東北王朝(蝦夷国)一覧

第3561話 2025/12/18

多元史観で見える蝦夷国の真実 (13)

   ―安日彦以前の「山」系図―

 津軽と筑紫の交流を裏付ける、砂沢水田遺跡(青森県弘前市)と板付水田遺跡(福岡市博多区)の工法の類似と、津軽に逃げた安日王伝承を記す「秋田家系図」「藤崎系図 安倍姓」を根拠とするわたしの考察〝蝦夷国の中でも津軽は特別な領域で、エミシという和訓は、筑紫の先住民「愛瀰詩(えみし)」に淵源する〟には、古田先生による怖い仮説が待ち受けていました。それは『真実の東北王朝』で発表された次の論証と仮説です(注①)。

 〝不思議な史料がある。もちろん、『東日流外三郡誌』の中だ。
「譜
安東浦林崎荒吐神社譜より
山大日之國命 *山大日見子(妹)――山祇之命――山依五十鈴命――山祇加茂命――山垣根彦命――山吉備彦命――山陀日依根子命――山戸彦命――安日彦命 *長髄彦命――荒吐五王

  右の如く、東日流国古宮に遺れるを祖系図とせば、誠に以て耶馬台国王なるを偲ぶるに、日之本国に神代あるべきもなく、民族の起こしたる国造りなり。
元禄十年は月二日 藤井伊予」
(小館衷三・藤本光幸編『東日流外三郡誌』第一巻古代編、北方新社、昭和五十八年刊、一〇頁)
右は、安日彦・長髄彦以前の系譜だ。
ほとんどの場合、いきなり、右の両者から話がはじまるのが常だ。
ところが、ここにはこの両人を「九代目」とする系譜がある。それが両人活躍の当地、安東浦の林崎、その荒吐神社に伝えられていた。その文書を、元禄十年(一六九七)、藤井伊予が書写した。その書写本を、さらに孝季が「再写」しているのだ。孝季の「偉大なる書写の大業」が、津軽における学的伝統をもっていたことが知られよう。

 さて、「安日彦命・長髄彦命、前」の八代には、きわ立った特徴がある。いずれもみな、「山」の一字を冠していることだ。
あの、記・紀の天照大神以降の各代に、しばしば「天、(=海)」が冠せられているように、否、それ以上に、一回の例外もなく、「山」が冠せられている。

 そしてその故地(筑紫)をはなれた、安日彦・長髄彦において、はじめて「山」がなくなる。

 してみると、彼等の故国は、「山」と呼ばれるところであった。――そういう様相を呈しているのだ。

 ところで、読者は記憶せられているであろう。三世紀の「邪馬壹国」と五世紀の「邪馬臺国」は同一地域であり、両者に共通する「邪馬(=山)」こそ、この地域の中心国名であった、と。

 これは『失われた九州王朝』以来の、わたしの年来の持説だった。

 今、その「山」をこの系図に見出し、わたしは慄然とせざるをえない。

 『東日流外三郡誌』は、あまりににも“危険”で、あまりにも“魅力”に富む、一大史料集成だった。〟 (『真実の東北王朝』第五章 東日流外三郡誌との出会い 「『山』を父祖の地とする勢力」)
※「*山大日見子(妹)」は「山大日之國命」の左に併催。八幡書店版『東日流外三郡誌』1古代篇 (436頁)には、「山大日美子(妹)」とある。「*長髄彦命」は「安日彦命」の左に、兄弟として併記。
それぞれの名前にはルビがふってあるが、本稿では省略した。(古賀)

 『東日流外三郡誌の逆襲』の上梓後、この一節に〝再会〟したとき、わたしは震え上がりました。当シリーズを書き進め、ようやくたどり着いた考察が、『東日流外三郡誌』に採録された安日彦・長髄彦の祖系譜に基づく古田先生の仮説と一致していたからです。

 江戸時代の津軽の伝承を採録した『東日流外三郡誌』を古代史研究の史料として使用することに、わたしは一貫して用心してきました。むしろ、意識的に避けてきました。当の『東日流外三郡誌の逆襲』でも、「『東日流外三郡誌』を古代史研究の史料としてどの程度信頼できるのかという悩ましい問題が残っています。」と述べていたほどです(注②)。あまりにも“危険”で、あまりにも“魅力”に富む『東日流外三郡誌』を史料根拠として古代史研究に使用することに、二の足を踏んでいました。

 しかし恩師の仮説は『東日流外三郡誌』を古代史研究に使用したもので、その論理・論証を無視することはできません。論理の導くところへ行こう。たとえそれが何処に至ろうとも。古田学派の研究者であれば、恩師のこの言葉から逃げてはならないからです。(つづく)

(注)
①古田武彦「『山』を父祖の地とする勢力」『真実の東北王朝』駸々堂、平成二年(1990)。ミネルヴァ書房版 165~166頁。
②古賀達也編『東日流外三郡誌の逆襲』「特別対談『東日流外三郡誌の逆襲』」 398頁。


第3560話 2025/12/17

多元史観で見える蝦夷国の真実 (12)

 筑紫から津軽に逃げた「愛瀰詩」の伝承

 本シリーズの最後に、古田先生によるちょっと怖い仮説を紹介します。

 神武紀歌謡に見える、勇敢な、かつ敬意を表す字面で記された「抵抗勢力」愛瀰詩(えみし)を天孫降臨時(筑紫侵攻)のニニギが戦った筑紫の先住民とした場合、筑紫と東北地方(蝦夷国)との交流を示す痕跡があるはずです。それこそが、本シリーズの「洛中洛外日記」3546話(2025/11/03)〝多元史観で見える蝦夷国の真実(2) ―古代の津軽と筑紫の交流―〟同3549話(2025/11/15)〝多元史観で見える蝦夷国の真実(5) ―津軽に逃げた安日王伝承―〟で紹介した考古学と文献史学の二つのエビデンスです。

《考古学エビデンス》―古代の津軽と筑紫の交流―
古代に遡る津軽(蝦夷国)と筑紫の交流の痕跡として、青森県弘前市の砂沢水田遺跡がある。同水田遺跡は関東の水田遺跡よりも古く、その工法が福岡県の板付水田と類似する。同遺跡は弥生前期(2400~2300年前)の本州最北端の水田跡遺跡で、北部九州を起源とする遠賀川系土器が出土しており、九州北部の稲作農耕が日本海沿岸を経由して津軽平野へ伝播してきたことを示す。
さらに、青森県南津軽郡田舎館村の弥生時代中期(2100~2000年前)の垂柳遺跡からも656面の水田跡が検出され、津軽平野には稲作をはじめとする弥生文化が受容されていたことを示す。

 これらは関東の稲作遺構よりも早く、言わば、関西や関東を通り越して筑紫の稲作集団や同技術・土器文化が津軽(蝦夷国)へ移動伝播したことを示している。

《文献史学エビデンス》―津軽に逃げた安日王伝承―
「秋田家系図」「藤崎系図 安倍姓」は始祖を「孝元天皇」とするものだが、その後に「開化天皇―大毘古命―建沼河別命―安部将軍―安東―(後略)」と続き、「建沼河別命」と「安部将軍」の間に次の傍記が挿入されている。
「兄安日王
弟長髓彦
人皇之始。有安日長髓〈以下十一行文字不分明故付記之〉安東浦等是也。
安国
安日後孫。」※〈〉内は細注。

 ここに見える安東浦とは西津軽群深浦町深浦のこと。「秋田家系図」では、安日王は弟の長髄彦が神武天皇の東征の時に抵抗し殺された後、津軽に逃れ安倍一族の始祖となったとある。わたしの研究では、これは『日本書紀』の神武東征記事の影響を受け、系図に挿入されたもので、本来は天孫降臨説話からの盗用とする。古田武彦氏も安日彦・長髄彦兄弟がニニギ軍の天孫降臨(筑紫侵攻)により、津軽へ稲穂(稲作技術)を持って逃げた伝承とした(注①)。

 この考古学と文献史学両分野の筑紫と津軽との交流を示すエビデンスは、神武紀の「愛瀰詩」伝承もこのことと深く関係しているのではないかとする仮説を成立させます。そしてこの仮説は、当シリーズ3548話(2025/11/08)〝多元史観で見える蝦夷国の真実(4) ―都加留は蝦夷国の拠点か―〟、3558話(2025/12/14)〝多元史観で見える蝦夷国の真実(10) ―「蝦夷国」深奥の謎、和訓「エミシ」―〟で提起した次の問題の解をも示唆します。

❶『日本書紀』斉明五年(659年)七月条では、なぜ小領域の都加留(津軽)が、広領域の麁蝦夷(あらえみし)・熟蝦夷(にきえみし)と肩を並べて唐の天子に紹介されているのか。しかも三種の蝦夷の冒頭だ。最も遠方で小領域の都加留を最初に紹介するのは不自然。
国名表記の字面にも〝格差〟が見える。都加留の場合は一字一音表記で、「都」のように好ましい漢字が使用されている。比べて、麁蝦夷・熟蝦夷の場合は「蝦」や「夷」のように貶めた漢字だ。都加留に「蝦夷」表記がないのはなぜか。

❷わが国の古代史学では蝦夷をエミシと訓むのが常だ。なぜ、わが国では蝦夷を「カイ」ではなく、エミシと訓むのか。

 これらの考察は、〝蝦夷国の中でも津軽は特別な領域で、エミシという和訓は、筑紫の先住民「愛瀰詩(えみし)」に淵源する〟と発展するのです。このわたしの考察には、古田先生による怖い仮説が待ち受けていました。拙著『東日流外三郡誌の逆襲』(注②)を書き終えたとき、亡き恩師の仮説から逃げることができないことに、わたしは改めて気づいたのです。(つづく)

(注)
①古田武彦「第五章 東日流外三郡誌との出会い」『真実の東北王朝』駸々堂、平成二年(1990)。ミネルヴァ書房より復刻。
②古賀達也編『東日流外三郡誌の逆襲』八幡書店、2025年。


第3559話 2025/12/15

多元史観で見える蝦夷国の真実 (11)

 ―盗まれた神武紀の「愛瀰詩」説話―

 古田先生は『日本書紀』神武紀に見える「愛瀰詩」(注①)を〝神武の軍の相手側、大和盆地の現地人を指しているようである〟とされました。すなわち近畿の先住者(銅鐸圏の住民)と見なし、神武に追われた「愛瀰詩」を東北の蝦夷国と称された人々と同類、あるいは有縁の人々と理解されたようです(注②)。しかし、わたしはこの「愛瀰詩」を天孫降臨時、ニニギが戦った北部九州の先住民と考えています。

 わたしは記紀に見える神武東征記事に天孫降臨説話が盗用されているとする説を2002~2003年に発表しました(注③)。記紀の神武東征説話中に、大和侵攻の主体を「天神御子」(『古事記』)・「天神子」(『日本書紀』)とする記事が突然のように、あるいは「天皇」記事中に紛れ込んでいることにわたしは注目し、「天孫」(アマテラスの子孫)ではあっても、神武は「天神御子」「天神子」(アマテラスの子)ではないとして、この「天神御子」「天神子」を主人公とする説話部分は天孫降臨時のニニギの筑紫・肥前侵攻説話の盗用としました。

 こうした視点に立てば、同じく「天神子」の名前が「天皇」説話に紛れ込んでいる「愛瀰詩」との戦闘譚もニニギらによる天孫降臨説話であり、そこに現れる「愛瀰詩」は北部九州(筑紫・肥前)の先住民ではないでしょうか。なお、神武歌謡の「愛瀰詩」を佐賀県を舞台とした説話とする先行研究が福永晋三氏より発表されています(注④)。古田先生も神武歌謡に筑前糸島で歌われたものがあるとする研究を発表しています(注⑤)。

 この仮説が正しければ、ニニギに追われた「愛瀰詩(エミシ)」と呼ばれ人々は筑紫から東北地方(蝦夷国)に落ち延び、そのため蝦夷国はエミシ国と呼ばれるようになったのではないでしょうか。ちなみに、佐賀県三養基郡には「江見(エミ)」という地名があり、「愛瀰詩」と語源的に関係があるのかもしれません。(つづく)

(注)
①次の神武紀歌謡に「愛瀰詩(エミシ)」が見える。
愛瀰詩烏、毗儴利、毛々那比苔、比苔破易陪廼毛、多牟伽毗毛勢儒。
〔えみしを、ひだり、ももなひと、ひとはいへども、たむかひもせず〕
(「ひだり」は〝ひとり〟。「ももなひと」は〝百(もも)な人〟。『岩波古典文学大系』による。二〇五頁)
②古田武彦『真実の東北王朝』駸々堂、平成二年(1990)。ミネルヴァ書房版 293~294頁。
③古賀達也「盗まれた降臨神話 『古事記』神武東征説話の新・史料批判」『古田史学会報』48号、2002年。『古代に真実を求めて』第五集、明石書店、2002年、に転載。
同「続・盗まれた降臨神話 ―『日本書紀』神武東征説話の新・史料批判―」 『古代に真実を求めて』第六集、明石書店、2003年。
④福永晋三「於佐伽那流 愛瀰詩(おさかなる えみし) ―九州王朝勃興の蔭」『九州王朝の論理 「日出ずる処の天子」の地』古田武彦・福永晋三・古賀達也共著、明石書店、2000年。
⑤古田武彦『神武歌謡は生きかえった』新泉社、1992年。


第3558話 2025/12/14

多元史観で見える蝦夷国の真実 (10)

 ―「蝦夷国」深奥の謎、和訓「エミシ」―

 古田先生の見解によれば、「蝦夷国」の造字は中国側によるもので、〝「倭国」は、中国にとって「東夷」であった。その「東夷の、さらに、はるかなる彼方の夷」、それをしめすのが、「蝦夷」という字面の意義なのである。(「叚」は〝はるか〟の意。「虫へん」は、〝夷蛮用の付加〟。)〟として、蝦夷の音はカイとされました(注)。

 他方、わが国の古代史学では蝦夷をエミシと訓むのが常でした(後にエゾと訓む史料が現れる)。しかし、なぜ、わが国では蝦夷をエミシと訓むのか、ここに蝦夷国研究における深奥の謎があると、わたしは捉えています。

 そもそもエミシという名称の初出は『日本書紀』神武紀です。古田先生は次のように紹介します。

 **敬称として使われた「えみし」**

 では、「えみし」とは。これが、新しい課題だ。『日本書紀』の神武紀に、有名な一節がある。

 愛瀰詩烏、毗儴利、毛々那比苔、比苔破易陪廼毛、多牟伽毗毛勢儒。

 〔えみしを、ひだり、ももなひと、ひとはいへども、たむかひもせず〕

  (「ひだり」は〝ひとり〟。「ももなひと」は〝百(もも)な人〟。『岩波古典文学大系』による。二〇五頁)

 この「愛瀰詩」は、神武の軍の相手側、大和盆地の現地人を指しているようである。岩波本では、これに、

 「夷(えみし)を」

という〝文字〟を当てているけれど、これは危険だ。なぜなら「夷」は、例の〝天子中心の夷蛮呼称〟の文字だ。このさいの〝神武たち〟は、外来のインベーダー(侵入者)だ。「天子」はもちろん、「天皇」でもなかった(「神武天皇」は、後代〈八世紀末~九世紀〉に付加された称号)。

 第一、肝心の『日本書紀』自身、「夷」などという〝差別文字〟を当てていない。「愛瀰詩」という、まことに麗しい文字が用いられている。これは、決して〝軽蔑語〟ではないのだ。それどころか、「佳字」だ、といっていい(「瀰」は〝水の盛なさま〟)。彼等は〝尊敬〟されているのだ。〔『真実の東北王朝』ミネルヴァ書房版 293~294頁〕

 古田先生はこのように述べ、〝「蝦夷」の語は、字面では、差別字。発音では、佳語〟としました。わたしはこの先生の見解に賛成です。

 そして、神武紀の「愛瀰詩」を大和盆地の現地人、すなわち近畿の先住者(銅鐸圏の住民)と見なし、〝日本列島の関東及び西日本の人々、つまり一般庶民は、この東北地方周辺の人々を「えみし」と呼び、敬意を隠さなかった。〟としました。

 このことから、神武に追われた「愛瀰詩」を東北の人々、すなわち、中国から蝦夷国と称された人々と同類、あるいは有縁の人々と理解されたようです。

 中国史書に見える「倭国」を〝九州王朝〟と称したように、この蝦夷国を〝東北王朝〟と先生は名づけました。この認識こそ、古田史学・多元史観の面目躍如です。(つづく)

(注)古田武彦『真実の東北王朝』駸々堂、平成二年(1990)。ミネルヴァ書房より復刻。


第3557話 2025/12/11

多元史観で見える蝦夷国の真実 (9)

古田先生の蝦夷国観(『真実の東北王朝』)

『失われた九州王朝』(注①)で示された古田先生の蝦夷国観は、『真実の東北王朝』(注②)において、更に研ぎ澄まされました。同書第九章「歴史の踏絵 東北王朝」に示された次の二つの視点です。

まず一つ目は、蝦夷国の領域について論じたものです。

**蝦夷国と陸奧国の実態は同じ**

エジプトへ向かう機内で、わたしの思いは「蝦夷国」にあった。あの多賀城碑に銘刻された国名。その実態は、何か。

この問題である。

そして従来の論者が依拠してきた「陸奧国」という国名。それとの関係は何か。

それらを、機内の「夜」の中で、くりかえし反芻していたのである。そしてその想念の結節点、それは次の一語――「蝦夷国と陸奧国の相補性」だった。

すなわち、この両語は〝別の実態〟をもつ国名ではない。一方から見れば「蝦夷国」、他方から見れば、その同じものが「陸奧国」と呼ばれる。そういうことだ。「陸奧国」の方は、もちろん、近畿天皇家側からの〝呼び名〟だ。「蝦夷国」の方は。――これが、わたしの問いだった。〔ミネルヴァ書房版 284~285頁〕

 

二つ目は、「蝦夷国」の字義と誰による命名かについて論じたものです。

**『蝦夷国』とは中国側の造字**

「蝦夷国」とは、何か。この問題をさらに追いつめてみよう。

先ず、誰が、この字面を構成したか。――その答えは、ズバリ言って、中国だ。決して近畿天皇家ではない。

この点、従来の学者は、漫然と、つまり、確たる論証なしに、「近畿天皇家側の造字」と〝信じ〟て、叙述しているものが少なくない。おそらく、『日本書紀』や『古事記』に「蝦夷」の語が多出しているからであろう。

しかしながら、忘れてならぬ史料がある。中国のものだ。

「(顕慶四年、六五九、高宗)十月、蝦夷国、倭国の使に随いて入朝す」(冊府元亀、外臣部、朝貢三)

これは、当然ながら、〝中国中心の目〟から見た、「外臣」(中国は、周辺の国々の王者を「外臣」と称した)の記事。その「外臣」からの「朝貢」の記事である。その中に、この「蝦夷国」の表記が現れている。

これと、並出している「倭国」も、当然ながら、中国側から見た場合、「外臣」である。(それを〝うけいれなかった〟から、唐と倭国〈九州王朝〉との間に戦争〈白村江の戦〉が生じたのだ)。

その「倭国」は、中国にとって「東夷」であった。その「東夷の、さらに、はるかなる彼方の夷」、それをしめすのが、「蝦夷」という字面の意義なのである。(「叚」は〝はるか〟の意。「虫へん」は、〝夷蛮用の付加〟。)〔ミネルヴァ書房版 289~290頁〕

「蝦夷」を中国側の造字とする古田先生の視点と『冊府元亀』に見える「外臣」「朝貢」は、中国と蝦夷国との〝国交〟を不可避としています。こうした視点と蝦夷国観は、蝦夷国研究にとって避けられないテーマなのです。ところが、近畿天皇家一元史観に立つ、わが国の古代史学界はそれを欠いたまま、蝦夷を論じており、ここにも千数百年続く、近畿天皇家一元史観の宿痾を見るのです。(つづく)

(注)

①古田武彦『失われた九州王朝』朝日新聞社、昭和四八年(1973)。ミネルヴァ書房より復刻。

②古田武彦『真実の東北王朝』駸々堂、平成二年(1990)。ミネルヴァ書房より復刻。


3555話 2025/12/09

多元史観で見える蝦夷国の真実 (8)

  古田先生の蝦夷国観

   (『失われた九州王朝』)

 このシリーズでは、蝦夷国を独立した国家とする多元史観に基づく認識が必要であることを主張していますが、これはわたしが古田史学に入門以来、抱き続けた問題意識でした。その学問的背景にあったのは古田武彦初期三部作の一つ、『失われた九州王朝』(注①)の次の一節です(ミネルヴァ書房版 213~217頁)。要約して紹介します。

「蝦夷国 本書の論証の目指すところは、九州に連続した王権にあった。これと近畿の王権との関連が焦点となってきたのである。けれども、これと対をなすべき問題がある。近畿の王権の、さらに東方に位置した「蝦夷国」の問題だ。」

 このような書き出しの後、「洛中洛外日記」3554話(2025/12/01)〝多元史観で見える蝦夷国の真実(7) ―唐と倭国(九州王朝)と蝦夷国の関係―〟でも紹介した『日本書紀』斉明紀(斉明五年)の蝦夷記事を取り上げて、次のように指摘します。

「ハッキリいえば、何か〝珍獣〟まがいの扱いだ。(中略)

 このような『日本書紀』の文面にふれたあと、わたしは中国側の文献『冊府元亀(さっぷげんき)』(注②)の中に、つぎの文面を見出して、ハッと胸を突かれた。「(顕慶四年、六五九、高宗)十月、蝦夷国、倭国の使に随いて入朝す」〈冊府元亀、外臣部、朝貢三〉。ここでは、蝦夷国人は観賞用の「珍獣」でも、「珍物」でもない。レッキとした蝦夷国の国使として、唐朝に貢献してきた、と記録されている。年代も『日本書紀』とピッタリ一致している。」

 そして、結論として次のようにまとめています。

 「以上の結論と関連事項を記そう。
(一)『日本書紀』本文は、日本列島全体を〝近畿天皇家の一元支配下〟に描写した。ために、「蝦夷国」を日本列島東部の、天皇家から独立した国家とする見地を、故意に抹殺して記述している。これは九州に対し、たとえば磐井を「国造」「叛逆」として描写するのと同一の手法である。

(二)「蝦夷国の国使派遣」は、歴史事実であるにもかかわらず『旧唐書』『新唐書』には記されていない。これは舒明二年(六三〇)の近畿天皇家派遣の遣唐使が、『旧唐書』や『新唐書』に記載されていないのと同じ扱いである。すなわち、倭人を代表する王権ではなく、辺域に国家として、いまだ『旧唐書』などの「正史」には記載されていないのである。

(三)なお、これと類似した現象は、『冊府元亀』の「琉球国」の記事においてもあらわれている。「煬帝、大業三年(六〇七)三月、羽騎尉朱寛を遣わして、琉球国に使せしむ」〈冊府元亀、外臣部、通好〉。ただし、「琉球国」の場合は、『隋書』俀国伝においても、すでに、「俀国」とは別個に出現している。
以上、日本列島内の多元的国家の共存状況と、『日本書紀』の一元的描写。――両者の対照があざやかである。」

 五十年前に出版された『失われた九州王朝』にある、古田先生の蝦夷国観こそ、本シリーズを貫くわたしの蝦夷研究のバックボーンなのです。(つづく)

(注)
①古田武彦『失われた九州王朝』朝日新聞社、昭和48年(1973)。ミネルヴァ書房より復刻。
②『冊府元亀』は北宋時代に成立した類書。王欽若・楊億らが真宗の勅命により大中祥符六年(1013)に完成させた。巻数は1000巻に及び、分類は31部1104門(実際は1116門)。


第3554話 2025/12/01

多元史観で見える蝦夷国の真実 (7)

 ―唐と倭国(九州王朝)と蝦夷国の関係―

『日本書紀』に「蝦夷国」という国名表記は斉明五年(三月)是月条と同七月条「伊吉連博德書」中の二ヶ所に見えます。次の通りです。要点のみ抜粋引用します。

○斉明五年(659年・三月)是月条
阿倍臣〈名を闕(もら)せり〉を遣して、船師一百八十艘を率いて、蝦夷國を討つ。阿倍臣、飽田・渟代二郡の蝦夷二百卌一人、其の虜卅一人、津輕郡の蝦夷一百十二人、其の虜四人、膽振鉏(いふりさへ)の蝦夷廿人を一所に簡(えら)び集めて、大きに饗(あへ)たまひ祿(もの)賜ふ。〈膽振鉏、此を伊浮梨娑陛(いふりさへ)と云ふ〉卽(すなは)ち船一隻と五色の綵帛(しみのきぬ)とを以て、彼地の神を祭る。肉入籠(ししりこ)に至る。時に菟(とひう)の蝦夷膽鹿嶋(いかしま)・菟穗名(うほな)、二人進みて曰く、「後方羊蹄(しりへし)を以て、政所とすべし。」〈肉入籠、此を之々梨姑(ししりこ)と云ふ。問菟、此を塗毗宇(とひう)と云ふ。菟穗名、此を宇保那(うほな)と云ふ。後方羊蹄、此を云斯梨蔽之(しりへし)と云ふ。政所は蓋(けだ)し蝦夷の郡か〉膽鹿嶋(いかしま)等が語(こと)に隨ひて、遂に郡領を置きて歸る。(後略)

○斉明五年(659年)七月条
秋七月丙子朔戊寅(三日)に、小錦下坂合部連(むらじ)石布・大仙下津守連吉祥を遣(つかは)して、唐國に使(つかい)せしむ。仍(よ)りて道奧の蝦夷男女二人を以て、唐の天子に示す。
〈伊吉連博德(はかとこ)の書に曰く、「同天皇の世に、小錦下坂合部石布連・大山下津守吉祥連等が二船、呉唐の路に奉使(つかは)さる。己未の年(659年)の七月三日を以て、難波三津の浦より發(ふなだち)す。八月十一日に筑紫大津の浦より發す。(中略)潤十月一日に越州の底(もと)に行到(いた)る。十五日に驛(はいま)に乘り京に入る。廿九日に、馳(は)せて東京に到る。天子、東京に在(ま)します。卅日に、天子相見て問訊(と)ひたまはく、日本國の天皇、平安(たひらか)にますや不(いな)やと。(中略)天子問ひて曰く、此等の蝦夷國は何れの方に有るぞや。使人謹みて答ふ、國の東北に有り。天子問ひて曰く、蝦夷は幾種ぞや。使人謹みて答ふ、類(たぐひ)三種有り。遠き者をば都加留と名づけ、次の者をば麁(あら)蝦夷と名づけ、近き者をば熟(にき)蝦夷と名づく。今此れは熟蝦夷なり。歳毎に本國の朝(みかど)に入貢す。天子問ひて曰く、其の國に五穀有りや。使人謹みて答ふ、無し。肉を食いて存活(わたら)ふ。天子問ひて曰く、國に屋舍有りや。使人謹みて答ふ、無し。深山の中にして、樹の本に止住(す)む。天子重ねて曰く、朕、蝦夷の身面の異なるを見て、極理(きはま)りて喜び怪しむ。使人遠くより來(きた)て辛苦(たしな)からむ。退(まか)りて館裏に在れ。後に更(また)相見む。(後略)」〉
〈難波吉士(きし)男人の書に曰く、「大唐に向(ゆ)ける大使、嶋に觸(つ)きて覆(くつが)へる。副使、親(みづか)ら天子に覲(まみ)へて、蝦夷を示(み)せ奉(たてまつ)る。是(ここ)に、蝦夷、白鹿の皮一つ・弓三つ・箭(や)八十を以て、天子に獻(たてまつ)る。」(後略)〉

斉明五年(659年・三月)是月条は、九州王朝時代の記事ですから、九州王朝(倭国)による蝦夷国への侵攻の記録史料に基づくものと思われます。ここでは明確に「蝦夷國を討つ」とありますから、九州王朝は蝦夷国を国家と認識していたと思われます。しかし、その後の記事に依れば、蝦夷らを集めて「大きに饗(あへ)たまひ祿(もの)賜ふ」とあり、実際には戦闘が行われた雰囲気でもありません。また、「政所は蓋(けだ)し蝦夷の郡か」とする記事から、蝦夷国は「政所」と呼ばれる行政単位を持っていたことがうかがえます。国家であれば、国内統治のために下位の行政単位を持つことは当然ではないでしょうか。

その「政所」に「遂に郡領を置きて歸る」とあることから、後方羊蹄の「政所」に「郡領」、実際には「評督」を置き、阿倍臣らは九州王朝に帰国したのではないでしょうか。七世紀中頃に九州王朝は全国に評制を施行し、評督を任命していますから、その一環として蝦夷国にも評制を施行しようとした記事が、この斉明五年是月条の記事だったのではないでしょうか。

斉明五年(659年)七月条も、「道奧の蝦夷男女二人を以て、唐の天子に示す」とあり、九州王朝(倭国)の使者に同行して蝦夷国の使者が唐の天子に謁見したことがうかがえます。

伊吉連博德書にはより詳しく謁見の様子が記されており、「天子問ひて曰く、此等の蝦夷國は何れの方に有るぞや」とあり、唐の天子は蝦夷国を「国」と認識していたことがわかります。

「難波吉士男人書」には、「蝦夷、白鹿の皮一つ・弓三つ・箭八十を以て、天子に獻る」とあり、この「蝦夷」とは蝦夷国から唐への朝貢使であったことがわかります。

これらの蝦夷国記事については、古田武彦氏が早くから着目されていました。(つづく)

〖写真説明〗
“北海道博物館開館記念特別展” 蠣崎波響 「夷酋列像」展 ( いしゅうれつぞう)


第3553話 2025/11/23

多元史観で見える蝦夷国の真実 (6)

 ―蝦夷(蛮族)か蝦夷国(古代国家)か―

 中国史書の『通典』『唐会要』などには「蝦夷国」と表記されており、中国側は蝦夷国が倭国や日本国と同様に東夷の国と認識しています。他方、『日本書紀』には「蝦夷国」という国名表記は二カ所(斉明紀)しか見えません(この点は後述する)。他方、「齶田(秋田)蝦夷」(斉明紀)・「越蝦夷」(天武紀)・「越蝦蛦沙門」(持統紀)・「陸奧蝦夷沙門」(持統紀)などの用例があり、「蝦夷」を「倭人」などと同様の人種名として使用されています。

 こうした『日本書紀』の「蝦夷」使用例の影響を色濃く受けて、日本古代史学において、国家としての「蝦夷国」という認識が不十分なまま、程度の差はあれ、〝大和朝廷に逆らう東北の未開の蛮族〟として蝦夷研究がなされてきたのではないでしょうか。これは大和朝廷一元史観の通説派だけではなく、わたしたち多元史観・九州王朝説を是とする古田学派においても、七世紀後半頃の日本列島に、倭国(九州王朝)・日本国(大和朝廷)・蝦夷国の三国が鼎立(注①)していたとする多元的歴史観を徹底できなかったように思われます。

 通説では、大和朝廷による東北地方の未開の蛮族である蝦夷を討伐(皇化)しながら、律令制下の陸奧国が北へ東へと拡大するというイメージで説明するのが常であり、国家としての蝦夷国への日本国(大和朝廷)による侵略戦争とする視点がなかったのではないでしょうか。

 わたしは国家としての蝦夷国(「蝦夷」という国名を自称していたかどうかは未詳)が実在したのではないかと考えています。その根拠として、注目すべき八世紀の金石文があります。次の銘文を持つ多賀城碑です(注②)。

「西
多賀城
去京一千五百里
去蝦夷国界一百廿里
去常陸国界四百十二里
去下野国界二百七十四里
去靺鞨国界三千里
此城神龜元年歳次甲子按察使兼鎭守將
軍從四位上勳四等大野朝臣東人之所置
也天平寶字六年歳次壬寅參議東海東山
節度使從四位上仁部省卿兼按察使鎭守
将軍藤原惠美朝臣朝獦修造也
天平寶字六年十二月一日」

 多賀城碑には「蝦夷国」「靺鞨国」(注③)という日本国以外の国名と、日本国の律令制下の「国」である「常陸国」「下野国」が記されており、当時の大和朝廷の「蝦夷国」認識がうかがえます。同時代の大和朝廷側の金石文ですから、当時の蝦夷国認識を知る上で最も貴重な同時代史料です。なお古田説によれば(注④)、多賀城は蝦夷国内部に位置するとされています。碑文中に「陸奧国」が見えないことも注目されます。(つづく)

(注)
①古田史学・九州王朝説では、中国の王朝(唐)が承認した列島の代表王朝は九州王朝(倭国)であり、701年に九州王朝から大和朝廷(日本国)への王朝交代がなされたとする。近年のわたしの飛鳥・藤原出土荷札木簡研究によれば、七世紀第4四半期頃(天武期)から近畿天皇家は九州島と蝦夷国を除く日本列島を影響下に置いていたと考えられる(古賀達也「七世紀後半の近畿天皇家の実勢力 ―飛鳥藤原出土木簡の証言―」『東京古田会ニュース』199号、2021年)。
②多賀城碑(たがじょうひ)は、宮城県多賀城市大字市川にある奈良時代の石碑(国宝)。当時陸奥国の国府があった多賀城の入口に立ち、神龜元年(724)の多賀城創建と天平寶字六年(762)の改修を伝える。
③靺鞨(まっかつ)は、中国の隋唐時代に満洲・外満洲(沿海州)に存在したツングース系農耕漁労民族の国で、粛慎・挹婁の末裔。
④古田武彦『真実の東北王朝』駸々堂、平成二年(1990)。ミネルヴァ書房より復刻。

〖写真説明〗多賀城碑拓本・多賀城碑。新婚旅行での多賀城碑前の記念写真。


第3549話 2025/11/15

多元史観で見える蝦夷国の真実 (5)

 ―津軽に逃げた安日王伝承―

 なぜ小領域の都加留(津軽)が唐の天子に紹介されたり、国名(領域名か)表記に使用された漢字に「都」のように好ましい字が使用されており、もしかすると都加留には蝦夷国全体を代表(象徴)するような「都」があったのでしょうか。実は津軽から出土している弥生の水田跡(砂沢遺跡、垂柳遺跡)などに見られるような、倭国(筑紫)と蝦夷国(津軽)との古くからの交流を示す伝承史料があります。それは秋田氏の系図と祖先伝承です。

 旧三春藩の秋田家には次のような逸話があります。そのことを紹介した「安東氏系図とその系譜意識 下国安東氏ノート~安東氏500年の歴史」(注①)より転載します。

【以下、転載】
〔安東氏の系図 エピソード〕
昭和3年8月15日大阪朝日新聞に、大正期の歴史学者で蝦夷研究家でもあった喜田貞吉が伝える話として掲載された、安藤氏系図に関するエピードがある。

 明治17年7月、参議、伊藤博文は憲法制定に先立って華族令を制定し、宮内庁は具体的な手続きのため、旧大名たちにそれぞれの系図の提出を求めた。
各大名たちの系図は、「寛永諸家系図」や「寛政重修諸家譜」などで確認されていたが、ほとんどが江戸初期の編纂で、その先祖を天皇から分かれた形の「源平藤橘」の諸姓につながっている。

 この時、三春藩主秋田映季(あきすえ)の提出した秋田系図に宮内省が困惑した。同系図では、秋田氏の先祖は安倍貞任だが、遠祖が長髄彦の兄・安日王となっている。長髄彦は日本史上初めての皇室への反逆者である。皇室の藩屛になる華族の先祖が逆賊では困る。宮内省は、その取り扱いに苦慮し、(長髄彦のない)別の系図の提出を求めた。 それに対して、秋田家の主張は「当家は神武天皇御東征以前の旧家ということをもって、家門の誇りとしている。天孫降臨以前の系図を正しく伝えているのは、出雲国造家と当家のみである。」こう答えて、自家系図の改訂を断った、という。

 喜田貞吉は、秋田家の気概をたいそう褒めていた。また、このようなことがあったということは、公式的には秋田家は否定したという。
【転載、終わり】

 同類の伝承が記された系図に「藤崎系図 安倍姓」(注②)があります。当系図は始祖を「孝元天皇」とするものですが、その後に「開化天皇―大毘古命―建沼河別命―安部将軍―安東―(後略)」と続き、「建沼河別命」と「安部将軍」の間に次の傍記があります。

「兄安日王
弟長髓彦
人皇之始。有安日長髓〈以下十一行文字不分明故付記之〉安東浦等是也。
安国
安日後孫。」
※〈〉内は細注。

 ここに見える「安東浦」とは西津軽群深浦町深浦のこととされ、この系図の子孫に前九年の役で敗死した安倍貞任がいます。これら安東(安藤)氏系図には自らの出自を「蝦夷」とする例が散見されます。また秋田家系図では、安日王は弟の長髄彦が神武天皇の東征の時に河内の日下で抵抗し殺された後、津軽に逃れ安倍一族の始祖となったとあります。(つづく)

(注)
①「安東氏系図とその系譜意識 下国安東氏ノート~安東氏500年の歴史」
https://www4.hp-ez.com/hp/andousi/page10
②「藤崎系図 安倍姓」『群書系図部集 第六』続群書類従完成会編。永正三年(1506)の書写奥書を持つ。

 


第3548話 2025/11/08

多元史観で見える蝦夷国の真実 (4)

  ―都加留は蝦夷国の拠点か―

 なぜ小領域の都加留(津軽)が、広領域の麁蝦夷(あらえみし)・熟蝦夷(にきえみし)と肩を並べて唐の天子に紹介されたのでしょうか。しかも三種の蝦夷の冒頭に紹介されています。紹介する側(倭国の使者)の立場からすれば、使者に同行し、「毎歳本國の朝に入貢」している熟蝦夷から紹介するのが当然のように思われますが、最も遠方で小領域の都加留を最初にするのは不自然ではないでしょうか。更に言えば、国名(領域名か)表記に使用された漢字にも〝格差〟が見えます。

 都加留の場合、一字一音表記であり、どちらかといえば「都」のように好ましい漢字が使用されています。比べて、麁蝦夷・熟蝦夷の場合は「蝦」や「夷」のように貶めた漢字です。また、蝦夷は三種あると紹介しているのに、都加留には蝦夷という表記が付けられていません。三種が同等であれば、せめて「都加留蝦夷」と表記すべき所でしょう。

 もしかすると、都加留には蝦夷国全体を代表(象徴)するような「都」があったのでしょうか。九州王朝(倭国)や大和朝廷(日本国)からの侵略に備えて、本州で最も遠い都加留に蝦夷国の拠点を置いたとしても不思議ではないように思いますが、これは思いつきに過ぎませんので今後の検討課題です。(つづく)

〖写真説明〗津軽の十三湖。遠くに岩木山が見える。大和朝廷による蝦夷国侵攻図。


第3547話 2025/11/06

多元史観で見える蝦夷国の真実 (3)

   ―三種の蝦夷の不思議―

 七世紀の蝦夷国研究を著しく難しくしている理由の一つに、史料の少なさがあります。古代日本列島に実在していたことは疑うべくもないのですが、そのほとんどが『日本書紀』であるため、大和朝廷にとって都合の良い記述になっていると思われ、その実態を正確に知ることが難しいのです。その点、九州王朝(倭国)の場合は存在そのものが『日本書紀』には記されていませんが(隠されている)、幸いなことに隣国の歴代中国史書に倭人伝や倭国伝として九州王朝のことが記述されており、古田武彦先生の九州王朝説提唱以来、九州王朝研究は大きく進んできました。

 他方、大和朝廷は蝦夷国の存在を隠すことなく自らの史書に記しているのですが、これは701年の九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代後、日本国と蝦夷国は二百年以上も激しく戦ってきたため、隠そうにも隠せなかったからでしょう。ですから、七世紀(九州王朝時代)の蝦夷国研究はどうしても『日本書紀』に頼らざるを得ません。その『日本書紀』には注目すべき蝦夷国記事が見えます。斉明五年(659)七月条の「伊吉連博德書」の次の記事です。

 「天子問いて曰く、蝦夷は幾種ぞ。使人謹しみて答ふ、類(たぐい)三種有り。遠くは都加留(つかる)と名づけ、次は麁蝦夷(あらえみし)、近くは熟蝦夷(にきえみし)と名づく。今、此(これ)は熟蝦夷。毎歳本國の朝に入貢す。」

 倭国の使者が唐の天子の質問に、蝦夷国には都加留と麁蝦夷と熟蝦夷の三種類があると答えています。遠くの都加留とは今の津軽地方(青森県)のことと思われます。熟蝦夷は太平洋側の陸奥国領域、麁蝦夷は日本海側の出羽国領域ではないでしょうか。いずれも現在の東北地方の数県にまたがる広い領域です。ところが都加留は青森県の西半分であり、三種ある蝦夷の一つにしてはアンバランスではないでしょうか。しかも都加留には「蝦夷」という表記が付いていません。言わば、狭領域でありながら、三種の蝦夷の一つとして、広領域の麁蝦夷・熟蝦夷と並べて、倭国の使者(恐らく九州王朝の使者)が唐の天子に紹介しているわけです。

 前話で紹介したように、筑紫と津軽は弥生時代から交流があったことが知られています。蝦夷国の歴史を探究する上で、〝筑紫と津軽の交流〟というテーマは重要な視点ではないかと考えていますが、その真相にはまだ至っていません。(つづく)

〔余談〕私事ですが、この「洛中洛外日記」を病院のベッドで書いています。一週間ほどで退院できそうですので、HPに掲載されるのはその後になります。病棟の七階にある部屋ですので、比叡山や大文字山(如意ヶ嶽)、左大文字など東山・北山を展望ですます。夜は南の方にライトアップされた京都タワーが見えます。

〖写真説明〗五所川方面から見た岩木山。弘前城から見た岩木山。山頂の形が異なります。


第3546話 2025/11/03

多元史観で見える蝦夷国の真実 (2)

  ―古代の津軽と筑紫の交流―

 10月25日(土)に、『東日流外三郡誌の逆襲』(古賀達也編)の版元、八幡書店が同書出版記念イベントとして、東京麹町でトークショー「壁の外に歴史はあった!」を開催しましたので、わたしも参加しました。トークメンバーはわたしと武田崇元社長・黒川柚月氏の三名。参加者からの質疑応答も活発で、夕食を兼ねた懇親会でも質問が続き、とても楽しい一日となりました。

 イベント冒頭に、わたしから『東日流外三郡誌の逆襲』の概要と30年前の津軽調査の想い出を話させていただきました。トークショーでは古代(弥生時代)に遡る津軽と筑紫の交流の痕跡として、青森県の砂沢水田遺跡を紹介し、同水田遺跡は関東の水田遺跡よりも古く、その工法が福岡県の板付水田と類似していることを紹介しました。

 砂沢遺跡は青森県弘前市にある弥生前期(2400~2300年前)の本州最北端の水田跡遺跡で、北部九州を起源とする遠賀川系土器が出土しており、九州北部の稲作農耕が日本海沿岸を経由して津軽平野へ伝播してきたことが分かりました。
さらに、青森県南津軽郡田舎館村にある弥生時代中期(2100~2000年前)の垂柳遺跡からも656面の水田跡が検出され、津軽平野には稲作をはじめとする弥生文化が受容されていた可能性が濃くなりました。このように、津軽(蝦夷国)と筑紫(九州王朝)には弥生時代から交流があったことを疑えませんが、その事情や歴史背景は未詳です。(つづく)