風土記一覧

第1437話 2017/06/30

続・朝代神社(舞鶴市)の白鳳元年創建

 今朝は名古屋に向かう新幹線車中で書いています。仕事で岐阜県養老町へ行きます。

 昨晩、帰宅してから朝代神社について調査しました。ネット検索で「朝代神社(あさしろじんじゃ)舞鶴市朝代」というサイトを見つけました。そこには朝代神社に関する史料紹介があり、参考になりました。
 先に紹介した『加佐郡誌』には創建年が「天武天皇白鳳元年」と、近畿天皇家の天皇名と九州年号が併記された史料状況を示していましたが、「白鳳元年」とのみ記された二つの史料の存在が示されていました。次の史料です。全文は本稿末尾に転載しましたので、ご参照ください。
 一つは『丹哥府志』で、「田辺府志」からの引用として次のように創建年次が記されています。
 「田辺府志曰。朝代大明神は日之若宮なり、白鳳元年九月三日淡路の国より移し祭る」
 もう一つは『京都府地誌』で、同様に「田辺府志」からの引用として「田辺府志曰朝代大明神ハ日ノ若宮ナリ白鳳元年九月三日淡路国ヨリ移?祭ル」と『丹哥府志』とほぼ同文です。
 そこで「田辺府志」をネット検索したところ、国会図書館デジタルコレクションに同名の書籍があるので、閲覧しました。国会図書館デジタルコレクション『丹後田邉府志』巻之三([5]コマ番号3)に「朝代大明神御事」の項がありましたが、そこには創建年次記事が見あたらないのです。朝代神社の創建年次に関すると思われる次の記事が見えるだけです。
 「垂迹の時代古記にあれども神道も秘伝の大事あれば今つぶさに爰にしるさず」
 「古記」に見えるがあえて記さずということのようです。九州年号「白鳳」の記載を避けたのでしょうか。同書の著者は華梁霊重[他]。宝永六年の「序」と「跋」が見えることから、江戸時代の1709年頃の出版と思われます。どうやら「白鳳元年」創建記事を持つ「田辺府志」と国会図書館本とは別物のようです。引き続き調査したいと思います。
 しかしながら、「白鳳元年」と九州年号だけで記された伝承があることから、こちらが原型ではないでしょうか。九州年号の「白鳳」の実体(実年代)が不明となった後世において、その時代を特定するために「天武天皇」が付記されたものと推定しています。この傾向は多くの寺社縁起に見られるものです。
 わたしの推論が正しければ朝代神社の創建年は白鳳元年(661年)となります。『海東諸国紀』を史料根拠とするわたしの仮説によれば「九州王朝の近江遷都」と同年になるのですが、なぜ淡路の日之少宮がこの時この地に勧請されたのかが、次のテーマとなりそうです。朝代神社の境内に「工匠神社」という摂社があることも気にかかります。時間が許せば現地調査を行いたいものです。

【ネットからの転載史料】
http://www.geocities.jp/k_saito_site/doc/tango/asasirojj.html
朝代神社(あさしろじんじゃ)舞鶴市朝代

《田辺府志》
朝代大明神之事
 朝代大明神は日之少宮(わかみや)なり、日本紀に伊奘諾尊と称し奉る、地神の第五代なり、日本紀曰伊奘諾尊神功既畢霊運当遷是以構幽宮於淡路之洲寂然長隠者矣と是なり、其後また一度天に登り報命給て日之少宮に留宅とあり、往古此田辺の境に垂迹し給ふ、朝代とは日之少宮の別称なり、此社南に向へり、是を陰を背にし陽を前にし給ふ也、伊勢国にも伊奘諾宮あり、是も南に向へり。立る所の流義唯一神道といふなり、其こゝろは伊奘諾冊天より降り給ふたゞ天の一源水にして餘神の分迹化神と同じからず、なほたふとみあがむべきなり、垂迹の時代古記にあれども神道も秘伝の大事あれば今つぶさに爰にしるさず。神道伝受は吉田にあり、天神第一代国常立尊其弟天御中主尊五世の孫、天児屋根尊天照皇太神の勅をうけられ神籬正印を授り給ふを神道の組といふなり、天児屋尊十二世雷大臣命仲哀天皇の時卜部姓を給ひ、十八世にして常盤の大連中臣とあらたむ、二十一世孫大織冠中臣をあらため藤原とせり、従弟右大臣清丸に博へり、是を大中臣といふ、…

《丹後国加佐郡寺社町在旧起》
朝代大明神
田辺武家町屋の産宮なり
   神主 久津見日向
   神子 坂根宮内卿
天武天皇御宇(672-686壬申の乱起る)淡路国日若宮を勧請し奉る 本社二間四方小宮八社拝殿三間四方長床五間二間 華表の額(鳥居の額)は時明院御筆なり 宮地三百拾五坪 領主代々寄附し給う 九月九日祭りなり

《丹後国加佐郡旧語集》
夫当社ハ人王十四代天武天皇御宇(御在位十四年)白鳳元年九月三日御鎮座本社淡路国日ノ若宮(伊奘諾尊ヲ祭奉ルナリ御譲位之後日之若宮ト称奉也江州多賀大明神ト同社ナリ)御祭礼九月九日(初メハ三日の由)神事之日大内町二橋西之橋詰ニ御輿ヲ鎮メ神楽祝ヲ奏シ諸芸ヲ勤仮ノ行宮トス 享保八癸卯年神職玖津見駿河守直高依願橋詰ノ家ヲ調御旅所ヲ設ケ九月朔日ヨリ燈明ヲ立ル 京極家ハ外曲輪ヲ渡リシ御家御在城以後二ノ丸ヲ渡リ於大番所祭礼御見物御輿暫輝桟鋪前ニ鎮居神職祭式ノ事有御祭礼年々賑々敷相成
小宮八社(享和元年辛酉年二月竜蛇社勧請以来九社)
松尾大明神(大酒解ノ命 子酒解ノ命 二座合テ一社)
大国天社(大己貴尊ヲ祭奉ル)
祇園牛頭天王社(素盞尊ヲ祭奉ル)
粟嶋大明神(少彦名命ヲ祭奉ル)
稲荷大明神(保食神ヲ祭奉ル)
多賀大明神(伊奘諾尊ヲ祭奉ル・朝代大明神御一体  二座相殿)
恵比須神社(事代主命命ヲ祭奉ル)
職人祖神(手置帆負ノ命彦狭知命ヲ祭奉ル二神一座に祭ル)
竜蛇社(享和元年辛酉年二月従雲州大社勧請本社之左西北之隅山ヲ平均南向之社是ナリ。

《丹哥府志》
【朝代大明神】
田辺府志曰。朝代大明神は日之若宮なり、白鳳元年九月三日淡路の国より移し祭る、祭九月三日仝九月九日を用ゆ、祭日神輿を舁き出す、神輿の前後宮津祭と略相似たり、大橋の橋詰に御旅處といふ處あり、神輿を鎮座する處なり、元禄十丑年命をうけて初て城内に入る、蓋田辺の産砂なり。

(京都府地誌)
朝代神社 郷社々地東西十八間南北二十七間面積四百九十九坪半町ノ南方朝代町ニアリ伊奘諾尊ヲ祭ル祭日四月三日十一月三日田辺府志曰朝代大明神ハ日ノ若宮ナリ白鳳元年九月三日淡路国ヨリ移?祭ル祭日九月三日今九月九日ヲ用リ祭日神輿ヲ?出ス神輿ノ前後宮津祭ノト略ホ似タリ大橋ノ橋?と御旅所ト五処アリ神輿ノ鎮座スル処ナリ元禄十丁丑年命ヲ受ケテ初テ城内ニ入ル蓋田辺ノ産沙ナリ

《社前の案内》
社記
 御鎮座 舞鶴市朝代十三
 神社名 朝代神社
御祭神 朝代大神(伊奘諾尊)
御神徳 御祭神は日本民族の祖先神であり初めての夫婦神として結婚の道を開かれて人間生活に不可欠なあらゆる物をお産みになりました。また禊ぎ祓えにより罪穢を祓い清新と発展の方向を示された貴い神様であります。
御由緒 当神社の御創建は約千三百年前の天武天皇白鳳元年九月、淡路国日ノ少宮をお遷したのに始まります。近世に入り、城下町田辺(舞鶴)の氏神様として歴代藩主の崇敬篤く、神輿・鳥居などの奉納が続き、士民を挙げての秋の祭礼は大いに賑わいました。また、昭和三年には府社に昇格、「朝の参りは朝代さんよ」や「日毎夜毎の朝代参り」などと民謡にも唄われ、広く崇敬されております。
江戸期の大火に類焼し、元文四年に再建の御本殿(付・再建文書)が平成五年に舞鶴市の文化財に指定されております。
境内社 塩釜神社  祇園神社
    稲荷神社  工匠神社
    天満宮   恵比須神社 など
例祭日 お日待祭  二月二十二日
    春期例大祭 五月三日
    水無月大祓 六月三十日
    秋季例大祭 十一月三日 也


第1337話 2017/02/14

金印と志賀海神社の占い

 志賀島の金印「漢委奴国王」が本来は糸島の細石神社にあったものだったとする伝承の存在を古田先生が紹介されています。そのこととは直接関係はありませんが、志賀島の志賀海神社が金印を神寳にしようとしていたという記録の存在を知りました。
 本年1月、「九州古代史の会」主催の井上信正さんの講演を聴きに福岡市に行ったとき、早く会場についたので会場近くの図書館で時間待ちをしました。そのおり、福岡地方史研究会の『会報』第24号(昭和60年4月)に掲載されていた塩屋勝利さんの「『漢委奴国王』金印をめぐる諸問題(上)」が眼に留まりました。天明4年(1784)2月に志賀島村叶の崎から発見された金印の発見当時の史料紹介と考察ですが、今まで知らなかったことが記されており、興味深く拝読しました。
 中でも、志賀島の志賀海神社が、発見された金印を同社の神寳にしようと占ったが、良い結果が出なかったので断念し、黒田藩に提出したことが記されていました。志賀海神社宮司阿曇家本『筑前国続風土記附録』にみえる次の記事です。

「明神の境地より得たる故、神寳とせん事を占ひしに神鬮下らざる事再三也といふ。故に府呈に呈けしとなり」 *古賀注 「府呈」の「呈」は衍字か。

 わたしの持っている『筑前国続風土記附録』活字本にはこの記事が見つかりませんので、志賀海神社宮司阿曇家本にのみ付記された記事で、志賀海神社内の記録に基づいているのかもしれません。いずれにしても志賀海神社は金印が志賀島から出土したと認識していることがわかります。
 金印を発見したとされる志賀島村の百姓甚兵衛については記録がなく不審とされてきましたが、寛政二年(1790)の『那珂郡志賀嶋村田畠名寄帳』中冊に同名の「甚兵衛」が見えるとのこと。さらに『粕屋郡志』(粕屋郡役所編、1923年刊)には、「村の農坂本甚兵衛」と姓名が記されていることが紹介されています。
 そして、甚兵衛のその後の消息が不明になった理由として、地元の「甚兵衛火事」伝承と関係があるのではないかとされています。伝承では「甚兵衛火事」は1811年(文化8年)とされているが、藩の記録では見あたらず、1809年(文化6)の火災のことで、甚兵衛は火元の責任を取って志賀島を去ったと思われるとされています。少なくとも地元に「甚兵衛」と呼ばれる人物がいた証拠にはなりそうで、興味深い伝承です。
 金印は志賀島で発見されたのではないとする意見の根拠の一つとして、志賀島村叶の崎付近には弥生時代の遺跡が見つからないということが指摘されています。しかし、金印が弥生時代に埋納されたという根拠もなく、歴代の倭王に相続された可能性も考えられ、そうであれば弥生時代の遺跡の存在の有無は関係ありません。中国からもらった金印が倭王一代のみで埋納されるとするのも、やや違和感があります。金印について、引き続き調査検討したいと思います。

(追記)本稿執筆の夜、古田先生に本稿の内容を報告する夢を見ました。先生がうれしそうにメモを取られているところで眼が覚めました。


第1176話 2016/04/30

白鳳大地震と朱雀改元

 このたびの九州の大地震のこともあって、古代における大地震として有名な筑紫大地震(678年)と白鳳大地震(684年)について調べてみました。筑紫大地震は『日本書紀』天武7年12月条や『豊後国風土記』に記されており、この地震により九州王朝の中枢は壊滅状態になったと思われます。

 「筑紫国、大きに地動る。地裂くること広さ二丈、長さ三千余条。百姓の舎屋、村毎に多くたおれやぶれたり。」『日本書紀』天武7年12月条
 「大きに地震有りて、山崗裂け崩れり。此の山の一つの峡、崩れ落ちて、慍(いか)れる湯の泉、處々より出でき。」『豊後国風土記』日田郡五馬山条

 正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の説によれば、この地震により九州王朝は前期難波宮(副都)に遷都しました。ところがそれに追い打ちをかけたのが白鳳大地震でした。この四国や近畿・東海を直撃した地震は東南海トラフによるものと考えられています。この年、天武13年(684)10月は九州年号の白鳳24年ですが、この地震により九州年号は朱雀に改元されたと正木裕さんは指摘されています(「隠された改元」『「九州年号」の研究』所収)。
 7世紀後半に発生した二つの巨大地震により九州王朝は大きく疲弊し、滅亡に向かったとわたしは論じたことがあります(「朱鳥改元の史料批判」『「九州年号」の研究』所収)。筑紫大地震から6年後に白鳳大地震が発生したことから、もしかするとこの熊本・大分大地震の6年後に東南海大地震が発生するのではないかと思うと、ぞっとしました。テレビなどで地震学者は九州から更に東の中央構造線への地震には繋がらないと発言していましたが、学者の地震予知がこの38年間当たったことがないという事実を思い知らされていますから、御用地震学者の言うことは信用できません。
 わたしたちは歴史に学ぶために古代史を研究していますから、日本列島はどこでも大地震が発生するという覚悟で防災に取り組まなければと改めて考えさせられました。


第810話 2014/10/25

同時代「九州年号」史料の行方

 今日は正木裕さん(古田史学の会・全国世話人)が見えられ、拙宅近くの喫茶店で2時間以上にわたって意見交換を行いました。主なテーマは『古代に真実を求めて』18集で特集する「盗まれた『聖徳太子』伝承」についてでしたが、19 集のテーマ「九州年号」についても最新の発見や仮説について論議しました。お互いに取り組まなければならない研究課題が次から次に出てくるという状況で、 もっと多くの研究者が古田学派には必要と感じました。
 わたし自身もやりたいけれども忙しくて手が回らない調査などがあり、今回、読者のみなさんのご協力を得るためにも、行方不明になったり未調査の同時代 「九州年号」史料を紹介し、手伝っていただける方があれば是非お願いしたいと思います。それは次のような史料です。

(1)「白鳳壬申」骨蔵器。『筑前国続風土記附録』(巻之六 博多 下)の「官内町・海元寺」に次のように記されており、現在では行方不明になっています。是非、さがして下さい。
 「近年濡衣の塔の邊より石龕(かん)一箇掘出せり。白鳳壬申と云文字あり。龕中に骨あり。いかなる人を葬りしにや知れず。此石龕を當寺に蔵め置る由縁をつまびらかにせず。」

(2)「大化元年」獣像。『太宰管内志』(豊後之四・大野郡)の「大行事八幡社」に次の記事があります。今も現存している可能性があります。
 「大行事八幡社ノ社に木にて造れる獣三雙あり其一つの背面に年號を記せり大化元年と云までは見えたれど其下は消て見えず」

(3)「白雉二年」棟札・木材。『太宰管内志』(豊後之四・直入郡)の「建男霜凝日子神社」に次の記事があります。今も現存している可能性があります。
 「此社白雉二年創造の由、棟札に明らかなり。又白雉の舊材、今も尚残れり」「又其初の社を解く時、臍の合口に白雉二年ら造営する由、書付けてありしと云」

 この他にも、江戸時代の諸史料に紹介された「同時代九州年号史料」が見えますが、別の機会に紹介したいと思います。ぜひ、上記の三件について九州の方に調査していただければ幸いです。何らかの発見があれば、『古代に真実を求めて』19集の「九州年号」特集で紹介したいと思いま す。


第774話 2014/08/27

貝原益軒と九州年号

 今朝はJR北陸本線を大聖寺から福井へと向かっています。昨日、北陸地方を襲ったとテレビで報道されていた大雨も、わたしが行った先ではそれほどではありませんでした。

 今朝、ホテルでいただいた読売新聞朝刊1面のコラム「編集手帳」に、今日が江戸時代の学者貝原益軒(1630-1714)の命日と紹介されていました。貝原益軒は筑前黒田藩の学者で『養生訓』『筑前国続風土記』など多くの著書を残しました。益軒はわたしにとってとてもなじみ深い学者です。というのも、九州年号研究で貝原益軒の名前は何度も見てきたからです。
 従来から九州年号は「私年号」や「逸年号」とされてきたり、あるいは僧侶による偽作(偽年号)扱いされてきました。こうした九州年号偽作説が誰により言われてきたのかという研究を、京都大学で開催された日本思想史学会で発表したことがあるのですが、益軒の『続和漢名数』の「日本偽年号」の項に、九州年号を僧侶による偽作と学問的根拠や論証を示さず断定しています。詳細は『「九州年号」の研究』(古田史学の会編、ミネルヴァ書房刊)をご覧下さい。益軒以降、現在に至るまで九州年号偽作説論者は益軒と同様に学問的論証を経ることなく、偽作説を踏襲しているようです。
 益軒の九州年号偽作論は現在の学界に影響を及ぼしているだけではなく、筑前黒田藩有数の学者である益軒の影響もあってか、九州王朝の中枢地域だった筑前の寺社縁起や地誌などから九州年号がかなり消された可能性があるのです。理屈から考えれば九州王朝の中枢領域にもっとも九州年号史料が残存していてもよさそうなのですか、管見によれば筑後や肥前・肥後と比べてちょっと少ないように思われるのです。
 九州年号研究者にとっては益軒先生も困ったことをしてくれたものだと思っています。とはいえ、今日は益軒先生の命日とのことですので、郷里の先学のご冥福をお祈りしたいと思います。


第601話 2013/09/29

文字史料による「評」論(3)

 現存する唯一の全国的評制施行時期が記された史料として『皇太神宮儀式帳』(延暦23年・804年成立)は著名ですが、以前から同史料に関して気になっていた問題がありました。
 同書には「難波朝廷天下立評給時」という記事があり、7世紀中頃に難波朝廷か天下に評制を施行したことが記されています。そのため『皇太神宮儀式帳』は 「評制」史料と思われがちなのですが、そうではなく同書は「郡制」史料なのです。幸い、インターネットで京都大学図書館所蔵本(平松文庫『皇太神宮儀式 帳』)を見ることができますので、全ページにわたり閲覧したところ、やはり同書が「郡制」史料であることを確認できました。
 たとえば「難波朝廷天下立評給時」の記事が記されている部分の表題は「一、初神郡度会多気飯野三箇本記行事」とあり、度会・多気・飯野の「神郡」と、 「郡」表記です。本文中にも「多気郡」「三箇郡」という「郡」表記が見えます。この項目以外でも「郡」表記です。成立が延暦23年(804)ですから、 『日本書紀』の歴史認識に基づいて、一貫して「郡」表記となっているのです。
 それにもかかわらず「一、初神郡度会多気飯野三箇本記行事」の項目には、『日本書紀』には見えない「難波朝廷天下立評給時」や「評督領」「助督」などの 「評制」記事が混在しています。こうした史料状況からすれば、これら「評制」記事は『日本書紀』以外の九州王朝系評制史料の影響を受けたと考えざるを得ま せん。「評」が全て「郡」に書き換えられている『日本書紀』をいくら読んでも、そこからは絶対に「難波朝廷天下立評」や評制の官職名である「評督」「助督」などの表記は不可能なのです。このことは言うまでもないほど単純な理屈ですが、このように考えるのが史料批判という文献史学の常道なのです。
 こうした史料批判の結果を前提にして、さらに「難波朝廷天下立評」記事が意味するところを深く深く考えてみましょう。「天下立評」という表現からわかる ように、原史料は九州王朝による全国的評制施行に関する「行政文書」と考えられます。ある地方の「評(郡)」設立に関する記事は『常陸国風土記』などにも 散見されますが、全国的な「評制施行」記事が見えるのは『皇太神宮儀式帳』だけです。したがって、九州王朝倭国はほぼ同時期に全国へ「評制施行」を通達したのではないでしょうか。
 次にその時期についてですが、「難波朝廷天下立評給時」とありますから、「難波朝廷」の時代です。『日本書紀』の認識に基づいての表記であれば、「難波 朝廷」すなわち難波長柄豊碕宮にいた孝徳天皇の頃となりますから、7世紀中頃です。九州王朝の「行政文書」が原史料と思われますから、そこには九州年号が記されていた可能性もあり、7世紀中頃であれば「常色(647~651)」か「白雉(652~660)」の頃です。いずれにしても『皇太神宮儀式帳』成立期の9世紀初頭であれば、その時代の編纂者が「難波朝廷」と記す以上、孝徳天皇の時代(7世紀中頃)と認識していたと考えられます。(つづく)


第502話 2012/12/08

『万葉集』の中の短里

 古田先生の『よみがえる卑弥呼』(ミネルヴァ書房より復刻)には『万葉集』の中の短里についても紹介されています。

 「筑前国怡土郡深江の村子負(こふ)の原に臨める丘の上に二つの石あり。(中略)深江の駅家(うまや)を去ること二十余里にして、路の頭(ほとり)に近く在り。」(『万葉集』巻第五、八一三、序詞。天平元=七二九年~天平二年の間)

 「二つ石」(鎮懐石八幡神社)と深江の駅家との距離を二十余里とする記事なのですが、実測値は1500~2000mの距離であり、短里(77m×20~25里=1540~1925m)でぴったりです。これが八世紀の長里(535m)であれば、短里の約7倍ですから全く当てはまりません。
 八世紀の天平年間に至っても北部九州(福岡県糸島半島)では短里表記が残存していた例として、この『万葉集』巻第五、八一三番歌の序詞は貴重です。
 『三国志』倭人伝の短里の時代(二世紀)から八世紀初頭まで同じ短里が日本列島内で使用されていたわけですから、まさに九州王朝は「短里の王朝」といえるでしょう。それが、八世紀に入ると長里に変更されていくわけですから、この史料事実こそ九州王朝から大和朝廷への列島内最高権力者の交代という、古田先生の多元史観・九州王朝説の正しさをも証明している一事例(里程論、里単位の変遷)なのです。
 他方、大和朝廷一元史観の旧説論者はこれら歴史的史料事実を学問的論理的に全く説明できていません。岩波の『日本書紀』『風土記』『万葉集』の当該箇所「解説注」を読んでみれば、このことは明白なのです。


第501話 2012/12/06

『風土記』の中の短里

 昨日は曇天と雨の中、富山県魚津市に行ってきました。今日は大阪に来ています。午前中はお得意さまと新規開発案件や輸出等の商談、午後は学会(繊維応用技術研究会)に出席しています。
 この繊維応用技術研究会は「繊維」の学会なのですが、天然繊維・合成繊維のほか、毛髪・ナノファイバー・木材繊維・染色・染料・酵素・化粧品・機能性色 素など幅広い分野に関する研究発表や講演があり、異業種交流の場としても人気の高い学会です。わたしはこの学会の理事として、運営のお手伝いをさせていた だいています。

 さて、日本列島内での短里使用の時期についての正木裕さんとの意見交換ですが、最終的には七世紀末まで九州王朝では公的に短里が使用され、大和朝廷の時代となった八世紀でも短里使用の影響が残存した地域があったとする見解で一致をみました。
 具体的には、八世紀に成立した『風土記』の中に短里と考えざるを得ない記事があることが根拠です。古田先生の名著『よみがえる卑弥呼』(ミネルヴァ書房より復刻)に詳述されていますが、一つだけ紹介しますと、『肥前國風土記』に次の記事が見えます。

 「肥前国風土記に云う。松浦の県。県の東、六里。ヒレフリの岑有り。」(岩波古典文学大系『風土記』による)

 松浦の県(あがた)の東「六里」のところにヒレフリの岑があるとされているのですが、底本には「三十里」とされているの を、岩波本の編者は「六里」に原文改訂しているのです。『風土記』成立時の八世紀では1里約535mですので、これではヒレフリの岑までの実測地とはあわ ないので、底本の「三十里」を「六里」に原文改訂したのです。
 この『風土記』は行政単位が「郡(こおり)」ではなく、九州王朝の行政単位「県(あがた)」であることから、古田先生は「県(あがた)風土記」と命名さ れ、原本は九州王朝で成立したものとされました。すなわち、九州王朝では短里で『筑紫風土記』を編纂したと考えられるのです。その九州王朝『筑紫風土記』 に基づいて、大和朝廷の時代となった八世紀においても「短里」表記が転用されたのです。
 こうした史料根拠に基づき、古田先生は日本列島における短里使用の史的痕跡が「二~三世紀頃より八世紀初に及んでいる。」(『よみがえる卑弥呼』194頁)とされたのでした。(つづく)

(補記)
 『日本書紀』天武十年八月条に見える「多禰嶋に遣(まだ)したる使人等、多禰國の図を貢れり。其の國の、京を去ること、五千余里。筑紫の南の海中に居り。」の記事の「五千余里」を短里表記とする見解について、第500話で 「どなたが最初に発表されたのかは失念しました」と記したところ、正木裕さんから、中村幸雄さん(故人・「古田史学の会」元全国世話人)が発表された説で あることを教えていただきました。出典は「大和朝廷の成立と薩摩及び薩南諸島の帰属」(『南九州史談』五号、1989年)で、当ホームページ中の「中村幸雄論集」に収録されています。是非ご覧ください。


第411話 2012/05/10

筑紫君の子孫

 仕事で香川県宇多津町に来ています。新幹線で広島県福山市まで行って、そこから車で来たのですが、瀬戸内海の夕焼けと瀬戸大橋、そして讃岐富士(飯野山)のシルエットが絶景でした。
 今日は九州王朝の天子、筑紫君の子孫についてご紹介します。この20年ほど、わたしは九州王朝の末裔について調査研究してきました。その一つとして筑紫 君についても調べてきましたが、福岡県八女市や広川町の稲員家(いなかず・高良玉垂命の子孫)が九州王朝末裔の一氏族であることが古田先生の調査で判明し たことは、今までも何度かご紹介してきたところです。
 それとは別に筑前に割拠した筑紫一族についても調べたのですが、今一つわからないままでした。ところが、江戸時代後期に編纂された『筑前国続風土記拾 遺』(巻之十八御笠郡四。筑紫神社)青柳種信著に、筑紫神社の神官で後に戦国武将筑紫広門を出した筑紫氏について次のように記されていました。

「いにしへ當社の祭を掌りしは筑紫国造の裔孫なり。是上代より両筑の主なり。依りて姓を筑紫君といへり。」

 そしてその筑紫君の祖先として、田道命(国造本紀)甕依姫(風土記)・磐井・葛子らの名前があげられています。この筑前の筑紫氏は跡継ぎが絶えたため、 太宰少貳家の庶子を養子に迎え、戦国武将として有名な筑紫広門へと続きました。ところが、関ヶ原の戦いで広門は西軍に与(くみ)したため、徳川家康から所領を没収され、その子孫は江戸で旗本として続いたと書かれています。
 現代でも関東地方に筑紫姓の人がおられますが、もしかすると筑前の筑紫氏のご子孫かもしれません。たとえば、既に亡くなられましたが、ニュースキャス ターの筑紫哲也さんもその縁者かもしれないと想像しています(大分県日田市のご出身らしい)。
 というのも、古田先生の著書『「君が代」は九州王朝の讃歌』を筑紫哲也さんに贈呈したことがあるのですが、そのおり直筆の丁寧なお礼状をいただいたことがあったからです。筑紫さんは古田先生の九州王朝説のことはご存じですから、ご自身の名前と九州王朝との関係に関心を持っておられたのではなかったでしょうか。生前にお尋ねしておけばよかったと今でも悔やんでいます。


第302話 2011/01/29

『常陸国風土記』の倭武天皇

 東かがわ市の白鳥神社(しろとり神社)訪問を期に、『常陸国風土記』に見える倭武天皇について考えてみました。この倭武天皇を通説ではヤマトタケルとしていますが、天皇ではないヤマトタケルを倭武天皇とするのもおかしなことですが、その文字表記も『日本書紀』の「日本武尊」とも『古事記』の「倭建」とも異なり、記紀よりも僅かですが後(養老6〜7年頃)に成立した『常陸国風土記』であるにもかかわらず、記紀の表記とは異なる倭武天皇としていることから、 『常陸国風土記』編者は記紀以外の伝承記録に基づいたと考えざるを得ません。
 そうであれば、『宋書』倭国伝に見える倭王武(倭武=国名に基づく姓+中国風一字名称)の伝承記録、すなわち九州王朝系記録に倭武天皇とあり、それに基づいて『常陸国風土記』で倭武天皇として記録されたのではないでしょうか。
 更に言えば、当時の九州王朝の国王は「天皇」を自称していた可能性もありそうです。この時代、九州王朝は中国南朝の冊封体制に入っていましたから、「天子」を自称していたはずはありませんが、「天皇」であれば中国南朝の天子の下位であり、問題ないと思われます。とすれば、『日本書紀』継体紀25年条に見える「日本の天皇及び太子・皇子」の百済本紀の記事も、このことに対応していることになります。
 倭武天皇の活躍と『宋書』倭国伝に記された倭王武の軍功の対応も、倭武天皇=九州王朝倭王武説を支持するように思われます。従って、各地に残るヤマトタケル伝承をこうした視点から再検証する必要を感じています。たとえば、「阿波国風土記逸文」に見える「倭建天皇命」記事や、徳島県には倭武神社もあるようで、興味が尽きません。
 なお、『常陸国風土記』の倭武天皇は倭王武ではないとする見解(西村秀己さん)もあり、慎重に検討したいと思います。


第301話 2011/01/23

讃岐の白鳥神社訪問

 先日、東かがわ市の白鳥神社(しろとり神社)を訪問しました。以前から気になっていた神社で、一度訪れたいと思っていました。もちろん御祭神は日本武尊で、白鳥伝説に基づいた縁起を有していました。しかし、人間が死後白鳥になって飛んできたはずはありませんから、何か別の理由でこの神社が創建されたはずです。このことを確かめたかったのです。
『常陸国風土記』に見える倭武天皇は九州王朝の倭王武の伝承ではないかと古田先生は指摘されていますが、この白鳥神社の日本武尊伝承も、もともとは倭王武の伝承ではなかったのかとも考えています。
 例えば、ここの白鳥神社には日本武尊の他に、その正妃の両道入姫命(ふたじのいりひめ)と妃の橘姫命が御祭神として祀られています。猪熊兼年宮司からおうかがいしたところ、両道入姫命が祀られている神社は全国でも珍しいそうです。また、橘姫命は通常「弟橘姫」とされていますが、ここでは「弟」が付かない 「橘姫」命とのことでした。
 『常陸国風土記』の倭武天皇記事でも、橘皇后あるいは大橘比売命と記されていますから、倭王武の妃は橘姫だった可能性があり、この白鳥神社の伝承でも橘姫命とされていることは、『常陸国風土記』と同様に、日本武尊ではなく九州王朝の倭王武の伝承に基づいているのではないかと推察していますが、いかがで しょうか。
 白鳥神社を訪問した日は大変寒かったのですが、猪熊宮司さんからは長時間にわたり親切に御説明いただき、感謝しています。氏は大学で日本思想史を研究されたとかで、村岡典嗣先生のお名前もよくご存じで、話しが弾みました。


第270話 2010/07/10

伊予の「紫宸殿」

 7月3日、四国松山市での古田史学の会・四国主催講演会で、「九州王朝の瀬戸内巡幸−太宰府・越智国・難波−」というテーマで講演してきました。ご同行いただいた正木裕さんは、大阪で行われた「禅譲・放伐」シンポジウムの報告をされました。
 今回の発表の論証と史料根拠のポイントは、厳島縁起や『豫章記』『伊豫三嶋縁起』、風土記逸文「温湯碑」に記された、九州王朝の天子多利思北孤の時代の九州年号「端政」「法興」の分布状況や伝承の存在です。そして、西条市・今治市などの旧越智国が太宰府と難波を結ぶ海上交通の要の地であるという点から、この地が九州王朝にとって重要な地域であったことを明確にできたことです。
 そしてそれらの「論理的帰結」として、西条市(旧東予市)に現存する「紫宸殿」という字地名の新理解(作業仮説)を提起しました。この地に「紫宸殿」地名があることを今井久さん(西条市・古田史学の会会員)が「発見」され、『古田史学会報』98号で紹介されたのですが、その時点では、「紫宸殿」地名の歴史的由来や伝承も無いので、どのように捉えるか判断できずにいました。
 しかし、松山市に向かう特急の中で正木さんとディスカッションするうちに、『日本書紀』天武12年条にある副都詔、都や宮室を二つ三つ造れと言う詔勅と関わりがあるのではないかと考えるに至ったのです。もちろん、現段階では作業仮説に留まりますが、九州王朝が出した副都詔とすれば、副都の前期難波宮を筆頭に他の地にも造られた宮室の一つが、旧東予市の「紫宸殿」とは考えられないか。そのように思っています。今後の考古学的調査が期待されます。
 ちなみにこの「紫宸殿」と、「白雉二年奉納面」を所蔵している福岡八幡神社は、そう離れてはいませんし、北方には永納山神籠石山城もあります。このように、九州王朝との強い繋がりを感じさせる地に「紫宸殿」は位置しているのです。講演会の翌日に、合田さんと今井さんのご案内で現地を視察しましたが、この感をますます強くしました。