。更に昭和31年の発掘調査の図面も西偏していません。平成21〜24年の最新調査の説明文に付された金堂礎石配置図も西偏していません。
 この国分寺市教育委員会発行のパンフレットを精査して、わたしの頭か眼がおかしくなったのかと不安にかられてしまいました。そこで今度は恐らく最新版パンフレットと思われる平成27年3月に国分寺市教育委員会ふるさと文化財課発行の「武蔵国分寺跡の整備」を見ますと、最も精密な測量図が掲載されており、金堂・講堂・鐘楼・南門などすべてが7度西偏していました。これでようやく「武蔵国分寺」主要伽藍が「塔1」を除いて7度西偏していることが確認されました。もちろん、9月5日の現地調査でも西偏を確認しています(茂山憲史さんのご協力による)。
 それではなぜ明治や大正、昭和31年の測量図面では伽藍主軸方位が真北として作図されていたのでしょうか。これは推定ですが、恐らくそれらの測量図作成において「磁北」が「方位印」として採用されたのではないでしょうか。ということは、明治時代から現在までこの地域の磁北は真北から「7度西偏」していたことになり、そうであればこれらの測量図がうまく説明できます。「磁北」が時期や地域によりどのくらい振れるのかは知りませんが、この地域では明治から現在まで「7度西偏」としてよさそうです。たぶん、明治時代以後であれば「磁北」についての科学的測定データが残されているのではないでしょうか。
 それにしても、行政が発行しているパンフレットや昔の報告書も用心して取り扱わなければならないということを改めて実感しました。よい経験となりました。(つづく)


第1045話 2015/09/07

「武蔵国分寺」七重塔創建瓦の編年

 「洛中洛外日記」1044話の「武蔵国分寺」現地調査緊急報告で書きましたように、「塔1」(七重塔)の造営年代は8世紀中頃とされていますが、その根拠は『続日本紀』の聖武天皇の国分寺建立詔に基づくものであり、出土瓦などによる考古学的事実によるものではないことがわかりました。
 出土瓦だけからは編年が難しいのかもしれませんが、同遺跡の「塔1」創建瓦として展示されているものは「単弁八葉蓮華文」であり、7世紀後半によく見られる「複弁」ではありません。むしろ7世紀初頭や前半の瓦に似ているように思われ、どこかで見たような記憶がありましたので、持参していた『一瓦一説』(森郁夫著)に記載されている瓦と見比べたところ、7世紀前半頃とされる法輪寺(奈良県生駒郡斑鳩町)の軒丸瓦・軒平瓦の文様によく似ていました。もちろん、全く同じではありませんし、編年には地域性もありますから、断定するものではありません。
 また、武蔵国分寺跡資料館の発掘担当者の中道さんの説明によれば、『一瓦一説』に掲載されているような「(この地域では)きれいなものは見たことがない」とのことで、確かに展示されていた瓦は近畿の博物館などで見るような整った瓦はありませんでした。「複弁蓮華文」の軒丸瓦も、この地方ではほとんど出土していないと説明されていましたので、畿内の瓦の様式編年をそのまま適用するには用心が必要なようです。
 しかしながら、それでも「武蔵国分寺」の「塔1」の編年が、考古学的出土物よりも『続日本紀』の聖武天皇の国分寺建立命令の詔勅(天平13年、741年)を根拠に8世紀中頃以後とされているのは、大和朝廷一元史観の宿痾と言わざるを得ません。やはり多元史観による「九州王朝の国分寺建立」という視点で、各地の国分寺遺跡の編年見直しが必要と思われます。(つづく)

 報告は、肥さんの夢ブログ(中社)内の

古田史学に再掲載。


第1044話 2015/09/05

「武蔵国分寺」現地調査緊急報告

 肥沼孝治さん(古田史学の会・会員)のご案内で、「東山道武蔵路」「武蔵国分寺」「武蔵国分尼寺」などの現地地調査を行いました。総勢8名で3時間ほどかけて、しっかりと見学できました。そして、予想を上回る成果をあげることができました。考察はこれからですが、取り急ぎ事実関係を中心に緊急報告を行います。
 武蔵国分寺跡資料館などで次の知見、説明を得ました。これらの持つ意味については、順次「洛中洛外日記」で考察します。

1.七重塔の造営年代は8世紀中頃とされていますが、その根拠は『続日本紀』の聖武天皇の国分寺建立詔に基づくものであり、出土瓦などによる考古学的事実によるものではない。瓦からは編年が難しいとされているようでした。
2.真北に主軸を持つと思っていた「塔2」の発掘図面を精査すると、東に約5度ほど振れており(茂山憲史さんの指摘・測定による)、真北に主軸を持つ「塔1」(七重塔)とは造営年代や造営主体が異なると思われる。
3.「武蔵国分尼寺」の主軸も、内部の伽藍により異なっていた。尼坊とその他の伽藍(金銅・講堂など)の主軸にはずれがありました。
4.同地域には7世紀の遺跡がないとされており、従って「塔1」の編年も8世紀中頃とする根拠の一つにされていた。

 他にも現地でなければわからない知見が次から次へと得られました。「歴史は脚にて知るべきものなり(秋田孝季)」という言葉を実感しました。懇切丁寧に説明していただいた武蔵国分寺跡資料館の中道さん石井さん、そして下見やご案内をしていただいた肥沼さんに感謝いたします。(つづく)

多元的「武蔵国分寺」現地調査

 報告は、肥さんの夢ブログ(中社)とリンクしています。


第1034話 2015/08/23

前期難波宮の方位精度

 古代寺院などの「7度西偏」磁北説に対して、吹田市の茂山憲史さん(古田史学の会・会員)から貴重なアドバイスのメールをいただきました。次の通りです。

  「それにしても、偏角1度というのは、時計文字盤の「1分」の6分の1という微妙な角度です。全国にそんなにたくさんの「7度西偏」の建造物があるとは考えにくいのではないでしょうか。6度や8度がもっとある気がします。それにもかかわらず、ある時期以降、「磁北」がプランの中心流行になったと言うことは確かだと思います。簡便だからです。それが九州王朝に始まるのか、近畿王朝以降に始まるのか、興味津々です。僕の推測としては、九州王朝に始まる気がしています。「指南魚」という文化の伝播速度と九州王朝の進取の気風を考慮したいのです。朝鮮半島への伝播も興味が湧きます。」

 茂山さんは現役時代は新聞社に勤めておられ、天文台への取材経験などから、磁北や歳差について多くの知見を持っておられます。昨日の関西例会でも、本件についていろいろと教えていただきました。
 そこで古代建築の方位精度について、どの程度のレベルだったのかについて調査してみました。以前、前期難波宮遺構について大阪歴博の李陽浩さんから教えていただいたことがあったので、李さんの論文を探したところ、『大阪遺産 難波宮』(大阪歴史博物館、平成26年)に収録された「前期・後期難波宮の『重なり』をめぐって」を見つけました。
 李さんは古代建築史の優れた研究者で、多くの貴重な研究成果を発表されています。同論文には前期難波宮の南北中軸線方位の精密な測定結果が掲載されており、その真北との差はなんと「0度40分2秒(東偏)」とのことで、かなり精密であり高度な測量技術がうかがわれます。後期難波宮も前期難波宮跡に基づいて造営されているのですが、その真北との差も「0度32分31秒(東偏)」であり、両者の差は「誤差に等しいとしても何ら問題がない数値といえよう。」と李さんは指摘されています。古代の測量技術もすごいですが、残された遺跡からここまで精密な中心軸方位を復元できる大阪歴博の考古学発掘技術と復元技術もたいしたものです。
 この前期難波宮は九州王朝の副都であるとわたしは考えていますから、7世紀中頃の九州王朝や前期難波宮を造営した工人たちが高度な測量技術を有していたことがわかります。おそらくこの精度は高度な天体観測技術が背景になって成立していたと思われますが、「磁北」を用いる場合は、方位磁石の精度も必要となりますから、はたして古代において、どのような方位磁石が日本列島に存在し、いつ頃から建築に使用されたのかが重要テーマとして残されています。歴史の真実への道は険しく、簡単にはその姿を見せてはくれません。引き続き、調査と勉強です。(つづく)


第1014話 2015/08/03

九州王朝説への「一撃」

 先日、正木裕さんと服部静尚さんが見えられたとき、最勝会の開始時期を『二中歴』「年代歴」の記事にあるように白雉年間とするのか、通説のように「金光明最勝王経」が渡来した8世紀以降とするのかという服部さんの研究テーマについて意見交換しました。そのおり、仏教史研究において、九州王朝説への「一撃」とも言える重要な問題があることを指摘しました。
 九州王朝の天子、多利思北孤が仏教を崇拝していたことは『隋書』の記事などから明らかですが、その活躍した7世紀初頭において、寺院遺跡が北部九州にはほとんど見られず、近畿に多数見られるという現象があります。このことは現存寺院や遺跡などから明確なのですが、これは九州王朝説を否定する一つの学問的根拠となりうるのです。まさに九州王朝説への「一撃」なのです。
 7世紀後半の白鳳時代になると太宰府の観世音寺(「白鳳10年」670年創建)を始め、北部九州にも各地に寺院の痕跡があるのですが、いわゆる6世紀末から7世紀初頭の「飛鳥時代」には、近畿ほどの寺院の痕跡が発見されていません。これを瓦などの編年が間違っているのではないかとする考えもありますが、それにしてもその差は歴然としています。
 同様の問題が宮殿遺構においても、九州王朝説への「一撃」として存在していました。すなわち7世紀中頃としては列島内最大規模で初の朝堂院様式を持つ前期難波宮の存在でした。通説通り、これを孝徳天皇の宮殿とすれば、この時期に評制施行した「難波朝廷」は近畿天皇家となってしまい、九州王朝説が瓦解するかもしれなかったのです。この問題にわたしは何年も悩み続け、その末に前期難波宮九州王朝副都説に至り、この「一撃」をかわすことができたのでした。
 これと同様の「一撃」こそ、7世紀初頭の寺院分布問題なのです。このことを正木さん服部さんに紹介し、三人で論議検討しました。この検討結果については、これから少しずつ紹介したいと考えていますが、こうした問題意識から、わたしは『古代に真実を求めて』20集の特集テーマとして「九州王朝仏教史の研究」を提案しました。今後、編集部で検討することとなりますが、この九州王朝説への「一撃」を古田学派は逃げることなく、真正面から受けて立たなければなりません。


第1011話 2015/08/01

宮城県栗原市・入の沢遺跡と九州王朝

 7月29日(水)の読売新聞朝刊に不思議な記事が掲載されていました。「大和王権と続縄文 交流と軋轢」という大和朝廷一元史観丸出しの見出しで紹介された宮城県栗原市・入の沢遺跡の記事です。
 記事によれば、宮城県栗原市の入の沢遺跡で発見された、古墳時代前期(4世紀)の集落跡から銅鏡4面や勾玉や管玉、ガラス玉、斧などの鉄製品が出土したとのこと。集落は標高49mの丘陵上にあり、環濠で囲まれており山城のような防御遺構とされています。
 わたしが注目したのは建物跡から出土した珠文鏡などの銅鏡です。銅鏡をシンボルとする文明圏に属する集落と思われますから、いわゆる「蝦夷国」ではなく、九州王朝系に属する遺構と思われるのですが、その時期が4世紀と編年されていますから、邪馬壹国の卑弥呼と「倭の五王」の間の時間帯です。わたしのこれまでの認識では、倭王武の伝承と思われる『常陸国風土記』の倭武天皇伝承によれば、5世紀段階でも九州王朝の勢力範囲は北関東・福島県付近までと考えていたのですが、入の沢遺跡の発見により4世紀段階で宮城県北部まで「銅鏡文明」が進出していたこととなり、九州王朝説の立場からも再検討が必要と思われます。
 また、「洛中洛外日記」515話で紹介した新潟県胎内市の城の山古墳(4世紀前半と編年されている)から出土した盤龍鏡とともに、この時代の九州王朝系勢力の北上が新潟県や宮城県付近にまで及んでいたと考えざるを得ないようです。現地の古田学派研究者による調査検討が期待されます。


第1004話 2015/07/21

猪垣(ししがき)と神籠石

 今日は久しぶりの北陸出張です。特急サンダーバードの車窓から湖西線沿いに電気柵が設置されているのが見えました。静岡県で鹿除けの電気柵で感電死事故が発生するという痛ましいニュースが流れたばかりでしたので、特に目に付いたのかもしれません。
 湖西線沿線や比叡山付近にはお猿さんが出没し、農作物被害を受けているとの話を聞いたことがあります。日枝神社ではお猿さんを神様の使いとしていますから、周辺住民も駆除しにくいのかもしれません。日本の信仰では動物が神様の使いとされたり、神様の化身とされるケースが少なくなく、たとえば奈良の春日大社の鹿なども有名です。もっとも現在は「神様のお使い」としての役割以上に「観光資源」として鹿さんたちは役立っていますから、少々の被害は目をつぶることになります。また、アイヌの「熊」も同様の例と言えるでしょう。
 現在は電気柵で獣害から農作物を守っていますが、昔は石積みの「猪垣(ししがき)」を巡らしてイノシシによる作物被害を防いでいました。今でも和歌山県熊野地方には長蛇の猪垣が山中や人里に連なっています。以前、古田先生や小林副代表らと熊野山中の猪垣を見学に行ったことがあります。古田先生はこの猪垣を神籠石のような山城の防壁跡ではないかと考えられ、現地見学となったものですが、実際に見てみますと高さも低く、石積みも堅牢とは言い難いもので、これでは敵の侵入を防げるものではないことがわかりました。やはり、ずっと昔から農家が累々とイノシシ除けに築造した「猪垣」だと思われました。小林さんも同意見だったようです。
 猪垣は山から降りてくるイノシシの田畑への侵入防御施設ですから、平地から攻めてくる敵軍の山城への侵入防御を目的としている神籠石とはその構造が全く異なります。すなわち、防御する向きと、「敵」がイノシシなのか武装集団なのかという防御対象も全く異なりますから、その構造が異なるのは当然です。
神籠石は大きな列石とその上に築かれた版築土塁、更にその上には柵が巡らされており、下からの侵入が困難な構造です。対して猪垣は山から降りてくるイノシシが超えられない程度の高さの積石による石垣と、山側にはイノシシを捕まえるための「落とし穴」が設けられています。
 「猪垣」調査のときは私自身の不勉強もあって、その差を十分には理解できていませんでしたが、最近の古代山城の研究により、こうした認識にまでようやくたどり着けました。引き続き、勉強していきたいと思います。なお、小林副代表は「猪垣」調査時点で既にこうした差異に気づかれていたようです。


第1000話 2015/07/17

九州王朝説から見た鍍金鏡

 台風11号の接近で開催が危ぶまれていた京都祇園祭の山鉾巡行は決行されることになったようです。本当かどうかはわかりませんが、山鉾巡行は「小雨は決行。大雨なら強行」という方針らしく、今回は台風ですので、どうなるのか興味津々でした。なお、わたしは仕事で大阪出張のため、いずれにしても見ることはできません。

 おかげさまで「洛中洛外日記」も今回で1000話となりました。早いもので開始して10年が経ってしまいました。少しずつでも成長できていれば良いのですが、近年、視力や記憶力が低下しているようで、昔に書いた論文の内容や存在そのものを忘れていることも少なくありません。そんなとき、「古田史学の会」のホームページで検索して思い出せますので、ありがたいことです。
 最近、気になってしかたがないテーマとして、古墳出土の鍍金鏡があります。国内出土鍍金鏡は数枚ほどと言われており、とても珍しく貴重な遺物です。有名なものでは、福岡県糸島市一貴山銚子塚古墳(4世紀)出土の鍍金方画規矩四神鏡と熊本県球磨郡あさぎり町才園(さいぞん)古墳(6〜7世紀)出土の鍍金獣帯鏡があります。この他にも岐阜県揖斐郡大野町城塚古墳出土の鍍金獣帯鏡が知られています(五島美術館所蔵)。
 これら鍍金鏡はいずれも中国製とされているようですが、一貴山銚子塚古墳は年代も比較的古く、糸島地方最大の前方後円墳ですから、九州王朝内でも高位の人物の墓であり、鍍金鏡は有数の宝物の一つと言えそうです。この鏡が国産なのか中国製なのか、鍍金も中国で行われたのか国内で行われたのかというテーマがあります。
 以前、古田先生は卑弥呼がもらった「黄金八両」がこの鏡の鍍金に用いられたのではないかと指摘されましたが、この時代の倭国に鍍金技術(水銀アマルガム法か)が果たしてあったのかという問題もあります。
 才園古墳の鍍金鏡については、その出土地が熊本県南部の「山中」ということも気になります。なぜ肥後国内でもこのような奥地から出土したのかという疑問があるのですが、やはり現地の土地勘がなければ何とも判断できません。中国南部の呉国との関係を指摘する見解もあるようですが、「呉鏡」とすれば九州王朝と「呉」との関係も検討が必要です。
 以上のように鍍金鏡については疑問だらけです。これから勉強したいと思いますが、どなたか詳しい方がおられればご教示いただきたいと願っています。


第986話 2015/06/23

「肥後の翁」と「加賀の翁」の特産品

 筑紫舞を代表する翁の舞で最も古いタイプとされる「三人立」は「都の翁」(都は筑紫)と「肥後の翁」「加賀の翁」により舞われます。筑紫舞ですから「都の翁」(筑紫)は当然ですが、何故「肥後」と「加賀」から翁が来たのでしょうか。あるいは選ばれたのでしょうか。その理由がようやくわかりかけてきました。
 まず「肥後の翁」ですが、「洛中洛外日記」第948話「肥後の翁」の考古学で紹介しましたように、弥生時代の後期・末期になると福岡県を抜いて、熊本県の鉄器出土点数がダントツで一位になります。これは阿蘇山付近から「鉄」が産出されるようになったことが背景にあります。従って、それまで主に朝鮮半島から鉄を得ていた倭国は自前の鉄供給が可能になったと思われます。すなわち、「肥後の翁」の特産品「鉄」が「都」に献上されたのでしょう。
 次に「加賀の翁」ですが、これも「洛中洛外日記」第942話の筑紫舞「加賀の翁」考で紹介しましたように、米田敏幸さんの研究により、古墳時代初頭を代表する布留式土器の産地が加賀(小松市近辺)であることと関係していると思われます。しかし、土器であれば布留式土器よりも古い庄内式土器の発生地である播磨地方などもありますから、よく考えると今一つ「加賀の土器」では、「翁の舞」に選ばれるにしてはインパクトに欠けるのです。
ところがこの疑問が晴れたのです。先日の「古田史学の会」記念講演会で講演していただいた米田さんと懇親会で隣席になりましたので、そこでしつこくお聞きしたことが、加賀の土器が全国各地や韓国の釜山まで運ばれているとのことだが、中には何が入っていたのですかという質問です。
 わたしはてっきり土器だから液体を入れて運んだと考えていたのですが、米田さんはきっぱりと否定され、布留式甕(かめ)では液体は漏れるので運べないとされ、液体を入れるのは甕ではなく壷(つぼ)だが、壷はそれほど移動していないとのことなのです。
 そこでわたしは更に質問を続け、液体でなければ何が入っていたのですかとお聞きしたところ、麻袋ではなく、わざわざ甕に入れて運ぶのだから貴重なものと考えられるとのこと。わたしは更に食い下がり、貴重なものとは何ですかと問うたところ、「グリーンタフだと思います」とのこと。「グリーンタフ? 何ですかそれは」とお聞きしますと、緑色凝灰岩(green tuff)という緑色をした「宝石」で、小松市から産出するとのことです。
これを聞いて、「加賀の翁」が「三人立」の翁の一人に選ばれた疑問が氷解したのです。「加賀の翁」は緑色の「宝石」の原石を加賀の特産品として「都の翁」に献上したのです。
 「肥後の翁」は「鉄」を、「加賀の翁」はグリーンタフを布留式土器に詰めて都(筑紫)に上り、倭王に献上したので、その伝承が背景となり筑紫舞を代表する「翁の舞」の登場人物として現代まで舞い続けられているのです。こうなると、次なるテーマは「五人立」「七人立」に登場する他の翁についても、その特産品(献上品)が気になります。引き続き、調べてみたいと思います。とりあえずは、米田先生に感謝です。


第985話 2015/06/21

未完成山城「見せる城」説への疑問

 「洛中洛外日記」983話で紹介しました亀田修一さんの好論文「古代山城は完成していたのか」(『鞠智城Ⅱ -論考篇1-』熊本県教育委員会、2014年)に、未完成に終わった神籠石山城について、未完成の理由として当初から街道などから見える部分のみの造営であったとする「見せる城」説なるものが紹介されていました。この「見せる城」説は「駅路からみた山城-見せる山城論序説-」(『月刊地図中心』453、2010年)で向井一雄さんが提唱されたもので、今回はこの説について考察します。
 亀田さんは先の論文で次のような興味深い考察を示されています。

「このように神籠石系山城に未完成のものが多いという意識で古代山城全体を見てみると、以前から検討されてきた築城時期の問題に関しては、朝鮮式山城より古い城で未熟であったため工事が止まったという考えも成立するように思われるし、逆に7世紀末頃に築城が始まり、すぐに城が不必要になったため、工事を停止したとも考えられ、やはり答えは簡単に出そうにない。」(35頁)
「まず、完成した山城の場所はそれぞれの地域の中に重要な場所であることが改めてわかる。そしてやはり記録にもあるように古い段階から築城され始めたのではないかと推測される。
未完成の山城は、意図的な未完成なのか、それとも否応なしの未完成なのか。「見せる城」という意識は当然存在したと思われる。ただ、それによって当初から、たとえば一部しか造ることを考えていなかったのか、それとも工程の関係で停止し、そのままになったのか、などによって築城時の様子が推測できそうである。そしてこれらの「未完成」、途中での停止は単なる偶然ではなく、当時の政治・社会情勢を反映したものと考えられる。」(37頁)

 このように亀田さんは未完成山城の「未完成」理由として「見せる城」説を紹介しながら、他方、「そしてこれらの「未完成」、途中での停止は単なる偶然ではなく、当時の政治・社会情勢を反映したものと考えられる。」とのするどい指摘をされています。この亀田さんの指摘に答えたものが、「洛中洛外日記」983話で記した「ONライン(701年)」による未完成とする考えでした。7世紀末に発生した九州王朝から大和朝廷への列島内権力交代が、未完成山城の発生理由としたものです。これこそ、亀田さんが言われるように「7世紀末頃に築城が始まり、すぐに城が不必要になったため、工事を停止した」事情なのです。
 しかし大和朝廷一元史観ではこのような「政治・社会情勢」を想定しない(できない)ため、「見せる城」という「無理筋」の仮説を提起せざるをえないという状況に陥いるのではないでしょうか。
 現在わたしが再読中のクラウゼヴィッツの『戦争論』には、「第六篇 防御」で「山地防御」について次のように考察されています。
 クラウゼヴィッツによれば、山地防御は歩兵火器の進歩などにより経験的に見てもそれほど効果的な防御ではないとのこと。その理由は攻撃側が防御ラインを迂回して攻撃するので、それを防ぐために防御側は防御ラインを横へ横へと広げなければならず、その結果、防御側の兵員が分散配置で手薄になった防御ライン正面に対して、攻撃側が兵力を集中させ一点突破をはかるので、山地の地形を利用した防御ラインもそれぼと効果的ではなくなるとされています。
 そのため、山地防御をより効果的にするために要塞化するという防御思想が形成され、古代山城はまさにその典型と思われます。この要塞化とは攻撃側の迂回攻撃を無意味にするために、山の周囲に防塁を造るわけですが、これこそ神籠石山城や大野城の姿なのです。従って、街道から見えるところだけに「防塁(見せる城)」を造営するというのは、本来の意味での防御の体をなしていません。せいぜい虚仮威しの「防御施設」のようなものでしかないのです。
 このような虚仮威しに屈する侵略者がいるのかどうかは知りませんが、虚仮威しにしては神籠石山城はその巨石の運搬や築城の技術、さらにその上に盛る版築技術など、かなりの労力と高度な築城技術が必要であり、そこまで労力をつぎ込んで防御の役に立たない虚仮威しのための施設(当初から「未完成」を前提とした山城・見せる城)を造る古代権力者を、わたしにはちょっと想像できません。
 こうしたことから、未完成山城の未完成の理由は、やはり亀田さんが言われるように「途中での停止は単なる偶然ではなく、当時の政治・社会情勢を反映したもの」であり、その政治・社会情勢こそ九州王朝から大和朝廷への権力交代政変「701年王朝交代(ONライン)」にあったと考えられるのです。
 なお、わたしは「見せる城」説を提起された向井一雄さんの「駅路からみた山城-見せる山城論序説-」を未見ですので、拝読した上で改めて意見を述べたいと思います(インターネット上に掲載されている向井さんの説は拝見しました)。向井さんは学界を代表する古代山城の専門家にふさわしく、多くの研究論文を発表されており、それらはとても勉強になりますし、刺激も受けています。たとえば、「西日本の古代山城遺跡 -類型化と編年についての試論-」(1991年、『古代学研究』第125号)において、「鞠智城は大宰府陥落後の九州内の拠点として用意されたとみておきたい」との見通しをのべられているとのことです。非常に興味深い視点です。こちらの論文も是非拝読したいと思います。


第983話 2015/06/17

神籠石山城のONライン(701年)

 「洛中洛外日記」981話で鞠智城の8世紀初頭の一時廃絶とその理由について述べましたが、神籠石山城でも似たような現象があることに気づきました。
 鞠智城訪問のおり、木村龍生さん(熊本県立装飾古墳館分館歴史公園鞠智城温故創生館)からいただいた『鞠智城Ⅱ -論考篇1-』(熊本県教育委員会、2014年)に掲載されている亀田修一「古代山城は完成していたのか」によれば、『日本書紀』などの史料に記されている「朝鮮式山城」6遺跡と記録に見えない「神籠石山城」16遺跡中、外壁・城門などが完成しているものは大野城・基肄城・金田城・鞠智城・鬼ノ城・御所ケ谷神籠石の6遺跡で、明確に未完成と見られるものは唐原山城跡・阿志岐城跡・鹿毛馬神籠石・女山神籠石・おつぼ山神籠石・播磨城山城跡など6遺跡以上とのことです。
 いわゆる「朝鮮式山城」に比べて「神籠石山城」の方が未完成のものが多いことがわかります。九州王朝説から見れば、首都太宰府防衛を目的とした主要山城である大野城・基肄城、そして朝鮮半島との中継基地でもある対馬の金田城が完成形であることは当然でもあります。他方、唐との戦いに備えて急いで造営されたと思われる神籠石山城に未完成のものが多いというのも、九州王朝から大和朝廷へ王朝交代したONライン(701年)の存在からすれば、造営主体である九州王朝の滅亡により、完成を待たずして放置されたと考えることができます。すなわち、近畿天皇家という「親唐政権」が列島の代表権力者になったため、神籠石山城の必要性も減少したのではないでしょうか。
 ここで注目されるのが鬼ノ城です。鬼ノ城は神籠石一段列石と積石タイプの石垣とが併用された山城ですが、太宰府から遠く離れているにもかかわらず、完成形の山城です。九州王朝の首都太宰府を防衛する大野城・基肄城と同様に完成した山城ということですので、太宰府に準ずるような防衛すべき都市や重要人物が近隣にいたためではないでしょうか。
 そうした視点で鬼ノ城を見たとき、『日本書紀』天武8年条(679年)に見える「吉備大宰」の石川王の記事が注目されます。九州王朝の高官と同じ「大宰」と称された石川王が吉備にいたのですから、完成した山城の鬼ノ城と無関係とは考えられません。この「吉備大宰」も九州王朝説により研究が必要です。(つづく)