太宰府「戸籍」木簡一覧

第2148話 2020/05/08

「大宝二年籍」断簡の史料批判(16)

 本シリーズも16回目になって、ようやくテーマの〝「大宝二年籍」断簡の史料批判〟に入ることができました。ですから、今までは〝前説〟であり、今回からが本番です。気持ちを引き締めて論じます。
 「大宝二年籍」とは国内では現存最古の戸籍で、大宝二年(702年)に造籍されたものです。その前年に成立した『大宝律令』「戸令」に基づき、九州王朝(倭国)から王朝交替したばかりの大和朝廷(日本国)により、全国的に造籍されたものです。残念ながらほとんどが失われ、残っているのは西海道戸籍(筑前国、豊前国、豊後国)と御野国(美濃国)戸籍の一部(断簡)だけですが、古代の戸籍や家族制度を知る上で貴重な史料(重要文化財)です。なお、今回の調査は『寧楽遺文』上巻(昭和37年版)によりました。
 先行研究によれば、「大宝二年籍」において西海道戸籍と御野国戸籍には大きな差異が認められ、西海道戸籍は様式や用語が高度に統一されています。通説では西海道戸籍は『大宝律令』に基づき大宰府により統一的に管理され、御野国戸籍は古い「浄御原律令」に基づいて造籍されたためと考えられています。西海道戸籍は九州王朝による造籍の伝統と優れた地方官僚組織を引き継いだため、高度で統一性を持った造籍が可能だったとわたしは推測しています。いずれにしましても、この西海道戸籍と御野国戸籍の差異は史料批判上留意すべき点です。
 ちなみに、2012年に太宰府市国分松本遺跡から出土した7世紀後半頃(「評」の時代)の「戸籍」木簡の記述様式は、どちらかというと御野国戸籍に似ており、この点について「洛中洛外日記」445話(2012/07/21)〝太宰府「戸籍」木簡の「政丁」〟で少し触れました。更に、『古田史学会報』112号(2012/10)の拙稿〝太宰府「戸籍」木簡の考察 ―付・飛鳥出土木簡の考察―〟でも詳述しましたのでご参照下さい。(つづく)


第1757話 2018/09/23

7世紀の編年基準と方法(5)

 太宰府出土「戸籍」木簡の編年について、7世紀初頭の多利思北孤の時代のものとする見解もあるようですので、この仮説が成立しないことを最後に説明します。
 まず「戸籍」木簡には「嶋評」とあり、7世紀後半に採用された行政区画「評」の時代であることが明確で、もし7世紀前半頃であれば評制以前の行政区画「県(あがた)」を用いて、「嶋県」とあるはずです。この一点からも同木簡を7世紀初頭や前半のものとするのは無理です。
 更に7世紀初頭の九州王朝の位階については『隋書』倭国伝(原文は「国」)に次のように記されています。

 「内官有十二等、一曰大徳、次小徳、次大仁、次小仁、次大義、次小義、次大禮、次小禮、次大智、次小智、次大信、次小信、員無定數。」『隋書』国伝

 『日本書紀』にも次のような「冠位十二階」が記されています。

 「始めて冠位を行う。大徳・小徳・大仁・小仁・大禮・小禮・大信・小信・大義・小義・大智・小智、併せて十二階、並びに當(あた)れる色の絁(きぬ)を以て縫えり。」『日本書紀』推古11年(603)12月条

 このように、7世紀初頭の日本列島における冠位は儒教の徳目とされている漢字(徳・仁・義・禮・智・信)が採用されていることがわかります。いずれも7世紀末頃に採用された位階とは明確に異なっています。従って、「嶋評」という行政区画や「進大弐」という位階が記されている「戸籍」木簡を7世紀初頭や前半頃のものとする仮説は史料事実に反しており、学問的に成立しないことをご理解いただけると思います。(つづく)


第1756話 2018/09/22

7世紀の編年基準と方法(4)

 太宰府出土の「戸籍」木簡の成立年を685〜700年まで絞り込むことができると説明しましたが、それは二つの先行研究の成果によっています。一つは木簡に記された「嶋評」という「評制」が7世紀中頃に始まり700年まで続いたとする通説が多くの先行研究の結果により成立していること、二つ目は「進大弐」という位階が『日本書紀』天武14年条(685年)に制定(48等の位階)されたとする記事があり、この記事が信頼できるとする先行研究です。
 「評制」が7世紀中頃に開始されたとする根拠については拙論「『評』を論ず -評制施行時期について-」(『多元』145号、2018年4月)で詳述していますので、ご参照ください。また、「評制」が700年に終わり、翌701年から「郡制」に替わったことは、藤原宮などからの出土木簡により確認されています。
 『日本書紀』天武14年条(685年)の位階制定記事が信頼できるとする理由についても諸研究がありますが、次の出土木簡を紹介し、説明します。市大樹著『飛鳥の木簡 古代史の新たな解明』によると、藤原宮から大量出土した8世紀初頭の木簡に、次のような記載があります(210頁)。
 「本位進大壱 今追従八位下 山部宿祢乎夜部 / 冠」
 山部乎夜部(やまべのおやべ)の昇進記事で、旧位階「進大壱」から大宝律令による新位階「従八位下」に昇進したことが記されています。この「進大壱」も天武14年に制定された位階制度です。この木簡から、大宝元年(701年)〜二年に制定された『大宝律令』による新位階制度へ変更されたことがわかります。従って、「進大弐」の位階が記された太宰府市出土「戸籍」木簡も7世紀末頃のものと判断できるのです。
 更に那須国造碑に記された「永昌元年己丑四月」(689年)の「追大壹」叙位記事も天武14年(685年)制定の位階であり、7世紀末にこれら位階が採用されていたことがわかります。このように、藤原宮出土木簡や那須国造碑などのような同時代史料により、『日本書紀』天武14年の位階制度制定記事が歴史事実と見なして問題ないとする通説が成立しています。
 こうした先行研究の成果により、太宰府出土「戸籍」木簡の編年を685〜700年とする判断が妥当とできるわけです。一元史観の「戦後実証史学」は、決して『日本書紀』の記述を無批判に受け入れて「成立」しているケースだけではないのです。
 なお、付言しますと、一元史観では以上の編年や考察で一段落するのですが、多元史観・古田説ではここから更にこの位階制度の制定主体が『日本書紀』にあるように近畿天皇家の天武でよいのか、九州王朝の天子によるものなのかという研究課題が待ち構えています。(つづく)


第1755話 2018/09/21

7世紀の編年基準と方法(3)

 太宰府から出土した「戸籍」木簡は「記録木簡」とも言えるほどの情報が記載されており、作成年次の編年もかなり絞り込むことができました。その際のキーワードは木簡に記された「嶋評」と「進大弐」という文字でした。同木簡には次の文字が記されています。

《表側》
嶋評 戸主 建ア身麻呂戸 又附加□□□[?]
政丁 次得□□ 兵士 次伊支麻呂 政丁□□
嶋ー□□ 占ア恵□[?] 川ア里 占ア赤足□□□□[?]
少子之母 占ア真□女 老女之子 得[?]
穴□ア加奈代 戸 附有

《裏側》
并十一人 同里人進大弐 建ア成 戸有一 戸主 建[?]
同里人 建ア昨 戸有 戸主妹 夜乎女 同戸有[?]
麻呂 □戸 又依去 同ア得麻女 丁女 同里□[?]
白髪ア伊止布 □戸 二戸別 戸主 建ア小麻呂[?]
(注記:ア=部、□=判読不能文字、[?]=破損で欠如)

 表面冒頭に見える「嶋評」とは糸島半島にあった地名で、行政区画が「評」表記ですので、701年に全国一斉に「郡」表記となる以前の木簡であることがわかります。従ってこの「戸籍」木簡は九州王朝時代の7世紀後半のものとまずは編年できました。次いで注目すべきが裏面に記された「進大弐」という位階名です。『日本書紀』によればこの「進大弐」は天武14年条(685年)に制定記事(48等の位階)があることから、この木簡の成立時期を685〜700年まで絞り込むことができます。(つづく)


第1754話 2018/09/20

7世紀の編年基準と方法(2)

 前期難波宮の編年については多くの根拠による複数のクロスチェックが可能であり、比較的安定した編年ができました。編年研究としては恵まれたケースでした。
 次に紹介する木簡の事例は、当該木簡の記述内容とその他の史料や編年研究の成果を利用して、より精緻な編年が可能となったケースです。歴史学では安定して成立している先行研究との対応検討は重要です。学会誌などでの投稿論文も先行研究に対する理解や対応が不十分なものは通常不採用となります。それまでに積み上げられてきた先行研究に対して、それを否定・批判する論稿であればなおさら厳しくこの点を査読されます。残念ながら古田学派内の論稿には、この先行研究の成果に対する不勉強や誤解に基づくものが少なくありません。わたし自身も、こうした不勉強や理解不足により、若い頃に誤った論稿を発表した苦い経験がありますので、今も自戒を込めてこのことを指摘しておきたいと思います。
 2012年6月13日に新聞報道された、太宰府市出土の「戸籍」木簡を今回は取り上げます。同木簡は最古の「戸籍」木簡と報道されましたが、その編年手法は、木簡に記された内容を先行研究の成果により詳細に検討するというものでした。なお、同木簡は他の木簡とともに水路(川の跡)から出土したため、出土層位毎の伴出土器などによる編年は困難でした。
 現地説明会資料などによれば、出土した木簡は13点で、その中の1枚が注目されている「嶋評」と記された「戸籍」木簡です。出土場所は大宰府政庁の北西1.2kmの地点で、国分寺跡と国分尼寺跡の間を流れていた川の堆積層で、その堆積層の上の部分から出土した別の木簡には「天平十一年十一月」(739年)の紀年が記されており、評制の時期(650年頃〜700年)から少なくとも天平十一年までの木簡が出土したことになりそうです。なお、この「天平十一年」木簡のみが広葉樹で、他の12枚は針葉樹だそうです。
 このように7世紀後半「評制」時代の木簡(後述します)と「天平十一年十一月」(739年)に書かれたと考えられる木簡が同じ所から出土しています。使い捨ての荷札木簡とは異なり、長期保管が必要な戸籍に関する木簡が出土していることから、戸籍管理に関わる役所の倉庫などから天災などにより文字通り川に流出したのではないでしょうか。(つづく)


第753話 2014/07/27

森郁夫著

『一瓦一説』を読む(3)

 森郁夫さんの『一瓦一説』は一元史観による理解や解説に立ってはいますが、「瓦」という考古学事実についてはとても勉強になります。たとえば「わが国最古の瓦」(200ページ)では、昭和53年(1978)に福岡県の神ノ前窯(太宰府市吉松字神ノ前)から、日本最古の瓦が出土したことが次のように 紹介されています。

 「その瓦が出土した窯は須恵器生産の窯であり、軒丸瓦や丸瓦、平瓦が出土したというのである。軒丸瓦の瓦当面には文様が施されていない。無文なのである。(中略)
 瓦とともに出土した須恵器の年代から六世紀末葉を若干さかのぼる、飛鳥寺に先行する時期であるとのことであった。」
 「神ノ前で生産された瓦の供給先は当初はっきりしなかったのだが、県内の発掘調査が進んだ結果、那珂遺跡(福岡市博多区那珂)から同様の瓦が出土したことによってそこで使用されたことが分かった。」

 このように、わが国最古の瓦は九州王朝の中枢である太宰府で生産され、同じく中枢の博多湾岸で使用されていたのです。この考古学的事実も九州王朝説にとって有利な事実です。瓦の受容と生産が九州王朝で6世紀末頃に開始されたということになりますが、北部九州の須恵器編年が通説よりも50~100年ほど遡る可能性がありますので、実際はもう少し早い時期に九州王朝は瓦の生産を開始したのではないでしょうか。更に、瓦は主に寺院建築に使用されていますから、仏教の伝来も仏寺の建築も北部九州が先行したことを、この最古の瓦は示唆しているように思われます。


第752話 2014/07/26

森郁夫著 『一瓦一説』を読む(2)

 太宰府の観世音寺創建年について、『二中歴』「年代歴」記載の九州年号「白鳳」の細注(観世音寺東院造)や、『勝山記』(鎮西観音寺造)『日本帝皇年代記』(鎮西建立観音寺)に白鳳十年(六七〇)の創建とする記事が発見され、観世音寺創建が白鳳十年(六七〇)であることが史料的に明らかになってい ました。
 森郁夫著『一瓦一説』では、観世音寺創建瓦の同笵品瓦の発見により、観世音寺の創建が川原寺や崇福寺と同時期(7世紀後半頃)と見なしうることが示唆されています(瓦当文様の比較から、大和の本薬師寺創建と同時期とされています。この点、別に論じます)。したがって文献と考古学の一致(シュリーマンの法則)からしても、ほぼ確実に観世音寺創建年を白鳳10年(670)と見なして良いと思います。
 ところが、この観世音寺創建年を認めてしまうと、近畿天皇家一元史観にとって耐え難い大問題が発生します。それは太宰府の地元の考古学者、井上信正さんの調査研究により、観世音寺よりも太宰府条坊都市の成立の方が早いことが明らかとなっていることから、日本初の条坊都市とされている藤原京(694年遷都)よりも太宰府の条坊成立の方が先となってしまうからなのです。このことは九州王朝説の立場からは当然ですが、「九州王朝や古田説はなかった」とする一 元史観論者や学界にとっては大問題なのです。すなわち、大和朝廷の都(藤原京)よりも、「地方都市」太宰府の方が先に条坊が造営されたこととなり、我が国 初の条坊都市が太宰府になってしまうからです。
 このことを「洛中洛外日記」などで何度もわたしは指摘してきましたが、一元史観論者や学界は無視を決め込んでいます。この「洛中洛外日記」を見ておられる一元史観論者の皆さんに敢えて申し上げます。どの一元史観論者よりも早く、最初に「古田説・九州王朝は正しい」と言った学者は研究史や後世に名を残せますよ。よくよくお考えください。(つづく)


第450話 2012/08/04

大谷大学博物館「日本古代の金石文」展

今朝は大谷大学博物館(京都市北区)で開催されている「日本古代の金石文」展を見てきました。入場無料の展示会ですが、 国宝の「小野毛人墓誌」をはじめ、古代金石文の拓本が多数展示され、圧巻でした。古田先生も大下さん(古田史学の会・総務)と共に先日見学されたそうで す。
今回、多くの古代金石文の拓本を見て、同時代文字史料としての木簡との対応や、『日本書紀』との関係について、改めて調査研究の必要性を感じました。
例えば、太宰府出土「戸籍」木簡に記されていた位階「進大弐」や、那須国造碑に記された「追大壱」(永昌元年己丑、689年)、釆女氏榮域碑の「直大 弐」(己丑年、689年)などは『日本書紀』天武14年条(685年)に制定記事がある位階です。
それよりも前の位階で『日本書紀』によれば649~685年まで存在したとされる「大乙下」「小乙下」などが「飛鳥京跡外郭域」から出土した木簡に記さ れています。今回見た小野毛人墓誌にも『日本書紀』によれば、664~685年の期間の位階「大錦上」が記されていました。同墓誌に記された紀年「丁丑 年」(677年)と位階時期が一致しており、『日本書紀』に記された位階の変遷と金石文や木簡の内容とが一致していることがわかります。
『日本書紀』の記事がどの程度信用できるかを、こうした同時代金石文や木簡により検証できる場合がありますので、これからも丁寧に比較検討していきたいと思います。


第445話 2012/07/21

太宰府「戸籍」木簡の「政丁」

太宰府市出土「戸籍」木簡の文字で、ずっと気にかかっていたものがありました。「政丁」という記載です。通常、木簡や大 宝二年西海道戸籍などでは、「正丁」という表記なのですが、大宰府出土の「戸籍」木簡には「政丁」とあり、意味は共に徴税の対象となる成人男子 (20~60歳)のことと思われるのですが、なぜ表記面積が紙よりも狭い木簡に、より画数の多い「政丁」が使用されるのかがわかりませんでした。
ところが木簡の勉強を進めているうちに、同じ福岡県の福岡市西区元岡遺跡から出土していた木簡にも、「政丁」と記載されているものがあることを知ったの です。同遺跡からは、「壬辰年韓鉄」と書かれた木簡も出土しており、この「壬辰年」は692年のこととされていますので、これら元岡遺跡出土の木簡は7世 紀末頃のもののようです。
この元岡遺跡出土の木簡によれば、7世紀末の筑紫では「政丁」という文字使いがなされていたと考えられ、大宰府「戸籍」木簡の「政丁」と一致しますから、九州王朝では「政丁」という表記が正字として採用されていたと考えていいようです。
ONライン(701年)を越えた8世紀以降は、大宝二年西海道戸籍にある「正丁」に変更されていますから、ここでも九州王朝から近畿天皇家への王朝交代の影響が見られるのです。
なお、大宝二年御野国戸籍(美濃国。岐阜県)では、徴税対象となる「戸」を「政戸」と表記していますから、太宰府市や元岡遺跡から出土した木簡の「政 丁」という表記との関係がうかがえます。通説では、大宝二年の御野国戸籍の様式は古い浄御原令によっており、西海道戸籍は新しい大宝律令によっていると見 られていますので、「政丁」「政戸」という表記は701年以前の古い様式であったとしてよいようです。
このように木簡研究により、7世紀末の九州王朝や近畿天皇家の様子がリアルに復元できそうで、木簡研究の重要性を再認識しています。


第443話 2012/07/16

木簡に記された七世紀の位階

今日は祇園祭の宵山です。一年中で京都が最もにぎやかな夜。そして、明日はクライマックスの山鉾巡行です。今朝から御池 通には観覧客用の大量のイスが、車道二車線にびっしりと並べられています。これだけのイスをどこに保管していたのだろうと、疑問に思うほどの数のイスが河 原町通から新町通までの間に並べられるのですが、これも京都の風物詩一つです。
その一方で、北部九州を襲っている記録的豪雨。わたしの久留米市の実家や、うきは市の親戚の安否が心配で、毎日のように電話しています。ところが、京都 市も北区で川が氾濫し、驚いています。拙宅は御所の近くですので、地形的にやや高台になっており、雨水が溢れる心配はないようです。さすがは「千年の都」 だけに、御所のある場所は歩いていても気づかないのですが、微妙に「高台」になっているのです。
 さて、「戸籍」木簡に記されていた「進大弐」という位階の研究を続けていますが、『日本書紀』には、「進大弐」などが制定された天武14年条(685) 以外にも、大化期や天智紀にも位階制定・改訂記事がみえます。それらの位階制定が九州王朝によるものか、近畿天皇家によるものかは実証的な研究が必要です が、その実在の当否は同時代金石文や木簡などによる検証が可能なケースがあります。
 たとえば、『日本書紀』によれば649~685年まで存在したとされる位階「大乙下」「小乙下」などは、「飛鳥京跡外郭域」から出土した木簡に記されて おり、一緒に出土した「辛巳年」(681年)と記された木簡から、時代的にも『日本書紀』の記述と一致しており、これらの位階記事が歴史事実であったと考えられるのです。
 したがって残された問題は、これら位階制度が九州王朝によるものか、近畿天皇家によるのかという点なのですが、これも歴史学という学問の問題ですから、 史料根拠に基づいた実証的な研究と、論理的な検証が不可欠であることは言うまでもありません。もっと出土木簡の勉強を続けたいと思います。


第440話 2012/07/13

市 大樹著
『飛鳥の木簡 古代史の新たな解明』の紹介

 最近、木簡研究のために関連書籍や論文を読んでいますが、先月、中公新書から刊行された市 大樹著『飛鳥の木簡 古代史の新たな解明』(860円+税)は、なかなかの好著でした。著者は奈良文化財研究所の研究員で、木簡の専門家です。東野治之さんのお弟子さんのようで、新進気鋭の日本古代史研究者といえそうです。
 もちろん、旧来の近畿天皇家一元史観による著作ですので、そのために多くの限界も見えますが、それらを割り引いても一読に値する本です。特に、飛鳥出土木簡の最新学説や研究状況を知る上で、多元史観研究者も読んでおくべき内容が随所に含まれています。
 ご存じのように、古代木簡は7世紀後半の「天武期」以降に出土量が急激に増えます。従って、九州王朝と大和朝廷の王朝交代期における九州王朝研究にとっ ても、木簡研究は不可欠のテーマなのです。わたしも、太宰府市出土「戸籍」木簡と同様に、飛鳥出土木簡の勉強を深めなければならないと、同書を読んで痛感 しました。
 なお、九州年号木簡である「元壬子年」木簡について、同書では「このうち、三条九ノ坪遺跡(兵庫県芦屋市)出土の壬子年の木簡は、弥生時代から平安時代 初頭までの遺物を含む流路から出土したもので、六五二年と断定するには一抹の不安が残る。」(26ページ)と、さらりと触れるだけで、読者には「壬子年」 の文字の上に記された「元」(従来は「三」と判読されてきた)の字の存在と意味が知られないよう、周到な「配慮」の跡が残されています。明らかに著者は、 わたしの九州年号の白雉「元壬子年」(652年)説を意識し、その上で九州王朝説・九州年号説はなかったことにしたのです。他の重要木簡については詳細な検討と解説を行っている著者でしたが、この一文を読み、「やはり逃げたな」と、わたしは思いました。近畿天皇家一元史観の限界を露呈する、日本古代史学界 の深い「闇」を、そこに見たのでした。


第439話 2012/07/12

大化二年改新詔の造籍記事

 「戸籍」木簡の出土に触発されて、古代戸籍の勉強をしています。特に『日本書紀』に記された造籍記事を再検討しているのですが、大化二年(646)改新詔にある造籍記事に注目しました。
 大化二年改新詔の中の条坊関連記事や建郡記事が、696年の九州年号「大化二年」の記事を50年ずらしたもので、本来は藤原京を舞台にした詔勅であったとする説(注1)を、わたしは発表しましたが、同じ改新詔中の造籍記事もこれと同様に九州年号大化二年の記事を50年ずらしたのではないかという疑いが生じてきました。すなわち、「庚寅年籍」(690年)の六年後(696年)の造籍記事ではなかったかと考えています。7世紀末頃の戸籍は通常6年ごとに造籍されたと考えられていますから、これは「庚寅年籍」の次の「丙申年籍」造籍記事に相当します。
 しかも『日本書紀』ではこの大化二年の造籍が「初めて戸籍・計帳・班田収授之法をつくれ」と記されていることから、近畿天皇家にとって、この「丙申年籍」が最初の造籍事業だった可能性もありそうです。従って、わが国最初の全国的戸籍とされている「庚午年籍」(670年)は九州王朝による造籍であったこととなります。
 この大化二年(646年)改新詔の造籍が696年のこととすると、その6年後の白雉三年条(652年、九州年号の白雉元年に相当)に記された造籍記事もまた、50年ずれた大宝二年(702年)の造籍と考えることができます。今も正倉院に現存している「大宝二年戸籍(断簡)」がその時に造られたものです。 しかも『日本書紀』白雉三年条に記された造籍記事には大宝律令の条文と同じ文章(「戸主には、皆家長を以てす。」など)が記されており、「大宝二年戸籍」 の記事が50年ずらして掲載されている可能性がうかがえます。
 ちなみに大宝二年は九州年号の大化八年に相当することから、九州年号の「大化八年」と「大化二年」の造籍記事が、『日本書紀』の大化二年と白雉三年にそれぞれ50年ずらして掲載されたことになるのです。この「大化八年籍」(702年、大宝二年)という視点は、正木裕さん(古田史学の会・会員)からのご教示によるものです。この「九州年号・大化期造籍」について、正木さんも精力的に研究を進められており、関西例会などで発表されることと思います。
 これら造籍記事には、九州王朝から大和朝廷への王朝交代期(7世紀末~8世紀初頭)の複雑な問題を内包しており、古田学派によるさらなる研究の深化が期待されています。

(注1)「大化二年改新詔の考察」『古田史学会報』89号。『「九州年号」の研究』に転載。